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小柄な忍者だった。まだ子どもだ。
あどけなさが残るというよりはあどけなさしかない。
あと数年後には精悍な顔になるかもしれないが、とにかく今はあどけない。
それでもキリっとしようと努力しているのは分かる。
だが、まだ十四かそこらだろう。
もっとも、と男はガソリン用の給油ポンプにもたれて望遠鏡を覗きつつ思う。ここの平均寿命は四十歳かそこら。恐ろしく高い乳幼児死亡率を計算に加えれば、二十六歳に跳ね上がる。そう思えば、十四歳は人生の曲がり角を過ぎている。
というのも、ここは砂漠なのだ。
最初から砂漠であったわけではなく、昔は緑もあり、水もあり、メトロポリスもあったのだが、万物の霊長である人類が戦争や環境破壊や自家撞着を繰り返していくうちに砂嵐が文明をきれいさっぱり拭い去ってしまったのだ。
もちろん男自身がその文明に生きたことはない。見たこともない。嗅いだことも踏みつけたこともない。
緑も都市も無料で水が飲めるインフラも、全ては伝承のなかにだけ存在していた。
彼はそれを彼の父親から伝えられ、父親は祖父から、祖父は曽祖父から伝えられたのだが、もちろん彼らもその文明とやらで暮らしたことはない。祖先と子孫と呼べるくらいに離れた時間の果てに文明は存在していた。
それはそうと、忍者の話である。
奇妙なことだが、忍者もまた伝承のなかに存在していた。
むしろ中核のごとく扱われていた。重要度としては水が好きなだけ使える蛇口の次くらいだ。
その昔、水をがぶ飲みできる文明が健在であったころから、忍者の実在を疑う声もあり、実在派と非実在派は不毛な争いを続けていたそうだ。
男に伝えられた伝承は実在派の伝承だった。
忍者は用心深く、様々な術を使って、自身の存在を隠す影に生きるものたちなのだ。だから、我々にその存在が見えないのは当たり前なのだ。見えないからいないなどという非実在派の主張は噴飯物。
さらに伝承のなかには忍者が使う様々な術や超人的身体能力のことも伝えられていた。
忍者は水の上を走ることができるという。
やり方は右の足が沈む前に左の足を踏み出し、左の足が沈む前に右の足を踏み出す。
それは非常に難しい。足が沈むくらいの深さがある水たまりなど見たことがない。
しかし、伝承はこうも言っている。つまり、忍者は足が地面に触れる前に走り続けることができる。
そのため、忍者は足音も砂煙もあげずに疾走することができるのだ。
それは信じてもいいかもしれない。
というのも、あの少年忍者が走っているのは地雷原なのだ。
もちろん、ただ幸運に恵まれているだけかもしれないが、しかし、あの忍者は少し身を低くして、片手を前に、片手を後ろにした伝承通りの、風を思い起こさせる忍者的な走り方をしていた。
さらに長く赤いマフラーのようなものをしているが、それが真一文字に後ろへ伸びている。
このくそったれた砂漠は現在無風状態で扇風機のかわりにもならないから、あのマフラーの動きは純粋に忍者の足の速さだけで作り出したものなのだ。
そんなことを考えているあいだにも忍者の姿はみるみる近くなり、あ、と言ったら、もう三歩先で立っている。
近くで見ると、もっと童顔で小柄だった。
砂で白っぽくなった袴はややぶかぶかな気がするが、そもそも男は生まれて初めて袴を見る。
それに対し、上のものは紺のハイネックで、本来なら上半身をぴったり覆うはずが、なぜか肩から二の腕のなかばは生地がなく、肌があらわになっている。そのため、袖は袖というより長い手袋のようになっていた。きっと服をつくるやつに払うカネをケチったのだろう。
ともあれ、言い伝えられた忍者が彼の目の前にいる。
忍者は背中に忍び刀を背負い、もはや伝説の域まで伝え高められた手裏剣を腰より垂らした紐でくくっているのだ。
もちろん、伝説として遭遇するならば水をがぶ飲みできる蛇口のほうがいいに違いないが、人間が砂漠で幸福に生きるコツは第一のかないっこない願望の次に割といけそうな二番手を用意することだ。忍者との遭遇はまさに二番手だった。
とはいえ、一応確かめておいたほうがいいだろう。
「お前、忍者か?」
すると、少年はちょっとびっくりした。
「なぜ拙者が忍びと分かった?」
「見れば分かる」
「おぬしも忍びか?」
「いや、おれは水屋だよ」
「水屋。ふむ、ともあれ名を明かしてもよさそうだ。拙者は影丸と申す」
「忍者の影丸ね。いいね。忍者らしい名前だ。たぶん何百人という忍者がそう名乗っただろうな。おれに子どもはいないし、つくれる見込みもないが、もし子どもがいて、それを忍者にするってときは影丸って名前にしたいもんだ。水屋なんて生き方、おれの代で十分だよ、くそったれめ」
男は彼が寄りかかっているガソリンポンプの上を指差した。
ポンプのてっぺんにはガラスの球体があり、そのなかに透明の液体がたたえてある。
「ここでおれは水を売ってるんだ。ガソリンじゃなくな」
「がそ、りん?」
「知らねえのか? 乗り物を動かすためのくせえ水だよ」
「むう。なぜ馬や牛を使わぬのだ?」
「馬や牛がいるような場所に見えるか?」
水屋が手を広げて、周囲を指した。
どこまでも広がる熱砂は南と西ではもやのなかに消え、北と東は頂上がテーブルみたいに平たい岩山まで伸び、その青灰色に濁った麓につながっている。
人家らしいものはちらほら見えた。トタン板に人間の創意を結集させた小屋が、水か熱か追剥か、あるいはそのトリプルによって放棄を余儀なくされ、傾きながら砂に沈みつつあった。
あとは西の地雷原の中央にある戦車だ。現役時代は五十七ミリ戦車砲と車載機関銃でバリバリ人を殺した彼女もいまではジャンク拾いを地雷原へと誘い込むくらいの殺傷力しかない。
「おれはいつも言ってるんだ。あそこは地雷が埋まってるから行くな、って。でも、ジャンク拾いたちの考えることはわかるだろ?」
「分からぬ」
「鉄くずを前にすると見境がなくなる」
「ジライとは?」
「地面に埋めて、踏んだらドカン」
「フム、埋火のことか。つまり、鉄をほしがるものたちが埋火を踏むというのだな」
「そういうことだ。ところがジャンク拾いたちってのは馬鹿だから、もっと前に来たもっと馬鹿なジャンク拾いたちがすでに地雷を全て踏み終えたって思っちまうんだ。で、どっかーん」
「欲ずくの末路とはいえ、悲しいことだ」
「おれには笑えるがね。ところで忍者ってのは任務ってのがあるんだろ?」
「おお、その通りだ」
任務についてきかれて、「おお、その通りだ」と感心したように言う少年忍者。任務を忘れていた可能性無きにしも非ず。この影丸は見習いか駆け出しなのかな、まだ子どもっぽいし、と思いつつ、影丸が腰の竹筒から取り出した紙切れを見る。
それはまだ水をがぶ飲みできた時代に刷られたチラシだった。
かなり色あせていて、全てが薄い青に消えつつあった。それでも、大きな金庫の絵が正面から描いてあって、開かなくなったら、ここ! と書いてある矢印の先には〈株式会社タイラ・ミナモト製作所〉とあるのは分かる。
「拙者、わけあって、そこに行かねばならぬ。存知ないか?」
「分からんね。なにせ、こいつは街が砂のなかに消える前のチラシだ。博物館に飾っておくべき代物だ。まあ、そんなもんがまだあればの話だが。それに、この店が残っているかも怪しい。ところで、なんで、このタイラ・ミナモト製作所に行かにゃあならんのかね?」
「任務ゆえ話せぬ」
「おお、ほんとに忍者みたいだな」
「ムム、失礼な。拙者は忍びだ」
「まだ見習いだろ?」
これは山勘だったが、図星らしく、まず、少年忍者は自分が見習いなどではないことを説明しようとしたが、どうしても言葉がキョドキョドしたものになってしまいそうなので、少し方針を変えて、見習いではなく駆け出しであると言おうとしたが、見習いも駆け出しも実際のところ、変化はなく、ひとりで任務を遂行できない。
忍びの威厳を保ちつつ、自身がまだ成長途中の忍びであることを隠すにはどうするか考えた結果、
「任務ゆえ話せぬ」
で、やり過ごすことにした。
「まあ、いいさ。どのみち、オヤジもじいさんもひいじいさんもひいひいじいさんも正しかったことが証明されたわけだし。水、飲んでけよ。本物の忍者を見た記念にタダでやるよ」
「かたじけない」
クソ意地の悪い太陽光線の下、地雷原を駆け抜けるのはやはり喉が渇くらしく、ぬるくてガソリンのにおいがする気のする水も名所の甘露のようにうまい。
「で、忍者はどこに住んでるんだ? そこには緑はあるか? 水をいくらでもがぶ飲みできるのか?」
すると、影丸はちょっと困った顔をして、
「それが分からぬのだ。任務ゆえ話せぬが、拙者は気づくとここにいたのだ。ここがどこなのかも分からぬ。まるで拙者が暮らしていたところとは全く異なる国か時代に来てしまったようなのだ」
「ふうん」
それともうひとつききたいのだが、と影丸はタイラ・ミナモト製作所のチラシを竹筒におさめながらきいた。
「鏡を知らぬか? これも探しているのだが」
男は崩れかけたガソリンスタンドの横にあるコンクリートの建物を指差した。