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Pinky Promise  作者: きちょう
第1章 月夜の時盗人
4/30

4.指切り――Pinky Promise――


..019


 ただでさえ体力のない子どもの体は赤騎士との戦闘の後で泥のように重い。

 だが、ヴァイスの自宅まで戻らないわけには行かなかった。こうして命がある以上、まだ睡蓮教団の存在を明るみに出すわけにはいかない。通報システムを解除しなければ。

 三人がマンションの部屋の前まで戻ったところで、ひょこりと隣から「隣人」が顔を出した。

「おかえりなさい」

「ダイナ? どうしたんだ、こんな時間に……」

「それは私もお聞きしたいんですけれど……三人ともどうされたんです?」

 爆発の煤で真っ黒になった三人の姿にダイナが目を丸くしている。

 この時間になってもまだ起きていた彼女は、人の気配に気づいてそう言えば先程出かけると言っていた三人が帰ってきたことに気づき扉を開けたらしい。

「それに……アリス君は、怪我もしているようだわ」

「あ、そうだ。忘れてた」

 赤騎士の手によって地面に思い切り押さえつけられたアリストは、あちこちに擦り傷を作っている。本人は気にも留めていなかったのだが、目を留めたダイナの方が痛ましそうな顔をした。

「とりあえず手当をしましょう。うちに寄ります?」

「でも、こんな時間に御迷惑では……」

 治療ならすぐ隣のヴァイスの家でもできる。子どもらしからぬ気遣いの声をあげたのはチェシャ猫だ。

 しかし、家主であるヴァイスの方がその誘いに乗ると返した。

「いや、悪いがダイナ、ちょっと上がってもいいだろうか。私は用があるから、この二人に手当てをしてほしい。あと出来れば風呂なども借りたい」

「ヴァイス?」

「白……ヴァイス」

 ヴァイスは常日頃から虎視眈々とダイナに近づく機会を狙っている。いきなり隣に越してくるなどストーカーじみた面もあるが、逆に言えばその行動自体は必要以上に図々しかったり馴れ馴れしくはない。

 と言うか、そんな馴れ馴れしい行動が自然にとれる男はストーカーになどならない。意中の女性に上手く近づくことができないからこその隣人として遠回しに仲良くなろうというストーカー作戦である。

 この時もヴァイスは別に下心からというわけではなく、単に必要性の問題という、本当に困った顔でダイナに頼み込んだ。

「知っているとは思うが、私はこれまでずっと男の一人暮らしだった。子ども、特に小さな女の子が生活できるような準備など何もない」

「……そう言えば、この家のお風呂にはろくなシャンプーすらなかったわね」

 昼に一応地下道を通った汚れを落とすために湯を借りたものの、ほぼ石鹸しかないような風呂場に驚いたチェシャ猫が遠い目で頷いた。

 ヴァイス本人はきちんといつも清潔感のある身なりをしてはいるが、それは必要最低限をきっちりこなしているだけでメンズ化粧品を大量に買い込むような性質の男ではない。

「悪いが、この二人を上げてやってくれ。私はうちの用事が終わったら引き取りに行く。せいぜい三十分程度だ」

「わかりましたわ。じゃあ、アリスくん、シャトンちゃん、一緒に来てね」

 部屋の扉を開いたダイナに招き入れられ、二人は少しだけ「レーヌ家」に世話になることになった。

 アリストにとっては実に二日ぶりの我が家である。


 ◆◆◆◆◆


「痛くない?」

「だ、大丈夫です!」

 姉の優しい手に傷の手当てをされ、アリストは不覚にも涙ぐみそうになった。過剰な反応も痛みのためと姉が誤解してくれるのであれば、今なら女々しいと言う言葉も受け入れよう。

 ここは自分の家で。この人は誰より大事な自分の姉で。

 けれど今のアリストでは――「アリス」としての姿では、それを伝えることすらできない。

 シャワーを借りていたチェシャ猫が出てくる。この家にはヴァイスの家よりもシャンプーやソープの類が豊富で、いつもと同じ表情ながらチェシャ猫もいくらか機嫌が良いようだった。

 アリストも一日ぶりにとても気分が良くなるのを感じた。やはり自宅は落ち着く。

「お風呂、ありがとうございました」

「どういたしまして。二人とも、こっちでお茶にしましょう」

 汚れた体を清め傷の手当てを終えて、ようやく人心地がついた。その頃には隣の部屋で即席の通報システムを解除していたヴァイスもレーヌ家にやってくる。

「すまんな、ダイナ。世話になった」

「いえ、こちらこそいつもお世話になっております」

 ヴァイス自身は自宅で風呂を使って来たらしい。煤だらけの格好から着替えている。この時間だというのにダイナを訪ねるためか、やたらと気合が入っているのが気に入らない。

「そう言えばルイツァーリ先生」

「なんだ?」

「アリスくんとシャトンちゃんの親権問題って……」

「あー」

 子ども二人になるべく聞かせないよう、僅かに声を潜めながらのダイナの問いに、ヴァイスがそういえばそんなこともあったと苦い顔をする。

 アリストとチェシャ猫の二人はお茶菓子に夢中の振りをしながらしっかり聞き耳を立て、自分たちの頭でもこの先どうするべきかを考えていた。

 両親に関することは可能な限り濁して最低限の部分だけ捏造するしかないが、どういう状況を周知させるのがもっとも自然か。

「その、向こうも遺産相続が血で血を洗う勢いで」

 いきなりちょっとまずいことを言いだすヴァイスにじと目を向けつつ見た目子どもたちは大人たちの会話を見守る。

「騒動がどうにも長引きそうでな。他に引き取る人間もいないし、しばらくは私が預かることになるかもしれないのだが……」

「ルイツァーリ先生が引き取るのですか?」

「いや、そうではない。あくまでも一時的に預かるだけだ。私以上に保護者に相応しい相手が出てきた場合、そちらに行ってもらうことになる」

 アリストとチェシャ猫の二人は、状況次第ではどこか別の場所で生活をした方がいい場合もある。

 それに睡蓮教団の調査や戦いがうまくいって元の姿に戻れるようになったら、当然ヴァイスの元からは姿を消すことになる。事後の処理のためにはあくまでも「一時的にヴァイスのもとに預けられた子ども」を演じるしかないだろう。

「でも……お一人でいきなり小さな子どもを二人も預かるのは大変では?」

「う……」

 そこなのだ。問題は。

 ヴァイスがもっと里親、養親として相応しい人間であれば「親戚の子どもを預かっている」発言にも説得力が出るのだが、残念ながら彼の性格的にまったくもって向いていない。

 ジグラード学院の生徒あたりであれば、ヴァイスのもとに年端もいかない子どもがいるという話の時点で「虐待じゃねーか」と言い出すだろう。もちろん、その場合真っ先にこのツッコミを入れるのは当事者でなかった場合のアリスト本人である。

 しかし、そこで救いの手が現れた。

「よろしかったら、私も少しお手伝いさせていただけませんか?」

「本当か?! ダイナ!」

「ええ?!」

「はい。お料理とか、たぶんしばらく作りすぎてしまうと思うし、ぜひお裾分けさせてください。ルイツァーリ先生が何らかの用事でお出かけする際には二人をうちで預かってもいいですし」

 想い人からの思いがけない申し出に、ヴァイスが顔を輝かせる。焦ったのはアリストだ。

「ちょ、待っ――」

「これまでずっと男の方の一人暮らしで、いきなり三人分の生活を整えるのも大変でしょう? 女の子もいますし」

「いやぁ、ありがたい。実は私も自分一人の力では不安で――いででででっ、なんだアリス」

「……ヴァイスー、ちょっとこっち来て~」

 アリストはヴァイスの手を抓って気づかせると、引きつった笑顔のまま、彼をダイナの目の届かない廊下に引っ張り出した。

 扉を閉めた途端、彼が愛らしい子どもの仮面をかなぐり捨て鬼の形相になったのは言うまでもない。

「いきなり何を言い出してんだよテメーは!」

「何を言う! ちょうどいいだろうが、渡りに船! 棚からぼたもち!」

「どういう意味でだ! 姉さんに迷惑かけてんじゃねーこのストーカーが!」

 ダイナの傍にいられるのは嬉しいが、過剰に彼女を事態に巻き込むのはよろしくない。そうなれば何のために「アリストが盗まれたものを取り返すためにしばらく帝都を離れる」という嘘までつく羽目になったのか。

「……バレたらどうするんだよ。俺はこんな事態に、姉さんを巻き込みたくない」

 長き不在と連絡が取りづらくなることに関する心配と、全てを明かした後の心労を計りにかけ、アリストは前者を選んだ。ダイナに自分の正体が――「アリス」が「アリスト」であることがバレたら困るのだ。

「お前の言いたいことはわかるがな、実際、生活面での助け手は必要だぞ。今までダイナと共に生活してきたお坊ちゃん気質のお前に私の生活ペースに合わせて生きることができるか? お前より繊細な女の子のチェシャ猫はどうする?」

「う……」

 料理一つとっても、ヴァイスにまともなものが作れるとは思えない。彼の腕前はとりあえず死なない程度に食えればいいぐらいのものである。

「必需品の買い出しだってそうだ。私がチェシャ猫を連れて女児用の下着売り場なんぞに出かけた日には即刻通報されるわ!」

「不審者の自覚があるならその生き方を改めろよ!」

 確かにヴァイスはチェシャ猫ともアリストとも似ていないので親子にも兄弟にも見えない。二十七歳の男性と七歳の子どもではそのどちらで通すにも若干苦しい関係である。アリストとチェシャ猫もまったく似ていないので尚更だ。家族と言い張るのは不審である。

 そこに温厚で分別ある女性のダイナが付き添ってくれるだけで、具体的な関係を想像すると多少おかしいものの、集まって何かをしてもとりあえず咎められることはない程度に一般人を装える。

「要は、お前のことがダイナにバレなきゃいいんだ。気張って隠せ」

「他人事かよ!」

「他人事だ」

 確かに普通は十七歳の少年が七歳の子どもにまで若返ったなど思いもしないだろう。「アリスト」と似ている「アリス」のことは気にかかるだろうが、常識的に考えれば他人の空似と思うしかない。

「幸い……と、言うのもなんだが、ダイナは知らないのだろう。お前の子ども時代を」

 口にするヴァイスも微妙な顔になったが、言われたアリストも複雑になる。

 そう。幸か不幸か、ダイナ=レーヌはアリスト=レーヌの過去の姿を知らない。

 親の再婚で二人が義理の姉弟の関係になったのは、アリストが十二、ダイナが二十歳の時だからだ。

 アリストが少女だったら顔も声も似すぎていて非現実的な疑惑は深まったかもしれないが、少年は声変わりをする。アリストの子どもの頃の様子を知らないダイナ相手なら、今のアリストが子ども特有の甲高い声をしていることもあって、演技次第でどうにか誤魔化せないこともないだろう。

「それに、離れすぎるのも逆に不安だしな。考えてもみろ。今のところお前の事情は私が電話で彼女に伝えたことが全てなんだぞ」

 この上いきなりダイナから距離をとるために引っ越しなどしたら、何かやましいことでもあると疑われかねない。

 アリストを最後に見て以来ずっと本人からの連絡がなく、その近況について知人が口頭で伝えただけで音沙汰がないとすると。

「……なんかそれ、お前が俺を殺して埋めて逃げたみたいなんだけど」

「なんで私がそんなことをしなきゃならんのだ。だから、多少怪しかろうと不自然だろうと、こうして何食わぬ顔で日常を送るのが一番いいんだ」

「……」

 アリストにしても、ダイナと離れすぎるのは不安だ。弟としての存在は取り戻せなくとも、彼女が困った時や何かあったとき、すぐ傍で駆け付けられる距離にいたいという想いは当然ある。

「“アリスト=レーヌ”の不在に関しては幾つか布石を打っておかねばならないからな。ダイナの行動もある程度見張っておきたい。彼女の性格からすると、不審な状況でお前がいつまでも帰らないとなるとあらゆる手を尽くして探すだろう」

「あ……」

 怒涛の展開が続いてそこまで考えが及んでいなかったアリストは、ヴァイスの言葉に改めて扉の向こうの姉の存在を想った。

 いつまで誤魔化せるのだろう。あの人はいつまで、都合よくこちらの嘘を信じて騙されてくれるのだろう。

 たった一人の家族がいなくなれば警察に相談したり、探偵に捜索を依頼する可能性だってある。アリストだってダイナが突然いなくなったら間違いなくそうする。

「……ダイナを悲しませたくなかったら、お前は常に能天気でアリストとは全く別人の子どもの振りをして、笑顔で彼女を騙しきれ」

 同じように子どもにされても、チェシャ猫はまだマシだった。彼女は自分を偽る必要がない。

 けれど周囲を騒がせず危険に巻き込まないためには、アリストは「アリスト」を封印して「アリス」を演じきらなければならない。

「……わかった」

 アリスト=レーヌの不在に関してはヴァイスになんとかする当てがあると言う。

 ならばアリストはあくまでも、これから先「アリス」を演じ切るだけだ。

 そしてただの子どもであるアリスとしてなら、ダイナの好意的な申し出は無邪気に受け入れるのが自然なのだろう。

 話に決着がつき、二人はレーヌ家の居間へと戻る。

 チェシャ猫とダイナは話が弾む様子ではないが、当たり障りなく会話を続けていたようだった。戻ってきた二人に視線を向ける。

「おかえりなさい。お話は決まりました?」

「ああ。すまないな。変なところで中座して」

 ダイナはヴァイスに微笑むと、視線を合わせるように腰を屈めてアリストの顔を覗き込む。ほんの少し気がかりな表情で。

「私が一緒にいるの、嫌だった?」

「ち、ちがっ、違うよ!」

 その言葉にアリストはぎょっとした。酷い誤解をさせてしまったかと、ぶんぶん首を横に振って否定する。

 その頭を本当の子どもにするようにぽんぽんと軽く叩いて、ヴァイスが珍しくフォローを入れた。

「何分複雑な環境の子どもだからな。まったくの他人に世話になるのに、ついつい遠慮してしまったらしい」

「そう。アリスくんは真面目なのね。でもいいのよ、私も今はちょうど弟が家を空けていて、ずっと一人でいなければいけないのも寂しいし……」

 微笑んでいるのにどこか悲しげなダイナの表情に、アリストは今この瞬間も彼女に負担をかけていることを自覚する。それでも真実を明かすわけにはいかない今は、無関係な子どもの振りをしなければならない。

「お世話に、なります」

 ぺこりと頭を下げると、チェシャ猫も椅子を降りて隣にやってきた。アリストに合わせて頭を下げる。

「まぁ、二人とも。いいのよ、どうか頭を上げて――」

「ダイナ」

 ヴァイスがすっと指を伸ばし、戸惑う彼女の両手を握りこんだ。

「君の好意はしかと受け取った。これからの日々、ありがたく世話になろう。何、いずれ子どもができて家族が増えた際の予行演習と思えば――ぶっ!」

 二方向からの衝撃に、ヴァイスは台詞の途中でその場に倒れ込んだ。

「何してんだセクハラ野郎!」

「婦女暴行罪よ、ヴァイス=ルイツァーリ」

「いくらなんでもそこまで酷くはないだろ?!」

 子ども二人に怒られて、ヴァイスが殴られた箇所をさすりながら反駁する。シスコンはともかくチェシャ猫にまで殴られる謂れはないと後で抗議したのだが、「シスコンでなくとも殴りたくなった意味を考えなさい」と氷点下の声で返された。

 ダイナはヴァイスの決死の口説きも気にせずころころと笑っている。

「しっかりした子たちね。この二人ならきっと、どんな状況が来ても大丈夫そうね」

 そして彼女の台詞通り、これから日常生活と言う名の嵐が幕を開けるのである。


..020


 四月五日。帝都エメラルド。

 多くの学校がこの日、入学式を行う。

 帝都一の規模を誇るジグラード学院も例外ではない。

「それでは、皆さん一人ずつ自己紹介をしましょう」

「「「はーい」」」

 朗らかな担任の声に促されて。ジグラード学院小等部のとあるクラスでは小さな子どもたちの元気な声が重なった。

 今頃いくつもの他の学校、学部、学年のそれぞれの教室で行われているだろうやりとり。もちろんこのクラスも例外ではなく、幼児を脱しかけた子どもたちが和気藹々と集っている。

 今、名を呼ばれた一人の子どもが席を立つ。もう少し学年が上がれば自己紹介もそれなりに色を付けた挨拶が求められるが、小等部一年生なら本当に名前だけを名乗る程度だ。

「アリス=アンファントリーです……よろしく」

 こうして、本来十七歳になるはずの“アリスト=レーヌ”は、無事に“アリス=アンファントリー”として小等部一年の入学式を終えた。


 ◆◆◆◆◆


 小さな子どもたちの体に合わせた小さな机と椅子。悲しいことに、アリスト改めアリスには今のこの机のサイズがぴったりだった。

「はぁ」

「小等部一年生が入学式から何暗い顔してるのよ」

 くす、と小さな笑い声が隣からかけられる。こちらも到底小等部生らしくない大人びた皮肉気な物言いは、もちろん中身は大人の少女、アリスと共にこのたびジグラード学院小等部に入学した“チェシャ猫”改め“シャトン=フェーレース”だ。

「今更小等部からやりなおしかよ……」

「あら、いいじゃない。それにどうせあなた、この学校の小等部には通ったことないんでしょう?」

 親の再婚で帝都に移住してきたアリストは、ジグラード学院の小等部には通ったことがなかった。それは事実なのだが。

「だからって、今更七歳の子どもらに交じってお勉強って……」

 気分が暗くなるのも無理はない。

「仕方ないじゃない。私たちの今の見た目年齢だと、それらしい身分を手に入れるには小等部生として学院に在籍しそう振る舞うのが一番自然なのだから」

 これよりも小さな子どもになると、毎日学校に通わなくて済む代わりに保護者をつけずに歩いていると過剰に心配される恐れがある。ヴァイスがうっかり通報されても困るし、アリスとシャトンはなんとか「普通の子ども」をそれらしく演じる必要があった。

 ……すでに果たせていないような気もするが。

「それにしても、つい四日前までは存在もしなかった人間がたった数日で学校への入学を果たしているとはな……」

 今ここにいることに関し、アリスは納得以前の多大な疑問を山ほど抱えていた。戸籍のない子どもを小等部に通わせるのは可能なのだろうか。いや待て、もしそれが可能だとしても、たった数日でどうやって……。

 手続きをしたのはもちろんヴァイス=ルイツァーリ。どういうツテを持っているのかもわからない、相変わらず謎が多い男である。

「あなたの場合それでもまだ数日あったわけじゃない? 私なんか赤騎士との戦いの後だから準備をしなきゃって話になったのがまず昨日のことなのよ?」

 ここ数日を振り返ると、本当に激動だった。

 新学期開始の一日の夜に“アリスト”は“アリス”にされ、二日にかけてヴァイスに助けられた。同日昼はゲルトナーの話を聞きに行き、赤騎士に襲撃されたところをシャトンに助けられる。二日から三日の夜にかけて決戦を行い、ダイナと会話をして、その日の昼間は全員が疲れ切って一日寝ていた。

 というわけで入学準備を行ったのは式前日の四月四日のみというハードスケジュールであった。と言ってもアリスの入学に関しては、ヴァイスはもともとこの事態を予期して色々手を回していたらしい。

 アリスを置いてヴァイスが用事を済ましてくると言った二日の昼、一人になったところを赤騎士に襲われたあの時間だが、どうやらヴァイスは小等部の手続きのために役所に行っていたらしいのだ。

 彼には最初から見当がついていたのだろう。アリスはすぐには“アリスト”に戻れないことが。

 元の姿を取り戻すその日までは、“アリス”としてまるで別人の子どもの生活を送る。そういう雌伏の時が続くということを。

「ま、いい加減納得しなさいよ。初日からそんなテンションじゃ鬱陶しいわよ」

「あのなぁ……」

 誰のせいでこうなったのかという言葉を呑み込む。

 シャトン自身の性格はまぁともかくとして、彼女の存在自体は心強い。彼女がこちら側にいる限り、睡蓮教団から盗まれた時間を取戻しさえすれば、アリスは元の姿に戻れるのだから。

「あ! ねぇねぇキミ!」

 アリスが隣のシャトンをじとっとした表情で睨んでいると、突然そんな声がかけられた。

 小さな少女、と言ってもこのクラスは小等部一年生なのでみんな小さな子どもなのだが、ふわふわとした髪の愛らしい少女がアリスに視線を向けている。

 彼女の後ろには少年が二人立っていた。

「はい?」

 いくらこれからクラスメイトになるとはいえ、今日は入学初日。小等部生の知り合いはいない。何故自分が呼びかけられたのかわからず、アリスは首を傾げる。

 少女の顔にも見覚えはない……と、そこで数日前の出来事を思い返し、アリスは彼女と初対面ではないことに気づいた。

「あ」

「やっぱり、この前の子だよね!」

 “アリスト”が“アリス”にされてすぐ、大人物の服の裾を引きずってずぶ濡れの状態で街を歩いていた時に声をかけてきた家族連れの子どもだ。

「あの時すんごい恰好だったから、心配してたんだよ!」

「あ、ああ~あの時はありがとう。あれからすぐ、迎えが来てくれたんだ」

「ほんと? 良かった!」

 嘘は言っていない。直後に赤騎士に殺されかけて、そこに駆けつけてきたヴァイスの魔導の犬に咥えられて運ばれたという迎えだったが、嘘は言っていない。

「わたし、カナール=ハウスエンテ。カナって呼んでね!」

「俺はアリス。アリス=アンファントリー。こっちはシャトン=フェーレース」

「よろしくね」

「うん!」

 アリスが流れでシャトンを紹介すると、カナールの顔がぱっと輝いた。彼女も背後に立っていた少年二人を前に押し出す。どうやら三人は以前からの友人同士らしい。

「僕はローロ=プシッタクスです」

「俺はネスル=アークイラ!」

 丁寧な言葉遣いの少年と、見るからに元気の良さそうな正反対のタイプの少年二人が、カナールと同じく好奇心に顔を輝かせている。

「アリスさんもシャトンさんも、この近くではあまり見かけない顔ですよね? どこかから引っ越して来たんですか?」

「それとも、おうちは遠くてジグラード学院に通うために遠距離通学?」

「お前らどこに住んでんだ?」

「ああ、うん。色々あってね……今はとりあえずこの近所に来たところだよ」

「私たち、ちょっと事情があって両親から離れて、他のおうちでお世話になっているの」

「へー」

 入学式直後に授業があるわけでもなく、校舎の探検なども全学年全学級が一度に行うとこのマンモス校を超えたマンモス校であるジグラード学院では大混乱が起きてしまう。今は自由時間として、交流を深めるよう担任からも指示されていた。

 あちこちで子ども同士の何気ない世間話に花が咲く。

「こんにちは」

 アリスはまた、誰かに話しかけられた。振り返った先を見てみれば青い髪のどこか大人びた雰囲気のとても綺麗な少年で、彼には先程のカナールよりもずっと見覚えがある。

「君は、確か」

「テラス=モンストルムだよ。よろしく、アリス」

 テラスと名乗った少年は、アリスがゲルトナーに睡蓮教団のことを聞きに来た二日の帰りに校門で出会った子どもだった。そう言えばあの時もなんだか普通の子どもらしくない程に大人びた少年だと思ったのだ。

「彼女はフォリー。フォリー=トゥレラ。僕の幼馴染だよ。そちらはシャトン=フェーレースさんでいいんだよね?」

「ええ……」

 先日と同じように、隣に立つ大人しそうな少女の名を彼が紹介した。そしてテラスは一度クラスの前で名乗っただけだというのに、シャトンのこともすでにフルネームで覚えているようだった。

「知り合いなの?」

「先日ここでちょっと会ったんだ」

 シャトンもテラスとフォリーの独特な雰囲気に何か感じるものがあるのか、そっとアリスの耳元に口を寄せて小声で尋ねる。

 しかしアリス自身も、この二人と顔を合わせたのはあの時だけだ。

 視線を向け直すとテラスはにっこりと笑みを浮かべてくる。

「やっぱり、同級生になったね」

「あ、ああ。そうだな」

 表向きは友好的で人当たり柔らかな少年、だが彼はどこか、その稚い見た目にそぐわぬ謎めいたものを抱えているように思う。

「はーい、皆さん。そろそろ席に戻ってくださーい」

 一度他クラスとの打ち合わせに出ていた担任が戻ってきた。恐らくこれから校舎内の見学でもするのだろう。生徒たちをひとまず自分の席に戻らせる。

「なんだか、この生活も退屈だけはしなさそうね」

 見るからに元気いっぱいなカナール、ローロ、ネスルの三人組。

 そして自分たちを棚に上げてアリスやシャトンにさえ子どもらしくないと思わせるテラスと、彼の幼馴染のフォリー。

 子どもとしての日常なんて、適当に学校に通って見た目も中身も子どもの同級生とままごとじみたやりとりを交わすだけで済むという予測は甘かったかもしれない。

 小等部一年、アリス=アンファントリーの学院生活は、すでに波乱の匂いがしていた。


..021


 新学期が始まった。

 小等部や高等部に入学する生徒にとっては四月は人生の契機ともなるべき時だが、進級するだけの二年生、三年生ともなるとその熱も薄れる。

 ジグラード学院高等部二年の教室では、どのクラスも大概は昨年と変わりない顔触れを眺めることとなった。

 フートやムース、レントやギネカの在籍するクラスもほとんどが昨年と変わりない顔触れだ。

 ただ一つ、空いた席を除いて。

「結局、アリストの奴は今日来なかったな」

「始業式からサボりとはいい度胸ですね~」

 レントが空席を眺めながら口を開けば、ムースが冗談交じりに言う。

 しかし彼らも、その机の周りに集まったフートもギネカも、次の瞬間には一様に顔を曇らせた。

「アリスト、本当にどうしたんだろ?」

「誰かダイナ先生から連絡受けてたりしてない」

「ない。あったら普通にメールしてるって」

 アリスト=レーヌの欠席に関しては朝のHRで軽く伝えられただけだった。クラスのほとんどの人間は彼の欠席の理由さえわかっていない。

 それはここにいる四人もほとんど同じだ。「理由らしきもの」は数日前に聞かされたが、それが本当に正確な理由かどうか半信半疑の状態だった。

「……気になるわよね」

 ギネカが険しい顔つきで言う。彼女はもともときつめの顔立ちなのでそんな表情をするとまるで怒っているかのようだが、親しい人間はそれが彼女の真剣さだと知っている。

「ああ。アリストが筆不精でメールもろくに返さないのはいつものことだけどな。あの日、ダイナ先生からわざわざ電話が来たのと、実際今日まで誰も姿を見てないってのは気にかかる」

 学年首席のフートが四人の不安を代表して言語化する。立てた指を一本ずつ折って不審な点を数え上げていくごとに、聞いている三人の顔色も悪くなっていった。

 アリストの筆ならぬメール無精はいつものことだが、それで納得できるのは彼の無事な姿を見てからだ。実際にダイナが彼の行方不明をここ四人に伝えてきた日以来まったく連絡もなく姿を消したことを合わせて考えると、今の状況はあまりにも不自然だった。

「ダイナ先生はいつもとお変わりないみたいでしたけれど……」

「いえ、そう見せていただけよ。物腰はいつも通りだったけど、なんだか動作に力が入ってなかったわ」

 アリストの姉であるダイナ=レーヌは今年は担任を持たないようだった。朝方廊下で見かけただけの姿だったが、そのいつもと違う様子をギネカは感じ取った。

「なぁ、ヴァイス先生の話、どう思う?」

 フートはそれも気になるようだった。

「泥棒に盗まれたものを取り返すために帝都を出たってあれか?」

 三日前に四人は、この学院内で講師の一人ヴァイス=ルイツァーリと出くわした。四人とも彼の講義をとっているので御馴染みの相手ではあるのだが、アリストについて考える時ヴァイスは単なる講師以上の意味がある。

「ヴァイス先生はアリストのお隣さんだし、ダイナ先生のことで色々変な付き合いがあるしな」

 アリストが友人にはしなかった連絡を、彼にだけ伝えることはなきにしもあらずと考えられるには考えられるが……。

「私、ちょっとおかしいと思う。アリストの性格と能力なら泥棒を追うのは考えられるけど、だったら帝都を出る前にまず非常線を張ると思うのよね」

「ギネカ、非常線って?」

 一学生に過ぎないアリストが警察でも動かすのか? とレントは突っ込んで尋ねる。

「つまり、私たちよ。『ちょっと手伝ってくれ!』って駆り出すくらいすると思わない?」

「……確かに」

「なるほど」

「アリスト君なら、するかもしれませんね」

 言われてみればそれもそうだ。ただのひったくりやコソ泥程度なら何の策もなくひたすら追いかけるだけというのは考えにくい。アリストは使えるものは最大限使う主義である。

「夜中だったんじゃね? ダイナ先生から電話かかってきたのも十時くらいだったろ? さすがにその時間に俺たちを叩き起こしたりは――」

「ムースとマギラスはともかく、俺やお前ならそれが夜中の三時だろうとアリストは遠慮なく叩き起こすと思うぞ?」

「……確かに」

 説得力のありすぎるフートの台詞に、レントはがっくりと項垂れた。それがアリスト=レーヌという男である。女子には多少遠慮する場面もあるが、男友達への対応は大概酷い。

「まぁ、でも、簡単に捕まえられると思ったら案外手強くて手間取ってるって可能性もあるよな」

「そうだな。けどその場合、本格的な追跡や捜索は流石に諦めて帝都に帰って来るんじゃないか?」

「……だよな」

 フートの言うとおり、一学生であるアリストがその立場を捨ててひたすら泥棒を追いかけているというのも不審である。

 そもそも何を盗まれたのかもわからない。そしてそれが何であっても、学生が学校を休んでまで泥棒を追いかけなければいけないと言うのはあまり自然とは言い難い。

 アリストの性格をよく知る四人にとっては、条件さえ整えばやりかねないと考えられることもまた確かなのだが……。

「フート、レント」

 放課後の教室にて、帰り支度そっちのけで話し込む四人に新たな人物が声をかけてきた。

 春休みを挟んだやや久しぶりの再会であるため、こうして雑談に興じる……と言うには彼らの話題は少し深刻だが、まぁそんな生徒はフートたちだけではない。

「ヴェイツェ、セルフ」

 この二人も誰かと話しでもして今まで残っていたのだろうか。新たに声をかけて来たのは、クラス内でも彼らとそれなりに親しい二人だ。

 つまり、アリストの交友関係の中でも親しい方というわけである。

 大人しげな男子生徒、ヴェイツェ=アヴァール。彼とは対照的に明るく楽天的な印象の女子エラフィ=セルフ。

「ねぇ、みんな。アリストのことについて何か知らない?」

「一日の夜にダイナ先生からアリストの居場所を知ってるかって電話があったから私たちも気になっちゃって。しかも今日もあいつ、来てないでしょ?」

 一般に人を苗字で呼ぶか名前で呼ぶかはその関係の親しさや呼ぶ方の性格などに左右される。ただしこのクラスにおいて、アリスト=レーヌだけはほぼ例外なく「アリスト」の呼称で統一されている。何故なら苗字の「レーヌ」で呼ぶと姉のダイナと被るからだ。アリストのいるクラスの担任がダイナになった時などややこしくて仕方がない。

 それはさておき、そのアリストの欠席に関して、やはりフートたち以外にも気にしている人間はいたらしい。

「私たちもよくわからないのよ」

 アリストと電話も通じず、メールの返事もかえってこないのは彼らだけではない。

「この前春休み中にヴァイス先生に会った時は、なんか大事なものを泥棒に盗まれて、それを取り戻すために帝都の外まで追っかけてるって話だったけど」

「……へー、それは大変だね」

 本当か? と顔に書いた微妙な声音でヴェイツェがとりあえず相槌を打つ。

「まぁアリストならやりかねないとは思うけどさ、学校サボってまでってのはおかしいよねぇ。奴はシスコンの割に真面目だし」

「エラフィさん……シスコンは関係ないと思いますけど」

 アリストは首席のフートに次いで学年成績二位の生徒だ。この伝統あるジグラード学院高等部の。

 多少は元々の頭脳も関係あるとはいえ、あまりに不真面目な学習態度でこの学院の学年成績二位はとれない。まぁ、天才と呼ばれるフートはよく授業をサボる割に首位を軽々維持していたりするのだが。

「でもそれが本当なら、あたしの幼馴染に頼んででもみる?」

「へ? セルフ、お前幼馴染なんかいたの?」

 幼馴染に何かを頼むという内容より、エラフィに幼馴染がいたという話自体に驚いて、フートたち四人は彼女に注目する。

 ヴェイツェが驚いていなかったところを見ると、彼は知っていたようだ。

「うん、あたしの幼馴染ってね、あの――」

「あ、ごめん」

 エラフィの台詞の途中で、携帯の着メロが鳴り響いた。皆の視線が今度はその携帯の主、ギネカへと集中する。

「……うちの幼馴染から。頼みごとをしてたから、ちょっと出てくるわね」

 エラフィの幼馴染の話は知らないが、ギネカの幼馴染が別の学校に通っている話はフートたちにはお馴染みだ。軽く詫びを入れて中座する彼女の背をなんとなく見送ってしまう。

「……えーと、それで? セルフの幼馴染に頼むってどういうこと?」

 何を頼むかということも気になるが、そもそもその文脈からするとエラフィの幼馴染は頼れる人物だという意味らしい。それが気になると、フートは先程の彼女の台詞の続きを促した。

「うん、実はね――」

 そして聞かされたエラフィの幼馴染の名に、フート、ムース、レントの三人は驚きの声を上げた。


 ◆◆◆◆◆


『『『えー―!!』』』


 教室の方から大きな声が上がり、廊下の隅にやってきたギネカは一瞬びくりと肩を震わせた。

 人がいない間に彼らは一体何の話をしていると言うのだろう。

『……どうかしたのか?』

 電話の向こうで一瞬の間を不思議に思った幼馴染の声が尋ねて来る。

「いえ、なんでもないの。なんか教室の方が騒がしいみたい」

『ごきぶりでも出たのかー? ジグラードは古臭いのだけが取り柄だからな♪』

「失礼ね。うちの学院の校舎は文字通り魔法の手入れが行き届いてぴかぴかよ」

 いつも通りの軽い口調で茶化してくる幼馴染に文句を言いつつ、ギネカは先日彼につい頼んでしまったことの確認をする。

「それで……どう?」

『今のところなんとも言えねーな。俺も片手間にやってるからあんまり行き届いた情報じゃねぇかも知れないけど、とりあえずお前のお友達のアリスト君とやらが帝国を出たなんて情報はないぜ。かといって帝都内のどこかにいるっていう情報も引っかからなかった』

「そう……」

『でもあんまり当てにするなよ? 一般的な学生が痕跡を残さず消えることは簡単じゃないが、難しいとも言い切れない。俺は探偵じゃねーし、なまじ本人を知って聞き込みしたんじゃないからそう言う意味では遠回りなことやってるぜ。ホテルの顧客データや飛行機の乗客名簿なんかいくらハッキングしたって、本人がそれらを使ってなきゃ意味ないんだからな』

「ええ。わかっているわ。でも……聞き込みだけなら、私もやってるのよ。実際に聞いているわけじゃないけど」

『……』

「“怪盗ジャック”が調べて情報が出て来ないなら、アリストが帝都を出てないことは確からしいわね。まぁ、私の調査もまだ本命が残っているから何とも言えない部分はあるけれど」

『ふうん? だったら多少不自然でもなんでも、その本命に当たった方が確実じゃないか? お前ならそれで確実に知りたいことを知れるだろう? “料理女”』

 電話の向こうで彼は笑う。自分にできるのはここまでだと、幼馴染はギネカに告げた。

 帝都を騒がす怪盗でもある幼馴染は、このところ中々忙しいらしい。だから彼が直接盗聴対策をしたこの携帯への連絡は場を中座してでもすぐに出ておきたかったのだ。

「ありがとう、ネイヴ」

『力になれなくて悪いな、ギネカ』

「いえ、こっちこそ。忙しいところに頼みごとなんかして悪かったわ」

『別にいいけど。何、お前がそんな必死になるなんて、そのアリスト君のことが好きだったりするの?』

「――」

 幼馴染の冗談じみたかまかけに、ギネカは咄嗟に応えを返せなかった。

『え……マジで! お前が惚れてる相手ってそいつ――』

「ああもう! とにかく、ありがと! 助かったわ! じゃあね!」

『おい! ちょっと待てギネカ、お前――』

 問答無用で終話ボタンを押し、ギネカは会話を終わらせる。

「まったく」

 アリストの奴、本当にどこ行っちゃったのよ。

 どこか落ち着かない様子のダイナ=レーヌを見ると、ギネカも胸が痛む。姉である彼女があの態度ということは、アリストはまだ微妙な立場にいるに違いない。

 とにかく、少しでも無事な様子を見せてくれれば――。

 ギネカがそう考えた時だった。ふと何気なく見下ろした中庭に、人の影がある。金髪の、細身の。

「え……?」

 校舎と校舎を繋ぐ連絡口に向けて、歩いているその姿は。

「アリスト……?!」


..022


「それで、やっぱり君が“アリス”になることにしたんだね」

「ああ……じゃなくて、“うん、そうだよ!“」

「ははは。ここでまでそんな気合い入れた子どもぶりっこしなくてもいいよー」

「……そう言ってもらえると正直助かる」

 相変わらず地獄のように苦い珈琲をビーカーで提供されながら、アリスはジグラード学院講師フュンフ=ゲルトナーの研究室にいた。

 ヴァイスがちょっと何か用があるだとかで、一時的にこの部屋に預けられたのだ。ゲルトナーとは初顔合わせのシャトンも一緒である。

 アリスは初め驚いたビーカー入り珈琲に、シャトンはまったく動じていなかった。研究者とは皆こうなのか? とアリスは苦い気持ちで苦い珈琲を啜る。ヴァイスの家ではビーカーに飲み物を入れられないよう注意しよう。

 そしてゲルトナーの紙束に埋もれたこの部屋の惨状にも動じなかったシャトンだが、部屋の主の名を聞いた時は驚いていた。

「フュンフ=ゲルトナー? “庭師の5”と呼ばれる……“白の王国”の一員ね」

 不思議の国由来のコードネーム持ちたちの情報網は一定の共有があるようである。またしても耳慣れない言葉が出てきて、アリスはシャトンの袖を子どものように引っ張った。

「ホワイトキングダムって何?」

「睡蓮教団の敵対組織よ。ただし全貌は不明。教団側からの認識は『手強い相手』ってところ」

「別に僕らは教団に敵対するために組織を作ったわけじゃないんだけどね。僕らの目的は最初から一貫して“辰砂の魂の欠片を集めること”だ。喧嘩を売ってきたのは向こうだよ」

 シャトンが眉根を寄せた。子どもの頃から(今も見た目は子どもだが)教団育ちと言う彼女は、ゲルトナーの属する組織が教団にとって明確な敵だとずっと聞かされてきたという。

「白兎にしろ赤騎士にしろ、俺にとってはどうにも教団も一枚岩ではないっていうか謎の多い組織なんだけど……ゲルトナー先生も結構謎だよな」

「うん。まぁ、そうなるだろうね」

 謎と呼ばれて否定もせず、ごくあっさりとゲルトナーは頷いた。

 この教師のあだ名の一つに「妖怪」というものがある。学院に何十年も勤めるよぼよぼの御爺ちゃん教師が、自分の若い頃からゲルトナーはこの学院で教師をやっていたと折に触れ話すからだ。

 大抵の生徒はそれをただの冗談だと思っている。だってそれじゃまるでゲルトナーが、年をとらない化け物みたいではないか。

 けれど今のアリスは、その噂もあながちただの噂ではないのかと思い始めている。

 教団の刺客であった白兎と赤騎士。あの二人はどうにも見た目の年齢とその内側の雰囲気が一致しなかった。彼らの外見年齢以上に永い時を生きて来たかのような空気を持っていたのだ。

 だが、ヴァイスやシャトン曰くあの二人は教団内部でも異質で特別なのだという。あとの構成員はほとんど普通の人間だと。その時にヴァイスが少し気になることを言っていた。

 ヴァイスと言う男が初めて教団と関わりを持った十年前、白兎や赤騎士と出会ったのもその頃だという。そしてその頃から今までずっと、白兎も赤騎士もあの少年の見た目から変わっていないと。

 面と向かって「お前らは不老不死か何かか?」などと尋ねずとも、確かにそんな話を聞けばあの二人が異質であるということも納得できる。

 そして立場こそまったく異なるようだが、アリスはゲルトナーにも彼らと同じ匂いがするように思う。

「“白の王国”は辰砂の魂の欠片を集めている。だから辰砂の欠片を手に入れようとするものは教団であろうとなかろうと敵対するし、そうでなければ普通に交流するよ」

「だから十年前に“白騎士”を助けたの?」

 ゲルトナーとシャトンの流れるような会話に、アリスは今一度口を挟んだ。

「どういうことだ?」

 謎が多いのはゲルトナーだけではない。

 この事態に入ってから一番身近な人間であるはずのヴァイスもそうだ。

 彼は積極的に事情を隠すタイプではないが、自分が言いたくないことは基本的に黙っている。

 そこにアリスや誰かを騙したり誤魔化したりする意図がないのでアリスも積極的に問い詰めはしないのだが、やはり気になるものは気になる。

 赤騎士との戦いでも、ヴァイスは色々と気になる言葉を投げられていた。

 そして何より、あの時の白兎や赤騎士の言葉からすると、まるで他でもないヴァイスこそが“アリス”を決める決定権のようなものを持っていると感じられたからだ。

「なぁ……ヴァイスは、何なんだ?」

 何故教団と関わりがあるのか。どうして教団から一目置かれているような、厄介者としてマークされているような扱いなのか。教団を壊滅しかけたという十年前、一体何があったのか。

 それらの疑問は結局たった一言に集約された。

 ヴァイス=ルイツァーリは「何」なのか。

「なかなか的を射た問いだね」

 ゲルトナーが笑う。こんな時の彼は、とてもせいぜい二十そこそこの人間には見えない。

「彼は……」

「私はただの善良な一般人だ」

 がらりと戸を引いて、ヴァイスがゲルトナーの研究室に顔を出した。

「よぉ」

「あれ? 早かったね」

「下準備が整ったからな。もう十五分もしたら出る」

 ヴァイスの態度はいつも通り変わらない。むすっとして眉間に皺が寄っているのはいつものことと言えばいつものこと。

 ただし今の彼の不機嫌の理由は、彼のいないところで彼の話をしていたことだろう。

 アリスにじっと見つめられ、ヴァイスは深く嘆息する。

 シャトンの態度が変わらないのは、彼女はすでに教団の人間として「それ」を聞いたことがあるからだ。

「言っちゃえば? 彼が“アリス”になると決めたのであれば、お前の事情を避けて通ることはできないよ。なぁ、“白騎士”」

 “白騎士”、“白の騎士”と呼ばれるのがヴァイスのコードネームだ。

 これらのコードネームがその者の立場や性質を考慮してつけられると言うのであれば、ヴァイスが白騎士であることにはもちろん意味がある。

 物語中では公爵夫人の飼い猫であり、女王を怒らせることになる“チェシャ猫”が教団を裏切ったように。

「やれやれ。仕方がないか」

 そして“白騎士”ことヴァイスは、ついに彼がその名を得るに至った十年前の事件――その発端について明かした。


「私はな、背徳神グラスヴェリアの欠片なんだ」


 ん?

 あまりに端的に語られた答に、さしものアリスの理解も追いつかない。

「……んん?」

 欠片? 欠片って何?

 ゲルトナーは背徳神の欠片を追っていくのが教団に近づく手段だと言った。が……。

「え? 何、どういうことだ?」

 神の魂の欠片。

 集めると言ってもこれだけの情報では残念ながらアリスの中にはまだイメージが湧かない。そもそも魂の欠片などという目に見えないものをどうやって探すのか、そういう魔術でもあるのかと考えていたのだが。

「先日ここで話したことを覚えているかい?」

 混乱するアリスを見遣り、ゲルトナーが助け舟を出す。

「かつて剣と魔法の時代に、無数の黒い流れ星が降り注ぎ数多の魔物と魔王が生まれた。その黒い流れ星こそ背徳神の魂の欠片」

「ええと、その残りはまだ地上にあるっていう話だっけ? って……」

 無数に引き裂かれ、無数の欠片となってこの地上に降り注いだかつての邪神。誰がその総数をカウントしたわけでもないだろうが、その破片がまだ残っていることだけは確かだと。

「そう。昔々、黒い流れ星は世界中のあらゆるもの……植物や鉱石、動物や、人間にまで降り注ぎ同化してその存在を変質させた。その時神の欠片を受け入れた魂は何度も生まれ変わり、また地上の人間として生を受ける」

「じゃあ、神の欠片は……人間の中にあるものなのか?」

 どうやって探すのかまったく方法も思いつかなかった話がいきなり具体性を帯びてきたようだった。

 神の魂の欠片を手に入れること。

 それは神の欠片を宿す人間を見つけることと同義でもあるのだ。

「人間だけじゃないよ。この世界のあらゆるものに神の魂は宿っている。ただ……あれから大分経つからね。欠片そのものも時を経て収束していったんだ」

「収束?」

「神の魂の欠片だ。そんじょそこらにあるようなものと一緒にされても困る。それは、欠片でもそこにあるだけで相当の力を持つんだ。例えば」

「宝石だったら周囲の人間を呪う曰くつきのような影響を持ち、芸術家ならばその作品に魔力が宿り、またそれを見た人間が魅了されて狂気に堕ち……そもそも“邪神”とまで呼ばれた神だ。そんなものを欠片でも受け入れて、人間の方に良い影響があるはずもない」

 ヴァイスの具体例に、アリスは何かの本で読んだ、いまだ帝都を騒がせるゴシップの数々を思い出した。

 例えば犯人が見つからない不可思議な事件や、関係者が一斉に狂気に陥ったとしか思えない事件。その中心にある絵画や宝石の呪われた噂。まさか……。

「この男を見ればわかるだろう? ほら、こんなに性格が歪んじゃって」

「誰の性格が歪んでいるって? お前よりマシだ、ゲルトナー。私は善良な一般人だぞ」

「嘘をつけ」

「ヴァイス、それはいくらなんでも嘘だ」

「白騎士、世の中には人を騙せる嘘とそうでない嘘があってね」

「お前らこんな時だけ結託するな」

 自称善良な一般人は一同をじろりと睨む。

「ま、そういうわけでな。背徳神の欠片はあらゆるものに宿りこの地上に存在している。そしてそれが宝石だろうと絵画だろうと人間だろうと構わずに集め回っているのが睡蓮教団だ。……もうわかっただろう?」

 促されて頷いたアリスが答を叫ぶ。

「ヴァイスも教団からそうやって集められそうになったのか!」

「そうだ。ま、人間相手だからな。他のものと同じような手段で回収するわけにもいかない。奴らは十年前、私を睡蓮教団に勧誘したんだ」

「……で、どうなったんだ?」

 今ここにヴァイスがいることで答は八割方わかりきっているようなものだが、問題はここまで語られてこなかった残り二割である。

 ほぼ聞き役に徹していたシャトンがくすりと小さく笑いながら先を促した。

「オチは知っているけれど詳細は私も聞かされていないし、ぜひ聞きたいわね」

「……お前らなぁ」

 ヴァイスがまたもや深い溜息をつく。彼に限らずここ数日でアリスたちの幸せは大分逃げていったようだ。

「もちろん、私がそんな誘いに乗るわけはないだろう」

「なんで」

「人に自分の人生を決められるなど腹が立つ」

 ヴァイスは睡蓮教団に「御神体」として崇められるのを嫌い、強引な手段に出ようとした彼らと徹底抗戦することにしたらしい。

 その理由は、人としては非常識なのだが、あまりにもヴァイスらしかった。

 アリスは呆れ返る。と、同時に深く納得もした。

 ヴァイスはやはり、アリスの知るヴァイスなのだ。

「ルイツァーリは一匹狼でね、僕ら“白の王国”にも最低限しか関わらなかった。だから僕以外の人間のこともほとんど知らないくらいだ。でも、それで多数の信者を抱える睡蓮教団を完全に壊滅に追い込むのはやはり難しくてね」

 当時ヴァイスに手を出してきた人間は潰したが、残党は残り、その残党が再び睡蓮教団の勢力を取り戻した。

 否、今の帝都における教団の影なる勢力は、十年前ヴァイスが彼らを壊滅寸前に追い込んだ時の何倍にも膨れ上がっている。

 ヴァイスは背徳神の欠片だけあって、人道的な正義感とは程遠い性格だ。だからこそ自分に火の粉が降りかからない限りはあえて教団に手を出すこともないだろうと、教団側はこれまで彼を再び刺激することのないようにしてきた。

「これで納得したか」

「ああ、まぁ」

 背徳の神の欠片を持つとはいえ、そのこと自体でヴァイスがこれからどうにかなるわけではない。ゲルトナー断言の歪んだ性格は今から矯正するのも不可能であるし。

「何か私に失礼なことを考えていないか、お前」

「気のせいだ」

「はん」

 けれどそれを差し引いても、背徳神の欠片を持つというヴァイスの事情は紙一重だ。

 教団を心底憎む者で、事情をよく知らない者からしてみれば、教団が崇拝する邪神の一部を身に宿す人間も悪魔に見えることだろう。

 ヴァイスがなかなかそれをアリスに言わなかった理由も今ならわかる。

「それで……なんで“白騎士”なんだ」

 教団と真っ向勝負をしたならそれこそ“アリス”ではないのか? そのような意味を込めて「アリス」が尋ねると、ヴァイスは肩を竦めた。

「私は、主人公なんて柄じゃない。英雄や勇者にもなる気はない」

 だからアリスの原典を読み返しながら、自分がどんな立場の人間でいるか考えたのだと言う。

「もしも再び教団が手を伸ばしてくるのなら、その時の私の役目は“アリス”のサポートだ。だから“白の騎士”を名乗った」

 鏡の国に登場する落馬ばかりのその騎士は、少女アリスにとって唯一無条件で味方をしてくれる存在だから。

「騎士って柄でもなさそうだけど」

「そこはまぁ、設定上仕方ない」

 それを言うなら“赤の騎士”ことルーベル=リッターも似たようなものだ。物語中では赤騎士は少女アリスの命を狙う刺客なので、その意味では運命的な巡り合わせだったが。

 ふいに、アリスはあることに気づいた。

「なぁ、その昔、黒い流れ星が飛び散ってその欠片を受け入れたものは魔物に変化したんだろ?」

「ああ、そうだ」

 ゲルトナーとヴァイスの頷きを受け、アリスの眉間に皺が寄る。

「動植物に神の欠片が宿って魔物になるなら、人間に神の欠片が宿ったものが所謂“魔王”になるんじゃないか?」

「その通り」

 魂は繰り返し生まれ変わる。そして神の欠片は何らかの手段で自ら集めない限り知らぬ間に体に宿しているようなものではないという。

 それでもヴァイスや他の人間たちが魂に神の欠片を宿して生まれてくるのは、前世でそれをすでに手に入れていたからだ。すなわち。

「つまりヴァイスは、前世で魔王だったってことじゃないか」

「なんだ。今更そんなことに気づいたのか?」

 前世のどこかで魔王だった男は、その巡り合わせを面白がるようににやりと笑った。


..023


 ゲルトナーの研究室を辞し、三人で廊下を歩いているとダイナの姿を見かけた。

「ダイナ」

「ああ、ルイツァーリ先生。アリス君にシャトンちゃんも」

 ヴァイスの呼びかけで彼らに気づいたダイナはそれまでのどこか憂いを帯びた表情を消して笑顔になる。アリスはほてほてと彼女の方へ歩み寄った。

「入学式はどうだった?」

「うん、楽しかったよ。何日か前にたまたま街で会った子が一緒のクラスだったんだ」

「それは良かったわね。早速お友達ができたのね」

 腰を屈めて「アリス」の目線に近づけてダイナは話しかけてくる。その顔は柔らかな笑みを浮かべてはいたが、アリスとしては先程の憂い顔の方が気になった。

「ダイナお姉さん、どうかしたの?」

「え? ……どうして?」

「さっき一瞬、なんだか元気がないみたいに見えたから」

 無邪気な子どもを装って不調を聞きだそうとする。なんだか卑怯な気もするが、今の見た目ではそのぐらいでなければ相手もしてもらえない。

 先日、ヴァイスが急に預かることになった二人の子どもたちの世話を手伝いたいと申し出たダイナは、その言葉通りに彼らの世話をして、あれこれと便宜を図ってくれた。

 アリスとシャトンが不自然な時期に転入などということにならぬよう、入学式に間に合わせるため強引な手段で書類を捻じ込んだヴァイスは昨日四日はほとんど家を空けていた。その間二人の面倒を見てくれたのはダイナである。

 朝昼の軽い差し入れだけならまだしも夜はしっかりと夕食まで作ってくれて、むしろヴァイスの家の台所を彼女が借りる形だった。家主よりものの扱いに詳しい彼女のおかげで、アリスたち三人はおいしい食事にありつけたのだ。

 昨日の夕食を一緒にした時のダイナの様子はいつも通りだった。しかし今日はなんだか力が入っていない様子である。……何かあったのだろうか。

 アリスとしては今の状態ではとくに連絡も入れられない。声が違うので電話などかけられるはずがないし、下手な話をしてつじつまが合わなくなっても困るのでろくにメールもできないのだ。

 その辺りに関してはヴァイスに誤魔化す当てがあるのでもう少し待てと言われた通り、アリスはただの子どもとして振る舞い、「アリスト」として姉や知人と連絡をとることを今は一切控えている。

「いえ……ちょっとね。今日は始業式だけれど、結局アリストは戻って来なかったのねと考えたら……」

「あ……」

 アリスとしてはダイナの様子を見ることができるが、ダイナとしては「弟」にもう四日も会っていないのだ。

 それも日数が決まった旅行などではなく、何か事件に巻き込まれでもしたかのような姿の消し方だった。

 ヴァイスを通して連絡を入れたものの、それだけでは不安になってもおかしくない。

 ――姉さん。

 ダイナとアリストは、たった二人の姉弟だ。アリストに何かあれば、ダイナは独りになってしまう。

 彼女は学院内でも外でもとても人気があるから、その気になれば友人も恋人もいくらでも作れるだろう。けれど家族と言える存在は、もう血の繋がらない弟であるアリストだけなのだ。

 その彼女を不安にさせていることに、アリスの胸も痛む。

「約束したのにね」

 ダイナの紅い唇から小さな囁きが零れる。

 どんなことがあっても、ちゃんと帰ってくると。

「ダイナお姉さん」

 アリスは呼びかけた。

 今は本物の弟なのだと告白することのできないその人に。それでも、「アリス」としてでも何か言葉を返したかった。

「“アリスト”は、必ず帰ってくるよ!」

「……アリス君?」

 アリストがいなくなってから現れたはずの子どもの言葉に、ダイナが僅かに驚きを浮かべる。

「あ……」

 ここでぼろを出せばせっかくのこれまでの偽装が無駄になる。アリスを止めようと二人の間に割って入ろうとしたシャトンを、ヴァイスがそっと肩を掴んで押し留めた。

 好きにさせてやれ、と。

「ちょっと時間はかかるかもしれないけど、でも、必ず、必ず戻ってくるから……」

 背伸びをするように腕を伸ばして、アリスはダイナに片手を差し出した。

 正確には、片手の小指だ。他四つの指を折りたたみ、小指だけを突き出している。

 その手の形にダイナがハッとして紅い瞳を瞬いた。ゆっくりと口元に微笑を浮かべると、自分も同じように立てた小指を差し出す。

 アリスは小指と小指を絡めて、もう一度誓いを――約束の言葉を繰り返した。

「必ず帰ってくるよ!」

 本当はわかっている。

 いくら禁呪の開発者であるチェシャ猫が傍にいるからって、必ずしも元の姿に戻れる保証はない。

 睡蓮教団から時間を取り戻そうとして殺されるかもしれない。生き残れても、時間を取り戻すことはできないかもしれない。取り戻すことができたとして、それはもはや手遅れとなるほど時間が経ってからの話になるかもしれない……。

 不安要素を数え上げればキリがない。どれだけ難しいことかは、アリスだって言われずとも理解している。それでも。

 それでも、戻るから。

 あなたの傍に、帰ってくるから。

「ええ」

 ダイナが瞳に半ば涙を浮かべて頷く。

「私も……信じているわ」

 弟が必ず帰って来ることを。

「だから、だから……」

 待っていてと告げようとした言葉は、驚愕に目を見開いたダイナの表情に呑みこまれる。

「あ……アリスト?!」

 へ? バレた?!

 アリスは慌てたが、どうやらそういうことではなさそうだった。いや、ちょっと待て。むしろそれ以上にどういうことだこれは。

 ダイナの視線を振り返ったその先に。

(お……俺がいる?!)


 ◆◆◆◆◆


 時間は数分前に遡る。

 フートたちアリストの友人連中も雑談を終えて、そろそろ帰り支度をするところだった。

 そこに、携帯片手のギネカが血相を変えて飛び込んでくる。

「い、今下に、アリストらしき人が!!」

「「「マジで?!」」」

 だだっと廊下に駆け寄る青少年たち。廊下の窓から見える中庭を通るのは、確かにアリストに見える……のだが。

「ってことはやっぱヴァイス先生の話がマジってこと?」

「確かにアリストだよな、あれ。他に金髪のああいう頭の奴っていたっけ」

「でも、なんでこんな時間に……」

「とりあえず行ってみよう……って、ギネカ?!」

 レントが声を上げたのと、ギネカが窓枠を蹴って約二階分の高さを飛び降りたのは同時だった。

「ちょ、普通飛び降りるかよ!」

「ま、その方が早いしな」

 そしてフートも飛び降りた。しかも彼の場合一人ではなく、幼馴染のムースを抱えて。

「ええええええ?!」

 フートは叫んだ。確かにこの学院の学年成績トップを争うような連中は文武両道で身体能力も高いのだが、だからと言ってこれはないだろう!

「感心してる場合じゃないよ、レント。僕たちも行こう。もちろん、普通に歩いて」

「そうだよレント! あたしたちはこんなとこから飛び降りるなんて無理だからね!」

 ヴェイツェとエラフィに促され、レントも慌てて駆け出した。


 ◆◆◆◆◆


「ごめん、姉さん! 今までろくな連絡もしないで!」

「アリスト」

 両手を顔の前で合わせ、ダイナに向かって勢いよく謝る男。その顔はどこからどう見ても、“アリスト=レーヌ”にしか見えなかった。

「嘘……」

 アリスは呆然と呟く。

「な、なんで」

 隣からシャトンがのほほんと問いかけてきた。

「あなた実はアリスト=レーヌじゃなくて別の人だったの?」

「ンな訳あるか!!」

 ちょっと声が大きくなってしまったが、今はそれどころではない。誤魔化さなければいけない相手はアリスト(偽)と会話中でこちらのことなど気にも留めていなかった。

「四日もかかるなんて、どんな事件に巻き込まれていたの?」

「あ、ごめん。まだ、終わってないんだ」

「え?」

 “アリスト”の言葉に、ダイナが再び顔を曇らせる。

「はじめは変な泥棒にちょっと盗られたものを取り返しに行ってただけなんだけどさ……その過程で俺と同じ立場で困ってる奴と出会ったり、俺を助けてくれた探偵さんがまだ他にも解決しなきゃいけない問題を抱えてたりで、今度はそっちを手伝ってやりたくなったんだ」

 だから学院はしばらく休学して、帝都の外でそれらの諸問題を片づけてくる、と。

「ど、どれくらいかかりそうなの?」

「……わからないんだ。色々複雑な事情が絡み合っているみたいで、今はまだ初期の初期段階過ぎて目処も立てられない」

「そんな……」

 ダイナの落ち込んだ様子に、“アリスト”も眉を潜めた。罪悪感に苦しむかのようなその様子に、アリスはまるで鏡を見ているかのような気持ちに陥った。

 だが、この男は本物のアリストではない。そして本物のアリスト自身は、今の姿はアリスと名乗る子どもでしかない。

 一体どういうことなのか。混乱状態でパンクしそうな中、これまで不自然に黙っているヴァイスの状態に気づいた。

「ヴァイス」

 彼は自らの唇の前に指を一本立てて内緒のポーズを取っている。

 つまりこの“アリスト”は、ヴァイスの仕込みということか? アリスがアリストとしてダイナと連絡をとれるよう色々やっているというのは、まさかこのことだったのか?

「……事件が、全部解決したら、帰ってくるよ」

 そして“アリスト”は屈みこむと、“アリス”の頭に手を乗せて言った。

「姉さんを一人にしてごめんなさい。でも、最近ヴァイスの家にこいつらが増えて賑やかになったんだろ? ちょっとの間だけ、我慢させてもいいかな」

「アリスト……」

 ダイナの視線が“アリスト”と“アリス”の間で揺れる。

 先程アリスはついつい「アリスト」の名を出してしまったが、どうやらこの“アリスト”にしても“アリス”と面識があることにするらしい。上手く行き過ぎるつじつま合わせは、やはりヴァイスの仕込みだからだ。

「アリスト!!」

 突然、今までとは別の方向から名を呼ばれて、本物と偽物のアリスト二人共思わず振り返った。

「マギラス、マルティウス。それにシュラーフェン、あっちから走ってくるのはターイルとアヴァールとセルフだな……ん?」

 まるで誰かに説明するような口調でアリストの友人たちの名を連ねたヴァイスが最後に何かに引っかかるような顔をした。“アリスト”の方も一瞬「やべっ」という顔をしたのをアリスは目撃する。

「……知り合いでもいるのかしら」

 アリスと同じく、むしろ十七歳のアリスト本人を知らないだけにいたって冷静にこの状況を観察していたシャトンがアリスだけに聞こえるような声で囁く。

 この“アリスト”がアリストの振りをしている“誰か”であれば、その誰かを知っている相手と顔を合わせるのはまずいに決まっている。

 だが、その“誰か”は退かずに演技を続行することにしたようだった。くるりと振り返り友人たちの方に向き直った時には、もう“アリスト”の顔をしている。

「よ、お前ら。なんだよいきなり」

「それはこっちの台詞だよバーカ!」

 フートがムッとして“アリスト”に詰め寄る。

「数日前に行方不明になったとか変な連絡入ったと思ったら、始業式まで欠席しやがって。何かあったかと思ったじゃねーか」

「アリスト、今までどこで何をしていたの?」

 多少不自然な動作で、ギネカがフートを押しのけアリストに迫りその腕を掴んだ。

 傍でその様子を見ていたアリスは、変だな、と感じた。積極的に身体的接触を図ろうとするのは、いつもの彼女らしくない。

 “アリスト”の腕を掴んだギネカは、一瞬後にハッと表情を変えた。そしてぱっと手を離す。

「マギラス、どうかしたのか?」

「あ、いえ……なんでもないんです……」

「ギネカさん、ずっとアリスト君を心配してましたから」

 ヴァイスの問いに、ギネカがぎこちなく返す。隣に立ったムースがフォローを入れた。しかしギネカの表情は何故か晴れない。ムースの言葉を肯定も否定もしないのが気にかかる。

 そうこうしている内に、あとの三人もようやく追い付いてきた。

「フート! ギネカ! てめーら何やってんだよ!」

 いきなり二階の窓から飛び降りた彼らを追ってきたレントの台詞は、そのことに対する文句から始まった。後ろでヴェイツェとエラフィも息を整えている。

「でも、アリスト来てたんだね。良かったですね、ダイナ先生」

「ありがとう、アヴァール君。皆さんも、先日は真夜中にごめんなさいね」

「いえ、大丈夫っす。はい」

 とにかく“アリスト”の顔を見た面々は、ひとまず安堵の表情を見せた。

 いまだに固い顔をしているのは、先程不思議な行動をとったギネカ。そして。

「……ふぅん」

 いつもは陽気すぎるくらい陽気なエラフィが、何故か“アリスト”を思わせぶりに睨んでいる。

「エラフィさん、どうかしたの?」

「ううん。なんでも。それより“アリスト”、始業式にも来なかったのにどうして今頃こんな時間に学院に来たの?」

 様子に気づいたムースの問いをさりげなく躱し、エラフィは“アリスト”の名の部分に力を込めて彼を呼ぶと、この場にいる事情を問い質す。

「実は俺……」

 “アリスト”は先程ダイナにもした休学の話を彼らの前で再び繰り返す。

「「「ええ――?!」」」

「わり! 近々携帯のアドレスも変更するから、そうしたらちゃんと連絡つくようにするぜ」

「携帯? 買い替えるのか? なんで?」

 普段のアリストはメールアドレスでさえろくに変更しないでずっと同じものを使い続ける男だ。

「ちょっと郊外でのトレジャーハントとかもするようになるって言うからさ、この際衛星携帯にでも買い換えた方がいいって助言を受けたんだ。そうしたら帝都の外どころか世界中どこにいても連絡つくだろ?」

「トレジャーハントて……本当、何やらかす気なんだよお前」

 だから、自分に連絡をとるのはそれまで待ってほしいと“アリスト”は説明する。

「……わかったよ。お前が一度言い出したら聞かない性格だってことはな」

「ちょっとしたことならまだしも帝都の外に出るような話だと、さすがに俺らもついていけないしな」

「……なんだかよくわからないけど、十分に気を付けてね」

「ああ」

 フート、レント、ヴェイツェと言った男連中は、それで“アリスト”の事情を納得することにしたようだった。詳細を聞きたい感情もあるが、色々複雑な立場だと言うならそうなのだろうと。なまじアリストの実力を知っているだけに、下手な手出しは差し控える様子だった。

「まぁ、私たちのことは良いですけど、ダイナ先生にはきちんと連絡を入れなきゃ駄目ですよ?」

「うん、そうだな……。ごめん、姉さん」

「……アリストが無事で、元気でやっているならそれで充分よ」

 そろそろ時間だ、と“アリスト”が告げる。

「じゃな! みんな」

「あ、ちょっと待って。私、ちょっと“アリスト”に話あるんだけど、いいかな?」

 尋ねてはいるが半ば断定の口調で、エラフィが言うと“アリスト”の腕をとる。とるというよりもはや逃げられないようにがっちりと腕を組んでいる。

 引きつった顔の“アリスト”は、そうして強制的にエラフィに引きずられていった。

「……? アリストってセルフとそんな仲良かったか?」

「普通の女友達、ちょっと親しいクラスメイト程度だったと思うんだけど?」

「あれはもっと親しい距離感ですよね? いつの間にそんなことになったんでしょう?」

 残された者たちはその不自然な接触に疑問符を浮かべている。

 学生たちの後ろでヴァイスがこっそり顔を手で覆った。

「……バレたな。ありゃ」

 そしてアリスはそんなヴァイスを見上げてこっそりと尋ねた。

「結局、誰なんだ? あれ」


..024


「何やってんのよ! ヴェルム!」

「な、なんのことだよセルフ、俺は――」

「幼馴染の目を誤魔化せると思ってんの?! どうしてヴェルムがアリストに変装なんかしてるわけ?!」

 “アリスト”の格好をした少年は、放課後の人気のない教室でエラフィに詰め寄られていた。

 会ったらバレるかもとは思っていたが、予想以上の即バレだ。畜生ヴァイス、と自分にこの件を依頼してきた年上の友人に胸中で恨み言を吐く。

「なんだかよくわかんないけど、俺は“アリスト=レーヌ”だってば」

 なおも誤魔化そうと言い募るが、エラフィは一度押し黙ると無言で自分の懐から携帯と鏡を取り出した。

「?」

「あんたの首元」

 少女の細い指先が、彼の首の一部を押さえる。自分では見えにくいが、ぎりぎり鏡で確認できる範囲だ。

「ほくろがあるわよね。でも」

 エラフィは自分の携帯のメモリーから、件のアリスト=レーヌが友人たちと映った写真のうちの一枚を呼び出した。

 この数日、ヴァイスに資料として提供された映像や写真と同じだ。

 アリストの首筋には何もない。

「前からあんたたちって似てるとは思ってたのよ。髪の色と髪型は特にそっくりだから、後ろ姿だと間違えそうなくらい。だから私はついつい、あんたとアリストの違いがはっきりするアリストの首筋を目で追っちゃってたわ」

 そこに何かあるならともかく、何もないならばその意味には気づきにくい。だから本物のアリストはそんなエラフィを不思議そうに眺めるばかりだった。周囲の人間もその意味には気づいていなかったはず。

 そこまで指摘されてはもう無理だと、少年はがっくりと肩を落とす。

「ヴェルム?」

「いやその……エラフィ、これは――」

 こうなったらある程度の事情は説明するしかないと、ヴェルムは渋々ヴァイスの依頼のことを幼馴染に説明し出した。

 そう――彼こそ、先程エラフィが友人一同にその名を告げて驚かれた、人探しに絶大な信頼を置ける探偵の幼馴染なのだ。


 ◆◆◆◆◆


「あの、ダイナ先生……」

 “アリスト”の退場で場の話題が一度区切りをつけられ、彼らはそれぞれ思い思いの放課後に戻って行った。フートやムース、ヴェイツェたちはすでに帰途につき、レントは部活。ヴァイスも小さな子ども二人を連れて家路を辿ると言う。

 そしてあの“アリスト”は、エラフィに引っ張られて二人して校舎内のどこかに消えた。

 ギネカはまだ仕事が残っていると踵を返したダイナを追いかけ、人気のない廊下で呼び止める。

「あの……先生なら気づいてらっしゃるんじゃないですか?」

「何に?」

 振り返ったダイナの表情は穏やかだ。いつもと変わりなく見える。だがそれが曲者なのだとギネカは知っている。

 ダイナは穏やかな微笑みで己の感情を隠すのが上手い。

 それはギネカのような特殊な“能力者”でもなければ気づかないくらいだ。

「さっきの、あの彼は、アリストじゃ――」

「マギラスさん」

 ギネカは彼に“触れた”のでそれがわかった。彼はヴァイスに頼まれてアリストの変装をした別人だ。

 そしてギネカの推測が正しければ、ダイナもそれに気づいていたようだった。なのに何故何も言わないのか――? 問いかけたギネカに、ダイナは穏やかな表情のまま返した。

「私の気持ちは、さっき言った通りよ」

 ――アリストが無事で、元気でやっているならそれで充分よ。

「彼がアリストに害をなそうというなら別だけど……そうではないのでしょう?」

「……はい。彼はどちらかと言えば、アリストの味方のようでした」

「そう……。ありがとう。それが知りたかったの」

 ダイナも推測はできる。自らの勘も信じている。だが確証が欲しかった。

 ギネカがどんな手段で「それ」を得ているか、ダイナは追求したことはない。だが彼女の人格は信頼している。

「だったら、きっと大丈夫。少し寂しいけれど、受け入れるしかないわね。あの言葉を信じて」

 小さな“アリス”と指切りして約束したこと。その一言だけで、並々ならぬ決意も覚悟も伝わってきたから。


 ――“アリスト”は、必ず帰ってくるよ!


 ◆◆◆◆◆


 マンションへの帰宅後。ヴァイスの家に、さりげなく不自然でない程度に顔を隠した格好で“アリスト”が訪ねてきた。

「……ごめん、エラフィにバレた」

「……すまん、セルフのことを忘れていた」

 開口一番謝罪から始まるのはダイナ相手と同じだが、その意味はまるで違った。そして彼の台詞に応えたヴァイスの台詞からは、この相手にヴァイス自身がアリストの代役を依頼したことがわかった。

「マルティウスら四人とダイナをなんとかできればそれで大丈夫だと思ったからなぁ……」

「なんとか誤魔化そうとしたけど、無理だった。首の下のほくろなんて俺自身も知らなかったぞ」

 その呟きにヴァイスが天を仰ぎ、もはや感心するように呻いた。

「さすが幼馴染。侮れんな」

「……なぁ、ヴァイス。そろそろこの人のことについて俺たちにも説明してほしいんだけど」

 二人の会話の内容から、どうやら少年がアリストの友人の一人、エラフィ=セルフと実は幼馴染だったことが判明した。だが彼自身の名前や素性に関し、アリスとシャトンはまだはっきりと聞かされてはいない。

 少年はアリスの台詞にニッと唇を吊り上げて笑うと、くしゃりとその金髪を乱した。そして軽く下を向くと、いきなり自分の瞼に指を突っ込む。

「!」

 アリスがぎょっとすると、彼は指先に乗せた、今目の中からはずしたものを見せる。それを見てアリスにも理由がわかった。

「カラーコンタクト」

 彼の瞳はすでにカラコンを外して、アリスと同じコバルトブルーから、鮮やかなエメラルドグリーンに変化している。

「ヴァイス、クレンジング貸せ」

「あいよ」

 そして軽く顔全体に施した化粧を拭い取ると、多少の面差しは似ているものの、彼はもう“アリスト=レーヌ”には見えなかった。

 新聞や時にはテレビのニュースでさえ見るその顔に、シャトンが呟く。

「“帝都の切り札”、“エメラルドのジョーカー”、名探偵の、ヴェルム=エールーカ」

「俺を御存知とは光栄だね」

 名探偵と名高い少年は、そう言って不敵に笑う。

「エメラルドのジョーカー……なるほどね」

 シャトンが感嘆の息をつく。

 “エメラルド”とはこの、世界の中心たる都の名前。けれどこの場合、彼の鮮やかなエメラルドの瞳からもとられたダブルミーニングなのだと、新聞やテレビではなく、この目で見て初めて実感した。

 アリスト自身もかなり整った顔立ちをしているが、ヴェルムもまた端麗な容姿の少年だ。

「こっちがアリス、そっちがシャトン」

 華々しい二つ名を交えたヴェルム自身の説明とは裏腹に、アリスとシャトンの紹介はヴァイスのとっても投げ遣りな一言で終わった。まぁいい。どうせ自分たち二人に関しては一息に説明しようとするとどうしてもややこしいことになる。後でいくらでも補足が必要になるのだ。

「ところでヴェルム、結局セルフにはどこまで話したんだ?」

「俺がお前から依頼を受けて、ちょっと今帝都に戻れない“アリスト=レーヌ”少年の身代わりを一時的に務めたことだけ。あと、一応疾しいことはないと弁解しておいた」

「そりゃ助かる」

「エラフィに『ヴァイス先生の依頼って……まさか、先生ついにダイナ先生のことで揉めて、アリストを殺っちゃったんじゃないでしょうね?!』って詰め寄られたんだけど……ヴァイス、お前生徒からの信用ないぞ」

「セ~ル~フ~、成績減点したろか……痛てっ!」

「職権乱用」

「白騎士、日頃の行いって言葉知ってるかしら?」

 こめかみに青筋を浮かべたヴァイスに、アリスとシャトンが続けざまに言葉と一緒にその辺にあったものを投げる。叩こうにも頭に手が届かないし、本当に子どもの体は不便だ。

 そんな子どもらしくない子ども二人の様子に、ヴェルムが目をぱちぱちと瞬く。

「ま、私の名誉と勝手にこの世から抹殺されているアリストの立場を一応守ってくれたことには一応礼を言っておく、一応な」

 大事なことなので一応を三度言いました。

「ああ……いいんだ別に……探偵は依頼人を守る者だからな。まだ本当の依頼人には会ったことないけど」

「会ってない? 何を言っとるんだ、ヴェルム。お前の依頼人ならここにいるぞ?」

「え?」

 ヴァイスがヴェルムに頼んだ身代わりだが、あれを必要とする真の依頼人はアリスト=レーヌ本人だ。ヴェルムともアリストとも面識のあるエラフィには見抜かれたが、それ以外の面々を見事騙しおおせてアリストの自然なアリバイを作ってくれたヴェルムには、感謝してもしきれない。

 だがやはり、ヴェルムはこの事態の真の事情をまだ完全には知らされてはいないようだった。

 ヴァイスの手に両脇を抱えられて目の高さまで持ち上げられたアリスの顔を探偵はまじまじと見つめる。先程まで自分が変装していた少年にそっくりな子どもの顔を。

「この子はアリス=アンファントリーとかいう、お前が預かっている子どもじゃないのか?」

「何故私が突然何の縁もない子どもを預かることになったんだと思う? 何故こいつがアリスト=レーヌにそっくりなのだと思う?」

 それこそ特徴的なほくろでもあれば容姿の相似はわかりやすい。ヴェルムが首筋のほくろなら、アリストの場合は以前にも指摘された泣きぼくろだ。ヴェルムの視線もその辺りを彷徨う。

「確かに他人の空似にしては似過ぎている気がするが……」

「このアリスがアリストなんだ、ヴェルム。ついでにコードネーム“アリス”でもある、“イモムシ”」

「はぁ?」

 完全に呆気にとられた様子で、ヴェルムが眉を上げる。

「……アリスト=レーヌ?」

 恐る恐る尋ねて来るのに、アリスは苦笑を浮かべつつ頷いた。容貌の稚さとは裏腹な、本物の子どもにはできない表情だ。

「ああ。今日は悪かったな。姉さんのことといい、ダチ連中のことといい、色々誤魔化してもらって。あんたとエラフィ=セルフが幼馴染なんて知らなかったよ」

「~~」

 ヴェルムが頭痛を感じた額を押さえるように手を当てる。

「……一から説明してくれ」

 そしてアリスは自分の境遇を最初からヴェルムに説明することになり、名探偵は半ば強制的にこの事態に巻き込まれることになった。


 ◆◆◆◆◆


 こんな時期に転入生? と、ジグラード学院高等部の生徒たちは、教卓の横に立つ生徒を眺めながら疑問符を浮かべていた。

 始業式からまだ幾日も経っていない。普通転入や転校というものは年度始めや学期の始まりに合わせて行うものではないだろうか。

 とはいえここジグラード学院においては、年中広く誰にでも門戸を開いている。制服を着て毎日授業を受ける普通科の生徒ならば転校・転入も珍しいが、その分野の著名人が行う講義を一時間だけ聞きに来るような人間ならそれこそ時期を問わず常に出入りしている。

 転校生は亜麻色の髪に朱金の瞳の、端正な顔立ちの少年だった。いっそ恐ろしいくらいに綺麗な顔だが、大きく分厚いレンズの嵌まった眼鏡がその印象を和らげてどこか人懐こい惚けた印象に見せている。

「諸事情により編入が数週間遅れることになった。ランシェット君だ」

「ルルティス=ランシェットと申します。憧れのジグラード学院に通えることになってずっと楽しみにしていました」

 元より奇人変人大集合と呼ばれているこのクラスにおいては、謎めいた転校生もどこ吹く風。そもそも始業式に学年成績二位の生徒が欠席、そのまま休学届を出してしまったクラスだ。一人人数が増えるなら丁度良い。

 その休学中の生徒、アリスト=レーヌがもしもこの場にいたのなら、この転校生に対する反応も少しは違ったものになっただろう。

「どうか皆さん、よろしくお願いします」

 愛想の良い笑顔を浮かべながら、眼鏡の奥の瞳が冷たく嘲る。

 その転校生の顔立ちは、“赤騎士”のコードネームを持つ暗殺者に瓜二つだった――。



 第1章 了.



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