25.第五章三話
薄い雲が空に差しかかる、まだ日が登りきっていない朝方。ひんやりとした空気と暗い景色の中、リーゼロッテ一行は伯爵領へと向かうために教会の裏門にいた。
同行するのは昨夜話し合った通り、クラウスとグレーテの二人だ。何も変更はない。しかしその場にいるのは伯爵領に赴く三人だけではなく、見送りにやって来たマルセル、ハンナ、マリーナとヘレーネもいる。
リーゼロッテが身につけているのは、祭服ではないけれどそれに準ずるような、聖女らしい上品な服だ。討伐や救護活動の場で着る機会の多い、聖女としての威厳にも動きやすさにも配慮されたデザインで、ズボンタイプの制服のようなものである。
「こんなに早い時間なのだし、貴方まで見送りに来なくてもゆっくりしていればよかったのに」
クラウスとグレーテが馬を落ち着かせているのを横目に、リーゼロッテはマルセルを見上げた。顔色はそれほど悪くないけれど、彼の目元には薄ら隈ができている。充分な睡眠を取れていない証拠だ。
「叔父様がいないから忙しいでしょう」
「正直に申しますと笑えないほど忙しいですが、お見送りくらいさせて下さい」
見慣れた黒の瞳がリーゼロッテを映す。
教皇不在で仕事が回ってくる量が多いのはリーゼロッテだけではない。教皇補佐である彼も同様なのだ。直属の補佐はもう一人いるのだが、長期の任務で不在にしているので、ただでさえ最近のマルセルの負担は相当なもの。
そしてそれはリーゼロッテ側も同様であり、ハンナには頭が下がる思いだ。
「ジーク様でも手が足りないなんて初めてのことですから、いくらリーゼロッテ様が聖女とは言え心配なんです。貴女はただでさえ体力がありませんし」
「手厳しいわね」
おかしそうに笑った後、リーゼロッテは目を細めた。
「現場は直接見ていないけれど、特に心配するようなことはないんじゃないかしら。――過信だと思う?」
その問いかけにぱちりと目を瞬かせたマルセルは、柔和な笑みを浮かべた。
「いいえ。貴女の実力はよく存じておりますので」
ただの教皇ではなく女神に選ばれた教皇ジークムントでも浄化が難しくとも、リーゼロッテならば大丈夫だとマルセルは確信している。
他の聖職者と比べても歴然の差があるジークムントだけれど、リーゼロッテは段違いにそこから差を広げる実力者だ。浄化や治癒において、神聖術は魔法の追随を許さぬほどの効果を発揮することは周知の事実である。
派遣命令は司教以上が最低五名。つまりジークムントがいれば新たな人員はそれだけで足りるということ。はっきり言えばリーゼロッテを送り込むのは過剰でもあるわけだけれど、確実性と即効性を取るなら間違いではない。
「ジーク様が魔物や瘴気を抑えていらっしゃるわけですし、報告を拝見した限りだと、悪化を考慮しても貴女なら問題なくやり遂げられるはずです。……ただ、それとこれとは別なのですよ」
少しだけ声を落としたマルセルの黒の瞳が、リーゼロッテをまっすぐに見つめる。
皇族の黒髪と同じく大陸の西部では珍しい黒の瞳には、いつも親近感を覚える。
「ジーク様とは比べものにならないかもしれませんが、私だって貴女のことを大切に思っていますから」
リーゼロッテが僅かに瞠目した。
マルセルの表情はとても柔らかく、ジークムントほどのあの異常とも言える熱量はもちろんないけれど、そこに浮かんでいるのは確かに愛情だった。妹や娘に向けるものにしては温度が足りないけれど、他人に向けるものにしてはあまりにも感情が込められている。
「嬉しいわ。私もマルセルのこと好きよ、すごくね」
リーゼロッテは鷹揚な笑みを浮かべ、まったく照れることなくさらりとそんな台詞を言ってのけた。
リーゼロッテの中で、マルセルは特に好きな人物に入る。だって、彼は長い間ずっと、公私共に叔父を支えてくれている。そして昔から、リーゼロッテの面倒を見てくれていた。ジークムントの次に頼りになる大人だ。
「光栄の至りです」
「もっと甘やかしてくれてもいいのだけれどね」
「現状でも充分では?」
「足りないものは足りないのよ」
「ジーク様にお任せいたします」
「あら。逃げたわね」
目を輝かせてリーゼロッテがからかいモードに入ったところで、「リーゼロッテ様」と名前を呼ばれた。
「本当にグレーテさんだけでよろしいのですか?」
振り向けば、今日はいつもよりも早起きをしてリーゼロッテの身支度を整えてくれたハンナが、不満を隠すことなくありありと露にし、拗ねた声音で尋ねてきた。虚をつかれたリーゼロッテは瞬きをし、意識がマルセルから逸れる。
「昨日からずっとこの調子だよね」
「まあ仕方ないよね」
ハンナと同じく身支度を手伝ってくれたマリーナとへレーネは、苦笑して見守っていた。
リーゼロッテは着替えなど身支度は一通り一人でできるように育てられているけれど、基本的には世話係に手伝ってもらっている。つまり日帰りでなければ出先で女性の手が必要で、グレーテが選ばれた。
今回は伯爵領の領主邸に滞在する予定であり、あちらにもメイドはいるだろう。しかし信用できない人間をリーゼロッテのそばに置いて世話をさせるわけにもいかない。
「グレーテは転移魔法が上手だもの。今回の同行者は特にその点が重要だわ」
「……承知しております」
むすっと、やはりハンナは剥れたままだ。彼女のリーゼロッテの世話役としての矜持は凄まじく、伯爵領に付いていけないことが大層不満なのである。
ハンナは身体強化の魔法は得意だけれど、転移魔法は使えない。今回は人数を抑える必要もあるので、女性で専属護衛、しかもリーゼロッテやクラウスほどではなくとも転移魔法が得意なグレーテが適任なのだ。
もちろんハンナもそんなことは理解しているけれど、納得したくないのが本音である。
普段のてきぱきと仕事をこなすハンナとはかけ離れた駄々をこねる子供のような姿に、リーゼロッテは楽しそうに頬を緩ませ、ハンナの頬に手を伸ばした。
「ハンナ。私がいない間の仕事は貴女に任せることになってしまうわね。マルセルと上手く連携してね」
柔らかく滑らかな肌をそっと親指の腹で撫でる。そうしてにっこりと、神々しい微笑を向けるのだ。
「私の自慢の補佐だもの。できないなんてことはないでしょう?」
「お任せください」
すぐさまキリっと表情を引き締めたハンナは即答した。その返答にリーゼロッテは満足げに笑みを深める。
「ハンナも単純ですよねぇ」
「主人に似てきましたねぇ」
「まあ、ハンナですから」
マリーナとへレーネ、マルセルは、二人のやり取りを呆れたような眼差しで眺めていた。
そのタイミングで、馬にくくりつけた荷物や馬の調子をグレーテと共に確認していたクラウスが、準備が終わったことを告げる。リーゼロッテはそれにお礼を返すと、ハンナに再度「後はお願いね」と伝え、クラウスが手綱を引いている馬へと近づいた。
「「お姉ちゃん」」
双子は実の姉――グレーテの元に歩み寄り、声をかける。
「クラウス隊長もついてるから大丈夫だとは思うけど、ちゃんとリーゼロッテ様をお守りしてね」
「リーゼロッテ様の御身に傷一つでもつけたらダメだからね」
「わかってるわ」
こくりと頷いたグレーテは、妹達の頭を順番に撫でた。
三姉妹のやりとりを微笑ましく一瞥し、リーゼロッテは黒馬に顔を近づけ、逞しい首辺りに触れる。
「よろしくね」
大人しく撫でられている青みを帯びた毛並みのこの黒馬の名前はシュラークと言い、ただの馬ではなく魔物だ。クラウスと契約している愛馬で、強靭な脚力と体力を持っている。気位が高く扱いが難しい性格をしているけれど、主人であるクラウスを含め、リーゼロッテやジークムントのことは自身より上だと認めており、よく懐いていて従順である。
「わ」
シュラークを撫でていると、もう一頭の馬が構えと言わんばかりに後ろから顔を擦り寄せて来た。至近距離で視界に映り込んできた顔に驚きを露にしたリーゼロッテは、甘えてくる子供を相手にするように「はいはい」とその首を撫でる。
「フェアシュ、グレーテの言うことをよく聞くのよ?」
「ブルッ」
言葉を理解しているとしか思えない様子で、馬は鳴いて返事をした。
実際にすべてを理解しているわけではないけれど、彼らは賢い。そしてリーゼロッテが聖者という性質ゆえか、リーゼロッテの言葉の意味や伝えたい想いを、動物達はなんとなく感じている様子が多々見受けられる。知能が高い魔物であれば尚更だ。
青みがかった灰色の毛並みのフェアシュもまた魔物であり、シュラークの妹に当たる。リーゼロッテと契約しており主人との意思疎通のレベルが高く、リーゼロッテの意思をほぼ正確に汲み取ることが可能だ。
今回リーゼロッテはクラウスと二人でシュラークに乗るので、フェアシュはグレーテを背に乗せることになっている。それで拗ねているのか、構えという圧がいつもより強い。
シュラークとフェアシュの兄妹は上級に分類される魔物だ。上級の魔物は貴重で数が少ない上、力が強く高い矜持を持っている。そのため契約を交わすことが難しく、シュトラール教会に所属している人間で契約を果たしている者は現在五人。これでも一組織として多い方である。
「シュラーク」
クラウスが愛馬を呼ぶと、反応したシュラークはリーゼロッテから顔を離し、己の主人へと擦り寄った。クラウスは軽く一撫でし、軽快な動きでシュラークの背に乗る。
フェアシュもリーゼロッテから離れると、クラウスがこちらに手を差し出した。
「お手を」
「ええ」
力強い手を借り、クラウスの後ろに跨って座る。目線が高くなり、景色が変わった。
馬具は衝撃吸収の魔法の術式が刻まれている魔道具が付けられている。長時間の移動はリーゼロッテにはかなりつらいので、負担を軽減させるためだ。
グレーテもフェアシュに乗れば、準備は完了である。
「じゃあ、行ってくるわね」
「お気をつけて」
見送りの四人を代表してマルセルが答えると、リーゼロッテはクラウスのお腹に腕を回した。
密着すると相変わらず鍛えられた肉体なのがよくわかるし、いい香りが鼻腔をくすぐる。落ち着く香りだ。
「……しっかり掴まっていてください」
「ええ」
念を押されて頷けば、クラウスは「行くぞ」とグレーテに声をかけ、シュラークを走らせた。




