その1
私には彼氏がいる。
その彼氏はカッコいい上に、彼氏様、と崇めてもいいくらいにはハイスペックだ。
身長185センチ、細マッチョ。8頭身とまではいかないかもしれないが、モデルばりの手足の長さと小さな顔。大きな目は光の加減で黄色にも飴色にも見える不思議な色をしていて綺麗だし、鼻筋は通っていて、唇は少しぽってりなセクシーさを持っている。
それだけでも十分、人目を引くのだが、彼のすごさはこれで終わらない。
彼はとても優秀で、某大手医療機器メーカーの開発部に所属をしている。海外出張もあるので、英語は堪能だし、中国語にドイツ語も話せるらしい。まだ26歳だというが、就職したときから出世コースに乗っかっているエリートだ。
もはやそれは人間なのか、と言いたくなる彼氏様だが、一つだけ問題がある。
彼は女癖が非常に悪い。
ハイスペックすぎる彼は、非常におモテになる。それこそ入れ食い状態だ。
そして彼もそんな状態を有効に活用している。つまみ食いで終わりの時もあるし、そのまま彼女に昇格させることもある。
私が認識している彼女は、4人。どの女の子も美人だ。みんな顔立ちが似ていて、猫目のクールビューティ系だから、たぶん彼の好みがそうなのだろう。
そんな中に私は5人目の彼女として存在している。
見た目はクールビューティとは程遠い童顔で、残念ながら能力的にも低い、どこにでもいるOLが。まさかの彼女なのだ。
なぜ、彼の仕事やプライベート事情を知っているかと言うと、2番目の彼女さんが教えてくれたからだ。彼氏様はパーソナルデータを話すのを、とても嫌がる。だから、私が彼から直接聞いたことなどほぼない。
細かな話は省くが、要は牽制というやつだったのだと思う。
『あなたは5番目なの』
冷たく微笑んだ2番目の彼女さんの言葉は、今も胸の奥に引っ掛かっている。
彼がモテる人だと分かっていたし、もしかしたらと思っていたから、そのこと自体はすんなりと受け入れられた。…だって、彼から誘われる決まって金曜日。何故金曜日だけなのだろう、と疑問に感じていたが、彼女が5人もいるなら納得だ。
けれども、事実を他人から告げられると痛かった。
それでもこの関係は止められない。好きな人と一緒にいられる時間があるのならいいや、と前向きに考えることにしている。
…ただ、1つだけ。
たった1つだけ、こんなことを続けていて良いのだろうかと思う瞬間がある。
周りの女の子たちが結婚をし、幸せだと言う言葉を聞く瞬間。
私は本当に幸せなのか。
32歳にもなったのに、何をやっているんだろう。
たまらなく不安になるけれど、日々仕事と恋人たちとの逢瀬に忙しい彼氏様に言えるはずもなく、今日も私はひとりで夜ご飯を食べている。
金曜日の夕方、ちょうど仕事の就業時間の直前、彼から連絡があった。今時珍しいと思うのだが、彼はコミュニケーションアプリではなく、携帯会社のメッセージ機能を連絡手段に使う。
メッセージは明快で、今夜会えるかどうかを問うものだ。
私は了承の返事を送ると、退社するために書類を片付け始めた。私の仕事は、食品卸の会社の経理事務。大手食品グループの傘下の孫会社だから、優良企業だ。福利厚生もしっかりしていて、就業体制も良好である。
そそくさと片付けると、私は就業時間が終わったことを告げるベルと同時に仕事場を後にした。
いつもの待ち合わせ場所である駅前のカフェに入ると、カウンター席の一番奥に彼氏の姿が見えた。
「乃亜さん。こんにちは」
足早に席に近寄り、声をかけながら私は彼の隣に座る。彼、上條乃亜はちらりとこちらを見、冷たい相貌を少し緩めた。
「恵里奈」
低くて、耳障りの良い声。今日は機嫌が良いのか、ほんの少し優しい響きだ。もしかしたら、仕事で何か良いことがあったのかもしれない。
私は店員にコーヒーを頼み、乃亜さんに微笑み返す。
「今日はお仕事早く終わったのね」
「あぁ、うん。思ったより取引先との話が早くまとまったから。もともと終わったら直帰する予定だったんだ」
そう言われて、彼の足元を見ると、確かに仕事用の大きな鞄が置いてあった。出勤に持っていく黒い鞄よりも一回り大きい。
「そうなの。じゃあ、私も定時で上がってきて良かった。それでなかったら乃亜さんを長く待たせるところだった」
彼のコーヒーカップのコーヒーからはまだ湯気が立っている。乃亜さんはコーヒー1杯で何時間も粘れる人だから、2杯目ということはないはずだ。
おそらくタッチの差だったのだと推測していると、頼んだコーヒーがやってきた。お礼を言って受け取ると、すっかり顔馴染みになっている、店員のノゾミくんが人好きのする顔でにこりと笑う。
「今日はノアさんの方が早かったので、エリナさんは見えられないのかと思っていました」
邪気のない、ほんわかした話し方に、つい顔が綻んでしまう。
「本当ね。乃亜さんのが早いって、私もびっくり。定時で上がったはずなのに…職場の時計が壊れてたのかと思っちゃったくらいよ」
間違いなく10歳以上は年下のノゾミくんは、どうしても異性として意識できず、弟にしか感じられない。そのせいか、口調もかなり砕けたものになる。
ノゾミくんは笑みを深くして、1切れのシフォンケーキが乗ったプレートを私の顔も前に置いた。
「そうなんですね。
これ、今度店で出そうと思っているプレートなんです。試食してもらえませんか?」
シフォンケーキはココア色で、その周りのあるピンクのクリームが花びらみたいに小さく5つ、添えられている。アクセントのミントがシフォンケーキの上にちょこんと乗せられていて、見た目にも華やかだ。
「可愛い、というより綺麗。なんだか、桜の木みたい…」
全体を見ると、桜の花弁が木から落ちていく様子にも感じられる。1枚の絵のようなそれは、崩してしまうにはもったいない。
そういえば今年は花見に行けなかったな。そう思いつつ眺めていると、ノゾミくんがくすりと笑った。
「エリナさんはすごいですね。それ、桜がモチーフなんですよ。来年の春、桜の季節に出そうと思っていたから」
「そうなの?これ、絶対うけるよ。ノゾミくん、センスある」
「ありがとうございます。では、試食をお願いします。また帰るときに教えてください」
ノゾミくんはそう言葉を残し、カウンターの奥に行ってしまった。
私は隣に座る乃亜さんを見る。彼はしばらくプレートを見つめていたが、ゆるゆると首を振ると、こちらに目線を向けた。さっきまでの機嫌のよさはどこへやら。一転して、彼の目は不服そうに細められている。
「どうしたの?」
「いや。…俺といるのって、つまらないのかなと思っただけ」
僅かだけれど、唇の端が下がっている。おそらく、拗ねているのだ。たぶん、ノゾミくんと私が仲が良いことが理由だ。自分にだってたくさん彼女がいるくせに、何で嫉妬するのかと疑問に思う。
不思議に思いつつ、私は少しだけ彼に体を寄せた。
「そんなことないよ。仮につまらなくても楽しくなくても、乃亜さんといられたら、私はそれだけで幸せ」
いつまで一緒にいられるか分からないけれど、願わくば少しでも長く傍にいられることを願うほどに。
乃亜さんは何も答えなかったが、机の上に無造作に置かれた私の右手に、彼が左手を重ねてきた。その仕草だけで、彼が私の言葉に満足したことを知る。
前を向いて少し俯いてしまったけれど、小さく笑んでいるのも見えた。
「乃亜さんが、好き」
女癖が悪くて、相手が私一人だけでなくても、好きだ。
いつ終わるか分からない、この関係が終わりを迎えるまで、私は乃亜さんに好きだと告げるのだろう。たとえ、乃亜さんから同じ言葉が返ってこなくとも。
パンドラも、箱を開けなければ負の感情を知らずにいられたように、私たちも言葉にせず、口当たりの良い関係を続けていく。
乃亜さんが何も話さない自分自身のこと、私が乃亜さんに教えないこと、それは瞬きの中の幸せに微睡むためには必要なこと。だから今だけは、こんな風に寄り添っていたい。
パンドラの箱の中には希望が残ったけれど、私たちには希望なんて残らないのだから。
カフェから出た私たちは、駅地下をうろうろしながら店を見、そしてその後お決まりのように、駅から近い高級ホテルに入る。
高い料金を払うのは乃亜さんだから、私のお財布は痛まないのだけど、入るときは毎回ドキドキする。
ルームキーであるカードを受け取ると、流れるようなエスコートで私を誘い、乃亜さんはエレベーターへ乗り込むと、最上階のボタンを押した。
「恵里奈、今日はバーに寄らないで、そのまま部屋に行ってもいい?」
屈んで耳元に口を寄せた乃亜さんがそう囁く。上昇するエレベーターの音を聞きながら、私は黙って頷いた。今日は夜景を楽しみたい気分だったのだが、そんな願望を飲み込む。
年齢は私の方がいくつか上だけど、主導権は常に乃亜さんにある。彼がしたいと思うことに私は付き合うのみだ。それは乃亜さんに何人も彼女がいることを知った時に、私が決めたこと。
乃亜さんが自ら教えてくれるまでは、乃亜さんのことを訊いたり詮索したりしない。
乃亜さんの言うことに全て従う。
自分から「会いたい」と言わない。
そして、この恋が終わったら、私は乃亜さんの前から消える。
最初から、一方通行の恋だったんだもの。
こうして夢を見られているだけ、私は幸せだ。
エレベーターを降り、部屋に入ると同時に私を抱き寄せた乃亜さんの胸に顔を押し付け、私はそっと息を吐いた。
ある木曜日の夜のことだった。私はいつものように自分の部屋で淋しくご飯を食べていた。
テレビからは、天気予報士の梅雨明け宣言が流れている。そのわりには雨は降り止む様子はないのだけれど。
ぼんやりとご飯を口に入れようとした瞬間、スマホがブーブーと振動した。
画面を見れば『姉』の文字。
ため息を吐きつつ、ご飯を茶碗に戻して箸を置き、電話を取った。
「はい、恵里奈です」
『もしもし、恵里奈。陽茉莉だけど。今、いい?』
溌剌とした声が、電話の向こうから響いてくる。
「うん。どうしたの?」
『あーちゃんが、駆け落ちした』
「は?」
突然すぎる言葉に、私は固まった。
あーちゃんとは、私たちと半分血の繋がった妹である。父の再婚相手、つまり私たちの義母と父の間に生まれた子だ。
私と姉は前妻である亡き母と父の間の子であり、あーちゃんとはかなり年齢差がある。
私の家は、昔から呉服屋を営んでおり、父はその主人だ。あーちゃんが、次の主人になるはずだった。
それなのに、駆け落ちって。
『あーちゃんね、専門学校で出会った男の子とお付き合いしてるんだけど。お父さんは、経営拡大のために、通販会社の社長の親戚筋の人との縁談を進めていたらしくて。
先週、その話をあーちゃんとお父さんで話をしているうちにケンカになって、あーちゃん…家を飛び出しちゃったみたい。で、昨日あーちゃん見つけたら、彼氏と結婚する、今妊娠3ヶ月だ、って。たぶん、あーちゃん…先週お父さんにその話をするつもりだったんだと思う。それが縁談を勝手に進められているって知ったから、怒って逃げたのよ』
矢継ぎ早な姉の話で、なんとなく概要が見えてきた。そして、なぜ姉が連絡をしてきたのかも。
『それでね、恵里奈。お父さんは恵里奈に連絡してくると思うの』
「うん」
『私はもう結婚してるでしょ。他に娘はいないし、跡継ぎもいない。そうしたら、絶対にお父さんは恵里奈に跡を継げって言うよ』
私の言いたいことわかる?
その言葉に、私は目を閉じた。
「…うん」
『お見合い相手は、35歳だって言うから、年齢的には問題ないし。向こうの条件は家を継ぐ娘、というだけだから。恵里奈でも大丈夫なの。
恵里奈は結婚してないし、きっと強制的に話が進んでいくわ』
父はワンマンな人だから、きっと私の気持ちなど考えてくれはしない。寧ろ、女の幸せは結婚だなんて言って、勝手な幸せを押し付けてくるだろう。
拒絶することは簡単だ。でもそうすれば、あーちゃんが犠牲になる。お腹の子はどうなるのか、想像に難くない。
「わかってる。ありがとう、お姉ちゃん。大丈夫。私なら平気だよ」
幸せな夢から目覚める時がきた、それだけ。
所詮、夢は夢だった。現実に戻るためには、ちょうど良かったのかもしれない。
『恵里奈…。あなた、彼氏はいないの?好きな人は?』
姉の泣きそうな声に、私は苦笑した。
「いないよ、そんなの。ちょっと夢は見てたけど。私もいい歳だし、ちょうど良かったのかも」
『それなら良いけど…。恵里奈が一人ですべてを抱えることないから。自分の幸せを捨てちゃダメだよ』
「わかってるってば。本当に心配性なんだから。
明日も仕事だし、もう切るよ」
『うん…。恵里奈、本当に大丈夫なの?』
「大丈夫。ありがとう。じゃあまたね」
『じゃあまた、連絡きち、』
何かまだ姉が話していたが、私はそれを途中で切り、スマホを机に置いた。
父と折り合いの悪い私だから、姉からしてみれば心配でしかないのだろう。しかも、家を継がなければならなかったり、見合いの話まで進んでいるとなれば尚更だ。
そういえば、仕事中に実家から電話がかかってきていた。面倒で折り返しの電話をかけていないが、おそらく父からのものだったのだろう。
先に父から聞いていたら、私はきっと取り乱しただろう。
その前に教えてもらえて良かった。
姉に感謝しつつ、私は自分の境遇に脱力した。
「結局、こうなるのね…」
いつかは、こんなことがあるのではないか。それは予測していた。
あーちゃんは気性が激しく、大人しく言うことを聞く子ではない。父は溺愛しており、財産のすべてを彼女にあげたいくらいなのは周知のことだが、それは残念ながら彼女の重荷でしかないのだ。
父とあーちゃんはそっくりな故に、どこかで衝突することは分かっていた。その内容が、彼女の結婚についてであることも。
だから、私は結婚をずっと躊躇っていた。
堅苦しい世界では生きられない異母妹が、自由にはばたくために。父の望みを叶える存在、彼女の代わりになるスペアが必要であるからこそ。私は誰かと共に歩く未来を描いてはいけないと思っていた。
少しワガママで、かなり意地っ張りだけど、『恵里ねぇちゃん』と慕ってくれる可愛い妹の幸せを、私は誰より願っている。たとえそれが自分の幸せを壊すものであっても。
「夢は所詮、夢なんだなぁ…」
息を大きく吐き出せば、胸に凝った何かが消える気がして、私は長く長く息を吐いた。
これから、どうしようか。
実家は遠いから、仕事は辞めなければならない。当たり前だけど、もうこっちへは帰ってこれない。
ノゾミくんにお別れの挨拶をして、部屋を引き払って。
そして、乃亜さんともお別れをしなければならない。
明日は、乃亜さんと会う日だ。それを最後にしよう。
「なんて、お別れを言おうかな」
家の事情を話すべきか。
本当はそれが良いのだろう。でも、言いたくない。
親の言いつけで、だなんて…まるで悲劇のヒロインみたいだ。そんなの私には似合わない。
いっそのこと、乃亜さんが二度と顔を見たくないと思うくらい、悪女になってみようか。
今まで遊びだった。
たまたま体の相性が良かっただけ。
あなたといてもつまらない、もう飽いたの。
私は、あなたのことを好きだなんて、思ってない。
そう言えばきっと、乃亜さんは傷つく。そして、私を憎む。二度と、あの優しい目も声も、温もりもくれないだろう。
それはとても辛いことに思えたけれど、一方でそのことに喜びを感じる自分もいる。
乃亜さんに一生残る傷をつけたら、乃亜さんは私を一生覚えている。
なんて甘美な響きなのだろう。
どんな形であれ、乃亜さんの中に私が残るのなら、それはとても幸せなことのように思えた。
きっと、私はこれから、幸せになんてなれない。
けれど、乃亜さんにつけた傷を思い出す度に、彼との日々を懐かしむことができる。
「別れるときは、乃亜さんの前から完全に消える、って決めてたくせにね」
どこまでも往生際の悪い自分に、もはや呆れしか覚えない。
とにかく明日、全てが終わる。その先は何が待っているのか。
少なくとも、天国ではないだろう。
次の日は、前日の雨が嘘みたいに快晴だった。
仕事も特にトラブルもなく平和に終わり、定時で上がると乃亜さんと落ち合い、いつものようにホテルへ向かった。
あまりにも私の口数が少なかったからか、会話はほとんどなく、決まった手順を淡々となぞっていく。
ただ、これが乃亜さんとの最後の触れ合いになると思うと、胸がつきつきと痛み、事が終わってベッドで丸まっているときに涙が溢れてしまった。
そんな私に、乃亜さんは大いに動揺し、何を想像したのか薬局で痛み止めを買ってくると言い始め、それを止めるのが大変だった。
そんなこんなしているうちに夜は明け、私も乃亜さんもあまり眠れぬまま朝日を拝むことになってしまった。
そしてチェックアウト間近となった今、何故か私たちは備え付けの椅子に座り、向かい合っている。
どれだけの時間が経ったのだろう。
「恵里奈」
何度もまごついて、乃亜さんがやっと口を開き、私の名を呼ぶ。それがあまりに真剣な響きで、心臓がどきりと変な音を立てた。
「なに?」
からからに喉が乾いていたけれど、なんとか声を絞り出す。これから、彼にお別れを告げる方が余程緊張するはずなのに、名前を呼ばれただけで激しい動悸を感じているのはひどく滑稽だ。
そう冷静に考える自分がいる。なのに、指先は冷たくなっていく。
「恵里奈、僕…アメリカ本社に異動することになったんだ」
アメリカに異動…?
言われたことが分からず、ぽかんとした私に、乃亜さんは言葉を重ねる。
「事情があって、変な時期だけど本社に異動することになって。しばらくこちらに戻れないんだ」
あぁ、これは天啓だ。
彼の告白を聞いて、浮かんだのはそれだった。
私と乃亜さんの間には、やはり未来など存在しない。
お互いがお互いの理由で離れることになるなんて、運命と言わずして何と言うのだろう。
気づけば、私の口からは言葉が滑り落ちていた。
「ちょうど良かった」
自分の声が、思ったより震えていなくてホッとする。
もしかしたら、彼に別れを告げることが上手にできないのではと危惧していたのだが、それは杞憂だったらしい。
「私も、あなたと別れたいと思っていたの」
「え?」
乃亜さんの驚いた様子に、思わず笑みが漏れる。
「だって、飽いちゃったんだもの。潮時かなって。だから、ちょうど良かったの」
嘘。
本当はもっと一緒にいたいのよ。
そう言えたら良いのに。
「会うのはこれが最後ね。もう、連絡もしてこないで」
「恵里奈」
伸ばされた彼の手を咄嗟に払いのけ、私は席を立った。
服は着ている。鞄を持つと、呆然としている乃亜さんを置いてドアに向かった。
ドアノブに手をかけ、ふと彼に言い忘れたことを思い出す。
振り返り、私は彼に微笑んだ。
「ありがとう。今まで、幸せな夢を見せてくれて。さよなら」
それだけ告げ、私は今度こそ部屋を出た。
このホテルに来ることも二度とないだろう。毎回感じていた緊張感も、これが最後だ。
乃亜さんと別れるということは、乃亜さんとともに過ごした場所も全て無くなるということなのだ。今更ながら、それを感じて淋しくなる。
こうやって、少しずつ思い出に変わっていくのかな。
いつかこんな風に別れる日が来ると、ずっと覚悟していたつもりだった。
でも、胸が軋む。乃亜さんの前で泣かなかったのが奇跡だ。
ポロポロと落ちる涙を拭き、私はいつものカフェへと足を進めた。別れのあいさつは早い方がいい。
この胸の痛みが薄れるまで、どのくらい時間が必要なのか想像もつかないけれど、この痛みが消えずにいてくれたらと思う。
今はまだ…いや、これからも乃亜さんを覚えていたいから。
いつものカフェに行くと、ノゾミくんにお別れのあいさつをした。
ノゾミくんには固く口止めをして、本当の話をした。
家を継ぐことになるだろうということ、親の決めた相手と結婚することになるだろうということ、そうなれば今の仕事を辞めること。
あと、乃亜さんと別れたこと。もともとセフレのような関係だったから、将来のことを考えていなかったこと。乃亜さんもアメリカに行くこと。
洗いざらい話すと、ノゾミくんは悲しそうな顔をした。
「エリナさんは、それでいいんですか?」
「いいも何も、私は5番目の彼女だし、お互いにどうしようもない事情があるんだから」
最初から分かっていたのだから、今更変えられない。
「でも、二人とも…一緒にいるとき、とても幸せそうに見えました。どこにでもいる、普通の恋人みたいだった。
エリナさんは、ノアさんのことを好きだったんじゃないんですか?」
そんなことを聞いてくるノゾミくんに、思わず苦笑する。
好きだったら一緒に生きていける。どんな困難でも乗り越えられる。
この子はきっと、そう信じているのだ。それだけまだ若いのだとも言える。
現実はそう甘くない。
生きていくにはさまざまなしがらみがあるし、誰かが我慢しなければならないこともある。
「好きよ、今も。愛してるわ。
でも、それは一緒にいるための理由にはならないの。私が乃亜さんの唯一にはなることはないし、私の幸せよりも優先されるべきことがある」
私は、夢を見て生きていられるほど、もう子どもではない。
そう笑うと、ノゾミくんがくしゃりと顔を歪めた。
「エリナさん…そんな悲しいこと、言わないでください。エリナさんにだって、自分の幸せを選ぶ権利はあります。家のことも乃亜さんのことも、何か他に方法はないのですか?」
「そうね、探せばあるかもしれない。でも、私が探す気が無いの。もういい。十分夢は見たわ」
「エリナさん…」
二の句も告げられずにいるノゾミくんの頭をそっと撫でた。
「いつも美味しいコーヒーをありがとう。ノゾミくんとお話するの、すごく楽しかった」
「…っ、こちらこそ、ありがとうございました…」
「ノゾミくんは、幸せにならなきゃだめよ」
どうか幸せに。
ただの客のために、声を殺して泣いてくれる、優しいこの青年の幸せを願わずにはいられない。
色々と片づいて落ち着いたら、手紙でも送ろうかな、なんて考えつつ、彼が泣き止むまで黙って付き合ったのだった。