真夜中の寝室で
ウッドヴィル伯爵家の使用人は優秀で、グレッグが連絡してからすぐに馬車を回してくれた。
エリシアの具合が悪くなってしまい、すぐに家に帰したいとメイナードが言った、と伝えれば、家に着いても誰も騒ぐことなく、エリシアはすぐに自室に運ばれた。
グレッグはエリシアの部屋に入ってもいいものか、少し悩んでから扉を開けたまま、エリシアを支えてベッドに座らせた。
エリシアの泣き顔をグレッグは何度も見たことがあるが、声も出さずに静かに涙を流すエリシアは、初めて見た。
「エリシア、どうしたの?」
グレッグは早く聞き出したい心を抑えて、なるべく穏やかにエリシアに語りかける。
エリシアの頭か背中を撫でようとして、メイナードの顔が頭をよぎったので、止めておいた。
「……詳しくは言えないんだけど、メイナード様が私のことを好きではないのに、キスしたの」
メイナードがエリシアのことを好きではないわけがない、とか、いつのまにキスしたんだとか、色々聞きたいのをなんとか堪えてグレッグは口を噤む。
「その時、私、メイナード様のことを好きだと気がついたの……。メイナード様の気持ちが私に向いていないのに、このままの関係なんて辛くて。気がついたら逃げ出してた」
エリシアの言葉にグレッグが目を瞬く。
エリシアはどうやらメイナードのことが好きだと自覚したらしいのだが、メイナードは自分のことを好いていないと思っているらしい。そもそも2人の馴れ初めはメイナードの一目惚れのはずだが、何か言えない事情があるのだろう。
しかし、それを差し引いたとしても、メイナードの言動はどう見てもエリシアのことを好きだと分かるものだ。エリシアが到底従兄弟以上の感情を持つはずがない自分にも、ヤキモチを妬いた男なのだ。
「エリシア」
グレッグはメイナードがエリシアを好きなことは誰が見ても明らかだと言おうとして、再び口を噤んだ。
ほろほろと涙を流すエリシアに今言うべきことは、それではないだろう。
グッとポケットの中で掌を握りしめ、メイナード宛の簡易的な通信をしたためる。辺境伯の子息という身分でありながら、メイナードの直属の従者に、通信を送れるのは、エリシアの護衛騎士としての特権である。
魔法通信機器を使った連絡は、ハウルランド王国では一般的な連絡方法の1つで、通信機器にお互いの魔力を送ることで、通信ができるようになる。通信機器に魔力を流し込み、送りたい内容を思い浮かべるだけで、相手に伝えることができるのだ。
行きがけに乗ってきた馬車にいるであろう従者に送った通信は、すぐに彼によってメイナードに知らされるだろう。
既に一度、エリシアを連れて帰ると通信を送っていたグレッグは、自分は本当に優秀な護衛騎士だな、と自嘲しながらエリシアに向き直る。
「エリシア、その気持ちはメイナード殿下に言ったのか?」
返事はせずに、エリシアは首を振るだけだ。
「エリシアが伝えなければ、殿下は自分が嫌われたとしか思わないだろう。エリシアだって、殿下がどう思っているか分からずに、こうして泣いているのだから」
グレッグの言葉に、エリシアが顔を上げた。その瞳には、まだ涙が溜まっていたが、口元は引き結ばれていた。
「うん」
「殿下と話しなよ」
「……でも、もうメイナード殿下は会ってくださらないかもしれない」
せっかくのパーティーで、エリシアはメイナードを置いて帰ってしまったのだ。メイナードは怒っているかもしれない。
新たな涙が零れ落ちそうになった眦を、グレッグは自分の指で少し乱暴に拭った。その手つきにエリシアは少しびっくりした後に、漸く微笑んだ。
「今気にしたって仕方ないよね。私、明日メイナード様に会った時、ちゃんと謝って、自分の気持ち伝える」
「うん」
エリシアの気持ちが落ち着いたのを確認すると、グレッグはゆっくりと立ち上がる。
メイナードの従者が連絡を受け、優秀な彼がすぐにメイナードに伝え、メイナードが急いで馬車に乗ってこちらに向かったとしたら、そろそろ馬車が見える頃ではないだろうか。
エリシアの部屋の窓から空を見上げたグレッグの瞳に、豪華な装飾がなされた王家の馬車が映った。
グレッグが廊下に出たと思うと、すぐに階下が慌ただしくなって、誰かが走ってくる物音がした。エリシアが不思議に思って立ち上がり、ドアの方へ振り返ると、そこへは明らかに走ってきた様子のメイナードがいた。
メイナードがキラキラとしたブロンドを振り乱すのも、息を切らすのを見るのも、エリシアは初めてだった。
「メイナード様」
なぜここにメイナードがいるのだろう、エリシアがそう思いながら歩みを進めるより早く、メイナードが2人の間にあった距離を詰めた。グッと両肩を抑えられ、エリシアは驚いたまま、メイナードの顔を見上げた。
辛そうな、今にも泣き出しそうな悲しい顔のメイナードがそこにはいて、その顔もエリシアが見るのは初めてだった。
メイナードは、エリシアが帰ったことを怒ってはいなかったのだ。エリシアはそのことに気が付き、胸が締め付けられる思いで、すぐに謝る。
「メイナード様、急に帰ってしまい、すみません」
「いいんだ、俺が悪い」
「でも……」
食い下がるエリシアに、エリシアの両肩に置かれたメイナードの手の力が強くなった。
「いたっ」
「すまない!」
思わず漏れ出たエリシアの声に、メイナードが慌てた顔をする。
表情の変わらない、鉄仮面だと初対面で思ったのが嘘のように、メイナードは様々な顔を見せている。なぜだかそれが面白くて、エリシアが笑いだす。
「メイナード様、好きです」
笑いながら、エリシアが自分の想いをこぼした。グラスから水があふれたように、エリシアのメイナードへの気持ちがあふれ出した。
「私、メイナード様のことをいつの間にか好きになっていました。そうやってメイナード様がいろいろな表情を見せてくださるのが、好きで……」
「エリシア」
笑っていたはずなのに、段々とエリシアの声が涙交じりになり、メイナードが心配そうに名前を呼ぶが、エリシアは話し続けた。
「だから、今日キスされた時に……これが研究のためなら悲しいと、そう思ってしまったのです。私、契約婚約者失格です。どうか、婚約を破棄して、ください……」
エリシアの目からは涙が零れ落ちるが、エリシアは俯くことはせずに、メイナードに気持ちを伝えた。それをメイナードも黙って聞き続けていたが、エリシアが婚約の話を始めると、顔色が変わった。
「エリシア、急に口づけしたことは謝るが、婚約を破棄して欲しいなんて言わないで欲しい。俺も君が好きだ。愛している」
「愛っ……!」
エリシアがスカイブルーの瞳を見開いた。その目にはもう涙は浮かんではいない。
「君の努力する姿や、恥ずかしくなって赤くなる姿、全て可愛いと思うようになったんだ。今日もあまりにドレス姿が美しくて、それから言いがかりをつけてきた令嬢を責めずに、俺に感謝する姿を見て、愛しいと思う気持ちがあふれて、口づけしてしまった」
「研究のためではないと?」
「流石に研究のためにそこまでするほど、おかしくはない」
メイナードはそう言ってから、漸くエリシアを抱きしめた。華奢なエリシアの体が、すっぽりとメイナードに覆われる。ドクドクと早いメイナードの心音を聞いて、エリシアは気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「メイナード様、もう一度キスして頂けますか」
エリシアが恥ずかしい気持ちを抑えてそう言うと、すぐにメイナードとの距離が空き、彼の顔が近づくのを感じた。緊張をして、先ほどは気が付かなかったが、メイナードの薄い唇は他の部分の体温同様、少し冷たくて、なぜだかそれが恥ずかしくて、エリシアの胸は余計に煩くなった。
「エリシア、君に正式に婚約を申し込む前に、聞いてくれるか?」
エリシアがメイナードと気持ちが通じて浮かれそうになっている中、メイナードは真剣な表情でそう切り出した。
次で1章ラストです。
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