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Pinky Promise  作者: きちょう
第1章 月夜の時盗人
3/30

3.赤騎士との決戦

..013


 帝都の隣の都市アラヴァストロ。さすがに帝国の心臓である帝都エメラルドには敵わぬものの、エメラルドに次いで発展している都市である。帝都より若干地価が安い郊外に家を買って通勤する者も多い。

 しかしこの都市は数週間前から、ある事件に悩まされていた。

 連続殺人。

 それも被害者同士の接点が見つからず、無差別殺人として騒がれていた大事件だ。

 一週間目の時点で被害者の数はすでに三人を超え、二週間目には五人に増えた。その間まったく捜査の進展が見えぬと警察は叩かれ、アラヴァストロ全域で発生していた殺人に住民たちはいつ自分が被害者になるかと戦々恐々としていた。

 公園からは遊ぶ子どもたちの姿が消え、商店の売り上げは微減。行楽地の客数は激減。人々はなかなか日常を手放すことこそできないが、無闇な外出を控えた結果、二週間を過ぎる頃には昼日中にも関わらず街中はどこか閑散としていた。

 半月を過ぎた頃、アラヴァストロ県警本部にて、密かに一つの提案がなされた。

 曰く、帝都で有名な探偵を協力者として招いてはどうか、と。

 帝都警察――別名警視庁に連絡をとり、探偵と縁の深い警部に繋ぎをとってもらった。

 連絡を受けてすぐにやってきたのは、今や帝都一と呼ばれる名探偵。

 その実態は、まだ十七になるやならずやの若き少年だ。

 “帝都の切り札”、“エメラルドのジョーカー”と名高いヴェルム=エールーカ。

 細身で美貌の少年は、厳つい刑事たちの中で見事に浮いている。しかしその卓抜した推理力は、他の誰よりも早く事件の核心へと近づいた。

 エールーカ探偵を加えて二日目には、それまでなんら繋がりの見えなかった被害者たちに接点が見つかり、そこからは警察の捜査も早かった。三週間目には総人数七名となっていた被害者たちの接点から関係者を洗い直し、容疑者を絞ることに成功した。

 容疑者の人数さえ片手の指の数以下に絞れれば、あとは地道な張り込みが物を言う。すでに大事件に発展しているため動員数も多く、徹底的に容疑者たちを監視した結果、ついに犯人逮捕へと至った。

 見事事件を解決に導いた探偵は、ようやくこれでお役御免となる。探偵の知人である帝都警察の警部と親しく、今回繋ぎの役割を果たしたアラヴァストロ県警の警部が、若き探偵を見送るために駅までやってきていた。

「それにしても見事な推理だったよ。エールーカ探偵。我々アラヴァストロ県警にしても、探偵と言う人種への見方が変わったよ」

「いえ、そんな……こちらこそ、他県での捜査に加えていただいて色々と勉強になりました」

 ヴェルムは特大の猫を被り、この一週間弱ですっかり名探偵の信奉者となった警部に笑みを返す。

 警部の格好はここ最近の寝る間も惜しんだ捜査のためになんだかよれよれとしていたが、表情は事件が解決した喜びに溢れ輝いている。ヴェルムにとっては父親ほどの年齢にもなる壮年の警部だが、目を輝かせる様子は子どものようだ。

「イスプラクトルに君を紹介してもらって大正解だった。また難事件の折にはぜひ手を貸してくれ」

「一市民としてはそのような事件が滅多に起こらないことを願っていますが、それでも御用の際はぜひお声かけください」

 和やかな雰囲気で別れの挨拶を告げ、ヴェルムはやってきた列車に乗り込んだ。

 ここから帝都に帰るのにせいぜい二時間もかからない。それでもやはり、自分の家があるホームグラウンドとは馴染みが違う。

 事件そのものは解決したが、事後処理は長くかかるだろう。アラヴァストロで知り合った気の良い警部や幾人かの刑事の顔を思い浮かべながら、ヴェルムは溜息をつく。

 今回の事件が解決まで長引いた訳、それは、犯人が警察関係者だったからだ。

 証拠が残らないのは、警察が殺人事件に対しどのような捜査をするのか知り尽くした者の犯行だったから。これでは捜査が長引くのも当然だ。

 せめてもっと早くに呼んでくれれば、殺人鬼の手にかかる被害者の数を減らせただろうと思えばやるせない感情が胸にこみ上げる。六人目の被害者が出たのはヴェルムがアラヴァストロに到着したその日。七人目はその翌日だった。

 探偵を呼ぶにあたって、わざわざ隣の都市から呼び寄せることに反対もあったと聞く。その対象が、まだ二十歳にもならない若造なら尚更だと。

しばらくこの事件はアラヴァストロだけでなく、帝国全土を騒がせることだろう。けれどもはや一探偵であるヴェルムにできることはない。後のことは先程の警部やその部下の刑事たちに頑張ってもらうよう祈るだけだ。

 ヴェルム自身も疲れ切っている。捜査に参加した期間は一週間にも満たないが、その時間で誰よりも動き、成果を挙げたのは伊達ではない。身体的にはもちろん、精神的にも疲労が溜まっている。

 慣れない他県で招かれた身ながら、こちらを信用して動いてくれる人間は極少数。ヴェルムなりの苦労はもちろんあったのだが、それを愚痴れる相手は少ない。

「ヴァイスのところにでも行くか」

 酒でも持ちこんで管を巻いても問題のない相手として、知人とも年上の悪友とも表現しがたい相手の名を挙げる。

 学生として学校に通っていないヴェルムは当然、探偵としての関係者ではない純粋な友人は少なかった。探偵としての自分に降りかかる危険を考えて、わざと交友関係を増やさない理由もある。

 捜査の間は折り返し連絡できなかった相手からの着信履歴やメールを確認する。

「『緊急事態発生。事件後で構わないがなるべく早く折り返し連絡されたし』……? なんだ? ヴァイスの奴、何かあったのか?」

 探偵の忙しい日々は、残念ながらもうしばらく続きそうだ。


 ◆◆◆◆◆


 もう失うものはない。

 何一つ。


 真夜中の研究室。彼女はコンピュータを数台並列して起動し、ありったけのデータを手持ちのメモリーディスクに移していた。

 外部に持ち出そうにもこれらの情報は、民間のクラウドサービスなどに預けるには危険すぎる。かといって個人使用のパソコンを持ち出せば、自分の居場所がすぐに追跡されてしまう。

 社会の闇という闇、影と言う影に潜む教団の目から隠れ、その手から逃れるにはいっそこのまま何も持たずに姿を隠した方がいい。

 けれどこれらの情報は、いつか必ず必要になる時が来る。欠片でも持ちだせれば、彼女自身には扱えなくとも、誰かがこれを使って悲願を果たしてくれる可能性がある。

 例え自身はすぐに追手の手にかかり命を失ってもいい。信頼できる立場の人間にこれを預けることができたのなら、それがあの子を救うことになるかもしれないから……。

「誰だ! 何をしている!」

 その時、鋭い誰何の声が闇の中からかけられた。

 電気を消し、コンピュータの明かりだけが頼りの室内では懐中電灯の僅かな光ですらも直接向けられるのはきつい。明順応は暗順応より速やかだ。眩しさを堪えきれない。

「“公爵夫人”……!」

 コードネームで呼ばれ、彼女は息を呑んだ。相手は数日前に激しい口論をした人物だ。それは彼女の大切な妹分に関することで。

「やはりあなたは、我々を裏切るのか」

「……先にあの子のことで、私を裏切ったのは教団の方だわ」

 真夜中の訪問者は、兼ねてより見つかるのを危惧していた夜間警備の人間ではない。教団内では暗殺部門に属し、情け容赦のないと畏れられている相手。

 けれど彼女にとっては、それなりに長い付き合いの相手だ。彼の使う暗殺の手段と、彼女の研究内容が結びついているからではあるが。

 男は淡々と命じる。

「両手を上げ、コンピュータから離れなさい」

「……」

「そのまま部屋に戻れば、今なら何もなかったことにできる」

「なんですって? 見逃すと言うの? 明らかに教団に対する背信行為を行おうとした、この私を?」

 普段から能面のように感情を現さない男の顔が僅かに歪む。硬い声が説得を重ねた。

「ここ数日、あの娘の逃亡のせいであなたは動向を監視されていた。悪いことは言わない。今すぐ戻りなさい」

 彼女は逆らう気配も見せないままそろりと手を身体の横へ持ち上げ――まだデータの移行途中だったメモリーディスクを、一気に引き抜いた。

「夫人!」

「もうたくさんよ! 狂った神を信ずる狂った人間の言いなりになるのは!」

 白衣のポケットに素早くディスクを押し込み、彼女は踵を返した。あらかじめ鍵を空けておいた二階の窓から外の地面に飛び降りる。

 そしてこれもあらかじめ用意しておいたバイクへと飛び乗る。用意しておいたのは逃亡手段が先、データが後。エンジンがすぐに火を吹く。

「愚かなことを!」

 窓から顔を出した男の声だけが追いかけてくる。

「この“世界”にいるものは皆狂っている! あなただって手遅れだ!」

 不思議な国の案内人が、アリスに向けてにやにやと笑うのだ。この国にいるものは、皆気違いだと。自分も相手も皆全て――。

 それでも彼女は逃げ出したかった。正常と言う名の残酷な世界へ。そこに彼女の居場所などなくとも。


 翌日の新聞の一面は、早朝に起きたとある会社のオフィスと工場が爆発事故を起こしたという記事だった。

 早朝であったために爆発に巻き込まれた被害者はいない。

 しかし、ビルとその中の研究室、工場の一部が手の付けられない程に燃え盛り焼け落ちたので、その場所からはもはやどんな痕跡も拾えない状態になっているという……。

 初動では何らかの事件性があるとの見方もあったが、結果的にその「事故」はろくな調査もされないまま捜査終了となる。

 その企業が警察に提出した記録と内情のズレは、決して世間に知られることはない。


..014


「……っていうか、真正面から『果し状』って」

「別にいいだろう? まだるっこしいことは好かん」

 昨日と同じホテルの一室。呆れる白兎ことアルブス=ハーゼに、赤騎士ことルーベル=リッターは外出準備をしながら適当な返事をする。

「普通に無視されたらどうすんの?」

「すでに双方面の割れている状況で長期戦はな……奴らだとて、周囲の人間を巻き込みたくはないだろう」

「それでも無視されたら?」

「これは奴らにとっても絶好の――」

「こんな夜中に呼び出すんじゃねぇよって、来てくれなかったら?」

「……」

「あの文面だと彼らに利点がないじゃん。普通あそこは果し状じゃなくって、人質とって脅迫状とかにしなきゃ駄目でしょ」

「……」

 白兎のダメ出しに、赤騎士は思わず無言になる。確かに手落ち感はあるのだが、それでもこれがルーベルのやり方だ。

「皆殺しにするなら人質をとるのもいいが、そんな依頼は受けていない」

「最低限の人間を巻き込まないって? とんだお人好しだね」

「ただの拘りだ。元はと言えば、お前があの坊やに現場を見られたからではないか」

 必要とあらばいくらでも殺すことはできるが、用もない相手を殺す趣味はない。

 赤騎士の知る限り、今回の仕事のイレギュラーであるアリスト=レーヌは白騎士と手を結んで以来、彼と行動を共にしている。他の人間に下手に情報を広げたりはしていないらしい。ならば彼と白騎士と、白騎士のもとに逃げ込んだ裏切り者のチェシャ猫を消せばいいだけだ。

 それを説明すると、白兎は怪訝な表情になる。

「いくらお前だって彼らを四六時中見張っていたり、盗聴器を仕掛けたわけじゃないだろう? なんでそんな情報を――」

「“ジャバウォック”に聞いた」

「!」

 白兎が大きく瞳を瞠る。彼がこれだけ驚愕を露わにするのは珍しい。

「“姿なき情報屋ジャバウォック”! お前――彼とコンタクトをとれるのか?」

「時折、向こうから、一方的に」

 白兎の問いに、赤騎士は肩を竦めることで返す。謎多き情報屋の存在に関して、多少の接触はあるものの赤騎士自身も伝えられるだけの情報は持っていない。

 “ジャバウォック”もまた、“白兎”“赤騎士”“チェシャ猫”のようなコードネームの一つだ。『鏡の国のアリス』に登場する詩の中に歌われる化け物。詩の中にその名が含まれるだけで、実際にそう言う名の化け物が物語中に登場するわけではない。

 実体のないことにかけて、“ジャバウォック”は“姿なき情報屋”とも呼ばれている。

 その由来は、帝都一の情報屋として存在を知られていながら、誰も彼の正体を知らないことにある。

 ジャバウォックの接触は常に電話やメールなど対面せずに情報を伝えられるツール越しに限られていて、直接その人物と顔を合わせた者はいないらしい。しかしながら彼の持ち込む情報は完璧で、一つの間違いもないという。

 あらゆる謎の解を告げる情報屋の、最も大きな謎は彼自身の正体。

「でもジャバウォックって……どちらかと言えば教団の敵対者じゃない?」

「さぁ。なんとも言えんな。教団の味方でないことは確かだが、だからと言って完全に敵対の意志を見せる様子でもない。特に“マッドハッター”関連は警察にたれこむこともあると言う」

「ああ……帽子屋を名乗るあの怪人ね。彼らは教団の敵っぽいけど、ジャバウォックはその敵でもあり、しかしどの陣営も、敵の敵は味方、と単純にはいかない、と」

「そんなものだ。私にこの情報を流した意味も、我らには掴めずともジャバウォック側には何かあるのだろう」

「信じていいのか?」

「さてな。一応我らと本人たち以外では、聖塔学院に常駐の“庭師の5”には伝えたらしいが」

「あれはお仲間が揃うまで傍観者の立場を貫くだろう。放っておけばいい」

 情報屋が赤騎士に流した情報を信じるのなら、問題の三人さえ始末してしまえば、教団の犯罪に関する秘密は守られることになる。

「それから」

「まだ何かあるの?」

 ジャバウォックの名を出してきただけで意外だと言うのに、赤騎士には更に気になることがあるらしい。

「昼に奴らに逃げられた時だが、胡椒を使われた気がする」

「胡椒? ……ああ、それでお前、昼間はくしゃみを連発してたのか。珍しいと思った」

 健康には自信があるはずの赤騎士がくしゃみをし続けるのを見て、白兎は貴重な光景だと思っていた。チェシャ猫ともう一人の少年が地下道に逃げた推測はつけられても、くしゃみがどうにも止まらずに後を追えなかったらしい。

 赤騎士にしては珍しい失態だと感じたのだが、どうやら原因があったようだ。その原因が「胡椒」。

「ってことは……まさか“料理女”が噛んでいるのか?」

「さてな」

 断言こそできないものの、可能性はあるという。

 原典で言えば料理女は公爵夫人に仕えているが、現在この帝都で“料理女”のコードネームを持つ者に関して言えば、若干立場が変わってくる。

 コードネーム“料理女”。それは“パイ泥棒のジャック”こと、帝都を騒がせる怪盗ジャックの相棒である。

 怪盗ジャックは自ら“パイ泥棒のジャック”を名乗った泥棒。神出鬼没で変幻自在の怪盗は、睡蓮教団の敵対者の筆頭である。

 怪盗ジャックの狙う獲物は、常に教団が狙っていたお宝だ。だからこそ怪盗は教団よりも早くそれを盗み出し、教団の目的を邪魔する。

 その相棒である料理女が、何故チェシャ猫と少年――白騎士に匿われた、アリス候補のイレギュラーを庇うのか。

「“ジャバウォック”に“料理女”か。教団外の名だたるコードネーム持ちに縁があるとは……あの坊やは一体何者なんだろうな」

 白兎の疑問に、赤騎士も頷いた。

 昨日の今日で、ジャバウォックの情報からしても彼らはそうあちこち出歩いていないし、知人や警察と深く接触したわけではない。どちらかと言えばほとんど素性を隠しながらの対面だったらしいのに、何故。

「私はそれを知りたい。だからこそ、今回は奴らと真正面から決着をつけに行く」

 暗殺者のやり口でないと言われればそれまでだ。しかし今は本来の役目よりも何よりも、まず知りたいことがある。

「あの坊やが、本物の“アリス”なのかどうか――」

 それによって全ては変わってくる。

「確かめてこよう」

 月が天高く昇る。呼び出しの時刻は、もうすぐだった。


 ◆◆◆◆◆


 部屋を出たところで、ばったりと隣人に出会った。

「あら、こんな時間にお出かけですか?」

「だ、ダイナ!」

 ヴァイスの隣人――すなわち、アリストの実家であるレーヌ家だ。アリストがここにいる以上、その部屋から出てくる住人はたった一人しかいない。

 よりにもよってこれから出かけようというタイミングで、うっかりとダイナと鉢合わせてしまった。

 こんな深夜に家を出るヴァイスたちもヴァイスたちだが、ダイナもダイナで何故こんなところに?

「始業式前に、細々とした用事を片づけていたんです。昨日はなんだかばたばたしてしまって忘れていましたから」

「あ、あー、そうか。うん」

「ところでその子たちは? ルイツァーリ先生の御親戚ですか?」

 来た!

 昼間は学院の同級生たちにすらあれだけ似てる似てると騒がれたのだ。アリストの姉であるダイナが、彼にそっくりな子どもの存在を気にかけない訳がない。

 そもそも長年独り暮らしで滅多に家を訪ねて来るような知人もいないヴァイスのもとに小さな子どもが二人もいること自体おかしいのだ。普段のヴァイスの暮らしぶりを知る者なら尚更疑問に思うところだろう。

 うまくすれば顔を合わせずに過ごせる同級生たちと違って、家まで隣であるダイナに顔を見せないというのは難しい。ずっとフードを被ったままでいるわけにも行かず、アリストはうさ耳を引き下ろした。

「あら……」

 ダイナの視線がまじまじとアリストに集中する。横にいるチェシャ猫はもはや目に入っていない。

 彼女の注意を逸らすように、ヴァイスが話しかける。

「その二人は、私が今事情あって預かっている。遠縁の子たちだ」

「遠縁?」

「名目上親戚一族と呼べるが、血縁はないぐらいの付き合いと言おうか。しかもこの子たちの保護者が今、親権問題でいろいろ揉めていてな」

「まぁ……」

 如何にも疲れている、あるいは嘆かわしいと言うような態度を現しながら告げると、ダイナの方でも昼間の高等部生たちと同じように、子どもの背景に何か複雑な事情があると察してくれたらしい。

「私に子育てなど無理だろうが、とりあえず気楽な独り身だからと押し付けられた。正式な保護者が決まるのは……明日になるか数か月先になるか、まだまだわからんらしい」

「大変なんですね」

 嘆かわしい話だが今日日育児放棄や虐待など家庭の事情はますます複雑化している。いきなり容姿に似通ったところのない子ども二人を引き取ることを、ヴァイスはそういう説明で無理矢理周囲を納得させた。

「二人は姉弟かしら?」

「……いいえ。違うわ」

 口を開きづらいアリストに代わり、チェシャ猫が答える。

 そして最大の難関が訪れた。

「お名前は?」

「あ……」

 アリストもヴァイスも、しまったという顔をした。けれどそれ以上に戸惑った様子なのがチェシャ猫だった。

 アリストは思わず隣の少女の横顔を窺う。そこにはあからさまな狼狽が浮かんでいる。

 そう言えばチェシャ猫は、最初の時から“チェシャ猫”というコードネームしか名乗っていない。白騎士であるヴァイスや赤騎士であるルーベルのような本名を口にしなかった。

 戸惑う子ども二人に代わって、またもやヴァイスが適当に答える。

「この子はシャトンだ。シャトン=フェーレース」

 どうやらチェシャ猫に本名を名乗れない理由があると悟って、今適当につけたらしい。

(猫=猫?)

(仔猫=猫……)

 ヴァイスの名づけの法則に内心で突っ込みつつ、子どもたちは顔を見合わせる。

 そしてヴァイスはアリストの肩に手を置き、視線はダイナに、言葉はこの場の全員に向けて告げた。

「この子は“アリス”。アリス=アンファントリー」

 アリス。

 何度も何度も繰り返された、まだアリストの知らない何かの意味を持つ名前。

 しかしヴァイスがアリストをそう名付けたこの瞬間から、「アリスト」は「アリス」になった。

 ダイナが目を瞬く。

「アリス……? 男の子……ですよね?」

 彼女もアリスという名に反応するのかと一瞬身構えたがそうではなかった。よくよく少女と間違えられるアリストの性別を、ダイナはしっかり見分けていたらしい。その上で女性名をつけられたことへの違和感だ。

「そうだ。しかし大した問題でもあるまい」

「そうですわね」

 緋色の大陸で言うなら女性に「伊織」という名をつけるくらいであるし、「アリス」と言う名の男がいても良かろうと。

「そんな訳で少しの間、この二人が同居することになるので、何かあった時はよろしく頼む」

 ヴァイスは用事があって外出する旨を告げ、危惧されていたダイナとの接触をまずまず無難に終えることとなった。


 ◆◆◆◆◆


 シャトン=フェーレース。

 アリス=アンファントリー。

 それが今の、この姿での二人の名だ。

「チェシャ猫の方もついでにつけてしまったが、良かったか?」

「……ええ、いつまでもコードネームで呼ばれるわけにもいかないしね。機転を利かしてくれて助かったわ」

 夜道を歩きながら、先程のアドリブについて話し合う。

「そう言えば、チェシャ猫って本名は?」

「ないわ」

「……へ?」

「ないのよ。私、スカウトというより、正確には両親が教団関係者だった関係で、幼児の頃から教団で育ったから。物心ついた時にはすでにコードネームで呼ばれていたわ」

 教団の人間全てがコードネームを持つ訳ではない。しかしチェシャ猫はその能力の高さから、元々中核に関わる魔導研究を進めることが決められていて早くにコードネームを与えられていた。

 そのせいで周囲の同じ研究者である大人たちから無用な嫉妬ややっかみも随分受けた。教団で生まれ育ったと言っていいほどに教団の人間であるはずの彼女が、あそこは自分の居場所ではないと感じる程に。

「だから本当に助かったのよ。私、今日からシャトンって名乗るのね」

「ああ、そうしろ。元の姿に戻れたとしても、必要があるならその名を使い続けて構わない」

 ヴァイスは適当に頷いて、シャトンの偽名の件はこれで穏便に終わる。

 問題はアリストの方だ。

「なんで俺は“アリス”なんだ。歩兵のアリス?」

 名前の意味はわかっても、ヴァイスがどのような考えでそんな偽名を決めたのかはわからない。

「いずれわかる」

 そしてこのことに関しては、ヴァイスも今すぐに答えてくれる気はなさそうだった。


..015


 良い子も良い大人(深夜勤めの一部除く)も眠る時間。つまり深夜。ここからは悪い子と悪い大人のターンだ。

「よく来たな」

 広い地面のど真ん中に立っていた赤騎士が、三人を出迎える。アリストたちはヴァイスを中心にその左右を子ども二人が固めていた。

「いきなり果し状なんて送ってきやがって、時代錯誤も甚だしい」

「ああ。実は仲間内でも大不評だった」

 ふざけたやりとりにやっぱりそうかと頷きつつも、三人は油断ない視線で目の前の少年を睨む。

「一つ聞きたいんだが、何故この場所を選んだ?」

「知れたことよ。帝都でここ以外に存分に暴れられる場所があるか? まさかどこぞの学校の野球グラウンドを使うわけにもいくまい」

「採石場跡地もどうかと思うのだが」

 切り立った岩肌を背景に何もない空間が広がる採掘場跡。舗装されていない地面には人の踏まない場所に枯草だけが伸び、隅の方には沼があった。

 月の明るい夜の下、大人と子どもが入り混じる四人がこの場所で向かい合っている光景はひたすらシュールだ。

 しかしあえて果し状など送りつけ、このように開けた場所を指定したのは赤騎士の方だ。つまり小手先の罠を仕掛けるつもりはないということだろう。

 どう考えても銃刀法違反かつどこから手に入れたかもわからない真剣を手にした赤騎士は、いつもの軍服めいた赤い格好だ。

 こんな人物が昼日中の大通りを歩けば、良くて派手なコスプレ、下手をすれば通報ものだ。確かに深夜の採掘場は決戦の地としてはうってつけなのかもしれない。

 ここ最近で命を狙われたのは、まずアリストだ。しかし赤騎士との付き合い自体は同じ組織にいたチェシャ猫と、以前から面識があるらしいヴァイスの方が長い。

「チェシャ猫」

 赤騎士の呼び声に、少女はゆっくりと前に進み出た。

「やれやれ。しばらく見ない間に、すっかり可愛らしくなったものだ。どうだ、自分で自分の術を喰らう気分は」

「結構快適よ。化粧品代のいらないアンチエイジングよね」

 どうして誰も彼もこの話題にはそのネタを持ちだすのかと内心でツッコミを入れるアリストだが、チェシャ猫と赤騎士のやりとりは続く。

「何故教団を裏切るような真似をした?」

「人に使う予定のなかった術を、勝手に人間に転用したのは教団のほうよ」

 赤騎士の昏い笑みが深くなる。彼はチェシャ猫に向けて、手を差し出した。

「教団はお前の才能を買っている。私と一緒に戻れば、今ならお咎めなしで済むぞ」

 教団の方は裏切るくらいならとチェシャ猫に禁呪をかけたが、彼女自身はまだ致命的な損害を与えたわけではない。

 むしろ彼女程の術者であれば、手放す方が教団にとっての損失だと赤騎士は言う。

「お前が戻らねば、お前が親しくしていた相手も死ぬぞ」

「私にはもう、家族も兄妹もいないわ」

「“公爵夫人”はどうする。お前はあの女を見捨てるのか?」

 また新たなコードネームに、アリストは思わずチェシャ猫の様子を窺った。

 アリストの知りたかったことは、相変わらず赤騎士がぺらぺらと口にしてくれる。

「血縁こそなくともお前が姉と慕い、向こうもお前を可愛がっていた。そんな人物を、お前の我儘で消させるのか?」

 チェシャ猫がぐっと言葉に詰まるのがわかった。彼女が口を開く前に、ヴァイスがその眼前に腕を伸ばして後ろに下がらせる。

「なるほど? お前以外の追手がいないのは珍しいと思ったら、彼女にとって人質となるような相手を教団側はすでに抱え込んでいたわけだ」

「そうだな。そもそもチェシャ猫は武闘派というわけでもないし、説得なら私一人で十分というわけだ」

「説得ね。脅迫の間違いだろう?」

「家出娘を連れ戻しに来ただけさ」

 春の冷たい夜風が流れていく。元より予想できたこととはいえ、赤騎士は簡単に退いてくれるつもりはなさそうだ。

「例えここで教団に戻ったとしても、彼女とその姉だかには監視がついて二度と自由に暮らせまい」

 ぽつりと呟いたヴァイスの言葉に、赤騎士は笑みを、チェシャ猫は苦い表情を浮かべる。

「それに彼女を手放せということは、アリストを見捨てろということだ」

 突然自分の名を出され、アリストはびくりと肩を震わせた。

 話の主導権を握るヴァイスはあくまでも淡々と事務的な書類を読み上げるように続ける。

「我々には禁呪の開発者に頼る以外にアリストの時間を取り戻す術がないし、お前がチェシャ猫を教団に連れ戻すということは、この件の関係者である私やアリストを殺すということだろう」

「そうだな。死人に口なし。余計な目撃者の口は封じるに限る。尤も、十年前に我ら教団を壊滅寸前まで追い込んだ白の騎士を殺せるとは限らないが」

 またも意外な話が持ちだされ、アリストは咄嗟にヴァイスの背を見上げる。

 教団を壊滅寸前にまで追い込んだ? ヴァイスが?

 ここにいる連中は一人としてまともではない。アリスト以外は。

 チェシャ猫は昔から魔導の天才児として知られていたらしいし、赤騎士は腕の立つ殺し屋だ。そして常日頃から変人っぷりを発揮するヴァイスも、魔導の第一人者としての実力は確かなもの。

 非現実的な超人たちの空間。けれどアリストはその中の歯車の一つとして、すでにこれ以上なく巻き込まれてしまっている。

 ひとつ息を吸った。吐き出す勢いで告げる。

「……あんたたちが、本当は何を求めているかなんて知らないけど」

 知らない。アリストは何も知らない。物語からコードネームをとる意味も、教団の信者たちが背徳の神にかける願いも、ヴァイスやチェシャ猫が遺恨を持ちながら教団と関わり続けたその事情も。

 何一つ知らないけれど、例えそれらを知っていたとしても、たぶん自分の出す結論は変わらない。

「犯罪を起こして、誰かを傷つけて、苦しめて! そうまでして叶えたい願いなんて、絶対にろくなもんじゃない!!」

 それだけは断言できる。

 それだけが確かなことだ。

「チェシャ猫は渡さないし死なせはしない! もちろん俺だって死んでたまるもんか!」

 戦い続ける。最期のその一瞬まで。

 犯したくもない罪を犯して、悲しみながら自ら命を絶った人を知っている。罪の意識とはそれだけ重いものだ。望んでそれを犯す者の言い分なんて認めるわけにはいかない。

「身の程知らずな。我々の邪魔をしようと言うのであれば、死んでもらうしかないぞ」

「死なせねーよ。誰も」

 アリストは真っ直ぐな瞳で言い切った。

 その透き通るような青さに、赤騎士は人知れず息を呑む。

 しかし次の瞬間にはいつもの笑みを浮かべ、目の前の子どもを嘲笑った。

「強気なのは結構だが、お前にそれができるとでも? 若返りすぎた子どもの体で何ができる? “出来損ないのアリス”よ」

「何ができるかなんて、やってみないとわからないね!」

 アリストは印を組む。その瞬間、ヴァイスとチェシャ猫が地面を蹴り彼から離れた。

 もとより赤騎士をそう簡単に「説得」できるなどと、誰も思ってはいなかった。確実に戦闘になるとわかっているのに、何の準備もせずここまで来るわけがない。

 今の自分がどれだけ無力かなんて、もうアリストにもわかっている。天才児とはいえチェシャ猫も本来の年齢の彼女自身に比べて術の腕が落ちているという。

 それでも、相手がわかっていて、準備の時間があるならいくらでも戦いに勝利する手段はある。

 戦闘開始の合図となる爆音が轟いた。


..016


 アリストが印を組んだのはフェイク。自らの足下に無数の魔法陣が輝いた瞬間、赤騎士はそう悟った。

「チェシャ猫! 貴様か!」

 正面からの攻撃に備えようとした赤騎士の意表を衝くように、足元の地面が爆発する。

 そしてからくも爆発を避けたところで、第二撃が赤騎士を襲った。

 今度こそ印を完成させたアリストの術が赤騎士目掛けて走る。炎で形作られた鳥は、赤騎士が一閃した剣に真っ二つにされた。

「ちっ!」

「これは驚いた。たった一日で、随分魔導の腕が上がっているじゃないか」

 白兎に禁呪をかけられた昨夜。口封じのために襲ってきた赤騎士相手にアリストは手も足も出なかった。肉体が若返ったために習得した魔導の技術も失われたアリストは、無力な子どもの体に加え術すらも使えず殺されかけた。

 その分、今回は昨夜の二の舞にならぬよう準備してきている。

「何せ師匠が優秀なもんでね」

「ふむ、それほどでもない」

「ヴァイス、てめーじゃなくてチェシャ猫のことだ」

 アリストと同じように肉体が子どもになっても構わず魔導を使っていた彼女に尋ねたのだ。何故それだけ高威力な術を扱えるのかと。

 それが元からの才能の差と言われてしまえば、アリストにもどうしようもない。しかし、チェシャ猫の答は違った。

「魔導の威力は最終的に、魂に依存するの」

「魂……?」

「そう。魔力……魔導の力がどこから来るか知っている?」

「アカシックレコードが云々って奴か? 人の心は無意識の海、巨大な図書館に繋がっていて、人生はそこから引き出された情報の一部に過ぎないって」

 無意識の海、バベルの図書館、天の板、心の窓などと呼ばれるそれ。人の魂もこの世界の情報も全てはそこに集約され、人間の人生もこの世界の全ての存在も、『そこ』から汲み出した水の一滴に過ぎないと言う。

 魔力とはその水のことだ。より正確に言えば、無意識の海を通して必要な力を計算しているということらしいが、難しいことはアリストにもわからない。

 ただ、魔導という技術が肉体的な才能よりも魂に依存すると言うのは確かに聞いたことがある。

 魂そのものが、無意識の海から抽出された力だからだ。そして抽出とはいうものの、無意識の海と個人は完全に断絶された存在ではない。糸のような細い繋がりとはいえ、人の魂はその奥底で『全て』と繋がっているという。

 魂の糸を逆に辿り無意識の海から必要なだけの力を引き出す業――それが魔導。

 文字通りの『魔』を『導』く力なのだ。

「魔導は魂に依存する。そして私たちの魂は、肉体と違って損なわれてはいない。ならば、その気になれば今までのようにとは言わなくても、すぐにそれに近い形で魔導を使うことができるはずよ」

 泳ぎ方や自転車の乗り方を一度覚えたら二度と忘れないように、魔導も同じことだとチェシャ猫は言う。

「そして、もう一つ」

 古くから、死の淵から蘇った人間が霊感を得たり、超能力等の新たな力に目覚めるという事例はあった。

 魔導ではそれを第六感、そして第七感の獲得・覚醒と表現する。

 一度死の世界に片足を踏み込んで蘇った人間がそれまでにない力を得る。死によって無意識の海に還るために接触してから現世に引き戻された魂が、無意識の海からより大きな力を得て戻るからだ。

「禁呪によって死にかけた私たちは確かに肉体的には弱体化したけれど、魔導に関しては違う。集中すれば、今までに見えなかったものも見えるはずよ」

「見えなかったものって……」

 アリストにそのような自覚はない。

「第七感に関しては個人差があるから絶対とは言えないけれど、少なくとも魔導に関してはある程度使えるの。手足の長さが変わった関係で多少調整は必要だろうけど、火や水を出す技自体は使えるわ」

 赤騎士との最初の戦いでは使えなかった話をすると、それは魔導を肉体依存の術として勘違いしていたからではないかとチェシャ猫は言った。

「魔導の本質は、最も端的に言うならば『信じる力』」

「信じる力?」

 子ども向けアニメにでも出てきそうな単語だ。

「ええ。自己暗示に近くもあるわね。自分ができると思っていることはできるのよ」

「火事場の馬鹿力って奴か? それにしても……」

「信じることそのものが難しいだけで、行動や現象そのものが不可能なわけではないわ。人の魂がこの世の総ての情報を収める天の板に繋がっている以上、魔導は全てを可能にする」

 魔導の魔とは、この世界に存在する全ての『可能性』だ。不確かでありながら、不可能ではないという全て。

 夢物語だ、お伽噺だ、喪われた伝説だと。

 それでも、信じれば魔導は『魔法』へと変わる。

 さすがにアリストはそこまで行かなかったが、チェシャ猫の指導により、自分がかつて使えた術をほぼ再現することはできた。

 だが。

「子供騙しだ!」

 赤騎士には通用しない。

 放った術を剣で一閃された瞬間にアリストはその場から逃げるために駆け出す。

 三人はちょうど赤騎士を囲む三角形を描くように立っていたので、それが崩れると赤騎士も注意を向ける意識の切り替えに時間がかかった。

 アリストが稼いだ時間をチェシャ猫が魔導の準備に当てている。彼女の術はいくら赤騎士と言えど直撃を喰らえば無傷ではいられない。

 しかしそれよりも不気味なのは、ここまで来て何もする様子のないヴァイスだ。

 念のために一瞬ヴァイスの方をちらりと見た赤騎士は、その違和感に咄嗟に後方へと飛び退いた。

 チェシャ猫の攻撃は躱せば終わりだ。白騎士の企みはなんだ。

「知っているか? 赤騎士」

 ヴァイスは両手をコートのポケットに突っ込んでその場に立ったままだ。

「採石場と言えば、特撮においてあるお約束があるのを。ちなみに私は日曜朝八時のペルソナライダーシリーズは三期のファンだ」

「何言ってんだ、Pライダーは一期こそ至高」

「二期でしょ」

 赤騎士は嫌な汗をかく。

 そういえば先週は白兎の奴も暇だからと朝からこの番組を見ていたな、と。恐るべしペルソナライダーの視聴率。

「ってちょっと待て、まさか……」

 ヴァイスがコートのポケットから何か小さな箱のようなものを取り出す。これ見よがしに押して見ろと言わんばかりのボタンがついている。

「現代の魔導師はこう言われる。『魔導で火なんか出すよりも、マッチでも使った方が早いじゃん』まったく持ってその通りだ。だから私も現代人らしく、文明の利器で火を起こそうと思う」

 もちろんヴァイスがわざわざスイッチまで取り出して仕掛けたものが、マッチの炎のような可愛らしい威力の攻撃手段であるわけがない。

 何もせずに突っ立っていたように見せて、彼は見えないところでコートの内側に隠し持っていた物体をせっせと地面に埋めていたらしい。

 そう、それは日曜朝にお馴染みの特撮番組でもお約束の効果。

「げっ……!」

 赤騎士の呻きと共に、白騎士は躊躇いもなくスイッチを「ぽちっとな」した。


 ドォオオオオオン!!


 先程チェシャ猫が放った術とは比べ物にならない程の爆発が、赤騎士の足下から広がった。


 ◆◆◆◆◆


「やったか?!」

 赤とオレンジの炎が真夜中の闇を切り裂く。かなり距離のあるお互いの顔まではっきりと見えるようなその眩しさに片目を瞑りながらも、アリストは赤騎士が爆炎に包まれた場所から視線だけは離さない。

「っていうかこれ、やりすぎじゃね?!」

 文明の中心たる帝都で、真夜中にこの堂々とした爆発騒ぎだ。赤騎士を倒すにはこのくらいしないとと言うヴァイスとチェシャ猫の言葉にアリストも一応頷いたとはいえ、殺人まで許した覚えはない。この威力はどうも殺す気としか思えないのだが。

 いくら相手が悪人とはいえ、善良な一般市民であるアリストには人殺しは到底看過できない。

「まだよ! 彼を侮っちゃ駄目! このぐらいの爆発なんかじゃ……アリス!」

 途中で悲鳴へと変わった呼び声を意識する前に、アリストは地面へと叩き付けられた。

「やれやれ……やってくれたな」

 服の裾を僅かに焦がしただけで、無傷の赤騎士が地に伏せさせられたアリストの背中を膝で抑え込んでいる。

「これで形勢逆転だ」

「ぐ……」

 容赦なく抑え込まれて、アリストは潰れた蛙の気持ちを味わう。肌に食い込む小石が痛んだ。

「さて……」

「待て!」

 アリストの首に剣の切っ先を突きつけた赤騎士が口を開きかけたところで、被せるようにヴァイスが叫んだ。

 その手には小さな液晶画面――彼の携帯が握られている。

「……どういうつもりだ?」

 そして携帯の画面には、11までが表示されていた。指先が0のボタンにかかっている。

「そいつを殺せばそのまま警察に連絡が行くようになっている」

 自信満々に告げる姿に、赤騎士は思いっきり脱力した。

「馬鹿な……そんなもの、大人しく通報させるとでも?」

 子どもの首一つ落とすことなど赤騎士には造作なく、それから白騎士とチェシャ猫の二人を相手に移るのは容易い。いくらチェシャ猫が時間を稼ごうとも、今回の経緯を警察に説明させるだけの時間を白騎士に与えてやる訳がない。

「今から、ここで通報するのならばな。だが、これは直接的な方法ではない。細工をさせてもらったのは、別の場所だ」

「!」

 ヴァイスが懐から取り出したもう一つの機械――ボイスレコーダーから、これまでの詳しい経緯をべらべらと説明する声が流れ出す。

「この録音と同じものを、自宅のレコーダーに準備してある。私たちが予定時間を過ぎても帰らなかった場合、自動でその内容が警察に送られるようになっている」

 赤騎士が目を瞠った。

 もしかしてこの三人は最初から、そのつもりで……?

「これは予想外だな。あの“白騎士”が、そんな保険をかけるとは」

 十年前の戦いの時は、ヴァイスがこんな手段をとることはなかった。

「アリストの提案だ」

 赤騎士は自分が抑え込んでいる小さな少年へ目を向けた。

 今の見た目は、片手で簡単に捻れる子どもに過ぎない。

 しかしその中身は、禁じられた魔術をかけられ非現実的な状況に直面しても決して折れることのなかった精神の持ち主。

「言っただろ。誰も死なせないって」

 潰れそうな胸が掠れた声を発する。彼の後を引き継いで、再びヴァイスが続けた。

「お前の出方がわからなかったからな。少し様子を見させてもらった。一応チェシャ猫を連れ戻そうという意思があるのなら、取引した方が双方に意義があるのではないか?」

 とっとと警察に通報しなかったのは、ただの証言だけでは信じてもらえる当てがなかったからだ。

 しかし赤騎士の手により彼らが殺されるのであれば状況は一変する。三人もの人間の死体が上がれば、警察の捜査は入念なものとなるだろう。

 ヴァイスの友人である探偵ヴェルムも関わってくる。教団が警察と繋がっている可能性もあるが、万一通報を握りつぶされたとしても、一探偵であるヴェルムを止めることはできない。

 例え赤騎士が彼らを今すぐ殺したとしても、彼一人で三人もの人間の死体を処理する時間よりも、警察に通報が届く方が早い。

 この時点で赤騎士の選択肢は二つに分かれたのだ。

 三人から手を引く、あるいは取引するか。

 彼らを殺して事件の存在を明るみにするか。

 教団所属の人間として、後者は選べない。そこへ――。

「へぇ。なかなかやるじゃん」

 事態を変えるもう一人の人物の声が割り込んだ。


..017


「白兎……!」

 自分をこの姿にした張本人の憎い姿を前に、アリストは唇を噛みしめる。

「やぁ。迷子のアリスちゃん。話には聞いていたけど、まさか本当にプチサイズに変身とは」

「誰のせいだと思ってんだ!」

 岩肌の途中に腰かけた白兎は、採石場の地面に立つ四人より高い位置から彼らを見下ろした。いまだ赤騎士に抑え込まれたままのアリストは、苦しい姿勢のまま叫ぶ。

「アルブス? 何をしに来たんだ?」

「ちょっとね。別の仕事が入ったお知らせに」

 今夜赤騎士が裏切り者と目撃者の口封じを目論んで白騎士と対戦することは、白兎も知っていた。その彼がわざわざこの現場に乱入する理由とは?

「撤収しよう、ルーベル」

「……本気か?」

 相棒に問いかけながら、赤騎士がようやくアリストを解放する。ようやく自由になったアリストは、その場で二、三度咳き込んだ。

 白兎は赤騎士の質問をひとまず無視して、敵であるはずのヴァイスとチェシャ猫に目を向けて問いかけた。

「お前たちも、それでいいだろう?」

 元よりヴァイスとアリストとチェシャ猫のたった三人だけで巨大な組織である睡蓮教団と正面からやりあうのは不可能に近い。

 彼らを殲滅するのであれば、相応の準備や仲間が必要だ。アリストの盗まれた時間を奪い返すためとはいえ、ここで赤騎士に仕掛けた罠は一か八かの危険な賭けだった。

 赤騎士と白兎が退いてくれるのであれば、ひとまずは平穏が保たれる。

 だがその理由がわからないことには、何とも言えない。

「どういうことだ?」

 当然の質問を投げたヴァイスに、白兎は妖艶な微笑と共に告げる。

「こちらでも不測の事態が起きてしまってね。今はお前たちの相手をしている間も惜しいんだ」

「不測の事態……?」

 つい最近まで教団にいたはずのチェシャ猫が眉根を寄せる。彼女の記憶には、教団内部でそんな大変なことが起きていたという覚えはない。

「ああ。教団を裏切ったどこかの誰かさんを心配したその姉貴分が、よりにもよって研究施設の一つを爆破したんだ。しかもいくつかのデータを消去、あるいは持ちだした上でね」

「! 姉さん……! まさか……!!」

 先程赤騎士もチェシャ猫を教団に連れ戻す理由として名を挙げた、チェシャ猫の大切な人。“公爵夫人”が、教団に反旗を翻した?

「教団内の抹殺対象リストのトップは現在、ジェナー=ヘルツォークこと“公爵夫人”を置いて他にはない。余計な奴らに構っている暇はないんだ」

 白兎から聞かされた話に、赤騎士が顔を歪める。赤騎士と公爵夫人は元々折り合いが悪い。彼女が教団を裏切ったと聞いて気分が悪いのだろう。

「……確かに、そちらの事情とやらは理解した」

 ヴァイスが言葉を選びながら、更に白兎の真意を問いただす。

「だがそれは、我々を見逃す理由にはならないはずだ」

 今は不測の事態が起きている。白兎はそう言った。だが彼の様子では、その不測の事態が終わったからと言って、仕切り直してアリストたちを殺しに来るでもなさそうだ。

 その真意がわからない。

 これまでアリストは、睡蓮教団という団体は頭のおかしいカルト宗教としか思っていなかった。しかし様々な視点から彼らの歴史を教えられ、今その教団に属する人間に触れて、どれほど悪質な犯罪を引き起こそうとも、その相手も所詮は一人の人間に過ぎないのだと知った。

 赤騎士も白兎もチェシャ猫も、恐らく公爵夫人と言う人も皆、それぞれの考えで動いている。

 その考えとは、何?

「“公爵夫人”の裏切りをわざわざこの場で話したのは何故だ。隠しておけば、チェシャ猫に対するカードとして使えるのに」

 ヴァイスが言葉を重ねる。

「禁呪の被験者であるアリストのことだってそうだ。殺さずとも少なくともチェシャ猫共々教団にでも連れていけば、格好の実験材料となるだろうに」

 白兎の決断は、それらをあえてせず三人を見逃すというものに聞こえる。

「理由、理由ねぇ……」

 説明する気がないというよりも単に面倒くさいと言わんばかりの態度で、白兎が顎に指を当てる。

「気まぐれと言うんじゃ駄目かな」

「駄目だ」

「ちぇー」

 ヴァイスの即時却下に唇を尖らせた白兎が、軽やかな身のこなしで岩肌を降りて赤騎士の隣に立つ。

 彼は軽い口調で告げた。

「お前たちを見逃す理由は、現時点ではお前たちの力など大したものではないからだよ」

「……」

「もちろん、十年前に帝都の教団勢力を壊滅寸前に追いやった白騎士の存在は憂慮すべき問題かもしれないけれどね……だからと言って、この十年動いて来なかったんだ。今すぐに教団に対してどうこうというものでもあるまい」

「そうか? 私は今まさに赤騎士と取引して貴様らの本拠地に乗り込もうと考えていたんだが?」

 ヴァイスが腕を組み仁王立ちの偉そうなポーズになる。アリストとチェシャ猫は彼の両脇に立ち二人の会話を見守った。

「取引だけだろう? 十年前ならいざ知らず、今の貴様に教団を潰せるだけの力も仲間もないはずだ」

「私が今の貴様らにとって、脅威とならないから放置するだと?」

 いくら睡蓮教団が巨大な組織だとは言っても、邪魔者を片っ端から殺害していくわけにも行かない。犯罪を行うからと言って出会った警察官全員を殺すわけには行かないのと同じだ。

 教団にとって、現時点で活動を続けている余程の脅威となる人間でなければ殺人というリスクを犯す意味はない。

「ああ。勝ち目もないのに手を出してちくちくと嫌がらせをするような性格でもあるまい」

 実際、この十年、教団はヴァイスを見逃し続けてきたという。

 一度ヴァイスの手によって壊滅寸前にまで追い込まれた睡蓮教団だ。復興途中に邪魔者を消すつもりでちょっかいを出し、返り討ちに合うのを恐れたのだろう。

 ヴァイス自身がこの十年、教団を潰すための活動を続けていたならばまた別かもしれないが、彼は何もしてこなかった。少なくとも教団の目にはそう見えていた。

 ――彼はこの十年、ただ待っていた。


「では、勝ち目があるとしたら?」


 “白の騎士”ことヴァイス=ルイツァーリが次に動く時は決まっている。

 白兎の、赤騎士の、チェシャ猫の、そしてヴァイスの目が一斉にアリストの方へと向けられた。

「……へ? え、な、何?!」

 どういう流れで自分に視線が集まったのかさっぱり理解できないアリストは、思いがけない注目にきょろきょろと首を巡らせる。別に自分の周辺に何か変わったことがあったわけではないようだ。

 視線をアリストに向けたまま、白兎がヴァイスに尋ねる。


「彼が、お前の“アリス”なのか?」

「――ああ、そうだ」


 ここに来る前、玄関先でばったり出会った姉との会話を思い出す。アリストに“アリス”と言う偽名を授けたヴァイス。

 あの“アリス”には、やはり意味があるのか?

 白兎の問いにヴァイスが頷くと、赤騎士やチェシャ猫の視線も一層強くアリストに向けられるようだった。

「お前でも、今や名探偵と持て囃されるヴェルム=エールーカでも駄目だった。“アリス”にはなれなかった。だがこの少年ならば、本物の“アリス”になれると言うの?」

「たぶん、な」

 ヴァイスの視線がアリストに向けられる。アリストは訳も分からぬまま、ただその視線を真っ直ぐに受け止めた。

 ふ、と赤騎士が口元に緩やかな微笑を湛える。

「なるほどな。その小僧が“アリス”か」

「ルーベル?」

「アルブスよ、少なくとも私は得心が行った」

 赤騎士の視線がアリストの方へと向けられた。

「先程の駆け引き。一見無茶だが少ない手駒の中ではよくやった方だ」

 誰も死なせないと豪語し、赤騎士をただ倒すことよりも生かして取引することに主眼を置いた作戦。具体案を出したのは白騎士やチェシャ猫かも知れないが、そのように行動の指針を取ったのは“アリス”なのだろう。

「だが、教団の人間は上の連中になればなるほど背徳神の復活に凝り固まって説得など通じる連中じゃないぞ。誰も死なせないなどという綺麗事が、いつまで通用するものかな?」

 子どもの青臭さだと嘲笑う赤騎士の言葉に、アリストは間髪入れずに返した。

「説得できなきゃ警察に強制的に逮捕してもらうしかないだろうさ。俺は人間誰も彼も説得で穏便に和解できるなんて言ってねーよ。償う気のない罪人なら逮捕しかねーじゃねーか。だからって、悪人だから殺していいなんて言わないよ」

 赤騎士と白兎が、揃って目を丸くした。普段は何故か外見より何倍も年齢を重ねた者のように見える相貌が、途端に見た目相応に幼くなる。

「く……アハハハハハハ!」

 突然笑い出した白兎の様子に、アリストはぎょっとする。自分ではこんなに爆笑される発言をした覚えはないのだが、なんとなく気恥ずかしくて頬に血が上る。

「な、なんだよ! 何がおかしいんだよ!」

「くくくっ」

 どうやらツボにはまった様子の白兎が目元を擦っている。涙が出る程笑われるなんて心外だ。

「そうか。お前は本物の“アリス”なんだな。この時代に生まれ、生きる子ども。今のこの世界を信じている……」

 白兎がしみじみと言った言葉の意味は、アリストにはわからなかった。

 アリストに時を奪う禁呪をかけた、事態の元凶は間違いなくこの男だ。けれど白兎自身にアリストへの敵意や殺意は薄く、その真意がどうにも掴めない。それは実際にアリストを殺そうとしていた赤騎士でさえ同じだ。

 誰かを憎悪などしたくはないが、それでも顔を合わせたら憎むしかないのだと思っていた。けれど今、白兎を前にしても不思議と心は凪いでいる。先にチェシャ猫という、どうしようもない事情で教団にいた少女と会ってしまったからだろうか。

 教団から与えられた役割を淡々とこなしながら、まるで彼らは何かを待っていたかのようだ。

「餞別に教えてあげようか。――お前たちの『時間』は、教団の本部にすでに送られている」

「!」

 ハッとしてチェシャ猫と顔を見合わせた。

「チェシャ猫、本部って知ってるか?」

「いいえ。トップである赤の王やハートの女王の居場所に関しては、教団の中でも限られた人間しか知らないの」

 チェシャ猫が申し訳なさそうに首を横に振る。確かに彼女がすでにそれを知っていたら、もっと直接的にそちらに乗り込む術を探したことだろう。

「もちろん、俺たちも知らないよ。俺とルーベルは、教団の中でもちょっと異端な部類なんで」

 聞きたいことを聞く前に白兎が答えた。敵だと言うのに、あまりにもサービスが良過ぎだろう。

「異端……?」

「そ。根っからの睡蓮教信者は俺たち程甘くないから、油断しない方がいいと思うよ」

 白兎や赤騎士が、ヴァイスはともかくアリストやチェシャ猫に限っては本当はいつでも殺せるのにそうしないのは、彼らが教団の中でも微妙な立場だからなのか?

「時間を取り戻すにも、教団を潰すにも、とにかく睡蓮教団の真実へ近づかなくてはならない。ま、せいぜい頑張ってくれる? ――我らが“アリス”よ」

「……」

 彼らの中ではどうやらアリストの存在は“アリス”として確定されたようだ。

 赤騎士と白兎が地を蹴り、先程白兎が彼らを見下ろしていた岩肌の途中に飛び乗る。

「――今はまだ、お前たちは教団の脅威になる程の存在ではない」

「けど、このままこっそり教団のことを探っていけば、そのうち辿り着けるかもね。不思議の国の中心人物、“ハートの女王”に」

 アリストたち三人は採石場跡の焦げた地面から二人を見上げる。

「何故俺たちにそんな情報を寄越す? お前たちの目的はなんだ?!」

 遠回しにアリストたちの手による教団の破滅を望むかのような行動に、どうにも疑心を捨てきれない。

「大した意味はないさ。不思議の国の住人は、どうせみんなすでに狂っているんだから」

 白兎が歌うように言う。

 そして彼は優雅に一礼すると、その手から何か小さな塊を落とした。

「目を閉じろ! 閃光弾だ!」

 ヴァイスの忠告に従い、顔を背け腕を眼前に掲げて目を焼く光から逃れる。

 後に残ったのは爆発で燃え焦げた無残な地面を晒す採掘場跡地と、呆然とした顔で取り残された三人だけだった。


..018


 閃光が収まり、夜の闇が次第に戻ってくる。

 ぷすぷすと煙を上げ続ける地面の上で、アリストたち三人はその場に呆然と佇んでいた。

 人の気配はすでに遠く、白兎と赤騎士はやはり姿を消してしまったらしい。

 辺りは閃光弾の光が消えたからだけではなく、真っ暗だ。分厚い雲が月明かりを隠したのだ。

 夜と風とお互いの気配だけが彼らを包む。

「……一体、何なんだよ、あいつら」

 アリストはぽつりと呟いた。

 もう何が何だかわからない。

 否、ここ数日の出来事は、思えば最初から訳のわからないことばかりだった。

 ふとヴァイスとチェシャ猫の方を振り返れば、二人もそれぞれ思い思いの表情を浮かべている。

「ヴァイス?」

「ん? ああ」

 何か考え込んでいたヴァイスにひとまず声をかける。アリストよりも彼やチェシャ猫の方が、この事態に関する情報を多く持っているだろう。

 幾つもの問いが頭の中をぐるぐると巡り、アリストは結局、一番気になったものを真っ先に口にした。

「――“アリス”ってなんだ?」

「物語の主人公だ」

 ヴァイスの答は端的過ぎる。それは一見、古典小説の基本設定を持ちだすことで話を逸らしているかのように思えた。

 けれど続く説明に、ヴァイスにそんな気はないのだと考え直す。

「“不思議の国”由来のコードネームは、全てあの物語からとられた。ルイス・キャロルの著作から。私が“白の騎士”であり、彼女が“チェシャ猫”であるように。奴らが“白兎”であり、“赤の騎士”であるように。だが、“アリス”の名を持つ者だけはいなかった。これまでは」

「……どうして」

 普通そういった物語からの借用なら、有名どころの名前から使うのが一般的ではないのか。

 焼け焦げた地面に目をやっていたヴァイスが、ようやくアリストに視線を向ける。

「“アリス”は、あの話の主人公なんだ。敵も味方もその存在が現れて初めて紙面に登場できる。“アリス”が登場してようやく物語は動き出す」

 友好的に接して来る者、無礼な態度で喧嘩を売る者、助言者、道連れ、無関係――“アリス”にどのような関わりを持つのかは別として、どんな存在も彼女が不思議の国に、鏡の国にやってこなければ物語は始まらない。

 ヴァイスの説明を、チェシャ猫が引き継ぐ。

「だから誰も、これまでコードネーム“アリス”を名乗ることはなかったわ。運命の歯車を動かして、夢を終わらせる人間になれなかったから」

「夢を終わらせる?」

「あの話の原作、読んだことある?」

 チェシャ猫の問いかけに、昔確か数度目を通しただけの物語をどうにか思い返す。

「理不尽な裁判に少女アリス……最後の証人として呼ばれたアリスが怒って場をぶち壊すんじゃなかったか?」

「その通りよ」

 そして少女は、夢から覚める。冒険は終わる。

 “不思議の国”は、少女アリスの見た夢の世界。

 お姉さんが挿絵のない難しい本を読む傍らで眠気を催したアリスがうとうとと、夢と現実の区別もつかなくなる頃に始まる物語だ。

 いつの間にか眠りに落ちた夢の中、アリスはチョッキを着て時計を確かめる兎を追って兎穴に落ちていく。

 不思議の国で様々な人物と出会い、様々な体験をしたアリスは、最後にハートの王夫妻が開いた裁判に証人として呼ばれるが――そこで夢が終わるのだ。

「アリスがいなければ、始まることも終わることもない物語」

 睡蓮教団の人間もそうでない人間も、ある一定の情報を知る者は、だから不思議の国の住人の名を名乗る。

 狂った夢の世界に生きる者の名を――。

「睡蓮教団に憎しみを抱く者たちは、限られた真実を自分たちが知るか否かを識別するため不思議の国由来のコードネームを名乗りながら、ずっとアリスを待っていた」

 チェシャ猫がちらりと視線をヴァイスに向ける。語り手が再び彼女から彼に交代する。

「……限られた真実って?」

 アリストの問いに、ヴァイスは答える。

「睡蓮教団が神の復活のために動いていること。そしてその具体的な方法を知っていること」

「具体的な方法って――」

 鸚鵡返しに呟きながら、アリストは咄嗟に思い出せなかったその言葉の続きを脳内で考えた。

 聞いたことがある。そうだ。それは――。

「神の、魂の欠片を集めること」

 ――背徳神も辰砂も、その欠片はまだこの地上に残っている。そして睡蓮教団が神の復活を願う以上、彼らは背徳神の魂の欠片を追う。

 ――創造の魔術師・辰砂の魂を集める者だよ。

 あの時、ジグラード学院の研究室で。ゲルトナーが言ったのだ。睡蓮教団の目的は背徳神の魂の欠片を集めること。

 その事情を知る者は、不思議の国の住人の名を名乗る。だとすれば――。

「俺が、その“アリス”だっていうのか?」

 アリストはヴァイスによって“アリス”と呼ばれた。白兎の問いかけを、ヴァイスは肯定した。

 しかしダイナに名乗った“アリス”と言う名は、あくまでも本名を誤魔化すための偽名ではなかったか。

「別に偽名がコードネームを兼ねてはならないという決まりはない。『アリス』はありふれた名だしな」

 教団に関わらず普通に生きていく分には、危険人物と疑われることすらないだろう。

「……コードネームは本人の適性を加味して周囲が決めるか、もしくは自分で名乗るか。特にこうしなさいという規則はないわ。それでもコードネームが被ったという話は聞いたことないわね。その中でも“アリス”だけは特別だった」

「何故」

 アリストは補足説明をこなしてくれたチェシャ猫を一瞥し、ヴァイスに視線を戻す。

「何故、俺に対し、お前は“アリス”の名をつけるんだ?」

「……」

 女名だということはこの際置いておこう。物語からとられたコードネームに性別を考えるのは無意味かもしれない。

 けれど。何故。

「全てを始め終わらせる、物語の主人公……そんな名を俺に?」

 “アリス”と言う名。その名に込められた意味を聞かされて、アリストは正直戸惑った。そんな重要なコードネームを、自分などに与えていいのかと。

 白兎と赤騎士でさえ、自分たちを殺すことなく退いてみせた要因はアリストが“アリス”だと聞かされたことが大きいように思う。

 しかしヴァイスの方は何かと迷う節もなく、アリストを“アリス”とすでに決めているようだった。

「コードネームは適性を加味して決めるとチェシャ猫が言っただろう。その人間の適性は本人より周囲の方が理解できることもある」

 それは天啓のように閃く。

「あなたが」

「おまえが」

 理屈より理解より速く、魂が答を訴えるのだ。これしかない、と。


「“アリス”だ」


 だから、ヴァイスが白兎の質問を肯定する直前、アリスの存在を示唆したその時に四人の視線が一斉にアリストに集中したのだ。

 白兎が言っていた。


 ――お前でも、今や名探偵と持て囃されるヴェルム=エールーカでも駄目だった。“アリス”にはなれなかった。だがこの少年ならば、本物の“アリス”になれると言うの?


 候補者は一人ではなかったはず。まだ名前しか聞いたことのない名探偵も……そして白兎の口ぶりだと、恐らくヴァイス自身も“アリス”候補だったのだろう。

 けれど彼らでも“アリス”にはなれなかった? それとも何かの理由があってならなかったのか。

 今わかるのは、それが多分アリストの知る以上に、途方もないことだというだけだ。

 いまだ全貌の把握すら難しい程に巨大な組織を破滅に導く役割を――悪夢を終わらせる者の名を受け取ること。

「いいのか? 俺で」

「……お前こそいいのか? 逃げるならこれが最後のチャンスだぞ」

 臆して断るなら、元の姿を取り戻す機会が遅くなる代わりに偽名でどこか離れた街で暮らす手もあると。事情を知る者が限られている今しかその機会はない。

 ヴァイスは責める素振りも、引き留めたり憐れむ素振りすらなく、ただただ静かに確認する。答はもうわかっているというように。

 風に流れて晴れた雲間から月の光が降り注ぐ。

 金の髪で月光を散らしながら、アリストはゆっくりと首を横に振り微笑んだ。

「俺は自分の問題を誰かに丸投げして逃げ続けたりしねーよ。どんなに縮んだってこれは俺の体で、俺の人生で、俺の命だ。――俺が戦う」

 小さく柔らかな手。こんな無力な子どもの手で何ができるのかと。

 それでもやってみなければ始まらないだろう。

 その結果何を遺すこともできず、ただ無残に無様に亡骸を晒す羽目になるかもしれないけれど。

 否。

「俺は必ず元の姿に戻る。自分を、盗まれた時間を取り戻す。そして奴らを司法の手に引き渡して――きっちり決着つけてやるぜ!」

 命を危険に晒す覚悟はあるけれど、命を失うつもりは毛頭ない。

 自分は帰るのだ。大事で大好きな姉のもとへ。その時は“アリス”ではない、“アリスト”として。

 売られた喧嘩は買わなきゃな、と軽く言うと、ヴァイスがようやくいつものように皮肉気な笑みを浮かべた。

「どうせお前なら、そう言うと思っていた」

 この数日で、アリストはヴァイスのことなど、何一つ知らないのだと改めて思い知った。

 怪しげなコードネームにカルト宗教との関わり、知人に歳の離れた探偵がいるという謎の交友関係。

 突っ込みを入れたい部分は枚挙に暇がないが、それでもこれがアリストの知るヴァイス=ルイツァーリだ。他にどんな新しい情報が追加されても、アリストの知るその部分は変わらなかった。そこが変わらないからこそ、それだけは信じられる。

 そして。

「――チェシャ猫。いや、シャトン=フェーレース」

「!」

 彼女自身まだ耳馴染んでいないのだろう名を呼んで、アリストはこの状態を導いた張本人と改めて向き合った。

 二人の身長は今ほとんど変わらない。これだけ小さな子どもの体格の差などほとんどないということか。単に二人の成長ペースの問題か。

 常にどこか諦観と憂いを帯びている紫の瞳を見つめる。

「お前も、俺たちに協力してくれるか?」

「え……」

 チェシャ猫の瞳が揺れに揺れる。それはアリストに協力したくないという意味ではない。逆だ。

「私は……今のこの状況を作った人間なのよ。あなたを地獄に叩き落した人間よ」

「そうかもしれない。でもその地獄から救ってくれるのもお前だけだろ?」

 一口に睡蓮教団から時間を取り戻すとは言うものの、具体的にどうすればいいのかはアリストにはわからない。白兎は教団に送ったなどと言っていたが、アリストから盗まれた時間がいまどのような形状でどのように保管されているのか――それはチェシャ猫にしかわからない。

 魔導を解くには術をかけた本人の力が必要。ならば禁呪の開発者である彼女が傍にいることは、アリストたちにとって大きな強みになる。

「頼む」

 赤騎士と戦う彼女は真剣そのものだった。元は教団にいた人間と考えれば信用しすぎるのは危険かもしれないが、それでもアリストはチェシャ猫を信じようと思った。

 彼女が心を砕く相手だという「姉さん」も、もう教団にはいないらしい。

 “白騎士”であるヴァイスを頼れば、“アリス”に出会えると思ったというチェシャ猫。

 自分が彼女の目に敵う“アリス”かどうかはまだわからないが、そうなれるようにアリストも努力するつもりだ。

 だから彼女にも、己の魔導がただの暗殺術にされているこの現状を変えるために協力してほしい。

「……こちらこそ」

 返ってきたのは、いつも無表情に近い冷めた瞳の少女が、初めて見せる柔らかな笑顔だった。


 ◆◆◆◆◆


「で、いいのか? 本当に」

「お前こそ」

 白兎と赤騎士の二人は今回の仕事の本拠地であるホテルに戻り、愉しげに笑み交わす。

「あれが本物の“アリス”ならば、いずれ必ず再び私たちの前に姿を現す。しかしそうでなければ、どうせ私たちが殺さずとも他の教団員に殺されることだろう」

 ここで自分たちが手を引いたからと言って、教団そのものは相変わらず彼らの敵だ。

 他の奴に殺されるならそれまでだ、と。

「教団の存在は私たちの隠れ蓑としては便利だが、そこまで義理立てしてやるつもりもないしな」

「ひっでー。俺たちのような怪しげな存在を受け入れて仕事くれてる相手なのに」

「そんなものなくとも別に平気だろう。私たちなら」

 整えられたベッドの上、赤騎士が白兎の頬にするりと指を滑らせてなぞる。白兎がその手に自らの手を重ねる。

 触れる互いの肌は滑らかだ。外見年齢の少年の姿相応に。

 けれど彼らの外見はあくまでも外見で、中身はそれに釣り合うものではない。白兎や赤騎士を目にした者は誰しも彼らが本当はその外見以上の齢を重ねていることを自然と感じ取る。

 悠久の時を超えて共に生きる二人にとって、今この瞬間世界を悩ませるあらゆる問題も一つの通過点にしかならない。

 睡蓮教団も今の名前――偽名もコードネームも、所詮はこのひとときの退屈を紛らわせるための仮宿だ。

「ところでルーベル、お前に教団の方から新しい仕事が入った」

「ん?」

「言っただろう? 今はチェシャ猫のことより、妹分の脱走に乗じて背信行為を行ったジェナー=ヘルツォークの始末が先だと」

 白兎はアリストたちから手を引くと宣言した。そう、アリス、白騎士、チェシャ猫の三人からは。

 だがチェシャ猫にとって大事な姉貴分である公爵夫人の処遇までは言及していない。

「……お前も性格が悪いな」

「お前に言われたくないよ」

 単に逃げ出したチェシャ猫と違い、公爵夫人は明らかに誰かに流す目的でデータを持ちだしたのだ。さすがにそこまでされては教団にさほどの忠誠心がない二人も放っておくわけには行かない。

 どうせ教団の息の根を止めるのであれば、完璧にやってもらわねば困る。中途半端にその存在を明るみに出され、闇の存在が動きにくくなるようでは面倒だ。

 だから公爵夫人では力不足だというのだ。これ以上余計なことをする前に、彼女には消えてもらわねばならない。

「それで? 今度は私に何をしろって?」

 赤騎士の嘆息に、白兎はにやにやとまた、これ見よがしに悪巧みをしていますという笑顔を返した。

 絢爛豪華なる帝都エメラルドの中心で、闇に動く者たちの新たな計画がゆっくりと進行していく――。

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