24.神の名の下に
...139
それでも、世界は歩みを止めない。
時計の針は回り続ける。
叶わなかった約束を置き去りにして。
◆◆◆◆◆
「……あれで良かったのか?」
隠れ家に戻ったところで、白兎は赤騎士に尋ねた。
「不満か? 私はハートの女王の命令を果たしたまでだが」
問いで返す赤騎士の言葉に、白兎はまた更に問いを重ねる。
「お前としては……ハンプティ・ダンプティを殺したくなかったんじゃないのか?」
「……」
長い付き合いだ。相手がどのような会話運びで何を誤魔化そうとしているかなど、とっくに承知しているのだ。
「自分が生まれたことで周囲を殺して不幸にしてしまった人間、存在自体が罪の源……どこかで聞いた話だな」
長椅子に腰かけた赤騎士を、白兎は背中から抱きしめる。
ハンプティ・ダンプティの捜索はもう終わり、公爵夫人の捜索は保留、当分は急ぎの仕事もない。
もう学生の振りをして潜入捜査などする必要もない。
束の間の休息は終わり、いつもの戦いが幕を開ける。
「だからこそだろう」
平穏な仮宿を壊して、赤騎士はいつも通りの咎人に戻る。
「死んでしまいたい程の罪だと言うのなら、死なせてやればいい」
「でも、俺たちの待ち望んだ“アリス”はそうは思わなかったみたいだ」
二人はあの時、赤騎士を睨み付けたアリスの表情を脳裏に描く。
赤騎士を抱きしめる腕はそのまま、白兎は顔を上げて言った。
「さぁ、最終局面だ。悪夢を醒まし、物語の終わりをもたらす者はどんなエピローグを与えてくれるのか?」
◆◆◆◆◆
ハンプティ・ダンプティの名は、しばらく世間を沸かせ続けた。
そのことにより、濡れ衣が晴れて無難に解決してしまった怪盗ジャックの誘拐容疑と怪人マッドハッターの殺人容疑も吹き飛ぶほどに。
しかし彼の正体に関して、世間に大々的に報道はされていない。
最期の日、一人の少年が会社のオフィスなど公衆の面前で相手に手も触れず堂々と殺人を犯したという証言があちこちから飛び出し、その少年を怪人マッドハッターが追跡していたという目撃証言も広まっている。
それでも真相が公表されないのは、ハンプティ・ダンプティが未成年だったからというだけではない。
真実を明かされては困る誰かが、世間への発表を操作できる地位に潜んでいると言うことだろう。
だがそれらの事情も、今のアリスたちにとってはほとんどどうでもよいことだった。
彼らの心を占めるのは、救えなかった友のこと。
テラスの死がこれもまた犯人不明の殺人事件としてニュースになったことから、ジグラード学院は数日休講となった。
高等部の生徒たちには、ヴェイツェの死についても知らされている。
理由が理由だけにテラスやヴェイツェを直接は知らない生徒たちも衝撃を受け、沈痛な面持ちで喪に服す。
そして、彼らの直接の友人であった者たちは――……。
「私たち、今までヴェイツェの何を見ていたのかしらね」
ヴァイスのマンションに来て、アリスたちと顔を合わせたギネカが口を開く。
初夏の気候は汗ばむほどだが、今日は冷たい物を口に運ぶ気にはなれなかった。
温かなお茶をシャトンが淹れるが、アリスもギネカもそれにほんの一口口をつけただけで、後は冷めるに任せている。
何もかもが億劫で、それなのに焦燥――そして後悔に駆られている。
もっと、何かできたのではないか。
もっと前に、知っていたら――。
「あまりそんなことを考えるなよ、ギネカ」
「アリスト……」
「自分がサイコメトリーでヴェイツェの心を読んでいたらとか考えてるだろ」
「!」
言い当てられたギネカは頬を朱に染め俯く。
持って生まれた特殊な力によって、人の心を際限なしに読むなど褒められたことではない。
ギネカは特に友人たちには、友人だからこそ気を遣って下手に心を読まないように気を付けて生活していた。けれど、今回ばかりはそれが間違いだったのかと後悔していたところだ。
もっと早く、ヴェイツェがハンプティ・ダンプティなのだと気付けていたら。
何かは変わっただろうか……?
「そんなの、誰にもわからないよ。テラスだって、ジャバウォックとしてあれだけ慎重に動いていたはずなのに、結局はヴェイツェを救おうとして誰かに……教団に殺された」
それまで黙っていたシャトンが口を開く。
「テラス君が……ジャバウォックだったなんてね。まだ信じられないわ……」
きっと全員が同じように感じていることだろう。まるで悪い夢のようだと。
テラスが姿なき情報屋“ジャバウォック”、ヴェイツェが殺人鬼“ハンプティ・ダンプティ”、そして。
「フートは……怪人マッドハッターだったのよね?」
「ああ」
後からそのことを聞かされたギネカはそれもまだ半信半疑だった。しかしそうして振り返ると、先日のマッドハッターの態度にも納得が行く。
こちらはマッドハッターの正体を知らなかったが、彼の方ではアリスがアリスト、料理女がギネカだと知ってしまったのだ。
そこで簡単に自分も正体を明かせるようなら苦労はない。
「私たち、なんでも話せる友人のようでいて、お互いに嘘ばかりついていたのね」
「そうだな」
どれほど近くにいても。
どれ程大切に想っていても。
嘘を吐く。真実を隠す。素顔を仮面の下に閉ざして、心をヴェールで覆ってしまう。
「でも……大事な友達だった。テラスも、ヴェイツェも」
もちろんフートのことも。
彼とはヴェイツェの死を看取ったあれ以来顔を合わせていない。
モンストルム警部が執り行ったテラスの葬儀にさえフートは姿を現さなかった。
ハンプティ・ダンプティであるヴェイツェの死はまだ弔うことができない。遺体は警察が保管している。
アリスたちは教団の人間が殺したことを証言したが、きっとこの証言もどこかで隠蔽されてしまうことだろう。
改めて睡蓮教団という組織の大きさを身に染みて感じる。
これだけの騒ぎさえも、彼らは揉み消すことができるのだ。
それに比べて、今回アリスたちに何ができたのだろう?
「他の子たちは、大丈夫かしら……?」
シャトンはカナールたちを心配する。フォリーが当たり障りのない部分は説明したとはいえ、子どもたちとしてはほとんど何も知らないまま友人の一人であるテラスと、高等部のヴェイツェお兄さんを喪った形になる。
「それに、フートがこれからどう動くつもりなのかもわからないわ」
怪人マッドハッターとしての正体を知られたというのに、フートはアリスたちに何も言って来ない。
確かにアリスたちも偽っていたことや隠していたものがあるのでお互いに弱味を握りあった状態と言えるかもしれないが、それにしても妙だ。
元々の友人だからこそ、こんな時は話し合うことが必要なのではないかと、アリスなどは思う。
だがそれをするには、フートの傷はあまりにも大きい。
「フートは……テラス君のことが好きだったわ」
ショタコンなどと言ってからかわれていたが、正確にはその感情を何と呼ぶべきかは、周囲もわからなければきっと本人にもわかっていなかったのだろう。
テラスが自分に向けられたその好意をどう思っていたのかも。
「……怪人マッドハッターことフート=マルティウスは、確か兄が行方不明なのよね」
「ああ。だから多分フートは、そのお兄さんを探すために怪盗になったんじゃないか……?」
両親がすでにおらず、兄が十年前に行方不明になって、フートは今たった一人。そして、友人であるヴェイツェと想い人であるテラスを喪った。
わからなかったのはヴェイツェのことだけではない。フートのこともだった。彼の孤独にアリスたちは気付いてやれなかった。
あんなに一緒にいたのに。
フートにはまだ幼馴染のムースがいるが、彼女の方もここ最近は様子がおかしかった。
「ムースはムースで何か気がかりがあるみたいだったし、あのコンビには最近どこか距離があったみたいに感じるわ」
「でもマッドハッターがフートなら、相棒の眠り鼠はムースしかいないだろ? ……別々の人間なんだ。いつかは道を違えることもある」
「……そうね」
アリスの言うとおり、幼馴染は所詮他人なのだ。
ギネカとネイヴだって、そのうちそれぞれが道を選ぶ決断をする日が来るだろう。
「俺たちに、何かできることはないんだろうか」
テラスが死に、ヴェイツェが死に、それでもまだ事態は終わっていない。
連絡のつかないフートの動向が気にかかる。
けれど怪人として一年活動していたフートが本気で姿を眩ませた現在、アリスたちにはその思惑を知るすべがないー―。
八方塞りかと思われたその時、再び電話が鳴った。
...140
ヴェルムは今回の事件の概要をまとめてイスプラクトル警部に報告したが、それが世間に報道されることはなかった。
「すまん。ヴェルム君」
「いいえ。予想はしていました。それに……これではっきりしました。警察の中にも、睡蓮教団の手の者が入り込んでいると」
帝都を震え上がらせた連続殺人鬼、ハンプティ・ダンプティの正体が未成年の男子高生であったと言うことは衝撃的な事実だ。
いくら犯人が死亡したとはいえ、これまで無能と叩かれた警察としては本来何としても殺人鬼の存在を挙げたかったはず。
しかしそれは叶わなかった。
イスプラクトルのような一警部には到底手の届かない先に、この件に関して犯人が未成年であることを盾にとって強引に隠蔽できるだけの人物がいるということだ。
……だが、ヴェイツェ=アヴァールのことを考えれば、それで良かったのかもしれない。
被害者が死んで犯人も死んでしまった以上、表面上の事実だけで物を見る輩が断片を手にすれば、あの不幸な少年が無責任に何を書き立てられるかわかったものではないからだ。
ヴェルムは、数度しか会ったことのない彼を思い出す。いつも落ち着いていて――どこか、寂しげな緋色の瞳をした同い年の少年。
睡蓮教団に家族を奪われた人間は自分だけではない。わかっていたはずのその事実を、改めて突きつけられる。
今回も、ヴェルムにはあまりにも力が足りなさすぎた。
探偵としてはこんな事件が起こる前に睡蓮教団を潰したかったが間に合わず、殺人鬼として活動し始めたハンプティ・ダンプティの復讐を止めることもできなかった。
――だからこそ、こんな悲劇は二度と繰り返したくない。
ハンプティ・ダンプティことヴェイツェにどんな事情と想いがあって殺人を続けたのかはアリスに聞いた。同じように家族を教団に殺されたとは言っても、ヴェルムとヴェイツェには大きな隔たりがあった。
自分こそが大切な人や無関係の大勢の人間の死の原因となってしまったという、ヴェイツェの事情はあまりにも重い。
けれどそれでも、ヴェルムは相手を殺して終わりなどにはしたくなかった。
だから、自分なりのやり方で決着をつけるために戦い続ける。
「警部こそ、俺に付き合ってこんな真似をしなくてもいいんですよ」
「馬鹿を言え。警察に犯罪者を見逃せという探偵があるか」
ハンプティ・ダンプティに関する事件の真相を彼に伝えるには、どうしても睡蓮教団と魔導の話を省く訳にはいかなかった。その流れでようやくヴェルムがずっと教団を追いかけてきた事情も理解した旧知の警部は言う。
「それとも俺もコードネームでも名乗ろうか? そうだな。俺の名にちなんで“車掌”とでも」
「警部……」
「今更お前を止められるとは、こちらも思っとらんよ」
ヴェルムの強情な性格を知る警部は、諦め混じりの溜息を吐く。
「だが、死ぬような無茶だけはやめろよ。何があっても、最後には帰って来い。命を懸けてまで復讐を果たしたところで、誰も喜ばない……わかっていただろうになぁ」
イスプラクトル警部の言葉の最後は、ヴェルムではない別の少年に向けられたものだ。
文字通り命を懸けた殺人鬼の心情を思い、二人はそっと黙祷を捧げる。
◆◆◆◆◆
エラフィとレントは同じ部屋にいて、それぞれまるで別の場所を眺めていた。
エラフィは自分の部屋の窓から外の景色を、朝から彼女を訪ねてきたレントはアルバムに並べられた去年の写真と、今年の写真を何枚も机の上に広げては眺めている。
その中に映っている、彼らが魔導を学び始めた中等部からの友人の一人と、今年出会ったばかりの小等部の小さな少年がもういない。
テラスの葬式まで済んだと言うのに、まだ実感が湧かなかった。
全部、全部悪い夢のようで。
家族のいないヴェイツェに至っては、葬儀の話さえ出ない。
フォリーの電話に急きたてられて向かった先でまずテラスの、そしてヴェイツェの死に顔を見ることになった彼らだが、事情はさっぱりわからなかった。
一体何が起きていて、何故テラスとヴェイツェは死ななければならなかったのだろう。
説明が欲しいところだが、誰に聞けば良いのかもわからなかった。こればっかりは、自分たちと同じように連絡を受けて動揺のままに駆けつけたヴァイスやダイナに聞いても難しいだろう。
何か知っていそうなのはすでにあの現場にいたフートとアリスなのだが、フートの方は彼らより更に動揺が激しかった。メールも電話も返事が返ってこない。連絡のつかない彼の下に押しかけてまで詳しい事情なんて聴けない。
そして、あの場にいた中では最年少のアリスに詰め寄るのは躊躇われた。
歳の割に大人びた子なので聞けば知っている限りのことを教えてくれるかもしれないが、彼だってテラスと言う近しい友人を喪っているのにあまりにも酷と言うものだ。それにアリスは、ヴェイツェの死に際にも立ち会ったのだ。
それにアリスが、ただ一言だけ教えてくれた言葉がある。
あの時、すでに息の絶えたヴェイツェのところに駆けつけた者たちに向けて彼はこう言った。
――ヴェイツェ……ヴェイツェ=アヴァールは、『みんなに会えてよかった』って。
それを聞いた以上、もうレントたちに言える言葉は何もなかった。
どんな事情を聞いたところで、もうヴェイツェ=アヴァールもテラス=モンストルムも帰ってこない。
彼らに対しレントたちができることはもう何もないのだ。
本当に……?
レントの手元の写真にぽたりと雫が落ちる。
乱暴に服の袖で拭っても、それは後から後から溢れて止まらなかった。
考えるべきことは山のようにあるのだろう。ヴェイツェたちの死と時を同じくするようにしてニュースになった殺人鬼ハンプティ・ダンプティの死亡報告が頭から離れない。その当日、高校生くらいの少年が白昼堂々殺人を犯し、それを何故か怪人マッドハッターが追跡していたと言う謎の証言もある。
もう何も考えたくない。
そして考えられない。
叶えられなかった約束の先は、ただただ真っ白で真っ黒だ。
何も積み上げられず、何も返ることのない虚空が広がっている。
「嘘つき」
ぽつりと呟かれた言葉にレントが顔を上げて視線を向けるが、エラフィは窓の外を眺めたままだった。
その唇が再び囁く。
「言ったじゃない……夏はみんなで海に行こうって……確かに結局言質はとれなかったけどさ……」
あの時、ヴェイツェは過去の事故で体に残る傷痕を見せたくないからと海に行くのに乗り気ではなかった。けれど。
「体の傷なんて、パーカーの一枚でも羽織って隠せば良かったじゃない……私たち誰も、そんなの気にしやしないのに……なんで……」
何故今、彼はここにいないのだろう。
何故これから先、彼は自分たちと一緒にいないのだろう。
「テラス君もテラス君よ、あんたがフートの本気にどう応えるか、私たちずっと興味津々で見守ってたっていうのにさぁ……」
まさか全ての決着がつくまえに、彼がいなくなるなんて思わなかった。
まさかあの子が自分たちのような高校生どころか、中学生にすらなれないなんて思わなかったのだ。
二人に対しての恨み言を口にしていたエラフィの肩と声が震えだす。
レントは、ついに耐え切れず嗚咽を零し始めた。
みっともない泣き顔を晒すことになるが構わない。友人たちが死んだと言うのに、冷静な美しさを装える程、彼らは大人ではなかった。
◆◆◆◆◆
怪人マッドハッターの仕事の日が近づいている。
予告状自体は何日も前に出していたもので、取り消そうかとムースは言ったのだがフートはやると言った。
そしてそれ以来ずっと怪盗としての仕事の準備を進めている。
テラスの葬儀にも行かず――。
「どうしよう……」
今のフートの心を変えることは、ムースにはできそうもなかった。
彼女はフートの兄でもなければ想い人でもない。怪盗としての相棒とは言え、ずっとただの幼馴染としての一線を越えなかったムースにはもうこの先フートの心の中には入っていけないのだ。
けれど幼馴染として友人として、彼を止めたい気持ちは残っている。
そんな彼女の前に――ついに、彼は姿を現した。
「……お前もフートも随分立派になったものだと思ったけど」
この十年間、フートと二人でずっと求め続けた姿だ。
「泣き虫は十年経っても治らなかったんだな。ムース」
十年経ったはずなのに、ムースとフートが高等部生になったのに、どうして彼はまったく変わらないのか?
そんな疑問も今はどうでもよかった。よくなってしまった。
「彼」が今、ここにいる、ただ、それだけで――。
「ザーイエッツ!」
ムースは、彼女が十年想いつづけたその人の名を叫んだ。
...141
「ザーイエッツ……!」
この十年間、探し続けた人がいた。
駆け寄ってきたムースをザーイエッツは抱きしめる。
彼の姿は、十年前に見知っているそのままだった。この十年どこにいたのか、何をしていたのか、色々と聞きたいことはある。けれど。
「ザーイ……! フートが……!」
涙の浮かんだ目でムースは幼馴染の兄を見上げる。
「ああ……大体のことは知ってる。尤も、俺が知っているのはここ最近のあいつの表面的なことに過ぎないが――」
「ずっとフートを見ていたの? この前私たちが見かけたのは、やっぱりあなただったのね?」
「そうだ」
ここ数日彼らを悩ませた謎に関し、彼ははっきりと頷いた。
ずっと気になっていたのだ。ヴェイツェとテラスが教団と対峙し、テラスが死んだあの廃ビル。アリスはフォリーから連絡を受けて向かったが、フートはあの時あの場所に向かったことを、ザーイエッツの幽霊に導かれたとムースに話していた。
幽霊ではない。ザーイエッツは確かに生きてここにいる。
「ムース、俺にもお前が知っていることを教えてくれ。今の俺は、あいつに何をしてやれる?」
ザーイエッツは最近になって帝都に姿を現したが、遠くから弟たちを見つめているだけだったので目に見える以上の人間関係まではわからないのだ。
フートがテラス……先日死んだ少年を、この世界の誰より大切に想っていたことなど知りようがない。
「あのね、今のフートは――」
ムースがザーイエッツに説明をしようと口を開きかけた時だった。
かかってきた電話にムースは一度だけザーイエッツの方を見て、迷いながらも応答する。
「はい……フォリーちゃん、どうしたの?」
『私は“バンダースナッチ”』
「え? あなた何を言って」
『もう時間切れだって。“ジャバウォック”からの伝言、そこにいる“三月兎”……ザーイエッツ=マルティウスに伝えて』
ムースは思わずハッとしてザーイエッツを見るが、彼も怪訝な表情をしている。
「なんだ?」
『“本当はしっかり会わせてあげたかったけど、ごめんね、彼を連れていく”だって』
「ちょっと待って! 一体何の話を――」
詳しいことは何一つ言わないまま、そうしてバンダースナッチことフォリーは通話を切る。
ムースとザーイエッツは呆然と顔を見合わせた。
◆◆◆◆◆
怪人マッドハッターの犯行を予告された日が訪れる。
だが今晩そこにいる警察は、帝都の民が見慣れたマッドハッター専任のモンストルム警部ではなかった。
「イスプラクトル警部、この度は応援に来て下さってありがとうございます」
一課から畑違いの三課に手伝いに来てくれたシャフナー=イスプラクトル警部に、怪盗ジャック専任のマレク警部が礼を言う。
そう、今日ここにいるのは同じ怪盗専任ではあっても怪人マッドハッターではなく、本来は怪盗ジャック担当のアブヤド=マレク警部の方だった。
「何、こちらこそまだハンプティ・ダンプティの件が完全には治まっていないものでね」
ハンプティ・ダンプティの正体である少年が殺人を犯した際、怪人マッドハッターが追跡していたという目撃証言があった。イスプラクトル警部が応援に来ていることは、マッドハッターからも事情聴取せねばならないことを考えると不自然ではない。
それより不自然なのは、怪盗ジャック専任のマレク警部がいることの方だった。
しかしそれも、本来マッドハッター専任のモンストルム警部の事情を考えれば無理からぬこと。
「モンストルム警部の御加減の方は……」
「表面上は落ち着いているよ。だが、彼の胸の内を思うとやり切れんな……」
コルウス=モンストルム警部は、たった一人の息子であるテラスを先日亡くしたばかりだった。
一課の刑事の家族であれば犯人からの逆恨みはないこともないが、三課のモンストルム警部は主に人を傷つけない怪盗であるマッドハッターの専任で、物騒な殺人事件に関わることなどほとんどなかった。
モンストルム警部の受けた衝撃を考慮して、今回のマッドハッター対策には同じ怪盗専任のマレク警部が急遽呼ばれたのであった。
「こうして刑事として勤めていても、自分の家族、ましてや幼い息子の遺体が司法解剖から帰ってくるなんて、ほとんどの者は想定しておらんよ」
僅か七歳の少年が、どうして銃によって殺されるような事態に陥ったのか。
ハンプティ・ダンプティの事件に関わったことは確かなのだが、ハンプティ・ダンプティがテラス少年を殺した訳ではない。
彼を撃った銃は一体誰のものだったのだろうか。
それを、一課の刑事でありながらイスプラクトル警部はモンストルム警部に教えてやることもできない。
せめてハンプティ・ダンプティ本人が生きていればもっと詳しいことを聞けたのかも知れないが、彼も亡くなった以上全ては闇の中だった。
その闇の名を、睡蓮教団と言う――。
先日からコードネーム“車掌”を得た男と、まだそれを知らない“白の王”は話をそこで切り、来る怪人マッドハッターへの対策会議に移った。
◆◆◆◆◆
夜の帳が降りて、彼の時間が幕を開ける。
怪人マッドハッターの犯行時刻。
黒いマントに花を飾ったシルクハットを被った仮面の怪盗が、月の輪郭を背景にビルの屋上に姿を表す。
「奴が現れた! 追え!」
マレク警部の号令の下、モンストルム警部とマレク警部、両方の部下たちが怪人を追う。
「……」
普段はまるでエンターテイナー、名前の通り『不思議の国のアリス』のイカレ帽子屋のように愉快なパフォーマンスで人を驚かせるマッドハッターだが、今日は様子が違った。
「警部、今日の奴は何か様子がおかしいと思いませんか?」
「ああ。だがその理由を知るためにも、とにかく奴を追いかけねば」
今夜のマッドハッターは、闇に沈む影のようだった。黒は藍色や濃紺よりは夜の闇の中でも目を引くのだが、装着者の動作があまりに静かな今日はうっかり気を抜けば背景に沈んで見落としてしまいそうになる。
だがそれも、彼が目的の部屋へ到達するまでの間だった。
「あ、ま、マッドハッター様!」
大富豪の一人娘は、この怪人の大ファンを自称している。
彼女の持つ首飾りを狙ってマッドハッターが来ると聞き、驚くより先に喜んでいたくらいだ。けれど下調べの時点でそれを知っていたはずの怪盗は、いつもなら気障を装って用意する花束の一つも今日は取り出さない。
「……申し訳ない、レディ。どうかその首飾りを私に」
「え、は、はい。どうぞ!」
「ってお嬢さん! 渡しちゃ駄目でしょう!」
思わず自らの首飾りを怪人に差し出すお嬢様に、追いついた警察が盛大な突っ込みを入れる中、マッドハッターは再び窓から逃走を開始する。
追ってきた警察たちも慌てて進路を変えて追跡を再開した。
なんだろう。今日の犯行はあっさりしすぎていて何かが物足りない。
「マッドハッター様……?」
少女はどこか納得が行かないと、不思議そうに、ぱちくりと目を瞬かせた。
◆◆◆◆◆
そしてマッドハッターは、屋敷の屋上の端に追い詰められる。
「追い詰めたぞ、マッドハッター! 貴様の犯行もここまでだ」
「追い詰めた? いいえ、むしろこれは私の望み通りの展開」
無機質な白い仮面の向こう、冷え冷えとした表情を隠したマッドハッターが口を開く。
「あなた方にお伝えしたい真実がありますので。……今日は一課のイスプラクトル警部もいらっしゃるとは運がいい」
「どういう意味だ! マッドハッター、貴様は一体、先日のハンプティ・ダンプティ事件の何を知っている?!」
イスプラクトル警部が怒鳴ると同時に、マッドハッターはすっとどこからか紙の束を取り出した。
「私がハンプティ・ダンプティの犯行に関し知っている全てをここに記してあります。彼の悲しみも、巻き込まれたテラス=モンストルム少年が何故死ななければならなかったのかも」
「……!」
「私はあなた方警察内部の人間ではない。マッドハッター本人がもたらした情報ともなれば、マスコミにでもリークすればすぐにニュースになるでしょう」
イスプラクトル、マレク両警部は息を呑んだ。
「馬鹿な! そんなことをすれば――」
そう、犯罪者である彼には警察と言う組織への柵はないのだ。彼が直接この情報を売れば、それは瞬く間に広がる。
ハンプティ・ダンプティが未成年の男子高生であることも。
彼に殺された被害者たちが、十年前の事件の犯人であり四百人以上の死者を出したことも。
その全てが、残酷なまでに白日の下に晒される――。
「仮面を被って素顔を隠すお前が、他者の真実を今更ぶちまけて帝都を混沌に陥れるつもりか?!」
マレク警部は怒鳴る。
それでは様々な者たちが涙を呑んで真実を隠すことを選んだ意味がない。
「それに、お前自身の正体だって――」
彼は途中で口を噤む。
刑事の立場としては、むしろマッドハッターのこともハンプティ・ダンプティのことも、全てが明らかになった方がいいのでは?
他者への影響を気にして迷う刑事たちに対し、マッドハッターの方はもはや自暴自棄な程にはっきりとした態度だった。
「私にはもう、喪うものなど何もない」
誰も止めることはできない。
「もはや真実でしか全てを救えないと言うのなら、この呪われた身を焼く白昼の光の下に、姿を晒したって――」
『待って』
マッドハッターの口上を遮ったのは、この場にいるはずのない幼い声だった。
『待って。“帽子屋”さん』
振り返る怪人の視線の先に、小さな少年がいる。
「何故……」
それは数日前、無残に心臓を撃ち抜かれて死んだはずの少年。
『駄目だよ、お兄さん』
テラス=モンストルムがそこにいた。
...142
『駄目だよ、お兄さん』
「テラス君……?」
怪人マッドハッター……否、フート=マルティウスは仮面の下で目を瞠る。
自分は夢でも見ているのだろうか? これは本当に現実なのか?
「どうして……? 君は……」
『死んだよ』
さらりと自分で口にし、テラス――の幻影は種明かしをする。
『この僕は僕であって僕じゃない。テラスという人間自体は死んでいる。ここに映っているのは、魔導で記録した思念』
言われて見てみれば、テラスの身体は淡い光の集合体で出来た映像だった。普段なら気付くはずなのに、こんなことも見落とす程今のフートは憔悴していた。
混乱しているのはフートだけではない。モンストルム警部に会いによく現場に出入りしていたテラスのことは、ここにいる刑事たちもよく知っている。
彼らには二人の会話こそ聞こえないものの、その姿を見て驚き慌てふためく。
「テラス君……?! 一体どうして?! どうなってるんだ?!」
「と、とりあえずモンストルム警部に連絡だろう!」
マレク警部が複雑な表情で見つめる中、モンストルム警部の部下たちが慌てて警部に連絡を入れに走った。
『僕は“この世界の総てを知っている”。君にはこれで通じるだろう? “帽子屋”さん』
怪人マッドハッターことコードネーム“帽子屋”は気付いた。
その口上は、誰も姿を見たことがないという噂の情報屋――“ジャバウォック”のものであるということに。
「君が……? そう、君だったのか……」
怪人マッドハッターの仕事を何度も邪魔してくれた相手。
けれどジャバウォックはいつもどこかからかうように、遊ぶようにちょっかいをかけてくるばかりで、本気でマッドハッターを警察に捕まえさせようとは思っていなかった気がする。
彼が彼なのだと聞いて、不思議と納得が行った。
そもそも今のこの状況こそ、世界の総てを知るというジャバウォックでもなければ、作り得ないようなものだ。彼本人は死んでいると言うのに、思念を残して会話を成立させるなど――。
『危険な怪盗稼業なんかして、君のお兄さんが悲しむよ』
「それは、君の方こそ……」
テラスの方こそ姿なき情報屋として、教団の闇の深部に足を踏み入れすぎて、そして。
彼の父親のモンストルム警部は、今も息子の死を悲しんでいる。
「……」
フートは言葉を喪った。迂闊なことを言えば、零れてはいけないものが零れ落ちてしまう。
そんなフートに、テラスは――その幻影はそっと手を差し伸べる。
『もう、終わりにしよう』
彼らが初めて出会ったいつかの雨の日とは打って変わって晴れた夜空の月明かりの下、小さな少年は鮮やかな笑顔を浮かべる。
『僕と一緒に行こうよ、お兄さん』
「テラス君?」
先程までの自分の行動が、一種の暴挙に近かったことはフート自身も認める。テラスを喪い、ヴェイツェを喪い自分は自棄になっていた。
だからもはや真実と言う名の免罪符を掲げて、全てを壊すしかないと思っていたのだ。
しかし。
『もう誰かを傷つける必要なんてないんだよ。隠す必要も、偽る必要もない』
全て知られてしまった。
それでもアリスたちは怪人マッドハッターの真実を黙っていた。
自分も彼らの秘密を口にしようとは思わなかった。
……ああ、そうか。
「俺は……君が好きだった」
フートは仮面を外し、テラスへと向き直る。
テラスが現れた時点で踵を返しているので、警察には背中しか見えない。
白い仮面がからんと音を立てて屋上の床に落下する。
「君の聡明さに惹きつけられて、君の強さに憧れて……君をもっと知りたくて……」
年齢以上に賢いテラスに、最初は幼いころから聡明だった兄を重ねているのかと思った。
けれどテラスは、ザーイエッツとは全然違ったのだ。
己の能力をもてあまし世界を斜に見るような節のあったザーイエッツともフート自身とも違い、テラスは自分自身もその周囲の世界も総て、丸ごとそういうものだと受け入れて愛していた。
それがどんなに難しいことか、彼がジャバウォックだと知った今では尚更よくわかる。
彼が好きだった。だから。
「君に生きていて欲しかったんだ」
君がいない世界では生きていけない。
フートはテラスの方へ一歩足を踏み出した。
「!」
見守るマレク警部たちの前で、小さなその手を取る。
テラスがふわりと笑う。
『よかった。今度は届いた』
「今度は?」
『ハンプティ・ダンプティの時は間に合わなかったから。この手を取ってもらえる前に、教団に割り込まれちゃった』
――テラスはずっと、ヴェイツェを――ハンプティ・ダンプティを救いたがっていた。
アリスの言っていたことは本当だったのだと、ようやくフートも理解した。
頷いて顔を上げたところで、遠目に人影が見える。
「兄さん……」
『来たね、三月兎』
ムースと一緒に遠くのビルの屋上に立つ、今の自分とよく似た人影。
仮面を外したもう一人のマッドハッターの顔は、十歳年上のはずの兄は、今のフート自身にそっくりだった。
その十年の時のずれに、フートは反射的に“アリスト”と“アリス”のことを思い出した。
睡蓮教団に“時間”を盗まれて子どもの姿に――。
「そうか……それじゃ戻って来れるはずないよな」
十年前、七歳だったフートにその現実が受け入れられるはずもないと思われたのだ。
そしてフートは兄の事情も感情もようやく理解し、同時にそのこと自体を悲しむ。
あの頃の自分に何ができたとは思わない。
けれど、それでも。
「傍に……いて欲しかったよ、兄さん。あなたが一番つらい時に、俺を頼って欲しかった」
だからフートは怪人マッドハッターを継いだのだ。かつての兄の姿を完璧に模倣することで、自分自身の実力も兄に追いついたと証明したかった。
まだ容姿が成長しきらないたった十年で戻ってきたことこそが、ザーイエッツの意志だ。フートが彼を見つけ出すより早く、優秀な兄は一人遺した弟のところへ帰ってきた。でも。
「ごめんな、もう俺は、お前より大切なものを見つけてしまったんだ」
テラスの手を握り直しフートは歩き出す。
その瞬間、バンッと派手な音を立てて屋上の扉が再び開かれ声がかけられた。
「テラス!」
父親の声に、テラスは一度振り返り、口元に手を当てて子どもらしい無邪気な笑顔で叫ぶ。
『今までありがとう! お父さん!』
彼は最後まで笑って手を振りこう言った。
『僕、次もまた――お父さんの子どもに生まれて来るからね!』
喪失にやつれ蒼い顔をしていたモンストルム警部が崩れ落ちる。
イスプラクトル警部が慌てて駆けより、マレク警部が形式ばかりの追跡指示を出す。
けれど彼らも本当はわかっていた。もう「この」怪人マッドハッターを捕まえることはできない。
『さよなら』
再び手を繋ぎなおした二人は夜空を月に向かって歩いて行く。まるでそこにある見えない道が、彼らにだけ見えているように。
『ありがとう、アリスト』
また別の道からそれを見守っていた一団――アリス、シャトン、ギネカやネイヴ、ヴァイスたちにもちゃんと気づいていたテラスが声をかける。
『後は頼んだよ――我らの“アリス”』
◆◆◆◆◆
「行ってしまったわね」
「最後まで自由な奴だよ、テラスは」
“バンダースナッチ”ことフォリーから連絡を受け、テラスがやろうとしていることを聞いたアリスたちはそれを見届けるためにここに来ていた。
フートのことはずっと心配だったのだ。だが彼のことは、自分に任せてほしいとテラスがフォリーに伝言を残していた。
その伝言が思念を残す魔導というところにも驚いたし、その結末にも――。
フートが喜んでそれを受け入れたのだとしたら、アリスたちにはもう口出しできない。
テラスはフートを殺すとは言わなかった。
彼が正確にはどこにフートを連れて行ったのか。アリスたちにもわからない。
「さて、と」
そして彼らは次の問題へと向き直る。
ギネカが遠くへと視線を向き直し口を開いた。
「それで、あっちはどちら様?」
フートと同じ顔をした、もう一人の怪人マッドハッターを睨み付ける。
◆◆◆◆◆
深夜の大富豪の屋敷の一室。令嬢は不完全燃焼な気持ちを抑えきれず持て余していた。
「今日のマッドハッター様のあの態度……なんだかおかしかったわ」
テレビでそのパフォーマンスを見ている限りでは、もっと素敵なはずだったのだ。
しかし現実で出会った彼は、冷たいくらいに素っ気なかった。
「機嫌でも悪かったのかしら……? それともテレビが持ち上げていただけで、あれが本当の彼の姿……?」
考える傍ら、いきなり窓から差し込む月明かりが陰ったことに驚き彼女は窓辺を見遣る。そこに。
「こんばんは、お嬢様」
「え……! マッドハッター様!」
漆黒のマントに花の飾られたシルクハット、謎めいた仮面の怪盗が彼女の部屋のバルコニーに降り立った。
「私の用事が無事に終わりましたので、こちらの首飾りをお返しに参上しました」
首飾りを渡したこともすっかり頭から抜け落ちていた彼女は呆然とそれを受け取る。
これで用事は終わりかと見上げた彼女の視線の先で、怪人は露わになった口元に柔らかな微笑みを乗せて礼を言った。
「ありがとう、お嬢さん」
「え?」
「あなたのおかげで、私は今日、久方ぶりに大切な人と再会できたのです」
彼女には全く何のことかわからない。しかしミーハーながら、一つだけ気になって尋ねた。
「大切な人って、女性?」
「いいえ。兄弟です。十年も顔を合わせていなかった弟に、ようやく会えた……」
彼女はそれで納得がいったと手を合わせる。
「では先程様子がおかしかったのは、久しぶりに御兄弟に会うのに緊張されていたのね!」
怪人マッドハッターはただ微笑む。そしてぱちりと指を鳴らすと、どこからともなく薔薇の花束を取り出した。
「これは、そのほんの御礼です」
「まぁ……!」
大富豪の令嬢たる彼女から見ても見事な花束に一瞬目を奪われると、その隙に怪人は部屋から姿を消していた。
「あ……」
きょろきょろと当たりを見回した少女はひとつ息を呑むと、窓辺に駆け寄ってもはや姿の見えない人に届くように声を張り上げた。
「さようなら、マッドハッター様!」
そして彼女こそが、この帝都で怪人マッドハッターと言葉を交わした、最後の目撃者となる。
...143
日常が戻ってくる――。
「ようやく学校も再開、か。でも……」
「うん……やっぱり寂しいね」
人数の減った教室。
高等部のどこにもいないヴェイツェ=アヴァール。
エラフィとレントは他の者たちを待つ間、二人で話している。
「校門前に取材が来てたらしいんだけど」
「うん……」
男子高生が手も触れずに人を殺害。その場合疑われるのは魔導だ。そして魔導について教えるのは帝都でもここ、ジグラード学院しかない。
「まぁ、ヴァイス先生なら大丈夫でしょうけど」
魔導関係の講師は何人か在籍しているが、その中でもほとんどの授業をヴァイスが引き受けている状態だ。
「アリス君とシャトンちゃんも心配だね」
「それこそあの二人だもの。きっと大丈夫よ」
いざとなれば、それこそ魔導でもなんでも使って学院に登校してくるだろう。生徒が自分の通う学校に入るのにそんなことをしなければならない時点で異常事態だが。
「レントはどうしたの?」
「……親父に心配されまして」
車で職員用の入り口から入ったのだと言う。
「このお坊ちゃまめー」
「そういうエラフィは?」
「登校した時誰もいなかったわよ」
「え……何時間前に来たの?」
「だって、今までずっと私より先に来てた奴がいるんだもの」
「……」
調子が狂う。上手く今を処理できない。
テラスとヴェイツェの死と共に、何かが変わってしまった。
「おはよう二人とも」
「ギネカ!」
「おはよう。大丈夫だった?」
ギネカは先に小等部の教室に寄って子どもたちに会って来たらしい。
学院の方が不審者対策をして、この時間の生徒たちはみんな平穏に登校できているそうだ。
「不審者対策?」
「内容は聞かない方がいいわよ。結構な強硬策だから……テラス君のことを、ハンプティ・ダンプティの一件と結び付けられたくないからでしょうね。小等部の子どもたちに取材と称して無神経なことを聞くなんて許されないわよ」
同じ学院で立て続けに高等部と小等部の生徒が死亡していることに関し、世間の不審の目は逃れられないということだろう。
「しばらく騒がしい日々が続きそうね」
三人は溜息を吐く。
落ち着いて友人の死を悼むことすら、彼らには許されないのか。
「あ、あの二人も来たわね」
エラフィの声に、レントとギネカも教室の入り口へと目を向ける。
いつもの幼馴染コンビが入ってくる。
「フート、ムース」
「おう、セルフ。おはよう」
「おはようございます、皆さん」
ギネカは複雑な顔で、その二人を見つめる。
そこにいたのはムース=シェラーフェン。そして。
いなくなったはずの、フート=マルティウスと同じ顔をした少年だった。
◆◆◆◆◆
怪人マッドハッターの最後の犯行があった夜――。
「あんたたちは何者なんだ?」
近くの公園に移動して、アリスたち一行と、もう一人の怪人マッドハッターは向かい合った。
アリス、シャトン、ギネカ、ヴァイスの四人は、マッドハッターの隣に立つ少女の正体についてはもう見当がついている。
「……ムース」
「やっぱりバレますよね」
仮面を外した眠り鼠の正体はムース=シェラーフェン。
アリスたちの友人だ。
「アリスト君も色々あったようで。私はいつも現場にはいませんでしたけれど……フートから聞きました」
「フートが怪盗をやるなら、相棒はお前しかいないよな」
怪盗ジャックことネイヴの相棒料理女がギネカであるように、フートが怪人マッドハッターなら、その相棒は幼馴染のムースしかいない。
だが、そのフートは先程テラスの残留思念――魂に導かれてこの世ならざる何処かへと行ってしまった。
ここにいるもう一人の怪人は誰だ?
――仮面を外したマッドハッターの顔は、フートに瓜二つだった。
だが他でもないその顔を見て、アリスはあることに気づく。
「お前……ザイ?」
「え?」
「アリス? 何か知ってるの?」
「小学校……今の小等部じゃなくて、アリストとして帝都に引っ越してくる前に通ってた小学校時代の友人だ。え? でも……」
アリスト本来の小学生時代は数年前だ。
ザイはその時の友人。そのはずなのだけれど。
「そうだ。久しぶり、アリスト=レーヌ。懐かしいな。そして俺は――フート=マルティウスの兄、ザーイエッツ=マルティウスでもある」
「フートの兄?」
「フートのお兄さんって、私たちより十歳年上だって……」
何かの機会に聞いた話を思い出し、アリスたちは目を瞬かせた。
「君たちがそれを言うのか? 時を盗まれた“アリス”。その生き証人である君たちが」
その指摘に、アリスとギネカはハッと顔を見合わせる。
そしてある意味彼ら以上に驚いているシャトンへと視線を向けた。
「まさか……」
「そうだ。教団の天才魔導士、コードネーム“チェシャ猫”よ。俺はあんたが十年前に作った試作品の禁呪によって時を盗まれ、十年若返ってしまった。本来の俺は、今年で二十七歳になる」
一同は絶句する。
十年前にその結果なら、彼も今のアリスと同じように、高校生から一気に子どもへと変わってしまったということになる。
「だから……フートのところに帰れなかったのね」
「そういうこと」
困ったように笑う顔は、本当にフートにそっくりだった。並べば双子のように見えたに違いない。
「ムースはいつから知ってたの?」
「……つい数時間前、ザーイが私に会いに来た時に」
フートとずっと共にいた幼馴染は、彼の事情をようやく明らかにした。
「フートが怪人マッドハッターになったのは、十年前の怪盗――ザーイの後を継いでのことなんです。行方不明になったザーイを探すために、フートはマッドハッターになった……」
薄々おかしいとは思っていたのだ。フートが怪人マッドハッターなら、十年前の犯行は無理だ。年齢が合わない。
兄であるザーイエッツこそが、本来のマッドハッターだったのだと。
「私の……」
シャトンがくしゃりと顔を歪めて呻くように零した。
「私の、せいね」
「まぁ、間接的にはね」
ザーイエッツは否定せずに頷いた。そこを誤魔化しても仕方がないと言うように。
「だが十年前の禁呪は、まだ幼い君が作った試作品だったからこそ効果が不完全で俺は生き延びることができたんだ」
ザーイエッツはアリスのように魔導防壁で術の効果を軽減したわけではなく、術を喰らっても時間を全て巻き戻されて死んだりはせず、ただ若返っただけだったらしい。
それこそが術が不完全だったということだ。そこからこの禁呪を完成させるためにシャトンが要した時間が十年。
そして十年も前に禁呪の原型を作り上げていたシャトンの才能も恐ろしいが、この十年ずっと子どもの振りをして潜伏していたザーイエッツの胆力も相当なもの。
「俺たちと一緒にいる間、お前はずっと……」
ザーイエッツが苦笑する。
アリスはたびたびフートによく似たこの友人のことを思い返してはテラスと比べていたが、そうではなかったのだ。
「ザイ」はテラスのように元から大人びた子どもなのではなく、時間を盗まれて十七歳の記憶を持ったまま若返ったアリスと同じ存在だった。
そしてそのテラスが、再び二者を繋ぐ。
「俺が帝都に戻ることを選んだのは、ジャバウォックから連絡を受けたからだ」
フートが怪人マッドハッターとしてその姿を世間に現した頃、潜伏中のザーイエッツは弟の下に戻るかどうか迷っていたらしい。
いきなり真実を明かせば驚かせてしまう。けれど傍に行かなければ弟の現状すら知ることはできない。
そんな時、フートの状況を知らせたのがまだ正体を見せていなかった姿なき情報屋ジャバウォック――テラスだったのだと言う。
「さすがにジャバウォックの正体があんな小さな子どもだったのは意外だが」
「……」
テラスの名を聞くと、やはり今はまだアリスたちの心は軋む。
ザーイエッツは構わずに話し続けた。今は彼らの死を悼むより先に、やるべきことがある。
彼らを殺した、睡蓮教団を止めるのだ。
「俺はこの十年間ずっと、睡蓮教団に対抗するための力と手段――仲間を探していた」
怪人マッドハッターとして奴らに敗れ時を盗まれた時に、ザーイエッツは一人で戦い続けることは不可能だと悟ったのだ。
弟のフートは似たような道を辿りかけたが、結局はテラスのおかげでそうはならなかった。
戦う道自体を放棄したと言えるが、それでいい。望まぬ復讐などする必要はない。
だがザーイエッツは、だからこそ両親の分もフートの分もテラスの分も、全てをかけた復讐を貫く。
彼は今夜、そのための申し込みをしにここまでやって来たのだった。
「俺の今のコードネームは“三月兎”。教団の敵対者の一人として、お前たちと手を組みたい」
...144
アリスたちは三月兎と手を組むことになった。
眠り鼠ことムースを含めて、仲間が二人増えた。
そして彼、ザーイエッツは“フート=マルティウス”としてしばらくジグラード学院に通うらしい。
「なんで……」
「この状況でフートがいきなり消えたら、やはりハンプティ・ダンプティの件と何か関係があるかと疑いがかかるだろう。世間の目はともかく、教団の注意を引きたくない」
赤騎士ことルルティス=ランシェットの件もあるのだが、彼は所属しているはずの教団にアリスたちの情報を流す気がないらしいこともあって保留だ。
「俺が君たちと接触するにしても、今更フートと同じ顔の『ザイ』と新たに交流関係を築くよりも、フートに成りすました方が手っ取り早い」
「……」
色々と思う所はあるのだが、ザーイエッツの判断は無駄がなさ過ぎてアリスたちにも反論はできなかった。
この状況はフートがいれば生まれなかったものだ。
彼が姿を消した以上、そのフォローは何らかの形で考えなければいけない。
いきなり行方不明などと事件にしたり、アリスたちがメールで替え玉をするなど不自然なことになるよりは、フートと同じ顔のザーイエッツが代役を務めるのがマシ……なのかもしれない。
「エラフィとレントは気付くかしら」
「どうだろうな……違和感は覚えても、同じ顔した奴にあんたフートじゃないでしょなんて言えないだろ?」
「でもエラフィって、ヴェルムの変装は見抜いたのよね」
「そりゃ幼馴染だからな……俺とヴェルムは髪の色と体格以外はそんなにそっくりって程じゃないし」
考えられるあらゆる問題を一つ一つ洗い出しては潰して行きながら、最後は結局感情的な問題をアリスは告げる。
「それに何より……ヴェイツェとテラスがいなくなったばかりなのに、フートまでなんて言いたくないんだ」
「……そうね」
いつか二人も真実に気づくかもしれないが、それは今でなくていい。
今気づいたら、あの二人も巻き込んでしまう。そんなことになって欲しくない。
それがアリスたちの結論だった。
◆◆◆◆◆
事件翌日の学院は、さすがに疲れた。
アリスも、他の者たちも。
「ただいまー、と」
「おかえり」
「ヴァイス……早かったんだな」
「さすがにこの状況で何時間も仕事をする気にはなれん」
アリスが帰りつくよりも早く、ヴァイスの方がすでに帰宅していた。
ヴァイスがヴェイツェやテラスとただの教師生徒の交流を超えて仲が良かったことを他の教諭たちも知っているので、気遣ってくれたのだろう。
「むしろ、お前たちのことを心配してやれと言われた」
「そうだな……」
アリスとシャトンにとって、テラスという友人を亡くしたばかりだからと。
シャトンに関しては、ギネカと少し寄り道をしてから帰宅すると言う。
事件の情報を得たいマスコミは恐らく、ヴァイスがアリスとシャトンと言う二人の生徒を預かっていることも突き止めているだろう。数日は外で一緒に行動しない方がいいというシャトン自身の判断だった。
それに、三月兎ことザーイエッツの件でまたショックを受けている彼女自身にも気分を変えることは必要だと。
ギネカが気晴らしに付き合う約束をしてくれたので、アリスは友人のその言葉に甘えて一足先に帰って来たのだ。
「モンストルムのことはともかく、アヴァールとマルティウスについては責任を感じている」
「……ヴァイス?」
そうして帰宅したアリスを出迎えたのは、こうして落ち込んだヴァイスという事態だ。
彼はテーブルの上で組んだ腕に顎を乗せるような形で俯いている。
常に自信を失わない態度のヴァイスが、初めて見せるその様子にアリスは思わずかける言葉を失った。
「あの二人に、魔導を教えたのは私だ」
ヴェイツェは最後の日までは犯行に魔導を使わなかった。フートは怪人マッドハッターとして、たまに魔導を使ってもいたらしい。
ヴェイツェ――ハンプティ・ダンプティが魔導を犯行に使っていたら、ヴァイスはもっと早く真実に辿り着けただろう。
フート――怪人マッドハッターが魔導を使わなければ、彼は怪盗として危険な活動をしようとは思わなかったかもしれない。
どちらの悲劇にも、魔導が絡んでいる。ヴァイスの教えた魔導が。
「背徳神の魂の欠片を持つせいで、周囲を不幸にしているのは私も同じだ」
シャトンと似たようなことを言っているなとアリスは思った。
彼女も三月兎ことザーイエッツの境遇を聞いて、改めて自分を責めていた。
だからアリスは、その時シャトンと交わした会話をもう一度ヴァイスと繰り返す。
「ヴァイス=ルイツァーリ講師。あんたがいなかったら、俺は教団と顔を合わせたあの日に死んでいたよ」
時を盗まれわけもわからぬまま子どもの姿で赤騎士から逃げ回っていたアリスを救ったのは、ヴァイスとシャトン。
二人がいなければ、アリスは今どんな姿だろうとここにいることはないのだ。
「過去を悔やんでも仕方がない。どんな道を辿っても、救える奴がいれば、救えない奴もいる。そして自分の運命を決めるのは、結局自分自身なんだ」
降りかかる逃れられない試練が運命なのではなく。
それに立ち向かおうと自分が選んだ時、その道はたった一つの運命となる。
ヴェイツェもフートも、アリストやギネカ、シャトンにテラス、他の皆も。
それぞれの道を選んだだけだ。
「……あんたがいてくれて良かった」
「アリスト……お前……」
顔を上げたヴァイスが呆然としていた。
面と向かって言うには、あまりにも今更な言葉だった。
けれどそれを伝えるのが、ヴェイツェのように最期の瞬間になるのなんてアリスは御免だ。
――アリスト……お前は、自分の時を取り戻して……。
友人との約束は必ず守る。
アリスは、“アリスト”を取り戻す。睡蓮教団との戦いを諦めない。
会話の区切りを見計らったかのように、電話が入る。
『こちら“バンダースナッチ”』
「フォリー……コードネームってことは、不思議の国関連か?」
フォリーはテラスから自分がいなくなった後のことを頼まれていたと言い、こうしてちょくちょく連絡を入れてくる。
『“覚悟は決まったようだね、アリス”って言えって』
「テラスの奴は、一体どこまで先を読んでたんだ……?」
創造の魔術師の魂を持つ彼は「バベルの図書館」――天の板とも年代記とも呼ばれる世界の記憶を自在に引き出すことができるらしい。
彼にとって過去と未来は常に交錯し、今の延長線上ではなく、先の時間軸をまるで今のように知ることも出来ると言う。
そこまで行くとアリスにはさっぱり原理がわからないのだが、テラスが言うにはそうなのだ。
『……“物語の中で、正体不明の怪物ジャバウォックを倒したヴォーパルソード、これは一説には無意味な議論を一刀両断する真理の言葉だと言われている”』
戸惑うアリスの様子は意に介さず、フォリーは生前のテラスから教えられていた通りに伝言を伝えてくる。
『“だから僕も、君に怪物を倒すための真理の剣――睡蓮教団の息の根を止めるための情報を与えたいと思う”』
「!」
テラスが生きているうちには聞かせてくれなかった、情報屋ジャバウォックとしての助言だ。
姿なき情報屋は本当に姿を失くした今こそ、その本領を発揮しているのかもしれない。
アリスたちは睡蓮教団への、最高の武器を手に入れる――。
◆◆◆◆◆
学院内の小さな聖堂で一人、彼女は祈りを捧げる。
未だ遺体が返却されず、葬儀どころか墓を作ることもままならぬ少年のために。
「もう、黙っていられる状況ではないわね」
祈りを捧げ終えると彼女は立ち上がり、友人のことを考えながら宣言する。
「レジーナ、あなたは私との約束を破り、禁を犯した。その報いは受けてもらわなければならないわ」
手元に現在の睡蓮教団の資料を積み上げ、彼女はここまで用意してきた外套を羽織る。
夏に向かうこの季節には似つかわしくない厚地の紅い装束。魔導用の防御被膜を施した、特注の戦闘服へと。
「決着をつけましょう。私とあなた、どちらが“女王”の名に相応しいか」
一人の少年の死によって、もう一人の“女王”は長き沈黙を破り、再び帝都の夜に降り立つ。
運命の歯車は、ついに物語の終わりに向けて動き出した――。
第6章 了.




