20.揃わないピース
...115
――例の会合の後の話だ。
ギネカに関しては、このままヴァイスが車で自宅まで送っていくことになった。
本来の帰宅手段はネイヴのバイクだったのだが、深夜運転に付き合うならネイヴのバイクよりもヴァイスの車の方がいいらしい。
どうせヴァイスのマンションとギネカの自宅はすぐ近くだ。わざわざ家の前までは送らず、ヴァイスたちが自宅に帰ればそのまま送ったことになる。
いつかのように途中の道でアリスたちと話す。いつか――アリスの正体を確かめたあの日と違うのは、今日はシャトンも一緒にいることだ。
いつも通りがかる公園も、誰もいない真夜中は、彼ら子どもたちの世界だ。
「それにしても、まさかあなたが“料理女”で、幼馴染の彼が“パイ泥棒のジャック”だったなんて」
シャトンは感心したようにギネカに言う。
「まったく気づかなかったわ」
「私たちももう怪盗歴五年だもの。結構年季が入ってるでしょ? 隠すことにも慣れて来たのよ」
ネイヴの催眠能力を使えば、姿を偽ることなんて簡単だ。
「……何故、今更俺たちに本当のことを教えてくれたんだ? ギネカ」
「……あなたたちの目的が、私たちと同じだってわかったから」
アリスの問いに、ギネカは誤魔化さずにまっすぐに答えた。
「それに、私は信じてた。私だけじゃない。ネイヴも。あなたたちなら、私たちを信じて受け入れてくれるんじゃないかって」
両親を殺されたネイヴが、打倒睡蓮教団のためにできることなんてほとんどない。なかったのだ、その当時は。
七年前はほんの十歳。そんな子どもが、帝都を牛耳る犯罪的宗教団体にどうやって立ち向かえと言うのか。
ネイヴは頭が良くて身体能力こそ高いが、言ってしまえばそれだけなのだ。
財産や権力など、個人の分を超えた大きな事を成せるような特別な力なんて、何一つ持っていなかった。
それでも両親を殺された現実に対し泣き寝入りなどしたくなかった――。
「警察に頼るというまっとうな方法で教団を瓦解させることができないなら、私たち自身の手でやるしかない」
真実を知ろうと行動した過程で、ネイヴは睡蓮教団が社会の様々な機構に根を張っていることを知ったのだと言う。当然、警察や様々な業界の権力者たちにも、教団の人員は入り込んでいる。
だから彼らは自分たちの存在を教団の敵対者であると誇示し、いつか打倒教団のために手を組める相手を探す“怪盗ジャック”と相棒の“料理女”になった。
「ネイヴの両親は、息子の能力に寛容で、同じように接触感応能力を持つ私のことも可愛がってくれたわ。……あの人たちを殺した教団を絶対に赦せない。ネイヴのように不幸になる者を増やしたくないの」
街中で両親に甘える子どもを見つめる幼馴染の目はいつだって寂しそうだ。
ギネカはそれを見るのが嫌だった。
「そっか……」
アリスが教団と関わるようになってまだほんの数か月。ギネカとネイヴは、もう五年も教団と戦い続け、覚悟を決めていたのだ。
高等部で一年間ずっと友人として過ごしていても、案外気づかないものなのだなと。
「ま、俺としても相手が知ってる顔で逆に良かったよ。まったくの他人を一から信用するのって難しいもんな」
「そうね。私とかね」
「あ……」
まったくの他人から始まったシャトンが言う。
「……最初の頃、何かあったの?」
「「まぁそれなりに」」
元々教団の一員であったシャトンと、アリストの友人であったギネカ。信用しやすいのは間違いなく後者だろう。
「でもその難しさを乗り越えて今は相手を信じられるようになったら……それはそれでいいじゃない」
シャトンとアリスたちの間にあるものをなんとはなしに察し、それでもギネカは本心を吐露する。
「私は、料理女のことよりもむしろ接触感応能力のことばっかり気にしてた。怖がられたら、気味悪がられたら、心を読まれたくないから近寄るなって言われたらどうしようって――」
「ギネカの力はみんなの役に立ってるじゃん!」
「前回の事件だって、その力でイモムシから情報を聞きだしたおかげでエラフィ=セルフを救出できたようなものよ」
「……ありがとう。今回はアリストと、その姿に戻れる時計を作ってくれたシャトンのおかげね」
誰かが誰かの役に立って、そうして支えられている。
「ただ……ヴェルムにはどう言おうこれ……」
ギネカは珍しく情けない表情で眉を下げた。お互いの事情に理解を示してわかりあえたと喜ぶのも束の間、深刻な問題が一つ発生している。
前回のエラフィ救出事件の際、ヴェルムは怪盗ジャックに激しい拒絶を見せていた。結果的に協力関係になったとはいえ、果たして潔癖な彼がここ数年ライバル関係にあったジャックのことを素直に受け入れられるだろうか。
「……正直、イモムシに事情を話すのは少し待った方がいいと思うの。私の時も、白騎士は随分苦労したみたいよ」
「ヴェルムは俺たちと違って真面目だからなぁ」
「まぁ、探偵なんてやっていくには、その意志の強さが必要なんでしょうね」
「簡単に犯罪者に迎合する探偵……確かに駄目そうね」
三人は溜息をつく。
「でも、そのうちわかってくれそうな気がする。簡単じゃないけど、苦労するだろうけど、こっちが誠実さを失わずに説得し続ければ」
「アリス」
「だからこそギネカは俺たちに正体を明かしてくれたんだろ。友達だから。本当に困った時には助けてくれるはずの友人だって知ってたから、嘘を吐き続けるよりも、真実を話して協力する道を選んだんだろ?」
信じていたというのは、そう言うことだ。
「……ええ。そう」
信じていた。信じていたかった。だからその通りに行動したのだ。
そこで言葉も心も届かないぐらいの間柄なら、きっと秘密を隠し続けていた後は、もっと辛くなるだけだから。
「あなたたちに、本当のことを言えて良かった」
だから、まだ戦える。
◆◆◆◆◆
深夜に電話がかかってくる。
緑色に輝く帝都の象徴のタワーの上で、一人遥かな眼下の街並みを眺めていた彼はそれを受け取る。
「はいはいこちらヘイア」
『やぁ、“三月兎”』
「またお前か、“ジャバウォック”」
ヘイアとは『鏡の国のアリス』で三月兎が名乗る名だ。
いつもいつも口出ししてくる情報屋からの連絡に、三月兎は溜息で応えた。
「それで、何の用だ」
『お言葉だね。せっかく君の弟に関して教えてあげようと思ったのに』
頼んでもいないのに情報を押し付けてくる情報屋は、今日も勝手に教えてくる。
三月兎自身も、本当は知りたいと思っていることを。
『彼は無事だよ。怪盗ジャックとアリスが傍にいた。でもアリスたちとの協力関係は断り続けている……ねぇ』
エメラルドタワーの展望台。中ではなく外の外壁に腰かけていると、風の音が酷くうるさい。
その風の音の中でも、その声は祈りのように切実な響きを湛えていた。
『弟のところに帰ってやらないのかい?』
「……」
『生きている今のうちだけだよ。会いたい人に会えるなんて』
「……」
三月兎は咄嗟に言葉を失い、自分の中でも何度も何度も迷ったことを改めて考え直す。
『変な小細工を考えず、会える時に会ってあげなよ』
「……どうした。今日はよく喋るじゃないか。こちらとしては、お前に俺たち兄弟のことをとやかく言われたくないが」
ひとまず、自分が最終的にどういう決断をしようと、それを逐一情報屋に報告してやる義理はない。
『僕にはもう時間がないからね』
けれど返された言葉の意外さに、三月兎は初めて暗黙の了解の果てに禁忌としていた、情報屋の素顔について尋ねた。
「時間? お前はそんな老人だったのか?」
なんとなくだが、三月兎はジャバウォックのことを若者だと思っていた。彼は組織の中に組み込まれた歯車という感じがしない。これはまだまだ、自分の視えている世界だけで好き勝手やっている子どもの視点だ。
ジャバウォックの場合、その「視えている世界」が人より段違いで広いだけ。そう思っていた。
ジャバウォックという情報屋がこの世の全てを知るのは、辰砂の魂の欠片を生まれながらに有しているからだろう。
それがわかっていた三月兎は、だから情報屋の正体に関してはもう気にしないことにしていた。ジャバウォックの持ってくる情報の出所が辰砂の魂の欠片からであれば、地上で現実の人間の経歴をあさったところでジャバウォックの正体に辿り着けるとは思えない。
けれど今「時間がない」と言う言葉を耳にして、初めてこの電話の向こうにいるのがはっきりと生きた人間であることを実感する。
『違うよ。まだまだまだまだ老人なんて呼ばれる歳じゃない。ぴっちぴちだよ』
「死語だ」
本当に若いのかどうかわからない。
老人なのか、大病でも患っているのか、それとも。
「お前にはひょっとして、自分の未来も視えているのか……?」
『僕には元々未来なんて大層なものは視えないよ』
自らが死ぬその日すらも、全知全能の情報屋は知っていると言うのだろうか?
『ただ、今この瞬間、破滅を願う人の存在を知っていれば、そこから少し先を予測することもできる』
「破滅……もしかして、ハンプティ・ダンプティか?」
帝都を混乱に陥れ続ける殺人鬼の名に、三月兎は苦い顔になる。
あの殺人鬼の行動は三月兎にとっても不安要素の一つだ。だがジャバウォックは殺人鬼を止める気はないらしい。
「何故お前は、そうまでしてハンプティ・ダンプティを気に掛ける? お前に時間がないというのも、その関係なのか?」
『別に、大した理由じゃないよ』
後半の質問には答えずに、ジャバウォックはいつものように、言いたいことだけを口にする。
『僕だけじゃない。全ての物事に終わりが迫っているんだよ。三月兎。だってこの街には、“アリス”がいる。僕らの待ち望んだ“アリス”が』
「……何故、そんなことが言える。お前は一体、彼の何を知っていると言うんだ?」
問いを投げかけた瞬間、しかし三月兎自身の中にその答が閃いた。
「ジャバウォック……もしかしてお前、アリスの傍にいる人間なのか?」
『そうだよ』
姿なき――姿を見せぬ情報屋は言い切った。
『彼を信じている。彼でなければ救えないものがあるんだ』
...116
「……」
フートはぼーっとしていた。
「……ムース、あんたの幼馴染今日おかしくない?」
「……え? なんです?」
「うおお! 駄目だ! こっちもおかしい!」
エラフィは頭を抱える。フートはその叫びを遠く聞いて物思いに沈みこんでいた。
いつもと同じ、ジグラード学院の放課後。
いつも通りでないのは、そこにいるフートやムースたちの様子の方だ。二人してぼんやりと何かを考え込んでいる様子に、周囲でエラフィやレントが心配している。それさえも今の二人は気付いていない。
フートの悩みは、先日の邂逅で怪盗ジャックと料理女の正体を知ってしまったことだった。
小さなアリスがアリストだったというだけで驚きなのに、まさか料理女の正体がギネカで、怪盗ジャックは彼女の幼馴染のネイヴだったなんて。
みんなみんな正体を隠していたのだ。自分を偽って。
教団の犯罪に巻き込まれた形になるアリスはともかく、ギネカはフート側に近い。彼女たちもまた、フートとムースと同じように怪盗とその相棒として夜な夜な盗みを働いていたのだから。
……では、何故。
何故彼女は、アリスに真実を告げることができたのか。
何故自分は、それができなかったのか。
ギネカが意を決してアリスたちに正体を明かした時、フートは何もしなかった。怪人マッドハッターの正体もまた彼らの友人であるフート=マルティウスなのだとは、明かせなかった……。
知られることが怖かったのだ。
自分は友人に自らの罪を知られたくない弱さを、相手を巻き込みたくないという美しい理由にすり替えて逃げていたのだろうか。
幾度気分を切り替えようとしても、煩悶は気付くと心の隙間に忍び寄って繰り返される。
答の出ない問いではない、もう答の出てしまった、そして変えることのできないことばかりを繰り返す。
否。変えることができないと言うのもまた自分の思い込みではないのか。
本当は今からでも間に合うのではないか。
一言お前たちと手を組みたいと言えば、アリスたちは受け入れてくれると。
――駄目だ。
誰かが頭の内側で囁いている。
――駄目だよ。フート。
その誰かの声が、自分を引きとめる。
――だって君は……
そこまで言うなら最後まで言えよ。そう思うのに、声は中途半端なところまでしか教えてくれない。
どうして駄目なんだ。アリストだって、ギネカだって、ネイヴだってみんな裏の顔を持っているじゃないか。
シャトンの元の姿とは面識がなく、ヴァイスは自分が不思議の国の住人であることを隠していない。それでも信じている。
信じているのに、何故。
話せば彼らまでこの闇に引きずり込んでしまう、暗い予感が消えない。
「フート、あんた今日本当に変よ」
「大丈夫か?」
エラフィやレントが語りかけてくる。
「それとも何か落ち込むことでもあったの?」
高等部生たちにつられて子どもたちまで心配してフートを見上げてくる。
「え、兄ちゃん落ち込んでんのか? 俺のプリンやろうか?」
「大丈夫だよ、大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
フートが言いかけた時だった。
「俺は大丈夫――」
「ごめん」
突然の謝罪に驚いて振り返ると、隣に座っていたヴェイツェが蒼白な顔で脂汗を浮かべている。
「……僕が駄目みたい」
「――って、ぇえ?! ヴェイツェ?!」
突然のことに、さすがのフートやムースも物思いから現実に引き戻された。今にも倒れそうなヴェイツェの身体を支えて周囲の状況を確認する。
ここは一階の食堂だ。保健室はすぐそこである。
「ヴェイツェ! あんたまで体調不良?!」
「ほ、保健室! 保健室――!」
◆◆◆◆◆
「ああ、吃驚した。ヴェイツェの奴、何やせ我慢してるのよ。体調が悪いなら早く言えっての!」
突然倒れてしまったヴェイツェに大いに心配させられたエラフィがぷんすか怒りながら、保健室から食堂へ戻る道を歩く。
全員で狭い保健室に押しかけるのも何なので、あの場にいた人間の半分は留守番なのだ。今はギネカとレント、アリスとシャトンが様子を見ている。
残りの面々は交替で見舞いに行く予定だ。
「迂闊だったわ。ヴェイツェの連絡先を誰一人知らないなんて」
あまり具合が悪いようなら家族に迎えに来てもらった方がいいと養護教諭は言ったのだが、肝心のヴェイツェの自宅、アヴァール家の連絡先を友人一同が誰も知らないという事態が発覚。
職員室に連絡したところ、もしも本当に酷いようなら車通勤のヴァイスが送っていくということで決着したらしい。
食堂に戻ったエラフィとフートは、その旨を残った面々に連絡する。
「まぁ、ヴェイツェだって高校生にもなってるんだし、具合悪くして親に迎えに来てもらうなんてよっぽどでなければないだろ?」
「早く良くなるといいね、ヴェイツェお兄さん」
「きっと大丈夫よ」
「うん……」
それからまた雑談して時を過ごす。別に用事らしい用事はないのだが、ヴェイツェが目を覚ますまではなんとなく皆帰る気にはなれなかった。
「どうせなら、ちょっと早いけど夏休みの計画でも立てちゃう?」
「え?」
「これだけの人数がいるんだもん。直前になって色々予約とるの大変よ。だから今のうちにね」
「夏はどこか出かけるの?」
「みんなでか?」
「ええ。きっと楽しいわよ!」
エラフィと子どもたちが率先してあれこれと遊びの計画を立てる。
それも一段落した頃。
「そういえばさ」
エラフィがふと思い出したことを告げる。
「この前、街でフートのドッペルゲンガーを見かけたわよ」
「どっぺるげんがぁ?」
平穏な日常生活に馴染みのない単語に、フートは全部ひらがなで発音した。自分と同じ顔をしたそれを見ると死ぬとか言うあれか。一体何の話だ。
「うん。まぁただのそっくりさんかもしれないけどね」
詳しく聞けばその時はフートがちょうど怪盗としての仕事の準備をしていた頃だ。その場所は帝国立博物館からは離れているので、フート本人のはずはない。
「エラフィさん……」
「ムース、あれがフートじゃないって言ったのあんたでしょ? 私たちはあれ、てっきりフートだと思って呼びかけたのよ。でも別人だって」
「別人? 俺に似た……」
フートはそこでハッと幼馴染を見る。
「俺に似てるって……まさかそれ、ザーイなんじゃ――!」
「私はそう思ったわ」
ムースの返答に、フートは椅子を蹴倒して立ち上がる。
「ってちょ、フート?!」
「フートお兄さん?!」
急に食堂を飛び出したフートに、友人一同は驚いた。
「どうしたのよあいつ」
嵐のように駆け去って行った後ろ姿を、エラフィたちは呆然と見送るしかできない。
「……」
あれはザーイエッツじゃない。ムースは以前も考えたことを、再び反芻する。
ザーイエッツは今年で二十七歳になるのだ。あんなに若い訳がない。
それにもしも生きていたら、彼はフートの前に現れるはずだ。
兄が戻って来ない限り、フートは怪盗をやめることができない。偽りの仮面を外せない。
ザーイエッツの存在はそれほどまでに深く、フートの心を縛っている。
兄が戻る場所が必要なら、自分は何一つ変わらない弟のままで待っていなければと……。
だから、フートはアリスや怪盗ジャックの手を取る訳にはいかないのだ。パイ泥棒の言い分を聞いて怪盗を行う理由に共感できても、誘いに頷くことができない。
冷静になったフートが戻って来るのを、ムースはただ待つことしかできなかった。
...117
「それでフートお兄さんはいないんだ。ふーん」
ルルティスとムース、カナール、ローロ、ネスルたちと入れ替わりで戻ってきたアリスたちに、エラフィが事情を説明する。
「もう、一体なんだってのよ。ヴェイツェは倒れちゃうし、フートもムースも様子がおかしいし」
「疲れが溜まってるのかなぁ」
ぽそりと呟いたアリスを、エラフィがからかう。
「あら、やっぱり私を助け出したせい? あの二人は割と苦労してくれたみたいだし」
「え、エラフィ」
「うぇ?! ちが、俺そんなつもりじゃ――」
「はいはいごめんごめん。もちろんわかってるわよ。ただの冗談」
しかしエラフィは、ふいに真面目な顔になり溜息をつく。
「でも、最近なんだかおかしなことが多いわよね」
彼女の言葉は、正直なことを言えばこの場の全員が密かに感じていたことだ。
それに明確な理由があることを知っている者と知らない者に別れるだけだ。
「始めは気のせいかと思った。ヴェルムがずっと殺人事件の捜査で滅多に帰らないって言うから、それが非日常感を生み出しているんだって。でも……」
ヴェイツェの体調不良やフートの精神不安定はヴェルムのようにハンプティ・ダンプティとは関係ない。そのはずだ。そのはずなのに。
「何か変よね。街は物騒だし」
「うん……俺もそう思う。俺たちの知らないところで、何かが起きてるんじゃないかって」
「レントお兄さんまで……」
子どもの姿のまま、友人たちに何を言えることもないアリスは眉を曇らせる。
フォリーがレントとエラフィの服の裾を掴んだ。
「みんな一緒だから、だから……」
「フォリーちゃん」
普段から言葉少なく喋ることが不得意な少女にこうまで言われて、エラフィもレントも自らの不安を零すことを控えることにした。
「……そうね。きっと大丈夫よね」
皆がエラフィを助けた時のように、フートやヴェイツェに何かがあったとしても、助けようと動く人間は必ずいる。
「私たちまで調子崩してたら話にならないわね!」
「何か買い出しにでも行くか? ヴェイツェだってもしかしたら、ただの貧血で何か口に入れた方がいいのかもしれないし」
二人がそうして購買に向かうと、後にはアリス、シャトン、ギネカ、テラス、フォリーの五人だけが残された。
「って! エラフィ! あの子、肝心の財布忘れてるじゃない」
「十人以上の買い物だし、私たちも手伝いましょうか」
そして更にギネカとシャトンが二人を手伝いに行ってしまう。
「ありゃりゃ……さすがに俺たちくらいはここにいた方がいいよな」
「うん。誰もいなかったらもし保健室からムースお姉さんやカナールたちが戻ってきた時に困ると思うよ」
そう言う訳で、アリスとテラスとフォリーの三人は留守番だ。
「……さっきのフートお兄さんのそっくりさんの話だけどさ」
一時的に話題が尽きて静まり返る食堂で、アリスはなんとはなしにこれまで思っていたことをテラスたち相手に零してみる。
「俺、実はあんまり驚いてないんだよね。前に他にもそっくりな人を見かけたから、正直あの顔ってよくあるんだなって思ってた」
「そっくり? フートお兄さんと?」
テラスが興味深そうに話を聞いてくる。
「うん。俺が昔……」
「昔?」
「あ、いや! こ、この街に越してくる前にいたところでの話なんだけどさ!」
慌てて誤魔化しながら、アリスは本当は十年も前の懐かしい記憶を引っ張り出してくる。
「凄く頭のいい少年がいたんだ。テラスみたいに、子どもなのにまるで大人みたいになんでもよく知ってた。白い癖っ毛に金の瞳で、フート……お兄さんにそっくりだったよ」
「へぇ……」
テラスは少し驚いたようだった。知識面では本当は十七歳の自分でさえ勝てない彼の、こんな純粋な驚きは珍しい。
「テラスも凄いよな。でも俺、そいつのことを知ってたから、やっぱり本当に子どもの頃から頭いいやつはいるんだなって思った」
ジグラード学院でフートに出会った時、最初は驚いたのだ。似たような顔をこの街でも見かけて。
噂の彼は、自分と同い年。今頃はフートそっくりにでもなっているのだろうか。
「……あれ、待てよ」
と言うか、あいつなのではないか? フートのそっくりさんは。
何かの用事で帝都を訪れて、フートにあまりにも似ているから勘違いされたのでは?
「アリス? どうしたの?」
「あ、ううん。なんでもないんだ」
まぁ彼が彼だったとしても、別に害はないだろう。
「君は僕が思っているより、よっぽど色々なことを経験してきたんだね」
「へ?」
何かに合点が言ったというテラスの態度に、アリスは頭の上に疑問符を浮かべる。
「……テラスこそ、なんでもよく知ってて偉いよ。とても七歳とは思えない知識量じゃん」
「当然だよ、だって僕、生まれた時からの記憶全部あるから」
「へ?」
「正確に言うなら、生まれる前の記憶もあるけど」
「え……それって、胎児の頃の記憶?」
「そこで子どもらしくお母さんのお腹にいた時と言わないところがアリスだよね」
「う……」
いつものことと言えばいつものことだが、テラスとのやりとりでアリスはぼろを出してばかりだ。
「……まぁ、たまにいるらしいな。その頃のこと覚えてる奴って。成長して行くにつれて忘れていくらしいけど」
「普通はそうだね。普通の子のその発言の真偽はわからないけれど。ただ僕の場合はちょっと違うから」
「違う?」
確かにテラスは普通と言う言葉の枠組みからちょっと外れている……「特別」な感じはするが、彼が自分のことをそのように言うのは珍しい。
テラスはずっと、自分は「普通の子ども」だと言い続けてきたから。
「“魂の欠片”って言葉知ってる?」
「え?」
「その昔邪悪な神様を、邪悪な創造の魔術師が自分ごと魂を引き裂いて倒したっていう神話」
――黒い流星の神話。
睡蓮教団、そして二人の怪盗と関わった時から聞き続けてきた単語を、ここでも聞くことになるとは。
「無数の破片に引き裂かれた魂は世界中に降り注いで散らばった。背徳神と魔術師、二人分の魂の欠片」
背徳神グラスヴェリアの魂は黒い星。創造の魔術師・辰砂の魂は白い星。
「魂の欠片は人間にも宿る。それを持って生まれた者は、先天的に人より優れた能力を備えていることが多い」
怪人マッドハッターや、怪盗ジャック――ネイヴ=ヴァリエートがそうであるように。
「僕は、これなんだよ。そして珍しく、最初からその自覚があるタイプ」
「へ?」
アリスは三度同じ間抜けな呟きを発する。
「魂の欠片を宿して生まれてくる人間って、ほとんどは何の自覚もない場合が多いんだ。自覚があっても、魔導の知識がなければそれが何なのか意味がわからない人も多い」
「魔法は、お伽噺」
フォリーがぽつりと呟く。
「いつも同じ夢を見る。白い砂と青い海、仲間たちの明るい笑い声、竪琴の音。けれどある日、その砂が真っ赤に染まる。みんなみんな殺されてしまった」
僅か七歳の子どもが受け止めるにはあまりにも凄惨な光景を、テラスはそれこそお伽噺のように謡う。
「辰砂と背徳神の記憶。でもその神話を知らなければ、ただの不思議でちょっと悲しい夢に過ぎない」
フォリーの言うとおり、魔法はお伽噺だから。
ほとんどの人間は、自分に魔導が使えるなんて思いもせずに生きていく。それで何も困らない。
けれどこのジグラード学院の生徒は――彼らは違う。
「テラス……」
「でも僕には、最初からその意味がわかってた。生まれる前にちょっと色々あってね」
「生まれる前ってお前……」
「前世の記憶とかじゃないよ。僕を産む時に、お母さんが死んじゃったんだ」
「!」
テラスの家は片親だ。父親のモンストルム警部の存在はみんな知っている。だが母親の事情は知らなかった。
怪盗見物にあれだけぞろぞろと連れだって訪れても警部がテラスの友人である自分たちを邪険にしなかったのは、そういう訳だったのか。友人がいなければ、テラスは警察の職務で多忙な父のいない一人きりの家にずっといることになってしまう。
「……そんな顔をしないで。別に悲しくはないよ。いや、そういう言い方は駄目だな。……悲しいけど、自分で選んだことだから」
「選ぶって?」
「……」
テラスは微笑んだままその先を語らなかった。
「アリス、頼みがあるんだ」
話の終わり? それとも続き?
ただ彼は、急にアリスへと、あることを頼み込んできた。
「僕には、救いたい人がいる。でも僕には、できない。彼を助けたいけれど、もうどうしようもないんだ。限界まで頑張ってみるけれど、きっと届かない」
「彼……?」
テラスが口にした相手に、アリスは見当もつかない。
「人は、救われたい人の言葉じゃなければ届かない」
「俺の言葉なら届くって?」
「彼との付き合いは君の方が長い」
アリスの知人で、この姿ですぐ小等部のテラスと知り合ったにも関わらずそれよりも付き合いの長い相手?
「だから、彼を助けて。――魂を救って」
「その相手は誰なんだ?」
「今は言えないんだ。それがわかった時は、もう全てが動き出している」
「なんかよくわかんないけど……」
詳細を語る気がないテラスの言葉に困惑しながらも、彼がそう言うならばと、アリスはその頼みを引きうけることにした。
自分に何ができるのかなんて、まだ全然わからないけれど。
「テラスがそう言うってことは、よっぽど大事なことなんだろ。わかった。俺にできることならやってみるよ」
「うん。ありがとう」
「その時が来たら、お前が教えてくれるのか?」
「たぶんね、伝えられたらいいなと思う」
――その時が来た時。
――全てが動き、そして終わった時。
後にアリスは、テラスとのこの会話を、何度も、何度も思い返すことになる。
...118
――ある日のこと。研究室に教材を届けに行って、ダイナとたまたま二人きりになる機会のあったギネカは、思い切って彼女に尋ねてみた。
「あの……ダイナ先生」
「何? どうしたのマギラスさん」
「先生は……アリストを探しに行かないんですか?」
ギネカはどうしても、このことをダイナ本人に聞きたくて仕方がなかった。
アリス側の事情は理解している。姉が現在の自分の状況に興味を持たない方がアリスの本意だろう。
けれどギネカは、ダイナには常に、弟であるアリストを気にかけていて欲しかった。アリストにとって誰より大切な姉にとっても、弟を一番に思っていて欲しかった。
勝手な話だが……。
「あの子が……何か厄介事に巻き込まれているらしいこと?」
ダイナは美しい顔から表情を消して、静かに問い返す。
「!」
ギネカは目を瞠った。
「アリストからはメールが来るし、エールーカ探偵は近況を報告してくれる。でもどちらも、私に話せないことがあると隠しているのも感じ取れるわ」
「じゃあどうして……!」
自分は矛盾していると感じながら、ギネカは問わずにはいられない。
アリストが姉を巻き込みたくなくて隠していることを考えれば、ダイナには何も知らずに日常を過ごしてもらった方がいいのだ。間違ってもアリストを追うなんて考えさせてはいけない。
それなのに、アリストがあれだけ心を砕くたった一人の姉が、アリストのことを一番に考えて行動していないように見える現状に不満があるなんて。
「迎えに行くのも考えたけれど、あの子が自分で対処できることの内は、アリストを信じてみようと思うの。それがまず一つ」
「一つ?」
では他にも理由があると言うのか。弟の一大事にも動かない理由が。
「……もう一つは、あくまでも私自身の問題よ。私は今、この帝都でやらなければならないことがあるの」
「やらなければいけないこと?」
ダイナの身辺に、そのような問題があるのだろうか。学院で教師として見せる顔以外に彼女のことを知らないギネカには、まるで想像がつかない。
それが、アリストのことよりも優先させなければいけない問題だと言うのなら尚更だ。
「ええ。詳しくは話せないのだけれど……」
「そう……ですか……」
誰にだって事情はある。それはダイナも同じと言うことなのか。
……恐らくダイナも、本当はできることなら、すぐにでもアリストを探しに行きたいのだろう。
接触感応で心を読まなくても、それぐらいわかる。
それでも彼女は、自分にはやらなければいけないことがあると、帝都に残る道を選んだ。
それは同時に、彼女自身の問題にもアリストを付き合わせる気はないと言うことだ。
姉と弟はあくまで別々に戦うつもりなのだと。
「私がやらなければ、始めたのは私なのだから」
ダイナの表情は、これまで見たこともないくらい真剣なものだ。
――理由がある。
アリストが家に帰れない理由。ネイヴとギネカが怪盗をしている理由。ヴェルムが探偵として犯罪者を追う理由。
そしてダイナにも、今はこの街にいなければならない理由があると言う。
誰もがそれを持っている。
そう、自分たちとは相容れない生き方を選んだ者たちでさえ。
◆◆◆◆◆
帝都に数多い喫茶店の一つ。彼女たちが昔から馴染んでいる店『ワンダーランド』。
ダイナとレジーナは、そこで今日も話をしていた。
「それで、そのアリス君て子はどうなの?」
にこにこと尋ねてくるレジーナに、ダイナは言う。
「随分アリスと言う“名”に拘るのね。レジーナ」
「……おや、そんな風に聞こえたかい?」
「ええ」
「君が言うならそうなんだろう。やはり僕たちにとって、“アリス”は特別なコードネームだからね」
レジーナの言葉を聞いて、ダイナは途端に顔を曇らせた。
懐かしい少女時代を思い出し、目の前の友人が、今もそこから抜け出せていないことを確信する。
「レジーナ、あなたまだ……」
ダイナが今こうしていられるのは、弟であるアリストのおかげだ。
両親の再婚も直後の事故死も衝撃だったが、その後の慌ただしい日々を、義理の弟になった少年と共にいたからこそ乗り越えることができた。
波風立たぬ日々ではなかったが、少なくとも投げ出したいほど不幸でもない。
誰でも少しずつ形を変えて経験する不幸、そして幸福。
そしてそれを得られなかったのであろう、目の前の友人。
「お?」
ダイナがついにその話を切り出そうとしたタイミングで、窓の外を眺めていたレジーナが声を上げる。
「噂をすれば……あれ、アリス君だろ?」
「え? ……あら、本当」
向こうも何気なくこちらを見遣って、ダイナたちに気づいたようだ。いつもの三人で出かけていたらしい。アリスが駆け寄って、シャトンとヴァイスがゆっくりと追ってくる。
「ダイナお姉さん、それに……ええと、レジーナさんもこんにちは」
「こんにちは」
礼儀正しく挨拶をしてくる小等部の生徒にレジーナはにっこりと笑顔を向ける。
そうしていれば彼女は、多少個性的なだけのただの女にしか見えない。
「また会うとは奇遇だな」
「ええ。今日は三人ですか」
「ただの買い物だからな」
「この時間に?」
夕暮れ時だが、ここからマンションまでの距離を考えれば夕飯の買い出しには少し変わった場所だ。
「ええと……ちょっと昼間色々あって」
ヴェイツェが倒れて、ヴァイスが車で送るかどうかとなった日の夜である。
結局ヴェイツェは一時間程休んですぐに回復したので、ヴァイスが送る必要はなかった。ただそれに合わせてアリスやシャトンが帰る時間もおそくなったので、どうせならと三人で買い物に出かけただけである。
「今ちょうど君たちのことを話していたんだよ」
「え?」
突然のレジーナの言葉に、真正面にいたアリスが面食らう。
「ダイナは寂しい子だからね。君たちの存在に随分助けられているみたいだよ」
「もう、レジーナったら」
ダイナが友人の肩を叩く。彼女にしては珍しい仕草に、アリスやヴァイスは密かに驚いた。
「誰が寂しい子ですって? こんな年齢になってまで、あなたにそんなこと言われる筋合いないわよ?」
いつも隣人や生徒たちに優しい大人の女性として接しているダイナも、気の置けない友人に対しては随分砕けた態度をとるようだ。
「それにアリス君たちは、いずれ元のお家に帰るのよ。心配させるようなことを言ったら悪いじゃない」
「あー、うん」
仲の良い友人同士のやりとりにこの姿でどう口を挟んだものか、戸惑って返答が少しぎこちなくなるアリスに対し、レジーナはどこか意味深な言葉を向ける。
「へぇ……それはそれは。無事に帰れるといいね」
「……」
アリスはレジーナの笑顔に、底知れず不穏なものを感じた。
けれどそれを問い詰める暇もなければ、そのやり方もこの場面ではわからない。相手はアリスにとってほとんど面識のない人物だ。あくまでも今は他人として接しているダイナの友人という、遠い間柄だ。
ダイナとヴァイスの方でついでと済ませた学院関係のやりとりが終わったところで、もう帰るぞと声をかけられた。
「私たちはこれで失礼する」
「あ、ごめんなさい引き留めてしまって」
踵を返す一行を、レジーナは再び綺麗に作り上げた笑顔で見送る。
その姿が見えなくなった辺りで、アリスは躊躇いながらも口を開いた。開こうとした。
「なぁ、あの人……」
「ちょっと変わった人ね」
「そうじゃなくて……」
けれど自分の感じているものを、この時のアリスはどうにもうまく言い表せなかった。
...119
「それで、倒れた原因は何なのよ」
「ただの不摂生で立ち眩みを起こしただけだよ。心配はいらない」
「とてもそうは見えなかったけど」
――ヴェイツェが倒れた翌日。
今日はエラフィとレント、ヴェイツェとルルティスの四人だけで話をしている。
他の面々はアクティヴなので、どちらかと言えばインドアなエラフィやレント、ヴェイツェが取り残されるのは別に珍しいことではない。
教室の窓から見えるいつもの風景。変わらない穏やかな日常。
それも、一枚ベールを剥げばまったく別の顔を隠し持っているのかもしれない。
けれど、今はまだ、それを彼らの多くは知らなかった。
「それでね、この前あんたが寝てる間に、みんなで夏休みの計画を立てようって話になったのよ」
「夏休みか……そう言えば、もう一ヶ月ちょっとなんだね」
季節は夏に向かっている。
「とりあえずみんなで海に行こうかって話してたんだけど」
「海……」
内陸の帝国には海がない。隣国を抜ける必要も距離もかなりあるが、それでも帝都の民は何かの折には海に行ってみたいと望む。
「ヴェイツェも行くでしょ?」
「……うーん」
「何よ、不満? 山の方がいいわけ? 子どもたちは山でキャンプもいいねーって言ってたけど」
「高等部女性陣の『虫は嫌!』の大合唱で今のところ海派が優勢」
レントが苦笑する。ちなみに小等部だが中身はお年頃のシャトンもこちらである。
「海か……そう言えばもうずっと行ってないな」
「じゃあいいじゃない」
「でも僕……あんまり水着になりたくなくってさ」
「ダイエット前の女子高生かよ!」
エラフィの激しい突っ込みに、ヴェイツェは違う違うと手を振る。
「昔事故に遭って、身体に傷があるんだよね」
「え?」
「だからあんまり、裸を見せたくないなって。特に子どもたちが一緒だと、怖いもの見せちゃいそうだし」
「ええ……?」
「初めて聞いた。大丈夫なのかヴェイツェ。もしかして倒れたのもそれが理由? 後遺症とか」
レントが気遣わしげに尋ねる。
「違うよ。倒れたのはただの体調不良。傷は痕こそ派手だけど今更体に不調を及ぼすようなものではないよ」
「何気にハードな人生送ってるのねあんた」
「先日帝都爆破未遂犯に誘拐された人に言われても……」
エラフィの人生も相当だ。
「事故のことは聞いても大丈夫なんですか? ここだけの話の方がいいですかね」
ルルティスの問いにも、ヴェイツェはけだるげに腕を振る。
「特に隠すようなことでもないよ。周知しておいてほしいものでもないけど」
「……この前、アヴァール君の保護者の連絡先を知らないからってみんなしてあたふたしてたんですけど」
「ああ、僕もう両親がいないから」
エラフィとレントがハッとした顔になる。
「その事故で。僕はぎりぎり一命を取り留めたけど、両親は間に合わなかった」
「ヴェイツェ……」
「あの時、僕も一度死んだような気がするよ」
静かな口調だが、ヴェイツェがその心境に至るまでに一体どれほどの感情の荒波を超えて来たのか。余人には計り知れなかった。
「……だからこの前、ヴァイス先生が送ろうって言ってくれたのね」
「先生は当然僕の家庭事情を御存知だから」
「そっか……そうだったんだ……」
「やだな。そんなしんみりしないでよ。亡くなったって言っても、もう随分前だよ。しばらくは祖父母と一緒に暮らしてたし」
けれどしばらくという注釈がつくと言う事は、今のヴェイツェは一人なのだ。
「それに両親の事故と言えば、僕だけじゃないだろ。アリストのところもそうだって」
「そう言えば、あそこはダイナ先生と姉弟二人きりね」
「フートのところも。それから最近知り合ったエールーカ探偵だって、御両親のことは有名だよね」
「あー……まぁ」
エラフィの幼馴染にして帝都の切り札とも呼ばれる探偵ヴェルム。彼が探偵を始めた理由は、殺害された両親の事件を解決するためだった。
「テラス君のところも確か、父親はモンストルム警部だけど母親が……」
「家庭事情と言えば、ヴァイス先生の所の二人、アリス君とシャトンちゃんも……」
「みんな色々な事情を抱えているんだよ。僕だけじゃない」
改めて考えてみると、彼らの交友関係にはそうして家族を亡くしている人間があまりにも多い。
平穏で活気に満ちた帝都。そんなものは、本当は幻想なのかもしれない。そんな風に考えさせる程に。
「やめましょう! この話!」
「そ、そうだな」
エラフィが勢いよく終了宣言をし、レントも同意する。
「じゃあ最後に一つだけ」
しかしヴェイツェはこれだけはと、今まで口にしたことのなかった本音を吐きだす。
「正直、ありがたいと思うよ。この前みたいに、僕を心配してくれる人がいるって言うのは」
「ヴェイツェ……」
「そんなの当ったり前じゃん!」
「ありがとう、みんな」
そして彼らと付き合いの短い編入生――ルルティスはヴェイツェの様子を、じっと窺っていた。
◆◆◆◆◆
「ヴァイス、俺の捜査に協力してほしい」
「……魔導の出番か」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。まずそこの判断から頼みたい」
ついにヴェルム=エールーカは、自分一人の推理ではこの事件を解決することは不可能と判断し、帝都における魔導学の第一人者であるヴァイス=ルイツァーリに依頼を持ちこんだ。
連続殺人鬼――ハンプティ・ダンプティの手に寄る被害者はすでに十名を超えている。
警察は躍起になって犯人探しを続けているが、相変わらず捜査の進展はなかった。これだけの人間が殺害されたにも関わらず、殺人鬼の影も形も見えない。
もはや世間は警察の無能を叩くという段階ではなく、ただただこの殺人鬼を恐れた。
被害者たちの接点や共通点は何も見つからず、無差別殺人と見る動きが強まっている。
だがヴェルムは知っている。これは無差別殺人ではない。
殺人鬼の標的となるのは、睡蓮教団関係者――。
ハンプティ・ダンプティの目的は恐らく、復讐。
「ハンプティ・ダンプティの殺人現場に残された痕跡や周辺の目撃証言から、俺は一つの結論を導き出した」
「この犯行は、人間の業では不可能」
一見探偵にとっての敗北宣言とも言えそうな台詞だ。
だがヴァイスと親交を持つヴェルム=エールーカがそれを口にした時は、違う意味を持つ。
「只人の手に寄る犯行でなければ、魔導士の仕業かも知れないと言う訳か。だが……」
それが人には不可能だと判断するのもあらゆる知識と勇気が必要なことだ。
事故と片付けることのできない明らかな殺人事件の現場でそれが人間業でないなどと言えば、未知の化け物がやったとでも言うようなものだ。
この時代に、そんな迷信やお伽噺はあり得ない。
「そうだ。お前にはすでに一度現場を見てもらっている。魔導の痕跡はないと言う話だったな」
「私が間違える訳はない。魔導の気配も呪詛の気配も、ハンプティ・ダンプティの仕業とされる現場にはなかった」
「他の可能性も含めてもう一度一緒に考えてもらいたい」
これ以上人間の仕業だと考えていてもどうにも成り立たない。こうしている間にも、次の犠牲者が出ているかもしれないのに。
「何か見落としがあるはずなんだ。たぶん、普通なら思いつかない、けれど誰もがすでにその答を知っているような、そんな方法が……!」
人の仕業ではなくとも、犯人は結局人でしかない。ならば用いる手段や力がいくら特殊であっても、その発想に行き着きさえすれば犯人候補を限定できるはずだ。
「この事件の謎は、絶対に解かなければならない……!」
ヴァイスにこうして依頼すると同時に、助手のジェナーに頼んであることを進めているヴェルムは、己の力不足を悔やんで悔しげに唇を噛んだ。
...120
アリスと怪盗ジャックの同盟、ヴェイツェの体調不良にフートの物思い。
――何かが動き出している。
ヴェイツェは相変わらず体調を崩しがちで、フートも悩んでいる様子を多く見せるようになった。
それでも数日が経って最初の衝撃は過ぎ去り、それぞれの人々が表の顔も裏の顔も大体いつものペースを取り戻してようやく日常が帰ってきたかと思われた頃。
「は?!」
朝食を摂りながらニュースを見ていたアリスは叫んだ。シャトンは唖然とし、ヴァイスの手元からバサリと音を立てて新聞が落ちる。
『――とのことです』
アナウンサーはもう一度、その衝撃的な説明を繰り返す。
『怪人マッドハッターに、殺人の容疑がかけられました!』
「一体どうなってんの……?!」
アリスたちと手を組んではくれなかったマッドハッターだが、恐らく本来は気のいい青年なのだろうと予想される。彼が殺人などを犯す訳がない。
「まさか……」
シャトンが顎に手を当てて考え込む仕草を見せた途端、アリスの懐で携帯が鳴り出す。
着信は見慣れた友人からのものだった。
「もしもしギネカ、何の用? ……はぁ?!」
先程のニュースを見た時にも劣らぬ驚愕の声を上げたアリスに、ヴァイスやシャトンも注目する。
「怪盗ジャックの目の前で誘拐事件?! しかもそのせいでジャックが誘拐犯だと疑われてる?!」
「はあ?!」
「……!」
ヴァイスが先程のアリスのように叫び、シャトンが息を呑む。マッドハッターだけでなく、もう一人の怪盗も窮地に追い込まれていた。
「二人して一体どうなってんだよ!」
ニュースは相変わらずマッドハッターの殺人容疑に関する変わりない情報を流し、携帯電話からはギネカの硬い声が響いてくる。
『そっちは何があったの?』
「マッドハッターが殺人犯だってニュースが……」
『そう。ってことはやっぱりネイヴが言っていた通り――』
「『これは、睡蓮教団の攻撃よ』」
部屋の中と電話の向こう側で、シャトンとギネカの声が重なった。
「怪人マッドハッターと怪盗ジャックに別の事件の容疑を被せて、彼らの動きを封じる罠だわ」
シャトンの険しい表情を見つめながら、アリスは電話の向こうのギネカに尋ねる。
「ギネカ、お前たちはどうするんだ?」
『ネイヴと一緒に誘拐事件の解決を目指すわ』
「逃げないのか?」
『でも、見ちゃったんだもの。今のあなたの姿よりもっと小さな子どもが攫われるところ』
これが教団の罠だと言うのなら、その子どもは完全に巻き込まれたということになる。放っておくわけには行かない。
「……」
電話の向こうの声がネイヴに代わる。
『誘拐という手段は、俺をこの事件に引きつけるためだろうな』
怪人マッドハッターのように殺人事件となれば、怪盗の出番はない。警察が事件を解決してくれるまで潜伏するだけだ。
しかし怪盗ジャックは睡蓮教団に激しい恨みを持ち、教団にとってはマッドハッターよりも手強いとされている。
警察という追手を使うよりも、誘拐事件を囮にジャック本人を動かす方が効率が良いという教団の判断だろう。
「マッドハッターの方は? 殺人容疑をかければ活動をやめると侮られているのか?」
『いや、あれは探偵対策だろ』
「ヴェルムか……!」
アリスとシャトンがハッとし、ヴァイスが顔を顰める。
「なるほどな。世間を賑わす怪盗が殺人を犯したとなれば、人々の注目が集まるし、ヴェルムは怪人の濡れ衣を晴らすために駆けずり回ることが期待されると言う訳か」
ヴェルムは怪盗ジャックのライバルという認識だろうが、マッドハッターとの因縁もない訳ではない。
例えヴェルムが動かなくとも、警察の注意は怪盗の殺人に向けられるだろう。
マッドハッターの殺人容疑、怪盗ジャックの誘拐容疑、そこに引きつけられる探偵と警察。睡蓮教団の行動を邪魔する勢力が、一時的にほぼ全て封じられているのだ。
白の騎士ことヴァイスはフリーだが、彼はそもそも常に事件に網を張っていたり怪盗のように自ら教団を誘き寄せたりはしない。邪魔にならないという判断だろう。
――邪魔。何の邪魔だ。
マッドハッターの殺人容疑にしろジャックの誘拐容疑にしろ、こんな小賢しい罠が最後まで機能する訳がない。
人の犯行であればどこかに必ず証拠は残る。どうせ数日もあれば警察が真犯人を見つけ事件は解決するのだ。
ならば怪盗二人も探偵も警察も邪魔ができないこの数日の間で、教団側は何をしようとしている?
「今、教団の敵対勢力で残っているのは――」
ここにいるアリスたち、怪盗でも探偵でもないあくまで一般人の彼らと。
そして。
「ハンプティ・ダンプティ……!」
睡蓮教団の人間を次々に殺している殺人鬼。恐らく現在の教団にとって最も不都合な相手。
「余計な邪魔が入らないうちに、まずはハンプティ・ダンプティを狙うってこと?」
「ここまで大掛かりな罠を仕掛けるとなるとな……」
自分たちが狙われているということはあまり考え難かった。アリスたちの素性がバレているのなら、怪盗に他の事件の容疑をかけるなどという回りくどいことをせずとも直接襲撃すればいい。そしてアリスたちを攻撃したとしても、一般人であるが故に、すぐに警察に助けを求めることができる。怪盗を足止めする意味がないのだ。
怪盗二人を罠に嵌めたのは、標的を助ける可能性がある人間はそれぐらいしかいないと思われているからだろう。
――睡蓮教団はハンプティ・ダンプティの正体に辿り着いたのだろうか?
「アリス」
今アリスたちに何ができて、何をすべきなのだろう。
「私たちはどうする?」
◆◆◆◆◆
「えげつねぇなぁ」
テレビで流れるニュースを見ながらグリフォンが言う。口元には笑みを湛えて。
「そうかい? でも効果的だろう」
ソファに悠然と腰かけたハートの女王もまた笑って言う。
「怪人マッドハッター、怪盗ジャック、いくら義賊を気取ろうと、所詮君たちは犯罪者。こうなっては誰にも庇ってもらえないし、守ってくれる人もいない」
日頃の行いだね、と。ハートの女王は平然と嘯く。
「探偵の方は」
「まだハンプティ・ダンプティの事件に関わっているようです。しかし警察の方も慌ただしくなってきました。これから動きがあるかもしれません」
公然と反教団を掲げる探偵ヴェルム=エールーカが怪盗二人の事件に釣られてくれれば上々。更に白騎士を引っ張り出してくれれば最高だが、さすがにそこまではなかなか上手く行かないだろう。
「さぁ、可愛い卵ちゃんを追い詰めよう」
塀から落ちて割れる運命の、ハンプティ・ダンプティなどを名乗ったのが運の尽きだ。
睡蓮教団の、対ハンプティ・ダンプティ作戦が始まった。
◆◆◆◆◆
永い永い時の果てに、彼はようやく“彼”との“再会”を果たす。
「ようやく見つけた」
しかしこちらを振り返る姿には、自分に対して何の感情もなかった。
当然と言えば当然。彼はあくまでも“彼”の生まれ変わりであって、“彼”本人ではない。
それが寂しい。悲しい。けれど会えない時の永さを思えば、こうして再び巡り合うことができただけでも幸いなのだ。
「さすがにそんな姿だとは思ってもいなかったぞ」
「そんなとは失礼な。僕、これでも自分の容姿については結構気に入ってるんだけど」
人が両親からもらった顔にケチをつけるなと、不機嫌になる。
「“姿なき情報屋ジャバウォック”」
「怪盗ジャックには助言をするが、怪人マッドハッターには何故か厳しくいつも警察にヒントを出して彼の犯行の邪魔をする。他にも不思議の国の住人と呼ばれる様々な関係者たちに、まるでその先の運命を見計らったかのような忠告を下す」
エイス=クラブ。少年姿でトレジャーハンターを名乗る不思議の国の住人は、今のジャバウォックの裏の顔の経歴を並べ立てる。
「決して誰にも姿を見せず、誰と手を組んだりもしない、全知全能の情報屋」
エイスが彼と出会った時も、彼はこちらの正体を見抜いておきながら、無関心を貫いた。
「……我らと遺跡で出会った時も、フリーゲたちと行動を共にした時も、巧妙に自身の力を隠していたな?」
自分たちはずっと彼を探していたと言うのに、彼にとってはそうではなかったと言うのか。
「傍目にはお前と同じような人種に見える――他でもない“アリス”を目隠しに」
「隠すも何も、それが僕の限界ってだけだよ」
木の葉を隠すなら森の中。事情を知らぬ者が外側から見れば同じ印象を持つだろう少年少女の傍にいたために、彼一人が「普通」から突出することはなかった。
「僕は自分が生まれた時からの情報は何でも知ることができるけれど、それでもこの身にはこの身に宿せるだけの力しかない。無力な存在だ」
他の不思議の国の住人以上に、ジャバウォックは正体を知られてはならない存在だ。
この身体はあまりに弱々しく、非力だ。戦闘になればひとたまりもない。
「ならば我らと手を組め。“創造の魔術師・辰砂”であるお前の力を借りる代わりに、我らがお前を保護する」
“処刑人”のコードネームを持ち、白の王国でも王に継ぐ発言権を持つ者は告げる。
そして目の前の子どもの、今の名を呼んだ。
「姿なき情報屋“ジャバウォック”――テラス=モンストルムよ」
第5章 了.




