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どうにも一日で崖を登りきることはできず、適当な場所で一夜を明かさないといけなくなった。
旅をする少年少女が星空の下で焚火を囲んでとなると、いろいろ、夢とか異性への関心とか将来のこととか話して、夜更かししてワクワクしたりドキドキしたりするものだが、この四人は一日じゅう階段を上って疲れ切っていたので、あっという間に寝てしまった。
次の日、窪んで大きな影に隠れてしのぎやすい階段を上ると、ついにとうとう崖を征服した。
崖の上に広がる新しい世界。それは――砂漠である。
まあ、確かにそうなるだろうとは思っていた。
これで緑いっぱいの美しい世界が広がるなどと思うほど、彼らの頭はおめでたくできていなかったが、それでもちょっと期待する。
世人は期待するだけならタダだ、というが、期待をしたら失望という形で代金が取られる。
だから、期待するとしても、ちょっとだけ期待するのが面白おかしく生きるコツなのだ。
人間の性格が環境から大きく影響を受けると仮定すれば、ここに住む人びともどうせろくでもなく、人を網で生け捕りにしてトゲトゲした自動車で引きまわすような手合いに決まっている。
実際、トゲトゲした自動車に乗った悪漢どもがひとりの少女を追いかけている。
こういう光景に出会って、助けるかどうかを相談するほど薄情ではない四人は四人の議決を一枚の手裏剣に託すか一発の軽機関銃弾に託すかでもめ、トライアルをすることになった。
文明崩壊前はこうやってふたつの兵器のどちらを採用するか、実地で検査をしたのだ。
今回は影丸の手裏剣が勝った。
網を発射するための装置から網のロープを切り離し、網はあわれならず者たちに降りかかった。
生け捕りの用の網がかぶさったままトゲトゲした自動車を運転することの難について書き記したものがなく、このことについての経験談が致命的に少ないのは、その致命的な事態に陥ったら最後まず助からないからで、実際このときもトゲトゲした自動車は網をかぶさったままブレーキをかける方法が分からないまま、崖から飛び出した。
それから一分経っても車が落ちた音がしなかったので、四人は自分たちが征服した崖の偉大さを知り、そんな高い崖を征服した自分たちはもっと偉大なのだという、敵を誉めるのは己をもっと誉めるための肥大した自尊心と膨張する承認欲求でパンパンに膨れ上がった状態でとりあえず少女のほうへと向かってみることにした。
み、水、と少女が呻くので、水筒を口につけると、
「ありがとうございます」
と、きちんとお礼をした。
世界を隔てる崖の上の世界でも礼儀作法がまだ息をしていることを知るのはいいことだと思いつつ、きいてみると、彼女はこの先のオアシスの町の住人だという。
おあしす、ときいて、影丸とチアキとアカネは小首を傾げた。
レンは地下都市の古代のレコード盤で『おあしす』という名の音楽隊がいて、レコード神殿の神官の話では、この『おあしす』の隊員は演奏途中で客に喧嘩を売り、返り討ちにされ、ステージに戻る途中で背中を蹴られて倒れたという話をきいていた。
「あの、助けていただいたお礼にわたしたちの町に寄っていただけませんか?」
おあしす――そこでは人はみな音楽をたしなみ、聴衆に喧嘩を売ることをたしなみ、返り討ちにされ逃げる途中で背中を蹴られることをたしなむ奇習の町。
そんな町に行ったら、自分たちまで背中を蹴られるのではないかといぶかしんだ。
だいたいさっきの無法者にしても、いかにも人を背中から蹴りそうなカスっぽいところがある。
この少女の好意をどうやって穏やかに揉め事なく断るかであれこれ考えていると、少女は言った。
「どうかいらしてください。わたしたちの町にはみなさんをおもてなしできる『蛇口』があります」
――†――†――†――
蛇口――それは伝説の宝具。
好きなだけ水を出し続けるという、ただ言い伝えのなかでしか存在しない奇跡。
その蛇口がいま、四人の目にはっきりと見えている。
蛇口は大きな岩の上にあり、鉄の管から水が流れ落ち続けている。
その水は巨大な池をつくり、その岸辺を葦と椰子の木が縁取る。
さらに水路が引かれて、町のあらゆる場所に小さな池をつくり、この町の住人には水不足に困るという概念が存在しなかった。
「あの子どもたちは何をしているのかな?」
「むう。あれは泳いでいるのだな」
「泳ぐ? なんだい、それは?」
「水のなかで手足を掻き、水のなかで動くことだ」
これまでチアキが見たことのある大きな水場は競艇場だが、このオアシスはその十倍は大きい。
それに競艇場は秘密の湧き水から奴隷労働で水を運ばなければいけないというわけで維持費がかかる。
だが、このオアシスには維持費など存在しない。
ただ座して待てば水があらわれるのだ。
四人は白い日干し煉瓦でつくった家で少女の父に礼をされ、水と食事を用意した食堂で本物の米を食べ、川魚の寿司に舌鼓を打った。
影丸が鏡とタイラ・ミナモト製作所のことをきくと、
「鏡についてはきいたことがあります。なんでも、鏡を神として何百年と代々伝えている町があるとか。ただ詳しいことはわしにもとんと分かりません。ただ、タイラ・ミナモト製作所でしたら、一か月くらい前でしょうか。そんな名前の技師たちがやってきたことがあります」
「そのものたちはどこへ?」
長老が指を差したのは光の道が指し示す方向と一致した。
「なんでも借金で町を追い出され、人生をやり直すための場所を探しているとか」
「しぇるたー、なるものについて、なにか言っていなかったか?」
「いやあ、特に何も」
その後、自由時間になり、四人はバラバラになって、オアシスの町を見て回った。
水が自由に飲めるとはこんなにも人間の品性を高めるものかと驚くほど、寛容で太っ腹な人びとが、やあ今日も暑いね、などと言い、よその土地では危険な殺人鬼呼ばわりされる太陽についても、赦しを与えている。
人びとはほとんどの時間を椰子の木陰の昼寝に費やす。
喉が渇いたら水を飲み、水に飽きたらココナッツ・ジュースを飲む。
影丸は忍具と衣装を脱ぎ捨てふんどし一丁になると、オアシスに飛び込んだ。
水に体が吸い込まれるようで、コロコロと小さな泡が体を取り巻き、冷たい水は途方もなく心地が良い。
驚くほど透き通った水のなかで水草が揺れ、小蟹が素早く石の後ろへ隠れる。
小さなカマスのような魚が群れて水を切り、鱗が鏡のように光る銀色の大魚がその群れ目がけて突っ込んでいく。
影丸は顔をあげて水面から飛び上がり、忍者のみができる不思議な泳法で水を蹴り、気づけばオアシスの真ん中にいた。
そこには黒く冷たい岩があり、そのてっぺんに蛇口があった。刃を落とした手裏剣に似た栓が上についていて、流れ落ちる水は白く乱れて光りながら岩に小さな穴を穿っていた。
ここに来るまで、影丸は様々な理不尽不条理を目にしてきたが、この蛇口ひとつで全てが解決するのだと思うと、これはいよいよ素晴らしい宝具だと思い、鳥居を立てたい気分になった。
あるいは阿弥陀如来みたいに仏の救いがこうして蛇口の形をとって、衆生一切を救わんとしているのかもしれない。
こんなに明白な神仏がありながら、無神論なるものを口にするとはまったく信じられない。




