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Pinky Promise  作者: きちょう
第6章 真理の剣
23/30

23.割れた卵

...133


 Humpty Dumpty sat on a wall,

 Humpty Dumpty had a great fall.

 All the king's horses and all the king's men

 Couldn't put Humpty together again.


 ――だから、全てを終わらせなければ。


 全てを。


 自分が背徳神の魂の欠片を持つ者であり、その自分を覚醒させるために睡蓮教団が事故を起こし、両親を含む多くの人々が犠牲となった。

 それを知ってしまい、ヴェイツェの世界は一変した。

 憎悪と絶望、そして生きていることへの罪悪感が常に自分を支配する。

 自分が生まれてきただけで、両親とたくさんの人々を死なせてしまった。

 自分がここにいるだけで。

 ……もう何を信じればいいのかわからない。

 償おうにも償えない程の罪。

 事故の話を聞きたくなかった。遺族として事故を思い出したくなかったと言う訳ではない。

 あの爆発事故で家族や友人を喪った人々の話を聞くたび、ヴェイツェは罪の意識で追い詰められていった。

 彼らの悲しみは全て自分のせいなのだ。その矛先を探すために事故の関係者がマスコミや訳知り顔の評論家に責められることも耐え難かった。

 けれど、本当のことを言えるはずもない。

 宗教的犯罪組織が邪神を蘇らせるために、その因子を持った人間を巻き込んで事故を起こし四百人以上を殺した。どうやってそれを証明するのだ。この時代に!

 ヴェイツェ自身が年端もいかない子どもの頃に事故に巻き込まれた被害者と言うこともある。きっと正気を失ったのだと憐れまれて終わりだ。

 ……本当にそうだったのなら、どれ程良かったのだろう。悪いことはみんな夢。ヴェイツェだけが醒めない悪夢を見続けているのなら。

 でもこれは現実なのだ。

 狂おしい程に、現実なのだ。

「僕が……」

 ここにいなければ。

「僕が……生まれて来なければ……!」

 誰も不幸にはならなかったのに――。


 もしも時間を巻き戻して過去に戻れるなら、生まれる前に自分を殺してやり直させて。


 こんなはずじゃない。こんなはずじゃなかった、そのはずなのに。

 自分さえ。

 自分さえ生まれて来なければ。

 自分の大切な人も、誰かの大切な人も、あんな形で死なせずに済んだ。

 なのにヴェイツェは、自分だけ生き残ってしまった。

 否、本当はヴェイツェ自身も、あの事故で死んだのだろう。

 けれど背徳神の魂の欠片を持っていたから、生き返ることができた。魂の光を見ることのできる、魔導士の第七感を持って。それこそが睡蓮教団の狙いだった。

 神の奇跡なんていらない。

 ……そんなものがあるならば、どうして邪神を蘇る余地すらなく滅ぼしてくれなかったのか。

 どうして辰砂は、背徳神を完全に殺してしまわなかったのか。

 黒い流星が世界各地に散らばった後の数百年間、世界中が魔物に脅かされ人類は滅びかけた。そんな苦しい思いをさせるとわかっていて、創造の魔術師は背徳神の魂を砕いた。

 ――しかし、この神話は、後のヴェイツェにヒントを与えた。

 両親の死から始まった全てに苦しむヴェイツェを導いたのも、皮肉なことに両親の死だった。

 生まれながらの罪人として生きる意味を見失ったヴェイツェに残されたものは、自分から全てを奪った睡蓮教団への憎しみ。

 だが、両親のことを考えれば、それでいいのだと思った。

 ヴェイツェはあくまでもヴェイツェ=アヴァールであって、背徳神グラスヴェリアではない。

 だから両親を殺した教団が憎くて当たり前なのだ。彼らが自分に背徳神としてどんな期待をかけていたのだろうと、知ったことではない。

 ならばこの先するべきことはたった一つ。

 睡蓮教団への復讐。

 絶対に赦せない、この胸の憎悪の対象である睡蓮教団の人間たちを殺す。

 できれば教団ごと潰してやりたいが、ヴェイツェにはそこまでの力はない。けれど、あの「事故」に関わった連中は全て殺してやる。

 そのためならどんなことだってする。

 自分の命も神の魂も総てをかけて。

 そうしてヴェイツェは復讐鬼“ハンプティ・ダンプティ”となり、教団の関係者でかつての「事故」に関わった人間を次々と殺して行った。

 唯一の手がかりは直接接触した睡蓮教団の男女。探偵のヴェルムと違って確たる証拠をどこかに提出する必要のないヴェイツェにとっては、それで十分だった。

 一人情報を聞き出せば後は早い。

 皮肉なのか当然なのか、ヴェイツェを追い詰めた原因である背徳神の魂の欠片が不可能を全て可能にし、ヴェイツェの復讐を次々と叶えさせてくれた。

 だからこそ、途中で止めることもできなかった。

 もしもヴェイツェが普通の人間であったなら、両親も他の人々も巻き添えで死ぬことはなかった。

 もしもヴェイツェが普通の人間であったなら、途中で足がつき復讐を全て果たす前に警察に捕まっていたことだろう。

 復讐が遂げられて嬉しいはずなのに気分が晴れない。

 結局自分の力も存在も、人を殺すことにしか役立たないことを思い知らされる。

 生まれて来るべきではなかったのだ、自分は。

 だから、裁きの時がやってきたのかもしれない。反論する言葉を自分は持たず、救われる資格なんて最初からなかった。


「ヴェイツェ、てめぇ――!」


 救われてはいけないのだ、自分は。


 『不思議の国のアリス』に登場するハンプティ・ダンプティは、マザーグースの謎かけの答である「卵」の擬人化。

 王様の兵をみんな集めても、王様の馬をみんな集めても。


 割れた卵は、決して元には戻せない――。


...134


 ――彼を助けて。――魂を救って。

 ――それがわかった時は、もう全てが動き出している。


 約束を、守らないと。


 ◆◆◆◆◆


 “帽子屋”フートは“ハンプティ・ダンプティ”ヴェイツェを追いかける。

 “アリス”はその二人を追いかける。

 テラスの遺体をシャトンに任せ、アリスはどんどん暗くなる空の下を走り続けた。

 暗雲が広がり、空気は雨の気配を含む。

 ヴァイスと、一緒にいたヴェルムもシャトンから連絡を受けてこちらに向かっているらしい。

 ギネカは怪盗ジャックであるネイヴと共に誘拐事件の解決に手一杯ですぐにこちらには来れない。

 レント、エラフィ、ムース、友人たちの顔を次々に思い浮かべるが、どう連絡していいかはわからない。

 テラスが自分を選んだ訳もわかると言うものだ。ヴェイツェとフート、両方の事情を理解して止めることのできる人材は限られている。

 友人なのに。友人だからこそ。

 言えなかったのだろう。

 フートは、自分が怪人マッドハッターだとは。

 ヴェイツェは、自分がハンプティ・ダンプティだとは。

 言える訳がない。

 自分自身がそうだったではないか。アリスト=レーヌであると、アリスはずっと言えなかったではないか。

 それでもアリストが幸運だったのは、友人であるギネカが本気で彼を心配し、その真実に辿り着いてくれたことだ。

 ギネカはアリストを心配して探し出して、そして信じて自分の秘密も打ち明けてくれた。

 彼女が自分にしてくれたように、ヴェイツェの、フートの、そしてテラスの友人である自分自身こそが、この混乱に立ち向かわなければいけないのだ。

 アリスは身体強化で必死に二人を追う。しかし、子どもの体では高等部生の二人にすぐには追いつけない。体力だってアリスの方が先に尽きる。シャトンの魔導具である時計によって一時的にアリストの姿に戻っても、短時間しか維持できないなら魔力の無駄だ。

「まっすぐ追うだけじゃ駄目だ、目的を掴んで先回りしなきゃ……!」

 ヴェイツェが逃げていて、フートはそれを追っている。ならば考えるべきはヴェイツェの目的。

 そもそも二人とも今は何をどうするつもりなのだろう。ヴェイツェがテラスを殺したという誤解により怒り心頭のはずのフートは、ヴェイツェに何をするつもりなのか。

 ヴェイツェはフートが自分を追ってくる理由をどう考えているのか。

「ヴェイツェとしては、ここで捕まる訳にはいかないはずだ」

 フートが怒りによってヴェイツェを捕らえて警察に突き出すつもりなのか、それとも実は殺す気でかかっているのか?

 アリスにはわからない。そこまでフートが過激なことを考えているとも思いたくない。

 けれどどちらにしろヴェイツェはここでフートに捕まりたくはないはずだ。

 逃げたということは、彼にはまだ果たすべき目的が残っているということ。

 折よく携帯のコールが鳴る。

『アリス、そっちはどうなってる?!』

「ヴェルム、今大変なんだ」

『ハンプティ・ダンプティのことなら、こっちにもチェシャ猫から連絡が来た。ヴェイツェ=アヴァールのことなら、彼がまだ復讐すべき相手は残っているらしい』

 シャトンとフォリーが詳しく事情を説明してくれたのか、ヴェルムのもたらした情報はまるでアリスの心の中を読んだかのように的確だった。

 彼は彼で、探偵としてある程度ハンプティ・ダンプティの正体にあたりをつけていたのだと言う……。

 そのヴェルム自身が集めた情報の中にあった、復讐対象の推測もあった。

『かつてヴェイツェ=アヴァールが両親を失った事故。これは恐らく睡蓮教団が引き起こしたものだ』

 ハンプティ・ダンプティの殺害動機は強い恨みによるもの。

 被害者、すなわち標的は教団の構成員。

『その“事件”の関係者――睡蓮教団の人間と思われる人間があと三人、残っている』

 フートに追われているヴェイツェは、警察や怪人に捕まる前に復讐を遂げるはずだ。

「その三人の現在地を教えてくれ!」

 職場でも家でも、今いるところを。

 たまたま出会っただけのティードルダムとティードルディーを見間違えることなく殺したハンプティ・ダンプティは、その居場所まで全て記憶に叩き込んでいるはずだ。


 ◆◆◆◆◆


 復讐相手はすでに残り三人にまで減っている。

 ヴェイツェが廃ビルでニセウミガメとグリフォンを殺さなかったのは、彼らは睡蓮教団ではあるが、あの「事故」とは無関係な人間だったからだ。

 それならば警察に任せればいい。

 ヴェイツェが殺したいのは、自分と両親と「事故」に巻き込まれた人々の命を奪った人間だけだった。

 あと三人。三人ならば、なりふり構わなければ今からでも殺せる。

 ヴェイツェはもはや魔導までも使い、ビルの七階に飛び込む。

 ガシャン!!

「きゃああ!」

「うわ、なんだぁ?!」

 何も事情を知らぬ人々が驚く中、標的である男の前に、自らも硝子を突き破った血に濡れた体で立つ。

「なんだお前は?!」

 吹き込む雨風に吹かれながら、目の前の男だけに聞こえるよう囁いた。

「十年前のビスク地域爆発事故」

「――!」

 ヴェイツェがその名を口にした途端、男の表情が凍りつく。

 標的は一見したところ、何の変哲もない普通の男だった。恰幅の良い中年で、皺だらけの顔も温厚そうに見えるだろう。けれど。

「忘れたとは言わせない。お前の罪を」

「専務!」

 ヴェイツェはいつものように、削り取った自らの魂を媒体として呪詛をかける。

 男は自分自身の腕で、自らの首を骨が折れる程に締めて絶命した。

 悲鳴が響き渡る。緩やかに広がる血だまりに周囲は阿鼻叫喚となった。

 男の死に様を見届けると、彼を取り押さえようと周囲の人間が動く前にまたヴェイツェは窓から飛び降りる。

「ヴェイツェ!」

 後を追ってきたフートに見つかったようだ。呼び声に姿を確認しようと振り返るが、視界を埋め尽くしたのは黒いマントだった。

「!? ……マッドハッター!」

 叩き込まれようとした鋭い蹴りを間一髪で躱す。

 白い仮面の下で睨む目は確かに友人の金色だ。

「そうか……そういうことか……!」

 フートもまた自分の正体を隠していたのか。気づかなかった。教団の敵対者である怪盗二人に関しては注意して見ていたつもりだったが、自分もまだまだだと言うことだ。

 真実なんてそう簡単には手に入らない。

「よくも……よくも彼を……!」

 フートはテラスが好きだったのだ。

 テラスこそが、怪人マッドハッターの犯行の情報を度々警察に流して邪魔していたジャバウォックの正体だと言うのは皮肉かも知れないが。

 ああこれは殺されるな、とヴェイツェは思った。

 彼の大切な人を殺したと誤解されている。

 ……否、テラスがヴェイツェを助けようとして行動したのだから、間違いなくテラスはヴェイツェのせいで死んだのだ。

 それなら、フートに憎まれて殺されても仕方ない。

 けれど。

「今ここで殺される訳にはいかない……!」

「てめぇ……!」

 鋭い攻防を繰り返す二人の様相に周囲が騒ぐのも気に留めず、ヴェイツェとフート――怪人マッドハッターは魔導を用いた格闘戦を繰り広げる。

「僕が君に殺されてやるのは――」

 せめてあと二人、仇を殺してから。

 ヴェイツェはフートの攻撃に反撃して一度距離をとると、またしても彼を撒くために走り出した。


...135


 探偵ヴェルムはヴァイスの車の中から、一連の事件で知り得たことを可能な限り警察に報告していた。

 まだ証拠固めは万全ではないが、もうそんなことをしている段階ではない。

「ええ。ええ、はい。そうです。これから本人に確かめに行くところなんですが――」

『ちょっと待て! 殺人犯と直接接触するつもりなのか?! 危険すぎる! 我々警察の到着を――』

「すでに友人が追っているんです! 俺だけ漫然と見ている訳にはいきません!」

『――ッ……』

 電話口で渋い顔をしているだろうイスプラクトル警部の顔を思い浮かべ、ヴェルムは申し訳なく思いながらも意志を変えなかった。

「すみません。でも俺は大丈夫です。こっちにはヴァイスもいる。それより、ハンプティ・ダンプティを追っている友人たちが心配なんです」

 ヴァイスはずっと無言で車を運転している。

 口を開けば様々な感情が零れ落ちてしまうとでも言うように。

「畜生」

 電話を切ったヴェルムは力なく毒づいて、考えても詮無いことを考える。

「後半日あれば……!」

 シャトンから連絡が来た時には答にほぼ辿り着いていたのだ。後半日あれば、こんな事態にならずともハンプティ・ダンプティを確保できたはずだった。

「それこそが睡蓮教団の罠だろう」

 ヴェルムがハンプティ・ダンプティの捜査を足止めされたのは、怪人マッドハッターにかけられた殺人容疑を解いていたからだった。

 逆に言えば、その時間を作り出すために教団はわざわざマッドハッターに嫌疑をかけたのである。

 ――そしてこの時点では、まだヴェルムもヴァイスも、怪人マッドハッターの正体こそが、フート=マルティウスであることを知らない。

「ヴァイス、もし俺が邪魔なら置いて行っていいぞ」

 魔導士は身体能力を強化して走る方が、下手な交通手段より早く移動できる場合もあると聞く。

「この状況じゃどうせもう走っても変わらん。渋滞にでも巻き込まれない限りはな」

 教え子の危機にかけつけられない教師はそれでも平静を装ったままハンドルを握り続ける。

「畜生」

 ヴェルムは再び毒づく。

「どうしていつも間に合わないんだ。手が届かないんだよ……!」

 届かぬ祈りは雨に降られる車内に閉じ込められ、虚しく響いた。


 ◆◆◆◆◆


 コール音が響く。

「フォリーちゃん、どうしたの?」

 雨雲の向こうで日も沈み夜にさしかかろうと言う時間帯にも関わらず、その電話には皆が応えた。

「え? テラス君とヴェイツェが大変?」

「わかった、すぐに行くよ」

 エラフィが、レントが、カナールが、ネスルが、ローロが、そして誘拐事件を解決し終わったギネカとネイヴがその連絡を受け取り行動を始める。

「乗れ! ギネカ!」

「お願いネイヴ!」

 一日中バイクで移動し続け疲れ切っている怪盗コンビだったが、まだ気を抜けない。

 ムースの方にはすでに、フートを止めてくれるようシャトンから連絡を入れてある。

 誰もが帝都を駆けまわっていた。

 大切な友人たちを救うために。


 ◆◆◆◆◆


 二人目を殺害し終えた。

 あと一人。

 あと一人殺せば、ヴェイツェの復讐は達成される。

 怪人マッドハッターことフートが追い付く気配を感じ、ヴェイツェはまたすぐに逃走を開始する。

 胸が激しく痛む。心臓に異常はないはずだが、魂は大体この辺りに入っているとでも言うのだろうか。

 身体の他の部分もあちこち痛む。

 雨が降り出したからだ。気圧が下がって古傷が痛み出した。

 その痛みが、ヴェイツェを少しだけ冷静にしてくれる。

 否、もうとっくに狂ってしまっているだけかもしれない。

 あと一人。

 あと一人、殺せれば。

 街の騒ぎが段々と大きくなる。ヴェイツェの行動や血まみれの格好もそうだが、追ってくる相手が怪人マッドハッターだからと言うのもあるのだろう。

 ヴェイツェが今日の服装に標的殺害のため色々と仕込んでいたように、フートは怪盗であるあの格好の方が仕掛けを施してあり動きやすいのだろう。

 だが捨て身加減は、自らの死さえ目前にしたヴェイツェの方が上だ。

 普段の成績や元々の才能はフートの方が上。嫌と言う程よく知っているからこそ、一番大事なこの時に負ける訳にはいかなかった。

 どうせ死ぬにしても、復讐を達してからだ。

 最後の一人を殺すために、ヴェイツェは病院を目指す。

 だが。


「そこまでだ!」


 小さな人影にテラスのことを思い出してぎくりとし、鮮やかな金髪にすぐに違うと気付く。

「アリスくん……」

 彼は、隣のビルから飛び移ってきたヴェイツェを病院の屋上で待ち構えていた。

 降り出した雨音に負けぬよう、アリスは声を張り上げる。

「ヴェイツェ、お前の復讐はもう終わりだ。だって」

 それは、今のヴェイツェが最も聞きたくなかった言葉だ。

「……お前が復讐しようとした十年前のビスク地域の爆発事故の首謀者は、さっきこの病院で息を引き取ったから――」

 アリスの言葉を聞いたヴェイツェの身体から力が抜け落ちる。

 終わった。

 全てが終わってしまった。


...136


 ハンプティ・ダンプティの復讐が終わった。

「自分で仕掛けた爆発事故に巻き込まれたものの、どうしてそんな怪我を負ったのか警察に説明できないばっかりにろくな治療を受けられなかったらしいぜ。さんざん苦しんだ挙句医療ミスで植物状態になって十年、ついさっき息を引き取ったんだ」

 ヴェルムから復讐相手の情報を聞いたアリスは、最後に狙われるのは首謀者と目されるその人物だとあたりをつけた。

 そして居場所を探すために病院の受付で聞いたところ、ついさっき亡くなったことを教えてもらったのだ。

 もうヴェイツェが殺すべき相手はこの世のどこにもいない。

「神様は、ちゃんとそいつに罰を与えていたよ」

「……嘘だ!」

「本当だ。だからもう、これ以上お前が手を汚す必要なんてない」

 アリスは真っ直ぐに言い切った。


「もう終わりにしていいんだ」


「……アリスト」

 小さな少年を十七歳の友人の名で、怪人の姿をしたフート=マルティウスが呼んだ。

「フート」

 そしてアリスの方も、怪人マッドハッターの姿をした友人に呼びかける。お前の正体をもう知っているのだと伝えるために。

 七歳と十七歳の、随分高さの違う視線で睨み合う。

「そこを退け」

「嫌だ。と言うか、冷静になれよお前」

「なれるもんか! ヴェイツェは彼を殺したんだ、これが許せ――」

「違う! ヴェイツェは殺してない!」

「あの状況でそんな言い逃れをするのか?!」

「お前こそ思い出して見ろよ! テラスは何で殺されていた! ヴェイツェはその時何を持っていた?!」

「何――」

 激昂しかけたフートだったが、アリスの言葉を受けて、優秀な脳が咄嗟にあの時の光景を思い返す。

 心臓を銃で撃たれていたテラス、広がる血だまり。その傍らに膝をついて両手を血に染めていたヴェイツェ。その手には――。

「――あ……」

 その手には、何も握られていなかった。

 テラス=モンストルムを殺害したのは、ヴェイツェ=アヴァールではないのだ。

「思い出したか? 大体、ヴェイツェが銃なんか使うわけないだろ?」

 そんなことをすればすぐにヴァイスにばれる。ヴェイツェが警察に捕まらず協力要請を受けたヴァイスの目もすり抜けたのは、魂を使った呪詛という特殊な方法をとったからなのだ。

「けど!」

 フートの怒りはまだ収まらず、憎しみを向ける矛先を探している。

「だったらどうしてヴェイツェはあの場にいたんだ! あんなところで何をしていたんだよ?! どうしてあの子が死ななくちゃいけなかったんだ!?」

「……そう言えば」

 この緊迫した場面にも関わらず、アリスはしまったという顔になる。

「テラスを殺したのって、結局誰なんだ? 俺もそれ聞いてない……」

「アリスト!」

 本気で怒っているフートの声にまずいと思うのだが、聞いてないものは聞いていないのだ。

「え、いや、ちょっと待て。睡蓮教団の誰かだとは思うんだけど――」

 アリスはその状況の理由こそ心当たりはあるが、結局あの廃ビルでは睡蓮教団の姿を見ていないのだ。同時にアリスの姿も見られてはいない。それはフートの方も同じである。

「彼は……」

 廃ビルで睡蓮教団と直接対峙したのは、ヴェイツェだけだった。

 けれどそのヴェイツェも肝心なことは何一つ聞いていないことに、今気づいた。

「テラス君は……僕にもそれを言わなかった」

 真っ先に駆けつけたヴェイツェにすら、テラスは犯人の名を言わなかった。

 全てを知る情報屋ジャバウォックでありながら。

 彼がその時だけ子どもらしく取り乱して犯人の名を伝え忘れたなどと言うことは、ここにいる誰も思わなかった。何せ「あの」テラスだ。

 だからきっと。

「それが……テラスの意志だったんだよ」

 アリスの脳裏には、テラスのいつもの笑顔が自然と浮かんでくる。

 自分はただの子どもだといつも言いながら、それでもまるで、この世に不可能なことなんて何もないように笑っている。

 彼はきっと信じていた。この世に救いがあることを。

 そして望んでいなかった。ヴェイツェやフートが、テラスを殺した相手への憎しみに心を囚われることを。

 だからあえて犯人の名を告げなかったのだろう。

 代わりに彼が願ったことは一つ。

「テラスはずっと、ヴェイツェを――ハンプティ・ダンプティを救いたがっていた」

「ハンプティ・ダンプティ……?!」

 フートがぎょっとしてヴェイツェを見遣る。

 驚き、けれど納得もした。ヴェイツェが人を殺したことを。

 落ち着いているのか、まだ混乱しているのか。

 もう、何が何だかわからない。誰が何を知っているのかも。

 いつの間にかアリス――アリストに、フートが怪人マッドハッターであったことも知られてしまっている。

 そもそもフートは、テラスが姿なき情報屋ジャバウォックの正体であることも知らないのだ。

 一方のアリスはこの中ではテラスが“ジャバウォック”であることも、ヴェイツェが“ハンプティ・ダンプティ”であることも、フートが“帽子屋”怪人マッドハッターであることも知っている。

 そして。

「アリスト……?」

 ヴェイツェがその名に反応して声を上げる。

「フートはさっきから君をそう呼んでいる。アリス=アンファントリー。君は……」


 “ハンプティ・ダンプティ”は、ようやく“アリス”と出会った。


「僕の知っている、アリスト=レーヌなのか?」

「そうだ」


...137


 彼らは必死で帝都を駆ける。

 間に合うと信じて。

 例え、間に合わないと知っていても。

 それでも全力で駆けただろうけれど。


 ◆◆◆◆◆


 フートは怪人マッドハッターの扮装を解く。

 ヴェイツェは返り血に黒く濡れたまま。

 三人の体を降り始めた雨がしとしとと叩いて行く。

「俺は睡蓮教団に“時を盗む”禁呪をかけられて、この姿にされた。盗まれた時間を取り返して元の姿に戻る為に、ヴァイスの力を借りながら教団への敵対者を集めて戦うことにした」

 アリスの事情は言ってしまえばそれだけだ。アリスは良くも悪くも単純な人間である。

 本当のことを言えなかった理由も、ここにいる者たちであればすでにわかっているだろう。

「……ヴェイツェは、家族を睡蓮教団に殺されたって聞いた」

「……そうだ」

「……」

 フートが反応する。

 睡蓮教団のせいで家族を失った人間は少なくはない。

 フートの兄ザーイエッツは行方不明。怪盗ジャックことネイヴ=ヴァリエートや、探偵ヴェルム=エールーカの両親は殺害された。

 ヴェイツェ……ハンプティ・ダンプティも彼らと同じだったと言うのか。

 ならばなぜ、ヴェイツェだけが探偵でも怪盗でもなく、残酷な殺人鬼の仮面を被ることを選んだのか。

 テラスは何を知り、何に巻き込まれて命を失ったのか。

「僕は……」

 アリスに無言で促され、ヴェイツェがとうとう本心を語り出す。

「僕はね……両親を殺した教団の人間を消したかった。ずっとそのために生きていた」

 魂を削り、これまで学んだ全てを悪用し。

「復讐のためだけに生きていたんだ」

 何人も手にかけた。今日殺した二人を含めれば総勢十八名。

 呪詛を使いその人物にとって最も惨い死に方を選ばせ、散々恐怖と苦痛を味わわせてから殺した。

 ヴェイツェ=アヴァールは、連続殺人鬼“ハンプティ・ダンプティ”。

 同時に彼は、それでもアリスの友人である。

「……じゃあ、復讐が果たされた今はどうするんだ?」

 アリスはまず真っ先にそれを尋ねた。横で聞いていたフートの方が驚く。罪を責めるでも血塗られた手を恐れるでもなく尋ねたアリスに。

 けれど未来を問われたヴェイツェ自身は首を横に振る。

「どうも」

「どうも?」

「どうもしない。後はもう、死ぬだけだよ」

「なっ……!」

 フートがたまりかねたように声を上げる。先程までは激昂していたとはいえ、フートにとってもやはりヴェイツェはずっと学生生活を一緒に送っていた友人なのだ。

 その友人が、ごく当たり前のように自身の死を語り出すことが信じられない。

「アリスは気付いているみたいだね。僕が教団の人間を手にかけた方法」

「自らの魂に含まれる、背徳神の魂の欠片を砕いて媒介にし、呪詛をかけて相手を操った」

「そうだ」

「魂の欠片を集めて強力な力を得ようとした、マッドハッターやジャックとは真逆の方法だな」

「その通り」

「……!」

 淡々と進む会話を横で聞くフートは、ただ息を呑むことしかできない。

「魂を削る無茶をしたから、僕自身の命ももう長くない」

 胸の上、鼓動の弱まった心臓の上に手を置いて、ヴェイツェは雨粒の冷たさに凍えただけではない青い唇を開く。

「何もしなくたって僕はもう死ぬよ。警察に捕まったところで、多分、一日持たない」

 フートこと怪人マッドハッターの追跡を振り切って無茶をしたことが、もともと限界だった身体にトドメを刺したのだろう。

 それをヴェイツェは口にせず、アリスとフートは自然と察する。

「どうしてそこまで……!」

 激昂し彼を追い詰めた自覚のあるフートがそれを問いかける。

 トドメを刺したのはフートかもしれないが、ヴェイツェはその前からハンプティ・ダンプティとして無茶な殺人を重ねてきた。

 同じように家族を亡くしたのに、ヴェイツェは他の復讐者とは違う道を選んだ。フートとも、ネイヴともヴェルムとも違う道を。

 どうしてそんなことを?

「僕の……僕のせいでたくさんの人が死んだんだよ。僕の両親も、全く関係ない、その場に居合わせただけの人も」

 他の復讐者たちとヴェイツェとの違いは、自分自身に対する罪の意識。

「僕はね、睡蓮教団が求める背徳神の魂の欠片の核を持っているんだって」

「核……」

 魂の欠片を宿す人間自体は珍しくもないと聞く。

 だから睡蓮教団はその中でも、より背徳神の憑代として適性のある人間を教団に引き込もうとするのだ。

 ヴァイスがかつて教団と敵対したのもそれが理由だと言う。人よりも余程多くの欠片を有しているからと言って、強引な勧誘にヴァイスの方がキレたのだ。

 ヴェイツェの事情は、どうやらそのヴァイスに近いらしい。近いのだが。

「僕がここにいなければ、生まれて来なければ、死ななかった人が何百人もいるんだ。テラス君のことだって……」

 アリスは眉根を寄せる。

「ヴェイツェ、お前……」

 雨に打たれているとはいえ、ヴェイツェの顔色は血の気が引き青を通り越して真っ白だった。変わらない表情だけが能面のように宵闇にぽっかりと浮かんでいる。

 その顔が、いつかのテラスと重なった。

 自分は母親を殺して生まれて来たのだと寂しそうに語ったテラス。彼がヴェイツェを救いたいと願った理由もわかった気がした。

「僕は……」


「存在自体が罪なんだよ。この世界に、生まれてくるべきじゃなかった」

「……」


「ごめんね。フート……アリスト。僕は、救われる資格なんてない。救わなくていいんだよ、“アリス”……だって」

 友人だと認識したはずのアリスをコードネームで呼び、血塗られた手の殺人者は悲しく笑う。

「僕はずっと、君たちに嘘をついていた。非道な殺人鬼の顔を隠して上辺だけで付き合っていたんだから、君たちが救うべき友人なんて、どこにもいなかったんだから」

「……!」

 フートが息を呑む。

 自分も正体を偽っていた。しかし、今のヴェイツェにどんな言葉をかけていいのかわからない。

 ハンプティ・ダンプティは悲しい程に、“アリス”の対立者だ。けれど。

「……お前が生まれて来なかったら、この前の事件、どうやってエラフィを助けるんだよ」

 アリスは言った。

「誰がエラフィの無茶に付き合って、レントのフォローするんだよ。誰がギネカと一緒に頭を悩ませて、フートのことでムースに協力するんだよ」

 もしも彼が、この世界に生まれていなかった時のことを。

「誰が、脅迫ラブレター事件で俺の相談に乗ってくれるんだよ」

「アリスト……」

「誰が、帝都の爆破を止めて皆を救えるんだよ!」

 日常で起きた他愛のない騒動。彼がいなければ救えない大勢の命がかかった事件。

 ヴェイツェ=アヴァールがいた世界。彼がいなければ救われなかった人々。

「ヴェイツェ、お前は確かに連続殺人鬼ハンプティ・ダンプティだ。だけど、エラフィ誘拐事件の時、お前は殺人鬼としての行動よりも、エラフィを助けることを優先したじゃないか!」

 どんなに姿を偽ったって、嘘をついてたって、本当のことを言えなくたって。

 変わらないものは確かにあった。

「今俺が見てるヴェイツェ=アヴァールの姿は、これまでと何も変わってなんかない!」

 ヴェイツェはアリストの友人だ。今も。今までも。


...138


 アリスはこの姿になってから様々な経験をした。

 ギネカに接触感応能力を明かされた。更に彼女の相棒ネイヴが、怪盗ジャックとして活動していたことまで知らされた。

 飄々と生きているように見えるエラフィが、実はずっと幼馴染である探偵ヴェルムに心から伝えたい言葉を秘めて戦っていたことを知った。

 “アリスト”ではなく“アリス”になったからこそ、よく知っていたはずの友人たちの、これまでと違った顔を見ることができた。

 しかしそれで彼らも自分も変わった訳ではないのだ。

 新たな一面を知ったからと言って、それまで築き上げた関係や感情が損なわれる訳ではない。

 積み重ねられてより深くその人を知り、また自分に向けて問い直す。

 自分の、相手の――真実とは一体何なのだろう?

 盗まれた時間が鏡に映る姿を変え、名を偽り、事情を隠し、全てを欺いて。

 では自分の中にあるこの感情までも嘘なのかと。

 ――違うはずだ。

「今俺が見てるヴェイツェ=アヴァールの姿は、これまでと何も変わってなんかない!」

「アリスト……」

 驚かされ悲しんで、色々複雑な気持ちも湧き上がったけれど、だからと言ってこれまで友人であった日々が消えた訳ではないのだ。決して。

「例え俺の姿が変わろうと、お前が自分を隠していようと、そんなのは関係ない。お前が自分自身をどれだけ責めていようと、テラスは他でもないお前を救いたいと願ったんだ」

 その罪も悲しみも、全てを知っていてテラスはヴェイツェは救おうとした。

「それともお前は、俺の姿が変わったら責めるか? 自分に嘘をついていたから憎むって言うのか?」

「……!」

「お前が俺を変わらず思ってくれているように、俺だって、お前が変わったなんて、救われる資格がないなんて思わない!」

 だって、友人なのだ。

「一緒に行こう、ヴェイツェ。一人で……自分だけで戦おうとなんてするな」

 一人では何もできないとエラフィは言った。

 ギネカはアリスなら信じてくれると思ったと言った。

 アリスはこの姿になって自身の無力さを思い知った。

 それでも自らの望みを捨てたくないと思うなら、誰かの協力が必要だった。

 見た目にわかりやすいアリストからアリスへの変化がもたらした問題にはヴァイスやシャトン、ギネカにヴェルムと言った周囲の人々が手を貸してくれた。

 では、見た目でわからないハンプティ・ダンプティ――ヴェイツェの傷は?

 それにただ一人気づいていた姿なき情報屋ジャバウォック――テラスの想いは?

 ヴェイツェのしたことは赦されない。償わなければいけない罪はあるだろう。

 けれど償いを考えるには、まず彼自身が本当の意味で救われなければならない。

 このまま復讐を遂げても虚しい心のままで死なせてはならない。

 ヴェイツェさえアリスたちの手を取ってくれれば、その生命を救う方法も罪を償う方法も、いくらだって一緒に考えてみせる。

 手を差し伸べるアリスと差しのべられたヴェイツェ。それを見守るフート。

「アリス――」

 かつて、姿なき情報屋ジャバウォック――テラスは、ハンプティ・ダンプティ――ヴェイツェに言った。

 ――“アリス”が君を救ってくれる。

 ヴェイツェの胸が、身体の限界とは別の意味で苦しくなる。

 自身はテラスを助けることすらできず死なせてしまったのに、ここでアリスの手を取っていいのかと。

 けれど全てを知られて、それを受け入れられているのに意地を張ったところでどうなると言う?

 復讐は終わった。終わってしまったのに。

 ヴェイツェが一歩を踏み出そうとした、その時だった。

「復讐が一つ終わると言うのはだな」

 唐突に降ってきた聞き覚えのある声にアリスの表情がぎくりと凍りついた。これまで健康的にふっくらとしていた頬からざっと一気に血の気が引く。

 降りしきる雨の中、閃光のような紅が降ってくる。それはアリスにとって永遠の悪夢。

「殺された相手の陣営でも、反撃を開始するってことだ」

 咄嗟に叫んでいた。

「やめろ! 赤騎士!」

 その声は届かない。否、届いても何の意味もないのだ。

 赤の騎士はアリスを襲撃する者であって、その命令に従うはずもない。

 ずば抜けた身体能力には、マッドハッターたるフートすら敵わない。

 アリスのように赤騎士と面識のないフートには、それこそ紅い軌跡が飛び込んで来たようにしか見えなかった。

 雨に打たれた紅い服と白刃の軌跡は、新たに流れた朱の軌跡と混じり合い悲劇を描く。

「ヴェイツェ!」

 病院の屋上に少年の体が倒れ、水たまりを濁った色に染めていく。

 赤だ。暗い空の下でも鮮やかな程に絶望的なその赤。

「“ハートの女王”よ、こちら“赤騎士”。――命令通り、復讐鬼“ハンプティ・ダンプティ”の始末を完了した」


 ◆◆◆◆◆


「赤騎士!」

「よぉ、“アリス”。元気そうで何よりだ」

 胸を長剣で貫かれ地に倒れ伏したヴェイツェの傍らに駆け寄ったアリスは、“赤騎士”ルーベル=リッターを睨み上げる。

「私は今日はこれで失礼する。これ以上濡れたくないものでな」

「てめぇ……!」

「仕方がないだろう。こっちも仕事だ。――ハンプティ・ダンプティは、あまりにも教団の人間を殺し過ぎた。ハートの女王の怒りに触れたんだ」

 ハンプティ・ダンプティだけでも厄介なところに、今は怪人マッドハッターが傍にいる。この二人を相手にするのは並の人間にはきついと見て、ついにハートの女王は白兎と赤騎士を投入してきたのだ。

 フートのすぐ傍にも、いつの間にか白兎、アルブス=ハーゼが立っている。

 そのフートは自分の動きを抑えるように現れた白兎よりも、赤騎士の方に釘づけになっていた。

「お前……ランシェット……?」

 髪の色こそ違うが、赤騎士の顔が編入生と同じだとすぐに気づいたのだ。

 赤騎士は微笑んで白兎と共に隣のビルに飛び移る。

「私たちが憎いなら、その手で殺しに来い」

 それだけをアリスに言い置いて、彼らは素早く去って行った。

「ヴェイツェ! ヴェイツェ……!」

 アリスは必死に呼びかけながら治癒の術を施すが、まったくと言っていい程効果がない。

 何か仕掛けがあったのか? あったとしてもそれを見抜いてこの僅かな時間で術を解除することは、アリスやフート程度の魔導士にはもはや不可能だった。

「いいんだ……」

 僅かに苦痛を排するだけで、何の効果もない治療。口元を吐きだした血で染めながらヴェイツェは微笑んだ。

「これで……いいんだ……」

「いいわけあるか!」

 テラスの口振りから、ハンプティ・ダンプティの命を救えないのは最初からわかっていた。

 けれど、こんな――こんな終わり方だなんて!

「ハンプティ・ダンプティは夢の中、アリスに七歳でやめておけばよかったのに、と、告げる……」

「ヴェイツェ?」

「過去に、今に、子どもの時間に囚われて、大人になれない……」

 それがハンプティ・ダンプティ――ヴェイツェ=アヴァールだったのだと。

「でもアリスト……お前は、自分の時を取り戻して……」

 約束して、と彼は告げた。

「夢から醒めなければ、現実での救いは得られないから――……」

 いつまでも過去に、子どもの時間に夢を見てはいられない。

 どれ程幸せな夢だとしても、心を囚われた瞬間、それは悪夢と何ら変わりなくなる。

 ヴェイツェにそれを教えてくれたのはアリスだった。

「テラス君の……言った通りだった……」

 彼が自分を救ってくれるのだと。

「ありがとう……お前と……みんなに……会えて、よかっ――」

「……ヴェイツェ?」

 眠るように閉じた瞼が、その頬に一つの雫を押し出して滑らせる。

 透明な一滴はすぐに降りしきる雨に紛れてしまった。

 心がぐしゃりと、柔らかいものが硬い地面にぶつかって潰れる音と共に軋んだ。

 塀の上から落ちた卵が割れて潰れるように。

 時が止まったかのように凍り付く世界に、ばたばたと騒々しい足音がやってきてようやく彼らの時間は動き出す。

 避けえない悲しみへと向かって。

「ヴェイツェ!!」

「アヴァール!」

「アヴァール君?!」

「ヴェイツェお兄さん!」

「ヴェイツェ!」

 高等部の友人たちが、小等部の子どもたちが。

 ヴァイスとダイナが。

 ヴェルムとネイヴが。

 慌てて駆け付ける。けれど、もう――。


 降りしきる雨の音に、慟哭は暗く閉ざされる。


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