エリシアの焦り
エリシアがメイナードの研究を手伝うようになって、1ヶ月が経った。
その間に、エリシアは国王と王妃に謁見し、婚約のあいさつを済ませ、メイナードの正式な婚約者となった。そうはいっても、その関係になんの変わりもなかったのだが。
本日もエリシアはメイナードの執務室で、魔法の特訓を行う。エリシアの修練度は、サイラスが細かく記録をしているのだが、ここ一週間ほど、成果がなかった。
エリシアの上達スピードは、イライジャに教わっていた時がピークで、ある程度基礎魔法が使えるようになった今、完全に停滞していた。メイナードやサイラスの教え方も悪いわけではなかったし、何より論文や専門書を引用した説明方法はエリシアに合っていたが、どうしても自分の魔法力を感じ取る、ということがエリシアは理解できないでいた。
スカーレットをはじめとする多くの貴族が自身の持っている魔法力を活用できるのは、長年かけて身に着けた、自身の魔法力を扱う感覚が優れているからだ。ほんの数か月でそれに追いつくというのは、そもそも難しいことであった。
ふう、と目の前のメイナードがため息をつくのを聞いて、エリシアは暗くなった。怒られることより、自分のために様々な手を尽くしてくれるメイナードに失望されることが辛かった。
「エリシア、少し休憩しよう」
「もう少し、やってもいいですか?」
「でもエリシアちゃん、顔色悪いよ」
そのため、休憩を勧められた時も、エリシアは反射的に断ってしまった。エリシアが、心配そうに顔を覗き込むサイラスに、大丈夫ですと返事をしようとした時だった。
ふっと目の前が暗くなったかと思うと、そのまま足元が揺れる感覚とともに、エリシアは倒れてしまった。すぐそばにいたグレッグが手を伸ばし、その体を支える。
「エリシア、大丈夫か!」
「リード、そこのソファへ」
グレッグが体を抱き上げながらエリシアに声をかけるが、彼女は返事をしない。メイナードはエリシアを支えようと伸ばしかけた手を戻しながら、グレッグに命じた。
ソファに寝かせられたエリシアがゆっくりと目を開ける。
「すみません、ちょっと立ちくらみがしただけです」
「エリシア、最近ちゃんと寝ていないのではないか?」
エリシアに何かを言おうとしたサイラスとグレッグを制して、メイナードは彼女の手を握りしめながら言う。
「……実は夜も魔法の訓練をしたり、本を読んでいて、睡眠時間が減っています」
エリシアのその言葉にグレッグが小さく、気が付かなかったと呟く。グレッグはエリシアの従兄で護衛とはいえ、婚約者のいる彼女の寝室には立ち入らないようにしていたため、この事実を知らなかった。
「成果が出なかったので」
ぽつりとエリシアが呟く。1ヶ月が経ち、魔法の技術が上達していないことに誰よりも焦りを感じていたのは、エリシア自身だった。
「エリシア、今日は帰りなさい。もっと効率の良い特訓方法を考えておくから」
悲しげな表情で俯くエリシアの手を握りしめ、メイナードが言う。エリシアはその言葉に顔を上げ、今にも泣き出しそうな表情になった。
「でも、」
「エリシアちゃん、メイナードの言う通り、こんな状態で特訓していても効果は出ないよ」
サイラスの優しいけれど厳しい言葉に、ついにエリシアの眦から涙が一筋零れ落ちる。堰を切ったようにぽろぽろと子供のように泣くエリシアを前に、メイナードはどう慰めるか迷った末に彼女の頭を撫でた。
「怒っているわけではないから、明日からまた頑張ろう」
メイナードの優しい言葉にエリシアは余計涙が出てくるのを感じながら、小さく頷いた。
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背の高いグレッグに横抱きにされたまま泣くエリシアは、まるで幼い少女のようで、メイナードは彼女を見送りながら、胸が痛むのを感じた。
1ヶ月特訓をしてきて、成果が出ていないことを気に病んでいるのはエリシアだけではなかった。
そもそもエリシアは筋が良く、物覚えもいいのだが、彼女の体を流れる膨大な魔力を知覚することをとても苦手としていた。魔法虫を使ったり、見本を見せたりと、あらゆる手段を使っているのだが、特訓は遅々として進んでいなかった。
彼女が家でも訓練をすることを、メイナードとて予想していなかったわけではなかった。メイナードはエリシアより10年長く生きているし、まだ1ヶ月とは言え毎日顔を合わせて、エリシアの性格も分かってきているのだ。しかし、エリシアはメイナードが想定していたよりはるかに無茶をしていた。
エリシアのいなくなった応接室の中で、メイナードがため息をつく。
「エリシアちゃん、意外と負けず嫌いなところあるから」
その言葉にメイナードが頷く。良かれと思って、メイナードはよく同年代の貴族の話をしていたが、それが彼女の負けん気に火をつけてしまったらしい。
「何かいい方法はないものか」
「思いつく方法はもう試し尽しているからなぁ、いろいろな家の訓練方法も試したし」
サイラスは柔らかなソファに身を預けながら、顎に手を置いて考える。この研究を行うと決まった時に集めた資料の中に、各名門貴族の特訓方法もあって、それらは片っ端から試した後であった。
「あ、」
サイラスが思いついたように声を上げる。
「なんだ」
「いや、発見があるかもしれない程度なんだけど」
「だからなんだ」
「今日、トーマス様への謁見が」
だんだんと不機嫌な声色になっていくメイナードにサイラスが肩を竦めながら言ったが、サイラスの返答にますますメイナードは不機嫌になった。
メイナードは弟のトーマス--つまりは王太子であり第2王子であるのだが--と仲が悪いわけではなかったが、革新的な魔法研究を続けるメイナードと保守的なトーマスとではあまり話が合わないこともあって、トーマスが成人し、政治に参加するようになってからはあまり話もしていなかった。
それを知っていたサイラスも、駄目元で言ったようだった。
「分かった、今日は俺が行く」
「え、いいの……?」
「いい、時間は?」
「もう出てもいいかな」
「分かった、後は任せた」
先ほどよりも大きなため息をつきながら、メイナードは椅子に掛けていたジャケットを羽織った。
王太子に謁見するにはややカジュアルな格好で、メイナードがトーマスの前に立つ。トーマスはメイナードの姿を認めた時から、興奮していたようで、メイナードは内心苦笑する。
トーマスは、兄であるメイナードのことを尊敬していた。魔法の知識に長けていて、自身に魔法を教えてくれた兄を王太子に、と誰よりも主張していたのは他でもない彼だ。
「兄上!」
「トーマス王太子殿下、本日は魔法研究センターの近況報告に参りました」
嬉しそうに話しかけたトーマスに、メイナードは魔法研究センター所長として返したが、トーマスはそれに対して不機嫌そうな顔をした。
その顔を見たメイナードは、ため息をつく。
「殿下、人もおります故」
「それなら人払いをしようか、兄上」
流石成人してから3年、政治の一端を任されているだけある。メイナードが困るのが分かって、トーマスは言っている。
ここで人払いをして、変な噂をされても困る。以前メイナードは、王太子の座を狙っているという根も葉もない噂を流されたことがあるのだ。
「分かった、トーマス。降参だ」
ため息交じりのメイナードの声にトーマスが嬉しそうに笑った。
メイナードは魔法研究センターで最近発見したことや成功した実験の話をし終えた後、少し迷いながらエリシアの話を始めた。
「トーマス、お前はいろいろな人と会う機会があるから、妙案があったら教えて欲しいんだが……。上手く体内の魔法力を感知できないものには、どう教えたらいいと思う?」
メイナードの言葉に、トーマスは驚いたように目を丸くした。
「それって、婚約者のエリシアさんのこと?」
名前を出したわけではないし、エリシアが関わる研究については、まだ話せる段階ではないので報告していないのだが、どこからか聞いていたらしい。流石王太子といったところか、やはり弟の方が政治には向いているとメイナードは内心舌を巻いた。
「兄上がそうやって誰かのために動くのは珍しいね、今日もここまで来たし」
今までメイナードはトーマスへの定期報告に顔を出したことはなかった。多忙だからという理由で、ずっとサイラスに任せていた。
「早々に婚約も決めてしまったし、よほど惚れ込んでいるんだね」
トーマスが呟いた声を聞いて、メイナードは弟の顔を驚いたようにじっと見つめる。いつもポーカーフェイスの兄の顔色の変化に、トーマスも同じく驚いたように顔を見返す。
「な、なに?」
「惚れてる……」
「違うの?」
エリシアはメイナードの婚約者で、一目惚れしたメイナードが話を進めたとなっている、が、実際は契約婚約であるし、自分はエリシアに研究対象としての感情しかないと思っていたが……。
今までのおよそ1ヶ月間の、エリシアとの日々をメイナードは思い出した。
少し世間知らずで令嬢らしからぬエリシアを、最初はおかしな娘だと思っていた。しかし、研究として魔法の特訓を重ねるにつれ、エリシアの努力家な面が見えてきた。
メイナードは今や自分がエリシアを好ましく思っていることに気がついた。これが恋なのかは分からないが。
「なんでもない」
「そっか、それで聞かれたことなんだけど」
トーマスの言葉にメイナードは自分が質問をしたことを思い出した。エリシアのことを言われて、よほど動揺していたらしい。
「うーん、兄上が僕にやってくれたのはもう試したんだよね?」
「俺がお前に?」
「忘れた? 兄上が僕の魔力を使っていろいろ魔法を使ってくれたの。あれは体の中の魔法の流れがよく分かって、よかったから」
「……特訓では試してなかったな」
メイナードが呟くと、トーマスが微笑んだ。
一度エリシアの魔法力を示すために自分の能力を使って、メイナードはエリシアの魔力で魔法を使って見せた。しかし、それがどういう効果をもたらしたかは本人には確認していない。
トーマスに魔法を教えたのはずっと前だったので、メイナードはすっかり忘れていた。
「兄上の役に立ててよかったよ」
その言葉にメイナードが悪人面で笑い、トーマスもそれを見て笑った。
ご閲覧、ブックマーク、評価ありがとうございます。
書きためていたストックがなくなったので、暫く更新が止まります。
わりとキリのいいところではあるので、許してください…。
投稿時間も少し変えるかもしれないです。