14.第三章三話
皇太子妃とのお茶会の日。リーゼロッテは淡い紫のドレスを身につけ、用意されている馬車へと向かっていた。
三日前の魔力暴走の件のように、リーゼロッテの外出にはクラウスの他にも近衛隊から選ばれた護衛の聖騎士がつく。移動距離や道中の治安などを考慮して人数が決められるのだが、今回のように聖女としての公務ではなく私的な招待で皇宮に向かう際は、クラウスを含めて計四人体制が基本だ。つまり三人増える。
常に行動を共にするのはクラウスのみで、御者としての役割もある馬車での移動以外の場面だと、他三人は待機中の馬車や馬の護衛の意味合いが強い。手厚く守られているリーゼロッテ本人ではなく、そちらに細工がされて危険が及ぶ可能性も充分にあるためだ。もちろんその時々の状況によって例外的な配置もある。
教会関係者用の門の近く。教会の紋章が刻まれている馬車の前に並んでいた聖騎士三人が、リーゼロッテに気づいて深く一礼する。
クラウスも含めたこのメンバーだと最年長の、馭者も担うルードルフ。数は多くない女性聖騎士のグレーテ。十八歳で一番リーゼロッテと年齢が近いダニエル。
見知った顔ぶれに、リーゼロッテは表情を緩めた。
「よろしくね」
「「「はい」」」
挨拶を終えると、ルードルフが馬車のドアを開けた。リーゼロッテはすぐには乗らず、金色の装飾で彩られた白い大きな箱を、ただただ無言でじっと見据える。
繋がれているのは訓練された馬達で、賢い上に大人しく勇敢だ。聖騎士達にもリーゼロッテにも、とても懐いている。
いつも乗っている馬車に、いつものメンバー。心配することなど何もないのだと、頭では理解しているけれど。前で重ねている手に無意識下でぎゅっと力を入れたところで――横から一歩、クラウスが前に出た。
振り返ったクラウスは相変わらずの無表情だが、どこか穏やかなようにも見える。まるで安心させるように優しい眼差しでこちらを見下ろし、リーゼロッテに手を差し出した。
「お手を」
「……」
無言でその大きな手に自身の手を乗せると、不思議と落ち着く。ステップをしっかり踏んで馬車に乗り込み、進行方向に正面が向く方に腰をかけたところで、一人の馬車の中にクラウスも入って来た。
他二人は馬に乗って馬車を挟むように前後に配置されるが、クラウスだけは一緒に乗る。ジークムントや他の同乗者がいない場合はこのように必ずクラウスがいて、リーゼロッテが一人で乗ることは決してない。
「失礼します」
クラウスは向かいではなくリーゼロッテの隣に座り、リーゼロッテの手を包み込むように手を重ねた。変に入っていた力が抜け、ほっと安堵の息を零す。
リーゼロッテは馬車が苦手だ。しかしいつも、こうしてクラウスやジークムントが隣に座り、手を握って安心感を与えてくれるから、馬車の中でも落ち着くことができる。
冷え切っていたわけでもないのに、お互いに手袋をしていて直接触れているわけでもないのに、そこからじんわりと体の芯にまで温もりが広がった気がした。
それは良いことのように感じられるけれど、実際のところは複雑で、憎らしくて仕方がない。ジークムントであれば本当に余計な思考など生まれず、純粋に安心して、心底感謝を抱くのに。
(もう嫌だ、本当に)
己の主人のことをよく見ている聖騎士。その甘さは毒のようだ。じわじわと時間をかけて体を、心を、着実に侵食していく。支配していく。
甘やかすこの男に依存したくない。なのに彼は、簡単に逃してはくれない。無意識なのか意図的なのか、両方のようにも感じられるけれど、とにかくリーゼロッテは翻弄されまくりである。
馬車は苦手なのだと、理由は明かしていないもののリーゼロッテがその事実を直接伝えたのは、誰よりも信頼しているジークムントのみ。そしてジークムントに確認したところ、その話はクラウスだけでなく誰にも口外していないと言っていた。
クラウスはリーゼロッテを本当によく見ている。鋭い観察眼を持ち、一挙手一投足からリーゼロッテの気持ちをほぼ正確に理解し、気を配って動くことができる。だからきっと、自分で気づいたのだ。主人の苦手なもの嫌いなもの好きなもの、ほとんどを彼は把握しているから。
馬車そのものが嫌いで、一人で乗るのはもっと嫌で嫌で仕方なくて。クラウスが専属護衛となる前も、誰かしらを馬車に同乗させていた。それらの情報と自分の目で見た主人の様子から、リーゼロッテの馬車嫌いを推測したのだろう。
ジークムントも、リーゼロッテが申告する前に気づいていた。気づく人は気づくのだ。けれど彼には――クラウスにだけは、気づかれたくなかった。
彼の優しさは、リーゼロッテの中では残酷と同義だ。必要以上に優しくしてほしくないのに、大切にされていると実感し、嬉しいと思ってしまう。だからこそ胸が苦しく、ズキズキと微かな痛みを訴える。
突き放してしまえばいいのに。男らしく武骨で大きなその手を振り払ってしまえばいいのに。それができないのは甘えで、我儘で、欲で。捨てたいはずの本心を突きつけられ、また更に感情がぐちゃぐちゃになる。
これは紛れもない未練なのだ。嫌いになりたいのに嫌いになり切れない。嫌いだけれど嫌いじゃない。憎いのに愛おしい。触れたいと思ってしまう、触れてほしいと願ってしまう。こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのにと、ただただ甘やかしてくれる彼に今度こそと、愚かにも希望を見出してしまう。
(無駄だって、知ってるのに)
もう、己の強欲さと愚かさに自嘲するしかなかった。
人の感情は理屈ではない。傷つくだけだと頭では理解していても簡単になくなってくれない想いは、理屈と正論ではどうしようもなくて、悔しくて、悲しかった。
ぽすんと、隣にある肩に頭をのっければ、クラウスが息を呑んだのが気配でわかる。
「……肩、貸してちょうだい」
もう勝手に借りているけれど呟くように要求すれば、リーゼロッテには見えていないものの、それまで驚きに僅かに瞠目していたクラウスは柔らかく目を細めた。
「もちろんです」
あまりにも穏やかな声だ。断るはずがないと伝わってくる、絶対的な優しさと気遣い、慈しみが込められた声。耳によく馴染んでいる、いつも彼から向けられる柔らかな音。
リーゼロッテはそっと目を閉じて視界を遮断する。視界の情報がなくなると他の感覚が際立って、隣の頼もしい存在を殊更強く意識させられる。
左側が、とても温かかった。
同じ皇都内にある皇宮とシュトラール教会はそれほど遠くはないが、中心にある皇宮と違い、教会は第二区の中でも第三区の方に寄っている位置にあるので、とても近いと言えるほどの距離でもない。
整備が行き届いた道を進むこと十数分で皇宮に到着し、馬車が停まった。
リーゼロッテは先に降りたクラウスからまた差し出された手に甘えて後に続き、地面を踏んでゆっくり外の空気を吸う。それまでぐらついていた足元が安定したような、そんな気持ちになって内心ほっとした。
伏せていた視線を上げると、皇太子妃付きの侍女の制服を身にまとっている灰茶色の髪の女性と目が合う。
「久しぶりね、ビアンカ」
「お久しぶりでございます、聖女様」
深々と頭を下げて洗練された作法で挨拶をした彼女は、皇太子妃と共に隣国からやってきた、皇太子妃の侍女ビアンカである。
「ツェツィー様は元気?」
「はい。聖女様にお会いなさるのをとても楽しみにしておられます」
皇太子妃はなぜかリーゼロッテに懐いているので、ニコニコと待ち構えている姿が容易に想像できた。何がなんでも聞き出したいこともあるのだろうし、今か今かと義理の従妹の登場を待ちわびていることだろう。
「体調を考慮し、この場で出迎えられないことへの謝罪を言付かっております」
「いいのよ。大切な時期だもの」
安定期に入っているとは言え油断はできない。皇太子夫妻の子供は帝国民、そして世界中が注目しているのだから、用心に用心を重ねる必要がある。リーゼロッテは出迎えがないからと憤慨するほど狭量でも傲慢でもない。
「寛大なお心に感謝いたします。では、ご案内させていただきます」
ビアンカの先導で、リーゼロッテとクラウスは温室へと向かった。ルードルフ達は予定通り馬車のそばで待機だ。
皇宮には温室がいくつかあり、他の温室と比較すると小さめの皇太子妃お気に入りの温室にたどり着くには、立派な庭園を抜ける必要がある。教会の庭園も一流の庭師の手によって綺麗に整えられているが、こちらもさすがは皇宮の庭園だと賞嘆せざるを得ない出来栄えだ。
広い庭園を進み、数分で着いた温室の前で立ち止まる。温室の出入り口には団服を着た警備の騎士が立っていて、聖女の登場に彼らは体に緊張を走らせながらも姿勢を正して敬礼した。
リーゼロッテは軽く微笑んで挨拶を済ませ、くるりと己の護衛を振り返る。
「貴方はここにいなさい」
「ですが」
「中はツェツィー様と侍女だけのはずよ。心配はいらないわ」
確認するためにビアンカへ視線を向けると、「仰る通りでございます」と肯定された。
皇宮の中とはいえ警戒するに越したことはないけれど、皇太子妃がいる温室だ。警備は万全で、何か問題が起こるなんてそうそうないだろう。
仮に何かが起こるとしても、その原因は中ではなく外から来る。そうなった時、外の警備を突破されて温室の出入り口が塞がれてしまえば、増援を呼ぶのも難しくなるかもしれない。それよりはクラウスという最強のカードを外に配置していた方が、素早い対処が容易になる。
クラウスは中にいて出入り口を塞がれるという状況になったところで、あっさり突破してみせるだろうけれど。今回はとにかく彼を同席させたくないのだ。
「何かあったらすぐに呼ぶから、ここで待機してなさい」
「……承知いたしました」
渋々従ったクラウスを置いて、リーゼロッテはビアンカと温室に足を踏み入れた。
温室内には様々な植物が溢れている。皇太子妃お気に入りであるこの「花の温室」は、色鮮やかな花々が多く植えられているのが特徴だ。
通路を抜けた中心には開けた空間があり、テーブルと椅子、お茶会用の紅茶やお菓子がセットされていた。
その場にいたビアンカと同じ制服を着た侍女はリーゼロッテと目が合うと、腰掛けていた長いオレンジがかった茶髪の女性に声をかける。こちらに顔を向けた女性の桃色の双眸がリーゼロッテを映し、彼女は顔を綻ばせてゆったりと立ち上がった。
「いらっしゃいませ、リーゼロッテ様。お久しぶりですわ」
そう言って彼女――皇太子妃ツェツィーリエは、お腹を庇いながら優雅に軽く一礼した。
「ご機嫌麗しゅうございます、ツェツィー様。本日はお招きいただきありがとうございます」
「もう。そういう堅苦しいのはなしにしてくださいと、いつも言っているではありませんか」
気に入らないことがあった子供が拗ねた時のように、ツェツィーリエは可愛らしく唇を尖らせる。
「わたくしは皇太子妃ですが、リーゼロッテ様は聖女様なのですから。畏まるならわたくしの方ですわ」
皇太子妃よりも聖女の方が立場は上だ。それでもなお、リーゼロッテはある程度の丁寧な対応を崩さない。それは彼女が皇太子妃だからではなく、仲の良い従兄の妻であり、尊重しているからに他ならない。彼女もそのことは承知していながらも不満らしい。
「とにかく座りましょう。お体に障ります」
「わたくし、病人ではありませんよ」
なおもムスっとしたまま、ツェツィーリエは椅子に腰掛ける。リーゼロッテはテーブルを挟んだ向かいに置かれている椅子に座った。