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Pinky Promise  作者: きちょう
第6章 真理の剣
22/30

22.怪物の正体


...127


 ――何度も何度もあの日を夢に見た。


 両親が死んだ――殺された日の記憶。

 紅い炎と黒い煙が彼らを包んだ。

 鈍く鋭く、種類の違う痛みが体中にいくつも絶え間なく襲ってくる記憶と、脳裏に焼き付く倒れて動かない人々の姿。

 彼の両親だけでなく、たくさんの人が死んだのだ。

 「事故」とされたその爆発による被害で、死んだ人の数は四百人以上。

 生存者はたった一人。

 ヴェイツェ=アヴァール。自分一人だけ。


 ――あなただけでも生き残ってくれて良かった。

 ――本当に奇跡的なことだ。

 ――御両親のことは残念だけれど、あなたが助かったことだけは神様に感謝しないと。


 凄惨な事故によるただ一人の生存者、それも年端もいかない子どもであった彼に対し周囲は優しかった。

 両親亡き後ヴェイツェを引き取ってくれた祖父母も。

 彼らはそれから数年して亡くなったが、ヴェイツェがその後高校、大学と通い卒業するまで不自由のない遺産を残してくれた。

 優しい世界。優しい人々。

 事故に遭い両親を亡くした自分は世界一不幸であるのかもしれない。

 けれどその状況から救い上げてくれる手をいくつも差しのべられた、世界一幸福な人間かもしれない。

 幸と不幸は紙一重。自らを憐れんで生きるよりも、生き残ったこととそんな状況でも親切にしてくれる人がいることに感謝をして慎ましく生きて行こうと思っていた。


 それが、間違いだと知るまでは。

 全ての原因が、自分自身にあったのだと理解するまでは。


 ――事故に遭ってしばらくして、身体の変調に気づいた。

 これまで視えることがなかったものが視えるようになった。注意していなければ見落としてしまいそうな程に淡い光、人の姿に重なる影。

 だがこんなこと、誰に言えばいいか、誰に聞けばいいのかわからない。

 図書館やネットを使って調べ物をしてもどうにも胡散臭い記事ばかりに行きあたって、うまく情報を拾えない。

 友人にさりげなく話を振ろうにも、そもそも自分のようなものの見え方をしている人間がまずいないようだった。

 いよいよ八方塞になって来た時――再び、睡蓮教団を名乗る者たちがヴェイツェの前に現れた。

 そして今度は、直接ヴェイツェを教団へと勧誘したのだ。

 背徳神と創造の魔術師の神話を交えながら。


 ――あなたには、人間が持つ魂の色や形を視ることができるのではありませんか?

 ――あなたは、先天的に魂の欠片を持っている……我らの神に最も近いお方ですから。

 ――以前こちらを訪問した際に御両親から、あなたにはそんな力はないと伺いましたが……。

 ――本当のところはどうなのです?


 ヴェイツェは「知らない」と言った。

 魂など視えない。魔導のこと、神話のことなど何もわからないと。

 両親が言わなかったのは当然だ。ヴェイツェはあの「事故」に遭うまで、まったく普通の子どもだった。そんな特殊な力などない。

 彼らは嘘をついていたわけではない。

 それを主張するために、ヴェイツェ自身はここで嘘を吐く。それが何を引き寄せるかもわからないまま。


 ――この世界に不満はありませんか?


 そんなものはない。


 ――幸せになりたくはありませんか?

 ――あなたには最初から素質がある。我らの神に近づく素質が。我らの教団に来て頂ければ、何でも望みが叶いましょう。


 ……そんなものはない。


 できれば両親に生き返って欲しいけれど、そんなこと叶うはずないのだから。

 あの日に時間を巻き戻せたって、全員を助けられる道を見つけられなければ結局は同じことだ。

 自分は結局ただちっぽけな人間で、全てを救うことなんてできない。神に近づくなんてとんでもない。ただ、ただ――無力だ。


 ――あの事故の後、何か変化は――……

 ――その辺にしておけ。


 二人組の男女のうち、喋っているのはずっと女の方だった。しかし途中で男が話を遮る。

 あとは慌ただしかった。二人は形式的な挨拶の他、ヴェイツェに教団に興味が出てきたらいつでも来てくれと言い残し去った。

 この時のやりとりも、ヴェイツェにはほとんど意味がわからなかった。

 それを真に理解したのは、ジグラード学院に入学してからだった。

 中央大陸の更に中央、この帝都に存在する魔導の中心地。ジグラード学院では魔導学を学ぶことができる。

 事故の後、この目に映るようになった光といい、不思議なものは全て魔法。そんな幼い考えで目指した進路だったが、結果的にはこれが正解だった。

 もともと独学で多少魔導学や神話をかじろうと調べていたのが功を奏し、ヴェイツェは魔導学の呑み込みが早かった。

 そして理論をある程度理解してしまうと、これまで謎だった教団とのやりとりに含まれた意図が見えた。見えてきてしまった。

 ……神話やお伽噺、言い伝えとは馬鹿にできないものだ。

 答は最初からすぐ傍にあった。近過ぎて気が付かないくらい、すぐ傍に。

 『黒い流れ星の神話』が伝える、背徳神と創造の魔術師の魂が砕かれ無数の欠片となって地上に降り注いだ事件。

 あれは本当にあった出来事なのだと。そして今も、地上には無数の魂の欠片が散らばっている。

 それは時に怪盗ジャックや怪人マッドハッターが狙う美術品や宝石、絵画に宿り。

 時に、人や動物の中に宿り。

 今も、ヴェイツェ自身の中に宿っている。


 睡蓮教団の求める、“背徳神の魂の欠片”が。


 それを知った時、何とも言えない嫌な感覚を覚えた。

 ヴェイツェはある日、魔導士としての素質が低いと言われるエラフィやレントと一緒にヴァイスの魔導学講座の一環として魂の資質の詳細を確認しに行ったことがある。

 レントはともかくエラフィは自身に魔導の素質がないことをかなり気にしていたらしい。それ以前にもヴァイスの話を聞いていたようだが、もっと詳しい説明を聞くならとレントとヴェイツェを誘って更に講義を求めたのだ。

 フートやアリスト、ギネカ、ムースは誘わなかった。彼らは元々魔導の資質がそれなりに有って、やり方を覚えれば高度な魔導も使えると言う。

 魂の資質にもそれぞれ種類があり、人によって違うのだと。同じように優秀でも、フートとアリストは違う。フートは生まれつき高い能力を持って生まれた天才で、アリストは才能だけならあるがそれは努力によって開花する秀才だと。

 ヴェイツェはフートと同じく生まれつきその資質を持つが、ある程度先天的に自らの力を使いこなせるフートと違い、ヴェイツェのそれは何もなければ一生眠っているはずの才能だったらしい。

 後天的に魂の資質を目覚めさせる手段があるとヴァイスは説明した。

 それは、死を経験することだと。

 創造の魔術師と呼ばれた辰砂も、その異相故に幾度も迫害を受け死にかけた。けれど彼はその度に死の淵から蘇りより強大な力を身につけていったらしい。

 魂は死の世界に近づくたびに、その向こうの真理に近づき、魔導を使うための第七感への道を作る。

 過去、そうやって死を経験しそこから蘇ることでより強大な力を手に入れた魔導士は多いのだと。


 事故の後から視えるようになった魂の光。

 その変化を察していたかのような睡蓮教団。

 生まれながらに背徳神の魂の欠片を持っていた自分。


 ばらばらだったパズルのピースがカチリと音を立てて嵌まる。ヴェイツェはほとんど直観的にそれを悟った。


 両親の命を奪ったあの「事故」は、そのために仕組まれたものだ。


 背徳神の魂の欠片を持つ者――喪われた神をこの世界に復活させる可能性を持つ自分を、魔導に目覚めさせるためのものだ。

 あれは事故などではない。

 睡蓮教団が仕組んだ殺人だ。

 奇跡などではない。

 感謝すべき神など、初めからいなかった。

 それがわかった。わかってしまったのだ。

 ヴェイツェ自身が黒い星を持つ者としての自覚を持った途端、それまで堰き止められていた魂の記憶が鮮やかに流れ込んでくる。

 背徳の神の悲哀と何千年も前の神話に語られる出来事の真実。

 神の力の使い方さえ――。

 その力を使って復讐へと走ることは、もはやヴェイツェにとって息をするように自然なことだった。


 そしてヴェイツェ=アヴァールは、コードネーム“ハンプティ・ダンプティ”になった。


...128


「今日は帰った方がいいよって言ったのに。そんなに青い顔をして。自分の魂を砕いて呪詛の媒体に使うなんて無理をして、身体がもつはずがないのに」

「……君は、まさか」

 廃ビルの中に倒れ伏す睡蓮教団の男たち。やったのは一人の小さな子ども。

 もはや全てがあまりにも非現実的な光景。

 彼がここにいることも。

 自分がここにいることも。

「ヴェイツェお兄さん。いや……」

 テラスはヴェイツェの姿を認めて言う。

「“ハンプティ・ダンプティ”」

 ――全てを知られている。

 本来なら警戒すべきことだが、ヴェイツェは先程のテラスの物言い――彼の体調を気遣ったその口調に覚えがあった。

「“姿なき情報屋ジャバウォック”……! テラス=モンストルム、君が……?」

「そうだよ」

 気紛れに一方的な連絡をとってくる情報屋。その正体が、まさか顔見知りの上、こんな小さな子どもだなんて思うはずがない。

 だがそれをありえないと一笑に付してしまうには、ヴェイツェはテラスのことを知っていた。そして彼自身がありえないような変貌を事故という切欠で遂げた人間でもある。

「君は……辰砂の魂の欠片の持ち主だったな。その力を、使いこなせているのか?」

「そうだよ。生まれる前からね」

 あまりにも頭の良過ぎる小等部生として度々噂になっていたテラスのことだ。今はアリスやシャトンと言った同類に囲まれて少し誤魔化されていたが、彼は子どもとしては突出しすぎている。

 ふと、ならばそのテラスに匹敵するアリスやシャトンは何なのだろうという疑問が脳裏を過ぎったが、それはすぐに目の前のテラスの言によって振り払われた。

「ヴェイツェお兄さんが背徳神の核に近いように、僕もまた、辰砂の核に近い人間だから」

「核……」

「そうだ。魂の欠片はそれだけでは、あくまでも欠片でしかない。けれど稀に、彼らの存在の中核を成す部分を持って生まれてくる者がいる。辰砂の場合はそれが僕で、背徳神の場合は君だ」

「……!」

 ――あなたは、先天的に魂の欠片を持っている……我らの神に最も近いお方ですから。

「……君は、僕の事情も知っているのか? ジャバウォック」

「僕がこの世に生まれてからの情報は手に入れることができるんだ。あまり個人的なことだと“記憶”に引っかからないこともあるみたいだけどね」

 テラスは七歳。だから彼が生まれる前、七年以上前のことは余程注意して調べようと思わない限り知ることはできない。

 アリスの正体でさえ知っていたのに、彼のかつての友人の話を知らなかったのはそのためだ。

「知っているなら、どうしてそんなに平然と僕と話していられるんだい? 僕は――」

「ハンプティ・ダンプティ」

「……そう。呪わしい、血塗られた殺人鬼だ」

 今日だって睡蓮教団の人間を殺すために準備を万全に整えて、この街までやって来たのだ。

 しかしテラスは恐れも何もなく、いつも通りにふわりと笑う。

 総てを見透かしたような――否、「ような」ではない。彼は本当に総てを見透かしている。そんな笑みで。

「今更悪ぶるのはやめてよね、ヴェイツェお兄さん。例え世間や被害者が君をどう言おうと、僕が知るヴェイツェ=アヴァールの真実が変わるわけないでしょ?」

「……」

 廃ビルの窓枠から差し込む光の中、子どもはそっと彼に向けて手を差し伸べた。

「帰ろう」


「帰ろうよ、お兄さん」


「自らの存在自体を罪に感じる、あなたの悲しみはわかっている」

「……僕は君とは違う」

 同じ魂の欠片の持ち主と言うだけで、同類には見れない。辰砂の核を継ぐテラスと、背徳神の核を継ぐヴェイツェではあまりにも違い過ぎる。

 かつての「事故」によって犠牲となった、両親を含む四百人以上の死者。それが全て、ヴェイツェの中に眠る背徳神の核を目覚めさせるためのもの。

 自分の存在自体が周囲を巻き込んで、多くの犠牲者を出してしまった。

 けれどテラスは言う。

「同じだよ。僕はね……母親を殺して生まれてきた」

「……!」

 テラスの母親は元々体が弱かったらしい。出産は命と引き換えになる。そう言われていたと言う。

「僕は、母さんのお腹の中で、それらを全て聞いていた。だから」

 本当は、生まれる前に死のうとした。

 テラスの魂は辰砂の欠片を多く含む。何千何百年もの輪廻転生の記憶も有している。ここで一度転生に失敗したくらいで惜しいとも思わない。それなのに。

 腹の中で死に行こうとする我が子に呼びかける現世での父と母の声を言葉を聞いて、死ぬことができなくなってしまった。

「だから僕は、“テラス=モンストルム”なんだよ。辰砂じゃない。辰砂の魂の欠片を持っているだけの、ただのテラスなんだよ」

 辰砂の能力を存分に使っておいて、それでも。

 テラスとして生きていたかった。

 あの両親の子どもでいたかったのだ。

「君だって、ただのヴェイツェ=アヴァールだろう?」

 ヴェイツェだって、背徳神の力を手に入れることよりも、アヴァール家の息子であることを選んだはずだ。

 同じなのだとテラスは言う。

 けれど。

「……僕は、殺人犯だ」

 何人も殺した。

 そしてここで止める気もない。

「僕を止めないでくれ。止められたら、僕は今度は……君を……」

 背徳神の魂の欠片を持っている。

 でもヴェイツェは、背徳神ではない。

 あくまでもヴェイツェ=アヴァールだ。優しい両親の下に生まれたただの子どもで、ただの人間だ。

 だから、彼らを奪った奴らに復讐する。

 ここで復讐を止めたら、それこそヴェイツェは本物の邪神になってしまう。

 父と母を、多くの人間を自分のせいで死なせるためだけに生まれてきたことになってしまう。

 その過ちを正すためには、その罪を犯した教団の人間を殺すしかないのだ。

「わかってるよ。僕は止めない」

 死には死の報いを。

 きっと誰もが間違っていると彼を責めても。

「君を救う人間は、必ずいるから」

 きっと救ってくれる存在はいるから。


「僕らには“アリス”がいるから。だから……」


 迷いながらもヴェイツェがふらりと、差しのべられた手に向かって一歩を踏み出そうとした時だった。

「おっとこれはこれは」

 割り込む声にヴェイツェは目を瞠り、テラスは表情を険しくする。

「いつの間に、かくれんぼの鬼が交替したんだい?」

 赤毛の男は倒れ伏す仲間を前にして、にやりと笑った。

「しかもなんか、増えてるし」

「“グリフォン”……!」


...129


「“グリフォン”……!」

「俺のことを知っているのか、坊主」

 テラスの呟きに反応しながら、赤毛の男が近づいて来る。

「ニセウミガメとハートの王を倒したのがこんなガキ共とはなぁ。坊主、お前ハンプティ・ダンプティの仲間なのか?」

 他の大陸で傭兵経験もあるという男は、身のこなしからして他の者とは違った。

「ああ。どっちでもいいか。どっちにしろこの状況じゃ、二人共死んでもらうしかないからな」

 ヴェイツェは警戒し、テラスは無表情になる。

 厄介な男が来たものだ。テラスは思った。

「無駄な抵抗はやめろよ。後が苦しく――っておい」

 もちろん言うことを聞くことはなく、ヴェイツェとテラスは同時に脱兎のごとく駆け出した。

 逃げるためではなく、奴らを倒すために。

「二人でも連携できないだろう。武運を祈るよ」

 二人はあえて共闘することはなく、二手に分かれた。

「ありゃりゃ、逃げちまいやがった。まぁいい。ほれほれ起きろよハートの王」

 グリフォンは倒れていたハートの王を、気遣いもなく乱暴に揺すり起こした。

「ぐっ……」

「お前、どっちにやられたんだ?」

「どっち……? 私が見たのは、あの小さな青い髪の」

「ちっこい方かよ! ……ハンプティ・ダンプティはあの中高生の方だろ? ちっこいのは何者だ? ありゃ」

 教団幹部としてそれなり以上の戦闘力を持つはずのハートの王が十にも満たない子どもに昏倒させられたと聞いて、グリフォンはその無様を嘲笑う。

 しかし笑ってばかりもいられない。まったく見た目にそぐわずとも、相手がそれだけ強敵と言うことではないか。

 一体あの子どもは何なのだ?

 当然の疑問を口にし、しかしすぐに彼は考えることを放棄する。思考を働かせるよりもただ本能のままに戦闘する方が得意だ。

「まぁいい。捕まえりゃわかるし。殺せば正体なんてどうだっていいことだ」

 この世は結果が全て。死人に口なし。死者には何もできないのである。


 ◆◆◆◆◆


「もしもし?」

『……コードネーム“アリス”』

「……誰だ、あんた」

 いきなり名、それもコードネームの方を呼ばれて、アリスは警戒を露わにした。相手は自分を知っている。不思議の国の住人だ。

 しかし、今ここにいないヴェルムやギネカ、ゲルトナーのような仲間ではない。

『私は“バンダースナッチ”。姿なき情報屋、ジャバウォックの相棒……』

「“バンダースナッチ”?」

 アリスには聞き覚えがなく、隣のシャトンを見るが彼女も首を横に振った。全く知らないコードネームだと。

 バンダースナッチは『鏡の国のアリス』の中に挿入されているジャバウォックの詩にて言及される存在であり、架空の生物の名だ。

 シャトンは息を殺してアリスの様子を見守っている。彼女にも聞こえるように、アリスは携帯をスピーカーにしようとした。その時だった。

『――けて』

「え?」

 か細い声が懇願する。

『ジャバウォックを助けて。お願い、アリス……』

 お願い。アリス。助けて。

 あの人を救って。

 たどたどしい台詞の抑揚に、アリスは覚えがあった。

「……フォリー? お前、もしかしてフォリーか?」

 子どもの姿になってしまった今の自分のクラスメイト、いつも寡黙でたまに口を開いたかと思えば抑揚の少ない喋り方をする少女、フォリー=トゥレラ。

 テラスとセットのようにいつも一緒にいる彼女が何故?

「お前がバンダースナッチってどういうことだ? ジャバウォックを助けてって、一体どういう意味なんだ?!」

「相手はフォリーさんなの?」

 驚き顔のシャトンが話を聞きたがる様子を見せたが、アリスもこの状況をまだ冷静に理解できてはいない。

『……』

「話してくれ、フォリー。俺たちは誰を助ければいいんだ?」

 まさか、と言う一つの考えが脳裏を過ぎり続ける。

「ジャバウォックって、あのジャバウォックか? いつも怪盗関係の情報を流してくる……ジャバウォックを助ければいいのか?」

『助けて』

 繰り返されるフォリーの言葉に、アリスは先日交わしたもう一つの約束を思い返した。


 ――僕には、救いたい人がいる。でも僕には、できない。彼を助けたいけれど、もうどうしようもないんだ。限界まで頑張ってみるけれど、きっと届かない。

 ――だから、彼を助けて。――魂を救って。

 ――その相手は誰なんだ?

 ――今は言えないんだ。それがわかった時は、もう全てが動き出している。


 フォリーは言う。

『もう間に合わないって言ってたけど、多分届かないって言ってたけど、それでも』

 アリスに連絡をとることまではジャバウォックの指示。けれどこれは、バンダースナッチことフォリー自身の願いだ。

『ジャバウォックを――テラスを助けて』


 ◆◆◆◆◆


 本日は直接会う都合がつかず、レジーナとダイナは電話で話していた。

『え……亡くなった? あなたのお父様が……?』

 移動中の車内でレジーナがそれを告げると、ダイナの心底驚いた声が聞こえてきた。

 レジーナは唯一の肉親である実父を亡くした娘とも思えぬさらりとした態度で返す。

「そう。もう歳も歳だったし、急にぽっくりとね」

『それじゃあお通夜に』

「来なくていいよ」

 友人の申し出を、レジーナはあっさりと断った。

「ダイナ、君は来なくていいよ。ほら、父の関係者ってことはさぁ――」

『レジーナ』

 彼女と父親の仲を昔から知っている友人は、電話の向こうで彼女の名を呼んだきりしばし沈黙する。

 しばらくして、ぽつりと言った。

『……昔、私たちが二人であの話をしていた頃、お父様はいたく興味をお持ちだったわね』

「そうだったね」

 懐かしい故人の記憶を思い返す。それだけではない話題の振り方に、レジーナも溜息でもって返す。

「あの人は君に魅せられていた。君が作る世界に。自分で思っているより才能ないんだよ。だから、誰かの用意した雛形が必要だった」

 本当につまらない男だったと、彼女は実の父親を嘲った。

 あの頃から何一つ変わらない。成長していない。できなかった。自分も父親も。

 ある意味、それが親子の証なのだろう。

 まったくいつだって、自分たちはただ愚かで、途方もない願いばかりを抱いている。

『お父様は、今でも――』

「……さあね」

 これ以上は、表世界の友人には零すことのできない領域の話だ。

「僕たちを見捨てた“女王”様。君にはもう関係のない話だよ」

『……レジーナ』

「じゃあね。これから会わなきゃいけない相手がいるんだ」

 彼女はダイナとの電話を切る。折しも車は目的地に到着したところだった。

「さてと……」

 電話が切れたのと同時に、彼女も表の友人との繋がりを今は断ち切って役目を果たさねばならない。

「それでは、正体不明の殺人鬼と情報屋の顔でも拝みに行きますか」

 廃ビルの前で、ハートの女王は微笑んだ。


...130


 ついに探偵は手段を選ばず、真実に挑むことを選んだ。

「とにかく、犯人が誰かさえ分かれば殺害方法にも推測がつけられる」

「強引だな。探偵がそんなことでいいのか?」

「現場の捜査なんて案外そんなものだ。疑わしい人間、動機のある人間を挙げてからそれらの人々に犯行が可能かどうか、アリバイを調べて絞っていく」

 現場を見れば犯行手順全てに推測がついて関係者の名前を羅列するだけで犯人を見つけ出すことができるなんてのは、推理小説の中の探偵だけだ。

「だから俺も、まずは犯行動機がある人間を絞った」

「……絞った?」

 ヴェルムによって見せられた資料にずらりと並ぶ何百もの名前を見て、ヴァイスは思わず胡乱な目付きになる。

 これで絞ったと言うのなら、最初の候補者は何人いたと言うのだ?

「最大のヒントはお前たちがもたらしてくれた。被害者は睡蓮教団の人間だと」

 すでにうんざりとした顔のヴァイスには構わず、ヴェルムは資料をめくりながら続けた。

「だから、この帝都で睡蓮教団が引き起こした事件の被害者から調べることにした」

 ハンプティ・ダンプティの目的が教団への復讐なら、教団に強い恨みを持っているはず。

 教団絡みの特に死亡事故や事件を中心に、復讐者を探し出す。

「しかし、その事件全てを教団が起こしたと確定することは――」

「ジェナーがいる」

「!」

「警察に参考人として呼び出す訳にはいかないけどな」

 ヴェルムが保護している教団関係者の女性、“公爵夫人”ことジェナー=ヘルツォーク。

 彼女の言により、ヴェルムが当たりをつけた事件や事故の、どれが教団絡みでどれがそうでないかを知ることができたと言う。

 ずっと禁呪の開発をしていたシャトンよりも、ジェナーの方がこう言った情報には詳しいのだ。

「その中から更に、魔導に関わりそうな人間をピックアップした」

 そして作り上げたリストを、ヴェルムは一つの覚悟と共にヴァイスへと差し出した。

「お前にはこの中から、更に絞り込んでほしい」

 リストを眺めたヴァイスはある名前を見つけたところで視線を止める。

「これは……」

「俺は、彼かもしれないと思っている」

 ヴェルムがまだ辿り着いていないもう一つの要素から、ヴァイスもついにそれを確信した。

「……アヴァール。お前なのか……?」


 ◆◆◆◆◆


 ギネカとネイヴは、怪盗ジャックとその相棒料理女の姿のまま、誘拐事件の解決に励んでいた。

「あと少しで辿り着ける」

「でも、なんとなく嫌な予感がしない?」

「まるで誘い込まれているような?」

「ええ」

 二人共が。この状況に同じような不安を抱いていた。

 誘拐事件自体はきっと解決できる。けれどその間に大切なものを失ってしまうような、そんな不安を。

「この事件そのものが怪盗ジャックを誘き寄せるために睡蓮教団の起こした罠だとすれば、あの誘拐された子どもだって、本当に被害者かどうかはわからないわよ?」

 もしかしたら誘拐自体が教団の人間を使った狂言かもしれないのだ。

「その可能性は充分にあるな。でもま、見過ごす訳にも行かないだろ」

 罠の可能性は高い。だが同時に、全く無関係な人間を巻き込む可能性が高いのも睡蓮教団だ。

 そしてこれが無関係な人間を巻き込んだ事件だった場合、ネイヴにもギネカにも見過ごせる訳はなかったのだ。

「それに誘拐嫌疑をかけられたままじゃ、どの道警察に追われるんだ。とっとと解決しちまおう」

「……わかったわよ。できれば私が読めればいいんだけどね」

 ギネカの接触感応能力で誘拐された子どもや犯人に直接触れることができれば、事情がわかるかもしれない。

「頼りにしてるぜ」

「はいはい」

「何か嫌な予感がするのよね」

 崩れ始めた天気を眺め、ギネカは小さく呟いた。


 ◆◆◆◆◆


 暗雲立ちこめる空の下、もう一人の怪盗であるフートはバイクを引っ張り出していた。

「行くの?」

「ああ。じっとしてられないからな」

「でも、その辺を警察がうろついているかもしれないのに」

 ムースが案じるが、フートは平気だと言って笑う。こちらはジャックたちと違い、今日は共に行動しない。

「俺のことなんて誰も気にしちゃいないよ」

「フート」

「だってそうだろう? 怪人マッドハッターの正体は、誰にも知られていないんだから」

 マッドハッターの秘密を知っているのは、本物のマッドハッターだけだ。

 今自分たちの傍にいないザーイエッツだけだ。彼ならばフートがマッドハッターを継いだことに気づくだろう。

「俺はどうしても知りたいんだ。ザーイエッツの安否を」

 エラフィたちが見た人物が、ただの人違いならそれでいい。

 けれど、それがもしもザーイエッツなら、会わない訳には行かない。

「行って来るよ」

 それが運命の選択になるだなんて、フート自身も思っていなかった。


 ◆◆◆◆◆


 逃げた子ども二人のうち、テラスをニセウミガメが追うのは自然なことだった。

 彼女はハンプティ・ダンプティことヴェイツェに一度不意打ちを食らっているし、戦闘に関しグリフォンとの力量差は歴然だ。そこそこ体格の出来上がった男子高生と見るからに小さな子どもなら、子どもを狙うに決まっている。

「出て来なさい、坊や。無駄な抵抗はよすのよ」

 小さな足音を追って、ニセウミガメはテラスを廃ビルの一室に追い詰める。

 建物の構造は把握している。この先は確実に行き止まりだ。

「あなたは一体何者なの? 誰の命令でこんなことをしているの?」

『命令? 僕に命令できる奴なんていないよ』

 声はどこからともなく響いてきた。

『僕は、全て僕の意志で行動する』

「……」

 ニセウミガメは警戒を強めた。

 この相手はただの子どもではない。ようやく彼女にもそれがわかったのだ。

『コードネーム“ニセウミガメ”、本名は――か。あなたこそ、一体いつまでこんなことをするんだい?』

「……!」

 突然、コードネームどころか本名まで言い当てられ、激しく動揺する。

 何故そんなこと知っている?!

『あなたも可哀想な人だ。睡蓮教団に騙されているんだよ。彼らの望む通り背徳神の魂の欠片を集めたところで、あなたの恩師は生き返らない』

「なっ……」

『だって当然だろう? 背徳神は秩序神に殺された自分の民を生き返らせることができなかったから、その死を悲しみ狂ったんだ。背徳神が蘇ったところで、死者を生き返らせることはできないよ』

 それは彼女の根底を否定する言葉だった。

 睡蓮教団に入り、人を傷つけ殺してまでも目的を遂げる。

 全ては、彼女自身の望みのために。教団でなければ叶えられない奇跡のために。

 けれど。

『あなただって、本当はわかっているんだろう?』

「……黙れ!」

 ニセウミガメは扉を開く。内側に仕掛けられた罠は所詮子供騙しだ。あっさりと躱し、拳銃を抜き放つ!

「貴様は何者だ! 一体何故そんなことを知って――」

 しかし、彼女の意識はそこで途切れた。

 入り口脇に移動させた棚の上にいたテラスが、そのまま死角から飛び降りてニセウミガメを気絶させたのだ。本日二度目の昏倒である。

 全てを知るジャバウォックならではの下調べと準備、そして小さな子どもの体だからこそできた芸当だ。

「ここまでは予定通り……」

 敵を倒したにもかかわらず、テラスの表情はどこか沈んだままだった。


...131


 廃ビルの中、ヴェイツェはグリフォンの襲撃を躱して逃げ回っていた。

「そこまでだぜ。ハンプティ・ダンプティ」

 これまで学院で習った魔導を犯罪に用いては来なかったヴェイツェだが、さすがにこの状況では使用せざるを得ない。

 教えてくれたヴァイスに罪悪感を覚えながら、魔導防壁を発動してグリフォンの銃撃から身を庇う。

 身体能力も多少強化している。それでもどこかで専門的な訓練でも受けているのか、グリフォンは平然と生身のままで身体強化したヴェイツェを追ってくる。

「ふん、やっぱり魔導士じゃないか。調査部門と警察は一体何やってんだよ」

 魔導を使えばその痕跡が残る。それをいつまでも発見できなかったのかと、グリフォンは同僚と警察を嘲る。

 多少の魔導を使えるぐらいでは、グリフォンの敵ではない。だからこそ彼はハートの女王の側近の一人なのだ。

「俺たち幹部クラスを、お前がこれまで殺してきた末端の奴らと一緒にされちゃ困る」

 一応ヴェイツェは幹部であるティードルダムとティードルディーも殺害しているのだが、グリフォンの中ではこの二人は別枠らしい。

 ヴェイツェにもわかった。この男相手では、ティードルダムやティードルディー相手の時のようには行かない。

 あくまで一般の学生であるヴェイツェは銃など持っていない。持っていたとしても、魔導の銃の使用はヴァイスの許可が必要なのだ。犯罪などに使えるわけない。

 ナイフならある。だがグリフォン相手では通用しないだろう。体格や身体の能力、全てを上回られている相手に接近戦を挑むのは危険だ。

 魔導を使用すること自体は決意しても、現代の魔導の使い方など、術者を多少補助する程度のものでしかない。どれ程効果的に使えたところで、もともとの実力差が大きければ影響も少ない。

 この相手に勝つ。そう思ってヴェイツェにできることは、もはやたった一つしかなかった。

 痛む胸を抑えて立ち止まる。

「ん? ――観念したか?」

 笑うグリフォンを待ち構えた――。


 ◆◆◆◆◆


 アリスとシャトンの二人は、驚くダイナに断りも入れずマンションから飛び出した。

「アリス君?! シャトンさん?!」

 ダイナに丁寧に説明をしている時間はない。

 けれど、事情を知っているヴァイスには連絡を入れた方がいい。

 シャトンはすぐに携帯を取り出しかけ始める。コール音が繰り返されるのすらもどかしい。

「シャトン、連絡は頼んだ! 俺は先に行ってる」

「アリス!」

 もうすぐ日が暮れるが、それ以上に天気が悪く空が灰色に曇っている。この状況なら手段を選んでいる場合ではないと、アリスは魔導を惜しみなく使って行動を起こした。

 身体能力を強化する術式で、体操選手も真っ青な非現実的な跳躍を可能にする。

 フォリーが電話口で切れ切れに語ったことを思い出しながら、小さな友人の顔を思い浮かべる。

「テラスがジャバウォックの正体……! 畜生、どうして気づかなかったんだ……!」

 何度も何度もヒントはあった。子どもとは思えない知識量のテラス。それがそのままヒントであり答だったのだ。彼は本当の意味では、アリスたちに何も隠していなかったのだろう。

「怪人マッドハッターに関する情報を知らせた時も、マッドハッターとジャックに関する情報を知らせた時も」

 警察とジャバウォックの話を聞いたと言って、話を持ってきた本人がジャバウォックだったのだ。詳細を知っているはずである。

 警察の無線を盗聴していたはずのギネカがそれに気づかなかった時点で、情報は“ジャバウォック”から直接“アリス”へもたらされたものだと、気づくべきだった。

 気づければ、この展開は避けられたかもしれないのだ。

「いくらハンプティ・ダンプティを止めるためだからって、一人で教団と対峙するなんて――」

 建物の上を飛ぶように走りながら、アリスはフォリーから知らされた情報を踏まえて、テラスとの話を反芻し考え続ける。

 ――彼を助けて。――魂を救って。

 テラス……そしてジャバウォックでもある少年がそう言った。フォリーによればそのテラスは今、ハンプティ・ダンプティを睡蓮教団の手から守るために出陣したのだと言う。

「お前が守りたいのは、ハンプティ・ダンプティなのか――?!」

 殺人鬼がどのような方法で復讐を行っているかに気づいたアリスやシャトンも、もうハンプティ・ダンプティをただの恐ろしい人殺しとは見れなくなってしまった。

 けれど、それでもテラスが守ろうとする相手だと言うことがわからない。どうしてテラスはハンプティ・ダンプティを守ろうとするのか。

 ハンプティ・ダンプティに会えばわかるのか?

 全てを知るためにも、アリスは彼ら二人を助けに行かねばならない。


 ◆◆◆◆◆


 そして、飛び出した二人を見送ったダイナもまた決意を固める。

 出かける支度を手早く整えながら、電話をかけ始めた。


 ◆◆◆◆◆


 ニセウミガメを昏倒させたテラスは、部屋を抜け出そうとする。

 できればハンプティ・ダンプティとグリフォンの方に駆けつけたい。

 グリフォンは別大陸で傭兵経験もある戦闘のプロ。いくら多少の魔導が使えると言ったって、一介の学生が敵う相手ではない。

 しかしここで死ぬ訳には行かない、まだ復讐相手全員を殺し終わっていないヴェイツェはグリフォンをも倒す。

 彼自身の魂を文字通り削って。

 魂を媒介にした呪詛は最強の切り札だ。誰にも留められない。だが術者自身の命をも削る。

 これ以上の負担を魂にかけては、ヴェイツェが死んでしまう。事情が事情なので、迂闊に助けも求められない。

 止められるのは、全ての事情を把握している自分だけ。

 それなのに。


 パンッ!


 銃声が届くのとテラスの体に熱い痛みが走ったのは、ほとんど同時だった。

「さすが……」

 目標を見定めたら悠長におしゃべりなどせず、最初から殺しに来ることに迷いがない。

 余計な人死にを出したくないなどと甘いことを考えないのなら、なんて確実な方法なのだろう。

 彼女は決して死を恐れない。自らのものも、他人のものも。

 そういう相手は、人の心理を揺さぶり本能的な恐怖に訴えかけることしかできないテラスには止められないのだ。

「ハートの……女王……!」

 銃口を掲げた女の前で、小さな体が血の海に沈んだ。


...132


「銃声……?!」

 魂を削る呪詛を使ってグリフォンを倒し終えたヴェイツェは、突如として響いたその音に顔色を変えた。

 自分以外にここにいる人間は限られている。そして、いくらジャバウォックの正体とはいえ、一般人であるテラスが銃を持っている訳はない。

『撤退だよ、グリフォン。寝てたら置いて行くからね』

 目の前の男の耳元の通信機に連絡が入る。先程テラスを追って行ったのとは別の女の声だった。

 ヴェイツェは、すぐに駆けだしてテラスを探し出す。そして見つけた。

 血の海に沈んだ少年を。

「テラス君……?」

「……ツェ、お兄さ……」

「!」

「……ぐに、アリスが、来る……」

 まだ微かに息があったテラスが目を開きヴェイツェを見つめる。

「彼が……君を救って、くれ……る……」

「どうして……どうして君はそんなに僕を……」

 ジャバウォックとだけ名乗っていた頃からそうだった。どうしてテラスはこんなにも、ハンプティ・ダンプティを――ヴェイツェを救おうとするのか。

「僕も……同じ……僕が僕として……生まれてきた、意味、を……」

 証明したかった。

 創造の魔術師や邪神の生まれ変わりとして、周囲の人間をただ不幸に陥れるためだけに生まれてきたのではないことを。

 テラスとして、ヴェイツェとして、生まれて生きたことは幸福であったと。

 ヴェイツェにとってその方法は、自分の両親や多くの人々の命を奪った睡蓮教団への復讐だった。

 全ての不幸をまき散らした元凶が自分と教団であるなら、いっそ自分ごと教団を消してしまうしかない。

 しかしテラスにとっては。

「……僕にとって、君は大事な人だ……」

 関係を一言で言うならば、ただの友人。それも同い年でずっと親しく付き合っていた訳ではなく、ほんの数か月前にテラスが入学してきてアリスを通じてヴェイツェと知り合っただけの、他者が聞けば少し遠いと感じるかもしれない繋がり。

 しかしその数か月がテラスの七年の人生の中で意味を持ち、ヴェイツェの十七年の人生の中で意味を持つ。

 家族ではない。親友ではない。恩人でもない。七歳の子どもは恋なども知らない。友情にしても淡い。

 生きていればそれこそこの先、テラスは色々な感情を知れただろう。大人に言わせればテラスがヴェイツェに感じているものはとてもちっぽけな感情なのかもしれない。けれど。

「僕は……辰砂じゃなくて……テラスだから……今、自分にとって、大事な人を……」

 守りたかった。

 どうやら無駄だったみたいだけれど。

 ヴェイツェが血の海に手をついて、崩れ落ちそうな自らの体を支える。

「でも僕は……僕は……!」

 テラスがこれだけ命を張ってくれても、ヴェイツェはもう、自分が助からないことを知っている。

 復讐のために魂の欠片を砕いて砕いて、遠からず死ぬことが自分でもわかっていた。

 ――そこでようやく復讐が完了される。

「テラスく――」

 廃ビルの階段を駆け上がる足音がした。

 ハッと警戒したヴェイツェの前に現れたのは、二つの人影。

 そのうちの一つを目にしてテラスが目を和らげたのを誰も知らない。

 やっと来てくれた、アリス。


 ◆◆◆◆◆


 アリスは廃ビルの入り口で、戸惑った様子のフートと出くわした。

「フート! ……お兄さん! なんで?!」

「は?! いやいやアリス君こそなんでこんなところにいるんだよ!」

「俺はちょっと人からテラスがピンチって連絡受けて――」

「……テラス君が?」

 フートが目を瞬く。

「じゃあさっきのはそれだったのか? あれは幽霊? でもそれにしては――」

「……フートお兄さん?」

 正直に言って、アリスの目から見てフートの様子はどこかおかしかった。

 この時フートが冷静になるまでその場で落ち着かせていれば良かったのだろうか。

 けれど突如として響き渡った銃声が、二人からその選択を奪ったのだ。いくら人気のない地域とはいえ、銃声が聞こえてくるなど尋常ではない。

「何が――」「テラス!」

 二人は廃ビルの中に駆け込んだ。

 ハートの女王はニセウミガメとその部下を起こして出て行ったが、別の出入り口を使ったために彼らと鉢合わせすることはなかった。

 そして、運命は彼らの敵に回る。

「……ヴェイツェ?」

「え? なん、で……」

 呆然とするフートの声に現場を覗き込んだアリスは、まずヴェイツェがそこにいたこと自体に驚き。

 彼の体の向こうに見えた血だまりに声を失う。

「テラス……?」

 横たわり死に向かう少年の傍らで、ヴェイツェの両手は紅く紅く血に染まっている。

 それはまるでヴェイツェがテラスを手にかけたと誤解されても仕方ない状況で。

「ヴェイツェ、てめぇ――!」

 あとは、悲劇の坂を転がり落ちるしかなかった。


 ◆◆◆◆◆


 ヴェイツェは一言の弁解もしなかった。

 彼が直接テラスを手にかけた訳ではないが、彼のせいでテラスがこの状況になったのは事実だ。

 それにテラス以外の人間をもう何人も、ヴェイツェはこの手にかけている。

 けれど、そのことが事態を更に悪化させたのは事実だろう。

 見事に誤解したフートはヴェイツェを取り押さえようと追いかけ、ヴェイツェは窓から飛び降りて逃げる。

 魔導で身体強化した二人の、本気の鬼ごっこが始まった。

「……ちょ、待っ……」

「テラス?!」

 ただでさえ弱っているテラスの制止の言葉は間に合わなかった。しかしフートとヴェイツェの行動を呆然と見送ってしまったアリスには届いた。

「お前、息があ――」

 駆け寄ったアリスは改めてテラスの惨状を見て凍りつく。

「どうして」

 フートがテラスの状況を確認しなかったのも無理はない。致命傷だ。こんな傷で生きているはずもない程、綺麗に心臓を撃ち抜かれている。

 アリスより優秀なフートには瞬間的にそれがわかってしまったため、まだテラスに息があるということに思い至らなかったのだろう。

「そりゃ……魔導でね……話……しないと……」

「テラス!」

 テラスが魔導に優れていることは知っていたが、まさか自分が死ぬ間際にもこんなに冷静だとは。それともこれこそが、彼がジャバウォックたる所以だとでも言うのだろうか。

 ――ああ、こんな時本当はもっと考えることがあるはずだろうに、アリスはどうでもいいようなことばかりを気にしている。

 冷静になれない。目の前の事態が受け入れがたい。それでも。

「アリス……お願いだ……」

 アリスは今にも消えそうなテラスの声に耳を澄ます。

「お前が救ってほしいのは、ヴェイツェのことか?」

「うん……彼は、ハンプティ・ダンプティだ……だから……」

「……! わかった!」

 ここでヴェイツェの姿を見て、ようやく繋がった。

 ヴェイツェだったのだ。ヴェイツェがハンプティ・ダンプティであるからこそ、テラスはハンプティ・ダンプティを救ってほしいと、アリスに対し願ったのだ。

 テラスとヴェイツェ、二人の友人であるアリスに。

 ヴェイツェを知らない他の誰かにとっては、ハンプティ・ダンプティは非道な殺人鬼かもしれない。けれどヴェイツェ=アヴァールを友人として知るアリス……アリスト=レーヌは考える。

 きっと何か理由があるはず。自らの命を削ってまで復讐を果たす理由が。

「もう一つ……」

 だがテラスがもたらした爆弾は、これだけではない。情報屋ジャバウォックは最期まで、情報を伝えていく。

「フート=マルティウスは……“帽子屋”だ……」

「怪人マッドハッター?! フートが?!」

 それもまた平然としてはいられない情報だ。今ヴェイツェを追っているのはそのフートなのである。

 フートは自分が怪盗として罪を隠しているからこそ、ヴェイツェもまたそうであると、信じるより先に疑ってしまったのだろう。

「ヴェイツェは素手だったのに、テラスは銃で撃たれてる。ああもう、フートの奴……!」

 それだけ彼も冷静ではなかったと言うことだ。だがどうしても。

 この痛ましい誤解を、自分は止められるだろうか。

「できるよ」

 アリスの心を見計らったように、テラスが言った。

「君ならできる……君にしかできない……」

 不思議の国の住人としての頼み。

 けれどそうする理由は、あくまでもテラスがアリスを信じているから。

「後のことは全部、バンダースナッチ、に……」

「ああ、フォリーから聞く! だから……」

 アリスはテラスの手を強く握りしめる。

「アリス……ありがとう」

 これまでで一番、子どもらしい無邪気な顔でテラスが笑う。

「君と会えて、よかっ……――」

 最後の一音をその唇に乗せられないまま、魔法の終わりと共に命が滑り落ちていった。

「テラス!」

「テラス君!」

 ようやく追い付いてきたシャトンが入り口で叫ぶ。

「ま……間に合わなかっ……」

 一目で惨状を察し、目に涙を浮かべたシャトンにアリスは告げる。

「まだだ。まだ終わってない」

「え……?」

「手伝ってくれシャトン。ハンプティ・ダンプティを――ヴェイツェを止めないと」


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