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Pinky Promise  作者: きちょう
第7章 黄金の午後に還る日まで
26/30

26.歩兵は白の女王へ

...151


 アリスたちは、白の王国と作戦会議をしていた屋敷にダイナを連れて行った。

 まだほとんど事情がわからないのに関係者一同と会わせるのは危険かもしれない。

 だが彼らは、危惧すると同時にダイナを信じていた。

 彼女には決して疾しいことはないと。そして彼女自身がこの事態の解決を願っていることを。

 ――レジーナ、あなたにどんな事情があろうと、私の大切な生徒に手を出した。あなたを見逃す訳にはいかないわ。

 ダイナの事情を、聞かねばならない。


 ◆◆◆◆◆


 面識のある者もない者も、多くの人間に周囲をぐるりと囲まれて、それでもダイナは普段とまったく顔色を変えなかった。

 いつも学院で生徒たちに授業をする時のように堂々としている。

 白の王国の主導者の一人である白の王ことマレク警部は、彼を刑事だとばかり思っていたダイナに正体を明かした後、一通り事情を説明した。

「……そういうことだったんですのね」

「ああ」

 身の上話をする程親しい間柄ではないが、相手が自分の認識していたものとは全く別の素性を隠していた以上はそれについても話さざるを得ない。

「今度はそちらの話を聞く番だ。――ダイナ=レーヌ。あなたにとって……ハートの女王は何だ?」

「友人です」

 ダイナはきっぱりと言い切った。

「もう皆さんもお察しでしょうが、レジーナ=セールツェ……私の友人である彼女こそが、あなた方が睡蓮教団の首領と呼ぶ“ハートの女王”です」

 シャトンも直接会ったことこそないが、ハートの女王の名は知っている。

 けれどそのコードネームを聞いて、何人かが怪訝な顔をした。

「“ハートの女王”がトップ? 教祖は“赤の王”ではないのか?」

 十年前、睡蓮教団を倒すために行動した際そのコードネームを知ったヴァイスが疑問を口にする。

「赤の王は、レジーナの父。……彼女は、自分の父親を殺してしまったそうよ。つい最近の話だわ」

「!」

 思いがけないその報告に、部屋の中の一同は息を呑んだ。

 彼らの知らないところで教団は権力争いでもしていたのか、倒すべき相手のトップがいつの間にか入れ替わっていたのである。

「……どうして?」

 アリスは理由を尋ねる。

 何故ハートの女王は、自らの父親を殺すような真似をしたのか。

 アリスだけでなく、両親を殺された復讐のために動いていた怪盗ジャックことネイヴやギネカも、ダイナの返答に注目する。

「仲が悪かったから」

「でも」

 端的なその言葉だけでは納得できないと食い下がるアリスに、ダイナはただ悲しそうな表情を向ける。

「レジーナ自身も背徳神の魂の欠片の持ち主よ。背徳神の復活を願うその父親は、レジーナを使って色々とやっていたそうなの。詳しいことは私にもわからないけれど、彼女は昔から、従順に従う振りで父親を酷く嫌っていたわ」

 仲が悪かったとダイナは先に言ったが、もしかしたら父親である赤の王自身は、娘のそんな気持ちに気づいていなかったのかもしれない。

「私とレジーナは、学生時代からの友人なの。そして私自身も、背徳神の魂の欠片の持ち主。だからお互いが、人と比べて異質な存在であることにすぐに気づいたわ」

「異質……」

 ダイナはどこにでもいる普通の女性だ。

 少なくとも彼らはそう思っていた。

 けれどここにいる者たちは皆が皆、多かれ少なかれ自身をそう思いながら、怪盗として活動したり、犯罪的宗教団体を追いかけたりと無茶をしている。

 “普通”とは一体何? “異質”とは一体何?

 本当はみんな普通で異質で……本当はどこにもそんなものないのかもしれない。

「私は両親が普通の人間だったからまだともかく、レジーナには昔からその父親しかいなかった。彼女は父に反発しながらも追従し、父の野望を手伝う傍ら、自らの野心もまた育てていた」

 それが睡蓮教団内で部下を得てやがては教団自体の実権を握ることだとは、ダイナもつい最近まで知らなかったと言う。

「ダイナ、私たちが知りたいのは、君と“不思議の国”、そして睡蓮教団との関わりだ」

 十年前から教団に人生を翻弄されてきたヴァイスとしては、彼女と教団の繋がりを否定したくてたまらないらしい。

 冷静に考えれば十年前はダイナもまだ十五歳だ。いくらなんでも中学生が怪しい宗教団体と繋がりを持っている訳はない。

 だがたった二歳しか変わらないヴァイスは、すでに教団と戦争をしていた。

 どこにどんな真実が転がっているのか……もう、わからない。

「君は“ハートの女王”に“赤の女王”と呼ばれていたな」

「ええ。私のコードネームは“赤の女王”」

「コードネーム……」

 それこそが“不思議の国の住人”との関連を示す最大の符丁。

 けれど“赤の女王”というコードネームをこれまで誰も聞いたことがないと言う。

 最近この問題に巻き込まれたアリスや、教団のことを外から探るだけだった怪盗とその相棒たちだけでなく。

 十年以上前から教団と戦っていたヴァイスや白の王国の人間たちも、元々教団に所属していたシャトンやジェナーさえ聞き覚えのない謎のコードネームだ。

「“赤の女王”とは何だ? 私たちはそんな名を聞いたことはない」

「当然です」

 彼らの疑問は尤もだと頷き、ダイナはどこか過去を懐かしむ表情で告げる。

「“赤の女王”に関して知っているのは私自身と、レジーナだけ。このコードネームは、元々私とレジーナの間だけで通じるお遊びだったんだもの」

 一同は怪訝な顔になる。

「お遊びって、どういうこと? 元々はって……ダイナ先生とその、ハートの女王レジーナさんとは、どう教団に関わっているの?」

 彼らが一番知りたいのは、その部分。

 ダイナとレジーナが友人同士だと言うことは、アリスたちも理解した。アリスにだって実は怪盗だったりその相棒だったり殺人鬼だったりした友人がいたのだ。知人が裏の顔を持っているという話自体は珍しくもない。

 問題は、ダイナが友人であるレジーナを介して睡蓮教団とどれだけ関わっているのかだ。

「……不思議の国のコードネームについて、構想をしたのは私なの」

「!」

「最初は文字通り、ただの遊びだったのよ。父親を嫌っているレジーナはいつも不安定で、私以外に友人はいなかった。私自身も他の人間と深く付き合って来なかったから、世界は二人だけで、それでも良かった」

 どこか寂しい言い方をする、とアリスは思った。

 ダイナに友人が少ない? ……言われてみれば、そうなのかもしれない。今初めてアリスはそのことを思った。そう言えば最近になってレジーナと顔を合わせ始めたこと以外に、ダイナがアリスたちの前で自身の旧友の話をしたことはないのだ。

 アリスは自分が思っていたよりダイナのことを知らなかったことに気づく。今更気づかされる。五年も二人きりの姉弟として生きて来たのに。

「どうせ他人の入って来れない関係なら、いっそ徹底的にやりましょう、と。私はレジーナと二人の間だけで通じる符丁を作った。そしてそこに、自分たち以外の人間も含める箱庭の構想をしたの」

「その箱庭とは……」

「“赤の王国”……別名を“不思議の国”」

 どんな狂気も異質も存在を許される、おかしくてけれど平和な世界。小さな少女のナンセンスな冒険物語。

「いつか私やレジーナのように背徳神の魂の欠片を持つ者たちが集って、私を、彼女を理解してくれるように。仲間が増えたら『不思議の国のアリス』になぞらえて名前をつけてあげましょう、と」

 レジーナは彼女の名前自体に「心臓」と「女王」の意味があることから、不思議の国の“ハートの女王”になった。

 ダイナは元々原作の中に「ダイナ」と言う名前の猫が出て来るので紛らわしい。けれど始めにこの物語を構想した人間なのだから女王様の一人だと、鏡の国の“赤の女王”になった。

 二人の少女はお互いのコードネームを考えて付け合った。いつかこの「ごっこ遊び」に参加してくれる仲間が増えることを願って。

 けれど。

「彼女はその“ごっこ遊び”を現実にしてしまった。いえ、彼女の父親に奪われたのかもしれない」

 ダイナとレジーナ、二人の間だけで通じる幸福な箱庭は現実の睡蓮教団という形を伴って実現してしまった。

 彼女の父の野望、背徳神の復活のためならどんな罪をも犯す、犯罪的宗教団体として。


...152


「じゃあダイナ先生は、ずっとそのことを知らなかったの?」

「ええ。あなたたちは普通に生活していて、睡蓮教団のコードネームの話なんて聞く?」

 元々普通でないところのある神の眷属たちはともかく、学生陣は顔を見合わせた。

「聞かないです」

「……俺たちが睡蓮教団のコードネームを知るようになったのは、彼らの起こした犯罪に巻き込まれたからだ」

 ネイヴが静かに頷く。

「そうでしょう……私も知らなかったわ。ハンプティ・ダンプティ――アヴァール君の一件があるまでは」

 ヴェイツェとテラスの死を発端に教団に関して調べ始め、ダイナは今の教祖がレジーナ関係であることに気づいたと言う。

 彼女の父親の野心とその事情を知っていれば、薄々察しはつくことだ。

 ここ数か月、ヴァイスとアリスの周囲では様々な教団関係の事件が巻き起こっている。

 隣人であるダイナも無関係ではいられない。いられなかったのだ。

「私たちが巻き込んでしまったか」

「いいえ。違います、ルイツァーリ先生。ここからは、私自身の問題です」

 ダイナは箱庭を作り、レジーナに与えた。けれどその後ダイナ側が両親の再婚の関係で引っ越して、レジーナと顔を合わせることが少なくなっていった。

 その間、彼女は一体どうしていたのだろう。

「もしもこれがレジーナの引き起こしたことならば、私が傍にいれば、止められたかもしれないのに」

「いいえ」

 しかしダイナの悔恨に対しては、シャトンが否定した。

「結局、最後の選択はみんな自分の意志で行うの。寂しいから罪を犯すなんてのは、免罪にならないわ」

「シャトン……」

 アリスは気遣わしげに、この事件の始まりからずっと共に歩んできた少女の横顔を見つめる。

 幼い頃に両親を失い、過去を取り戻したくて時を盗む禁呪を開発したシャトン。

 けれど彼女はその罪を、その罪を生み出した自らの弱さをもう認める。

 感情は止められない。けれど、それが誰かを傷つけるような事態に繋がるのなら、間違った行動はどこかで止めねばならない。

「……そうね」

 ダイナも頷いた。

 これから先の未来へ現実を戻すためには、ここで「物語」という横道に逸れてしまった過去と今を繋がねばならない。

 夢は醒めるものだ。

 そうでなければ、現実での救いは得られない。

 ハンプティ・ダンプティはそう言っていた。

 その言葉に背を押され、ダイナの過去を、アリスは――アリスト=レーヌはここで初めて聞く。

「レジーナさんの事情はわかった。じゃあ、ダイナ姉さんの事情は?」

 夢から醒めるために、全ての真実に向き合う時が来たのだ。

「背徳神の魂の欠片を持って生まれて来るのは、何もあなたたちだけじゃない。でも多くの人たちは、少しだけ特別な力を得ても自分がそんな風に異質だなんて気づかない」

 ヴァイスもシャトンもヴェイツェもザーイエッツも、切欠がなければ自らの中の背徳神の魂の欠片に人生を左右されることなどなかっただろう。

 同じように欠片を有してはいても、何の特質も得ず睡蓮教団に目をつけられることなく、平穏無事に生きて人生を終える人間はいくらでもいるだろう。

 だがダイナはそうでなかったと言う。

 ならば、彼女自身が自覚する程に、彼女を異質たらしめているものとは何だ。

「あなたの何が人と違うの?」

「私は……」


「人の感情がわかるのよ」


「感情……?」

「心を読めるってことですか?」

 まさかの言葉に、より詳細が知りたいとギネカが食いつく。ギネカ自身も、接触感応能力と言う、自らが触れた相手の記憶を読む力を持っているのだ。

「それに近いわ。でもそんなに正確なものでもないの。相手の気分が良いか悪いか、喜怒哀楽に始まる感情の質をなんとなく読み取れるのよ」

 アリスたち、ダイナの親しい者たちはハッとする。

『嬉しそうね』『落ち込んでいるみたいね。何かあったの?』『そんなに怒らないで。落ち着いて』

 人の気持ちをすっと、読み取るところがあるダイナ。

 あれはただ彼女が人の感情に敏い人間と言うのではなく、そういう能力だったのか。

 なんとなく人の心がわかる。

 言ってしまえばそれだけの能力。だがその中途半端さが良かった。内心を正確に言い当ててしまえばさすがに気味悪がられるし、他者の感情に引きずられる。けれどダイナの力は、人よりほんの少しだけ敏感に相手の感情を察することができるだけ。

 怒っている者の「今は話しかけないで」も、悲しんでいる者の「慰めて欲しい」も察して、相手の望む通り的確に接することができる。

 人付き合いが上手くなる訳である。そして他者から信用され頼られれば、自然と愛想も良くなってますます人に好かれていく。

「学内では変人講師と有名なヴァイス先生とも平然と付き合える訳ですね……」

「おい、待てマギラス」

 ギネカが思わず漏らした本音に、ヴァイスが不服を唱えた。

 だがギネカには他人事ではない。

 ギネカはまさしくその点でこれまで苦労してきた人間だからだ。全てを接触感応能力のせいにする訳ではないが、ギネカはダイナと違って人の感情ではなく記憶を読み取る。

 その事情を正確に把握しすぎてしまうために、逆に具体的な対策を出さずただ愚痴に付き合ったり慰めたりという役割は苦手なのだ。

 今はアリストやエラフィたちのような友人と付き合っているが、それまではやはり辰砂の魂の欠片を持つが故に敏すぎる子どもだったネイヴとばかり一緒にいた。

 そしてダイナは、人が大なり小なり味わうそんな悩みとは無縁だった。

「私はこの力で、随分得をしてきたわ」

 相手の感情をなんとなく感じ取れるため、ダイナはいつも相手の望む通りのことをしてきたと言う。

「でもね……そのうち、私自身にも本当の自分の姿がわからなくなってしまったの」

 一同は再びハッとする。

「私が相手に返す言葉は、相手が望むもの。だとすればそれに、私自身の感情や意志はないわ。私はただ鏡のように、相手の望みをそのまま映しているだけ」

 面倒な人間関係で成り立つこの世界でほんの少し生き易くなるためだけに、人に望まれる自分という偶像を打算で演じてきた役者に過ぎない。

「本当の自分なんて、どこにもいない……私は本当は……」

 淡々とした抑揚に反し、それは彼女にとっても、それを聞く者にとっても、あまりにも悲痛な告白だった。


「誰も、愛してなんかいないのかもしれない」


 あまりにも望まれる自分を演じすぎて、もうそれが本心なのか、自分が本当にその相手の望みを叶えたいと思っているのか、わからなくなってしまった……。

「……」

 思わず静まり返る部屋の中、特に付き合いの深い知人たちと隣人に、ダイナは眉を下げ困ったような笑みを向ける。

「幻滅した? でも、これが本心よ。私には、人を愛するということがどういうことかわからないの」

 自分の今の気持ちはただ相手を映すだけの鏡なのか、それとも心から相手のためを思っているのか、区別ができない。

 区別ができる程に激しい情動が、ダイナ自身の中にないのだ。

「誰も愛してないって……じゃあ家族は? 亡くなった御両親や、アリストのことは――」

「マギラス!」

 再び口を開いたギネカに、ヴァイスは今度は別の意味で制止をとばす。

 だがダイナはそれに関しても誤魔化さなかった。

「……わからないわ」

「ダイナ」

「ヴァイス、最後まで聞こう」

 そしてアリスも逃げなかった。ダイナにこのことを聞いたのはアリス――アリスト=レーヌ自身なのだ。

「私は、弟のアリストを本当に愛しているのか、わからないの」


...153


 室内は凍りつき声もない。

 ダイナには表面上の説明しかしていない。

 けれどこの場にいる、彼女以外の全員が、もはやアリスの正体を知っている。

 アリス=アンファントリーこそアリスト=レーヌなのだと言うことを。

 そのアリストに対し、姉であるダイナは愛しているかどうかわからないと言った。

「嘘でしょう……ダイナ先生……」

 ムースが震える声を上げる。

「だって、アリスト君と先生は、あんなに仲の良い姉弟だってずっと……」

「ムース」

 ザーイエッツがそっとムースの髪を撫でて下がらせる。

「アリストだけじゃないわ……あなたたちのことも、他の生徒たちのことも……私は、本当の意味で愛しているかどうかわからない――」

 少なからず衝撃を受ける面々を余所に、一歩前へと踏み出したのはアリスだった。

「本当の意味って何?」

「アリス」

 シャトンが呼びかける。彼女はアリストのことも知っているが、この姿の「アリス」の方こそ馴染みが深い。

 ギネカやムースは思わずアリストと本名で呼びかけてしまわないようにするので精一杯だ。

 アリスは更に一歩踏み出して、ダイナと真っ直ぐに対峙する。

「ダイナ=レーヌ」

 姉さんとも先生ともつけず、一人の人間としてのダイナに向き合う。

 まだアリストとして、彼女の弟としての姿を取り戻していないことも好都合だ。

 否――。

 アリスがこの姿になったのは、この日、この時のためだったのかもしれない。

「心配しなくても、あなたはもう、本当の愛情を知ってるよ。あなたが俺に、みんなに、今まで与えてくれたものは、何一つ嘘なんかじゃない」

「アリス君」

 姿こそ違うが今、心から笑えていると言える。

「誰かの望む自分を演じるのは、その人に嫌われたくないから、愛してほしいからだろ?」

 答をもう知っているから。

「愛していないなら、自分を偽ってまで傍にいようとなんてしない」

 ヴァイスが、シャトンが。

 ギネカが、ネイヴが、ムースが、ザーイエッツが目を瞠る。

 彼らはアリスが……アリスト=レーヌがアリスと名を偽り、姿を変えられてまでここにずっといたことを知っている。

 そして怪盗とその相棒たちは、自分自身も親しい友人たちに秘密を持ちながら、それでもずっと傍にいた。

 ジャバウォックの正体であったテラスも。

 ハンプティ・ダンプティのヴェイツェも。

 今はいないもう一人の帽子屋ことフートも。

 本当は自分をよく知る友人の傍よりも、誰も自分のことを知らない場所に逃げた方が、正体がバレる心配などしなくて済んだのだ。

 けれどそうしなかった。

 自分を偽ってでも、例え真実を告げられる日が永遠に来なくても。

 ただ、大好きな人の傍にいたかった。

 一方的に子どもの姿にされた被害者でありながら、その運命に立ち向かい素性を偽ってでも皆の傍にいた、アリスだから言える言葉だ。

「アリス……」

「お前……」

 真実を話してしまう方が楽だ。それはできなかった。それなのに傍にいた。どうしようもなく。

「本心から愛することと、努力して愛そうとすることに、どんな違いがあると言うの?」

「……」

「誰かへ助言をする時に、相手の求める答を与えるために必死でその人のことを考えて言葉を紡ぐ。それは、その誰かを本当に愛する人が、その人のためを思って口にする言葉と、何も違いなんてない」

 心の中で違うと区別していても、自らのとる行動は同じ。

 そして人は、心のままに動くことが常に正しいとも限らない。

 怒りを堪えるべき場面や、悲しくても立ちあがらなければならない場面がある。感情のままに動くだけでは決して正しい道には進めない。

「ハートの女王に向けて言ってたじゃないか」


 ――ハンプティ・ダンプティは殺人者だよ? それなのに君は、彼を庇うのかい?

 ――それでも彼は、私にとって大切な生徒であることに変わりはないわ。

 ――レジーナ、あなたにどんな事情があろうと、私の大切な生徒に手を出した。あなたを見逃す訳にはいかないわ。


「本当に誰も愛していないなら、死んだヴェイツェやテラスのために、友人であるハートの女王を止めようとなんてしないよ」

 死者はダイナに何も与えてくれないのだから、今生きている者の機嫌をとればいい。

 けれどダイナは、友人であるレジーナがこれ以上人を傷つけるのを見過ごせないと、彼女を止めることを選んだ。

 それはダイナにとって大切な生徒たちへの愛情であり、レジーナにこれ以上誰かの悲しみを作り出して欲しくないという友情だ。

「あなたは自分で考えて、自分で望んでこの道を選んだんだ。相手に都合のいい答を返すだけの鏡なんかじゃない。俺たちはあなた自身を知っている。あなたの愛は、ちゃんとここにある」

「……!」

 ダイナが目を瞠った。

 人は鏡を使わなければ、自分で自分の顔さえも見えない。

 けれどここにいるアリスには、ちゃんとダイナの顔が見えている。

 求める程に遠ざかる鏡の国よ。

 子どものアリスの姿しか映してくれない残酷な現実よ。

 それでも、真実はここにある。

「何もせずそこに生まれる無償の愛なんかじゃなくていいんだ。人は努力して愛を育んでいく。ダイナとアリストが、努力して家族に、本物の姉弟になることを選んだように」

 彼女に真っ直ぐ向き合えば、誰だって彼女の持つ愛情に気づける。

「だから……いいんだよ。姉さん」

「……アリス君」

「アリストだってきっとわかってる」

 ダイナがアリストの帰りを待たずに行動に出たのは、アリストを信じていたからだ。

 常に甘やかしていなければ愛情を返さないような弟ではないと、アリストならばダイナの帰りも待っていてくれるだろうと信じたから。

「……そうですよね」

 ムースが納得したようにうなずく。

「ダイナ先生が本当に都合のいい相手だけを求めているなら、ちょっと親切にしただけでストーカー紛いの重すぎる好意を向けてくるヴァイス先生といまだに普通に付き合える訳ありませんよね」

「お前らさっきから私をオチに使うのはやめろ」

 ギネカといいムースといい、本日の女性陣はやたらとヴァイスに厳しい。

 生意気な生徒たちを押しのけて、ヴァイスはダイナの前に進み出る。

「ダイナ、君の考えていたことはわかった。だがな、侮らないでもらいたい。我々だって、君が自分たちに向けている感情がどのようなものかくらいわかっている。本物ではない感情にこれだけの人間が動かされるはずないだろう」

「ルイツァーリ先生……」

「気負い過ぎなんだ、君は。自分がいつもなんとかしないとと考えすぎていて、自分なら周囲を欺けると自信も持っている。確かにそれは真実だろう。けれど、本当の君を見ている者たちもちゃんとここにいる」

 秘密を明かしたダイナこそがまるで初めてヴァイスと出会ったかのような顔をし、ヴァイスの方は、あくまでもずっと昔から知っていて変わらない相手に向ける表情を浮かべていた。

「少なくとも私は、ずっと君自身を見てきたつもりだ」

「……っ」

 なにをやらせても卒なくこなす才女、誰に対しても人当たりの良い理想的な教師。

 その一方で、どこか危ういところのあるダイナ=レーヌを。

 この中でアリスの次に、いや、アリスと同じくらいダイナを見てきたヴァイスの言葉に、さすがのダイナも動揺したようだ。

 ……ちなみに背後でギネカやムースやシャトンも動揺しまくっているのだが二人の目には入っていない。そして二人の間に割り込もうとするアリスをネイヴとザーイエッツがまぁまぁと宥めているのも目に入っていない。

「我々と手を組もう、ダイナ」

 そしてヴァイスは、改めて協力を持ちかける。

「私たちには君の力が必要だ。そして君の目的のために、私たちも力を貸す」

「……はい」

 ダイナが小さく、けれど確かに頷く。

 ずっと誰も愛せないから、一人で物事を成さなければと思っていた。

 けれど今なら、その申し出も信じられる。

「ありがとう……ルイツァーリ先生」

 最後の役者がここに揃った。


...154


 白の王国とダイナの間で、改めて打倒教団のための作戦会議が始まった。

「我々が今調べなければならないのは、睡蓮教団の本拠地だ」

「それならばわかります」

「え?」

 ダイナの言葉に、一同は彼女に注目する。

「でもあなたは、先程までハートの女王の居場所を調べるために教団の関係者を当たっていたのではないか?」

「ええ。私がわざと派手に動き回ったのは、私の存在をレジーナに知らせて彼女自身を出て来させるため」

 “不思議の国”の考案者であるダイナの存在を知れば、ハートの女王自身が動くしかないと言う。

 魔導士であるダイナの戦闘能力は高く、チェシャ猫やティードルディー、ティードルダムのコンビがいない今、同じように高位の魔導士であるハートの女王にしかダイナは止められない。

「先程のやりとりの間に、彼女に目印をつけました。その反応を辿って行けば、教団の根拠地に辿り着くはずです」

「あの時の攻撃……」

「そうよ、シャトンさんも魔導が得意だったわね」

「え、ええ」

 禁呪の開発をしていたチェシャ猫ことシャトンだ。魔導の仕掛けにはすぐに気づく。

「でもダイナ先生、あの時の技は――」

「……いいのよ。多分、これで最後だから。私は呪詛の専門家なの」

 ハンプティ・ダンプティの殺害方法の仕組みを見抜いてアリスたちに教えたのもダイナだった。

 今のやりとりはチェシャ猫以外の者には意味がわからなかったが、つまり――ダイナはヴェイツェと同じ方法を使ったのだ。

 自らの魂を削り取り、呪詛として相手に仕掛ける。ダイナ自身に負担がかかり寿命が縮むが、それが一番確実な方法だと。

 そして仕掛けられたハートの女王も、その意味を知っている。

 例え発信機代わりの呪詛に気付かずとも、ダイナの性格を知る以上、ハートの女王はこの後のダイナの行動を予測しているだろう。

「レジーナも私が来ることはわかっているはず。向こうは向こうで戦闘態勢を整えて待っていることでしょう」

「奇襲は通じない訳か」

「ええ。闇討ちも不意討ちも通じません。真っ向勝負よ」

「ハートの女王はそんなに強いのか?」

「それ程でも。私と同じくらいですね」

「そりゃ強い……」

 ヴァイスが頭を抱えた。

 魔導の第一人者であり、世界の中心たる象牙の塔ジグラード学院で魔導を教えているヴァイスにも勝てない相手がいる。それこそがダイナだ。

 けれどそのダイナがここにいると言うことは、レジーナ=セールツェことハートの女王に関しては彼女が抑えられると言うことでもある。

「こちらの狙いは読まれていると思う?」

 シャトンが問う。

 白の王国の作戦の要は、彼らから神への信仰を奪うためにその復活計画の阻止――アリスたちが“盗まれた時間”を無事に取り戻すことだ。

 その狙いに気づかれて、盗んだ時間の「置き場所」に戦力を集中されては敵わない。

 アリスに関する事情はまだダイナには話していないが、教団の信仰を奪う方法として彼らが長年魔導を使って収集しているものの破壊を目論んでいることを伝え、意見を乞うた。

「レジーナはあまり博打をしないのよ。彼女が行うのはいつも結果が見えている勝負。だから恐らく、要所の全てに広く薄く兵を配置しているはず」

「……戦術としてはあまり有効とは言えないな」

 ヴァイスが眉間に皺を寄せる。

 睡蓮教団のトップであるハートの女王。

 教団の頭は、もっと強く賢く恐ろしい相手だと思っていた。

 だが友人であるダイナの唇から語られると、ハートの女王と言えど一人の人間でしかないことがわかる。

 それと同時に、どこか読みきれない不気味さも残る。

 ダイナによって予想されるハートの女王の采配は、どこか自身にとっても破滅的なのだ。

 まるでこれが負けても良い勝負であるかのような。

 実際にはここで盗まれた時間を取り返されたら、もう彼女の代で神を復活させるのは現実どころか理論上ですら不可能になる計算だ。

 ……とはいえこれはあくまでも推測。

 ダイナの読みが外れることも考えて行動しなければならない。

「あの子は私が止めます。レジーナ=セールツェは私の友人。そして私は“赤の女王”として、“ハートの女王”に打ち克ちます」

「……頼んだ」

 ダイナの実力をよく知るヴァイスが白の王国の面々に目配せし、計画の行方を握る最も危険な相手との戦闘を任せることにした。

「我々は教団の全体的な動きを抑えよう。作戦の中核はお前たちに任せる」

「マレク警部」

 主戦力はダイナを始めとしたアリスたちの一派に任せ、白の王国はどちらかと言えばサポート的な動きに努めると言う。

「何、いざとなれば警察も動かせるしな。何せ現場には――」

 マレク警部がネイヴの方を見てにやりと笑う。

「怪盗ジャックがいるんだからな」

「はいはい。せいぜい暴れて、奴らの目を惹きつけてやりますよ」

 怪盗ジャックは陽動として白の王国メンバーと共に教団を引っ掻き回す役割を負っている。

 ネイヴの目的は教団への復讐だ。個人として憎む仇がいないからこそ、教団全体の動きを抑えるのは願ってもないことだ。

「悪いが俺は、自分の“時間”を取り戻すためにアリスたちと組ませてもらう」

「なら私と役目を交換しよう。私も教団には顔が割れているからな」

 白の騎士として教団から目の仇にされているヴァイスの動向は一番に注目されるはず。

 今回ヴァイスは怪盗ジャックと一緒に陽動に回り、教団から見て白の王国との協力関係が不透明な怪人マッドハッターことザーイエッツが、アリスとシャトンの護衛に回る。

「今回はかなりいつものチーム分けと別れるわね」

「でも知り合いが多いから即席コンビでもあまり無茶な気はしないな」

 良いこと……と、言っていいのだろうか?

「ムースは?」

「ザーイたちを後方で支援します。私は皆さんのように個人での戦闘能力は高くないので」

 ムースも多少の魔導を使えるし学院では優秀な生徒の一人なのだが、フートやアリスト、ギネカのように超優秀と言われる生徒たちには一歩劣る。

 よく比べられるギネカのように、銃を持った強盗犯と直接戦える程の護身能力はないのだ。

 その代わりムースは外部から情報支援を行うことには長けている。フートが怪人マッドハッターとして活動していた頃、警察の配置や逃走経路などを素早く把握して知らせていたのがムースの役割であった。

「ギネカは?」

「ヴェルムと一緒に行動しようと思うの」

「……!」

 ネイヴが何故か動揺している。

「帝都の切り札さんは、教団の犯罪を明るみに出すって言ってたでしょ。私も同じ気持ちよ。ネイヴの両親やテラス君、ヴェイツェを殺した教団の罪を全部、さらけ出してやりたい。だから彼を手伝うわ」

「ギネカ……」

「尤も、ヴェルムの気持ち次第だけどね。私もネイヴの仕事を手伝って、怪盗の片棒を担いでいたんだもの」

 けれどギネカはアリスたちの方にも早い段階で協力していて、ヴェルムとの接触も多かった。お互いにどんな人間かは、もうわかっているはず。

 だからこそギネカは自分の正体と能力を、覚悟の上でアリスたちに明かしたのだ。

「私の接触感応能力は、こういった場面では役に立つはずよ。それにヴェルムよりは戦えるでしょうしね」

「あいつもそれ程弱くはないはずなんだが……。まぁ、マギラスがついていてくれるのなら私の懸案は一つ減るな」

「強すぎるよギネカ……」

 遺跡を占拠した銀行強盗にも、爆弾を仕掛けた誘拐犯にも怯まない。それがギネカ=マギラス。怪盗ジャックの相棒まで務めた、コードネーム“料理女”である。

 これでこの場にいる人間の大体の配置は決まった。あとはヴェルムやジェナー、フォリーと言った協力者にも伝達し、細部を詰めることとなる。

 ダイナがハートの女王の動きから察知した教団の本拠地の場所から、とある仕掛けも済ませておきたい。

 それらの準備の時間を考慮して、作戦は二日後と決まった。

「これが、恐らく最後の戦いとなるだろう」

 ヴァイスの時のように教団を不完全な形で残しておくことはしない。

 この十年の間に増えた被害者であり協力者たちが、今度は確実に教団を潰す。

「アリス」

 マレク警部が口を開く。

「“歩兵”から“白の女王”へと成った。お前の肩に全てがかかっている」

 『鏡の国のアリス』において、冒険の末に「アリス」はチェスのコマの一つとして、「白の歩兵」から「白の女王」へと成るのだ。

 白の王国はそうやってずっと白の女王になれる“アリス”を待ち望んでいたのだと。

 酷いプレッシャーをかけてくれる男だなと思いながら、それでもアリスは笑って頷いた。

「うん」

 この悪夢から醒めると決めた、主人公は“アリス”なのだから。


...155


 睡蓮教団の本拠地であるとある場所。その一室にて。

「で、どういうことだ? 女王陛下」

「ダイナは僕の旧友だ。この“赤の王国”の名付け親でもある」

 ダイナがアリスたちと白の王国と作戦会議をしている頃、ハートの女王ことレジーナもまた、部下たちに事情説明を求められていた。

「“赤の女王”は、そんなに強いのですか?」

「純粋に魔導の腕だけで言えば、彼女は僕より強いよ。ま、最後に勝つのは僕だけど」

 気負うでもなくただの事実だとハートの女王は説明し、ハートの王やニセウミガメなどはそれに頷く。

 グリフォンだけが一人、ダイナと彼女たちと一緒にいたアリスたちを警戒していた。

「その赤の女王と、あの白騎士が一緒にいたぜ」

「白騎士だと?」

 ハートの王たちが反応する。

「ヴァイス=ルイツァーリとダイナ=レーヌ。あの二人は、職場の同僚で隣人同士だ」

 赤騎士……ジグラード学院にはルルティス=ランシェットの名で潜入していたルーベル=リッターが告げた。

「赤騎士、何故それを今まで黙っていた」

「黙っているも何も、ダイナ=レーヌ教諭がそんなコードネーム持ちだなどと、今初めて知ったんだぞ?」

 これは赤騎士の本心だった。学院に潜入していたとはいえ、ダイナに関してはアリストの姉という以外では全くのノーマークだったのだ。

 かつて教団そのものと敵対した白騎士の方はともかく、ハートの女王とダイナに個人的な縁があるなど気づきようがない。

「……そうだったな。もっと早く知っていればこんな騒ぎを起こさずには済んだだろうに」

「悪かったね。僕の落ち度だ」

「ハートの女王陛下」

「さすがにダイナが今更正面切って敵対してくるとは……」

 思わなかった? 本当にそうだろうか。

 レジーナはどこかで、友人が自分を止めに来ることをちゃんとわかっていたような気がする。

「まぁ……この程度の妨害は予期されていたことです」

 今は責任を押し付け合っている場合ではない、とハートの王が女王に代わって話を進める。

「ハンプティ・ダンプティの正体がジグラード学院の生徒で、あの白騎士と面識がある時点で彼が動くだろうことは予想していました」

「敵が少し増えただけのこと」

「白騎士の背後には白の王国と呼ばれる組織もついている。奴らも動くと思うか?」

「動くだろうね。白騎士にダイナと、向こうの戦力は充分だ。ハンプティ・ダンプティや二人の怪盗もこの数年で世間を騒がせた。彼らが僕たちと決着をつけるなら、今しかないだろう」

 白騎士は一度教団を潰し損ねている。

 二度も取り逃がすような真似はすまい。

 これが最後の戦いだ――向こうにとっては。

 もちろん、教団側はここで終わるつもりはさらさらない。

 ハートの女王たちにとっても、目障りな邪魔者である白騎士とその協力者たちをここで潰せればそれが一番いい。

「彼らが狙って来るのはこの場所だろう」

「バレてるのか?」

「僕がダイナと接触した時点でバレたね」

「会いに行かない方が良かったのでは?」

「僕の居場所を吐くまで延々ダイナに叩きのめされる憐れな団員を増やせと?」

 現在の教祖であり赤の王の娘であるハートの女王が魔導士だということは広く知られているが、下っ端の団員たちには魂の欠片を持たない普通の人間も多い。普通の人間では本物の魔導士に太刀打ちできない。

 彼らを放っておくわけには行かなかった。それがハートの女王の主張だ。

 どちらにせよ騒ぎが大きくなればなるほど、疾しいところのある教団の方が不利になる。

「あの時ああすればなんて考えたって意味はないぞ。敵が来るなら迎え撃つだけだ」

「グリフォン……」

 宗教の性質上過去を憂える者の多い教団内には珍しく、グリフォンはただの仕事として教団内で戦闘を担当している。

 他の者のように、あれこれ後悔するのは嫌いだと彼は言う。

 グリフォンとは常に反目しているニセウミガメが顔を顰めた。

「奴らがこの場所にやって来るとして、どこを誰がどう守る?」

「とりあえず、ダイナの相手は僕だね」

「俺は普通の戦争はともかく魔導のことはわからん。任せた」

 赤の女王ダイナの相手は、ハートの女王レジーナが。

「では私は正面からやってくる者たちを」

「陽動と分かっていても、放置しては置けませんからね」

 ハートの王とニセウミガメは、部下を連れて侵入者の排除に対応する。

「奇襲の対応は? 迎撃か、守るポイントを決めるか」

「全体的に兵を散らすけれど、一カ所だけ完全に守る」

 ハートの女王はそう指示した。

「どこだ?」

「“時間”」

「ああ」

 この場所のほとんどは、本当にただの施設だ。見られて困る物のない場所は別にいい。

 けれど一カ所だけ、どんなことをしてでも守り抜かなければならない場所がある。

「向こうには帽子屋……“時間殺し”のマッドハッターがいるんだよ? これまで集めた人間たちの“時間”を奪われれば、また集めるのに何十年もかかるし、恐らく普通の人間の寿命じゃあ――生きているうちに我らの神の復活に立ち会うことは叶わなくなるだろうね」

「……!」

 ニセウミガメが息を呑む。

 彼女は恩師を生き返らせたくてここまでやってきたのだ。邪魔をすることは許さない。

「赤騎士と白兎、どっちが行く?」

「俺がやるよ」

「白兎か」

 これまで黙って話を聞いていた白兎こと、アルブス=ハーゼが立候補する。

「単純に魔導関係はルーベルより俺の方が詳しい。それにこれまで時間を集めてきた者としては、自分の成果をふいにされるのは気に食わないからね」

 白兎の脳裏に浮かぶのは、小さなアリスの姿だった。

 あの子どもは、絶対にやってくる。自らの盗まれた時間を取戻しにこの場所へ。

「赤騎士はどうする?」

「女王陛下の護衛でもしようか? どうせ向こうは最大戦力を叩きこんでくるだろう? 私一人ぐらい残った方が良くはないか?」

「俺の存在忘れてねーかお前」

「おっとそうだった」

 ハートの女王はダイナの相手。だが彼女も独りでやって来る訳ではないだろう。白騎士や白の王国の戦闘員を、ここぞとばかりに投入してくるはずだ。

 ハートの女王の両脇は、グリフォンと赤騎士で固めることになる。

「こんなものか。後は建物内の見張りを強化するように各部署に通達だね。いざと言う時は避難を優先するように」

「いいのか?」

「組織は結局人だからねぇ。仲間を何人も切り捨て殺してたら、結局誰も残らないじゃない? 父上のようにさ」

 かつての教団は赤の王の小さな王国だった。彼は教団の秘密を守ると言う名目で、裏切り者を次々に手にかけて行った。

「負ける気はないが、負けたら負けたで他の誰かが教団を再建するだろう。我らが神への信仰が途絶えぬ限り、教団が滅びることはないのさ。そのために死ぬなんて馬鹿らしいよ」

「……」

「と、言う訳で君たちも必ず生き残るように」

 ハートの女王は一見部下思いのような台詞を吐いた。

 だがそれは彼女に心酔していないグリフォンの耳には、とても薄っぺらく聞こえる。

 ――不穏の種はすでに撒かれている。

 教団などと言ったところで、結局はただの弱く愚かな人間の集まりには変わりない。

 それでも、戦いの日は待ってくれはしないのだ。


...156


 ――最後の一日が始まる。

 明日、教団との戦いに赴く面々は、この姿での学生生活最後の一日を表面上は何事もなく送っていた。

 とは言っても、ギネカやムースは戦いが終われば元々の居場所に帰ってくるだけだ。

 しかしアリスとシャトンの二人は……。

「え! 引っ越し?!」

「アリスとシャトン、行っちまうのかよ!」

「うん」

 無事に盗まれた時間を取り戻せれば、アリスはアリストに、シャトンも十七歳の姿に戻る。

 それと同時に、アリス=アンファントリーとシャトン=フェーレースという存在はこの学院から消えることとなる。

 二人はそれに関し、最初に偽りの素性を演じた時の嘘を貫くことにした。

「もうすぐ全部片付いて、無事に家族と暮らせそうなんだ」

 元々そういう理由だと周囲に説明していた。実際、アリスに関しては事情があって家族であるダイナと暮らせなくなったのは事実なので全てが嘘ではない。

「そっか……そういうことなら」

「寂しいけど仕方ないですね」

 友人想いのカナールたちは、寂しさを隠そうとはしない。けれど根が素直な彼らは、アリスやシャトンが本当の家族のもとに帰れると知って、自分のことのように喜んでもくれた。

「引っ越しても俺らのこと忘れんなよ!」

「うん」

 ネスルが赤い目をしながら言うのに、アリスは頷いた。

「絶対に忘れない」

 彼らはつい先日、テラスを亡くしたばかりだ。それに加えてアリスとシャトンまでいなくなってしまえば、これまでに築いた交友関係のほとんどが消えてしまうことになる。

 遺跡で強盗団にも立ち向かったし、エラフィ誘拐事件でも活躍した。彼らならばもうアリスたちがいなくても大丈夫。そう思いはするが、アリスやシャトンにとっても寂しさは消えない。

 この姿になってできた小さな友人たち。

 彼らはいつだって、非力な子どもの姿でも、自分たちは無力ではないと教えてくれた。

 彼らがいたからこそ、アリスは元のような力のないこの姿になっても、折れずに走り続けて来れたのだ。アリスと違って本物の子どもである彼らが、それを理由に諦めずいつも戦っていたから。

「カナちゃん、ローロ君、ネスル君」

 シャトンがぎゅっと三人を抱きしめた。

「ありがとう。あなたたちに出会えて良かった」

「シャトンちゃん……?」

「なんだよ、お前までなんか」

「どこか、遠くに行ってしまうようなこと――」

 会えてよかった、何でもないその言葉が、今は子どもたちの胸に突き刺さる。

 先日亡くしたばかりの友人たちも、最期にはそう言って消えてしまったからだ。彼らの前から永遠に。

「……うん。アリスはともかく、私はしばらくこの大陸を出ることになると思うから、当分連絡もできないの」

「ええ?!」

 シャトンもそれを理解していたものの、結局は本当のことを告げた。

「連絡もできないって、この時代に携帯もメールもってことですか?!」

「ネットは世界中に繋がってるってうちの家族が言ってたぞ!」

「ごめんね」

「シャトンちゃん!」

「ごめんね」

 シャトンは穏やかに繰り返す。

 アリスは元々この学院に在籍する十七歳のアリストとしての居場所を持っていた。元の姿に戻っても、ギネカたちを通じて改めて彼らと知り合うことは容易い。

 けれどシャトンはそう簡単には行かない。睡蓮教団のことに完全に決着がつくまえに、“チェシャ猫”として教団にマークされている元の姿を人前にあまり晒すことはできないからだ。

 シャトンが再びカナール、ローロ、ネスルの三人と知り合うまでには、きっとアリストよりもずっと長い時間がかかる。

「……いいのか? シャトン」

「ええ」

 どこまで事情を告げるのかは、相談してもあまり明確な答は出せなかった。本当のことはまだ彼らには話せないが、あまりにも綺麗に取り繕った嘘は言いたくない。

 シャトンは今ここで、ようやく覚悟を決めたのだ。

「私の都合で悪いけれど、こっちの世界に未練を残したくないの」

「こっちの世界? ……お前はこの戦いが終わったら、俺とヴァイスと一緒に戻ってくるんじゃないのか?」

 本当にどこか手の届かない場所へでも行くかのようなシャトンの言葉に、アリスまでもがそう尋ねる。

「私は教団の完全な終焉を見届けないと、帰って来れないわ」

 十年前のように余力を残した状態で放置するわけには行かない。例えこの時代で間に合わずとも、神をいずれ復活させようと願う野心家が残らないとも限らないのだ。

 ただ一つの禁呪を開発した代償に、シャトンはこの先一生、その行く末を見守る役目を自らに課した。

「でも……もう一度この街に戻って来れたなら、その時はまた、彼らに会いに行きたいわ」

「もう一度と言わず、いつでも帰って来いよ。お前はジェナーさんと暮らすのかもしれないけど、ヴァイスだって今更お前を他人だと放り出したりしないはずだ」

「ありがとう。……そうよね、私にももう、帰る家と、待っていてくれる家族ができたんだったわね」

 その家族とはジェナーのことなのか、それともヴァイスのことなのか。

 どちらでもかまわない。どちらでもシャトンのことを受け入れるだろうから。


 ◆◆◆◆◆


「え? 長期の休学? あんたたち一体何するのよ」

「ええと……ほら、最近色々あったじゃないですか」

 高等部の方でも、戦いに赴く一行が何も知らない友人たちに不在の言い訳を告げていた。

「あー、まぁフートに関しては……そうね」

 ムースの言い方に、エラフィは気まずげに言葉を切った。

 小等部のテラスに、フートが片恋とも言える想いを抱いていたことは仲間内では皆が知っている。彼の死が余程ショックだったのだろうと、最近少し口数が少なく様子のおかしいフートを見ながら考えた。

 実際にはその理由は違う。

 きっかけはその事件だが、フートの様子が事件以降おかしいのはそれがフートではなく、弟と入れ替わったザーイエッツだからだ。

 更に彼は今回の教団襲撃作戦によって十年前に盗まれた時間を取り戻す。それによって外見上の変化があることを見越して、早めに休学することにしたのだ。

 作戦が失敗に終われば、行き場のないザーイエッツはこのままフートとして帝都で生きていく。

 だがもしも本来の姿を取り戻せるのなら――。

 時間を盗まれてまだ半年も経っていないアリスたちとは違い、ザーイエッツが本当の姿に戻れるのかどうかは、禁呪の開発者であるシャトンにもわからないとのことだった。

 彼がかけられたのは未完成の魔法。しかも、その姿のままで十年の時を過ごしてしまった。それが禁呪の効果にどんな影響を与えるかは制作者にも予想しきれなかった。

 何も変わりはないかもしれない。能力だけが取り戻した時間の分上乗せされるかもしれない。本来送るはずだった時間通りに年齢を重ねた姿に変化するのかもしれない。もっと何か考えられもしないような影響を受けるのかもしれない……。

 それでもザーイエッツは、自分自身の時間を取り戻すことを決意した。

 命の一つも賭けなければ怪盗などやってはいられないと。

 物語中で“時間殺し”と扱われる帽子屋として、全ての時を解放する。

「ギネカも休むの?」

「うん、遠くの親戚と、ちょっと相続争いのことで喧嘩しに」

「そ、そう……気を付けてね」

「ありがとう」

 実際ネイヴの関係で親戚と喧嘩をしたことのあるギネカである。

「私は数日で戻って来るから」

「じゃ、待ってるね」

 ムースはフートを演じるザーイエッツに付き合って、その時の状況によっては長く帝都を空けることになる。ギネカにはそう言った事情はないため、教団襲撃を成功させたらそのまま帰ってくるつもりだ。

 もちろん、彼女自身が生きて帰って来れるのが前提の話だが。

「しかし、あんたたちみんな急に忙しいわね」

「ルルティスもいきなり転校して行っちまうし」

「……!」

 その名にギネカとムースはどきりとし、目配せし合う。

 ルルティス=ランシェット。彼の正体は赤騎士ルーベル=リッター。

 髪の色と名を変えて学院に潜入していた、睡蓮教団の幹部の一人だったのだ。

 彼と直接因縁のあるアリスやシャトンが見ればすぐに気づいたのだが、その辺りはルルティスの方で巧妙に彼らと顔を合わせないように計算していたらしい。

 彼がヴェイツェを殺したと知っている面々は複雑な表情になる。

 自分たちは本当に、親しい人の顔を何もわかってはいなかった。

 毎日顔を合わせる友人の正体も本当の想いも何もかも知らず、時に争い、時にすれ違い……。

 でも今は、以前よりも多くのことを知った。これからどうするのかが問題だ。

 睡蓮教団に勝って、本当の自分を取戻し、必ず帰ってくる。

「エラフィ、レント。あんたたちくらいは、私やアリストが帰ってきた時に、どうか変わらず出迎えて」

「はいはい、もちろんよ」

「待ってるよ、ギネカ。もちろんフートもムースもアリストも。みんなのことをね」

「では」

「行ってきます」

 この時、彼らはまだ自分たちさえ離れれば、学院の方は安全だと信じていた。


 ◆◆◆◆◆


 そして数日後。


 白の王国とアリスたちは作戦のために動き始めた。

 物語は夢から醒めることでようやく終焉を迎える。永遠を謳う終わりのない夢など、彼らにはいらない。

 この長い戦いを、醒める夢として終わらせるために。


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