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Pinky Promise  作者: きちょう
第7章 黄金の午後に還る日まで
28/30

28.物語の終わりに

...163


 衝撃を受けた体が倒れ、その頭の辺りから血だまりが広がっていく。

「今まで御苦労、女王陛下」

「な……」

「レジーナ!?」

 グリフォンが、ハートの女王を撃ったのだ。

「何故……!」

 ヴァイスが今の今まで戦っていた相手を睨み付ける。

「おっと、そう睨まないでくれよ。あんたたちにとっての敵を倒してやったんじゃないか」

 自らの上司を平然と撃った男は、何の痛痒も感じていない顔で嘯く。

「ここ最近のハートの女王の行動には違和感だらけだったからな。ハンプティ・ダンプティの性急な始末と言い、お前たちにこの場所を掴まれたことと言い」

 裏の世界に顔が利く睡蓮教団の力をもってすれば、どちらも慎重に行えば彼らなど相手にならなかったはず。白の王国はまだしも、アリスやヴァイスはただの一般人だ。

「『ハートの女王』に相応しい振る舞いとはいえ、ちょっと感情で動き過ぎだ。組織を恙なく存続させるためには、犠牲の一つも付き物だってのに」

「……貴様は、ハンプティ・ダンプティの時も、先日ダイナとハートの女王が出くわした時も、教団員を見捨てるべきだったと言うのか?」

「だってそれが正解だろう? 組織の実権を握っているのは俺たちコードネームを持つ幹部連中だ。替えの利く駒である下っ端どもを庇ってアジトを危険に晒す奴があるかよ」

 尤もグリフォンは、ハートの女王のその言い分自体、疑わしいと思っている。

 レジーナという人間がそれ程無慈悲で冷酷だとは思わないが、言葉で説明するように、組織の末端の部下一人一人のためを思ってまで行動するような女か?

 感情で動いているように見せて実際のところ本心の読めないハートの女王は、グリフォンにとってはやりづらい相手だった。

 今まではその上に野心の在り処がわかりやすい赤の王がいたが、今はハートの女王が全てを握っている。

「女王陛下自身が、父親を殺してその座を乗っ取ったんだ。だったら自分が女王に相応しくないと部下に思われたなら、力ずくで引きずりおろされても仕方ねえよな」

 潮時。それがグリフォンの判断だった。

 これ以上ハートの女王についていっても、面倒事に巻き込まれるだけだ。

 睡蓮教団への憎悪に燃える復讐者との戦争もこの辺りで終わりにしたい。

 だが。

「――そうだね」

 二度と響くはずのない声が響き、グリフォンは振り返った。

「僕は自分にとって不利益をもたらすもの、そして気に食わない奴は今までだって躊躇わずに殺してきた」

「なっ……!」

 血だまりからむくりと起き上がったハートの女王のこめかみには、滑らかな肌を穿つ暗い穴が確かに開いている。

 その銃創から今もどくどくと血を流しながら、それでも立ち上がり微笑む彼女の手にも銃があった。

「だから君は浅はかなんだよ、グリフォン」

 そしてお返しとばかりに、グリフォンの腹部を撃ち抜く。

「がっ……!」

 血を吐きながら崩れ落ちるグリフォンに、ハートの女王は歩み寄った。グリフォンが取り落とした銃を蹴飛ばし、更に脚にも銃弾を撃ち込む。

「この僕が銃弾一発で死ぬはずがないじゃないか」

「てめぇ……何者だ……ッ」

「君は教団そのものを居もしない神に縋る精神的惰弱者の集まりだと嘲っていたけどね。彼らだって馬鹿じゃない。睡蓮教の力を信じたのは、それなりに理由があるに決まっているだろう」

「ぐっ……!」

 ドン、とまた一発、ハートの女王はグリフォンの体に銃弾を撃ちこむ。

「赤の王は不死なる肉体の娘の体を切り刻み撃ち抜いて、死なずに生き続ける歪みを神の奇跡と謳って信者を集めた。物事を信じるには理由がある。当たり前の話だろ?」

 更にもう一発。

「何か言い残すことはあるかい?」

 穴だらけになって虫の息のグリフォンに、ハートの女王はまさしく傲然な女王のように問いかける。

「化け物め……!!」

「さようなら。今まで御苦労だったね、グリフォン。おやすみ」

 最後の弾丸が額を貫き、悪態をついた表情のままでグリフォンが絶命する。

「幸せな男だよね。これまで何百人も殺してきたのに、自分はこんなにあっさりと死ねるんだから」

「レジーナ……」

 もはや見間違いようもない友人の“異質”を目の当たりにし、それでもダイナは冷静である。

 否、目の前でグリフォンが甚振られ撃ち殺される場面を冷静に見送ったことを考えると、それ自体がレジーナへの憐憫と言えるだろう。

「ダイナ、君は驚いていないね。……知ってたのかい?」

「薄々察していたわ。あなたは昔から変なところに傷を作ってくる割には、治りが異様に早かった」

 それでもレジーナ本人が言いたがらない様子だったからダイナは深く追求しなかった。しておけば良かったのだろうか。

 せめてダイナだけでもそれを知って、友人の窮状をどうにかしようと動いていれば……。

 考えても詮無いことだ。

「これが僕の理由って奴さ。僕にはね……異端や異質を奇跡と崇めて謳ってくれる教団という存在がなければ、この地上に生きる場所はないんだよ」

 彼らがそうして仲間内で争っている間に、他で戦闘や作戦を終えた者たちが続々集まってきていた。

 劣勢になったため女王の指示を仰ごうとやってきたハートの王、ニセウミガメ。

 それを追ってきた白の王国と怪盗ジャック。

 そして。

「――これが、あんたの理由だったのか」

「そうだよ」

 復活したアリストが言った。

「アリスト……!」

「ただいま、姉さん。こんな時にごめん」

 だが姉弟でゆっくり語り合う暇はなかった。

 同じようにこちらへやってきた白兎がハートの女王へ話しかける。

「すまない、ハートの女王。任務を遂行できなかった」

「僕も予想外だったよ。これはもう仕方ないね」

 白兎程の手練れを配置して、地下は完全に負けるはずがないと油断していたのだ。勝っても負けても目的を果たす計画を練ってきたアリスと白の王国側の作戦勝ちだ。

「ハートの女王……」

「チェシャ猫か」

 この事態の根幹、アリスことアリストを打倒教団へと導いた時を盗む禁呪の制作者に、ハートの女王は今初めて語りかける。

「これでも君には感謝しているんだよ? 君があの術を完成させてくれたおかげで、僕以外にも教団の神秘性を演出する手段が増えて、僕は死ぬまで身体を切り刻まれるあの日々から解放されたんだから」

「……あなたが追手としてグリフォンではなく赤騎士を放ったのも、彼が私を殺す気がなかったのもわざとだったのね」

 アリストが驚いて赤騎士を見ると、彼は肩を竦める。

 破壊神と互角以上にやりあう赤騎士が、一人で逃げていたチェシャ猫を殺せないはずがないのだ。

 アリスとヴァイスが手伝った時でさえ、赤騎士は傷一つ追わなかった。彼を撤退させたものは駆け引きと赤騎士側の都合。

 全てを理解したチェシャ猫が頬に一筋の涙を流す。

「それでも、あなたのやったことは決して赦されない。私が決して赦されないように」

「そうだね」

 ハートの女王は静かに微笑んだ。

 自らは生まれながらにそういう生き物であるという、ただ深い諦めだけを湛えて。

「だから僕は逃げるとしよう」

「レジーナ……!」

 ダイナが、ただ友人の名を呼んだ。


...164


 ハートの女王は言った。

「誰だって、結局自分が生き易いように世界を作り変えるしかないのさ」

 その世界が身近な周囲の環境か、自分自身か、本当に世界そのものかは人によって異なる。

 だが誰もが、自分が生き易いように努力していることには変わりない。

 その努力を否定されるならば、その人物は死ぬか、もしくは――。

「もうこの世界にはいられないみたいだから、“影の国”へ行くよ」

「影の国?」

 “不思議の国”でも、“鏡の国”でもなく。

「影の国は、そういう名の異界よ。『不思議の国のアリス』とは関係ないわ」

「かつて、背徳神が閉じ込められていた常闇の牢獄を基点として作られた、この地上の裏側にあるもう一つの世界」

「……迷信ではなかったのか」

 その名を知る者たちが、それぞれに驚きの表情を浮かべる。

「迷信じゃないよ。ただ……」

 ゲルトナーが憐れむように表情を歪めた。

「君はそれほどまでに、僕らに近いのか」

 あの世界を創ったのは、ジオの弟子だ。

「そうだよ。だからこの世界に居場所はない」

 劣勢に陥り、もはや根拠地どころか組織ごと全てを捨てるしかないハートの女王は断言する。

 そして、先程死んだグリフォン以外の、ここまで彼女を信じてついてきた部下たちに問いかけた。

「君たちはどうする? ハートの王、ニセウミガメ」

「お供します。当然でしょう。私の主はあなたです」

 ハートの王が即断し。

「……連れて行ってください、陛下」

 意気消沈していたニセウミガメもが、付き従う意志を見せた。

「盗んだ時間は世界に飛び散り、もう教団は虫の息。これ以上彼らとやりあうよりも、この世界で隠れ生きる方が楽だよ?」

「それでもです!」

 教団の力で神を、ひいては死者を復活させることも叶わなくなった。

 自らの目的であり積年の願いを失ったニセウミガメだったが、ここで生き方を変えるような真似はしなかった。

「恩師を喪って絶望していた私を再び立ち上がらせてくれたのは、ハートの女王、あなたです」

「……やれやれ。仕方のない子だね」

 ハートの王とニセウミガメの意志が固まったところで、今度は彼らとはまったく対照的に気楽な様子ながら、赤騎士と白兎もハートの女王の傍らに従った。

「では、我々も付き合うか」

「そうだね。乗りかかった船だし」

「あくまでも我らと敵対する気か? 皇帝よ。お前たちがたかが人間一人に本心から忠誠を誓うとは思えんが」

 マレク警部こと白の王が、自分たちと近い存在である二人に問いかける。

「組織への忠誠なんかはないけども、彼女に同情くらいはしているよ?」

 白兎や赤騎士にとっては、教団として活動したこの十年やそれ以前の何十年、そして今から再び数年が経とうとも、彼らの永い永い人生に比べてはほんの儚い一瞬にしか過ぎない。

 赤の王はどうでも良かった。だから見殺しにした。

 教団の下っ端に関しては、白の王国も殺したりはしないだろう。彼らはこんなでも一応平和主義者だ。

 ハートの女王を失った睡蓮教団がまだ彼らや警察に抵抗し続ければ別だが、そもそも構成員に一般的な信者も多い教団は、トップが逃げれば残された者たちは無茶をしない。そういう組織だ。

 けれどレジーナの体質の秘密を共有できる人間は限られている。

「俺たちは、やりたいようにやるだけ」

 物語を見守るのも、アリスを庇ったのも。

 白兎と赤騎士の中で、その方がより良い結果になると考えたからだ。

 彼らはこの結末をどこかで待ち望んでいた。

 チェシャ猫の開発した禁呪を盾に、全てを誤魔化すのにも限界がある。むしろ十年もよく保ったほうだ。

 最後に、ハートの女王はアリス――アリスト=レーヌへと目を向ける。

「やれやれ、白の歩兵は無事に白の女王に成ったのか。やはり君がゲームの終了を引き連れて来たね。夢を醒ます者よ」

 小さなアリスが目覚めれば、物語の世界は終わるのだ。

 不思議の国の住人はただのトランプへと戻る。

「大事な友人が教えてくれたんだ。夢から醒めなきゃ、現実での救いは得られないって」

「僕には、その現実こそが地獄なんだけどね」

 死と言う解放すら得られないハートの女王は、首をお切りと叫び続ける狂気へ逃げ込むしかなかった。

 ようやくアリストもそれを知った。だが。

「本当にそれしかなかったのか?」

「なかったよ。とは言っても、君は認めないだろうね」

 どんな時も光に向かって歩める者と、闇の中でしか生きられない者。越えられない永遠の隔たり。

 アリストはずっと、睡蓮教団が何故こんなにも残虐なことができるのかと不思議だった。

 ようやくわかった。

 彼らにとって、死は残酷でも非道でもないのだ。

 ハートの女王は不死なる身体を持ち、信者は神の復活を願う。彼らにとって死は永遠の離別ではない。

「あんたが本当に殺したかったのは、他の誰かじゃなくあんた自身じゃないのか?」

「……さぁね」

 しかしそれは、死者にはもう二度と会えないという現実からの逃避なのだ。

 鏡の国では求める程に、全てが遠ざかる。

「君の出番はここまでだよ、アリスト=レーヌ。夢から醒めた者の役割は終わった。――現実に帰るがいい」

「ハートの女王」

 レジーナ=セールツェはまだ“ハートの女王”だ。

 アリスト=レーヌはもう“アリス”ではない。

 睡蓮教団のトップとしては、彼女はアリスにとってその野望を挫かなければならない相手だった。

 けれどハートの女王と言う仮面を外した一人の女性として、彼女は本当にアリストの敵だったのだろうか。

 あれほど残酷な殺人鬼だと思われていたハンプティ・ダンプティは友人だった。

 友人であったはずのフート……もう一人の帽子屋とは手を組むことがなかった。

 誰もが己の目的のために時に手を組み、時に敵対しながら生きていた。

 争う相手こそいても、本当の敵などどこにもいないのかもしれない。


 ハートの女王を中心として、足元から伸びた影が彼らを包み込む。


「さよなら、僕たちの世界。僕たちの“アリス”よ」


 彼女は、最後に小さくそう呟いた。

 地上に居場所のない女は、地下へと逃げる。そこにどんな冒険が待っているのかはわからないが……。

「……今ので、その世界に行ったってこと?」

「いいや、今のは影渡りという魔術だ。使える者は少ない上にその使用者はほとんどが人間ではないはずだが……」

 影の国に渡る方法も限られている。そのほとんどは、普通の人間には使えない。

 わからないことはまだまだあるが、目の前からハートの女王たちが消えたことだけは確かだった。

「まぁ、とりあえず……」

「これで奴らを、帝都から――この世界から追い出すことには成功したな」

 一つの戦いが終わり、けれどまだ何もかもが終わっていなかった。


...165


 ――そして姉弟は再会する。


「あの……姉さん」

「アリスト」

 レジーナたち睡蓮教団が消え、構成員のほとんども白の王国の手勢が拘束し終えている。

 戦いは終息に近づいていた。

 そのような状況下での、不意の再会だ。

「なんか、大変だったみたいだね」

 ダイナにはアリスがアリストであることは話していない。

 ここに姿を現すのは不自然だ。

 何事もなければアリスはそのまま帰り、最後に一度だけ怪盗ジャックことネイヴの催眠能力で姿を誤魔化してダイナに会い、別れを済ませるはずだった。

 しかし、ハートの女王の予想外の真実に驚き、出て来ざるを得なかったのだ。

 『不思議の国のアリス』原作では、「アリス」は「ハートの女王」とパイ泥棒のジャックの裁判で相対する。

 けれどこの戦いにおいては、アリスとハートの女王の相対はほんの一瞬だった。

 アリストは無事に元の姿を取り戻すことができたが、他の者たちにとっては教団との戦いにまだ決着はついていない。

 それでも、今はまず、ダイナに会わねばならないと思った。

 季節はとっくに春を過ぎ、夏を迎えようとしている。

 その間にいくつもの事件があって、何人もの人がアリストの傍を通り過ぎて行った。

 もう二度と戻らないものがあり。

 まだ、手の届く人がいる。

 他のことは他の人にも替わってもらえる。

 けれど、ダイナの弟であるアリストはたった一人だ。

 だから。

「……ただいま」

 アリストはダイナの真正面に立ち、ついにそれを告げた。

 永かった。終わってしまえばそれは長い人生の中のほんのひとときと称される程度の時間かもしれない。けれどこの数か月は、アリストのこれまでの人生の中で、最も永く感じられた時間だった。

 やっと帰って来れた。

「アリスト……」

 それまで冷静な表情を崩さなかったダイナの顔が、いきなりくしゃりと歪む。

「え?」

 アリストは思わず声を上げた。

 今、彼の眼の前にいる女性は、あまりにもこれまでのダイナと印象が違い過ぎる。

 飛び込んで来た細い体を思わず抱きしめて、呆然としながらその震える声を聞いた。

「会いたかった……!」

 姉は絞り出したような声で告げた。

「姉さん……」

 まだ身長こそ追い越せていないものの、気づけば腕の中の身体は、十七歳の少年であるアリストに比べて、あまりにもか弱く華奢だ。

「馬鹿ね、私……今まで気づかなかった……本当はこんなにも、あなたに会いたくて仕方なかったのに……!」

 あの気丈な姉が涙ぐんでいる。

 アリストも思わず、瞳に涙を浮かべた。

「俺も……俺も寂しかった……」

 傍にいたのに。

 姿こそ違えど、ずっと傍にいたはずなのに。

 それでも彼女が見るのは子どもの姿のアリスであって、アリストではない。

 そのことが、こんなに寂しかった。

 ようやく理解した。ようやく取り戻せた。

 世界でたった一人の家族のもとに、ようやく帰ってきた。

 だから言える。

「ただいま、姉さん」

「おかえりなさい、アリスト」

 色々と話さねばならないことはあるのだろう、二人とも。物分かりの良い姉でいようと、自分の問題は自分で解決できる弟でいようと、お互いに自分自身の寂しさに蓋をして無理を重ねていた。

 けれど、まだ終わっていない。

 アリストが自分を取り戻す旅は終わった。しかしダイナが友人を取り戻す戦いはこれからだ。

「せっかく帰ってきてくれたのに、ごめんなさい」

「ううん。おれも随分、姉さんを待たせちゃったから」

 先程のハートの女王とのやりとりを見ていれば、これからダイナがとる行動など明白だ。

「私は行かなければ。レジーナを止めに」

「うん、友人のためなら仕方ないよな」

 いつかしたように、小指同士を絡めて約束する。


「行ってらっしゃい、姉さん。俺はずっと待っているから」

「行ってきます、アリスト。必ず帰って来るわ」


 ――そして、姉弟は再び別れる。

 己の道を行くために。


 振り返ったダイナは集まってきた白の王国の者たちに告げる。

「影の国に、ハートの女王を止めに行きます」

「止める、な。殺すではなくてか」

「殺すことはできません。彼女は、私の友人ですから。……友人である私が、レジーナを止めなくてはならない」

 白の王国は当然、睡蓮教団を完全に潰すことが目的なのでダイナに同行し彼女を手伝う。あるいは彼らの目的に、ダイナが協力すると言うべきかもしれない。

「ダイナ先生……」

 ギネカが呼びかける。彼女はヴェルムと一緒に教団の犯罪の証拠を集めてきた。

「俺も行きます。教団を潰すのは俺の悲願ですから」

「エールーカ探偵」

「いくら俺が魔導士でないからって、一番肝心な部分を人任せで終わりにはできません」

 教団は教祖であるレジーナを止めない限り何度でも復活する。それだけの求心力をすでに彼女は持っているのだ。

 不死なるハートの女王。彼女はそうして生き続ける限り、教団を必要とする。

「ならば私も行きましょう」

「怪盗ジャック……」

「探偵殿と同じ理由ですよ。私は、これまで彼らを滅ぼすために生きてきたのですから」

「いいのか? ネイヴ=ヴァリエート」

「ええ、とうぜ……んえ?!」

 いきなり本名で呼ばれて、怪盗ジャックの澄ました仮面が一気に剥がれ落ちる。

「……バレてる?」

「俺を侮りすぎだ。お前の正体なんて、とっくにわかっていたに決まっているだろう。極めつけはギネカとの交友関係だ」

 証拠らしい証拠こそ怪盗ジャックは残さなかったが、ヴェルムはとっくに怪盗ジャックらしき人物に当たりをつけていたのだと言う。

「でも、それならどうして俺を捕まえなかったんだ……」

「……さぁな。それより今は、教団のことだ」

「そうだね。ではその理由を是非とも探偵殿からお聞きするためにも、早くこの戦いを終わらせなくちゃな」

 帝都を騒がせる怪盗と、それを追う探偵。余人の知らないところで、この二人にもあるいは顔を知っている知人同士以上に、お互いの本質を理解するような場面が何度もあったのだ。

「ギネカ、お前は……」

「言われなくても、ついていったりしないわよ。私じゃ足手まといだもの」

 ギネカは魔導の才こそヴェルムよりはあるが、それだけだ。

 確かに料理女としてネイヴに協力し続けたが、その目標はこの世界で教団の被害者をなくすという現状でほぼ達成された。異世界までハートの女王を追撃するような気力も余力もない。

 一方、もう一組の怪盗と相棒の答は、怪盗ジャックと料理女とは異なる。

「ムース、お前は来てくれるか?」

「ええ。ザーイ。今度こそ、どこまでもついて行くわ」

 外部での支援から合流したムースに、ザーイエッツが問いかけて二人は同行を決めた。

 離れていた時間の長かった二人は、もうその手を離すことはないのだろう。

 眠り鼠ことムースは、怪人マッドハッターであるザーイエッツについていくことにしたのだ。

 ザーイエッツは今回の一件で、無事に盗まれた時間を取り戻したのだが……。

「正直俺、あんまりザーイが変わったように見えない」

「私も」

 げに恐ろしきは美形の遺伝子よ。十七歳の姿の時より若干体格が良くなった気がしないでもないが、ザーイエッツは盗まれた時間を取り戻してもアリストやシャトン程の劇的な変化はなく、ほとんど十七歳の頃と変わらなかった。

 ――恐らくフートがあのまま年齢を重ねたら、少し大人びてこうなっただろう姿だ。

 でもそのフートはもういない。弟のためにも、ザーイエッツはハートの女王と直接決着をつけるつもりだ。

「あとはいないのか?」

「って、ヴァイス、お前も?!」

「当たり前だろう。私がここで行かぬはずがない」

「ルイツァーリ先生……けれど、あなたまで学院からいなくなってしまったら……」

「私がいなくても、もうこいつらはなんとかなるだろう」

 ヴァイスは一度だけポンとアリストの頭を軽く叩くように撫でて、ダイナの隣へと立つ。

「元々は十年前、私が奴らを取り逃がしたことから始まった」

「ヴァイス、それはお前のせいじゃ」

「と、言うとでも思ったか?」

「?!」

「自分がこの手で引き起こした訳でもないことの責任を押し付けられたり、解決を求められるのはもういい加減うんざりだ。黒い星の持ち主を頼るばかりの他力本願な教団は、いい加減にここで潰す」

「……ヴァイス」

 最後まで格好良いヒーローのようなことは言えない男である。

「この世に私怨以上に強い感情があるものか。この私を怒らせたこと、せいぜい後悔するがいいさ」

「そういえばこいつ、面倒くささにかけては天下一品のストーカー野郎だった……」

「ヴァイス先生……」

 テラスやヴェイツェのことでずっと落ち込んでいるよりはいい……のか?

 生徒たちは半分呆れかえり、けれど心のどこかでその結論に安堵していた。


...166


「これだけの戦力がいれば、十分そうね」

「ああ……って、チェシャ猫、お前まで……」

 ダイナやヴァイス、探偵や怪盗たちとムースに続き、シャトンこと“チェシャ猫”までもがそう言いだした。

 小さな少女の姿に与えられた名、シャトン=フェーレース。しかしシャトンの事情を知らないダイナがいるここで、直接その名を呼んでしまうわけにはいかない。

 ここにいることでもう全てバレているかもしれないが。それはアリストも同じだ。

 シャトンの姿から時間を取り戻したことで、彼女はアリスたちとは逆にコードネーム“チェシャ猫”へと戻ったのだ。

「私にはどうやら、色々な意味であの人に責任があるみたいだから」

 チェシャ猫の参戦表明に続いて、別の女も声を上げる。

「すぐに決着がつけばいいけれど、長期戦の可能性もあるでしょう。サポートは必要じゃないかしら」

「ジェナー……」

 名を呼んだヴェルムに対し、“公爵夫人”が微笑んだ。

 ジェナーはここまでヴェルムをサポートしてきた。そしてこれからも出来る限り彼を支えていく。

 助けられた恩があるからだけではなく、今ではもう、ジェナー自身がそうしたいと考えているからだ。

 直接戦闘力の低いヴェルムも、ジェナーやチェシャ猫と組めば出来ることは広がるはずだ。

 ここまで一緒に戦ってきた面々が、次々に参戦を決めていく。

「行って来るわ」

「……」

 チェシャ猫の決意に対し、アリストは何も言えなかった。

 ハートの女王の事情に関し、チェシャ猫はこれまで一切知らされていなかった。

 けれど自分が作り出した禁呪を利用されたこと、ハートの女王が苦痛から逃れる役には立ったかもしれないが、そのせいで本来傷つくはずではなかった人々まで傷つけてしまったことには変わりない。

 ダイナやヴァイス、ザーイエッツが戦いに赴く気持ちはわかる。だがチェシャ猫に関しては、盗まれた時間を解放したことで、もうそろそろ彼女自身も救われてもいいのではないかと考えていた。

 けれど、彼女自身はまだ戦う気でいる。

「ねぇ、アリスト」

 そんなチェシャ猫に、この世界に残るアリストに出来ることは限られている。

「待っていてくれる? 私のことも」

「……ああ」

 ただ、頷いた。

「ああ、もちろん。だって……」

 あまりにもささやかなチェシャ猫の願い。それはわざわざ望むようなことではなく、もはや彼女の当然の権利だ。

「お前はもう、俺たちの家族だろ?」

 姉であるダイナとは違うが、シャトンもまた、アリストにとっては家族だ。

 姉であり妹であり、半身でもあるような存在。

「ちゃんと待っててやるから、ちゃんと帰って来い――お前はハートの女王とは違うんだ。もう知ってるだろ? この世界に、お前の居場所はある」

 チェシャ猫は笑顔で頷く。

「……私、もう過去を取り戻したいなんて言わないわ」

 自分の知らないところで想像もつかないような罪を生み出していたことを知ってしまったけれど、それでももうチェシャ猫は過去に戻る禁呪が欲しいなどとは言わない。

 生きて、未来を変える。この先この世界で、睡蓮教団と自分の生み出した禁呪で悲しむ人が増えることのないように。

 それが、彼女の償いだ。

「こちらの世界の後のことは、バンダースナッチがいれば十分だろう」

 フォリーがテラスから教えられて上手く取り計らってくれるだろうと、ヴァイスは最後の確認をとる。

「それでは、お前たち」

「みんな」

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 そうして彼らは、異界への門へと飛び込んだ。


 白の王国とダイナが協力して開いた魔導の門が消えると、いきなり辺りがしんと静まり返った。

「……結局、残ったのは私たちだけね」

「そうだな」

 怪盗ジャックであるネイヴと別れ、自らこちらの世界に残る選択肢をしたギネカと、ダイナやシャトンの帰りを待つ約束をしたアリスト。

 あとはダイナもヴァイスも白の王国も、ヴェルムもネイヴもシャトンもジェナーも、ザーイエッツもムースもみんな行ってしまった。

「……戻って来るまで、どのくらいかかるのかしらね」

 具体的な時間は何も言っていなかった。

 けれどダイナの言葉の端々に、それが数日や数か月で簡単に戻って来れる戦いではない予感を覚えさせられた。

「わからない。でも、いいよ。俺も同じ条件で、みんなをずっと待たせたから」

 いつもとの姿に戻れるかなんて、全然わからなかった。

 ヴァイスの協力があったとはいえ、一人で対抗するには睡蓮教団はあまりにも強大過ぎる敵だ。

ザーイエッツにいたってはここまで来るのに十年かかっている。

 元の姿に戻れる保証なんてまったくないのに、それでもアリストはダイナや友人たちに、必ず帰ると伝えてずっと待たせていた。

 だから今度こそ、アリストが彼らを待つのだ。

 きっと帰ってくると信じて。

「一度学院に顔見せに行ったらどう? エラフィもレントも心配していたわよ」

「そうだな……」

 盗まれたものを取り戻す永い永い時の旅路を終えて、今、ようやく戻ってきた。

「帰ろう、俺たちの居場所へ」


 ◆◆◆◆◆


 影の国と呼ばれる異界。地上と鏡写しのもう一つの世界。

 かつて地上を追われた異端者や魔族たちが逃げ込んで発展させた場所だ。

 異世界とはいえここも結局は、魔族や人々が普通に暮らしている世界。

 地上との最も大きな違いは、誰も彼らを知らない異邦と言うだけだった。

「他人様の世界に乗り込んでドンパチしようとか、とんでもない無法者だよね、僕らって」

「今更それを言うか」

 ハートの女王は再び門が開く力を感じて上を見る。

 ダイナを始めとする白の王国の連中が、こぞってやってきた。

「早かったじゃないか。弟との感動の再会がそんな淡白でいいの?」

「いいのよ。アリストとの間で必要な話なら、私が帰ってからゆっくりすれば」

「帰れるつもりなんだ?」

「ええ、当然」


「僕を殺せると思っているの?」

「いいえ、私はあなたを止めるのよ」


 殺せるか殺せないかはそもそも問題ではないと、ダイナはレジーナに言う。

「敵に対してそんな甘いこと言っちゃって大丈夫? ダイナ、僕は君の生徒の一人を撃ったよ」

「!」

 あの時は結局、直接手を下した犯人のわからなかった事件の真相をようやく知り、ヴァイスが苦渋の表情になる。

「テラス=モンストルムを撃ったのは貴様か」

「そうだよ、白騎士。彼は一体何者? 結構な白い星の持ち主だったけれど」

「……姿なき情報屋、ジャバウォック」

「……なるほど、そういうことだったのか」

 それならば廃ビルで教団員を待ち伏せて返り討ちにした知略も頷けると、睡蓮教団の方でもようやくテラスの正体に納得が行った。

 ハートの女王は彼らの仇敵として、改めて向き合う。

「君たちにとって、僕は憎しみの的だろう。さぁ、殺し合おうか。どうせ僕が勝つけどね」

 それはハートの女王が強いからというよりは、単に死なないだけなのだ。

 陽気な口調に漂う諦観。

「悪いがそうはさせない。我々の存在を忘れてもらっては困る」

「……白の王国か」

 マレク警部たちが一歩前に進み出る。

「そっちも俺たちを忘れてもらっちゃ困るよ」

 白兎と赤騎士が剣を手にして早くも臨戦態勢となる。

「レジーナ、私はあなたに対して怒ってはいるけれど、憎んでなんかいないわよ」

「何故? 君の生徒を殺したってのに」

「言ったでしょう。例えハンプティ・ダンプティであっても、彼らは私にとって大切な生徒。そして――」

 ダイナはこれまで幾度も繰り返した言葉を今ひとたびレジーナに告げた。

「どんなことがあろうとも、あなたは私の友人よ」

 だからダイナ=レーヌは友人として、レジーナ=セールツェを止めに来たのだ。

「ねぇ、ダイナ。君、そんなに気負っていて疲れない?」

「それでも走り続けなければいけないの。進み続けなければ、元いる場所にすら留まれないのよ」

「君らしい言い方だ。弟が行方不明の時くらい、ゆっくり座って待てば良かったのに、結局僕のやることに気付いちゃうし」

「我ながら酷い姉よね。でも」

 弟の名を口に出すダイナは、焦燥でも罪悪感でもない、ただただ透明な笑みを浮かべる。

「アリストならわかってくれるわ。駄目なら大人しく怒られましょう」

「……そう、君には帰る場所があるんだもんね。でも、僕にはもうここしかない」

 家族は最初から、家族ではなかった。赤の王は娘を道具として利用していただけ。

 教団ももうない。

「なければ作ればいいのよ。そうやって居場所を作り上げた、影の国の住人達に笑われるわよ」

「まったく君は手厳しいよね、本当。……僕にだけは」

「ええ。だから、あなたが私の言うことをちゃんと聞くまでやめないわよ」

「横暴女教師め」

「赤の女王ですもの」

 『鏡の国のアリス』に登場する「赤の女王」は、アリス・リデルの家庭教師がモデルだと推測されているのだ。

 レジーナにとって懐かしい顔で笑うダイナが、戦いの始まりを告げる攻撃を炸裂させた――。


...167


 アリストとギネカは睡蓮教団の残党やそれを逮捕する警察に見つからないように、慎重に帝都へと戻る。

「それにしても、ギネカがバイクを運転できるとは……」

 帰り道は念のため山の麓に隠しておいたバイクに二人乗りだ。運転をしているのはギネカで、アリストは後ろに乗せてもらっていた。

「あら? 言ってなかったっけ? これでもジャックの相棒だったんだもの。脚の確保は重要よ」

 道の別れた幼馴染に対し一瞬覗かせた切なさを、ギネカはすぐに笑顔で覆い隠す。

「俺も免許取ろうかな」

 帝都の中心部に住んでいるので、交通で不便な思いをした覚えはない。だがこの数か月、様々な事件に巻き込まれて都のあちらこちらを行き来したことを考えると、何かしらの移動手段を持っておいても無駄ではないだろう。

「一人だと当分暇だろうし」

「……そうね」

 その後は、二人共無言で、ただ家路を辿る。

「おかえり、アリス……いいえ、アリストお兄さん」

「ただいま、フォリー」

 帝都でアリストたちを出迎えたのは、小さなフォリー一人だった。

 ダイナもヴァイスもヴェルムやジャックたちも、みんな影の国に行ってしまった。

睡蓮教団関係の後始末は、これからこの三人と、イスプラクトル警部のような他の知り合いたちとでしていくことになる。

 フォリーはテラスの遺産とも言える情報を伝えてアリストたちを手助けしてくれるのだが、あまり無理をさせる訳には行かない。

 ジャバウォックであるテラスがそうだったように、いくら大人顔負けの知識があったとしても彼らの肉体は通常の子どもだ。無茶はできない。無理はさせられない。

 フォリーは背徳神の魂の欠片を多く有している。

 だからこそ睡蓮教団に目をつけられないよう、テラスは自分が生きている間はずっと、彼女が目立たぬよう背後に隠していた。

 彼が死にフォリーはその遺志を継ぎ、アリストたちは二人の助力を得て睡蓮教団と対決した。

 彼らのように魂の欠片を持つ者たちが安心して暮らせるようになるためにも、教団の脅威は完全に取り除かねばならない。

「やることはいっぱいあるわね」

「ああ。ま、姉さんたちが帰ってくるまでには終わるだろう」

 今度のことで睡蓮教団は心の拠り所を失い、信者は離散して階級が上の方の者たちは警察に捕まるしかなくなった。

 教団がこれまで犯した罪のそれぞれが明らかになれば、もう誰も睡蓮教団を信じなくなるだろう……。

 本当に?

 黒い流れ星の神話と睡蓮教、どちらの方が古かっただろうか。

 人の欲望に終わりはない。

「それでも」

 今この瞬間、大事な人たちが戻ってくる世界を平和にするためだけにでも、アリストはこの世界で戦い続けて行かねばならない。


 ◆◆◆◆◆


 後始末の前に、アリストは少しだけ学院の友人たちの前に顔を見せることにした。

「エラフィ、レント」

「……アリスト?!」

「いつ帰ってきたんだよ?!」

「今だよ、今」

「「……お帰り!」」

 アリストは飛びついてきた友人二人を受け止める。

「って言うか、アリスト~~」

「わかってるよ、レント。泣くな、泣くな」

 アリストの顔を見るなりいきなり涙ぐみはじめたレントを慰める。

「お前がいない間、本当に色々なことがあったんだよ……」

「うん、そうなんだってな」

 アリスであった時には受け止めることのできなかった友人の不安を、電話やメールではなく、直接聞くことがようやくできた。

 ヴェイツェのこと、テラスのこと。

 そして表立っては言えないが、フートのこと。

 アリストとギネカはこうして無事に帰って来たが、フートの振りをしていたザーイエッツとムースの二人は、影の国での戦いが終わるまで当分この世界には戻ってこない。

 チェシャ猫ことシャトンもだ。

 ヴァイスとダイナも当分休職と言う形になる。

 彼らがいつ戻って来るかは、まったくわからない。

 詳しい事情を知らされていないレントたちにとってはテラスとヴェイツェの事件だけでも堪えたと言うのに、知人や友人が幾人も一度に消えてさぞかし混乱していることだろう。

 それでも学院を教団の手から守ってくれたのは彼らだと言う。

 本当のことは何も言えなかった。自分たちの戦いに巻き込みたくないと。

 けれど友人たちは、一番大事な時に自ら武器を手に取ることを選び、自分たちの居場所や大切な人たちを守ってくれた。

「いつか、全部話すよ」

「……!」

 心から信頼できる人になら、きっと伝えられるはずだ。

 レントとエラフィが驚いた顔になる。アリストがそんなことを言うとは思っていなかったという顔でもあり、アリストがこれらの出来事の詳細について何を知っているのかと訝る様子でもある。

 けれど二人は、その件で今すぐアリストを問い詰めるようなことはしなかった。

「ああ、待ってるよ」

 また一つ、彼らは約束を交わす。


 ◆◆◆◆◆


 高等部に寄ったその足で、アリストは小等部の子どもたちの前にも顔を出すことになった。仲介役にギネカとフォリーの二人も一緒だ。

 話をするのはいつかの学院内でほんのささやかな事件が起きた時に使われた中庭で、今の季節は薔薇ももう終わりかけだった。

 これまで同じ目線で話をしていた子どもたちが、十七歳の姿に戻って見ると随分と小さく幼い。

 そんな当然のことに新鮮な感動と寂しさを覚える。アリストの事情を知っていたギネカたちからは、自分もこんな風に見えていたのだろうか。

 一応は初めましてを装うようにし、けれどカナールの一言に凍りついた。

「……アリスちゃん?」

 小さな唇から零れる声が不安気に揺れている。

「アリストお兄さんはアリスちゃんでしょ? ……シャトンちゃんはどうしたの?」

 子どもの目は、時に大人よりも真実を見抜くのだ。


...168


「アリスちゃん」

 純粋無垢な目は誤魔化せない。

 ギネカでさえ驚いて凍り付いている。

 ローロやネスルは訳がわからないと言う顔で、カナールとアリストの二人をきょろきょろと見比べている。

 今では膝をついてカナールと目線を合わせているアリストは尋ねた。

「……わかっちゃった?」

「うん」

 思えば、最初に“アリス”を見つけたのは、このカナールなのだ。

 白兎に殺されかけて子どもの姿になり、帰ることもできずに街を彷徨っていた時に声をかけてくれた。

「どうしてアリスちゃんがアリストお兄さんなの? 何があったの……?」

「――長い、長い旅をしてきたんだ」

 少女ドロシーが家に帰る為にオズの魔法使いを訪ねるような、長い旅を。

「アリス」

 フォリーが囁きかける。アリストは頷いた。

 高等部の友人たちにとっては、アリストは元から存在していた人間だ。

 けれど、カナール、ローロ、ネスル、フォリー、そしてテラスとは、アリスの姿で初めて面識を持った。

 彼らの友人はアリスなのだ。

 ならばアリストは今、アリスト=レーヌでありアリス=アンファントリーとして決着をつけねばならない。

 高等部の友人たちにもしなかった話を、改めて彼らに説明する。

「マジかよ、そんなこと……」

「嘘じゃ……ないんですよね」

 ネスルやローロが恐る恐る口に出す。

「夢みたいな話だと思うだろ? でも、本当なんだ」

 信じてもらえなくても構わない。

 いっそ夢だと思ってもらった方が、彼らも傷つくことはないのかもしれない。

 だが。

「信じるよ」

 カナールが言う。

「今の笑い方、アリストお兄さん、アリスちゃんとそっくりだったよ」

 中身は十七歳のアリスはよく彼らの勢いに負けて、困ったように笑うことが多かった。

 その笑顔と、今の苦い微笑がそっくりだったと。


「おかえり、アリスちゃん」


「……ただいま」


 時間を奪われて子どもの姿に変えられていた期間はアリストからたくさんのものを奪い去ったが、それと同時に手に入れたものもある。


 足下にある銀の靴に気づき、ようやく帰って来たのだ。


「ただいま、みんな」


 ――そして彼らは待ち続ける。約束の果たされるその日を。




 「Pinky Promise」 了.



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