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Pinky Promise  作者: きちょう
第1章 月夜の時盗人
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2.チェシャ猫の道標

..007



『――むかし、むかし


創造神がかつて名を持っていた頃、かの方はその強大な力を以て世界と数多の神々、数多の種族、そして人間を作り出した。


 創造の母の子たる神々は長兄である太陽神フィドラン、長姉である月神セーファを中心に協力して、生き物たちが暮らしやすいように世界の形を整えた。


 フィドランが目覚めを促し、セーファが眠りを与える。大地神ディオーは様々な植物を生み出し、自らの力を分けて花神を作り上げた。海神アドーラは海とそこに住まう生き物を管理した。癒しの神ネルクが生き物たちの生活を支え、その終わりには冥神ゲッセルクが役目を終えた命を永遠の夜の国へ連れていく。

 そして創造の神が創り出し、神々の末子たる破壊神が壊す。


 しかしこの世の平和は永く続かなかった。快楽と背徳の神、悪神と呼ばれたグラスヴェリアが神々の作り上げた平和を退屈に思い、セーファの領空たる夜空から悪意の星を一つ盗み出し、それを一人の人間に与えたのだ。


 グラスヴェリアに悪意の星を与えられた者は辰砂と名乗る魔術師だった。辰砂は生来の魔力に加え神々の力の一部を手に入れたことにより、神々にも匹敵する実力を手に入れた。やがて彼は自らの力が神よりも優れていると驕り高ぶるようになり、世界を作り上げた創造神へと戦いを挑んだ。


 辰砂の力は人とも思えず強大であり、彼はついに世界の母たる創造神からその「名」を奪った。しかし母神を守るために集まった神々の一人、破壊神と相討ちになり、彼自身も多くの力を奪われた。


 創造神は名を奪われたために永き眠りにつき、創造の神と対の存在である破壊神も母神と同じく名を秘されて眠ることを余儀なくされた。辰砂は多くの力を破壊神に奪われたが創造神から奪った力で不老不死となり、今もこの世界のどこかで生きていると言われる。


 創造神の名と力を奪った辰砂はこれ以後“創造の魔術師”と呼ばれることになった。


 神々は母神の眠りを嘆き悲しみながら、創造神がいない分の世界の均衡を保つ役目につき、いつの日にかきたるはずの創造神の目覚めを待つことにした。


 ――フローミア・フェーディアーダ神話 神々と創造の魔術師 』


 ◆◆◆◆◆


「――と、これが、この世界が『フローミア・フェーディアーダ』と呼ばれるようになってから生まれた神々の神話だ」

 便宜上創造神と名をつけられた女神がいる。しかし、古代史について研究が進んだ現在、その神話における記述の一部は事実と異なることも示されている。

 創造の女神が存在する以前よりこの世界は、この星は、この宇宙に存在していた。その頃の人類は圧倒的な科学力を持ちながらも自らの手で世界を滅ぼしてしまい、後に作られた人類が今また新しく一から歴史を刻んでいるのが今のフローミア・フェーディアーダだという。

 ある学者は、この世界の歴史は常に収斂進化を辿る流れの一部ではないかと唱えた。

 まったく種類の違う生物でも似たような環境で生活すると同じような働きをする器官を持つ。それが生物の収斂進化だ。

 例えば昆虫の翅と鳥類や蝙蝠の翼。これら種類の違う生物の間で、空を飛ぶための機能を持つ翅や翼は似たような形状である。あるいは魚類とイルカや鮫のひれ、モグラとケラの土をかく足の形なども似たようなものだ。

 そのように生物の進化の方向性が環境によって左右されるのであればまた、一度滅びた人類の後に生まれた人類――今の自分たちも、かつての人類と似たような方向に進化し、いずれ似たような運命を辿るというのがその学者の説である。

「まぁ、そうならないように今はいろいろと古代史に関する研究が進んでいるわけだけど」

 いきなり途方もない状況に放り込まれたアリストに、ゲルトナーはこの世界の果てのない歴史を大雑把に言い聞かせる。

「人類がどれだけ発展しようと、科学で全てを割り切ることができない連中はいつの時代にもいる」

「その一つが、宗教……?」

 長々と神話や世界の収斂性に関して話したのは前振りで、結局ゲルトナーはこれが言いたかったらしい。

「そうだ。別に信仰の全てを否定するわけではないけれどね。睡蓮教団は、現代において最も過激な宗教団体だ」

 いくら世界が収斂性を持って進化するとはいえ、その時々の発明――否、発見に対し、全て同じ名がつくとは限らない。

 かつての人類が心の拠り所とした宗教は、彼らの滅びと共にそういうものが存在したというデータだけを残して本質は喪われた。

 滅びたそれらの人類に代わり台頭してきた新たな人類、遡れるまで古くから第一人類、第二人類と番号を振り、今は第四人類あたりだという。その第四人類にとっての神は、多神教である『フローミア・フェーディアーダ』の神々なのである。

「この神々だが、ぶっちゃけると実在する」

「はい?」

 いきなり何を言い出すのかとアリストが目をぱちぱちとさせる正面で、ゲルトナーは大真面目に告げた。

「そもそもこの神話自体が、神々によって半ば操作されて創られた神話なんだよ。――古い世界の人類が圧倒的な科学力を有していたことは知っているね。そして彼らは、自分たちをベースにして色々と弄ることで、基本的な外見・構造こそ同じだがその機能において製作者を遥かに凌駕する新人類を作りだすことができた」

「その新人類……かつての人間より能力的に優れたレプリカに、『神』の名を与えたと?」

「その通り」

 さすがに優秀だねぇ、と褒められてもアリストは嬉しくない。今でこそ体が若返るという非現実な事態に陥っているのでゲルトナーの語るとんでも話を素直に耳にいれることができるが、そうでなかったらとても信じられないことに違いない。

「……で、現実に『神』が存在すると何か不都合があるのか?」

「大有りさ。さっきの神話から更に後の時代になるけれど、黒い流れ星の話は知っているかな?」

「ああ。『ある日世界中に無数の黒い流れ星が堕ち、そこからこの世界に魔物が生まれるようになった』って奴だろ?」

 “創造の魔術師”の逸話程ではないが、これも有名な話だった。神話というよりもお伽噺や伝説の類として伝えられている話だ。

 今から遡ること千年程前までは、この世界に実際に無数の魔物がいたらしい。そして勇者と呼ばれる人々が魔物を倒して世界の平和を勝ち取った。

 剣と魔法の時代であるその頃は、魔物との激しい戦いのため詳細を語る資料がほとんど残されていないという。魔法という技術ですら実在を疑問視する人間がいる今の時代では、その頃の伝説もまた実際の戦争などを比喩的に表現しただけのものではないかと考えられている。

「その黒い流れ星の話もまた、事実だ」

「……って、ちょっと待て」

 さすがにある日空から降ってきたお星さまのせいで人や動物が狂い始めて魔物になってしまった。などということを肯定するのは憚られる。

「流れ星の正体は、実は神話に登場する悪神こと“背徳と快楽の神グラスヴェリア”なんだ」

「何?」

 話の一番始まりに聞かされた神話が、ここでようやく繋がった。

「創造の魔術師こと辰砂と協力して兄妹である神々に反逆し始めた頃から、背徳神グラスヴェリアはもはや正気とは言い難かった。それがついに爆発して暴走したのがその流れ星の事件」

 まるで現実とは思えないお伽噺を語るゲルトナーの表情は、しかし臨場感をもたせる演技だとは思えない程に深く沈んでいる。

「狂気に堕ち世界を滅ぼそうとした背徳神を止めるために、彼の使徒である辰砂はその身ごと神の身を千々に引き裂いた。暴走した神の力は大きすぎて、とても倒せるようなものではなかったから、せめて後の世に勇者と呼ばれる人たちで対抗できるようにしたんだ」

 一人の強大で凶悪な魔王を倒すよりも、無数の凶暴な魔物と戦う。

 それが、辰砂の選んだ救世の方法だったという。

「その身ごとって言うことは、辰砂もその時身を引き裂かれて流れ星になってしまったってこと? というか創造の魔術師・辰砂って背徳神のことなんだろ? なんで使徒が自分の神を引き裂くんだよ」

「さてね……どうしてだと思う?」

 疑問に質問で返されるが、アリストには到底その答がわかりそうになかった。

「その疑問はたぶん……辰砂のように、背徳神の使徒でなければ理解できないことなんだ」

「背徳神の、使徒」

「そう――すなわち」

「睡蓮教団だ」

 これまでその場に同席してはいたものの、ずっと黙りっぱなしだったヴァイスが口を挟む。

「睡蓮教団の崇める神は背徳神グラスヴェリアであり、彼の使徒である創造の魔術師・辰砂。教団の目的は、背徳神の復活だ」

「神の復活……?!」

 いきなりファンタジーじみてきた。いくら真面目な口調で言われてもさすがに突拍子もない話すぎて、アリストは感情的な理解が追い付かない。

「そんなことできるのか? っていうか、なんでそんなことしたいんだよ!」

「私が知るか。宗教というのがそういうものなんだろ」

 あっけらかんとヴァイスが言うので、アリストはがっくり肩を落とした。

「ヴァイス、お前なぁ――」

「アリスト君、こいつの言うことはね」

 適当なことを言っているようなヴァイスの様子に食って掛かろうとしたアリストを、存外真面目な表情のゲルトナーが止める。

「行為の動機なんて、所詮当人にしかわからないってことだよ。例えばある人間がある人間を、自分を馬鹿にしたからと思い込んで殺したとする。被害者がそんなことをした事実が証明されずとも、加害者がそう思い込めば相手を殺してしまう。それと同じことだ」

「――」

 アリストは言葉を失った。

 それが事実や真実であるかなど関係ない。

 当人が信じて行動すれば、それはすでに動機として存在しているのだ。

 そして宗教団体「睡蓮教団」というのは、背徳神を信じ、彼の復活を信じて行動する団体なのだ。

「だから……」

「時間を奪う魔術、な。そんなもの奪って、どうすると言うんだか」

 呆れた口調のヴァイスの声に、白と赤の面影が重なる。

 白兎と赤騎士。彼らはあまりにも淡々と、まるで何かの作業をこなすかのようにアリストに危害を加えた。

 狂信というにはあまりに理性的。

 けれど彼らも、睡蓮教団の一員だという。

 ――何か大きなものが蠢いている。

「時を巻き戻す? いや、でもねぇ……」

 ゲルトナーも眉間に皺を寄せる。教団の目的自体は知っていても、具体的な方策はヴァイスにもゲルトナーにもわからないらしい。

「とにかく彼らは彼らの神の復活のために、あらゆる事件を引き起こしたり、裏社会で暗躍したりしている」

 アリストはそれに巻き込まれたのだ。

「そんなことの……ために!」

「……彼らにとっては、何より大事なことなんだろう」

「でも!」

「君の立場から言えばその怒りは当然だ。でも忘れないでくれ――それらの事件を引き起こしたのは全て現実に生きている人間、睡蓮教団であり、背徳神の意志とは言えない」

「どうせ、胡散臭い神のお告げとかそういうやつじゃないのか?」

 使い古された言い回しを持ちだして睨み付けるアリストに、ゲルトナーは苦笑する。

「そういうことをするのも、大概は人間だ。その人間にいいように口実にされている神を憎んでも仕方がないよ。忘れないで――」

 敵は神でも、ましてやあの日あの時白兎に遭遇してしまった運命などではない。

「人間の敵は、いつだって同じ人間だ」

 ゲルトナーの言葉の後を引き取るように、ヴァイスがぽつりと呟いた。

「……ならなんで、ここに俺を連れて来たんだ?」

「戦う相手は人間だが、その前提にあるものを知っていなければ話にならないだろ?」

 肩を竦めるヴァイスから視線を外し、アリストは今度はゲルトナーを見つめた。

「……あんたは一体、何者だ?」

 ヴァイスに合わせたわけではないだろうが、ゲルトナーも同じように肩を竦めてみせる。

 フュンフ=ゲルトナーは神話学の第一人者。

 でも、本当にそれだけか。

 彼はまるで懐かしい知人のことを語るような目で、神と創造の魔術師のことを語った。

「ただの学者で魔術師だよ。ちょっと人より神話に詳しい、ね。それよりヴァイスのことは聞かなくていいの?」

「……それも後で聞く」

 知り合いの探偵とやらと合流した際には、ヴァイスも自分のことを話すと約束している。

 ひとまずここでアリストが知ったことは、自分が想像以上にわけのわからない面倒な問題に巻き込まれてしまったということだ。

 時計を見てそろそろ会議の時間だとゲルトナーが呟く。

 いつの間にか、最初にこの部屋を訪れた時から一時間程度経過していた。

「じゃあ、大サービスを一つ。今後の参考になるヒントをあげよう」

 最後にゲルトナーが指を一本立て、意味深に笑いながら告げた。

「背徳神と辰砂はその身と魂を千々に引き裂かれて無数の欠片として世界中に落ちた。ではその流れ星はどうなったと思う?」

「どうって……そこから魔物が発生したんだろ?」

「残りは?」

「え?」

「無数の流れ星は神と魔術師の魂の欠片。その全てが魔物に変化したと思うかい?」

「まさか……」

 これまで考えてもみなかったことを示されて、アリストは目を瞠る。

「背徳神も辰砂も、その欠片はまだこの地上に残っている。そして睡蓮教団が神の復活を願う以上、彼らは背徳神の魂の欠片を追う」

「じゃあ同じように追って行けば、いずれ奴らの手がかりが……!」

 一筋の希望が見えてきた。と、同時にアリストは気付く。

「……って、“魂の欠片”なんてそんなもん、どうやって探すんだよ!」

「それはまぁおいおい考えてくれ。僕たちも苦労しているんだよ」

 本気で苦労が滲む溜息をつくゲルトナーに、アリストは思わず先程と同じ問いを投げかけていた。

「あんたは一体、何者なんだ?」

 今度は誤魔化されなかった。まだ隠し事の匂いを秘めながらも、ゲルトナーは彼自身の僅かな秘密を打ち明けるようにまた笑う。

「創造の魔術師・辰砂の魂を集める者だよ」



..008


 アリストはヴァイスと並んで通いなれた校舎の中を歩く。よく知った環境のはずなのに自分自身の目線が低いせいで違和感を覚えながら。

「フュンフ=ゲルトナーの説明はどうだった」

「参考にはなったよ。まだわからないことの方が多いけどね」

 ヴァイスが今後にしてきたばかりの研究室を振り返りながら、その感想をアリストに聞く。

 神を信じたことのないアリストには、睡蓮教団が背徳神にかける想いなどわからない。けれどアリストが信じるか否かなどまったく関係なく、背徳神を崇めるという名目でとてつもない犯罪が今もまさに行われているのかも知れないのだ。

「そう言えば睡蓮教団って、背徳神とその使徒辰砂を崇めるんだろ? なのに集めるのは神の欠片のみなのか?」

 教団が集める魂の欠片について、ゲルトナーは背徳神のものしか言及しなかった。しかしそのゲルトナー自身は、自らを辰砂の魂を集める者だと言った。

「ゲルトナーが話したことは、業界でも知る者の少ないかなり詳細な裏事情だ。大抵の睡蓮教団員は辰砂のことをなんか凄い魔術師らしい程度にしか思っていないからな。そして辰砂についてよく知る者ならば、今の睡蓮教団の在り方に辰砂が反発することもわかりきっている」

 業界ってどこだよと思いつつ、アリストはそれ以上に気になったことを確認する。

「辰砂が反発する? まるで辰砂が今も生きているかのような言い方だ」

 そこで何故かヴァイスはにやりと笑った。

「ほう、いい勘だな。アリスト=レーヌ」

「え?」

 かつて“創造の魔術師”と呼ばれた辰砂は、破壊神に打倒されたと神話で伝えられた後も世界のあちこち、様々な時代に出没していたらしい。

 けれどゲルトナーの話によれば、それも黒い流れ星の神話の頃までだ。辰砂は自らの身ごと背徳神の魂を砕いたという。ならばその時辰砂もまた死んだのではないか?

 しかしそれにしては、ゲルトナーの発言もヴァイスの笑いもあまりにも意味深だ。

 更に問い詰めようとしたところで、二人は前方からやってくる人の気配に気づいて口を噤んだ。

「あ……」

 思わず声が漏れたのは、向こうからやってくる集団がどれも見覚えのある顔だったからだ。こちらに気づいた彼らも声をかけてくる。アリストではなく、その隣のヴァイスに。

「あ、ヴァイスせんせー」

「おはよーございまーす!」

「おう、お前らか。どうした?」

「ちょっと用事で……」

 高等部二年生の男女が四人。フート=マルティウス、レント=ターイル、ムース=シュラーフェン、ギネカ=マギラス。

 アリストと特に親しい友人たちだ。

 四月二日の今日はまだ春休み中で授業はないが、一応学校に来るからか、四人共制服を着用している。外部の受講者も多いジグラード学院では、内部の中等部生や高等部生はわかりやすく制服を着ていた方が何かと都合がいいのだ。

「そういえばヴァイス先生、アリストの奴のことなんですけど」

 うさ耳フードを被ってできるだけ顔を隠そうとアリストがこそこそしているうちに、フートが四人を代表して口を開いた。その内容にどきりとする。

「アリストが帰ってないって、昨日ダイナ先生から夜遅くに電話があったんですけど、あいつ結局どうしてるか知ってます?」

 フートは眉を潜めた。他の三人も心なしか不安げな顔つきになる。

 アリストが帰って来なかったことについて、ダイナはやはり何かあったのではないかと考え、友人たちに連絡をとってくれたのだ。

 それだけ姉に、友人たちに心配されていたということに胸が熱く、そして苦しくなる。

 アリストはここにいる。でもそれを言えるはずがない。こんなに近くにいるのに、彼らは誰もアリストに気づかないのだ。

「あー、アリスト? アリストな……」

「何か知っているんですね!」

 気さくで気楽な男子陣とは違い、女子二人はもう少し真面目な態度でヴァイスから話を聞き出そうとする。

 ヴァイスは明後日の方を向きながら、昨夜電話でダイナにも話したのと同じ言い訳を告げた。

「あいつは今、都の外に出ている」

「エメラルドの外って、なんでまた」

 ディアマンディ帝国の都エメラルドは、この大陸どころか世界中で比べても最も発達した都市だ。古くより世界の東西の航路を結ぶ交易の要であったことにより、この都で手に入らない物は何一つないと言われている。

 帝都エメラルドに訪れたい人間は山程いるだろうが、帝都で生まれ育ってこの都市から離れたいという人間は珍しい。

「なんでも街を歩いていたらたまたま泥棒に出くわしたらしくてな。それで、大事なものを盗まれたとかいうことで激怒して追いかけている」

「はぁ……それはまた」

 どういう言い訳だよ、とアリストが思う間もなく。

「アリストらしいですね」

 納得された。フートだけでなくレントもムースもうんうんと頷いている。

 ちなみにヴァイスが電話でダイナに告げた時もこの対応だった。声は出さないまでもスピーカー越しに二人の会話を聞いていたアリストはがっくりしたものだ。

 そんな姉の弟評と、友人によるアリスト評はどうやら一致しているらしい。

「どんな泥棒なんですか?」

「さぁな。私はアリストに電話越しに八つ当たり気味の報告を受けただけだから詳細は知らん」

「なるほど。あのシスコンは大事な姉さんに怒声を聞かせたくなかったから隣人のヴァイス先生をワンクッションに使ったと」

「アリストのやりそうなことだよ」

「でも良かったじゃないですか。無事みたいで」

 だからお前らは俺をどう思っているんだよ、と憮然としているアリストの前に、ひょっこりと綺麗な顔が現れた。

「!」

「ヴァイス先生、さっきから気になっていたんですけど、この子は?」

 幼子に合わせて腰を屈め視線を合わせたのはギネカ=マギラス。アリストと同じ学年の中では、女子で一番の成績優秀者だ。

 ちなみにジグラード学院高等部二年の成績は、男女総合だと学年一位がフート=マルティウス、二位がアリスト=レーヌ、三位が彼女、ギネカ=マギラスという順位になる。

 他の三人がアリストのことをヴァイスに聞いていた時も、彼女だけはちらちらとこちらを気にしているようだった。

 無視されないのは嬉しいが、注目されるのは今は少しまずい。

 そっと伸ばされた手を避けるように、アリストは慌ててヴァイスの脚の裏に隠れた。ギネカが驚いた顔になる。

「ああ、こいつは今私のところで預かっている子どもだ。ちょっとワケアリでな。親権問題に決着がつくまではこっちにいることになる」

 暗に背景事情を聞くなと匂わせる言葉選びをして、ヴァイスはさりげなくアリストの姿を学生たちの前から隠した。

 しかし好奇心旺盛な高等部生にそんな画策が通用するはずもない。一人が話しかければそろって面白そうにフードを被ったアリストの顔を覗き込んでくる。

「可愛いですね。女の子? あ、いや、ズボン穿いてるし男の子かな?」

 子ども好きのフートがにこにこと話しかけてくる。彼の幼馴染であり清楚な美少女であるムースも、積極的な手出しこそしないが口元に微笑みを浮かべていた。レントはにやにやとそのやりとりを見守っている。

 一方、ムースとは反対にきつめの真面目そうな顔立ちをした美少女であるところのギネカは、そつのない身のこなしをする常の彼女らしくもなく、その顔に不審を乗せていた。

「どうしたんだよギネカ。ってかその手は何」

「……っ! ああ、別に、なんでもないの」

 アリストに触れようとして直前で躱された手を後ろに引っ込めて、ギネカは子どもの顔から視線を離さないままで尋ねる。

「その子、アリストにそっくりですね」

 ヴァイスの動揺が触れている脚からアリストにまで伝わってきた。見事なポーカーフェイスを浮かべてはいるが、内心では驚いている。

 アリストも同じだった。今は姿が姿なので表向きには人見知りの子どもが年上の少年少女たちに怯えているように見えるだろうが、大きな目を更に丸くして驚きを露わにするのは止められない。

 単に偶然似たような顔だと感心していると言うには、ギネカの顔にはあからさまな不審が浮かんでいた。

 生徒の予想外の鋭さに舌を巻きながら、ヴァイスはそれでも適当な誤魔化しを続行する。

「そうか? よくある顔だろう? ま、可愛げのないあの男に比べたらサイズがミニな分こっちの方が可愛げはあるだろうがな」

「ミニサイズって……先生……」

 ヴァイスの言い分にレントが呆れた顔をする。普段のキャラがキャラだけに受け入れられているが、大分苦しい。

 そして誤魔化そうとした相手はまだ引き下がってはくれない。

「でも、目元の泣きぼくろの位置までそっくりですよ?」

 しまった。そう言えばそんなものもあった、とアリストとヴァイスは一瞬目配せを交わし合う。

 彼ら自身はアリストが若返ったという認識でいるため特別視していなかった身体的特徴だが、まったくの別人で同じ特徴だと説明されれば確かに違和感があるかもしれない。

 だからと言ってこの場で全部ぶっちゃけるわけにもいかず、やはりヴァイスは誤魔化しを頑張った。

「マギラス、その発言は少し紛らわしいぞ。目元にあるからこそ泣きぼくろと言うんだ。泣きぼくろが目元にあるのは当たり前だ。それに目元のほくろなんてある程度決まった位置にあるものじゃないか?」

 だからこそ泣きぼくろという言葉があるんだし。

「先生、何泣きぼくろについて熱く語っているんですか……」

「先生ってもしかしてほくろフェチ?」

「まぁ、ヴァイス先生のことだから……」

「どういう意味だ貴様ら」

 アリストが泥棒を全力で追いかけると納得されているように、ヴァイスという人物も泣きぼくろについて熱く語ると納得されるらしい。

「そうですね。でも……」

「まだ何かあるのか?」

「いえ、一つだけ。――その子の名前は?」

 アリストはぎくりとした。

 まずい。

 知り合いに会う予定も計画もなかったため、偽名なんて考える必要性を感じなかった。かといってそんなものすぐに思いつくはずもなく――。

「ああ、名前か。名前な。あー、と、今は言えない」

「今は?」

「ほら、これから苗字が変わったりするかも知れないだろう?」

 ヴァイスは先程の親権云々の嘘を膨らませて、アリストの素性をそういうものにしたらしい。

「それは……失礼しました」

 ギネカもさすがにまずいと思ったのか、今度こそ食い下がらずに引く。やりとりをじっと見守っていたアリストはそっと息を吐いた。

 僅かな動きに合わせてぴょこりと揺れるうさ耳が絶妙に間抜けな感じである。フートたち三人がそれを微笑ましげに見守った。

「そろそろ行かなきゃ」

「では、俺たちはこれで失礼します」

 挨拶をして別れる彼らをヴァイスとアリストは見送る。

 去り際に一瞬、ギネカがアリストの方を振り返った。


 ◆◆◆◆◆


「……マギラスは鋭すぎるだろう。あれは完全に疑っていた顔だったな」

「本当に」

「だが、どうしてあんな簡単に疑われたんだ? 別に私たちは不審な行動をとったわけではないのに」

「……と、思うけど」

 アリストがいないと騒がれた翌日に、よく似た顔の子どもが現れる。確かに不審ではあるが、まさか二人が同一人物であると普通は気づくはずもない。

「単に“アリスト”の身内かどうか疑われてたってだけじゃねーの?」

「だったら良いがな……」

 隠し子ならぬ隠し弟がいたのかと、そういう疑惑をかけられただけかもしれない。ヴァイスの子どもというには、疑う云々以前に顔が似ていなさすぎる。

 ギネカの行動について、アリストはそれ以外にも一つ気にかかることがあった。目の前に伸ばされ触れられそうになったあの手だ。

 アリストの知るギネカ=マギラスという少女は、普段は極力他人との接触を避けている。一番親しい仲間内でさえ、ふざけて抱きついたり手や肩に触れることさえ滅多にない。

 そのギネカが、自分から見知らぬ子どもに触れようとするなど珍しい。

 ヴァイスに話してもピンとこなかったようで、彼は首を傾げてみせる。

「さぁ? 私もさすがに生徒のそんな細かいところまで観察していないからな」

 生徒同士ならまだしも、生徒が教師にべたべたと接触することはありえない。男女なので尚更、下手するとヴァイスがセクハラで訴えられる可能性もあるし。

「単にお前が小さな子どもの姿をしているから、頭でも撫でようと思っただけではないか?」

「そうかなぁ」

 アリストの疑問をヴァイスは軽く流した。どちらにせよあの時のギネカの心境など、当人ではない彼らにわかるはずもない。

 校舎を出て正門へと向かった。

 そこで、小さな人影と出会った。

 小さな、と言っても今のアリストとは正直同じくらいの大きさだ。今年ようやく小等部に上がるだろう年頃の子どもが二人、人待ち顔で立っている。

 少年が一人に少女が一人。そのうち青い髪の少年の方がヴァイスを見上げて口を開いた。

「……ヴァイス=ルイツァーリ先生?」

 語尾が上がり半分疑問形になりながらも、少年はヴァイスを知っていたのか、その名を呼ぶ。

「ああ。私がルイツァーリだが。君たちは小等部の生徒か?」

「ええ。三日後に小等部一年生として入学式に並びます、テラス=モンストルムとフォリー=トゥレラです」

 随分としっかりした子だな、とアリストは思った。

 隣に立つ少女の分まで自己紹介してみせたテラスという少年の口調は子どもにしては慇懃で、とても今度小等部に上がる幼児とは思えない。もっと大人を相手にしているかのようだ。

「あなたも……今度僕たちと一緒に小等部に通うことになるのかな?」

「え?」

「その時はぜひ、よろしくね」

 テラスはアリストに名を聞くでもなく、それだけ言ってにっこりと愛想よく笑った。

 一見無邪気な子どもの笑顔なのだが、アリストにはどうもただそれだけとは思えない。この子は謎めいた匂いがする。直観的にそう感じた。

「小等部ならまだ学院内の勝手もわからないだろう。保護者はどうした」

 普段小等部生を相手にすることはないヴァイスだが、腐ってもジグラード学院の講師である。子ども二人だけで暇を持て余す様子のテラスたちに保護者の不在について尋ねた。

「僕の父が受付を済ませてもうすぐ来ますよ。今日はこれから通うことになる学校を見学に来ただけなんです」

「そうか。春休みとはいえこの学院内は人が多いから気をつけなさい」

「はい」

 テラスが頷いたのを合図に、ヴァイスとアリストは彼らを置いて門から離れた。

「なんか、不思議な子たちだったな」

「……ああ」

 見かけに見合わず大人びた雰囲気を見せる少年と、一言も喋らなかったのに独特の存在感を放っていた少女。

「お前が三日で元に戻れなかったとしたら、あの二人が同級生になりそうだな」

「げ」

 その未来は近いうちに現実になる。


 ◆◆◆◆◆


 ジグラード学院の大きな正門前。幼馴染の少女と共に父親を待って佇む少年は小さく声を発する。

 今さっき会話を交わした二人組について、少女に語りかけた。

「ほら、あれが有名な“白騎士”と、その“アリス”になる予定の『お兄ちゃん』だよ」

 アリスト=レーヌ。

 確かそう言う名前だったと少年は呟く。

 今はまるで彼らと同い年の子どもに見えるが、本来は今年十七歳になるはずの少年だ。

 フォリーは興味の欠片もないという様子で、すぐに二人の後ろ姿から視線を外した。誰が白騎士で誰がアリスだろうと、彼女には関係ない。世界の終わるその日まで目を逸らし口を噤み続ける。

 ふいに風が吹いて、二人のすぐ傍に生えている桜の樹の花を散らしていった。


..009


 学院の廊下を四人の男女が歩いている。皆、ここの制服を着た高等部の学生だ。

「しかし、マギラスさ」

「あのちびっ子にやけに絡んでたよな~」

 フートとレントの二人が、後ろを歩くギネカを振り返りながら尋ねる。その口元にはにやにやと、先程の光景を思い返して面白がる空気があった。

「……なによ。別に絡んでなんかいないわよ」

「まぁ、あの坊やはアリストにそっくりだったからなー。シスコンに振り向いてもらえないからって、十年後の美少年に期待をかけたわけ?」

「どういう意味よ!」

 しししと笑うフートの額に、ギネカが半ば本気の掌底を撃ちこむ。避けこそねたフートは小さく悲鳴を上げた。

「あれ? でもあの子、女の子じゃないんですか?」

 痛がるフートの額を撫でてやりながら、彼の幼馴染であるムースは首を傾げた。彼女の感覚では、いくら可愛くても男の子にうさ耳パーカーはありえないと思う。

「俺もそれは気になった。結局ヴァイス先生も答えてくれなかったな」

「男だろ? 格好は女の子っぽかったけど」

 それでなくとも小さな子どもは男の子でも女の子のように愛らしい子がいるのだ。アリストに似ていると思わなければ、そのまま女の子だと思っていたかもしれない。

 しばし謎の子どもの性別トークで盛り上がり、ついにあれは僕っ子だのいや男の娘だの言いだした男共を放置して、ギネカは先程ヴァイスたちと別れてきた廊下を振り返った。

「結局……アリストは今どこにいるのかしら?」

 そして、先程のあの子ども。

 アリスト=レーヌにあまりにも酷似したその外見はやはり気にかかる……。

「私、今日はもう帰るね」

「ギネカ? なんか用事か~?」

「ええ。幼馴染と約束していたのを忘れてた」

 フートとムースが幼馴染関係であるように、ギネカにも幼馴染がいる。ただしギネカの幼馴染はジグラード学院の生徒ではなく、別の高校に通っている。

 そういう事情があるので、何か別行動の必要がある時は幼馴染の話題を出せば大概はそれで済む。

 適当な口実を口にして、ギネカは他三人から離れることにした。


 ◆◆◆◆◆


「で、この後はどうするんだ?」

「とりあえず街に出るか? いつ戻れるともわからんし、もう少し着替えやら必要物資を買い足しておこう」

「それと、さっきみたいに名前を聞かれたら困るから、偽名とか考えなきゃいけないだろうな」

「そうだな」

 学院の門を出たアリストはうさ耳フードをかぶり直す。学院付近ではまたいつ知り合いに出くわさないとも限らないので、できるだけ顔を出さない方がいいだろう。

 帝都にはいくらでも店があるが、できるだけ普段は使わない場所を選んで、ヴァイスはさくさく買い物を済ませた。

「済ませておかねばならない用事がある。少し待っていろ」

「わかった」

 もともと本日のヴァイスのスケジュール帳に、若返って子どもになってしまったアリストに付き合うことは書いてないはずだ。手続きがどうこうと呟きながら大通りに向かうその背を見送って、アリストは一人、通りがかった公園のベンチに荷物と一緒に座った。

 良い天気だった。空は抜けるように青く、どこからか桜の花びらが飛んでくる。

 長閑な春の陽気の中、一人でぼぅっとしていると、まるで今のこの状況が夢のように思えてきた。

 実際、今の状況は悪い夢としか思えないものだ。いくら現代では絶滅危惧種の魔術師だって、まさか大人を子どもに若返らせる力があるはずがない。

 朝起きて目が覚めたら自分のベッドの中にいるのならどんなに良いか。けれど、人が消える現場を目撃したのも、妙な禁呪をかけられたのも、命を狙われたのも、全部全部現実のことだった。

 どうすればこの状況を脱し、元の自分を、奪われた時間を取り戻すことができるのか――。

「……ッ!」

 背筋に寒気が走った。

 公園中の空気がざわりと蠢き、樹々の枝に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。

 肌の表面が透明な殺気を受けてぴりぴりと痛む。

「おや、今日はなんだか可愛い格好をしているではないか」

 人気がなかったはずの公園に入り、友人のように気安く話しかけてきたのは、とても友好的な関係が築けるとは思えない相手だった。

「赤騎士……!」

 今日も今日とてコスプレじみた赤い騎士服のルーベル=リッターが、アリストに微笑む。

 彼の目的を考えればこそ、その穏やかな態度が恐ろしくて仕方ない。何を片手をあげて挨拶じみた振る舞いをしているのか。

 アリストはベンチから立ち上がり飛び退る。

 赤騎士の実力は前回の攻防で知りすぎるくらいに知った。ヴァイスはまだ戻ってくる気配はない。

「どうして、ここが……?」

 この広い帝都で、まだ春休みの午前中だ。子どもなどいくらでも街を歩いている。

 アリストはもともとフードで顔を隠していたのだし、簡単に見つけられるとも思えないのだが。

 戦闘になれば勝ち目のないアリストは、せめてヴァイスが来るまで時を稼ごうと、そんなことを尋ねた。

「ああ、これだ。これ。前回は白騎士の術に見事にやられたからな」

 赤騎士が手にしたカードのようなものを一振りすると、その場に透明な犬が現れた。

 前回ヴァイスが魔術で生み出したものとはだいぶ大きさが違うが、犬には変わりない。見た目は子犬でも、嗅覚は本物なのだろう。

 そう、ヴァイスがやったように、赤騎士もまた魔術の獣にアリストのにおいを辿らせたのだ。

「私自身は魔術を使えないからな。だが教団にはそれこそいくらでも禁術に手を染めた魔導師がいる。あの白騎士にしては迂闊だったな」

 相変わらず赤騎士はアリストに対し、教団関係の情報を隠す気がまるでない。

 彼にとってアリストはこれから死ぬ者なので、何を教えてもかまわないと思っているのだ。

 先程は人がいなくて静かで良いと思った公園も、今となっては困った。せめて誰か通りかかりでもすれば、赤騎士も機を改めるかもしれないのに。

「あんたたちは一体何を考えているんだ。今の俺を殺したところで、どうなるとも思えないのに」

 もしもアリストが、十七歳の少年のままだったら。

 話がスムーズに通ることはないかもしれないが、警察も多少は相手にしてくれるだろう。

 だが今のこの姿では、どんな大人もまともに相手をしてくれるはずがない。

 子どもが空想じみたことを口にしたら、夢でも見たのだと考えるのが普通だ。非現実的な犯罪の目撃証言に関し、元の姿より更に説得力は薄れる。

 学院で友人たちに会っても、彼らはこの姿をアリストによく似ているとは思っても、何らかの事情で若返ったアリスト本人だとは思わなかった。

 きっと、姉でさえも、今のアリストを見てもわからないだろう。

 当たり前だ。そんなことありえるはずがないのだから。この外見でアリストが何を言おうと、誰も信じてはくれない。

 ただ――。

「それでも、お前の傍には白騎士がいる」

 この子どもがアリスト=レーヌ本人などという夢物語を真実だと判断したのはヴァイスだけだ。

「危険な芽は摘んでおくに限るということだ。恨むなら白騎士を恨め。いや……」

 そこまで口にした赤騎士が、ふと何か考え込むように視線を落とした。

「白騎士が傍にいるからお前が“アリス”となる可能性を秘めているのか、それともお前が“アリス”となるからこそ、白騎士と縁があったのか――」

「“アリス”?」

 ここ一日で何度も繰り返し聞かされた名に思わずアリストは反応する。

 アリストの名前はアリストだ。アリスではない。女性の人名である「Alice」から来ているのではなく、元は「最上の」という意味の単語「Aristo」から来ている。

 だが、アリスと言う名を主に口にしていたのは白兎や赤騎士など敵側だ。彼らがアリストの名をはじめから知っていたはずもなければ、聞いたところで気に留めるようにも見えない。だとすれば彼らが口にする“アリス”とは?

 知人にその名を持つ人間でもいない限り、単純にアリスと言えば古典文学作品『不思議の国のアリス』の主人公の少女を指す。

 睡蓮教団もそうでない人間も、一定の事情を知る人間は自らを『不思議の国のアリス』の登場人物になぞらえたコードネームを名乗るのだという。

 だが、ヴァイスやゲルトナーに聞いたこれまでの話の中で、アリスという名を持つ人間は出て来なかった。

 否、恐らく今はその名を持つ人間自体がいないのだろう。

「お前は“アリス”になるのか?」

「……なんだよ、アリスって」

 白兎と赤騎士の行動は、まるで“アリス”という存在を探しているかのようだった。彼らは“アリス”という名にどんな意味を込めているのか?

「……まぁいい。ここでお前を殺せば全て終わる話だ。死は永遠の断絶。我が刃は、“白の王国”が夢見るアリスの夢さえ見れない程、全てを断ち切るのみ」

 赤騎士の言葉は同じ単語が何度も繰り返されてややこしい。大体この男の喋り方は、見た目の少年らしさに比べてどことなく古臭いのだ。

 また、聞いたことのない言葉が出てきた。

 “白の王国”。白というキーワードが気になる。白騎士、白兎と、昨日から白のつくワードを聞きっぱなしだ。

「おしゃべりはここまでだ。神に祈る時間は必要か?」

 狂信的宗教団体の一員らしい言葉に、アリストは苦虫を噛み潰した。赤騎士はぶっとんだ性格だが、カルト信者のような狂気や妄信じみた言動は見られないと思っていた。妄信で行動するには不自然な程に、彼の瞳は理性的だ。

 けれどやはり彼も、アリストをこんな姿にした教団の人間なのだ。彼らの神のためなら、誰を犠牲にしても良いと思っている……?

 赤騎士が取り出した剣の切っ先が、アリストへと向けられる。

 公園の外の気配は遠い。ヴァイスが来る様子もない。

「無駄な抵抗はよすんだな。静かにいていれば、すぐに終わる。死など案外呆気ないものだぞ?」

「死んだことがあるわけでもないのに、簡単にいうなよ」

 赤騎士が一瞬、何故か呆気にとられたような顔になる。そして微笑んだ。

 不思議な笑みだった。まるで彼はすでに「死」を経験したことがあるような。

 だが彼にどんな思惑があろうと、こんなところで死ぬわけには行かない――。

「伏せて!」

 少女の声が叫ぶ。指示通りにアリストはその場に這いつくばった。

 飛来してきた物体を赤騎士が剣で斬ると、途端に周囲に白い煙が溢れだす。

「煙幕?!」

「行くわよ!」

 赤騎士の驚愕の気配を探ろうとする間に腕を掴まれた。今のアリストの見た目と同じくらいの年齢の少女が、掴んだ腕に力を込めてアリストを引っ張り上げようとしている。

「貴様……“チェシャ猫”か?! ――くしゅっ!」

 赤騎士の誰何の声が、何故か途中でくしゃみに変化した。

 ぽん、ぽん、と軽やかな音がいくつか弾けると同時に、煙幕に黒いものが混じりはじめる。赤騎士が立て続けにくしゃみをしだすのに、隣の少女も訝しげな視線を投げながらとにかく走り出す。

「胡椒……?」

 彼女に手を繋がれたアリストは、他に方法もないので大人しくついていった。けれど公園を出てすぐ次の行動には驚きと動揺を隠せない。

「こっちよ!」

「え?」

 少女は真剣な顔のまま、歩道の真ん中を塞ぐ黒い蓋を持ち上げる。

 マジか、とアリストは思った。

 マンホールの中って、こんな普通に入れるものなんだ?


..010


 ――遠くで誰かが呼んでいる。

『アリスト』

 ああ、これは姉さんの声だ。この世界で自分が誰より何より一番愛している人の声だ。

 白く濁る視界の中、自分は彼女を見上げている。

 懐かしい。これはまだ、自分が彼女より随分背が低かった頃の夢。

 喪服を着た姉の姿に、それがいつのことだかすぐに記憶が流れ出してくる。

 アリストの母とダイナの父が再婚したのは、今から五年前――アリストが十二歳の時だった。

 身長こそ今より低いものの、その頃にはアリストもすでに声変わりを終えていて、容姿的な差は十七歳現在とほとんどない。

 それでもあの頃はまだ、子どもだった。突然の出来事に、前も後ろも見えなくなった、どうしようもなく無力な子どもだった。

 それぞれ伴侶を早くに亡くした男女が再婚し、両親と新しい姉弟の四人暮らしにもようやく慣れ始めた一月後。

 警察から自宅にかかってきた電話に、普段から落ち着いて大人びていたはずの姉の顔色がみるみる青褪めていった。

『姉さん?』

『アリスト、父さんとお義母様が――』

 涙を浮かべたダイナがアリストを抱きしめる。そして知らされた母と義父の死に、アリストの頭はついていけなかった。

 事故だった。

 過失は相手側にあった。

 けれどそれも悪質なものではなく、慣れない道で周囲の安全確認を多少怠ったというものだ。事故現場の視界の悪さなども考慮に入れれば、相手にとっても不幸と言えるだけの。

 実際、両親を轢いてしまった相手は不幸な青年だった。

 自分も早くに両親を亡くし、親戚の間を転々としながら苦労して社会に出て、ようやく一人前と認められるようになった。それで少し仕事に打ち込み過ぎて、疲労が溜まっていたのだという。

 両親を喪ったダイナとアリスト本人よりも悲しむ体で何度も何度も頭を下げていた。アリストの記憶には彼の顔立ちそのものよりも、その時の光景ばかりが焼きついている。

 そして様々な処理がようやく一段落を迎えた頃。

 彼は自ら命を絶った。

 責任逃れでも周囲から非難を受けたからというわけでもない。賠償金を払う当てがないからという理由でもない。

 彼はただただ、アリストたち姉弟から両親を奪った自分自身を赦せなかったのだろう。

 それで苦労して生きてきた人だから、他者を自分と同じ目に遭わせてしまったことがどうしても赦せなかったのだ。

 両親の葬儀で身に纏った喪服に再び袖を通し、ダイナとアリストは青年の葬儀に赴いた。すでに事故のことを知られていたためか、彼自身身内と呼べるだけの人間が少ないためか、参列者も少ない寂しい式。

 ダイナの顔は、両親のそれを行った時よりもむしろ青褪めているように見えた。

 ――どうして……。

 どうして、死んでしまったの。

 彼が死ぬ必要はなかったのに。

 誰も彼を恨んでなどいなかったのに。

 両親もいなければ養い親と折り合いが悪く、恋人の一人もいなかった青年。仕事熱心で職場の評判は悪くはないが、付き合いが悪いと友人の数は少なかった。一体あの時何人の人間が、彼のために涙したのだろう。

 両親の死の時点で呆然としていたアリストは、その時もただ呆然と加害者たる青年の死を受け止めた。

 ダイナもアリストも、彼を責めるようなことは言わなかった。

 事故の詳しい状況は警察に聞いた。特に現場の見通しの悪さは地元民には有名で、自分も車を運転する二十歳のダイナにはそれがよくわかっていたらしい。

 仕方なかった。そう言える状況だったと。姉がそうして理性的に振る舞うのを見て、出会った時から彼女を敬愛していたアリストもそれを見習った。

 両親を殺してしまったとはいえ、青年に悪意がなかったのは良くわかっているから、と。

 でも本当はアリストは、もっと感情的になって彼を責めるべきだったのかもしれない。子どもらしい無邪気な無神経さで、青年を糾弾するべきだったのかもしれない。

 憎しみの矛先さえ向けられなかった青年は、生きる理由もうしなってしまったのかも知れなかった。

 被害者が償いを求めればそれに応じて償うためにも生きねばならないと奮起することができたのかも。けれどアリストもダイナも、そうはしなかった。

 贖うことのできない罪だけが残り、青年は自ら命を絶った。

 あとには、事の結末に呆然とする、血の繋がらない姉弟だけが残された。

『ねぇ、アリスト――』

 自分たちと因縁こそあっても決して憎むことはなかった青年の死を受け止め、二人は約束することにした。

『約束しましょう。私たちは例えどんなことがあっても、相手を置いていったりしないと』

 自らの存在を不要なもの、罪だなどと思わないで、お互いだけは最後までお互いの味方でいようと。

『うん……姉さん』

 帰ってくる。例え、どんなことがあっても。

 ごちゃごちゃと細かい事情はどうでもいい、ただ無条件で、信じられる場所でいよう。

『約束しましょう』

 すっと差し出される細い指。相手の小指に自分の小指を絡める。

 古く東洋に伝わるおまじないだという。指切り、ピンキープロミスと呼ばれるそれ。

 小指を絡めるのは、必ず約束を守るという誓いだ。

 嘘を吐いたらと歌は恐ろしい制裁を科すことを述べるけれど、ダイナはそれも構わないと言った。

『嘘をついても、なんでもいいから、ちゃんと帰ってきて』

 約束よ、と繰り返した。


 ◆◆◆◆◆


「……っ、……」

「――! ……、……」

 話し声が聞こえる。

 夢の名残を反芻するぼやけた脳が、周囲の音を聞き取ろうと意識を覚醒に促した。途端、明瞭な声が起き抜けの耳に飛び込んでくる。

「彼が、あなたの“アリス”なの?」

 声音は明瞭でも、意味はわからない。

 アリストはただ、知らない声だとだけ思った。否、知らなくはない。つい最近どこかで聞いた声だ。

「あ……」

 思い出した。

「おう、起きたか」

「おはよう」

 ヴァイスともう一人、あの公園で顔を合わせた少女が寝台に横たわるアリストを覗き込んでくる。

「あー、そっか。ヴァイスの部屋に帰って来たんだっけ……?」

 子どもの体は体力がない。助けてくれた少女と共に地下水道を歩き回って赤騎士の襲撃から逃れ、ようようマンションへと帰りついたのだ。ヴァイスは後から荷物を抱えて合流した。

 顔を合わせた途端、とりあえずと風呂場へ押し込まれる。

 一般的にマンホールの中は害虫の棲家となっている場合、硫化水素などの有毒ガスが溜まっている場合があり危険とされているが、アリストと少女が潜った場所はそうでもなかった。

「ああ、公園の手前のマンホール? あれは下水道ではなく、地下神殿への通路の一つらしいからな」

「地下神殿?」

 如何にもファンタジックな響きだが、どこかで聞いたような気もする言葉だ。

「大雨や台風などによる洪水を防ぐため、地下に巨大なトンネル――放水路を作ったわけだ。その中に調圧水槽と呼ばれる貯水池がある。巨大な空間に柱が並び立つ姿が古代の荘厳な神殿のように見えるからという理由で、地下神殿と呼ばれている」

 少女がアリストを連れ込んだのは、その地下神殿への通路だという。だから綺麗なものだったのだ。そんな場所にそんな簡単に足を踏み入れて良かったのかはともかくとして。

 それでも地下を通ってきたのだから、とシャワーを浴びさせられる。ついでに言えばアリストの場合、公園の地面に身を伏せて泥だらけにもなっていた。

 その後、少女と話をするはずだったと言うのに、アリストの体力はそこまで保たなかったらしい。いつの間にか眠りについて、夢を見ていた。

 その間にヴァイスと少女の方では、どうやらある程度の情報交換を済ませていたらしい。

「二人って……顔見知り?」

 いくらアリストを赤騎士から助けてくれたとはいえ、ヴァイスが初対面の人間をこんな複雑な状況に関わらせるとは思えない。

 しかし彼の様子だと十にも満たぬ小さなこの少女に対し、自分と対等で同格な人間として扱っているように見える。アリスト以上に複雑な話のできる相手と考えているようだ。

「ま、存在だけは知っていたという感じだな」

「私も。“白騎士”ヴァイス=ルイツァーリの名は教団内では有名だから」

 起き上がって顔を洗い、着替えを済ませたアリストはようやく少女と向き合った。

 すでに日が暮れていて、慌ただしい一日が終わろうとしている。けれど、夜はこれからだ。人目を避けて行動する怪しい輩の活動時間はここからが本番だった。

 赤騎士が疑念を持ちながらも呼んだ名前――コードネームを思い出す。今まで人心地つくまではとあえて自己紹介を避け、聞き出すのを控えていた名だ。

 すでにヴァイスには伝えてあるだろうが、少女は改めてアリストへ向けて名乗った。

「私は“チェシャ猫”」

 それは睡蓮教団の一員。そして。

「あなたをその姿にした、時を盗む禁呪の開発者よ」

 この事態の元凶である人物でもあったのだ。


..011


 今もこの世界には、魔法と呼ばれるものが残っている。

 絶滅危惧種の動物並の希少性とはいえ、世界各地には本物の魔導師が存在していた。

 中でも、世界の中心であるディアマンディ帝国帝都エメラルドは、あらゆる学問や技術が集う関係で、他の地域に比べれば魔導師の数も多い。

 そして華やかなりし帝都の更に中心地に古来より聳え立つジグラード学院。帝国建国以前より存在するこの学院こそは、魔導の総本山である。

 しかし学問の本拠地が学院に存在するからと言って、優秀な魔導師が必ずしも学院の近くに生まれるとは限らない。

 帝都で魔導の才が見受けられればすぐにでもジグラード学院に送られるが、帝国外や他大陸の生まれともなるとそう簡単にはいかない。そして帝都の民だとしても、環境によっては学院への在籍を拒む場合がある。

 魔導師の存在は、場合によってはその能力を狙う者たちの取り合いになる。

 魔法というものは、まるでお伽噺に登場する神や魔王や竜の如く万能な存在だと誤解されているためだ。

 実際には現代の魔導師たちは、数千年前にそう呼ばれた者たちに比べてかなり能力が落ちている。彼らができることの多くは、既存の道具や技術で代替できることばかりだ。

 これは当然の結果と言える。人間の持つ多くの能力は、人間が生きていくために必要だから備わっているのだ。大きすぎる力など日常を送るには必要なく、科学技術が発達すると共に、魔導と言う技術の必要性は薄れていく。

 特定の人間しか使えない魔導よりも、誰でも使える道具の方が便利。ただそれだけのことだ。

 例えば世界中を一瞬で移動できる力があったとして、パスポートもなしに他国に不法入国すればただの犯罪でトラブルの元。文明が発展した世界においては魔導も出番はない。普通の人々と同じように生きて生活する方が、下手な魔導を用いるより余程快適に暮らしていける。

 そもそも瞬間的な移動や空中浮遊を可能とするような、強い力を持つ魔導師自体がすでに夢物語の領域だ。大抵の魔導師はすでに人間が持つ技能の延長線上ぐらいしか行えない。

 身体を強化して跳躍力を高めることはできる。だが空を飛ぶことはできない。遠くにいる者へ話しかけたり、その光景を見ることもできる。――それに多大な体力精神力を費やすぐらいなら、電話やビデオカメラで十分だ。

 仰々しく長ったらしい呪文を十分も唱えて炎を出すくらいなら、素直にマッチやライターを使えばいいのである。

 もはや神様のような魔法使いは存在せず、魔導師たちは魔導を使う必要すらない。

 それでもいまだに魔法というお伽噺への幻想が消えないのは、人という生き物が分不相応な夢を見続ける愚かさ故だ。


 ◆◆◆◆◆


「……何の冗談?」

 確かに赤騎士は言っていた。アリストを子どもの姿まで若返らせた禁呪。その開発者は白兎ではなく、別にいるのだと。

 だがそれが……。

「まだ、子どもじゃないか」

 チェシャ猫と名乗った少女は、今のアリストと同じくらいの背丈しかない小さな子どもだ。十にも届かない、幼児だ。

「お前と同じだと」

 アリストより一足早く、彼女の正体について聞いていたヴァイスが補足する。

「彼女自身が作った禁呪をかけられて若返ったらしい。相手が殺すつもりで放った術を、お前と同じように魔導防壁で相殺した」

 同じ術に同じ防御をして同じような結果になったということは、元の条件も同じようなものだった? 年齢が近いのか?

 アリストは呆然と彼女を見つめる。

 チェシャ猫は淡い茶色の髪に、薄い紫の瞳をしていた。一見して可愛らしい少女だが、その瞳は外見の年齢不相応に熟成して冷めている。

 その点のアンバランスさは、見た目の少女めいた愛らしさとは裏腹に口が悪く頭が回るアリスト自身と同様だ。

 本物の子どもとは違い、子どもの姿をしているだけのものという歪。

 その瞳を見つめていると、彼女自身の言葉やヴァイスの説明がじわじわと実感を伴ってアリストの中に浸み込んでくる。

「君が……」

 時を奪う。その禁呪によって、アリストは十七歳の自分としての人生を奪われ、無力な子どもの姿にさせられた。

 それだけではない。

 アリストは元の姿を奪われたが、こうして命は無事である。体力も腕力も魔法の技術でさえ子どもの頃に戻ってしまったが、生きているだけ希望はまだある。

 けれど昨夜、白兎の手によって『時間』を奪われた被害者たちは。

 路地裏に落ちた白い手の主と、アタッシュケースを抱えたスーツのサラリーマンは。

「お前が……」

 アリストは“チェシャ猫”と呼ばれた少女の肩に強く掴みかかる。

「お前が――作ったのか?! あのおぞましい魔法を!」

 一体どれだけの人間がその犠牲となって命を失い、アリストのように人生を狂わされたのか。

「そうよ。私が作ったの」

 仮面のような無表情のままチェシャ猫は肯定する。

 アリストの剣幕と激しい怒気を見かねてか、普段は仲裁役など滅多にしないヴァイスが二人の間に割って入った。アリストを背後から羽交い絞めにするようにして、チェシャ猫から引き離す。

「まぁまぁ、待て、アリスト。落ち着け」

「これが落ち着いていられるか! こいつのせいで――!!」

「確かに禁呪の開発者は彼女らしいが、お前に術をかけたのは白兎なのだろう?」

「だからって……!」

「お前は包丁を使った殺人が起こる度に凶器の製作者である包丁職人まで逮捕する気なのか? 自動車事故の度に車会社を訴えるのか?」

 ヴァイスの台詞に感じるものがあり、アリストはぐっと、今にも唇から零れそうな罵倒を一度呑みこんだ。

「……その言い方だと、まるで禁呪の使用がこいつの本意ではなかったみたいだな」

「その通りだ」

 ヴァイスがチェシャ猫に一瞬目を向ける。彼女は無反応だったが、それを拒絶でないと受け取り、再び話し出す。

「コードネーム“チェシャ猫”は、睡蓮教団の魔法開発部門の一人だ。天才児として小さな頃に教団にスカウトされて育ち、魔法――世間一般的には主に禁呪と呼ばれるものの開発をしてきたらしい。しかし彼女の開発した禁呪の目的は殺人ではなく、本来別の使い方をするはずだった」

「別の……目的……?」

 アリストは胡乱気にチェシャ猫とヴァイスを見比べる。

「言っただろう? 睡蓮教団の目的は、背徳神の復活。それに関わるどんなことでも教団はやる」

 人の『時間』を奪うことと神の復活がどう繋がるのか、然程魔導に関する知識がないアリストにはわからない。

「何故作ったんだ、あんな術を」

 静かな問いに、静かな答が返る。

「――取り戻したかったのよ、過去を」

 彼女は淡々と告げた。

 教団と自分の利害は一致していた、ある一点においては、と。

「過去、だと?」

「あなたにはないの? どうしてもやり直したい、取り戻したい過去が。運命の歯車一つ転がすだけで変わるはずの、未来への可能性が」

 アリストの脳裏に、先程夢で見たばかりの、五年前の葬儀の日の光景が過ぎる。

「――ない」

「本当に?」

「強いて言うなら、今のこの状況だ。どうしてせっかく十七歳まで育ったってのに、七歳からやり直さなきゃならないんだよ」

 あの日あの時白兎などに会わねば。今こんな苦労はせずに済んだのかもしれない。

 けれどそれも、ただの実現性の低い可能性の一つに過ぎない。

 あの日あの時、他の道を選ばなかった。だからこそ今の自分があるのだから。

「過ぎてしまったことを後からうだうだ言っても始まらないだろう。そのぐらいなら、これからどうすればいいかを考えようぜ」

 チェシャ猫が目を瞠る。菫の花のような色の瞳が印象的だ。

 深く溜息を吐きだしたアリストに、ヴァイスが念を押してくる。

「ではひとまず、この事態を打開するまではチェシャ猫に協力者となってもらうということでいいのだな」

「俺よりもあんたがそうやって彼女を信用する素振りを見せているのが不思議だぜ、ヴァイス」

 アリストの知るヴァイス=ルイツァーリは、本心から他人を信用することの少ない人間だ。いつでも言いたいことを言うし努めて隠し事をする人間でもないが、その分他人のご機嫌取りもしない。良くも悪くも彼は自分を偽らない。

「まぁ……私はかつて教団関連で色々あった頃から彼女の噂を聞いていたからな」

「噂? それより、お前教団と色々あったって」

 アリストの興味が微妙に移り変わったのを察したのか、ヴァイスは肩を竦めて追及を拒絶する。

「それも面倒な話になるからおいおいな。“イモムシ”が帝都に帰ってきてからにしてくれ」

「“イモムシ”?」

 また知らない言葉が出てきた。それも誰かのコードネームだろうかと疑問符を浮かべたアリストの横で、チェシャ猫が反応する。

「コードネーム“イモムシ”。本名はヴェルム=エールーカね。“帝都の切り札”“エメラルドのジョーカー”と名高い名探偵」

「あ……ヴェルムっていう探偵の知り合いがいるって、まさか」

「言っただろう、奴はジョーカーだと」

 ジョーカーはトランプの「切り札」。謎めいた事象を追いかけて、帝都警察が迷宮入りを覚悟した難事件を次々と解決しいつしかそう呼ばれることになった若き探偵がいるという。それがヴェルム。ヴェルム=エールーカ。

「そんな有名人まで関わってんのかよ……!」

 よく新聞の一面に名前が出てくる人物だ。帝都どころかこの帝国で知らぬ者はいないと言ってもいい。

「奴の立場はお前に似ている。教団絡みの事件の被害者という立場で、教団を酷く憎んでいる」

 だからヴァイスは探偵に関する説明を常に後回しにさせたのか。探偵の見方は一方向に偏っているというのは、そういうことだろう。

 確かに教団憎しで最初から意気投合してしまったら、チェシャ猫のように教団の関係者を受け入れることはできなかっただろう。

 それに関してはチェシャ猫ももちろんだが、いまだ明かされないヴァイス自身の立場も気になっているのだが……。

「そう言えば、あんたはなんでヴァイスを訪ねて来たんだ?」

 どうせまともに尋ねては今の段階では答は返っては来ないだろうと、アリストは切り口をチェシャ猫の方へと変えてみた。

 そもそも何故あの公園で、チェシャ猫が赤騎士からアリストを助けてくれたのか? その質問に対する答は、ヴァイスに会いに行く途中だった彼女が、たまたま通りがかった先で知っている殺気――赤騎士の気配を感じたからということだった。

 本来人間の時間を奪い尽くして消滅させるはずの禁呪。彼女自身が開発したというはずのそれをかけられたということは、彼女は教団を裏切ったのだろう。

 そして何故か、ヴァイスのもとへと逃げ込んだ。

「私は教団を裏切ったから、それで――」

「……そうなんだろうけど、それで、なんでこいつのところだったんだ?」

 役所近くの公園を通りかかったと言うのなら、あの時彼女は徒歩でヴァイスの家に向かう気だったということになる。逆に考えれば、彼女が逃げてきた教団の支部はそう遠くではない。この帝都内だ。

 何故、ヴァイスの助けを求めたのか?

 警察に駆け込むでも、帝都の外に逃亡するでも、他の機関を利用するでもなく。彼女は、ヴァイス=ルイツァーリという一個人を頼ってきたことになる。

 しかし白兎の裏取引といい、赤騎士のような暗殺者を抱えていることといい、睡蓮教団と言う組織の裏の顔が、そんな小さな犯罪集団とは思えない。

「彼は“白騎士”だから」

 チェシャ猫の返した答は、今まで出会った教団の人間たちと同じような言葉選びだった。

 その意味を解する者にしか理解できない符丁。

「“白騎士”である彼と共にいれば、“アリス”に出会えると思ったから」

 アリス。また、“アリス”だ。だから一体。

「“アリス”ってのは何なんだ?」

 不思議の国を冒険する少女の名は、何を意味するのか?

 しかしチェシャ猫は幼い見た目に不似合いに大人びた笑みを向けるだけ。

「知らないの? ルイス・キャロルの著作の主人公よ」

「それはわかってるよ。だから――」

「二人とも、今はそれより大事なことがあるんじゃないか?」

 問題は山積みだ。

 ヴァイスの言うとおり、今はそれよりやらなければいけないことが死ぬ程ある。禁呪について製作者のチェシャ猫について聞くこともそうだし、こちらの命を狙ってくる赤騎士対策もしなければならない。

 考えたくはないことだが、このまましばらく元に戻れないようなら家族や友人への様々な言い訳も用意せねばならない。

 問題は山積みだ。

 自分を取り戻すために、自分ではない自分を演出する。しかしそんなことをすればするほど、何が嘘で何が本当か、わからなくなりそうだ。

 その歪みを正すにはやはり、元の姿へ戻ることが必要だった。


..012


 仕切り直し、とばかりにヴァイスが二人を寝室から居間へと移動させ、暖かい飲み物を振る舞った。

 平素の彼にしては格別の待遇だ。出されたココアは常のアリストにとっては甘すぎるはずだったが、味覚も子どもに戻ってしまったのか、今はこの甘さが心地よい。

「疲れた時はやはり甘いものに限る」

「なんでこの家にこんなものがあるのかと思ったら……ヴァイス、お前隠れ甘党だったのか?」

「普通になんでも飲み食いするだけだ」

 ヴァイスがちらりと横目でチェシャ猫の様子を窺う。彼女はココアを口にして、ほっと安堵の息を吐いたようだった。なるほど、このお茶の時間は彼女のためだったらしい。

 そもそもアリストが疲れ果てて眠っていた間、彼女とヴァイスはずっと話し込んでいたのだろうか。それならば疲れるのも当然だ。

 それでなくてもチェシャ猫は教団を裏切り、逃げてきたという。逃亡生活がどのくらいのものか知らないが、相当苦労しただろう。

 先程は反射的に怒りをぶつけてしまったが、ここに来てようやくアリストは、チェシャ猫の複雑な境遇にも意識を向けることができるようになってきた。

 いくら禁呪と呼ばれるものを開発しようと、もともとそれで人を傷つける気がなかったのなら、自分が生み出したもののせいで誰かに危害を加えられたと聞くのは辛いだろう。

 もしかして――だから、彼女はここに来たのだろうか。

 ヴァイスがなんだかんだで追求を躱す以上、教団に対する彼の立ち位置はわからない。だが教団を憎む探偵を知人に持ち、教団によってこの姿にさせられたアリストに協力してくれる以上、ヴァイスは教団と敵対関係にいるのではないか?

 その彼を頼ってきたチェシャ猫もまた――。

 アリストは今になってそう考えることができるようになった。

 ……一度冷静になったように見せて、実は心を乱していたのはチェシャ猫だけではなく、自分自身もだったというわけだ。

 自覚したアリストはヴァイスにもう大丈夫だと目で合図し、話を再開しようと持ちかける。

 まず、これだけははっきりしなければならないと、アリストはかけられた禁呪について、チェシャ猫に詳しく聞いてみることにした。

「この禁呪って、一体どういう仕組みなんだ? いや、それより――俺は、どうやったら元の姿に戻れるんだ?」

 学院でヴァイスの魔導学講義を多少聞きかじっているアリストには、今の自分の状況が到底信じられないものだった。

 魔導技術は、決して万能ではない。魔導はよく魔法という言い方をされるし、それは決して間違いではないのだが、それでも。

 決して、望みの全てを叶える「魔法」などではないのだ。

 それはあくまで人の力で、人の理解の及ぶ範囲でしか使えない。現象の規模によっては現実的ではなく超常的と呼ばれることもあるかもしれないが、基本は人が理論上実現可能なレベルの現象を引き起こす能力の一つだ。

 だから今のアリストの状態、「十七歳の少年が、約十年を若返り子どもの姿になる」というのは、いくら魔導と言ってもあまりにも無茶としか思えなかった。

「仕組み、と言われても……」

 魔導の術を解くには、術者に聞くのが一番早い。アリストに禁呪をかけたのは白兎だが、術を作ったのがチェシャ猫であるならば、彼女に聞く方が確実だ。

「……教団の目的が、背徳神の復活にあることは聞いている?」

「ヴァイスから。あと別の人からも少し」

「そう。なら察しはつくでしょう。この魔導もまた、神の復活の一助となるように作ったものよ」

 教団はいまや目的を果たすためというよりも、教団を維持するそれ自体が目的のような巨大な機構と成り果てている。ある程度大きな組織というのはそういうものだ。研究のために人材と財源を探し、それを維持するためにまた財源を確保する。

 教団自体が企業に出資して稼いでいることもあれば、手っ取り早く大金を得るため犯罪を行い、それを隠すためにまた罪を重ねるようなこともあるという。

 睡蓮教団がカルト集団として世間的に毛嫌いされているのも多くはこのためである。

 しかしチェシャ猫の禁呪開発はそのような組織の末端の構成員が行うような仕事ではなく、もっと教団という存在の根幹に関わるものだった。

 すなわち背徳神の復活。

 しかしアリストには、それだけでは禁呪がどう関わるのかよくわからない。

 人々から「時間を盗む」のが、どうして神の復活になるのか?

「はじめは、単純に“時を巻き戻す”魔術を開発していたらしいの。でもそれはさすがに実現不可能だとわかって」

「実現してるじゃん」

「私たちが若返ったのは肉体だけよ。精神はもとのまま」

「……なるほど」

 雲の上を歩くような気持ちでチェシャ猫の論理を聞いている。彼女たちがまずはじめに考えていたのは、SF小説でお馴染みのタイムスリップ的な「魔法」だったらしい。

 確かにそれは無理というか、現実味がない。教団はそんな魔術を作ってどうするつもりだったのだろうか。背徳神が死ぬ(?)前に戻ってから歴史をやり直すつもりだったとでも?

 世界の歴史を改変するにしても、タイムマシンで誰かが過去に渡って行動を起こし結果的にそこから今までの歴史が変わるという事象を引き起こすにしても、どちらにしろ途方もない話だ。

 では今のアリストたちの状態が現実味があるのかと言えば、それも微妙なところだった。チェシャ猫の指摘で改めて気づいたが、どうしてアリストたちの精神はそのまま……これまでの記憶も経験も失われていないのだろう。それはつまり若返りの際に脳に手が加わっていないということである。

「俺たちの脳は十七歳当時のままなのか」

「さぁ」

「さぁ……って」

「“若返った”という結果だけを見れば、その試験結果は私たちだけよ。確かに術式の構成上、記憶や経験、精神に関わる分野を極力刺激しないよう魔導を組んではあるけれど」

「じゃ、じゃあまさか、自分ではいつも通りのつもりでも、実はぽろぽろ落っことしている記憶があったり――」

「するかもしれないわね」

 あっさりと言われて、アリストは青褪める。今まで考えたこともなかった話だけに動揺も激しい。

「けど――」

「なるほど、人間の脳の成長の話か」

 ヴァイスが口を挟んだ。さすがに魔導が本職だけあって、かじっただけのアリストより理解が早い。

「肉体の時間を巻き戻すことに特化して、精神分野は後回しにしているんだな。だからその作業が今回魔導防壁によって中断された時は、ほとんど影響のない脳とその中の記憶はほぼ無事なんだ」

「その通りよ」

「???」

 頼む。二人だけでわかりあわないでくれ。

 ヴァイスとチェシャ猫が顔を見合わせた結果、今回はヴァイスが疑問符を浮かべ続けるアリストに解説することとなった。

「子どもがなんで頭でっかちか知ってるか?」

「体型的に頭の方が大きくてころころしてるってこと? ……知らない」

「あれはな、脳の発達の問題なんだ。人間の脳は三歳くらいまでに成人の八〇パーセント程まで成長する。小等部低学年には、ほぼ成人と同じくらいまで成長する」

「知らなかった……」

「脳の神経細胞の数は、大人も子どもも同じくらいだ。だからお前たちがそのぐらいの歳まで若返っても、脳の中身や記憶自体を弄ろうとする働きが禁呪に組み込まれていなかった場合、容量が足りたんだろう」

「ってことは、もしもこれ以上若返っていたら」

 今のアリストは小等部一年生程の肉体だ。

「……脳の容量が足りずに記憶がぽろぽろ抜け落ちていた可能性はあるわね」

「ひー!」

 危ないところだった、と今更ながらにアリストは怖くなる。そんな彼の横で魔導の専門家たちの話は続く。

「肉体だけが若返る魔術なら、脳には手を出さないままの方が無難というわけか」

「ええ。あえて全身を通して人間と言う個の巻き戻しを図るのではなく、脳を除いた全ての細胞を個別に逆再生させたの」

「人間はもともと一つの受精卵が分化して生まれることの逆をやったわけか。しかしどうやって」

「人間が肉体を動かすのも物を記憶するのも要は全て電気刺激が司っているわけだから、その刺激で細胞の『記憶』に揺さぶりをかけて後は連鎖的に。生き物個別にとっての『時間』とはすなわちその存在の『経験』全てと置き換えることも可能だから、それをキーワードに組み込めば」

「一見無茶苦茶だが、実際にできてしまったというわけか。確かに魂の領域に手を出すよりはまぁ、不可能ではないな」

「魂の領域はそれこそ神の書き換えと同義だもの。さすがにそこまでは」

「四次元的要素の全てを三次元に置き換えて構成したわけか。なるほど」

 傍で聞いているアリストには、さっぱりわからない。

「時を巻き戻すのが不可能と考えた時点で、では現実的にそれを成すのはどうすればいいと考える以前にまずエネルギーの問題に突き当たったの。だからそれまでに考えていた『時間』というキーワードから生物の成長・進化という莫大なエネルギーの抽出を思いついて」

「形にした物が、対象から“時間を奪う”魔法というわけか。確かに神の組成が核融合のエネルギーと言われるよりはイメージしやすい気もするが」

「あくまで魔導技術の一種だから、三次元的なエネルギーと違って半永久的な保存を利かせる術を同時に別の研究者が開発済だったの」

「なるほど。神を蘇らせるに足るエネルギーを回収するとなれば一人の人間が一生でこなせるわけもなく――」

 この後もまだまだ、アリストに理解できない高度な魔導理論談義は続いた。

「これぞまさしく現代の魔法。科学知識と技術、そして魔導の融合か。実に素晴らしい」

「何褒めてんだよ!」

 マッドサイエンティストならぬマッドマジカリストな会話を交わしていた二人に、唯一の一般人としてアリストがツッコミを入れる。

「つまり、どういうことなんだ? 三行で頼む」

 長く複雑な魔導理論が聞きたいのではない。知りたいのはこの現状の意味と解決法とそのためにこれからどうするかだ。

「盗まれた時間は教団の方で保存中」

「それを取り戻さないと戻れないので」

「教団を潰して奪い返そう」

 律儀に三行で済ませてくれたのは助かるが、今お前ら本当にそんな話してたか?!

「「してたしてた」」

 ヴァイスもチェシャ猫も無表情に頷く。

「~~ちなみにこのままだとどうなる?」

 最悪元の姿に戻れないとしたら、この子どもの体のままで生きていくことになるのか?

「――わからないわ」

「わからない?」

 チェシャ猫は本当に困った顔で繰り返した。わからない。

「恐らくこのまま生きていけるとは思うけれど」

「あるいは、その体のまま成長できない可能性が出てくるのではないか」

「ありえるわね。……あの術を作る時、過去のことしか考えていなかったから」

 ――過去を取り戻したかったと、彼女は言った。

 時を奪われた者の未来。それは誰にもわからない。

 ……どちらにせよ。この分では、ある日突然元に戻れるなどという楽観はしない方が良さそうだ。

「最悪の場合あれだ」

 ヴァイスが重々しく提案する。

「?」

「十年ほど行方不明になっておき、肉体が大人にまで成長したところで十歳分老けたように整形する」

「……そんな人生は嫌だ~~」

「……というかいくら今の私たちの姿が子どものものとはいえ、十年もあったらさすがに教団から奪われた時間を取り戻すくらいのことはできるんじゃない?」

 チェシャ猫が指摘する。

「組織そのものを潰さないと、ずっと命を狙われ続けるかもしれないけど……」

「そう言えばそんな問題もあったな。元に戻るのも大切だが、今お前たちは裏切り者と秘密を知ってしまった者という理由で、教団から命を狙われている」

 あまりのことに忘れそうになっていたが、そういえばそうだった。

「私の場合はもともと家族もいないし、この姿でもその気になればどうとでもなるわ。でも」

「俺は嫌だ」

 アリストは納得できない。

「必ず元の……アリスト=レーヌの姿を取り戻して、姉さんのところに帰らなくちゃ」

 ただ一人の家族。他に誰がアリストという人間を待っていなくとも、彼女のためにアリストは戻る。奪われた十年という時を超えて。

「……そう」

「ま、全ては教団との戦い次第だな」

「……この十年で、教団は世界中に根を張り力を蓄えた。あなたが以前やったようにはいかないわよ。白の騎士、ヴァイス=ルイツァーリ」

「わかっているとも、チェシャ猫」

 またもアリストを置いてけぼりに、ヴァイスとチェシャ猫の間で鋭い視線が交差した。

「ヴァイス……? チェシャ猫……?」

 険のあるやりとりに、アリストは眉を曇らせる。先程は自分が険悪な空気を起こしたとはいえ、共闘を考えるならここで揉めていては仕方ないのは確かだ。

 ピンポーン。

 その時タイミングを選んだかのように呼び鈴が鳴った。この音には二種類あって、今のは部屋の玄関扉ではなく、マンション全体のエントランス部分からのものだ。

「はい、ルイツァーリですが」

 玄関脇のタッチパネルを操作したヴァイスが訪問者の姿を確認する。相手は一見何の変哲もない配達人に見える。

「ルイツァーリさん、特急郵便でーす」

「特急?」

 ヴァイスはとりあえずそれを受け取るために、訪問者をマンションの中に入れることにした。

「何かの罠じゃないの? 私がここに来たことがバレて――」

「かも知れないが、あの配達人はとりあえず教団員には見えなかった。問題は、その郵便自体だな」

 至極平穏に配達人から受け取った手紙を乱暴に破いたヴァイスは、嘆息と共にその文面を今は子どもサイズの二人に見せる。

「見ろ、果し状だぞ」

 教団が殺し損ねたアリストよりも、過去に何か関わりがあるヴァイスよりも、つい最近教団を裏切って逃げ出してきた、彼らについて多くの情報を握っているチェシャ猫の方が、教団において抹殺すべき優先度は高い。

 だが、三人まとめて始末できるのであれば、それはそれで教団にとって有益だと。

 差出人“赤騎士”の名を見て、三人はとにかく、目の前の戦いへの決意を固めた。


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