17.第四章一話
五年前。
クラウスが聖騎士団に入団して三年と少し、リーゼロッテの専属護衛に任命されて一年も経っていない春の事。当時まだ十一歳だったリーゼロッテは、一通りの教養は身につけていたものの、魔法と神聖術がなかなか上達せず、訓練に励んでいた。
同年代の子供たちと比べるとかなり卓越した技術があったし、リーゼロッテ本人も周囲の人間もその事実をはっきりと認識していた。けれど、それまでの成長速度と比較すると、最近は魔法も神聖術も実力が伸び悩んでいるのは、否定できないことだった。まるで才能ある者とない者を明確に線引きする、上級者に上がる前に途中でぶちあたる、高く厚い頑丈な壁に阻まれているかのように。
「……」
訓練場の段差に腰掛けて両の掌を見つめ、ため息を吐く。リーゼロッテの魔法の師は気にすることはないと言ってくれたけれど、どうして上達しないのかと焦燥感が渦巻いて、歯痒くて、表情が僅かに歪んだ。
「リーゼロッテ様」
気落ちしているリーゼロッテの名前を呼んだのは、この約十ヶ月でそばにいることにも慣れてしまったクラウスだ。目線を合わせるように傍らで片膝をついている。
「焦らず、ゆっくり訓練していけば大丈夫ですよ」
「……神聖術は私以外使えないじゃない」
瘴気と魔物に一番効果的な神聖術。神聖力を使うその術は、他の誰かから習うこともできない。だから、教会に保管されている神聖術について書かれている本を参考に、魔法と似ているそれを工夫しながら自力で習得していくしかないのだ。
そうこうしている間にも、瘴気や魔物による被害は世界のどこかで起きている。それは一箇所に留まらず、何十、何百、何千という場所が被害に遭遇しているのだ。
シュトラール教会が、ジークムントが、帝国からも他国からも、早く聖女を実戦で使えるように成長させろとせっつかれているのは知っている。聖水を生成する量も、もっと効率的に増やせるようにしろと。
それで焦るなとは、到底無理な話だ。クラウスもそのことを察していないはずがない。
「焦らずとかゆっくりとか、簡単に言わないで」
この頃のリーゼロッテはクラウスのことを受け入れていなくて、当たりも強かった。それでもクラウスは文句の一つも言わず、誠実に仕えていた。リーゼロッテのためを思って、色々と助言もしてくれる。
「神聖力の扱い方が魔力と似ているのは事実です。それなのに上手くいかないのは、リーゼロッテ様のお気持ちの問題ではないでしょうか」
「気持ち……?」
やる気がないとでも言いたいのかと訝しげに眉を寄せて睨むように視線をやっても、クラウスは態度をまったく変えない。生意気だとか、不快だとか、そのように感じている様子は微塵もなかった。
「リーゼロッテ様は、魔法をお使いになられる際も、お力を抑えておられますよね?」
「!」
「恐らくご自身のお体をお気になさってのことでしょう。しかし無意識に、更に制御しておられるのだと思います」
的確な指摘に目を見開いたリーゼロッテは、ぐっと拳を握りしめた。
否定したいけれど、思うところはあるのだ。
「神聖力の扱いは魔力の扱いと似て異なるもの。魔法よりも神聖術の方が発動が難しく、体への負担も大きい。無意識に制御していては、思うように効果が得られないのでしょう。どれほどお力を使えば限界なのか、おわかりになりませんか?」
「……たぶん、わかると思うわ」
きっとわかる。自分のことは自分が一番よくわかる。魔力を、神聖力をどれほど消費したら倒れるのか。どの魔法や神聖術を何回発動させたら倒れるのか。使う前に大体わかる。限界に近づけば近づくほど、その境界線は明確になっていくはずだ。
「でも、もし間違っていたら……」
確信に近いほどわかると思っていても、万が一があったら。己の底を測れず、大丈夫だと高を括り、限界を超えて力を使って――もし、倒れてしまったら。
それはリーゼロッテに自覚が足りないゆえの失態なのに、責任を問われるのは、非難されるのは、周囲の者達だ。リーゼロッテの身の回りのことについての最高責任者であるジークムントは、特に糾弾されることになるだろう。周囲は聖女の成長を急かしているくせにそれを棚に上げ、教会ばかりを理不尽にも責め立てるだろう。なぜ聖女に無理をさせたのか、と。それが怖い。
「そんなにギリギリまで、頑張らなくとも良いのですよ」
恐怖を宥めるような落ち着いた声が、リーゼロッテの意識を暗い思考の海から引き上げる。
「毎日毎日、限界寸前まで力をお使いになる必要はありません。余力は残しておかなければ、疲労が蓄積していく一方です。確実に大丈夫だと自信を持てるところまでで充分なのです」
普通の聖職者であれば、それも許されるだろう。
けれどリーゼロッテは、世界で唯一の聖女なのだ。
「聖水の数は、全然足りてないわ。他国からもたくさん供給要請が来てるって、知ってるの」
「そうですね。ですが、リーゼロッテ様のお体が一番です。ご無理をなさる必要はありません」
「……私の体が丈夫だったら……せめて普通だったら、もっとたくさん聖水も作れて、瘴気の浄化も多くできたはずよ。その遅れを取り返さないと」
「そもそも長く、三百年以上も聖者は現れませんでした。その間、人々は自分たちの力で世界を保っています。これは人類の問題であり、聖女だからと、リーゼロッテ様が一人で背負い、負担を強いられることではありません」
「っ……でも」
「リーゼロッテ様」
まっすぐに、真摯な紫の双眸がリーゼロッテを射抜く。
「どうかご自分のことを、もっと大切になさってください。――聖女である前に、貴女は一人の、ただの女の子なのです」
それを聞いた瞬間、リーゼロッテは全身の血が沸騰したようにカッとなった。頭のてっぺんまで、体中が熱を持つ。怒りが体の内で荒れ狂う。
「そんなこと、貴方に……っ」
言葉を切って、ぐっと唇を引き結ぶ。
(貴方にだけは、言われたくない)
吐き出してしまいそうになった思いを呑み込んで、やり場のない怒りを抑えるために拳を強く握った。ふるふると激情のままに震える拳は、リーゼロッテにこれほどの力があったのかと驚くほどだ。
「リーゼロッテ様」
名前を呼んでリーゼロッテの意識を自身に向けたクラウスは、悲痛な面持ちをしていた。
「どうか、お願いです」
「クラウス……?」
「ご自分を第一にお考えください」
嘘偽りのない、心の底からの叫びのように感じられる。あまりにも必死で、切実な表情だ。
「猊下も、それを望んでおられるはずです」
懇願されている。他のことなんか投げ打ってでも、どんなことがあろうとも、何よりも己を優先し、大事にしてほしいと。リーゼロッテが無視できるはずもない叔父の名を出してまで訴えている。
(貴方は)
眼前で跪く彼は、本当は何を望んでいるのだろう。
リーゼロッテには、それがわからなかった。
◇◇◇
「……リ……さま……――リーゼロッテ様」
顔を覗き込まれ、リーゼロッテはハッとした。赤みがかった茶髪から覗く琥珀色の双眸が、間近でリーゼロッテを映している。
「どうしたんですか? ぼーっとして。やっぱ眠いんですか?」
「近すぎだ、ダニエル」
ずいっと顔を近づけて遠慮なくずけずけと聞いて来たのはダニエルだ。そんなダニエルの団服を掴んで後ろから引っ張りながら、ルードルフが嗜める。
「あ! 護衛がクラウス先輩じゃないからテンション下がってるんですか?」
「ダニエル」
清々しいほど遠慮をどこかにやっているダニエルに、ルードルフはため息を吐いた。
ダニエルの言う通り、いつもそばに控えているクラウスの姿はこの場にはない。今日は自ら進んで仕事を休まないクラウスが強制的な休みを取らされているため、リーゼロッテの護衛はこの二人が担当している。
シュトラール教会では週休一日制が導入されており、基本的に週に一日は休みが与えられている。
クラウスは六年もの間、自身にそんなものは必要ないからリーゼロッテのそばにいると頑なに訴えているが、聖騎士だけでなく誰であっても、体が資本。疲労が蓄積されては本来発揮できる力も出せなくなるし、自由な時間が少なければモチベーションも下がる。そのことを熟考された制度なので、聖騎士団の中でもトップクラスの地位にいるクラウスには進んで休みをとって見本になってもらわねば困るのだ。譲れないのはこちらも同じ。
それに、常にリーゼロッテのそばに控える護衛は最低でも二人が基本。最低でも、である。外出時を除きクラウスが護衛の時に一人なのは、その実力を考慮してのことで本来の形ではない。その分負担も大きいと思うのだが、当の本人がけろっとしているのでなんとも判断が難しかったりする。それでも疲労は着実に積み重なっているだろう。
週一で休ませると「仕事ではなくあくまでプライベートでリーゼロッテ様の様子が気になっているだけです」と、休みの日でも勝手に護衛としてついてくるのだ。仕方なく月一の休みで妥協したし、譲歩させた。
「少し考え事に集中しすぎていたみたい。ごめんなさい」
「別に謝罪はいらないですけど」
そう言ったダニエルはルードルフに軽く頭を叩かれ、「いてっ」と顔を歪めた。
「礼儀を弁えろ。まったく」
「はーい。すいません」
「謝る相手は俺じゃないよ」
「すみません、リーゼロッテ様」
渋々リーゼロッテに謝罪の言葉を口にしたダニエルは、「でもリーゼロッテ様はそういうのあんまり気にしないですよね?」と続け、またもやルードルフに後頭部を打たれていた。
学ばないというか図太いというか。外では割としっかりしているのだが。
「そろそろ準備が終わるみたいなのでキリッとしてくださいね」
「ええ」
今は午前の聖水作り作業の途中だ。今日はリーゼロッテの調子が良く、いつもより量が作れそうだということで、追加分の水を用意してもらっている。束の間の休憩時間である。
そんな少しの時間に考えてしまったのはクラウスのこと。周りにクラウスのことを言われすぎて、どうしてもふとした時に頭に浮かぶ。
「これくらいでよろしいでしょうか」
水の入った大きな壺が二つ、新たに用意された。司教に「ええ」と答え、早速作業に取り掛かる。
目を閉じて視界を遮断し、意識を集中させる。手足のように扱えるようになった神聖力を、なるべく体に負担がかからないように注意しながら水に込めていった。
『確実に大丈夫だと自信を持てるところまでで充分なのです』
全ての作業を終えて息を吐いたところで脳裏を過ぎったのは、いつかのクラウスの言葉。
(違う)
どれほど勘違いしそうな言動であっても、自惚れたりしない。クラウスは聖女だからリーゼロッテを気にかけている。そこに特別な感情はないのだと、自分の心に言い聞かせた。
『聖女である前に、貴女は一人の、ただの女の子なのです』
例え、あれが本心のように見えたとしても。
(そう見えるところが、あの男の酷いところなのよ)
本心でありながら本心でない。結局は聖女という地位にある人間の心配をしているに他ならない。
そんな男だと知っているから、絶対に勘違いなどしないのだ。
「お疲れ様でございます、リーゼロッテ様。体調の方はいかがですか?」
神聖力を込めて聖水を完成させたリーゼロッテを、司教が気遣わしげに窺う。調子が良いとはいえ、リーゼロッテの虚弱体質を知っているからこそ、やはり心配になってしまうらしい。本当にリーゼロッテの周りは過保護な保護者ばかりだ。
「問題ないわ。……まだ余裕はありそうだけれどここまでにしましょう。午後は様子を見ながら予定通りに。とりあえずあとはお願い」
「はい。お任せください」
司教としても、これ以上続けさせるつもりはなかったのだろう。リーゼロッテから終了を告げられて明らかにほっとした様子を見せている。こうもわかりやすい反応をされると虐めたくなるのだけれど、さすがに可哀想なのでやめておく。
聖水の管理等、他のことは司教に押し付け、リーゼロッテ達は部屋を後にした。
自室に戻る途中、廊下でばったりジークムントと出くわす。その瞬間リーゼロッテの表情が輝き、ジークムントも目元を和らげた。
「ロッテ、よかった。ちょうどロッテのところに行こうと思ってたんだよ」
「まあ。嬉しいです、叔父様」
てくてくと歩み寄ったリーゼロッテは迷わずジークムントの腕に手を絡め、ジークムントも温かい表情で受け入れた。あと一時間もしないうちにジークムントは仕事で出なければならないので、会えたことをお互いに嬉しがっている。
ジークムントのエスコートを受け、会話を弾ませながらリーゼロッテの執務室に着き、護衛達は外に残して二人で中に入った。応接用のテーブルを挟み、向かい合ってソファーに腰掛ける。
「それで、叔父様のご用は……婚約者の件ですか?」
「うん、正解。釣書は全て目を通したかい?」
「一応は」
ハンナから渡された物は、すでに全部確認済みだ。
「で、どうだった?」
「そう聞かれましても……」
頬に手を添えながらの困ったようなリーゼロッテの微妙な返答に、形の良い唇は「ふむ」と零した。
「君のお眼鏡にかなう者はいなかったようだね」
「まあ、ただの情報と写真だけですし」
紙に記されているだけの情報。そこに嘘はないだろうけれど、文字や写真でしか知らないのと、面と向かって会話をして知るのとでは、印象がかなり変わってくるはずだ。
聖騎士は直接の接点があるから知っているけれど、彼らは夫候補として、リーゼロッテの中での順位は低い。
「叔父様が選んだだけあって見た目はそれなりに私の好みの人ばかりですが、聖騎士以外は実際にお会いしてみないとなんとも」
「何人かは会ったことがある者もいるはずだけど」
確かにそんな記憶はある。聖女として成人式や洗礼式に参加することはあるし、夜会にも少しの時間ではあるが年にいくつか出席しているので、その時にでもちらっと見かけたことがあるのだろう。しかしはっきり覚えている者は誰一人としておらず、なんとなくという感覚しかなかった。
「好みでもパッとしないと言うか……叔父様の美貌に霞んでしまいますから、あまり印象に残らないと言いますか」
悪気などない。リーゼロッテはただ正直に、感じたことを口にしただけである。気を遣わなければならない相手がいないので、欠片も取り繕っていない本心を吐露した。それだけのことなのだ。
リーゼロッテ自身も周囲も、類を見ないほどの美形の集まり。その中でも群を抜いているのがリーゼロッテと、リーゼロッテを溺愛してやまないジークムントだ。常日頃からいっそ恐ろしいほどの美貌を間近で目にしている上、元々美しいものが好きなのだから、人の容姿について厳しくなってしまうのは必然と言える。
「はは。いっそのこと僕と結婚するかい?」
「それも面白そうですけれど、さすがに無理ですね。叔父様は叔父様ですもの」
「うん。頷かれたら僕も困るところだったよ」
もちろん冗談で言い出したことで、リーゼロッテも真に受けていない。
リーゼロッテとジークムントがお互いを愛し合っていることは紛れもない事実だが、そこに男女としての恋愛感情は一切ない。リーゼロッテにとっては兄のような、ジークムントにとっては娘や妹のような、そんな家族愛が存在しているのだ。
その家族愛が尋常ではないほど重いのだけれど、一方的ではないし受け入れられているので問題はないだろう。
「そもそも、法律的にも無理だしね」
特に血統を重んじる王族や貴族は近親婚が当たり前の時代もあったが、今は三親等以内の血族の婚姻は法律で禁じられている。つまり叔父と姪にあたる二人は婚姻を結ぶことが許されないわけだ。
「それにしても、引き合いに出すのは僕なんだね」
ぴくりと、リーゼロッテの指先が意思とは関係なく勝手に反応した。
「他に、最大の理由がいるだろうに」
「……」
アルフレート達に続き、ジークムントまで突っ込んできた。みんなしてなんなのだと、リーゼロッテの中で苛立ちが募っている。
核心を突いた指摘だからこそ、嫌で仕方ないのだ。
「そこは詮索しないでくれるのではなかったのですか」
「君が本当にそれでいいと思っているならね」
青い瞳が、正面からリーゼロッテを映す。探るような厳しさを帯びた視線だ。
大好きな色。その瞳はいつも優しくリーゼロッテを見つめ、安心感を与えてくれる。それなのに今はばつが悪い心地で、全然落ち着かない。胸中を見透かされているような感覚だ。
「いいのかい? このまま婚約者を決めてしまって。――君が求めている男は、あの中にはいないのに」
諭すような声音で、叔父は尋ねる。
その男の釣書はない。しかしそれは、他ならぬリーゼロッテの望み通りだ。叔父はその選択を受け入れてくれたはずだ。
「私が求めているのは、お互いに『幸せ』を与えられる相手です」
そこは、何よりも譲れないこと。
「彼は、それをくれる人ではないので」
だって、前がそうだったから。
人は簡単には変われない。リーゼロッテがクラウスに惹かれてしまったのと同じように、彼もまた――きっと、前世と同じ性質の人間だ。そのはずなのだ。