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よれよれの状態から復活し、これまでのことはなかったことにして、きりっとしてみたが、お腹がぐうと鳴いてくる。
兵糧丸でもあればいいが、ないのであれば、我慢するしかない。
そう思った、そのとき、大きな丘を埋め尽くす、煌々と夜空を照らす巨大なバラック群があらわれた。
どうせ、また熱の揺らぎが見せる偽物だろうと思っていたが、歩いて三歩の位置でも、それらは消えなかった。
泥から生える葦でつくった寸詰まりのヨシズが縄張りを区切り、寿司を握る男――トロのかわりにスナクジラのベーコン、シャリはおから。健康にはいいかもしれないが、食べるとしゃっくりが止まらなくなる。
売っているものはいろいろとダメだが、こんな大きな市を影丸は見たことがなかった。
年に一度、城下町で開かれる太市だって、このまけっとの十分の一もない。
「スナジゴクの牙と乾パンを交換だ! いい首飾りになるよ!」
「サボテン焼酎、六十度!」
「帽子の繕い、腹巻の繕い、パンツの繕い!」
ヨシズで区切られた狭い売り場にボロボロのゴザを敷いて、そこに並ぶ売り物はおからの寿司、タバコのクズ、鉄カブトの鍋、赤いザラメ、相手に不幸をもたらす呪文を書いたという紙切れ、濁った水が入ったコップ、矮性の松がひょろりと生えた盆栽、怪しげなキノコ、もっと怪しげな錠剤、トカゲの黒焼き。三十二口径の回転式拳銃をずらりと十丁以上並べたのが一番豪華に見えた。その前では弾を持った男がいて、三十発の弾丸と一丁が交換だと店の、大きないぼが目のすぐ上にあるずんぐりした色の黒いオヤジに言われ、客はどうしたものかと迷う。いまは弾だけあって銃がない。だが、ここで払えば、銃はあるけど、弾がない。えい、かまうものか、買ってしまえ! 銃に弾が入ってないなど、追剥されるやつにわかるものか!
米の取引は厳重でサラシとふんどし、入れ墨剥き出しの男がふたり、右手にドスを、左手に回転式拳銃を持って見張るなか、砂金のごとく取り扱われる。
生き馬の目を抜くがごとき忙しさのなか、影丸はひとりの少年を見つけた。
歳は影丸よりも三つくらい上のようだ。まつ毛の長い大きな目を伏せがちにした清楚な顔立ち、色の抜けた白い髪に色の抜けた白い肌。
砂で白っぽくなった黒のスラックスに白いワイシャツ、おや両手がないぞと思ったが、よーく見るとその指の細い手は黒い手袋に包まれている。
彼の全財産は小銃弾五発ずつの挿弾子用弾薬ベルトのなかに左肩から右の腰にかけて均等に分配されている。
影丸がこの少年に注目したのは腰に差した刀である。
それこそまさに侍の刀。このような不思議な幻のごとき世界で見た懐かしい代物だ。
まあ、近くで見れば、こしらえが糸と鮫皮のかわりに打ち出した金属を銅メッキした偽物で、刀身自体も兵器工場で大量生産された刀剣鋼によるもので刀工の味といえる刃文もへちまもない。だが、その昔、陸軍大臣の目の前で防寒着でぐるぐる巻きにした豚を真っ二つにしたくらいの切れ味はある。
つまり、悪の豚軍団と寒冷地で戦っても、問題ないということだ。
そして、ここは砂漠である。防寒着で自分をぐるぐる巻きにするような死にたがりはいない。つまり、この刀に真っ二つにできないものはないのだ。
このわけの分からない世界についてたずねてみようかと思って、少年に近づいたが、突然、横町からあらわれた人間の激流に巻き込まれ、影丸は意志に反して、にぎやかな通りを流れていくことになった。
正体不明のモツの串焼きを食べる労働者風の男たちがいて、店の主人は「少なくとも人間のモツではありません」の札をかかげている。食品の品質保証と共食いの罪悪感を回避する文句の下には赤字でモツ二本で弾丸一発、小銃弾一発でモツ七本と書いてある。古い軍服のようなものを着たヒゲの大男は、人間のモツでもかまいやしねえ、むしろ精がつくってもんよ、とうそぶきながら、茶碗酒をあおっているが、そのくせ頼んだ串はモツではなく、サバクトカゲの切り身である。
その隣は汁粉屋で、これまた正体不明のでんぷんを丸めたものに水に溶いた芋蜜を娘がいそいそと配り、なんだあ、この透明な汁粉はあ?と客にとっつかれる前にカウンターの後ろへ避難する。だが、店には秘密の部屋があり、そこでは本物のあんこと本物の焼き餅を使った本物の汁粉を出している。代金は短機関銃一丁か金平糖が瓶でふたつ。御大尽の食べ物だが、これが毎夜毎夜売れるというのだから信じられない。
隣はももんじ屋では店主がサバクイノシシを大きな包丁でさばきながら、切り出した肉を次々と火にかけていく。こんな大きなイノシシが砂漠で暮らすには相当な水源がなければ無理だから、きっとサバクイノシシだけが知っている秘密の水源があるに違いないと思った連中がこのイノシシを尾行する。だが、生きて戻ったものはひとりもいない。
ソンブレロをかぶり弾薬ベルトをふたつ、肩から斜交いにかけたヒゲ男は茶碗の酒を飲み干すたびにベルトから小銃弾を一発引き抜いて、店のオヤジに放る。六十度と貼りつけたバクダン焼酎は飲めば腹が破裂するような思いを味わうが酔いが速いので、手持ちの弾丸が少ない連中に人気だ。ときどき失明したり、そのままくたばったりするものがいるが、ソンブレロの男はかまわず飲み続ける。
生き返り屋では手回し蓄音機から甲高い女性の声が流れてくるのだが、これは歌というより、昔、影丸が見た稲荷神社の神憑き巫女の半狂乱に似ていた。あのときは巫女が白目を剥き、両腕をふりまわし、小便まで垂れ流したが、ここでは黒く薄い丸い板がまわっているだけであり、こちらの神憑きのほうが影丸は好感が持てた。ちょうどバクダン焼酎を飲んで死んでしまった男が運び込まれたが、声が流れるアサガオのような部品に死者の頭を押しつけ、甲高い神憑き女の声を間近にきかせると、死人は叫び声をあげて生き返った。しばらく叫ぶのが止まらなかったが、ともあれ生き返ったので、乾パン五つが支払われた。安い命の値段である。
値段というと、両替商ほど値段が値段している店はないだろう。どんな場所、どんな時代も投機家というのはいるもので拳銃弾、小銃弾、鋼鉄貫通弾、ロケット弾のかわりゆく交換率のなかに百万長者になる機会を目ざとく見つけようとしている。両替商は仙人のようなひげを生やし、絣の着流しに燕尾服をまとって、シルクハットをかぶった老人で、自分のことは両替屋ではなく金融資本家と呼べとまわりに言っていた。彼は古い書物にあった財閥というものに憧れていた。特に財閥の総帥にメロメロにイカレていた。その大昔、カネと呼ばれる紙切れが全能を司った信じられない時代に憧れ、どうして自分はカネではなく、弾丸をやり取りしているのだろうとうんざりすることがあった。こうした財閥の総帥たちが古書物のなかで少年テロリストに撃たれて死んだりすることにひどく憤慨したが、それというのも紙のカネの王者が弾丸に倒れるのは憧れの紙幣時代が現代に負けるように見えたからだ。しかし、そう憤る一方で、やはり財閥の総帥ともなると、自分の命を狙う少年テロリストのひとりやふたり飼っておかねばならない、命を狙われ、危うく助かるくらいのことがなければならないというかなり錯乱した結論に至り、彼は自分のまわりの子どもを皆テロリストとして見るようになった。
このような、空腹と満腹、銃と弾丸、錯乱と錯乱でごった返す人混みでも視線が影丸に集まってくる。やはりあふれ出る忍びとしての才能は隠そうとしても隠しきれぬのだな、えへん、と得意にしていると、怪しげな、信用ならない笑みを浮かべた男がちょいちょい手招きした。
「坊ちゃん、坊ちゃん」
「むう。拙者は坊ちゃんにあらず。忍びの影丸だ」
「影丸さま。どうかこちらにいらしてください」
その信用ならない男は店と店のあいだの狭い道にいた。人間の激流から何とか体を外した影丸に対し、男はお寿司を奢らせてほしいと頼んだ。
「むう。それはなにゆえ?」
「いえ、坊ちゃ――じゃなくて、影丸さまのような立派な忍者にお寿司を奢りたいだけなんですよ」
「ほほう。そなた、なかなか忍びを見る目があるようだな」
「光栄です。ささ、こちらへ」
細い路地は細い上り階段につながり、その行き止まりには錆びたトタンの扉があった。
その板には白いプラスチックがくっついていて、青いジェントルマンと赤いレディの姿が載っていたが、影丸にはそれが何の意味か分からない。
忍びの符牒かと思ったが、あんな奇妙な白くてテカテカした札に残す符牒などきいたことがない。いや、ひょっとすると、この世界において、あの白くてテカテカした謎の札は寿司屋をあらわすのではないか。そう思うと青いのは青物、赤いのはマグロ、そして白くてテカテカしたのはまさに米!
影丸は己の頭脳の冴えに我ながら恐ろしいと思いつつ、階段を上り、その部屋に入った。
畳があって、テーブルが置いてあって、小銃弾五発で一つの挿弾子がニ十個きれいに並べてあって、それに麻雀牌も転がっている。
そして、そのまわりにいる大きな体の悪党どもには見覚えがあった。
なにせそいつらはテープでふたつにつなぎ合わせた潜水ヘルメットやウサギの着ぐるみの頭をかぶっていて、体からは焦げたガソリンのにおいがぷんぷんしていた。
彼らは先ほど車ごと吹き飛ばされた匪賊だった。影丸がイマジナリー右大臣と戦っていたころ、匪賊たちはたいていの旅人が集まるマーケットで網を張ろうと先回りし、ロケット弾をマフラーに巻きつけたガキを差し出したら、小銃弾百発という賞金をかけていたのだ。
「ふむ。それは分かった。で、寿司は?」
「お前がちらし寿司になるんだよ、ばーか。それで幻夢斎さまに献上してやる」
「幻夢斎? いま、そなた、幻夢斎と申したか! やつはいま、どこにいる?」
「知りたきゃちらし寿司になりな!」
匪賊たちがドスを抜いて影丸に襲いかかる。影丸はというと、顎に手をやって、変わり身の術でちらし寿司が出てくるかどうか、考えている。
トン、トン。
あわや大惨事というところで、誰かがトイレットの札をかけたトタン扉をノックした。
思わずぴたりと匪賊たちの動きが止まり、影丸も扉のほうを見ると、なんと先ほど見かけた白い肌の少年剣士が開きっぱなしの戸口に立っていた。
神仙を思い起こさせる華奢な相貌の少年は、ちょっと失礼、と言って、影丸と匪賊たちのあいだに割り入って、麻袋を開くと、テーブルの上にある挿弾子をざらざらと袋のなかに流し落とした。
「おい、てめえ!」
「何してやが、る! え? え? え?」
見れば、匪賊の体が次々と真っ二つ。違いは縦に真っ二つか、横に真っ二つかだが、どのみち逝くべき結末は同じである。
凄まじき抜刀術を極めた少年は影丸のほうに笑いかけて、
「泥棒から盗むのは泥棒じゃないんだ。知ってたかい?」
「むう。拙者は別にその奇妙なものに用はない。だが、この者たちは幻夢斎の居所を知っていた。拙者は幻夢斎に用があるのだ。それに寿司も」
「幻夢斎について知りたい? なら――」
と、指差す。
「あそこに行けばいい」
小さな唯一の窓の向こうには赤いネオン『生死を問わず』が点滅していた。
「それと寿司なら、そのマフラーに巻きついているロケット弾を、K通りとV通りの角にいるサカタという男に見せればいい。じゃあ、僕はこれで失礼」
去っていく剣士を見ながら、なんとも凄腕がいたものだと感心している横では手に入るはずの弾丸を横取りされた、あの信用ならぬ顔の男がタコみたいに顔を真っ赤にして怒っていて、チンケな悪役にありがちな、背中を見せた相手に銃弾を浴びせるあの卑劣行動へとためらいもなく移行しようとしていた。
「むう。やめておいたほうがよいぞ」
「黙れ、ガキ!」
信用ならぬ小悪党は剣士の背中目がけて引き金を引いた。だが、剣士は倒れない。弾が当たる瞬間、剣の軌跡が青く閃き、火花が散って弾丸は地面に刺さった。
なめやがって!ともう一度引き金を引くが、弾は発射されない。それもそのはずで発射の反動でこれまでぎりぎりつながっていた人差し指がポロリと取れてしまったからだ。
「ほら、言わぬことではない」
「え?」
すると、手首が落ち、腕が五つに分かれて落ち、そのうち頭も顔も胴体もバラバラになって崩れ落ちた。