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旧文明において通信手段や仮想空間がどれだけ発達しても、公衆トイレに落書きをする習慣は死ななかった。
夫婦喧嘩で使えば結婚生活が一撃轟沈する危険な言葉やこの電話番号にかければ欲求不満の人妻に出会えるというハニートラップ、それに宇宙レベルのカルマに悩む人向けの怪しげな宗教団体のアドレスが書いてあることもある。
どうやら、あの男が言ったのは、この公衆トイレの洗面台の上の鏡のようだった。
それは誰かがぶん殴ったのか、真ん中から大きなヒビが入っていた。
影丸が探しているのは古代文字が打ち出された銅鏡だった。
「ここに目当ての鏡はないか……うっ」
視界がぐらっとゆれて、淡い光が床を滑って、外の砂漠へ、そして東へ向かって砂丘を越えていく光の道が見えた。
「姫……そちらへ進めというのですね。御意!」
鏡と株式会社タイラ・ミナモト製作所。どちらも非常に重要で、どちらも優先しないといけない。しかし、まだ見習いの影丸にはどちらのための道を取るべきか分からなくなるときがある(そもそも、この砂漠には道がないのだが)。
そんなとき、いまのような光の道があらわれ、影丸を導く。
それはタイラ・ミナモト製作所が製作した核戦争用シェルターに閉じ込められた姫の不思議な力が起こすもので、そうやって見習い忍者の影丸を支援する。
強い助けがある。彼はひとりではないのだ。
……もっともその光の道が彼を地雷原に導いたわけでもあるのだが。
「拙者のような腕のよい忍びでなければ死んでいたな」
ふふんと胸を張る。
影丸は忍者をやるにしては楽観的すぎる性格の持ち主だった。
「どうだった? あの鏡であってるか?」
「残念なことにあれではなかった」
「そりゃそうだよな。しみったれたガソリンスタンド跡地のしみったれた便所に忍者が目指す鏡だったら、おれもがっかりだよ」
影丸は水屋の主人に礼をしてから、導かれた光が消えたほうへと走り始める。
丘を登るときは走り、下るときは滑り、ごく普通の流砂を飛び越え、巨大アリジゴクのすり鉢状の流砂も飛び越え、崩れた高層ビルの最上階のあいだをジグザグに走り、細長いブリキ板の中央を丸く切り抜いた奇妙な墓標が乱立する土地に入ると、そのお堂らしき青い瓦の小屋からは奇妙なお経がきこえてくる。
腹が痛い 腹が痛い
水を飲んだら腹が痛い
腹が痛い 腹が痛い
サソリを食ったら腹が痛い
腹が痛い 腹が痛い
お腹を切ったら腹が痛い
ハーラーギャーイテー
ハーラーギャーイテー
文明が滅んで人間がすさんだからといって、死者を弔うことまで忘れたわけではなく、むしろこの世界、どんなに健康でも死は常にすぐそばに、手ですくいとって、においを嗅げるくらい近くに存在する。僧はボロボロの袈裟と前に剃ってから一か月以上たっている大きないがぐり頭で人差し指でくるくる数珠をまわしていた。袈裟の下には弾が三発しか入っていない大型の自動拳銃のグリップが飛び出ていて、それがずれ落ちそうになるのか、奇妙な歩き方をしていた。肝心の遺骨が指の骨一本しかないので、スコップで掘った小さな穴に骨を放り込み、それを埋め、上から踏んでしっかり固めると、もう今日の仕事は終わりとばかりに大きなあくびをして、お堂のほうへと戻っていった。
影丸は御免と呼びかけたが、今日の葬式はおしまいだ、明日にしてくれ、と言って、相手にしなかった。
「ききたいことがあるのだ」
「おれは眠いんだがな」
「鏡を知らぬか? あるいはタイラ・ミナモト製作所というものにききおぼえはないか?」
「鏡なんて知らないし、タイラ・ミナモト製作所はもっと知らない……タイラ・ミナモト製作所に利子つけて水を貸しているわけでもないし、タイラ・ミナモト製作所に利子つけて弾丸を貸しているわけでもないし、タイラ・ミナモト製作所に利子つけて乾パンを貸しているわけじゃない。だが、まあ、東に行けば、どうにかなるんじゃないのか? お前は西から来たんだから、今更西の戻るのも馬鹿らしい。それなら、東を極めたほうがいい。だが、何より東にはマーケットがある」
「まけっと?」
「市場だ。売り物が集まって、買い手が魂の選択をして財産を切り離す」
「むう。そこに鏡があるのか?」
「知らんが、ものは集まる場所だ。鏡があるかもしれないし、タイラ・ミナモト製作所について知っているものがいるかもしれない」
「そうか! それならば、その〈まけっと〉とやら、是非とも訪れるべきだろう! 御坊、礼を言う」
「礼を言うのはマーケットに着くまでとっておいたほうがいいぞ。このあたり、匪賊が出る」
「拙者は忍びだ。匪賊ごときに遅れは取らぬ」
「忍びか。おれのご先祖さまは忍者なんていないと言い張って、一族でその伝承を伝えてきたが、とんだマヌケぞろいだったわけだな」
廃墟と墓標の砂地を抜け、マーケットを目指して走り始めると、幻影を生み出す奇妙な雲の土地があらわれた。
熱の靄に影が差すと様々なものがあらわれた。大きな水たまりとそこに浮かぶ駆逐艦、炊き込みご飯が目いっぱい詰まった釜、蛇口、大陸風の大きな門、額に筆をふるう書家、見たこともないほど大きな仁王像。みなあと少しで手が届くところで掻き消えた。
そのうち、いかにも匪賊らしい一団があらわれた。
奇妙な服装の連中で偽物のレザー、鎖、棘、戦闘機の入れ墨、潜水用のヘルメットやウサギの着ぐるみ用頭部、ガスマスク、奇抜な髪形が組み合って、悪としての細部に力を入れていた。
これまで見た幻影のなかで最も細部が出来上がっている本物らしい幻影だったが、それもそのはずで彼らは幻影ではなかった。
影丸が無頼漢たちの中央を走り抜けようとすると、それぞれがトゲトゲした武器を持ち上げ、殴りかかった。だが、忍び刀を抜き放つと、なまくらな武器が次々と真っ二つになり、また個性的な頭部の装備が真っ二つになり、何なら頭そのものを真っ二つにできたが、そこまでせずとも実力の差は分かったであろうとして命だけは助けてやった。
この余裕が腕利き忍者の証であるとひとり悦に入ったが、十秒後には頭を真っ二つにしておけばよかったと後悔することになる。
バンパーに鉄条網を巻きつけ運転席から前が見えないほど巨大なエンジンを搭載し、トドメに荷台にロケットランチャーを積んだ非常に攻撃的なピックアップトラックに乗って、匪賊たちが追いかけてきたのだ。
最初はひきつぶしてやろうとしたが、そこは長い首巻を真一文字に流せるだけの忍者脚力、追いつきそうにない。
そこで第二の手段を試みる。
弾薬が貨幣の代わりに流通しているこの砂漠世界において、ロケット弾を放つことは緊急財政出動的な意味があるが、なめられたら終わりなのが匪賊の世界、彼は彼らをなめた少年忍者に対する懲罰に対し、金銭面での折り合いをつけ、ランチャーから二発、ロケット弾を放った。
眩い炎を引きながら、影丸の背中目がけて飛んでくる。
あわや緊急財政出動の前に少年忍者は塵と化すのかと思ったその瞬間、
「忍法辻風返し!」
説明しよう! 忍法辻風返しとは自身へ投げつけられた投擲物を忍者自身が高速回転することにより、向きを変えさせ、相手に送り返す術なのだ!
もちろん匪賊たちはそんな説明をきいたことがなかったし、きいたところで真面目に取らず、どのみち、こうした悲劇的な最後は回避できなかっただろうが、しかし、様式美というものがある。
解説なくして何が忍法か。忍法には説明が必要なのだ。
ともあれ、コマのごとく高速回転した影丸の術は見事、ロケット弾を跳ね返し、殺人ピックアップのタイミングベルト剥き出しのエンジンにぶつかって、まるで夜明けの一瞬のような橙の光がピカリと放たれたかと思うと、火柱がトラックを吹き上げ、乗っていた匪賊たちを放り出し、ひっくり返ったまま、砂丘のてっぺんに落ち、またしても爆発炎上した。
願わくば、これが匪賊たちの教訓として魂にまで刻み込まれることを願うばかりだが、実はそうならないことが後で分かる。
だが、今は別の心配をせねばならない。
忍法辻風返しは未熟な忍者が使うと――。
「わーっ! 止まらない!」
回転が止まらず、コマのごとくまわり続けるのだ。
未熟者の証はこれだけではない。
長い首巻にもう一発、ロケット弾がからまり、ハンマー投げのごとく、ぐるぐるまわってついてきていた。
たまたま信管が死んでいたからよかったが、そうでなかったら、どかん粉微塵である。
発電か製粉に使えそうな回転忍者影丸は今は亡き軍事大国の秘密兵器みたいにあっちでぐるぐる、こっちでぐるぐるしながら、砂漠をさまよい、度重なる姫からの進行ルートの啓示も無視し、ようやく回転が止まったころにはすっかりへろへろになっていた。
そのころには太陽は人間いじめに飽きて、西の果てへと沈みつつあった。砂漠と水の秘密を知る渡り鳥の一隊が太陽の後を追って辛抱強く飛んでいくなかで、薄く伸ばされた光と雲が橙から紫へと十一の段階を経て変じていく。
影丸は夜になってコマまわしが止まったが、後遺症なのか、その目はくるくる渦を巻いていた。
「よ、よ、よ、夜が来るから眠らぬのかと? な、な、なんのこれしき。夜に動くのが忍びの、ほん、ほん、むーう、なんであったか――おお、その通り! 本領よ! さすが、右大臣殿は博識よの」
どうやら過度の回転は彼の頭脳にも何らかの影響をもたらし、彼にしか見えない右大臣の存在を許してしまったらしい。
三日月が息づく青い砂漠はどこまでも続いていて、砂を踏むとかかとが離れぬうちから周囲の砂が崩れて、何事もなかったように足跡を埋める、粒の細かい砂の世界を足元はへろへろ、目はぐるぐる、脳にはイマジナリー右大臣が存在する状態で右へ左へ揺れながら歩く。
そんな影丸の足元から正しい道を示す光が、こめかみに怒りの青筋をひくつかせながら、砂漠を一直線に伸びていく。
光に青筋を浮かべるためのこめかみがあるかどうかの議論はいったん置いておくとして、現在の影丸は任務遂行に支障をきたした状態にある。
現在、彼は馬鹿にしか見えぬ右大臣と仲たがいしたらしく、相手を膾にしてやろうと忍び刀を振り回している。
鏡にもタイラ・ミナモト製作所にも通じぬ道をすっかりラリって右往左往しているが、彼は確実に近づきつつある――マーケットへ。