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わたしの幸せな結末から  作者: 汪海妹
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人生は平凡が一番

「ああ、あれは返さないでいいわよ。」

結婚式のときに借りたお金の一部を返そうと相談に行ったときに母に言われた。

「どうして?」

ご祝儀でもらった部分で予定したよりお金があまったので口座に振り込もうと思ってた。すりすり足元に何か触れる。

「ラッキー」

僕は彼女の頭や首や体をなでた。母が飼っているコリー犬だ。

「もともとそのつもりだったのよ。」

「でも、老後資金なんじゃないの?」

「返せと言って貸さないとあなたなんだかんだ言って断るでしょ。」

ラッキーは僕を振って母のそばへいくと、座ってる母のかたわらにうずくまった。最近母のことでわかったことがある。母は意外に僕の行動や思考のパターン、性格を知っている。

「そして、指輪も式も新婚旅行も後回しにして、籍だけ入れて済ませると思ったのよ。それじゃ、なっちゃんがかわいそうよ。何事もはじめが肝心だからね。」

ラッキーは母になでられて、幸せそうな顔をした。

「前から思ってたけど、母さんってなつに優しいね。」

母はうーんとちょっと考え込んだ。

「鈍感な息子の横で何年もがんばっているの見てたからね。」

「鈍感って……」

「なんか、けなげな子って結構好きなの。あなたに合ってると思うわよ。ああいう真っすぐに一生懸命な子って。」

自分がほめられたように嬉しかった。

「なかなか暖かくならないわね。」

母はカーテンごしに外を眺めた。来月は4月。でも、まだ寒い。僕はもう一つの用件を切り出せずに、ソファーに座ったままぐずぐずしていた。ほんとういうと、もう今日はあきらめて帰ろうかと思ってた。先生も無理にとは言っていなかったじゃないか。少しずつ時間をかけたっていいじゃないか。そういうふうにさまざまな理由(言い訳)が、壊れたラジオからどんどん音があふれるように、心の中に湧き出てくる。

でも、僕は決めていた。子供が生まれる前までに話し合いたいって。きっと先延ばしにしていたら、どんどん先になって、僕は転勤になって、仙台を離れるだろう。そしたら、きっと一生……。

「清一、何かほかに話があるから、来たんでしょう?」

そう言った母の表情は波ひとつない湖のように静かだった。

「顔見ていたらわかるわ。」

僕は顔をあげて母を見た。

「今、心療内科の治療受けてるんだ。愛着障害って診断された。」

母は立ったまま握っている椅子の背をつかむ手に力を入れた。そして、瞳の色が両目ともに濃くなった。だけど、それだけだった。最初は強いのだと思った。だけど違う。彼女はただ、人生の中で様々な衝撃と痛みを受けたことがあって慣れているだけなんだ。

「わたしをどなりつけたり、なぐったりしてもいいわよ。」

母はまるでずっと準備してきたセリフを読んでいる女優のようだった。僕たち家族という映画があるなら、たしかに母はヒロインだ。

「そういうことがしたくて来たんじゃないよ。それに生まれ変わりでもしなきゃ僕は人をどなりつけたり、なぐったりできないと思うよ。」

そういうキャラじゃないんだ。静かな部屋の中でラッキーがくうんと鳴いた。

「何があって母さんは僕を、生まれたばかりの僕の世話ができなかったのか、自分の耳で母さんの口から聞きたかったんだよ。」

「それは、今まで聞きたがったことないのにそれをきくのは、近くあなたが父親になることと関係してるの?」

僕はうなずいた。

「自分が親になる前に心を整理しておきたくて。」

母さんはいすから手を離して、すとんと座った。今日は白い長いワンピースを着て薄いグレーのざっくりしたニットを羽織っていた。母は僕から目線を外して、まどの外を眺めた。僕は静かに待った。

「あなたには聞く権利がある。ただ、言っとくけど、1ミリも面白い話じゃないわよ。」

「うん。」

「わたしの話を聞いて、もっとひどくなることはないの?あなたのその……」

「愛着障害?」

僕も最近になって初めて覚えたことばだ。

「わからないけど、お医者さんには、母さんと直接話すことを勧められてる。」

母さんは深く息を吸った。それから話し始めた。

「母さんが、父さんの前に別の人と結婚していて、その人を亡くしてる話は聞いたことがあるの?」

「それは、父さんに聞いたけど。」

「その人が亡くなった瞬間にね、わたしも一緒にいたのよ。あの人が運転した車で一緒に事故にあって、彼は死んでわたしだけが生き残ったの。海沿いのきりたった岸に沿った曲がりくねった道で、前方から居眠りのトラックが突然とびでてきて、警察の人によると普通は人間はとっさに自分が避けるようにハンドルをきるんだそうで、あの場面では右にきるのが普通なんだって。でも、トラックは大きかったからそれだと助手席にいたわたしは避けきれずに即死だったろうって。彼はその場面でハンドルを左へきったのよ。」

少しだけ母の声が揺れた。

「トラックがぶつかって、二人一緒に崖から海へ落ちた。ただ、もうすごい衝撃で、しばらくして気づいたら、水がどんどん車に入ってきてて、無我夢中でシートベルトはずして、ドアをあけて、彼のほうをみたら血を流して気絶していて、彼のベルトをはずしてひきずりだそうとしたんだけど、すごい勢いで水が流れ込んできて」

母の顔がどんどん白くなっていく。辛いことを言わせているのがわかった。

「なにがなんだかわからないうちに母さんだけ外に押し出されてた。彼を載せた車が沈んでいくのを見た気がした。そこらへんからもう、記憶は曖昧でね。それから、次、気が付いたときはもう病院のベッドの上でね。1週間ぐらい昏睡状態だったのかしらね。彼のお葬式やお通夜は終わっちゃってたのよ。彼、もう、灰になってしまってた。」

ラッキーがはっはっはという音がしばらく静かな部屋に響いた。

「その後いろいろあって、わたし、手首を切ってしまったの。1回目の自殺未遂。父さんが見つけて助けてくれて、そのときに言われたのよ。『柊二が死んだのは塔子さんのせいじゃない。でも、あなたが自殺をしてお腹の子が死んだら、それはあなたのせいだし、あなたは人を殺したことになる。よく考えてよ。その子は柊二の子なんだよ。柊二がそんなことを望むと思う?あなたに生きてほしくてハンドルを左にきったのに。そのあなたとお腹の子に死んでほしいなんて、あいつが思うわけないじゃないか。』って。」

なんだって?

「母さん、今、なんて言ったの?」

「清一、あなた、父さんの実子じゃないの。」

「え?」

「事故で死んだ彼と母さんの子供なのよ。」

「冗談でしょ?」

「こんなことで冗談言うわけないでしょ。」

「だって、誰も一度も…。」

「かたく口止めされていたからね、父さんに。」

それでも僕は信じられなかった。僕が父さんの子じゃないって、どういうこと?

「清一、あなた自分の顔とか体とかどこか父さんに似ているって思うところある?」

「でも、それは僕が母さんに似たからじゃ。」

「どんなにどっちかに偏って似ていてもね、やっぱりちょっとした部分がもう片方にも似ているものよ。足とか指の形とか耳とかね。」

何の音も何もしばらく感じなかった。真っ白な中でちょっとだけ我を失った。

「知らなかった。」

「教えてこなかったからね。」

母さんは立ち上がって、かばんの中からライターとたばこを取り出した。一本くわえて吸い込むと、煙を吐き出した。

「こんなこと聞いたら、あなたほんとにもっとひどくなっちゃうんじゃないの?」

「……どうだろう?でも、ここまで聞いちゃって最後まで聞かないってありえない気がするけど。」

母さんははあとため息をついた。

「わたしを生かすために彼が死んだっていうのが、わたしが彼を殺したっていうふうに思えて、ただそれがもうつらくてしかたなかった。ただもう、彼のところへ行きたかったのよ。でも、あなたがお腹にいたから、やっぱりすぐにはね、死ねなかったわ。父さんが言ってたことは正しいわよ。あなたは、関係ないものね。」

「僕のこと恨んだ?いなければ死ねたのにって。」

母さんは僕を見た。

「清一そうじゃないの。あなたがいたからじゃないのよ。ほんとは母さん死にたくなんてちっともなかった。ずっとそうだった。あなたがいたから理由ができただけ。それを認めるのにただ時間がかかってしまっただけ。自分が彼が死んでも生きたがっていることが認められなかったのよ。死んでしまった彼に申し訳なくってそれで何もできなくなってた。あなたを抱っこしたりとかそういう母親としての普通のこともね。」

「おばあちゃんも知っていたのかな?僕が父さんの子じゃないってこと。」

「直接聞いたことないけど、知ってたんじゃないかしら。自分の手で父さんのこと育てたんだから、ちっとも似たとこがないってあなたの世話してたら気が付くと思うのよね。」

「それでもあんなに僕によくしてくれたんだ。」

おばあちゃんのいつも穏やかだった笑顔が心に浮かんだ。

「父さんはね、自分の血を分けた子は要らないって言ったわ。何度か話し合ったけど。清一の下に自分の血を分けた子供ができたら、どうしたってその子のほうがかわいく思えるに違いないからって、そうしたら清一がかわいそうだからって言ったのよ。まぁ、ずいぶん遅くなってやっと自分の子を持ったけどね。」

「そうだったの?」

「そうよ。あなた、愛されて育ってるのよ。すごく。」

「父さんは、どうしてそんなことできたんだろう?他の男の子供を育てるなんて。」

「父さんは、柊二さんといい友達だったのよ。大事な友達の残したものを守る気持ちもあったんだと思うわ。」

恋愛感情がなければ、きっとできるんだと思う。友愛のような気持であれば。でも、自分を見てくれない好きな人をそばに置いて、その相手の男の子供を育てるなんて。

「僕にはできない、そんなこと。」

「しなくてもいいわよ。」

母さんはたばこを深く吸って大きく吐き出した。

「女ってね。嫌いじゃない男とは結婚できるのよ。でも、好きな男と嫌いじゃない男の間には大きな差があるの。父さんがいないとわたしもあなたも生きていけなかったから、すごく感謝している。だけど、だから好きになるわけじゃない。結構罪悪感があったのよ、ずっと。だからね。」

ラッキーはしっぽを振りながら母にくっついている。

「正直、父さんに他に女の人がいて、子供が生まれるって聞いてほんとほっとしたのよ。やっとこの人は報われないことから自由になって自分の幸せを探し始めてくれたってね。」

とても悲しくてだけどそれは嘘偽りのない真実だった。父さんと母さんの。

「肩の荷が下りたわ。あなたも結婚したしね。」

「それで、また死ぬなんて言わないよね?」

母さんは目を丸くしてこっちを見て噴出した。

「やあね、母さんは生きてきて今がいちばん楽しいんだから、勝手に殺さないでよ。」

驚いた。こんな笑い方をする人じゃなかった。こんな顔いっぱいに広がるような笑顔。

「本当にもう、男作らないの?」

それを見てつい聞いてしまった。ぽろっと。

「母親に向かってなんて口きくの?前も言ったでしょ。くどい子ね。わたしはラッキーがいればいいの。」

「ラッキーはめすだけどね。」 

きれいな人だ。自分の母親をほめるのもなんだけど。今からだってきっとこの人のために胸を焦がす男だっているだろうに。全部よせつけないんだな。

「さあ、もうぐずぐずしないで帰んなさい。なっちゃん、一人で寂しがってるわよ。」

母さんはラッキーを連れて散歩に出る。僕は遠回りして彼女たちと一緒に土手沿いの道を歩く。

「なんでラッキーって名前にしたの?」

「なんか昔アニメでそんな名前の犬が出てくるの、あったじゃない?真似したのよ。」

それって名犬ラッシーだと思うんだけど。

「それに幸運ってなんかいいじゃない?」

幸運と不幸か。

「母さんの人生って映画やドラマみたい。」

「ばかね、映画みたいな人生なんてろくな人生じゃないわよ。映画やドラマなんて見るものであって、中に入りこむものじゃない。本気でタイムマシンがあればいいのにと狂ったように思う人生なんて最低よ。人生は平凡が一番。大切なのはその平凡な幸せがたくさんの奇跡の上に成り立っていると感じながら生きることなのよ。」

「奇跡の上に成り立つ平凡な幸せ?」

「そういうのが実感できない人が、ばかげたあやまちをおかすものよ。」

「例えば奥さんがいるのに浮気しちゃうとか?」

「あなたも十分気をつけなさいよ。」

途中で母はラッキーの首から散歩紐をはずした。ラッキーは川べりの草地をはしゃぎながら走り回った。


「俺とその人って似てるの?」

母さんはじっと僕を見た。

「顔は似てないけど、背格好はそっくりよ。後ろ姿を見たら本人かと思うくらい。」

「ほんと?」

僕は母さんに背中を見せた。

「どう?やっぱり似ている?」

返事がなくて、振り向くと母さんが涙ぐんでいた。

「ごめん。ちょっとふざけちゃったかな。」

「大丈夫よ。」

「こんなに時間たっても……」

「忘れられないわね。」

母さんは軽く目を閉じて、深く息を吸った。

「おかしいなぁって思うわよ、自分でも。世の中にはたくさん男の人がいるし、もうこんなに何年も経ってるのにどうして忘れられないのか、頭でいっぱい考えたけど、その理由はわからない。だから、理屈じゃないのよね。こういうのって。」

 父は何度かしつこく母の元に定期的に帰るようにと言っていた。僕には本当の理由が今、わかった。彼は母に亡くなった柊二さんの面影を見せるために、僕に帰れと言ったんだ。そして、父は母が僕の背中を見て柊二さんを思い出している姿を、横で眺めていた。眺めながら月日を過ごしていたんだ。そして、耐えられなくなって清澄さんに頼ったんだ。今更ながら、僕は何も知らなかった。そう思う。

「母さん……」

「なに?」

「俺、今日なんかすごいいろいろ聞いてびっくりしたけど。」

「うん。」

「その、俺にとってはやっぱり父さんは父さんだから、今日聞いたことは聞かなかったふりをして今まで通り暮らしていってもいいかな?」

「好きにしなさい。」

母はそれからちょっとしてから付け加えた。

「母さんが、ずっと秘密にしてきたことを今日話したかったのは、ただ、父さんがどれだけあなたを大切に思ってきたか教えたかっただけだから。新しい子供は生まれるけど、今まで通り、というか、今までしてもらったことを感謝して、彼が死ぬまで彼の子供として親孝行してくれない?わたしが言うのもなんだけど。」

「…うん。約束するよ。」


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