27.第五章五話
「……」
「脱いで、こっち座って」
「……え」
自身が座っていたソファーを示すリーゼロッテの発言に、一同が目を見開く。凍てつく異様な空気がまるで可視できるかのようだった。
アルフレートは己の耳が幻聴でも捉えたかのように驚愕して固まっている。ジークムントは瞠目した後、笑顔に戻ったものの、ゴゴゴと地に響くような音がしそうなほどに真っ黒なオーラを背後に背負っていた。
クラウスは無表情に戻り、ちらりと主人に視線をやっていた。
室内の空気が一瞬にして変貌したことなど一切気にすることなく、元凶であるリーゼロッテは悠然と目を細めて従兄を見据えている。
「脱ぐ」
素晴らしい造形の顔立ちの表面上に表れた優しげな感情に似合わず、催促するその声は峻峭だ。
「いや、あの、リーゼ」
「早くしないと剥ぎ取るわよ」
「……」
珍しくアルフレートに対して乱雑な物言いをする聖女様に、アルフレートは無言になった。そしてつい、それもいいかもしれない……と変な方向に思考が働き、我に返るといやいやと内心首を左右に振って邪念を振り払う。
リーゼロッテは純粋にアルフレートの身を案じ、それゆえの怒りを抱いてくれているのだ。このような雑念で返すのは失礼だろう。
そして何より、無駄に輝かしい爽やかな笑顔でこちらを睨む叔父が、今にも爆発しそうな危うさを孕んでいて恐ろしい。触るな危険状態である。笑顔の裏にまったく隠れていない殺意に似た鋭利で攻撃的な感情が突き刺さる。蜂の巣になりそうだ。
沈黙したまま、アルフレートはマントの留め具を外した。マントをソファーの背もたれにかけ、服も脱いでいく。
その様を観察しながら、リーゼロッテはまた眉間に皺を寄せた。
アルフレートが纏っていた上質な服は、シャツもジャケットも背中の部分が獣の爪に引っ掻かれたように無惨に破けており、周辺に血が滲んでいた。普通に見れば怪我をしていることは判然としているけれど、マントを新しいものにでも替えて隠していたのだろう。これではマントを取らなければ視認できない。
「背中向けて」
「はい」
脱いだものと解いた包帯をすべてソファーの背もたれにかけて上半身裸になったアルフレートは、有無を言わさぬ圧を放つ従妹の指示に従順に従い、大人しく腰掛けた。ここで逆らうのは何も得がない。損しかない。
騎士団の訓練によく参加しているアルフレートは、汗をかいて訓練場で上の服だけ脱いだり着替えたりということもままある。怪我をしたら治療も受けるので、肌を晒すことすべてに羞恥心や抵抗があるわけではない。
けれど今回は、状況が状況である。
室内で注目を集めていて、しかも治療するのはリーゼロッテだ。平気なはずはないのだけれど、そんなことも言っていられなかった。逆らってはあとが怖すぎる。
リーゼロッテも同じソファーに座ると、アルフレートの背に触れる。華奢な指の感触にびくっと反応しなかった自分をアルフレートは褒め称えた。
「リーゼのお守りもあったから、それほど深くなかったんだけど……」
くすぐったいのと緊張と気恥ずかしさからなるべく意識を逸らそうと、アルフレートは言い訳がましい言葉を並べる。
確かに、黒い霧のような瘴気を纏う怪我は、怪我そのものはそれほど深いものではない。けれど、だからと言って軽傷と呼べないことは理解しているはずなのに。
リーゼロッテのお守りとは、持ち主の身を守るため、外部から何かしらの危害を加えられそうな時に守護する魔法をリーゼロッテが自ら付与した魔石のことだ。アルフレートだけでなく、ジークムントやハンナ等、身内に持たせている。
ただし、所持者の意思に関係なく、危険が及べば自動的に魔法が発動する仕組みになっている高度な術式が組み込まれているので、繰り返し使える代物ではない。しかもアルフレートに渡しているのはだいぶ前に作成した稚拙な物で、今回の魔物の攻撃を完全に無効化するほどの力がなかったようだ。
「放っておくからこうなるのよ。……痛いでしょう」
普段は凛としているリーゼロッテの悲痛な声音に、根負けしたアルフレートは困り気味に笑った。
「正直、体を動かすのは結構つらいかな」
「護衛は何をしてたの」
「私が咄嗟に動いてしまったんだ」
「それでも守るのが仕事よ」
傷には触れないように、リーゼロッテはそっと周りを撫でる。肌は熱を持っていた。
いくらアルフレートが勝手な行動をした結果の負傷であっても、それさえも防ぐのが護衛の役割だ。護衛達はアルフレートの行動を止めなければならなかったし、それができないのであれば守らなければならなかった。
「咎を責められるのは彼らだわ。そんなこと、貴方も望んでないでしょう」
「そうだね。……でも、気づいたら動いていたから」
「無茶しないで」
「リーゼに言われたくないなぁ」
「アルフ」
意図的に明るく軽い口調で話していたアルフレートは、リーゼロッテの声に口を閉ざした。顔を見なくとも、従妹がどのような表情を浮かべているのか大体わかってしまう。
きっと、眉を寄せて睨むように傷口を注視しているのだろう。アルフレートの体を蝕む傷と瘴気を忌々しく恨みがましく痛ましく観察しながら、治療の流れにも思考を巡らせているのだろう。
他人ではない、大切な人を傷つけられて、静かな怒りを焦がしている。
「うん。ごめん」
アルフレートは目を伏せて、謝罪の言葉を紡いだ。
ヴァールリンデ教の基本的なランク付けに沿うと、アルフレートは司祭か大司祭か、というレベルの治癒魔法が使える。軽傷であれば問題なく治せるくらいの実力で、背中の傷にも治癒魔法を使った痕跡が見受けられた。
止血はできているけれど、瘴気に阻まれてそれだけしか効果が得られなかったようだ。恐らく傷自体は小さくもなっていないのだろう。
幸い、瘴気はそんなに付いてないし、ほとんど傷の周辺で留まっている。体の中にも微量しか流れていない。
アルフレートは健康体なので、体力が奪われて体を動かすのがつらい程度で済んでいるに過ぎない。瘴気は迅速に浄化しなければ命に関わることを承知しているはずなのに、少量だからと放っておけば悪化するのは当然だ。
瘴気への耐性が強い聖女のリーゼロッテでは参考にならないけれど、リーゼロッテほどの虚弱体質であれば、本来はとっくに命の危険が目前に迫っていたことだろう。例え少量であっても、瘴気というものは危険度の高い毒なのである。
「“祈り願うは淀み穢れた気を浄化し女神の子を癒す聖なる光。対価として捧ぐは我が身に宿る神聖なる力”」
両手を組み、神聖力を込めて詠唱を行うと、リーゼロッテの手から金の粒子を纏った光が漏れ始めた。
「“陣顕現”」
術式が組み込まれた陣が出現する。
「“祈り願いに応え、浄化し癒す聖癒の光をかの者へ”」
最後まで唱えると陣から放たれた柔らかい光がアルフレートの傷に注がれた。瘴気が浄化され消え去り、三本の爪痕も見る見る小さく薄くなり、やがて跡形もなく消える。
見事なまでの手際での完治だ。相変わらずの技量に感嘆せざるを得ない。
詠唱破棄でも完璧に浄化、治癒ができたはずなのに、わざわざ完全詠唱までしたのは、絶対に完治させるという意欲を感じさせた。
傷と瘴気による苦痛や倦怠感がなくなり、アルフレートはほっと息を吐いた。体の軽さが全然違う。
「ありがとう」
「ええ。……今度はもっと、効果の強いお守りをあげるわ」
「リーゼがくれるものならなんでも嬉しいな」
「……誤魔化されないわよ」
「何も誤魔化すつもりなんかないよ。ただの本音」
そうだろうけれど、気を逸らそうとしているのも少しはあるはずだ。
アルフレートが負傷していた。リーゼロッテがあのまま教会にいて他の聖職者が派遣されていたら、きっとその事実はリーゼロッテの耳に入ることはなかった。アルフレートもジークムントも、そう動いただろう。
「やっぱり、私が来て正解だった」
ぽつりと、リーゼロッテは零す。それは独り言のようで、けれど静かな室内にはよく広がった。
「私は聖者として歪んだ性格だって自覚してるわ。身内以外への情なんて持ち合わせてない」
皇族の血筋であれど、リーゼロッテに愛国心はない。国のため、民のために自らを犠牲にするような高潔さはない。聖人君子はあくまで見せかけだけの虚像だ。ジークムントのため、そしてアルフレートや身内、大切な人のために、仕方なく聖女としての役目をこなしている。体は弱くとも特権の与えられた、恵まれた生活は送らせてもらっているから、それに伴う責任を最低限は渋々果たしているに過ぎない。
自らの命をかけてまで民を守ろうなどと、そのような殊勝な精神はまったくもってないのである。この先も芽生えることはない。
「私にとって、有象無象の命とアルフの命は重みが違う。――聖女をこの国に留めておきたいなら、選択を誤らないでほしいわね」
聖者はどの国でも引く手あまただ。まして現在確認されている聖者はリーゼロッテただ一人。漂う瘴気に対して聖職者不足の現状では、どの国も最高の待遇で快く迎え入れてくれる。ジークムントを含めシュトラール教会は、リーゼロッテの意思があれば、時間や費用を要するとしても拠点を他国に移すことに欠片ほども躊躇うことはないだろう。皇弟であり神託によって選ばれた教皇までも外に出すとなると、リザステリアの貴族や住民からかなりの反発を受けるとしても。面倒なことにはなるけれど、不可能ではない。
リーゼロッテには皇子兄弟以外、何もこの国にこだわる理由はない。この土地への愛着心もそれほどない。
だからこその、従兄の身への心配も多分に混ぜた忠告だった。聖女をみすみす逃すのは国にとってあまりにも大きすぎる痛手だから。
「リーゼに心配をかけたくない気持ちはある。でも、また同じ状況になったら、きっと私は同じ選択をする」
「……アルフ」
「この帝国の皇子だからね」
優しくて甘い、柔らかな眼差しを、リーゼロッテに向ける。その決意をどうか認めてほしいと。
そして、リーゼロッテがこの国を出るなんて選択は滅多なことでもない限り取らないと、確信している。それほど好かれているという自負があるのだ、アルフレートには。
皇子というものは窮屈で仕方ない立場であるはずなのに、彼は真に、その地位を受け入れている。
他人に心を許すことはそうないけれど、皇族としての責任感は強い。決して褒められた行動ではないけれど、咄嗟に民のために体を張れる貴族王族皇族なんて、一体どれほどいるのだろうか。
少なくとも、リーゼロッテには真似できないことだ。
「もちろん、それをリーゼに強要するつもりはない。リーゼは何よりもまず、自分のことを第一に考えて」
彼は、リーゼロッテには強制しない。皇族の血を濃く受け継いでいる従妹には、皇族の一員としての役目を強いることはない。
それは、皇族が国や民のために強く縛りつけられている存在だと、身をもって知っているから。自分達皇帝一家は放棄することもできない義務が纏わりついているけれど、リーゼロッテには押し付けたくないと願っているから。
公にそれが許されている聖女という地位が後押しになっている。
「……アルフのそういうところは、嫌いよ」
いじけたような子供っぽい言い方が、無意識に出てしまった。
従妹の立場としては、見知らぬ人よりももっと彼自身のことを優先してほしいけれど、誰かのために動けるのは彼らしいとも思う。
「ごめんね」
「……何笑ってるの。反省の色が感じられないわ」
「はは、ごめん」
謝りながらも、アルフレートの美麗な顔に浮かぶのは喜色の笑みだ。
「さっきの言葉は本当だけれど、リーゼに心配されるのはちょっと嬉しくて。リーゼにとって私が特別だっていう証だからね」
「当たり前でしょう」
幼い頃からの仲だ。大切で、特別に決まっている。言葉でも態度でも伝えているはずで、ちゃんと伝わっている。
その特別は、アルフレートがリーゼロッテに向けているものとは違うけれど。
「――ロッテ」
二人だけの会話は終わりだとばっさり切り裂かんばかりに、微笑を湛える叔父がリーゼロッテを呼んだ。
「もう治療は終わっただろう? これからアルフレートも交えて明日の話を進めるから、こちらに来なさい」
ぽんぽんと、ジークムントがソファーの座面を軽く叩いて示す。自身が座っている場所のすぐ隣を。
大好きな叔父の誘いを受けたリーゼロッテは、なんの疑問もなく、迷うことなく素直に従い、叔父の隣に腰掛けた。リーゼロッテとクラウスが来る少し前に風呂から上がったという叔父の艶のある黒髪から、教会で使っているものとは違うシャンプーの香りを感じる。
姪の熱視線を受け止め、ジークムントは小さな頭を誉めるように優しく撫でた。ほんの少しばかり紫がかった長い黒髪は、ハンナ達の手入れが行き届いていていつも触り心地が良い。癖になってしまう。
撫でられてはにかんだ笑みを見せる姪に存分に触れていると、向かいの甥からはピリピリとした視線が突き刺さる。
さすがは皇子だと感心できる爽やかな笑顔を表面上は浮かべているものの、つい十秒ほど前まで隣にいた従妹をとられてご機嫌斜めなのは一目瞭然であった。当の従妹が彼の方を気にしている様子がないので、叔父への不満を隠すつもりなどないのだろう。ありありと滲み出ている。
話を進めるだけであれば、リーゼロッテを移動させる必要はなかった。そのままの配置で――アルフレートの隣に座ったままの位置で、支障があったはずもない。もちろんそんなことは承知していながら、ジークムントはわざと姪を自分の元へと呼んだのだ。強引ではなかったけれど近かったかもしれない。それでも罪悪感は一切ないのが本音だ。
だって、目の前で見せつけるようにイチャイチャしていて、とても不快で腹立たしいことこの上なかったから。
ジークムントはこの甥のことが嫌いではない。思考も性格も自分とよく似ていると常々実感しているし、聡明で会話にストレスを感じさせない。どちらかと言えば好ましい部類の人間である。――基本的には。
人にはどうしたって、譲れないこともあるのだ。ジークムントの場合、それは他でもないリーゼロッテ関連になる。
「君は服を着なさい」
「はい」
シャツに手を伸ばしたアルフレートから視線を逸らし、ジークムントは思考に耽る。
引き締まった体を見ても触れても照れる素振りなど欠片も感じられないほど、リーゼロッテがアルフレートを異性として意識していないことを差し引いても、リーゼロッテの結婚相手として彼は悪くないと判断している。現時点では意識しておらずとも、そこから先に一歩進み、線を越えることができたなら、後は気持ちが育つのも時間の問題だ。アルフレートに可能性がないわけではない。
リーゼロッテがクラウスを拒絶している以上、アルフレートとの関係を邪魔するのは得策ではないのだが、どうにも心は思うようにならないものだ。
「あの、叔父様」
考え込んでいると、リーゼロッテがジークムントの服の袖を軽く引っ張った。
「作戦会議をするのはもちろん賛成ですけれど――夕食をとりながらにしませんか?」
くぅ、と。リーゼロッテのお腹が空腹を訴える可愛らしい音を出した。本人は羞恥心を感じている様子など一切なく、ご飯に期待を膨らませて目を輝かせ、堂々とジークムントを見つめている。
クラウスは主人の姿に可愛いなと表情が弛緩しそうになるのを堪えながら、そういえば軽めの昼食を済ませてからもう六時間は経過しているなと、そんなことを考えていた。お腹が減るのも当然だ。
「そうだね、そうしよう」
ジークムントは笑顔で申し出を受けるのだった。
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