19
左手には池があり葦が岸辺を覆っていた。
空は灰色の入道雲が湧き上がっているのに雨は降りそうもなかった。
彼は線路の上を歩いていた。
彼の十メートル先にはせっせと線路を敷く男たちがいて、後ろ十メートルの地点ではせっせと線路を引き剥がす男たちがいた。
彼が歩みを止めると、工夫たちも動きを止める。
歩き始めると作業を開始する。
何も残すことのない作業の上を歩いているのに、ぬるい湯につかるみたいに気持ちがいい。
線路は池のまわりを敷いていた。左手には池があり、右手には――何があろうと関係ない。チアキは線路の外に出る気はないのだ。
何百周もしたあたりから、ずっと無視していたものが気になった。
自分の足元から右手へ走る光の矢印。
この光る道がチアキにはひどく煩わしい気がした。
光は足元で明滅した。
「いったい何だって言うんだろう?」
光は明滅した。
それが枕木の縁を隠し、チアキはそれに爪先を引っかけた。
そのままバランスを崩し、右側に倒れると、チアキは古い森に閉じ込められた、鳥居の前にいた。
光の道は境内へチアキを導こうとする。
チアキは嫌がった。ここの空気は冷たい。あの不毛な線路に戻りたかった。
だが、四方は森に塞がれていて、進めるのは鳥居だけ。
苔むした参道を進む。
ほとんど崩れかかった社。その階段に刀が刺さっていた。
金属性の安っぽい拵えのその刀を握ってはいけない。そんな気がしたが、光の矢印はその刀に巻きつき、刃をギラギラと光らせた。
光る刃は人を狂わす。
チアキは刀を抜きたくなかったが、狂ってしまい、柄を握って刀を抜いた。
それと同時に世界が崩れ、石や木と一緒に奈落へと落ちていった。
狩衣を着た犬がふわりと浮いていた。目が赤白にらんらんと光り、煤のような悪霊を口から吐き出しながら、その刀を放せ、そうすれば線路の上に戻してやると誘ってきた。
だが、何度も放そうとしたが、できなかった。
放したら大切な人を助けることができない、二度と会えない。
そんな気がしたからだ。
チアキは奈落の底に落ち、底がガラスのように割れて、気づけば、彼はプルマン車両の宿泊室にいた。
手に愛刀の無名の軍刀、その刃は頭に苦無を刺したまま魔物と化したアサギ中佐の胸を突き通していた。
――†――†――†――
ドアを真っ二つにして、牢屋がわりの客室から飛び出す。
黄色い光を放つランプの廊下があり、機関車へ向かう。
次の売店車両へ入る。
ガラスケースに煙草やキャンディ、旅行先の都市の俯瞰図が壁にかけてある。
機関車のおもちゃが走る模型があり、鉄道歌のレコードがかかっていた。
刀身をやや右へ寄せ、切っ先を少し下に向け、ゆっくり売店のカウンターを通り過ぎようとすると、屋根が人智を超えた力で引き剥がされ、細かい金属片が飛び散った。
高速で走る列車の上を、首を吊り舌をだらりと垂らした女優がケタケタ笑いながら、さまざまなものを投げつけてくる。
最初は目覚まし時計や瓶入りジュースとかわいいものだったが、そのうちウィスキー会社の金庫など当たると洒落にならないものに変わってくると、チアキは叩っ斬ると心に決め、床に穴を開けるつもりで踵に力を込め、跳躍した。
投げつけられる磁気ドラムメモリや巨大貨物船用のエンジンテレグラフ、三輪タクシーの料金メーターを両断にしながら、斜め四十五度を保ち適切な敵への攻撃位置を目指して、ついに下段の構えからすれ違いざまに逆袈裟に斬り捨てると首吊り女優は断末魔の叫びをあげて、煤となって消えた。
売店に着地すると、籐の籠からキャンディをひと握り口のなかに入れて、ボリボリ噛みながら、次の車両――食堂車に踏み込むと、機関銃弾が飛んできた。
咄嗟にしゃがんで破裂する木片を頭上にかわすと、同じようにしゃがんで倒したテーブルを盾に影丸とレンが突撃しようとしていた。
「おう! チアキ殿! 助太刀を頼む!」
テーブルは弾を食らうごとにガタガタと熱病みたいに震えたが、それでも食堂車の端まで突撃が成功し、分厚いテーブル板の向こうでキクチ老人がグシャリと潰れ、ゴンゾウとマキコもそれぞれ忍び刀と軽機関銃で吹き飛ばされ、窓から飛び出たその体はバラバラにちぎれていった。
「このじいさんがわたしの撃った弾を全部打ち返してくるのよ」
キクチ老人の腹からは煤にまみれて銅被膜の弾丸がゴロゴロ転がっていた。
「それってきみがその銃剣で突撃すればいい話じゃないかな?」
「それに気づいたころには弾倉十個分の弾をぶち込んでた」
「ひと財産だね。闇市なら豪邸が立つ。ところでアカネは?」
ふたりは首をふった。
「見ておらぬ」
「どうせ、この先にあのイヌガミがいるんでしょ? そいつをぶちのめして、機関車を奪って、スピードを上げれば解決よ!」
機関車の釜の光が眩く、屋根も壁も取り除かれた大きな車両にイヌガミがいた。
狩衣に烏帽子、赤白の眼、口から吐くべったりとした煤のような悪霊。
「夢で見た犬神!」
と、三人が声をそろえる。
イヌガミが切れ切れに笑ってくる。
「ひひひ。登場人物がみんな死ぬ。素晴らしいミステリィだと思ったんですがね。もう書かれているらしいのです。しかも、とても有名だとか。がっかりですよね。失望ですよね。で、考えたんです。探偵が犯人に全員殺されるミステリィはどうかなって?」
「悪趣味。万死に値する」
「万死? いやいや、それは無理ですよ」
そのとき、足元から光の道がまっすぐイヌガミへ向けて伸びた。
「そう、そう。そういうことです。あなたのお友だち、アカネさんとやら。わたしの体のなかに入ってるんですよ」
チアキは表情らしいものも見せずにイヌガミの前まで歩いていき、刀を上段に構えた。
「それでどうするんですか? わたしを斬ったらアカネとやらも――」
「それがどうした?」
「は?」
覆いかぶさるような斬撃がイヌガミを真っ二つにする。
犬らしいわめき声をまき散らしたが、その左右を影丸とレンが押さえて、真っ二つに倒れないようにする。
そのまま後ろに下がらせ、機関車の釜のそばまでくると、レンがその蓋を開け、チアキは地獄の業火も線香花火に見える炎のなかへイヌガミを蹴り入れた。
「ギャアアアアアア、ワアアアアアア」
わめき声が上がるのを、チアキはじっと見ている。
ボロっとイヌガミの体が崩れかけた瞬間、両手を炎のなかに突っ込んで、素早く引き抜くと、その腕にアカネが気を失って、チアキの胸に頭を預けていた。
光の道はイヌガミの足元を抜けて、機関車の釜を指していたのだ。




