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15.第三章四話



 侍女達がてきぱきと紅茶の準備を進め、あっという間にリーゼロッテの前にティーカップが置かれた。まずはそれを一口飲み、満足げに唇に弧を描く。マルセルやハンナほどではないにしても、こちらの侍女も紅茶をいれる腕がいい。無駄な渋み等はなく、リーゼロッテの好みに合わせた完璧な入れ方だ。


「ツェツィー様の侍女は相変わらず優秀ですね」

「……わたくしの侍女達ですもの」


 拗ねていたツェツィーリエがほんのりと頬を染めた。自慢の侍女達を褒められて嬉しかったようだ。


「入口から見させていただきましたが、花が見事に咲いていますね」

「そうでしょう? 特に品種改良が重ねられた薔薇が綺麗で、ぜひ見ていただきたかったんです」


 にっこりと笑った彼女の機嫌が直ったようで、リーゼロッテも目元を和らげる。

 皇宮で特別な品種改良が行われている薔薇は、花弁の綺麗なグラデーションが特徴の貴重な薔薇だ。アルフレートを含め、皇族がよく教会に贈ってくれるので、リーゼロッテも慣れ親しんだものである。


「突撃の脅しまでかけるのは些か過剰では?」

「まあ。聖女様に対してそのような不敬極まりないこと、手紙に書いてしまっていましたか?」


 ツェツィーリエは頬に手を添えて軽く首を傾げて恍ける。のほほんとした空気を纏っていながらも心底楽しそうだ。


「帝国の未来は安泰そうで安心します」

「ふふ」


 貴族という名の魑魅魍魎が跋扈する社交界で生き抜くのも、国民のためと語りながら私利私欲に溺れた権力欲の塊のような輩が存在する政界も。疑うことを知らない善人では足元を掬われ、到底結果を残すことはできない。民に寄り添う心も、他者のためを思って行動に移せる実行力も、それを可能とする知識や力量も大事だけれど、狡賢さだって必要だ。

 為政者がどれほど心を砕いても、結果に結びつかなければ民にとっては何もしていないことと同義なのだから。

 彼女は紛れもなく善人である。皇族の一員である以上、心優しいだけでは頼りないけれど、狡猾な一面も図太さも持ち合わせている女性だ。善だけに染まりきっていない善人。

 いい妃だと、リーゼロッテは思う。さすがはあの従兄が選んだ人である。帝国の未来を憂うことはなさそうだ。


「そういえば、街で不届き者に攫われそうになったとお聞きいたしました。お怪我のお話は伺っておりませんけれど……」


 桃色の双眸が、負傷していないかとリーゼロッテを観察する。仮に怪我をしていたとしてもその日のうちに魔法で治すであろうことくらい、彼女もわかっているはずだ。それでも心配してしまう気持ちがどうしてもあるのだろう。


「ご心配なく。怪我一つなく無事ですよ。あの程度の輩、クラウスが一瞬で倒してくれました」

「まあ。さすが『氷の聖騎士』様ですね。……ここは『聖女の番犬』の方が相応しい表現でしょうか?」

「お好きなように」


 どちらの呼び名であってもクラウスを指していることに変わりはないし、大した違いもない。


「――ツェツィー様」


 並べられたお菓子の中からチョコレートを一つ掴むと、澄んだ金の瞳で、リーゼロッテは向かいに座るツェツィーリエを射抜いた。


「事前に手紙でもお知らせした通り、残念ながら、本日はそれほど時間をとれたわけではありません。聞きたいことがあるのでしたら遠慮なくどうぞ」


 言い終えて、リーゼロッテはチョコレートを食べた。口の中に広がる甘味に頬を緩ませる。


 このお茶会は、リーゼロッテの普段の休憩時間も兼ねたものとしての扱いになっている。その分時間の確保が多めに取れたとはいえ、やはり十分とは言えないだろう。

 それでもいいからとこの場は設けられたのだ。ツェツィーリエも世間話など長くできないと承知しているので、本題を切り出す。


「リーゼロッテ様が、婚約者をお探ししていると耳にしました」

「はい」

「なぜですか?」


 不可解だと、綺麗な顔全面に出ている。


「リーゼロッテ様は、クラウス様のことがお好きなのでしょう?」


 迂遠な言い回しはせず、思わず否定したくなることを真正面から直球に訊かれるも、リーゼロッテは表情を変えず、将来この国を背負う一人となる皇太子妃に本心を読ませないままただ無言を返した。けれど。


「そのドレスだって、クラウス様の瞳の色を意識しているのではないのですか?」


 その指摘には、僅かに動揺が出てしまったことだろう。


 聖女としてのイメージを崩さぬよう、ドレスから装飾品まで、リーゼロッテが身に纏うものには一つ一つ気が配られている。教会の象徴的な色が白と金なので、特にその二色が使われているものや黄色のものを多く身につけるようにしている。

 個人的な好みで言えば、もっと暗めの落ち着いた色が好きだ。


 普段はハンナ達に任せてばかりだけれど、たまにリーゼロッテの希望でドレスや装飾品を決めることもある。気分次第と言わざるを得ないけれど――今日は、ハンナ達が示した数着のドレスの中から、リーゼロッテが思いつきで選んだ。

 あの、リーゼロッテを第一に考える聖騎士の瞳よりも淡いけれど、同じ系統に属する色。今まさに着用しているこのドレスを選んだ時の心境は、一体どのようなものだっただろうか。


「ドレスは偶然です。紫のドレスなんて持っている中では少ないですし」


 つまり、他の色と比べると着る機会も少ないということだ。事実ではあるけれど、白々しい誤魔化しでもある。現にツェツィーリエの瞳は怪訝そうにこちらを映している。


「ただ――クラウスへの気持ちについては、否定はしません」


 だからジークムントも、クラウスはどうかと薦めたのだろう。あのジークムントがリーゼロッテの気持ちに気づいていないはずがないのだから。

 リーゼロッテの胸の中にあるその感情は、紛れもない。


「でしたら」

「けれど、嫌いでもあります」


 その発言に、ツェツィーリエは目を丸めた。


「あれは盲目的なほどに聖女を敬愛し、忠誠を誓っているだけですよ。そういう性質の人間なので」

「そのようなことは」


 ないはずです、と続けようとしたツェツィーリエだったけれど、リーゼロッテが悲しそうに眉尻を下げたのを認識すると口を噤んだ。ツェツィーリエよりも年下のはずなのに、まるで人生経験を多く積んできた者のような――数々の修羅場を経験したかのような、諦観した雰囲気だったから。


「彼の主君への忠誠は、個人ではなくその立場の者に向けられています。そうですね……例えば、私以外に聖者が現れたとして、私の聖女の力が衰えて引退したとしましょう。その時、彼は一切の躊躇もなく、私ではなく二人目の聖者の専属護衛に名乗り出ます。今の彼の忠誠は『聖者』に対するものですから」

「……そんなこと、わからないでしょう?」

「いいえ、わかります。あれはそういう男です。――何年にも渡る絆より主人たる存在への忠誠をとる、忠誠心の権化」


 伏せられた金の目に翳りが宿る。

 嫌と言うほど知っているのだ。優しい彼がいかに残酷なのかを、ただ想像しているのではなく()()()()から。


「我ながら不思議で仕方ありません。どうしてそんな人を好きになってしまったのか。――彼は決して、『私』を愛してはくれない」


 どんなに想っても、彼は同じ想いを返してはくれない。好きになればなるほど、悲しみを深く心に刻まれるだけ。痛みを与えられるだけだ。


「だからこそ、早く諦めたいんです。私はツェツィー様やフェルディナント兄様みたいに、愛し合っている夫婦関係を築きたいので」


 愛に溢れる家庭に、リーゼロッテはずっと憧れている。

 ジークムントやツェツィーリエ、そして従兄達も、リーゼロッテを家族として随分可愛がってくれているけれど、それだけでは満足できなかった。きっと自分は我儘で貪欲なのだと、リーゼロッテは自覚している。

 夫婦という関係性が羨ましい。ただの名目上の関係ではなく、お互いを愛し、信頼し、尊重している夫婦が。誰かの唯一になりたい。そして自分の唯一が欲しい。それがリーゼロッテの描く幸せ。

 ジークムントとの関係性とは異なる、唯一に対する憧れ。

 女性なら誰もが憧憬するあの聖女と聖騎士の物語のような純愛を、理想の家庭を、ずっとずっと遠い昔から切望していた。普通の少女のように。


「見込みのない一方通行な想いは、ただ辛いだけですよ」


 紅茶の水面を見ながら呟くように零したリーゼロッテの声は、悲しみを帯びているようで、しかし淡々と、感情が込もっていないようにも感じられるもので。


(……貴女にはわからないでしょうと、言われているみたい)


 被害妄想かもしれないけれど、ツェツィーリエはそう受け取ってしまって、胸がつきりと痛んだ。返す言葉が見つからなくて、何も言えなかった。


 気まずい空気が流れる中、温室に新たな客がやって来た。扉が開く微かな音に反応して入り口の方に視線をやったリーゼロッテにつられ、ツェツィーリエもそちらに顔を向ける。

 こちらに歩み寄ってくるのは二人の人物。一人は皇族の血が濃い証である混じり気のない漆黒の髪と深緑の瞳を持つ、大人の色香だだ漏れの美丈夫だ。もう一人はそんな彼とまったく同じ色を持ち、顔立ちもよく似た、彼より僅かに幼い印象の美青年である。


「ルディ様、アルフレート様」


 彼ら――気品漂う兄弟の愛称と名前を真っ先に呼んだのはツェツィーリエだった。

 リザステリア帝国の皇帝の息子達、皇太子フェルディナント・オーラフ・リザステリア・ヴィルケラントと、第二皇子アルフレート・アヒム・リザステリア・ヴィルケラント。リーゼロッテの従兄達である。


 フェルディナントはツェツィーリエが腰掛けている椅子の背もたれに手を置くと、最愛の妻を優しく見下ろして甘い笑みを浮かべた。


「ツェリ、今日も一段と綺麗だな」

「もう……」


 人前で堂々とそんな台詞を向けられて頬を染めたツェツィーリエだったが、つむじに口付けが落とされると更に真っ赤になった。「ルディ様!」と淑女らしからぬ大声を上げ、はっとした後に咳払いをする。

 そんな様子を見ながら隣にやって来たアルフレートをリーゼロッテは見上げ、視線が絡むと揃って苦笑を零した。


 隣とはいえ国が違うので婚約期間はなかなか頻繁に会うこともできず、本格的な花嫁修行ということで結婚前にツェツィーリエがリザステリアにやって来て以来、この光景は周囲の者にとって日常茶飯事となっている。格式ばっていない場で現状のように身内しかいないとなると、フェルディナントの遠慮はほとんどなくなるのが常態だ。

 自重してほしいけれど、羨ましくもある。リーゼロッテの憧れの関係性。実際に自分がツェツィーリエの立場になれば、人前で毎度こんなことをされたらさすがに本気で怒ることがあるとは思うけれど。従兄夫婦のお互いを想い合う在り方は、まさに理想に近い。


 若い夫婦の微笑ましい戯れを静かに見守っている義理の従妹と義弟を視界の端に捉えているツェツィーリエは、照れ隠しで冷たさを帯びた声を夫に放つ。


「お仕事はどうなさったのですか?」

「休憩だ。リーゼが来ているというのだから、私達も来ないわけにはいかないだろう?」


 そこでようやく、フェルディナントは向かいに座るリーゼロッテと目を合わせた。自身の妻に向けている時のような甘さはないものの、優しさや親しみが込められている温かな眼差しだ。


「久しぶりだな、リーゼ。相変わらずの麗しさで従兄として私も鼻が高い。もちろんツェリには負けるがな」

「ありがとうございます、フェルディナント従兄(にい)様。相変わらずラブラブなようで羨ましい限りです」

「当たり前だろう。今日は私の朝が早くて朝食が別だったからな。ツェリ不足なんだ」


 締まりのない顔をツェツィーリエにぐっと近づけるので、またもや耳まで真っ赤な妻から注意を受けている。その時間さえも愛おしいと言わんばかりにデレデレしており、また怒られていた。仲が良いのはいいことだ。

 身内しかいないから好き放題というか、本当にフェルディナントの態度がだいぶ砕けすぎていて、皇太子としての威厳が欠片もない。

 リーゼロッテが皇宮にいるなら従兄として皇太子として挨拶をしなければ、という言い訳で押し切り、仕事を抜け出して来たのだろう。もちろんそれも理由の一つではあり嘘ではないはずだけれど、妻に会いたかったというのが最大の理由であることは一目瞭然だ。隠そうともしていないところがいっそ清々しい。


「アルフも久しぶりね」

「うん、そうだね。会えて嬉しいよ」


 アルフレートは片膝をつくと、レースの手袋に覆われたリーゼロッテの手を取って甲にキスをした。それからにっこりと笑顔を見せる。

 女性の手の甲へのキスは、この国では家族や親族、親しい間柄の男性が行う挨拶だ。とはいえ、毎度律儀にこのような挨拶をする必要もないと思うのだけれど、そう伝えてもアルフレートは聞き入れてくれない。

 親愛だけではなく忠誠心を示す手段の一つでもあるが、リーゼロッテは親しくもない他人に触れられるのは嫌いだし、不快感を覚える。元々身内以外と直に接する機会はあまりないので、忠誠心関連でリーゼロッテの手の甲にキスをした者はそう多くない。ほぼ毎朝クラウスがするあれも、付き合いが長いから慣れて受け入れているだけだ。


「体調は変わりない?」

「大丈夫よ。昔ほど柔じゃないって、アルフも知ってるでしょう?」

「でも、聖女の仕事は何かと忙しいし、君は頑張りすぎるところがあるから。一昨日は何やら絡まれたって聞いたよ」


 心配の滲んだ困ったような笑みを向けられると、なんとなく申し訳ない気持ちになってくる。

 リーゼロッテの聖女としての行動心理は、ジークムントが要因となっている。大好きな叔父の期待に応えたい、褒められたい。そんな欲念から、気をつけていながらも無茶をしてしまいがちなのだ。リーゼロッテ自身にその自覚はあるし、アルフレートもそれをよく理解していた。


「問題なく収束したし、仕事はできる範囲でしかやってないわ」

「倒れそうになってからようやく自覚してやめたりするようなことはなしだよ?」

「……たぶん大丈夫よ」


 思わずふいっと顔を背けると、誤魔化しは見逃さないと言わんばかりな声音で「リーゼ?」と名前を呼ぶことで詰められる。誰もが見惚れるであろう美麗な顔に浮かべられているのは笑顔なのに、その実笑っていない。


「クラウスや叔父様が前もって止めるもの」

「そうなる前に、自重しないと駄目だよ」


 す、と。立ち上がったアルフレートの親指の腹が、リーゼロッテの頬を滑る。くすぐったさに目を細めれば、過保護な従兄は眉尻を下げた。


「リーゼに何かあったら、私だって悲しいからね。それをもっとわかっていてほしい」

「……そう、ね」


 知っている。大切にしてくれているのはジークムントだけではない。聖女だからではなく、リーゼロッテだからこの身を案じてくれる人が、当たり前のように身近にいる。それはとても幸せなことだ。


「善処します」

「うん。まあいいかな」


 仕方ないと、アルフレートは今度は褒めるように優しく目元を和らげ、リーゼロッテの頭をそっと撫でた。



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