18.第四章二話
リーゼロッテには前世の記憶というものがある。前の聖者が亡くなってまだ十数年程度の時代――三百年ほど前の時代で生活していた記憶が、鮮明に残っているのだ。
◇◇◇
約三百年前。
大陸の南に位置するヴァイデ王国は農業に向いた土地が肥大な国だった。そのヴァイデ王国の国王の弟であり、国王の即位と同時に臣籍降下したアルトマン公爵ハルトヴィヒ・クルト・フォン・フォーゲルヴァイデの娘――エレオノーラ・フォン・フォーゲルヴァイデ公爵令嬢が、リーゼロッテの前世である。
ハルトヴィヒは自身も王族でありながら、王族への忠誠心がとても強い臣下だった。国、現国王である兄とその子供達に尽くす忠臣だった。「私達は国のため、陛下達のために存在している」というのが口癖だったほどに。
それはもう、自身の娘や妻を顧みることもなく、忠実に王族に仕える王族だったのだ。
エレオノーラは父に誕生日を祝ってもらったことがない。一緒に遊んだこともない。抱き上げられた記憶も、同じ食卓についた記憶もない。家庭教師からどれほど褒められても、父から褒められたことはない。「この程度で満足するな」「陛下や殿下方をお支えする立場にあることをもっと自覚しろ」と、そう言い続けられてきた。
愛されていると、大切にされていると、そう感じたことはなかった。
それでも幼いエレオノーラは、自分が他の追随を許さないほどの完璧な令嬢になれば、父親から関心を得られるのではないかと期待を抱いていた。母親を早くに亡くしていた分、兄弟もいない分、父ハルトヴィヒへの想いは強いものだった。
しかし、その想いは七歳になった頃、修復不可能なまでに粉々に砕け散ることになる。
ある日、無理が祟ったのか体調を崩して寝込んでいたエレオノーラは、昨夜から高熱が続いており、ふかふかで子供には広々としたベッドの中、寂しさを募らせていた。
体調が悪いと心も揺れ、弱気になる。公爵令嬢としていつも気を張っているので尚更だ。
父から大切にされているという実感がなくとも、娘が熱を出しているとなれば心配くらいはしてくれるのではないかと、少しは気にかけてくれるだろうと、そう思っていたのに。
「お父様は……?」
見舞いに来る気配のない父のことを横になりながら尋ねて、そうしてメイドから告げられたのは。
「王女殿下に呼ばれ、王宮へ向かわれました」
淡々と紡がれた、そんな残酷な言葉だった。
王女はハルトヴィヒの姪にあたり、エレオノーラにとっては一つ上の従姉である。母親――王妃によく似ており、王が殊更王女を可愛がっている上に、兄である王子も妹を甘やかしているため、多少わがままに育っている。それでも王女としての風格と教養を備え、可憐さと可愛さも持ち合わせており、思わず守ってしまいたくなるような雰囲気の少女だ。
ただ。エレオノーラは彼女のことが苦手だし、好きになれそうにはないけれど。
「――そう」
自分で想像していたよりも低い声が出た。痛む喉に鞭を打って「下がって」と告げると、メイドは部屋を後にする。
父親が見舞いに来ないことに同情的ではなく、それを当然のものとして受け入れている。それほどこの屋敷の使用人は主人に感情移入しないように教育を受けているし、元々そういった性質の持ち主が雇われているとも言えた。
公爵令嬢よりも、王女。普通に考えれば間違いではない選択だと、彼らも公爵と同じ思考を持っている。
一人になった静まり返っている部屋で、エレオノーラは窓の外に視線をやった。今日は曇り空で、外はどんよりと薄暗い。暗澹とした静寂はエレオノーラの心境とよく似ていた。
ハルトヴィヒは仕事を終えて毎夜、執事長からエレオノーラの一日について報告を受けている。主に勉強はどこまで進んだか、問題は起こしていないかなどの内容になるが、今回は体調不良で高熱を出していることも伝わっているはず。
エレオノーラが自ら希望して父に会うことは、同じ屋敷で暮らしているのに難しい。公爵の仕事が多忙ということもあるが、ハルトヴィヒはわざわざエレオノーラのために時間を作ることがほとんどないのだ。
それなのに。娘のエレオノーラにさえまともに顔を合わせてくれないのに、姪である王女の呼び出しにはできうる限り応え、仕事が忙しくとも調整して登城する。正式な招待を受けたわけでもなく、ただ会いたいと、話がしたいと、手紙や伝言で知らせが入ればすぐにでも。エレオノーラがそれを望めば、時間の無駄だと一蹴するだけなのに。
(どうして)
娘が熱を出していても、その優先順位は覆ることがないらしい。
父にとって何よりも優先すべきは、国王である兄とその子供達。実の娘は二の次。いや、娘だからこそ、二の次どころかもっと優先順位が低いような気さえしてくる。
(ばかみたい)
みたいではなく、馬鹿だったのだ。愚かだったのだ。あの男に父親としての――家族としての愛情を、僅かながらも期待していたなど。
あの男はどこまでも貴族らしい考え方に埋め尽くされている。エレオノーラが娘として入り込む余地などない。公爵令嬢として、王家を支える駒の一つとしてしか、価値がない。それを改めて痛感した。
七歳にして、エレオノーラは父親からの愛を諦めた。そして、父親への愛も捨てた。
翌日。体調が回復したエレオノーラは、昼の時間帯に呼び出された。内容は予想通りの厳しい叱責で、体調管理をろくにできていないとは何事かと、これでは勉学に遅れが出てしまうと、能力面しか見ていない言葉ばかり。寝込んでいた娘を心配する様子や言葉は何もなかった。
「公爵家の娘として、王家の血を引くものとして、もっと自覚を持て」
「はい。申し訳ございません」
大人しく謝罪を口にして、退出の許可が出て部屋を後にした。最後まで気遣いが一切ない血縁上は父親である男に、完全に失望した瞬間だった。
父に期待することはやめた。「お父様」と、そう呼ぶこともやめた。ハルトヴィヒが「父」であったことなどないのだから。
使用人は優秀すぎるあまり、主家の人間であるエレオノーラとは一線を引いた距離を常に保っているため、親しくなることはできない。
だからエレオノーラの心の拠り所は、風邪の一件から数週間後に正式に婚約を結ぶことになった婚約者だけと言っても過言ではなかったのである。
貴族の間では、幼い頃から婚約者がいることはそう珍しいことではない。最近は将来どう成長するかわからないから、人となりを把握してから婚約をする方が損失が少ないと、そんな風潮になってはいるけれど。家同士の繋がりのため、まだまだ早くに婚約という名の契約を結ぶのが主流だった。
ハルトヴィヒがエレオノーラの結婚相手として選んだのは、王家への絶対的な忠誠心を持っている王立騎士団団長の息子。エレオノーラとも何度か面識のある伯爵令息だ。
親同士のやり取りで正式に婚約が整い、顔合わせとなった日。婚約者ランベルト・ルッツ・バルツァーは、父親であるバルツァー伯爵と共にアルトマン公爵邸にやって来た。
歴史ある伯爵家の三男で、エレオノーラの三歳上の十歳。家柄的にも三男という点においても、王弟が当主である公爵家に婿入りするに申し分ない。まだまだ子供であるが、洗練された立ち振る舞いと落ち着きのある大人びた性格は、子供ながらに完璧な造形を誇る顔立ちも相まって、どこか近づき難い雰囲気を醸し出している。
「お久しぶりです、エレオノーラ嬢」
「お久しぶりです」
「伯爵、ランベルト様、お久しぶりです」
格式に則って一礼したバルツァー伯爵親子の丁寧な挨拶に、エレオノーラもドレスのスカート部分を摘んで優雅にお辞儀をして返した。
互いに向かい合って腰掛け、父達が話を進める中、エレオノーラは改めてランベルトを観察する。
今はそれほど彼について多くを知らないし、彼もエレオノーラのことをよく知らないだろうけれど、婚約者となった人。いずれは婚姻を結び、家族となる人だ。
貴族に限らず利益のために結ばれることが多い政略結婚は、冷めた関係で終わることもある。けれどエレオノーラは、そのような生活を送るつもりはなかった。
誰もが幼い頃から触れる、とある聖女と騎士の物語。ずっと憧れている関係。
温かい家族と愛情を求めるエレオノーラが定義する幸せは、当然ながら一人で叶えることはできない。親という選択肢が消えているのだから、必然的に結婚相手との新しい家庭に期待することになるだろう。
王家の血を濃く受け継ぐ貴族である以上、結婚は避けて通れない道。ならば生涯を共にするその人と、例え政略結婚からの始まりでも、愛を築きたいと思っている。つまり、彼――ランベルトと。
「少し二人で話すといい」
そう言い残した大人達の計らいで、エレオノーラとランベルトは庭園を二人で散歩することになった。
領地にいることもあるけれど、王都のこの公爵邸で育って七年。使用人以外の誰かと庭園を歩くのは初めてで、なんとなく落ち着かなくてそわそわしてしまう。
「アルトマン公爵邸の庭園はとてもきれいですね」
「ありがとうございます。庭師が喜びますわ」
などと言ったものの、庭師が本当に喜んでくれるかどうかは疑問だ。
公爵家に仕える者として最善を尽くしている彼が手を抜くことはなく、思わず感嘆の息をもらしてしまうほど、この庭園は高いクオリティが保たれている。ハルトヴィヒが求めているレベルに応えるのは庭師の責務で、あくまで当然のこと。褒められるのは嬉しいことと言うよりも、仕事ぶりが問題ないことを示す事実としてしか受け入れていない。他の使用人もそうだ。
エレオノーラは以前、この庭園の素晴らしさを庭師に語ったが、彼は微笑を浮かべて「ありがとうございます」と頭を下げるだけだった。あれは愛想笑いに他ならないし、嬉しがっている様子は微塵もなかった。
アルトマン公爵家は温かみのない屋敷だ。一流の使用人は主家の人間と近づきすぎないように教育が徹底されていて、主人とその娘の仲も普通の家族らしいとは言えない、冷え切った場所。類は友を呼ぶではないけれど、完璧で冷徹な主人の元には完璧で割り切った使用人が集まる。
こんな寂しいだけのところに、ランベルトのような将来有望な少年を縛り付けていいのだろうか。
ランベルトはまだ十歳ながら剣の才能が開花しており、将来的には騎士団に入ることが決まっている。騎士団長が当主の伯爵家の厳しい訓練でも優秀な成績を残しているらしい。次期当主である伯爵家の長男が、「次の騎士団長は俺やすぐ下の弟ではなく末の弟だろうな」と自慢しているほどだ。
彼自身は兄達を差し置いてその地位につくことは考えていないようだけれど、騎士になること自体は強く望んでいると聞く。
エレオノーラとの婚約は将来、彼がアルトマン公爵家に婿入りするのが大前提で、公爵の仕事と騎士の仕事を両立するのは難しい。いずれは騎士団を辞め、公爵家を継ぐことになる。それは彼が望む騎士の道を絶ってしまうということだ。
「ランベルト様」
立ち止まって名前を呼ぶと、ランベルトも同じく歩みを止め、こちらを振り返った。そんな彼をまっすぐ見据える。
「よろしいのですか? 私なんかと結婚だなんて」
これは政略結婚だ。お互いの家の当主達が決めた、国王も認めた契約。エレオノーラにもランベルトにも、この婚約を覆すことは難しい。だから、こうして問いかけることも無意味と言えば無意味である。
それでも、聞かずにはいられなかった。二人の婚約がエレオノーラの意思ではないように、彼の意思でもないのは明白だから。
挨拶はしたけれど、不本意で、納得していないかもしれない。本当は今すぐになかったことにしたいかもしれない。自身の結婚のことなのに口を挟むことを許されないから、貴族の家に生まれた者として、仕方なく受け入れているだけかもしれない。
「ご自身のことを、『なんか』などと仰らないでください」
ぐるぐると巡っていた思考がぴたりと止められた。
静かな、どことなく穏やかな口調で、ランベルトは言葉を紡ぐ。
「エレオノーラ嬢との結婚は、私にはもったいないくらいとても光栄なことですから」
「ですが、貴方は騎士になりたいと」
「父や兄達が騎士だからその道を目指してはいますが、何も騎士になるだけが私の全てではありません。他の形でも私の価値を証明できるなら――貴女と共にこの国へ貢献できるのなら、私にとってこの上ない喜びです」
片膝をついたランベルトが、胸に手を当ててエレオノーラを見上げる。
「婚約者として、いずれは夫として。生涯、貴女のそばで、貴女をお守りいたします」
その真剣な態度と言葉は、エレオノーラの心に温かいものを宿した。奥底に仕舞われていた期待を引っ張り出した。誰かに愛してもらえるかもしれないという、ずっと求めていたものへの期待。
恐らくこの時だ。エレオノーラがランベルトに惹かれ始めたのは。
「これからよろしくお願いします、ランベルト様」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ランベルトは少しだけ穏やかに笑っていて、そんな彼の小さくも温かい笑顔に、エレオノーラもほんのり頬を染めながら笑みを浮かべた。
婚約が決まると、ランベルトは少なくとも月に一度、エレオノーラとの親交のためにアルトマン公爵邸を訪れるようになった。どうしても予定が合わずに暫く会えない時は、お詫びのプレゼントと手紙を律儀に送ってくれた。
今日は何やら箱を持参し、ランベルトは二人だけのお茶会にやって来た。
「人気のパティスリーのケーキです。エレオノーラ嬢は甘いものがお好きだと、以前仰っていたので」
家族であるはずのハルトヴィヒには、このような気遣いをされたことがない。娘の好物が甘いものであることすらも知らないだろう。
だからか余計に、エレオノーラに向けられた優しさが心に染み渡った。
「ありがとうございます」
自然と表情が緩んだのがわかる。
箱の中身は数種類のケーキで、エレオノーラが驚いたのはいちごのショートケーキがあることだった。
彼が言った通り、一ヶ月ほど前に開店して以来主に若い女性に大人気のパティスリーの、一日二十ピース限定、一人二ピースまでしか購入できないものだ。その店は予約を受け付けておらず、わざわざ朝早くから並ばないとこのケーキは手に入れることが出来ない。
「特別ないちごを使っているとかで、いちごのショートケーキは買うのがすごく大変なんですよね」
「そうですね。開店の二時間前からお客さんが並んでいて驚きました。私は十三番目で残り二つだったのでギリギリでしたね」
「……ランベルト様が自ら並ばれたのですか?」
ぱちりと目を瞬かせながらエレオノーラが問いかけると、「はい」と肯定された。
「婚約者へ贈るものですから、当然のことです」
迷うことなく断言して、彼は目元を和らげる。
「お召し上がりください」
そう勧められて、エレオノーラはぎゅっと唇を引き結んだ。そうしないとだらしなく緩みそうだったから。心がほわほわして、にやけてしまいそうになるのを必死で堪える。
エレオノーラのために、きっと女性ばかりの中、彼は使用人に任せることもなく自分の時間を使って列に並び、ケーキを買って来てくれたのだ。こちらがお願いしたのではなく、彼の意思で。
「本当に、ありがとうございます」
嬉しくないわけがなくて、結局破顔してしまった。
それからは、いちごのショートケーキがエレオノーラの一番の好物になった。ランベルトは他にも菓子や装飾品をたくさんくれたけれど、いちごのショートケーキは定期的に、最低でも月に一度は持ってきてくれた。
ハルトヴィヒと違い、エレオノーラをどこまでも気遣ってくれる少年。
格好良くて、真面目で誠実で、剣の実力も確かで。優しく接してくれる彼に、エレオノーラは彼に惹かれていることを自覚していた。
この人と添い遂げるのだと少しずつ実感も湧き始め、待っているはずの明るい未来に胸が躍った。