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わたしの幸せな結末から  作者: 汪海妹
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奥さんの本気













奥さんの本気












夏美










ピンポーン。チャイムがなってインターホンを覗くと、見たことのないきれいな女の子が映っていた。


「すみません。わたし、ご主人の中條さんと同じ会社の栗原と申します」


日本人だった。


「仕事に必要な資料をご自宅に届けるように言われたもので……」

「あ、はい、ちょっと待ってくださいね」


オートロックを外す。


「こちらを後でご主人にお渡しいただけますか?」


玄関先で帰ろうとする彼女を引き留めてあがらせた。


「折角いらっしゃったからお茶でも飲んでいってください」


わたしがお茶を淹れている間、彼女はリビングをうろうろして、飾っている写真を眺めたりしていた。


「どうぞ」


紅茶と茶菓子を出す。


「すみません。お言葉に甘えちゃって」


面と向かって座ってお茶を飲む。


「きれいなお嬢さんですね」

「ああ、ありがとうございます。生意気で困ってるんですけどね」

「ご主人もすてきですし、お幸せですね」

「いえいえ、そんな……」

「素敵なご主人を持つといろいろ気苦労されるんじゃありません?」

「はぁ」


気苦労?


彼女はゆっくりとお茶を飲む。ほんとうにきれいな子だった。事務所に日本人の女の子がいるなんて話、してたっけ?


「この前、金曜日の夜、ご主人お家に戻ってこられました?」

「ああ、あの日は中澤さんの家に泊まったって言ってましたけど」

「それ、奥さん信じてらっしゃるんですか?」


彼女の表情が少し変わる。なんというか、目がねっとりとしている。ちょっと息苦しく思う。空気が重い。


「信じるも、何も……」

「ほんとうは……」


彼女の赤い唇が生き物のように動く。わたしはそこから目を離せない。


「朝までわたしと一緒にいたんですよ」


一瞬しんとする。何を言ってるのかしら、この人。


「驚かないんですか?」

「十分驚いていますけど」


もう一度しんとする。彼女はまたしっとりとお茶を飲む。今何時だろう。太一は一度帰ると友達の家へ遊びに行き、千夏はもうそろそろ戻るはずだ。お茶を飲む彼女を見ながら、そんなことを考える。彼女はおどおどもびくびくもしていない。とても冷静で、そして、わたしの反応を見て、この状況を楽しんでいる。


「あの、それ本当なんですか?」

「といいますと?」

「わたし、主人のことはかなり昔から知っていますけど、嘘のうまい人じゃないんです。あの夜も中澤さんちに泊まるって電話してきたけど、いつもの彼でした。とても嘘をついているような感じじゃなかったわ」

「奥さんの知らないご主人もいるって思わないんですか?」


少し考えてみる。


「人生何が起こるかわからないから、もしかしたらわたしの全然知らない彼がいて、平気で嘘をつくなんてこともあるかもしれませんけど……」


彼女は美しいアーモンド型の目で、わたしをじっとみつめた。


「それはテレビや映画ではあるかもしれませんけど、わたしたちは普通の平凡な夫婦ですから、やっぱり彼がそんなに上手に嘘をつくなんて信じられませんね」


彼女はまゆをほんの少しひそめた。


「あの、どうしてわざわざそんなことをわたしに、しかも、直接会いに来て話されるんですか?」

「おかしいですか?」

「かなり変わってるわ。そういうことがあったにしろなかったにしろ、あなたがわざわざわたしに教えなきゃ、わたしが知ることはないですよね。わたしが知ることであなたになにかメリットがあるんですか?」

「ありますよ。メリット」

「何ですか?」

「おもしろい」


ため息が出た。


「人を困らせたり混乱させておもしろいだなんて、あなたちょっとおかしいと思うわ。初めて会った人に失礼ですけど」


ただいまー。玄関のほうで千夏の声がした。


「娘も帰って来たんで、もうお引き取りいただけますか?」


あれ、お客さん?と言いながら千夏がリビングに入ってくる。


「お父さんの会社の人よ。仕事の資料届けてくれたの」

「初めまして」


千夏がぺこりと頭を下げる。


「こんにちは。お邪魔させていただいております。それでは用も済みましたし、失礼いたします。中條さんによろしくお伝えください」


こんな内容の話の何をどうお伝えしろっていうのだろう。


***


「ただいまー」


いつもみたく11時近くなってやっとせいちゃんが帰ってくる。わたしは帰ってきたせいちゃんの正面に立ってじーっと彼を見る。


「なに?俺の顔になんかついてる?」


普段どおりのせいちゃんだよな。リビングに上着脱ぎながら入ってきた彼はテーブルの上を見て足を止めた。


「何、これ?」


彼の会社名の印刷された茶封筒。


「あなたの会社の人が来て置いてったのよ」

「誰が?」

「栗原さんって女の人」


彼は雷に打たれたように急に動かなくなる。


「彼女、何だって?」

「いろいろ変なこと言ってた」


せいちゃんはわたしの顔色を見ている。


「なんて?」

「この間、あなたが中澤さんちに泊まったって言ってたあの日、本当は朝まで一緒にいたって……」

「……」

「本当なの?」

「いいえ。俺は中澤ん家にいました」


そう言って彼はスマホを取り出した。


「あいつに電話するよ」


画面を開く。


「いいわよ、別に。あなたが中澤さん家にいたっていうなら、わたしは信じるから。もう遅いし」

「ほんとうに?」


わたしは頷いて見せた。













清一









僕は立ち上がって、彼女に近づいて抱きしめた。


「嫌な思いさせてごめん」

「どうして彼女はこんな変な嘘をつくわけ?」

「……」

「あなたが言うことを信じるからちゃんと話して」

「嫌がらせ、かな?何度か誘われて全部断ったから」


はぁ~。なつがため息をつく。僕は何も言えなくて、彼女をもう少し強く抱きしめて、首筋に顔をうずめた。彼女の体温とにおいを感じる。


「もうわかったからお風呂入ってきなよ。明日もまた仕事だよ」


彼女は僕の頭を軽くぽんぽんとたたく。


「久しぶりに一緒に入ろうか」


彼女は笑った。軽く声をたてて。


「わたしはもう入ったし、それに子供たちが起きてきて見られたらなんて言い訳するつもり?」

「仲直りしてるんだって言うよ」


ばかねと言って彼女は体を離す。


お風呂からあがって髪の毛を乾かしてから寝室へ行くと、なつはもう横を向いて僕に背を向ける形で眠っていた。口ではなんでもないふうに言っていたけれど、その背中はかたく僕を拒絶しているように見えた。そして、僕は不安になった。ここのところどたばたとした毎日でくたくたに疲れていた精神が、今日とうとうなつに知られるという最悪な形で収束したことでプチンと切れてしまった。ただ、泥のような疲労と不安が胸に広がった。


電気を消して彼女の横に滑り込んで窓から入り込むほのかな明かりだけをたよりに彼女の背中を見つめた。


「なつ、もう寝てる?」

「……なあに?」


もう一回しつこくごめんと言いたかった。でもたとえ50回言っても、100回言っても、僕のこの胸の中にある不安は消えない気がした。彼女は1回目で許すだろう。50回言い終わる前に早く寝ようというだろう。僕たちは明日の朝はいつも通りに普通に挨拶して生活するだろう。


だけど、本当にそれでいいんだろうか?そういうふうに過ぎてしまって。


僕は背中から彼女を抱きしめた。今晩は彼女を朝まで離さずこのまま寝たかった。なつはしばらくがまんして、それから言った。


「ねえ、せいちゃん。苦しいよ」

「……」

「ほら、朝までこんなことしたら、下のほうにした腕が明日普通に動かせなくなるよ」


そういって結局もぞもぞと動いて、僕の腕の中から逃げていってしまった。


「本当は怒ってる?」

「なんで?」

「こっち向いてくれないし」


なつは顔だけくるりとこっちに向けた。電気を消しているからぼんやりとしか見えなかったけど、僕はそれだけでずいぶん気持ちが落ち着いた。


「寝られないよ」

「どうして?」

「君が怒っているかもしれないって考えて」

「怒ってないよ。だから寝なさいよ」


僕はしょうがないので目を閉じだ。


「何もなかったっていうけど、キスくらいはしたんじゃないの?」


僕はもう一度目を開けた。


「ええっと……」

「待って。やっぱり答えないでいいよ」


彼女はそう言った。


「こういうときはね。はいって言われても、いいえって言われてもいらいらするものだから。だから、もういい」


そういって彼女はお休みと言ってまた僕に冷たく背中を見せた。僕はしかたなくまた彼女の背中を見つめた。怒っていないわけがない。それでもソファーで寝ろと言われないだけまだましなのかもしれない。


最低最悪な夜だった。


***


「あのさ、ちょっといい?」


出社早々栗原を呼び出した。2人でフロアの外の非常階段の踊り場に出る。


「家まで来ていろいろ言ったって聞いたんだけど」


彼女は何も言わない。


「こういうことやって、ほんとに楽しいの?」

「怒っていますか?」

「半分怒ってて、半分あきれてるよ。なんか所長から日本でもいろいろ問題起こしたって聞いたけど……」

「わたし、くびですかね」

「知らないよ。とにかく、俺と俺の家族にいろいろするのはやめてくれよ」

「いいですよ」


え?


「もう、気が済みました」


なんか、すごいあっさり。じゃあ、今までのは一体何だったんだ。


「急に引かれて、ちょっともったいないことしたかなって思ったでしょ?今?」

「いいえ。思っていません」


彼女はにこっと笑った。普通にかわいかった。悔しいことに。


「なんか中條さんの奥さん、初めはフツーの人だなって思ったけど、いい人だったし」

「どこが?」

「まっすぐ、なのかな?負けました。わたしの嘘なんか全然動じなくって、中條さん、奥さんにすごい信頼されてるんですね」

「うーん」


そうなのかな?


「大事にしてあげてくださいね」

「それ、君が言うの?」


彼女はにやっと笑った。


「ね、栗原さんってさ、俺でなくてもよくてただからかう対象がほしかっただけだよね」


彼女は非常階段のてすりにつかまって、体をぶらぶらさせている。今日はスカートではなくパンツスーツだった。


「どうしてそんな変なことばっかしているの?」

「どうしてかなー」

「ほんとうにくびになっちゃうよ」

「別に、なってもいいです」

「簡単に言うなよ。内定取れなかったやつが泣くぞ」


彼女は黙って目下に広がる街並みを見た。


「君がもてあそんだ男の中には、君に本気になる人っていなかったの?」

「本気ってよくわかりません」


ああでも、彼女は言った。


「中條さんの奥さんみたいのが本気っていうんですかね」

「なんでまたうちの奥さんが出てくるの?」

「どうして信じられるんだろうって思ったから。なにも確かなものなんてないのに。騙されているかもしれないのに、どうしてちっとも疑わずに信じられるんだろうって」


彼女は手すりにつかまったまま、しゃがみこんだ。動物園の檻の中にいる動物みたいで少し幼く見えた。


「こんなことばっかしてちゃだめだって頭のどっかではわかってるんですけどね」

「じゃ、止めればいいじゃん。もうそういうどうでもいい恋愛するの、やめたら?」


なんか、このセリフ、大昔に誰かに言われたような気がするけど。


「そういえば、俺も昔は君にちょっとだけ似てたかもな」

「中條さんがですか?まじめで堅くて……」

「つまらない男でしょ」


僕は後を引き継ぐ。


「最初っからまじめで堅かったわけじゃないな。そういえば、忘れてたけど」


女の子にぶたれたりしてたな。


「なんで変わったんですか?」

「うーん」


それはやっぱりなつなんだろうな。でも、それはもったいなくて栗原には言いたくなかった。


「いい人と会えば、君のその趣味も終わらせられるんじゃない?」


彼女は答えずにじっと僕を見た。


「じゃ、誰か紹介してくれます?」

「……」


こいつを紹介するのか。このデストロイヤーな人を。それは果たして相手に感謝される行いなんだろうか。


「いませんか?誰か」


最初は間違いなく感謝されるだろうけど、その後は……。犠牲にしてもいい男を頭の中の知り合いリストから検索していく。


「……日本人がいいの?」

「別に素敵な人だったら外国人でもいいですけど」

「でも、たった3か月じゃん」

「わたし、3か月も男切れたことありませんよ」

「君なら別に俺がわざわざお手伝いしなくても、そこらへんでいくらでもひっかかるんじゃないの?」

「それって所謂どうでもいい恋愛っていうんじゃないですか?」


たしかに。


「それとも気を取り直して、中條さんが教えてくれますか?どうでもよくない恋愛ってやつ」


彼女は斜め下方から僕をしっとりと見つめた。気が付けば僕たちは手すりに仲良く並んでいて、彼女がもし、また、この前みたいに突然キスをしようとしたら、簡単に捕まる位置に僕は立っていた。半径50㎝を思い出して、僕は退いた。


「おじさんをからかうのはやめてくれ。心臓に悪い」

「年寄ぶって逃げる気ですか?一回り上なんて全然守備範囲ですけど、わたし。若い子なんて別に話してておもしろくないし」

「だから、既婚者狙い撃ちにするの?」

「素敵な人って大体結婚しちゃってるんですよ。わたし、別に遊びたいわけで、結婚みたいな形で自分のものにしたいって思ってるわけじゃないから、既婚者でも全然ありなんです。それだけですよ」

「ちなみにうちの所長ぐらいだったらどうなわけ?」

「守備範囲外です」


やっぱり。


「誰か紹介する。紹介するから俺のことはほっておいてくれ」


紹介した相手がこの際、悪魔に食われてしまおうと知ったことじゃない。大事なのは自分だ。いつだって最後にはね。


「やっぱり中條さんってつまんない男ですね」

「つまんない男で結構です」


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