18
む、と影丸が立ち止まる。
もう何度も見た太陽西の地平線へ追放の儀を見送ると、彼を導く光の道が地下鉄の階段を段々と伸びていった。
まわりには砂だらけ。地下鉄の入り口周辺にあろうはずの、駅前デパートやバスのロータリー、世界規模のファストフード店、怪しい新興宗教の勧誘やティッシュをくばるサラ金のバイトなどがいない。
砂と地下鉄のみである。
地下鉄など真っ暗な場所で敵と出会ったらどうするのだ、という意見が出たが、その意見を出したのがレンだったため、その忠告は丁寧に無視された。
これまで常識人と思われていた彼女の名声は三人が念を押して谷底に落として捨てたくろがね四起とともに谷底に落ち、影丸の意見のほうが正常と思われたのがその理由である。
それにもうひとつ、影丸にしか見えない光の道が暗い地下鉄に降りたら見え始めたのだ。
おかげでたいまつやらハリケーン・ランタンやら懐中電灯やら石器時代から電気時代までのあいだの発明物に頼らず、地下鉄構内を自由に動くことができた。
切符売り場の六角形の窓口が見えるころには砂の吹き溜まりもなくなり、体をはたいてから三歩進むと人の形を写し取った埃が白く浮かんでいる。
手甲やズボンの内側に入ってきた砂を必死にバシバシ叩いていて、幾ばくかの快適さを取り戻すと、なかなかこの駅は大きな駅らしいことが分かった。改札には白銅貨幣を入れて通り抜けるターンスタイル自動改札機がいくつも設置されていた。
レンは地下都市でいろいろな部署をたらいまわしにされたとき、この自動改札機をタダで通り抜ける不届きものを捕まえる仕事に従事したことがあったのだ。
もちろんこの貴重な経験談についても無視された。
彼女が失った信用はなかなか大きい。
「むう。この穴、小さいな。手裏剣が入らぬ」
影丸が硬貨投入口に手裏剣をぐいぐい押し込もうとしている横では、チアキがひょいと柵を飛び越えている。
「チアキ。おわら、無賃乗車はいかんぞに」
「そがん言うて、誰もおらんじゃ。シラジラしい」
さらに階段を降りて、いよいよプラットホームについたが、そのころには光の道がちらちらと気になるようになった。
慣れている影丸は別にどうとも思っていないようだが、今さっき見え始めた三人からすると、どうにもチカチカチラチラと、少々うっとおしい。
シェルターに閉じ込められた姫の立場は分かるが、出現頻度はこの半分でも多すぎるほどだ。
しかも、この光は線路に飛び込めと勧めてくる。
まだ地下鉄が動いているころなら、立派な自殺衝動だが、そもそも地雷原や不発弾埋没地に導いたこともあるのだから、列車が来ない線路に飛び込むくらいのことで目くじらを立てることはない。
しかし、チカチカうるさいのである。
「きみ、よくこれを我慢できたね」
「む? 我慢とは?」
「このチカチカさ」
「ああ。鍛錬した忍びはこれしきの光で気をそらされたりはせぬ」
これしき、という言葉が気に入らなかったらしく、光の道は、よりいっそう点滅を強くした。
「姫、これしき、と言ったのは言葉の綾で――むう、チアキ殿。そこもとのせいで拙者が姫にしかられたではないか」
「……きみ、誰かに柴犬っぽいって言われたことはあるかい?」
「よく言われるが、それが?」
「いや、別に大したことじゃないんだ。気にしないでくれ」
「チアキぃ。おわら、寂しいんきゃ? わらが構っちゃろうきゃ?」
「ほっとき。このズクガタ」
線路を降りて進もうとする三人の前に、レンが腕を伸ばして制止し、しーっと人差し指を立て、静かにするよう促した。
そろそろ彼女の信頼度も回復の兆しを見せてきたころであったのが、三人にとっては幸運だった。
というのも、青い彗星のような機関車が高級車輛を何十両と引っぱって、ホームにあらわれたからだ。
線路を降りて歩いていたら、三人はこの機関車によって梱包材の空気の玉みたいにプチプチ潰されていただろう。
「わたしのおかげで命拾いしたわね」
「いや、まだそうとも限らぬ」
影丸は刀を抜き、左手に手裏剣を二枚持つ。
「幻夢斎だ。やつの気配がする。禍々しすぎて隠しおおせぬ邪悪な気よ」
――†――†――†――
影丸たちが乗ったのは最後から二番目の車輛だった。
一番後ろの車輛は車掌者用の車両になっていて、それが高級旅客列車の証でもあった。
乗った車輛は小さな石像を台座の上にいくつか並べた細長い博物館のようだった。像はどれも長方形に近い形をしていて、歪んだ顔の神々が手足を縮めてニタニタ笑っている。
「ようこそ、お越しくださいました。我が主、幻夢斎さまより皆さまの饗応を任されました、イヌガミと申します。以後、お見知りおきを」
白い手袋をはめた銀髪の美男子がひとり、ゆっくりとお辞儀をする。
その頭と胸へ放った手裏剣は虚空で動きと止めて、そのまま赤絨毯を敷いた床に落ちた。
「そう焦らずとも幻夢斎さまはお待ちでございます」
そのころにはイヌガミの姿は冷房の風に掻き消えた。
それと同時に四人の姿も変化した。
影丸は半ズボンにネクタイ、キャスケットをかぶった少年探偵に、チアキは比翼仕立ての学生服を着た学生探偵に、アカネは地味だか良い仕立てのマニッシュなドレスを着た小説家探偵に、レンはピストルも自動車運転もお手の物のお転婆探偵に、といった具合だ。
もしかしたら、四人の脳細胞までもが灰色に塗り替えられているかもしれない。
「わあっ、なんなら!」
「むう。これも幻夢斎の幻術か!」
「僕は好きだね。こういう気の利いた演出。幻夢斎とやらとは気があいそうだ。ところで僕の刀がどこにいったのか知らないか?」
「わたしの軽機関銃もないんだけど」
するとイヌガミがまたあらわれる。
「これから皆さまにはちょっとした遊戯をしていただきます。なに簡単なことでございます。この列車で起こる殺人事件を解決していただくだけです。では、まず食堂車にお越しください。皆さま、そこでお待ちです」
イヌガミがまたもや消え去ると、影丸がフンと鼻を鳴らした。
「殺人だと? そんなもの幻夢斎が犯人に決まっている」
「お静かに。せっかく、その頭に脳みそが入ってるんだから、もうちょっと使ってやったほうがいいよ」
「うむむ。わら、物書きになったんきゃ? なんの本じゃろ? 艶本かの?」
「自動車運転もできるお転婆探偵……ひらめいた! この機関車を盗んで、スピードを上げるだけ上げて――」
食堂車には登場人物が揃っていた。
ゴンゾウ……品のない成金。五十歳。
マキコ……ゴンゾウの妻。二十一歳。
アサギ……陸軍中佐。二十九歳。
ミツコ……映画女優。三十七歳。
キクチ……茶人。七十二歳。
ゲンムサイ……幻術士。???歳。
「拙者、犯人が分かった」
「うん。まだ事件起きてないからね」
「ねえ。機関車暴走させるとか言わないから、この縄ほどいてくれない?」
「こじゃんこと言うてるけど。どーすう、チアキ」
「まだ分からんきゃ。縛っとけい」
「そんことぞに。レンちぃ。すまん」
「いいわよ。で、このなかの誰が犯人なのか当てるんでしょ。意外と全員犯人だったりして」
灰色の脳細胞が主人公の本を読んだことのある人であれば、レンの言うことに大いに賛同するだろう。一応、可能性のひとつとして保留しておいても損のない考えでもある。
ただ、現在、レンの言葉に対する信頼度はまたしても暴落している。おそらく顧みられることはないだろう。
食堂車というからにはテーブルクロスをひいたテーブルがあり、折りたたんで盛り上げたナプキンがあり、かわいらしい青のランプがあり、メニューがある。
くるくると流麗な線で縁取られたメニュー表に載っているのはミンチエッグスやヲムレツ、ハヤシビーフといった世界滅亡とともに失われた伝説の料理たちで、チアキとアカネとレンはひどく驚いたし、これを本当に注文してもいいかどうかためらいもした。
しかし、メニュー表とやらには値段は書いていないし、自分たちは招待された身だし、それに残りの人生、レンの運転で長くはないのかもしれないので、遠慮なく頼むことにした。ただひとりを除いて――。
「むう。白飯と鯵の干物はないのか?」
メニューのなかで白飯を使っているのがライスカレーしかなかったので、それを注文することにした。オムレツをヲムレツと表記するようなレトロな店がやるように米とルーがふたつに分かれていて、福神漬けが添えてある。
「うむ! こうでなくてはな!」
といって、いつも持ち歩いている箸で白飯をぺろりと平らげると、おかわりを要求した。
「ルーがまだ残っているけど?」
「それはいらぬ」
「きみ、忍者にしてはずいぶん食に贅沢なんだね?」
「じゃあ、チアキ殿にこの味噌汁の恐ろしく濃いものはあげよう」
実際、オムレツにカレーのルーをかけるととてもうまかった。
「影丸ちぃ、幻夢斎いうんはまっこと強い幻術ぅ使うんぞな。このミンチエッグス、ほんとにうまあぞに」
「誰かこれ、ほどいて~」
さて、レンも少しは反省したようなので縄をほどいてやり、食堂車の客をじろりじろりと観察し始める。
チアキはゴンゾウが殺されると死の予言を始めた。
成金で高圧的で若い妻をもらっているというだけで、この列車のなかでは死に値するというのだ。
しかもチアキの予言はそれだけではなく、殺人は一度では終わらず、何度も起こる。
連続殺人だというのだ。
アカネとレンは事件が起きるまで自分の意見は保留し、影丸は幻夢斎が犯人だと頑なに主張を続けた。
食事が終わると、あの執事のイヌガミがあらわれて、お休みの時間ですと言ってきた。
部屋はひとりにつき、一室とってあり、ひと晩眠れば、きっと事件が起きるだろうと何か意味を含んだ笑みを見せた。
もし、ゴンゾウが殺されれば、いよいよお話は灰色の脳細胞の本に近づく。
影丸は自室に戻ると、姫がまだへそを曲げていて光の道を示してくれないことにどうしたものかと考え、こういうとき、姫はお饅頭で機嫌をなおしてくれたものだが、姫は〈しぇるたー〉のなか、自分は幻夢斎の幻術のなか。そして、砂漠ではお饅頭を手に入れるのは極めて難しい。
この列車はチアキたちの反応から見て、非常に優れた食事提供施設らしいのだが、そんな優れた施設でも、お饅頭はなかった。ただ、あんなどろっとした変な辛さがある味噌汁をつくる時点でみんなが言うほど大したことはないのかもしれない。
さて、今夜、この列車で誰かが生害されるらしい。
影丸は自分が殺される可能性を考えていたし、幻夢斎がいる時点で自分が狙われるはずだと思っていた。だが、不思議なことに幻夢斎の邪悪な気配は確かに邪悪ではあるが、カブトムシを箱のなかに入れてお互い戦わせるのを眺めるような邪悪さであって、影丸を亡き者にせんとする直接的な邪悪ではない。
幻夢斎らしいのかもしれない。目を背けたくなるような悪行を楽しみのために行うところがある。
この砂漠世界に影丸と姫が飛ばされたのも、そうした幻夢斎の趣味のひとつなのか?
あれこれ考えているうちにガタンガタンという列車の揺れが興味深いリズムとなって、影丸を眠気に誘い、うつらうつらと櫂を漕ぎはじめたとき――、
ダダダダダ!
機関銃の凄まじい連射音がした。
――†――†――†――
キクチ老人が蜂の巣にされて自室から見つかると、
「ああ! キクチさま! 亡くなられてしまったのですね! 享年七十二歳なのですね! 生前は優れた茶人であったのに、あなたに襲いかかる三十口径弾をしのぐことには役立たなかった。どうか安らかに」
と、執事のイヌガミが簡単な弔辞を読んだ。
だが、犯人はすぐに見つかった。
部屋の壁に立てかけてあった凶器を見て、
「わたしの機関銃!」
と、レンが叫んだからだ。
これが自白としてとられて、レンが部屋に閉じ込められた。
「さあ、名探偵の皆さま。事情聴取の時間です」
列車のなかに細長くてしょっぱい枯山水があり、電車が揺れるごとに白い玉砂利がジャジャジャと鳴いた。乗客たちをひとりひとり呼んで事情聴取してみると、死んだキクチ老人は妻を交通事故で亡くしており、「国際安全運転協会」の理事として危険運転の撲滅に務めていたことが分かった。
アカネはレンが犯人だと断じ、影丸は幻夢斎だと初志貫徹していて、チアキだけが真面目に事情聴取をして、内容を突き合わせ、証言の矛盾を突き、登場人物の隠れた事情を暴いていった。
ゴンゾウは実はキクチから金を借りていて、ゴンゾウの妻マキコはアサギ中佐と不倫していて、映画女優のミツコは実はキクチ老人の妻をひき逃げした犯人であったことが分かり、
「この事件、ひと筋縄にはいかないな」
と、かっこよく決めている後ろで、
「チアキ! 犯人はレンちぃぞに!」
「いいや! 真の黒幕は幻夢斎よ!」
と、ふたりは自身の思考が敗北したことを高らかに宣言していた。
こいつら、どうしてこうも「自分の頭は悪いです!」と誇らしげに言えるのだろう?
チアキは頭が痛くなった。
ゲンムサイはいなくなり、事情聴取ができなかったが、チアキは初めから犯人とみていなかった。
あれはただの観客に過ぎない。
登場人物たちはそれぞれの部屋へ帰っていく。
トイレに行ってくると、アカネが席を立つと、ギャーッという声がきこえてきた。
女優のミツコが首を吊った状態で見つかったのだ。
「ああ! ミツコさま! 亡くなられてしまったのですね! 享年三十七歳なのですね! でも、本当は四十五歳なのに!『警戒都市』や『姫牡丹』で主演を務めた輝かしいキャリアも、あなたに襲いかかる首吊り縄から逃れるには役立たなかった。どうか安らかに」
そして、アカネが唯一アリバイが取れなかったことで、閉じ込められた。
ここまで来て、列車の狙いが分かってきた。
こいつらはひとりずつ捕えていく気なのだ。
「おのれ、幻夢斎!」
「間違ってはいないけど、この幻術を破るには犯人を見つける必要がある気がするんだ」
「それも幻夢斎だ」
「もう幻夢斎はお話から退場している」
「むう」
だが、昼も夜も分からない地下鉄道の無情な時間がアサギ中佐が額に苦無を刺した状態で死体となって見つかる。
「ああ! アサギさま! 亡くなられてしまったのですね! 享年二十九歳なのですね! 世界大会で優勝できるほどの馬術も、あなたに襲いかかる苦無を弾き返す役には立たなかった。どうか安らかに」
影丸が不思議な力に引っぱられて自分の部屋に監禁される。
もう、ここまでくれば次は誰が犯人になるのか火を見るより明らかだ。
「イヌガミ。僕はとっても残念でならない。本物のミステリィを楽しまさせてくれると思ったけど」
「なんのことでしょう、チアキさま? それよりゴンゾウさまとマキコさまがまだ見えません。部屋に行ってみませんか?」
ふたりは一番広い客室で袈裟懸けにバッサリやられていた。
マキコの体はベッドの上に倒れ、ゴンゾウはサイコロみたいな形になって正座していて、その体に深々とチアキの軍刀が刺さっている。
「ああ! ゴンゾウさまとマキコさま! 亡くなられてしまったのですね! 二人合わせて享年七十一歳なのですね! 土地投機で築いた富も没落華族の家柄も、あなたがたに襲いかかる袈裟懸けの一撃を避ける役には立たなかった。やすらかに」
最後まできくことはできなかった。
チアキの前に黒い幕が下りてきて、そのまま体だけが列車から引き出されたように気を失ったからだ。




