11.第二章五話
今日の仕事を全て終えたリーゼロッテは、ジークムントの執務室を訪れていた。扉前に待機している聖騎士がリーゼロッテに一礼し、それからノックをすることもなく扉を開ける。リーゼロッテが来たらすぐ通すようにこの部屋の主人から言いつけられていたのだろう。
まず目が合ったのは、教皇補佐の司教だ。珍しい白寄りの灰色の髪に、これまた帝国では珍しい黒の瞳を持つ彼――マルセルは、ジークムントやハインツとは幼少の頃からの付き合いらしい。彼が愛用している丸いモノクルはハインツからのプレゼントだそうで、仲の良さが窺える。
マルセルはリーゼロッテの姿にホッとした様子を見せた。直撃しているどうしようもない大きすぎる問題を解決に導く救世主の登場に安堵したような、まさにそんな雰囲気だ。
「叔父様、お時間よろしいですか?」
クラウスを連れて執務室に入り、後ろで扉が閉まる音を聞き届けて声をかけた。すると俯き気味にのろのろとペンを動かしていたジークムントががばっと顔を上げ、青い双眸がリーゼロッテを映し出す。
「ロッテ」
ガタリと音を立てて立ち上がると、ジークムントはコツコツと靴音を鳴らして早足でリーゼロッテの元に来た。両手をリーゼロッテの頬に伸ばし、その存在を確かめるように触れる。
「怪我はないんだよね?」
「はい。クラウスもハンナもいましたので」
全てハンナから聞いているはずなのだが、リーゼロッテの無事な姿をその目で確かめられていなかった間、気が気ではなかったのかもしれない。
先程のマルセルの反応もこれで納得がいった。不成者の報告を受けてから、ジークムントの集中力が続かず、仕事に影響が出ていたのだろう。空気もどんよりしていたに違いない。時折ジークムントに当たられていた可能性も否定できない。
「申し訳ありません。もっと早く顔を出せばよかったですね」
しゅんとしているリーゼロッテの頭を、ジークムントは慰めるように優しく撫でた。
「いいや、構わないよ。僕もロッテも仕事がたくさんあるからね」
仕方ないと語る表情に、更に申し訳なさが募った。
多少――で収まるかどうかはわからないけれど仕事に影響が出ていたとはいえ、溺愛する姪が不成者に遭遇したと知っても、今回はジークムントにしては落ち着いている方だと断言できる。
しかし、理性を保って割り切っていられたのは、あくまでリーゼロッテが無事だったから。かすり傷の一つでも負っていたとすれば、ジークムントはあらゆる仕事を放り出して姪の元に駆けつけていたのだろう。リーゼロッテが逆の立場であれば絶対にそうするし、暫くは片時も離れたくないとくっついていたはずだ。
「とりあえず座ろうか」
このまま立ちっぱなしにさせるわけにはいかないとジークムントに促され、隣同士に並んでソファーに座る。すかさずマルセルが二人分の紅茶の用意を始めた。
「捜査は騎士団の方に任せたんだって?」
「皇都の治安は警備隊の管轄ですから」
不成者がリーゼロッテを聖女だと知っていて襲ったのなら教会側が大いに関与することになっていたが、そうではなかったのだから妥当な判断だ。
「うーん、まあ仕方ないね。口を挟む気満々だったけど、今回はやめるよ」
「懸命です」
やはり個人的に口出しをするつもりだったらしい。諦めてくれてほっと息を吐いた。ジークムントが手を出したらやりすぎるのが目に見えている。教皇が介入するとあちらとしてもやりづらいだろう。
「お仕事はまだ終わりそうにないのですか?」
「もうすぐ終わるよ。夕食の時間には間に合うから、一緒に食べようね」
「はい」
夕食は一緒だと約束をしてもらったことが嬉しいのか、リーゼロッテはニコニコと上機嫌だ。それから「あ」と手を合わせ、「叔父様、お渡ししたい物があるんです」と言ってクラウスの方に顔を向けた。クラウスが持っていた紙袋をリーゼロッテに渡す。
「それは?」
「お土産です」
受け取ったそれを、リーゼロッテはそのままジークムントに差し出した。
「雑貨店で見つけたので、お揃いで買っちゃいました」
「お揃い?」
「はい。お揃いです」
嬉しさを滲ませたリーゼロッテから紙袋をもらう。この紙袋はリーゼロッテがよく通っている女性に人気の雑貨店のものだと、ジークムントは記憶していた。
紙袋の中には箱が入っていた。箱を取り出してプレゼント用のリボンを外し、上の蓋を開けると、中に入っていたのはクリスタルガラス製のリーフトレイ。リーゼロッテが好きそうなデザインだ。
「とても綺麗だね。ありがとう」
端に載っている黄色の鳥に目を細め、お礼を告げる。リーゼロッテも楽しそうにそれに視線を落とした。
「私のはここがイルカなんです」
鳥の部分がイルカ。そこが別の生き物で種類がいくつかあるのかと、ジークムントは推測した。実際に当たっている。
他にも種類があるとして、全部が黄色だとはあまり考えられない。となるとイルカは何色なのか。
「なるほど。そのイルカは『青色』なのかな?」
どこか悪戯っぽさを孕んだ声音で尋ねられ、リーゼロッテはぱちりと瞬きをする。放たれた言葉とこちらを捉える海の色に示唆され、そのことに初めて気づいた。
「そうですね、普通の青より少し色素は薄いですけど……今回は完全に無意識でした」
「そっか。可愛いね、ロッテは」
「あら。そんなのはわかり切っていることでしょう?」
「ふふ、そうだね」
笑みを浮かべ、可愛い姪の頭を撫でる。
「大切に使わせてもらうよ」
「はい」
リーゼロッテは本当に、嬉しそうに笑う。少し照れたように、どこまでも可愛らしく。見ているだけでこちらまで幸せな気持ちになる笑顔だ。
「リーゼロッテ様、どうぞ」
紅茶が入ったティーカップとソーサーが、音もなくテーブルにすっと置かれる。
「ありがとう、マルセル」
「いえ」
人好きのする笑みを見せたマルセルは、続いてジークムントの前にも紅茶を置いた。いつも飲んでいるジークムントはあまり反応がなく、大切そうにリーフトレイを一旦箱にしまっている。意識が完全にそちらに傾いている。
「マルセルが淹れるのはなんでも美味しいわね」
「お褒めに与り光栄です」
ハンナに紅茶の淹れ方を指導したのは他ならぬこのマルセルだ。マルセルが淹れる紅茶をリーゼロッテがとても気に入っていたので、主人命のハンナが頼み込んで教えてもらったのである。
「次はブラックコーヒーにチャレンジしてみますか?」
「嫌よ」
好みはどうしようもないと、マルセルの提案はにべもなくいい笑顔で断った。苦いものは何をどうしても無理なのである。
外では完璧に振る舞う聖女様のその返答を予想していたマルセルは、おかしそうにくすっと笑みを零した。
「リーゼロッテ様はまだまだ子供ですねぇ」
「どうしても苦手なものって誰にでもあるでしょう」
むっと唇を尖らせ、リーゼロッテは拗ねていることを強調した。
いくらマルセルが淹れた世間一般で言えばとてつもなく美味しいと評価されるコーヒーであっても、リーゼロッテが美味しいと感じることは絶対にないことは判然としている。ミルクを入れても砂糖を入れても無理なものは無理で、けれどジークムントはコーヒーが好きなので、大好きな叔父の大好きなものを共感できないことが悲しい。
「無理に好きになろうとしなくていいよ」
食べ物や飲み物の美味しさや物事の楽しさなど、リーゼロッテと同じ感覚を共有できないのはジークムントとしても寂しいことだ。しかし、違う人間なのだから、こういったことはあって当たり前。申し訳なく思う必要などない。
「夕食までまだ少し時間があるし、ゆっくり休むといい。今日は疲れているだろうから」
「はい。叔父様も、あまりご無理はなさらないでください」
「わかっているよ。ロッテに余計な心配はかけたくないからね」
ふわりとその美貌で微笑む叔父に、リーゼロッテも目元を和らげる。
「では、失礼いたします」
立ち上がったリーゼロッテは優雅に一礼し、クラウスと共に退室した。残ったのはご機嫌にお土産の箱を眺める部屋の主と、付き合いの長い補佐だけ。
「まるで恋人のようですね、相変わらず」
「そう言われると嬉しいよ」
それほど周囲から見てもわかりやすいほど仲が良いということなので、嫌な気分にはならない。世の娘を持つ父親の気持ちとは、今まさにジークムントが抱えているそれと酷似しているのだろう。
お土産は執務室か自室か、どこに置こうかと思案する。
リーフトレイの葉の部分は緑だったが、小鳥は黄色だった。リーゼロッテは自身の瞳に近い色を無意識に選んでいたのだ。そしてリーゼロッテ用だというお揃いのリーフトレイのイルカは、ジークムントの瞳と似ているらしい青。
普段から意図的にお互いの色を贈り合うことは多々ある。それが出たのだろう。
自分の瞳や髪の色の何かを贈るのはリザステリアではメジャーな愛情表現の一つで、恋人や夫婦間ではもちろんのこと、仲の良い親子や兄弟間でも行われることだ。可愛いと胸が熱くならないわけがない。
「はぁ……。本当に、どうしようかな。ロッテの婚姻を純粋に喜べる気がしない」
いつかやって来る、愛しい姪の結婚。相手は慎重に厳選し、最終的にはリーゼロッテが自分の意思で決めるのだから、あまり心配をする必要はないと頭では理解している。
「ご結婚なさっても、ジーク様の大切な姪であることに変わりありませんよ」
「わかっているんだけどね……」
ジークムントの中で最有力どころか唯一と言ってもいいほどだったクラウスという選択肢がなくなった今、リーゼロッテが選んだ相手であっても、婚姻を結んで幸せになれるかはどうしても不安が残ってしまう。
相手がクラウスであったとしても、複雑な心境なことに変わりはないのだけれど。幾分かはマシだったはずだ。
幸せを願っている。誰よりもリーゼロッテを近くで見てきた。大切に守り、育ててきた。自信を持って、胸を張ってそう言い切れる。愛おしくて仕方ない、それこそ自分の命よりも大切で庇護するべき存在だ。
だからこそ手放したくないのだと、葛藤が生まれてしまう。
そんな自分勝手な思いを素直に伝えれば、リーゼロッテは困るかもしれないけれど、それでも嬉しく感じてくれるのだろう。あの年相応の可愛らしい笑みを浮かべてくれるのだろう。リーゼロッテにとってもジークムントはかけがえのない家族で、盲目的とも言える愛を同じように抱いてくれているから。
「憂鬱だなぁ」
ため息を吐いたジークムントが視線を向けた先は、執務机の上の書類。聖女の婚約者候補として何度も何度も篩にかけられ、厳しい審査の末に現在残っている者達の詳細が記されている。そのため、人数はそれほど多くはない。
自ら精査し厳選したというのに、リーゼロッテを取られるのかと思うと、どうにも腹立たしさが募った。
「燃やしてしまおうか」
「駄目です」
本気でやりかねない危うい眼差しを書類に向けたまま、無意識に近い形でぽつりと呟かれた主人の言葉に、マルセルはすかさず突っ込みを入れた。
「燃やしてしまっても、また改めて用意するだけですよ。連ねられている名前は一人残らず把握しております」
「……憂鬱だなぁ」
年齢がそんなに離れていない補佐から、聞き分けのない小さな子供に言い聞かせるように諭される。そこに不満は抱くものの事実を告げられているだけなので、ジークムントはまた同じ言葉を紡ぎ、短くため息を吐くのだった。




