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文明が崩壊する前、そこには聖域とされた森林があり、全ての民が幸せに暮らせることを祈る司祭がいた。周囲は高層ビルで囲まれ、透明なガラス・パイプのなかを空気圧で走る列車がシュインシュインと音を鳴らす都会のなかで、そうした聖域があることは実に不思議であったが、こうして文明が崩壊し、砂に埋もれたことを考えると祈りは彼らの信じる神に届かなかったか却下されたらしい。
この旧聖域の上には旅の男たちがテントを張り、ひとりの男が湯のみとサイコロを持ち込んだ。その男がイカサマがバレて刺し殺されるまでの一週間のあいだ、トランプが持ち込まれた。その後、トランプをルーレットのようにして遊ぶ方法が持ち込まれ、本物のルーレットが持ち込まれ、花札が持ち込まれ、麻雀が持ち込まれた。パチンコが持ち込まれた。殴り合いでどちらが勝つかの賭けが持ち込まれ、ブックメーカー式のオッズ計算法が持ち込まれた。空気銃による射的が持ち込まれ、自転車レースが持ち込まれたころにはかつての聖域は世界最大の賭博都市となり、テヤンデイ・バーロウと名づけられた。太陽ですら、テヤンデイ・バーロウの空に昇るのは遠慮するほどの光とネオンがぎらついて、ついに人間はクーデターに成功、太陽は追放され、永遠に明けぬ悪徳の夜を手に入れたのだった。
テヤンデイ・バーロウの市街に通じる道には必ず〈ばにい・がある〉なる娘たちがいた。
この〈ばにい・がある〉という娘たちはウサギの耳が生えていて、賭場を開くにあたって、この〈ばにい・がある〉に〈すまいる〉して、客を応対するのが古式ゆかしい伝統の方法らしいそうだ。
やや、これは油断ならぬ町だぞ、と思ったのは影丸である。
というのも、この〈ばにい・がある〉。間違いなくくノ一だ。
煽情的に男を女の魅力で絡めとる一方で、動きやすく夜闇に溶けやすい色の装束。足を覆うものを〈すとっきんぐ〉などと奇妙な呼び名で誤魔化しているが、あれは極めて目の細かい鎖帷子に違いない。
「ようこそ、テヤンデイ・バーロウへ!」
そう言って、にっこり笑いかける〈ばにい・がある〉に影丸は忍び刀の柄に手をやりながら、
「騙されぬぞ、くノ一! どこの大名に雇われたか、正体を現せ――むぎゅ」
チアキとレンが上から影丸を抑え込み、
「悪いね。彼、こういう大きな町は初めてなんだ」
「気にしないで、どーぞ」
「は、はあ」
チアキがドアのない運転席で肩を叩き、水トラックは発進した。
これがくノ一の術中にはまるところを防いだ忍びに対する態度か!とぷりぷりする影丸。
「勘弁してほしいね。きみがバカ丸出しの田舎者みたいな態度をとると、こっちまで同等と思われる」
「でも、シラジラの出身なんでしょ?」
「うぐ」
そのとき、運転手が、お前ら、前を見てみろ、と言った。
荷台に立ち上がり見たのは永遠の夜をバックに輝くテヤンデイ・バーロウだった。ネオンや電気に慣れているはずのレンですら、ため息をつくほどの光と活気があふれていて、太陽を追い出したのも納得がいく。このような危険で美しく多種多様な光の海の上をただ白々としただけの太陽が勝負を挑んでも勝ち目はないのだ。
すでに道の左右では様々な賭博屋が店を開いていた。花札。手本引。亀レース。粗末な長屋に大きな看板をかかげ、自信たっぷりに札や麻雀牌を叩きつける音がきこえる。闘鶏をやっている囲いでは石油缶に弾丸や紙幣、鋼鉄のコインが入れられ、鶏に対して、奇妙な期待をかけている。普通、鶏にかける期待というとおいしいフライドチキンになってくれというものだが、ここでは全ての人間が鶏が勝利することを望む。賭けというものは世のなかの道理を曲げるのだ。むしろ、道理を曲げるからこそ、人はここまで熱中する。
巨大な貯水池のそばでトラックが止まり、大きな蛇口をひねって、なかの水を全部出した。三人もここで降りることにすると、運転手が、
「じゃあな。わしは有り金すってケツの毛までむしられる前に帰るよ。お前らも賭博はほどほどにな」
そう言って帰っていった。
チアキの家は丘の中腹にあった。
緩やかにうねる坂があり、大衆食堂と銘打った看板の店がいくつかあった。カストリと雑炊、賭博で儲けたものにはトンカツの偽物が出される店で、少しでも多くのカネを賭博に使いたい人のことを考えた価格設定にしてある。ギャンブラーというのは変な考え方をする人間で、負けるとそれを食費につける。
雑炊が拳銃弾一発、丁半でスったのが小銃弾五発だと「小銃弾五発の雑炊、高くついたなあ」というのだ。
他にも負けたギャンブラーが「もう二度と賭博はしない」という無意味な誓いがなされたり、道行く人誰にもカネを貸してくれと言いまくる、インフレ紙幣を往来にばらまいて御大尽を気取り世人の失笑を買うなどギャンブラーの生態はめちゃくちゃであり、ギャンブルに興味がない人には全く理解できない動きをする。
テヤンデイ・バーロウに住む人間の九割がそういう人間なのだ。だから、町自体が理解のできない動きをする。忍者的に言えば、人間の判断力をお金の力で鈍らせる金遁の術が常時かかっているようなもので、見習いの身である影丸は自身がこの異常な状態に引っかからないようにしないとならない。
「うさぎの耳とつけたくノ一といい、町ぐるみの金遁の術といい、恐ろしい町だ」
きけば、チアキはギャンブルは全くしないという。ここに住んでいるのはシラジラのようなド田舎に住んでいた反動と賞金首たちと高確率で遭遇できるからだった。
さて、家のそば、屋台が並ぶところまで来る。
と、そのとき、チアキが足を止める。まるで故郷においていった幼馴染の少女に出会ったように驚いている。というか、幼馴染の少女がいたのだ。
チアキ同様、真っ白な顔と髪をしているのだが、その姿は〈ばにい・がある〉である。
「アカネ、おわら、なにしとんぞにもし!」
「チアキ! 久しいぞに。見ての通り、〈ばにい・がある〉させられとるんぞに」
「なしぃに? 里出たんぞ?」
「おう。出た出た。チアキが出てんすぐに、出たぞに」
「剣、どがんしたんぞにもし?」
「とられた」
「はあ!?」
「借りカネのカタじゃにゆうて」
「アカネ、おわら、カネ借りとんきゃ?」
「借りないぞに。ぶっぶ男衆にぐるりされ、まき上げられたんぞに」
「変なことされんかったきゃ?」
「されんかった。でも、借りカネ返すまで、こうしてろ言われんぞに」
「はー。しかし、アカネ。おわら、なんぞシラジラ出たんぞにもし」
「……それ、チアキが出ていったからぞに。寂しかったからじゃ。このズクガタぁ」
「おわら、それゃあ……」
すると、チアキとアカネがちょっとうつむき顔を赤くした。
方言がきつくて細かいところは分からないが、だいたいの意味はつかめた。
影丸とレンが『ほうほう。ウブなやつだな、このズクガタぁ』と言葉に出さずニヤニヤすると、チアキは「うん、なに言おうとしているかは分かるけど、実際口に出したら斬るよ?」と刀の鯉口を切った。
とりあえず、チアキとしてはアカネから剣をまき上げたやつをぶちまわし、剣を取り返し、アカネが〈ばにい・がある〉をしなくても済むようにするべく、バクダンを小瓶一本買って、ポケットに入れた。
アカネはコウゾウ親分に借金があるということになっていたが、この親分、かなり評判が悪く、どうやら田舎からやってきた右も左も分からぬ女性をありもしない借金で縛りつけ、〈ばにい・がある〉に仕立て上げているらしい。
第十四K通りのパチンコ屋。その二階にコウゾウ親分の事務所がある。
「きみたちも来なくていいんだけど」
「なんの。婦女子をたぶらかし、くノ一に無理やり仕立て上げる所業を許して、何が忍びなものか?」
「……そっちは?」と、レンにたずねる。
「なんか面白そうだし」
「……あっそ」
さて、奥行きがやたらとある満員御礼のパチンコ屋をずかずか歩いて、奥の階段を上ると、赤と緑の錆を吹いたトタン板の廊下があり、壊れたパチンコ台が並んでいた。突き当りの扉に『コウゾウ組』とあった。
影丸がさっとうつ伏せになって、右耳をぴったりと床につけ、足音を数える。
「なかには十三人。数では向こうが上だ。ここは拙者の忍法で奇襲をかけ、何が何だか分からぬうちに証文と刀を奪い取って――」
と、言っている横で、チアキは口に含んだバクダンをブッと柄に吹きつけ、
「こん、外道があ!」
トタン戸を蹴破り、切り込んだ。キャラに合わない切り込み隊長資質の突発的発露には〈ばにい・がある〉にされた幼馴染の存在が大いに関係しているのだろう。
「カチくらァすぞに、ボンがあ!」
ビール瓶が割れ、蓄音機が割れ、人間の額が割れた。
「焼き捨てんきに、アカネん証文出せや、こらあ! 出さんに、おわらから焼き捨てっぞに!」
一対十三の戦いはチアキ陣営の勝利に終わり、十三人は後ろを向き、手を頭の上で組んだ。
コウゾウ親分はここにはいなかった。右と左、どっちの腕を刎ねてもらいたい?と脅して、ようやくコウゾウ親分が古の大国の名を冠した風呂屋にいることを白状した。
パチンコ屋から出てくると、影丸がちくり。
「馬鹿をするときは事前に言うのではなかったか」
「ときどき例外をつくると楽しいもんさ。次からはきちんと言う」
「本当か? 頼むぞ」
コウゾウ親分の通う風呂屋は(古の大国の名は出さないでおく。ひょっとすると、その国の人が読んでいるかもしれない)テヤンデイ・バーロウの顔役や上流階級が集まる場所だった。それもそのはずで高価な水を飲む以外の方法でどんどん使うのだから、費用がかかる。
チアキは次はきちんと皮肉をいうクール系キャラの範疇を外れるようなことはしないと約束したが、賭博の町では約束破りは日常茶飯事だし、さっきの様子を見ると、どう考えても守れそうになかった。
その風呂屋は裸の女をネオンや電球で飾った大きな看板を掲げていて、コウゾウはいずれアカネをここで働かせるつもりだったのだと思うと、チアキの怒りゲージが上がってくるのが肌で分かった。実際、チアキの頭からピシッという堪忍袋の緒が切れ始めた音もきこえたのだ。
椰子材でつくった風呂屋の受付にはやらしいヒゲと蝶ネクタイをした男がいて、入湯料として銃弾三発を払えと言ってきた。
今度はピシッと鯉口を切る音がしたので、レンが慌てて弾倉を外して、釣りはいらないとテーブルに放り出した。
その後、女性陣は入れるものならお風呂に入りたいと話し合い、場のムードを和ませようと試み、それは成功したかのように思えた。影丸もそれに波長を合わせて、
「ここは拙者の忍法くらまし雲で敵を倒そう」
説明しよう!
忍法くらまし雲とは雷汞、しびれ茸、火薬、トウガラシを粉にして竹筒に詰めた小さな爆雷を破裂させ、五感をくらまし、敵を無力化する――
「うおらぁ! 外道!」
ガチャン、バリン、と椰子の扉材にハメたガラスが割れ、ケロヨン洗面器が蹴飛ばされて、部屋を跳ねまわった。
また、やりやがった。このズクガタ。
影丸とレンの偽らざる心の言葉だ。
数分後、背中に龍だの鯉だのを彫った三十人の男が手を頭の上で組み、壁に向かって立った。
どうせチアキはこいつらを皆殺しにするんだからとあきらめたレンはアカネを誘って、お風呂に入ってくると出て行ってしまった。
影丸はこの大量殺戮を防止する責任をひとりで担うことになり、自分もあきらめて沐浴したい気分だったが、しかしレンは頼む際に、これは任務だ、と釘を刺すのを忘れなかった。
任務といわれると忍びは弱い。ただの頼み事なら簡単にしらばっくれることもできるが、任務といわれると、これをなかったことにするのは抜け忍になる覚悟が必要だ。
「チアキ殿。このような輩、斬っても剣のけがれだ」
「そうだね。じゃあ、コウゾウ親分を出してもらおうか。それかアカネの証文と剣。いやなら、その背中の鯉の入れ墨もろとも三枚におろすよ?」
「親分はここにはいない」
「じゃあ、居場所を教えてもらおう。でなきゃ、おろす」
「でも、子が親を売るわけには――」
「おろすよ?」
「わ、分かった、分かったから、刀でつつかないでくれ!」
こうしてゲロされた居場所はテヤンデイ・バーロウ最大の賭博場――競艇場だった。




