24.第五章二話
恐らくこの帝国内において、近年ではなかったであろうまさに災害と呼べる規模かもしれない。
広範囲の浄化だけでなく治癒にも人数が必要となると、すでに派遣されている者達だけでは人手が足りないのも当然だ。浄化魔法と同様、治癒魔法も使い手は多いとは言えないので、あちらでの新たな人員確保も難しいだろう。
「被害が甚大な理由は?」
「瘴気の急激な増加は魔物が原因とのことです。どうやら伯爵は各地で魔物を捕獲、魔道具で結界を張った領地の山の一部で飼育し、闇ルートで売買して利益を上げていたようで」
どこにでも馬鹿はいる。まさか魔道具に留まらず、魔物まで売買していたとは。
「愚の骨頂ね」
「まったくもって同感です」
使い魔として魔物と契約を結ぶこと自体は何も問題ないけれど、契約を交わしていない魔物を所有することは、国から許可を受けた者にしか許されていない。契約して管理していないと、充分な設備がなければ魔物が逃げ出したり暴走したり等、多大な被害が生まれる可能性が高いことから、国による厳正な審査が必要なのだ。審査に通れば施設や団体、もちろん個人であっても、魔物を飼うことはできる。
伯爵家だって、基準を満たせば何も問題はない。しかし伯爵家は許可を受けておらず、そもそも許可の申請履歴すらなかったそうだ。
魔物は瘴気に耐性を持った生物で、その身に瘴気を宿している。自然発生する瘴気を取り込むことで栄養を摂取する個体もおり、瘴気の大量発生を抑えている一面があることも否めない存在だ。魔物を殲滅することはむしろ世界の不利益となるので、適切な数や配置に配慮する必要がある。
今回の件は、捕獲された魔物が杜撰な管理下の一部分に集中したことで、瘴気が通常ではありえない期間で増幅してしまったのだという。効果のある対策がされなかったことで留まることなく瘴気は互いに影響し合い、増大を続けて溢れた。そして膨大な瘴気は魔物にも普通の生物にも毒だけれど、取り込む量に耐えた個体の魔物化や凶暴化を引き起こす。今回も例に漏れずで、飼育区画を区切っていた結界の魔道具がその負荷に耐え切れず壊れてしまった。それにより行動範囲に制限のなくなった魔物達が近場の街や村に降りて暴れ、瘴気の発生も更に拡大する状況を引き起こしたというわけである。
魔物を捕らえること、隠すことが容易になったのは、便利な世の中になった弊害でもある。魔法技術の発展、高性能の魔道具の流通が悪用された犯罪。隠蔽に注視し殊更力を入れ、管理は怠った結果だ。このような犯罪は年々増えていて、国の重鎮達が頭を悩ませている。
「リーゼロッテ様が街で不成者に目をつけられたのは、今回ばかりは不幸中の幸いと言えます。おかげでその連中から伯爵との繋がりが明らかになり、領地の瘴気の異常にも早く気づくことができました。初手が遅れていたら伯爵領はどうなっていたか……恐らく死者が何十人、何百人も出ていたでしょう」
本当に危機一髪であったと、マルセルは言う。
リーゼロッテ達が不成者を捕らえたその前日に、強大な力を持つ魔物が山の飼育区画に放たれたそうだ。元々、限界寸前で瘴気が保たれていた場所にその魔物が加わったことで、じわじわとダメージを受けていた魔道具の耐久に限界が来て、そして数日で超えたのだろう。
そもそも教会の人間が伯爵領に派遣されたのは、帝国騎士団の事前調査の結果に基づいた要請があったから。山での魔物の違法飼育が判明し、緊急性が高いとしてジークムントまでもが向かうことになったのだ。
事前調査の報告からジークムント達が到着するまでのほぼ三日程度の僅かな期間に、力の強い魔物の影響で特に急激な瘴気の増加が起こり、魔物達を閉じ込めていた魔道具が故障した。伯爵領で伯爵の犯罪について調査を続けていた帝国騎士団がその異変を察知し、まだ到着していなかったジークムント一行に魔法で連絡。そこでジークムントは最低限の人員を残して馬車から馬に切り替えて移動し、緊急で対処したとのことだ。
それでも、解決には至っていない。山全体に広がった瘴気と魔物達を結界で封じ込めるので手一杯だそうだ。だからこうして教会に連絡が来ている。
「魔物が山から抜け出して暴れることがあっても己の屋敷だけは守れるよう、伯爵は毎日欠かさず屋敷の周りに聖水を撒かせていたようです」
その話に、リーゼロッテの眉根が寄る。
「犯罪で自ら危険を増大させておきながら、万が一の時は自分は助かりたいからって貴重な聖水を無駄使いだなんて……本当にクズね」
リーゼロッテが神聖力を込めて作った効果の高いものは、瘴気の被害がかなり酷いところ、そして他国へ供給される。そのためその伯爵家には流れていないのだけれど、伯爵家にあったものはシュトラール教会の聖職者が作ったものが大半を占めているはずだ。つまりリーゼロッテの身近な人達の仕事を、あの伯爵は無駄にしたのである。
リーゼロッテの目が据わっているのを見ながら、マルセルは言いづらそうに、恐る恐る続ける。
「ジーク様がお作りになった聖水も、いくつか」
「――そう」
リーゼロッテの声が、明らかに低くなった。感情がのせられていない、淡々とした短いたった二音だったけれど、確かにトーンが下がっていた。
そして、それはもう綺麗な、溢れんばかりに輝かしい笑みを浮かべる。
「いい度胸だわ、本当に。叔父様の仕事をたった一部でも伯爵如きが無駄にするだなんて――処刑じゃ生ぬるい」
ぞくりと、マルセルの背筋に悪寒が走った。肌が粟立つ。
金眼に宿っているのは静かに揺れる憤怒だ。
ヴェンデルは「お美しい……」とリーゼロッテに見惚れているが、この場面でその反応ができる神経がマルセルにはまったく理解も共感もできない。
「まあ、クズの処分はゆっくり考える時間があるから後にしましょう」
本来、犯罪を裁くのは法の下、裁判で行われる。教会が口を出すことは余程のことがない限りないのだけれど、今回はこちらも迷惑を被っているのだ。
しかも、よりにもよって叔父の仕事に手を出す愚行を犯した罪は重い。口出しする気満々である。
「まずは現地に誰を向かわせるかよね」
言葉だけ聞くと人選はこれから考えようという流れになっているように聞こえるが、果たしてジークムントの要請通り、リーゼロッテは自身を候補から外しているのだろうか。
「……誰が良いと考えますか?」
答えを予想しながらもマルセルが訊ねると。
「私が行くに決まってるじゃない」
案の定、それ以外の選択肢があるはずもないと断言された返答だった。彼女の叔父の意思に反する回答だ。こうなることをジークムントも容易く想像ができたから、リーゼロッテには知られないように秘密裏に派遣しろと、わざわざ命を下したというのに。
「私一人なら五人分の予定を調整する手間も省けるわ。マルセルだって、私を行かせるのが最善策だって考えたんでしょう。それで迷っていたから珍しく動揺して態度に出たのよ」
図星だったので、マルセルは何も反論できなかった。
瘴気は量が少ないうちにコントロールできるのが一番だ。後手後手に回っていては取り返しのつかないことになる。
リーゼロッテが赴くのなら浄化は十分のはず。すでに現地にいる司教達を負傷者の治療にあてられるので、人数を抑えるには良い案なのだ。
「私の予定は元々余裕を持って組まれているし、調整しやすいでしょう。逡巡の余地もないと思うけれど?」
「それはリーゼロッテ様の体調を考慮されたものであって、決して余裕があるわけではないことなど、ご自身が一番おわかりのはずですが」
「私だって成長してるのよ」
引く気配のない教会の主人に、マルセルは不思議そうな眼差しを向ける。
「遠出はお嫌いなのに、ずいぶん乗り気ですね」
「当たり前じゃない」
ふっとリーゼロッテは口角を上げ、優雅に足を組み替える。顎を上げ、見下ろすようにマルセルを見据えた。
さながら独裁の王様のごとく偉そうな態度であるけれど、聖女であるリーゼロッテは実際に偉いし、一国の王よりも、属国を従える帝国の君主皇帝よりも強い、絶対的な権力と影響力を持つ立場にある。それが確立されている。
まだ成人していない少女でありながら、世界の頂点に君臨する地位に立つ存在。彼女の上には女神しかいない、この地上において最も高貴で代えの効かない、歴代の聖者の中でも多大な女神の力を与えられたとされる特別な人間だ。
「だって、そこに叔父様がいるんだもの」
当然のこと、常識だとでも訴えるような表情で堂々と言い切ったリーゼロッテに、マルセルはぱちりと目を瞬かせたのち、間を置いて耐えきれずにふはっと吹き出した。込み上げる感情に抵抗することなく笑う。
「ふ、ははっ……!」
本当にこの少女は、叔父のこととなると譲らない。優先順位がまったくぶれない。
昔から承知していたことではあれど、改めて見せつけられるとなんだかどうしようもなく面白くて、マルセルは久しぶりに思いっきり笑ってしまった。
「はははっ! そうですね、貴女はそういう人です。ふっ、くく……っ」
マルセルがこれほど声を上げて笑う姿は貴重で、今度はリーゼロッテとクラウスが目を丸めて瞬きをする。
普段は微笑んでいることが多いものの笑い上戸では決してない男が笑い止む気配はなく、まだまだ肩を揺らしていた。それほど面白い発言ではなかったはずなのだけれど、何やら彼のツボにはまってしまったらしい。
リーゼロッテは仕方ないと言わんばかりにため息を吐いて口角を上げ、背もたれに体重を預ける。高級なソファーは優しくリーゼロッテを支えてくれた。
「それで? 聖女と教皇、どちらの命令を聞くべきか、賢い貴方なら選択を間違うはずがないわよね?」
脅迫ともとれる言い方で催促すると、次第に笑いが落ち着いてきたマルセルは口元に笑みをのせたまま立ち上がり、リーゼロッテのそばまで歩いて来て片膝をつく。公の場以外で彼が膝をつくのは珍しい光景だ。
「触れてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
皇族の黒髪と同じくこの国では珍しい灰色の髪を持つモノクルの男。彼の意図を正確に汲み取り、快い許可を与えたリーゼロッテは、彼が触れやすいように背もたれから離れて少し距離を詰める。
マルセルはリーゼロッテの手を取り、もう片方の手はリーゼロッテの前髪を避け、額にぴったりと触れさせた。後ろで控えているクラウスの眼光が鋭くなった気がしたが、そしてヴェンデルの方からは羨ましげな雰囲気をひしひしと感じるが、その二方向は気にせず、この教会の最高権力者である少女を見つめる。
女神のように美しい顔立ちは、同じく人間離れした美貌を誇る叔父とどことなく似ていて血の繋がりを感じる。聖者のみが持つ金色の瞳も相まって神秘的で、容姿は文句のつけようがない。
猫をかぶるのが得意で、基本的に他者への興味はほぼ皆無。わがままで勝手な部分はあるけれど、傲慢なのではなく気高い聖女だ。己の自由を縛る聖女の役目を放棄しないのも、大好きで大切な叔父の評判のためなのが一番の理由ではあれど、この世界での聖女という存在の重要性を理解しているからこそでもある。
「体調はどうですか?」
「悪いように見える?」
「いえ。平熱ですし、顔色も良好。力も安定しています。何も問題はありませんね」
愛想笑いが常のマルセルにしては珍しい、穏やかな表情と眼差しをしている。存外、この教皇補佐はリーゼロッテに甘いし、優しいのだ。そして、幼馴染みで親友でもある教皇のことを心配し、気遣ってくれる。
「お願いできますか」
「もちろんよ」
任せなさいと、リーゼロッテは勝ち気に口角を上げる。十六歳の少女相手に、任せれば何事も上手くいくような絶大な安心感があるのだから不思議なものである。
「夜の移動は危険だし、出発は明朝ね。本当は転移ですぐにでも駆けつけたいところだけれど……」
「さすがにそれは無理ですからね」
転移魔法は距離が遠ければ遠いほど、また転移の対象物が大きければ大きいほど魔力を大量に消費する上、高度な魔法だ。
転移魔法の使い手は、世界中においても確認できている人数はそう多くない。その中でも視認できないような長距離、それも指定する正確な位置に転移できるのは、他ならぬリーゼロッテとクラウスのみである。
そして、二人が長距離転移も可能とする魔法を使えることは公にはされていない。教会内でも一部しか知らない機密事項だ。
(歴史が変わるもの)
転移魔法が便利であることは言わずもがな。便利であるからこそ、悪用されると大変なことになる。
例えば戦争の際、一瞬で他国の内部に転移して攻め込むことが可能であれば、それはまったく防ぎようのない脅威。侵略が容易となり、戦略は無意味となる。戦争の常識が覆ってしまうのだ。
もっとも、リーゼロッテもクラウスも、他国を座標とするほどの距離の転移を試したことはない。けれど、ジークムントに持たせている魔道具のような専用の目印さえあれば、魔石で魔力を補わずとも可能だろう。
クラウスの底は計り知れない。リーゼロッテ以上の魔力と技術力を持ち合わせ、体格、武芸まで恵まれている。
聖女のリーゼロッテはともかく、実力は抜きん出て天才、規格外などと言われてはいるもののクラウスまで長距離転移が使えるとなると、他国にとっては恐れざるを得ない存在となってしまうのが現実だ。過ぎた恐怖は戦乱の種となることも少なくない。だから公表の予定はないのである。
「リーゼロッテ様の体力と体調に配慮するとなると、移動は馬車の方がいいわけですが……」
「それだと時間がかかってしまうし、転移を使うにしても無駄に魔力を消費するから却下よ。馬でいいわ」
直接転移することはできなくとも、短い距離を何度か転移して移動時間を短縮するつもりだけれど、馬車は大きいのでその分、余計に魔力が必要となってしまう。大規模な浄化を行う前に力を大量に使ってしまうのは得策ではないし、魔力を宿す魔石で代用するにしても、魔石も貴重なので使用はなるべく少量で抑えたい。
「フェアシュ達なら、転移数回でも半日で伯爵領に着いたって不自然じゃないでしょう」
「なるほど」
教会の中でも速さと体力を誇る馬達であればと、マルセルも納得する。何より、馬車より移動に時間がかからないので、多少の誤差も誤魔化しが利く。
「護衛はどうされますか?」
「人数は少ない方がいいから、クラウスとグレーテでいいんじゃないかしら」
「もう一人くらいつけてほしいところですが、まあ妥当ですね。ではグレーテにはクラウスから話を」
「はい」
無事に話はまとまった。リーゼロッテの意向が最大限に尊重された結論だ。
「伯爵領への返事は……」
マルセルが窺うと、リーゼロッテは口元に人差し指を立てて添え、悪戯に笑みを浮かべる。
「私のことは叔父様には内緒の方向でお願いね」
「承知しました」
十六歳でありながらも嫣然としていて存分に色香を纏う少女に、さすがはあのジークムントの姪だと、マルセルは胸中で賞賛を送る。
真っ赤な顔を片手で覆い、反対の手で心臓の辺りを押さえて悶えている背後のリーゼロッテ信者については、この場にいないことにした。
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