19.白の王の権威
...109
夜の街のあちらこちらで、いまだにサイレンが鳴り響いている。
普段であれば何事かと不安がる住民たちも、今宵は怪盗ジャックと怪人マッドハッターの犯行により半ばお祭り騒ぎと化していることを知っているので動じていない。
パトカーで怪人マッドハッターが逃げたと思われる場所を探していたモンストルム警部は、ドドンと響いた大きな音に驚いて外を見た。
「警部! あれを!」
「花火です! 倉庫街の近くで花火が上がっています!」
「何?!」
濃紺の夜空に鮮やかな火の花が次々と咲いては消えていく。花火が上がっているのは、運河沿いの倉庫街だ。
「博物館でジャックも花火を上げていました。怪盗たちはあそこにいるのでは!?」
モンストルム警部は、パトカーの無線に向かい怒鳴った。
「怪盗を追う全車両に告ぐ! 今すぐ倉庫街へ向かえ!」
◆◆◆◆◆
逃げ回る怪盗と追ってくる睡蓮教団。彼らの戦闘は、今は倉庫二階の吹き抜けとなった空間で繰り広げられていた。
突然遠くから聞こえてきた花火の音に、ジャックとマッドハッターはハッとする。
「料理女だな。警察の皆さんを呼んだらしい」
ハートの王と交戦中のジャックは、口ほどに余裕があるわけではない。
あの料理女が早々に警察を呼んで相手を撤退させることを狙ったということは、向こうがそれだけ手強い相手だったと言うことだ。彼女とアリスは無事だろうか。
……恐らく無事だろう。白騎士やチェシャ猫がアリスのピンチに手をこまねいているとは思えない。
「あらら大変。いきり立ったモンストルム警部がすっ飛んでくる前に、できれば皆さんお開きにしません?」
マッドハッターは専任警部を揶揄する口調で言いながら、ニセウミガメの攻撃を避ける。
ハートの王の実力はこれまで何度も相対してジャックも知っていたが、このニセウミガメと言う女もなかなか手強く、マッドハッターは彼女を振り切れない。
「警察の皆さんもこんな時間に御苦労さまだ。勤勉な警部たちの仕事を減らすために、怪盗などここで殺してあげた方が世の中のためだと思わないかい?」
「いえいえ、勤勉な警察の皆さんだからこそ手柄を挙げるために、宗教団体を名乗る犯罪組織の幹部を逮捕させて差し上げましょう」
皮肉の応酬は途切れない。
単純な戦闘能力なら互角でも、本物の「戦い」という意味ではまだ十代の怪盗二人よりも、教団の二人に分がある。
ハートの王とニセウミガメはてんでばらばらに攻撃を仕掛けているように見せかけて、実はお互いの動きでジャックとマッドハッターが徐々に背中合わせになるように追い詰めていたのだ。
途中で気づいてもすでに遅く、ジャックとマッドハッターは背後を相手に任せながら、正面の敵を何とか突破する方法を考えねばならなかった。
もはやこれ以上は一歩も退けない。
王手をかけたと見て、ハートの王とニセウミガメがじりじりと近づいて来る。
動かない状況を無理やりにでも動かすために、怪盗ジャックがマッドハッターに声をかけた。
「ここを切り抜けるために協力しないか?」
「もう随分共闘状態だと思うけどね」
「場所とタイミングが重要なんだ」
ジャックが目線で示したものに対し、マッドハッターはその意図を理解して頷く。
ちょうどよくこの場所にも、パトカーのサイレンが近づいてきた。怪盗より更に後ろ暗い睡蓮教団の二人がぴくりと一瞬だけそれに反応する。
そのたった一瞬の隙に、怪盗二人は揃って駆け出す。
「待て!」
制止の声はもちろん聞くはずもなく、ただ虚空へと向かって。
「何?!」
ハートの王たちが驚く中、ジャックとマッドハッターは、吹き抜けの床が途切れた闇の中に迷わず飛び降りた。
「馬鹿な、何の仕掛けもなくこの高さから飛び降りるなど――ッ!」
「ハートの王!」
ニセウミガメの警告に、ハートの王はぎりぎりでそれを躱すが、血は飛び散った。
二人の怪盗は高い吹き抜けから飛び降りたと見せかけて、実は荷物移動用の簡易クレーンのワイヤーにぶら下がり身を隠して反撃の機会を窺っていたのだ。
魔導でハートの王を攻撃したマッドハッターを、怪盗ジャックがしっかりと支えている。
そして目論見通りハートの王が負傷し、即座の正確な反撃はないと見てとるや二人は今度こそ倉庫の闇の中に飛び降りた。
ハートの王は怪盗たちの方向に銃を向けるが、その場所から怪盗たちを狙うのにもクレーンが障害となっている。
マッドハッターとジャックは倉庫の中のものを上手く盾にしながらハートの王の銃撃とニセウミガメのナイフから身を守り倉庫を飛び出した。
「……!」
「ハートの王、警察が来る!」
迫りくるサイレンの音にいよいよ教団側も追い詰められてきた。ハートの王は腕から出血している。こんな現場を見られる訳には行かない。早々に倒された配下たちを叩き起こして、すぐにこの場を離れなければ。
ニセウミガメはハートの王を促した。
「退却しよう。これ以上の深追いは無理だ」
「まだグリフォンの奴がいる」
「向こうも警察に接近されて引いたそうだ」
「……くそっ!」
それまでの穏やかさをかなぐり捨て、ハートの王は毒づく。
「あの役立たず共が……!!」
「……」
ニセウミガメは顔を顰めて携帯を取り出し、万一のために少し離れた場所に残していた部下に連絡を入れ始める。マッドハッターに昏倒させられた者たちに車の運転をさせるわけにも行かず、脱出のための足が必要だった。
ハートの王とニセウミガメの二人がかりでも怪盗たちを仕留めきれず、グリフォンも早々に怪盗たちの協力者に逃げられてしまったと言う。
不覚を取ったのは確かだ。しかしそれだけではない。
「奴らは、思った以上に厄介な勢力なのかもしれないな」
怪盗ジャックと怪人マッドハッターが手を組んだとなれば、いよいよ教団も捨て置けない勢力となるだろう。チェシャ猫が抜け、ティードルダムとティードルディーが死に、今は魔導の使い手が減っているという事情もある。
ティードルダムたちを手にかけたハンプティ・ダンプティの件も気にかかる。
怪盗と殺人鬼の跋扈する帝都の夜は、これからますます騒がしくなりそうだ。
...110
アリスと料理女をヴァイスとシャトンが車で拾い、警察や睡蓮教団に見つかる前に倉庫街を離れた。
アリスは渡された仮面を外し、料理女は顔に影を落とすよう目深に帽子を被る。
あえて長閑な住宅街の中の小さな児童公園を、怪盗二人との集合場所にした。周辺には何も知らない住民たちが眠っている、こんな場所は睡蓮教団も潜伏場所に選ぶまい。
「……全員無事で良かったわ」
当事者であり部外者、近く遠い微妙な距離にいるシャトンが、こればかりはと代表して言った。事件を起こした怪盗二人や首を突っ込んだアリスには少しばかり口にしにくい台詞なので。
落ち着いたところで、ようやく話ができる。
「なぁ……“料理女”。お前って……」
アリスはずっと気になっていた、料理女へと目を向ける。
色とりどりの遊具に囲まれた深夜の公園は、まるでおもちゃ箱の中の世界だ。
「そうよ」
闇の中でも鮮やかなその視線に頷きつつ、料理女はそっと仮面を外した。
相棒である怪盗ジャックは静かにそれを見守る。
怪人マッドハッターが息を呑んだ。
「――ギネカ」
アリスは彼女の名を呼ぶ。
「マギラス?!」
「何故、あなたが……」
ヴァイスとシャトンも驚きを露わにした。
まさか知る人ぞ知る怪盗ジャックの相棒“料理女”が、毎日のようにジグラード学院で共に過ごす生徒の一人だとは思ってもいなかった。
ギネカは数少ない、アリスの正体を知る者である。
「私はギネカ=マギラス。そして、睡蓮教団の敵対者の一人、コードネーム“料理女”、怪盗ジャックの相棒」
「待てよ、ギネカが料理女ってことは、怪盗ジャックは――」
アリスが振り返ると、ちょうどジャックも仮面に手をかけたところだった。
ついに、帝都を騒がせる謎の怪盗の素顔が晒される。けれどその素顔も名前も、彼らはすでに知っている。
「ネイヴ=ヴァリエート……?」
「正解」
ギネカの幼馴染のネイヴだ。遺跡探索の時にも世話になっている。
怪盗ジャックとしてエラフィの件でも協力してもらったことを考えれば、知らぬ間に随分助けられていたことになる。
「お前たち……」
珍しくヴァイスまでもが、途方に暮れたような顔で知り合いの二人に声をかける。
「隠していてすみません、先生。私は最初から、“不思議の国の住人”の存在を知っていました」
「……だから、アリスのことに関しても呑み込みが良かったわけだな。普通の高校生なら混乱するところだが……」
もともとしっかりしているギネカだから、今度もそのように覚悟して受け入れたのだろうとヴァイスは考えていた。接触感応能力という秘密を抱えていて、世間の常識から外れた事態に耐性があるのだろうと。
だが違った。
ギネカは最初から、ある程度教団の裏事情を知っていたのだ。
「ネイヴが怪盗ジャックで不思議の国の住人ってことは、ええと、その」
「……あなたも、アリスと同じように教団の被害者なの?」
シャトンが静かに尋ねた。
「……!」
アリスは思わず息を詰める。
元教団員の一人である彼女にとって、そういった人々を目の前にするのは辛いことだ。
ギネカの性格を知っている一行にとっては、いくら幼馴染とは言え、彼女が安易に犯罪に手を貸すとは思わない。
ネイヴが怪盗を始めたのには、相当な理由があるはずだ。
「そうだな。だが気に病む必要はないよ、チェシャ猫のお嬢さん。俺の両親は、教団の事情を知りすぎて殺されたんだ。君の禁呪は関係ない」
「……ごめんなさい」
ギネカがシャトンを気遣わしげに見る。
怪盗ジャックこと、ネイヴ=ヴァリエートは説明を始めた。
「始まりは七年前のこと。サーカスの団員だった俺の両親が、何者かに殺されたのが切欠です」
怪盗ジャックの犯行は時折、最高のサーカスと評される。
それはネイヴの両親が実際にサーカス団員で、その技術を息子である彼にも仕込んでいたからだったのだ。
怪盗ジャックの武器は百発百中の投げナイフとされているのもここから来ていると言う。
「俺の両親は、事故死として処理された。けれど俺はその捜査に納得が行かず、不審を覚えました」
独力で調査を重ねた結果、ネイヴはついに両親の死が誰かに仕組まれたものであることに気づき、その復讐を目指すことにした。
「復讐……」
その言葉はアリスたちの脳裏に、怪盗ジャックのライバルと呼ばれる探偵、ヴェルムを思い起こさせる。
ヴェルムが教団に敵対する理由も、両親を殺された復讐からだ。
同じ理由を持つ二人は、しかし怪盗と探偵という、まったく逆の道を選んだ。
「俺は、白い星――辰砂の魂の欠片を持って生まれてきた」
ネイヴは自らの胸に手を置く。
「!」
「両親の死の理由を知った俺は、この力が復讐に役立つと思い、怪盗になった」
驚くアリスとマッドハッターとは違い、シャトンとヴァイスはその答を予測していたかのように落ち着いていた。
「なるほどな。初めて会った時から随分多くの白い星を持っているとは思ったが」
「あなたは怪盗になって集めたのね。あなたを呑み込むかもしれない辰砂の力を」
ヴァイスの台詞の後を引き取って、シャトンが寂しげに囁いた。
この二人は、同じく身に宿した背徳神の魂の欠片の影響により、他者の魂の様子がはっきりと見えると言う。
「呑みこまれるつもりはないよ。背徳神と違って辰砂は故意に宿主を浸食しない。そしてこの欠片を集めようとする限り、俺は教団に復讐を望むただのネイヴ=ヴァリエートである自分を自覚していられる」
辰砂の魂は背徳神のものよりも宿主への浸食が軽い。欠片を集めるのは、あくまでも辰砂ではなくネイヴ自身の意志なのだ。
「……お前、それだけの能力があって一般校に通っていると言うことは、私の存在を知ってわざとジグラード学院を避けたな」
ネイヴの素性と事情をある程度把握して導き出した結論に、ヴァイスが不機嫌な顔になる。
ネイヴはヌメニア高校の生徒だ。一応エリート学校であるジグラード学院に比べれば遥かにランクが落ちる一般校である。
――怪盗ジャックの頭脳と身体能力をもってして、ジグラード学院の特待生枠を獲れない訳がない。
「あなたと毎日顔を突き合わせていたら、早々にバレてしまいそうなもので。それに辰砂の欠片を持っているとはいえ、俺の能力は魔導方面には開花しなかったようです」
「そういえば、さっきの非常時でも自分では魔導を使わなかったな……」
窮地を共に乗り越える――とは言うものの、魔導に関して一方的に頼られたマッドハッターが呟く。
「偉大な魔導士の生まれ変わりだから自分も偉大な魔導士になれるとか、世の中そう簡単には行かないってこと」
「別にそれでいいじゃない。そんなこと言ったら、凶悪な神の生まれ変わりは自分も凶悪な神にならなければいけないのよ」
ギネカの言葉に、仮面の下でマッドハッターがぎょっとし、ヴァイスやシャトンはうんうんと頷く。
「そうだな。だからこそ俺に足りない魔導系の能力を埋めるためにギネカがジグラード学院で学んでくれてる」
「マギラス――」
ネイヴの言葉からヴァイスがギネカに苦言を呈そうとしたところで、怪盗の幼馴染はぴしゃりと言った。
「馬鹿を言わないで。私が魔導を学ぶのは私自身の人生のためよ。それが私にとって大切なことならあんたに力を貸すのも吝かではないけれど、あんたのために私の人生を捧げる訳ないでしょ」
「幼馴染が超冷たい!」
「普通よ」
「「「……」」」
ヴァイスは、アリスは、シャトンは、マッドハッターことフートは沈黙した。
例え料理女のコードネームを持とうと、怪盗の幼馴染だろうと、やはりギネカはどこまで行ってもギネカであった。
そのことは彼らに驚愕と共に安堵を与える。
もう一つの顔を見せようとも、彼女はやはりギネカ以外の何者でもない。
そうやって落ち着いてきたところで、アリスはふと一つ気になることを尋ねた。
「でも、魔法じゃなかったら、どうやっていつも盗みを成功させているんだ?」
...111
「こういうことですよ」
ネイヴが指を弾くと、彼の手元に小さな花火のように色鮮やかな光が生まれた。
「わぁ! ……ってこれ、魔導じゃないのか?」
「違いますよ」
ネイヴがすいと光をアリスの手に乗せるように動かす。色とりどりの光が生き物のように動いてアリスになつく。
「……これは、本当に光か? 何か見え方が――」
「おっと、鋭いですね」
「……さっきから、そこに何かあるのか?」
「え?」
マッドハッターの問いに、アリスとヴァイス、シャトンは不思議な顔になる。
「今三人に何を見せたの?」
「小さな光を」
「なるほど」
ギネカはギネカで不思議なことを言う。まるで彼女とマッドハッターには、この光景が見えていないように。
「見えないの?」
「違いますよ。私が見せていないのです」
「見せる?」
ではここにある光は本当に存在するわけではないということか?
「ネイヴは催眠能力を持っているのよ」
「超能力者か!」
ギネカの種明かしで合点が行く。そういえばギネカ自身も接触感応能力者だ。この二人は幼馴染の超能力コンビだったようである。
「今度は範囲を広げてみましょうか」
マッドハッターにも能力を見せつけるつもりらしい。四人の前に、一匹の猫が突如何もない空間から現れた。
「あら、かわいい」
「触れた感触もあるのに、これが催眠だと言うのか?」
「催眠能力って、そういうものなのよ。あまりにリアルな暗示は相手を殺すことも可能よ。催眠の中では、身体感覚を支配される。暗示の中でナイフで斬りつけられたと思えば、それだけで死んでしまうこともあるの」
それを聞いて、彼らは表情を引き締めた。
「恐ろしい程に強力な能力だな」
「純粋な破壊力とは違うけれど、人間に対しての効果は絶大ね」
魔導と違って現実の物質に影響することはできないが、人間相手の影響は凄まじい。魔導よりも更に貴重と呼ばれる超能力であることも大きな武器だ。
シャトンの腕の中から、幻の猫が消え去る。
「後はまぁ、持って生まれた能力をフル活用。魔導に見せているものも、様々なトリックで」
ジャックの今日の仕事では、ケースの中を催眠で何もないように見せてから模造品の首飾りをこれ見よがしに掲げたのだと言う。
それをマッドハッターが奪って逃走し、警察が彼を追っている間に展示室に残った警官数名を眠らせて、ケースから本物の首飾りを取り出した。
そこでアリスは、前日に自分が直接関わった謎を思い出した。
「あれ? 昨日俺の背中にカードを貼ったのって」
「私が直接」
ギネカの言葉に一同は思わず言葉を失う。
「――」
マッドハッター含めこの場の全員があの展示室にいたのだ。状況もわかっている。つまり。
「……そう言えば、俺、ギネカ以外に触られた覚えない……」
見抜けなかったアリスは、がっくりと肩を落とした。
蓋を開けてみれば、実に単純なトリックだったわけだ。
怪盗の演出する神秘的な“魔法”だと考えるから驚愕するのであり、助手のいる“マジック”の種などこんなものだろう。
問題はその助手がよく知っているはずのギネカだったことだ。さすがにあのカードをつけるために背中に触れたのが、見も知らぬ他人だったならばアリスだっていくらなんでも警戒して感づいた……はず。
「ちなみにさっきの仮面には、ネイヴの催眠能力からヒントを得て装着者の姿を大人に見せる魔導がかかっているの」
「それでか!」
手渡された仮面をもう一度取り出してまじまじと見つめ、アリスは納得する。ヴァイスとシャトンも興味深そうにそれを覗き込んだ。
「ところで本物の首飾りはどうしたの?」
一通り種明かしをされたところで、シャトンは宝石の行方を気にして見せる。アリスとの会合が目的とはいえ、表向き今日の怪盗たちの獲物は『女神に捧ぐ首飾り』だ。
シャトンの問いに、怪盗ジャックは平然と返した。
「すでに黒い星を抜いてマレク警部当てにお送りしていますよ」
「え?!」
マッドハッターが驚愕する。ずっと一緒にいたはずなのにいつの間にそんなことをしていたのだ。
ギネカとネイヴがにやりと視線を交わし合う。さすがにこのタッグで五年も怪盗を続けていたためか、手際の良さはマッドハッターたちの比ではない。つまり。
「俺の負けってことかよ?!」
「まだまだ青いな」
「ふざけんな! 人を利用するだけ利用しやがって」
怪人マッドハッターは、絵画や美術品に宿る背徳神の欠片を集めている。それを奪われては、今日仕事をした意味がない。
「……マッドハッター、君に一つ忠告しておく」
怪盗ジャックこと、ネイヴは改まって口を開く。
「黒い星を集めるのは構わない。だがそれを直接自分の中に取り込むのはやめろ」
「!」
魂の欠片を持つ者は、無機物に宿った欠片を自分の魂と同化させることができる。魂の欠片は人にも無機物にも宿るが、無機物より肉体を備えた生命の方が定着しやすいのだ。
マッドハッターはそれを知ってからずっとそうしていた。何十億、何百億もする美術品ごと盗むのは気が引けるし盗品をいつまでも手元に置いていては足もつきやすくなる。
何より、集めた魂の欠片を自分の中に取り込んでしまえば、もう奪われる心配はない。
魂の欠片を取り込むには、自分の手で触れて同化を念じるだけで済む。だから盗みの現場でさっさと欠片を自分の中に取り込み、空の器となった品々を後で返却していた。
「お前だってやっていることは同じだろう? 俺に何が言える」
「行動は同じだが、集めている物の性質が違う。辰砂の魂も狂気を誘発するにはするが、背徳神の魂は神の望むままに宿主を破壊的な行動へと向かわせる」
それらの影響を受けた人間の多くが、今の睡蓮教団員の大部分なのだ。
「今は大丈夫だと考えていても、いずれ抑えきれなくなるぞ。背徳神に体を乗っ取られてしまう」
ジャックは特殊な小瓶に詰めた黒い星をどこからともなく取り出すと、小瓶ごとマッドハッターへと手渡した。
辰砂の魂を集めているジャック自身には、背徳神の魂の欠片は必要ない。
「そんなことにはさせねーよ」
マッドハッターは肩をそびやかしながらその小瓶を受け取る。
「一方的には受け取れない」
そして自分自身も、これまで手に入れたものの自らの中に取り込めなかった白い星を集めた箱を怪盗ジャックに押し付けた。
「なるほど、これで等価だな」
背徳神の魂の欠片を取り込むことには、確かにリスクがある。だが利点も大きいのだ。魂の欠片を多く持つ者は、他の人間より優れた能力を得ることができる――だからこその、神の力だ。
「自分だって星を取り込んでいるくせに、お前が俺に何を言える」
「……」
強大な睡蓮教団に立ち向かうためには、マッドハッター……フートには力が必要だった。
「……と言うか、二人共魂の欠片を取り込まない方法を探したら駄目なのか?」
「!」
二人のやりとりに、横から口を挟んだのはアリスだった。
「部外者の俺としては、どっちの言い分も一理あると思う。……それに、背徳神より危険性は少ないとはいえ、辰砂の魂も狂気を誘発するって――」
「アリス」
「少しでも危険があるなら、俺はマッドハッターだけでなくジャックにも、自分が自分でなくなるかもしれない魂の取り込みなんてやめてほしいな。別の方法を探してほしい」
道は、一つではない。だが。
「……睡蓮教団に対抗するには、神の力が必要だ」
マッドハッターは、諦観を漂わせながら吐きだした。
「本当にそうなのか? 人間は人間の力だけで、神を超えることはできないのか?」
途方もないことを無責任に口にしている。アリスは自分でもわかっていたが、意見を変える気はなかった。
「少なくとも、かつて神々に反逆した創造の魔術師は人間なんだろ? 人間が絶対に神を倒せない訳じゃない」
「不遜すぎる」
「ああ。でも、そもそも相手だって神じゃない。敵は睡蓮教団。どれだけ魂の欠片を集めていようと、相手は俺たちと同じ人間なんだ」
だからこそ彼らの悪事を憎み、止めたいと願う。彼らの行為は決して神のためでも、神の裁きでもなんでもない。ただの人の欲でしかないのだから。
アリスの台詞に対し、マッドハッター……フートは更なる諦観を漂わせて呟く。
「……どうせお前の場合は、相手が本当の神であったとしてもそれを理由に退いたりしないくせに」
「お?」
それはある意味、アリス自身よりもアリスを理解した台詞だ。
「言われてみればその通りだな」
「アリストですものね」
アリス、アリスト=レーヌは例え相手が神であったとしても、戦わなければいけない場面で逃げることなどしない。
マッドハッターはそう言っているのだ。
この事態の以前からアリストと付き合いのあるヴァイスやギネカもそれに頷いた。
だが何故マッドハッターが、アリスのことをそんなにまで理解しているのだろう。
「これ以上話したところで、俺の結論は変わらない。……あんたたちと組む気はない」
「マッドハッター」
疑問に答えることはなく、怪人はなれ合いを拒むかのように、やはりアリスの手を取ることを拒絶する。
「正直に言って今日は助かった。だがそれだけだ。同盟を組みたいなら、あんたたちだけでやるんだな」
そうして彼は一人夜の闇に駆け出して姿を消した。この面子の前で魔導を使った演出など無駄だという判断だろう。
「振られたか」
「……仕方ない、ことかしら」
もう一人の怪盗とその相棒は、似たような道を歩む相手の頑なな態度に顔を曇らせた。
...112
月明かりに小瓶を透かす。
瓶の中に浮かんでいる球は黒と言うより銀に輝き、これが恐ろしい邪神の魂などと言われてもそうは見えないに違いない。
脳裏に何度も何度も、アリスの言葉を思い浮かべる。
「マッドハッター……いいえ、フート」
「……大丈夫だ、ムース」
眠り鼠の呼びかけにも彼は首を横に振る。
もう引き返せない道を自分は歩んでいるのだ。今更仲間を得て赦されようなんて――赦されない。
◆◆◆◆◆
近づいて来る人の気配に、彼らは一気に慌てた。まさかこんな場所まで捜索の手が回るとは考えていなかったからこの場所を選んだのだ。
パトカーのサイレンは聞こえない。睡蓮教団の集団的な動きとも違う。
だがただの通行人とも思えず、明確な意志をもってこちらへとやって来る。
「誰か来る」
「――隠れましょう!」
「いえ待って、今ならヴァイス先生がいるから、この場で変装を解けば――」
ちょうどおもちゃ箱のような公園で放り込まれた人形のような格好をしていた怪盗とその相棒は変装を解く。
ネイヴは怪盗ジャックからただの男子高生に、ギネカは料理女からただの女子高生に戻る。二人共こんな時のための早着替え準備は万端らしい。
そして一人ながらやけに強い存在感と共にこの場所に現れたのは――。
「マレク警部?」
「……あら、こんばんは。警部さん」
驚いたことに、姿を現したのは怪盗ジャックの専任、アブヤド=マレク警部だった。
ジャックを追いまわしていたはずなのに、微塵の疲れも見せない。相変わらずの美貌だ。
警察の部下を引き連れてもいない。
一体彼は一人で、何のためにこんな時間にこんな場所へ?
迂闊に問いかければ自分たちも聞き返されるしかない。けれど問わずにもいられない。
いっそ怪盗の犯行を野次馬しに行った帰りだとでも言えばいいだろうか。ヴァイスの自宅もネイヴがジグラード学院ではない他校の生徒であることも知らないマレク警部相手になら通用するかもしれない。
彼らがどう誤魔化すか迷っているうちに、マレク警部はアリスたち一行を見回し、くすりと朱唇を歪めて鮮やかに笑った。
「なるほど、お揃いって訳だな」
「おそろい?」
「面子的に、そこの少年が怪盗ジャックか」
「!」
マレク警部の視線が向いているのはネイヴだった。一同はぎょっとする。
「な、何の話でせう」
「マレク警部……? いきなり何なんですか……?」
美貌の警部はその質問には答えず、穏やかだがどこか凄味のある笑顔で話し出す。
「先程、倉庫街の近くから逃げ出す黒服の男たちを見た。襟元に青い睡蓮模様のピンをつけ、警察から隠れるように動く奴らだ」
「……」
「残念ながら取り押さえることは叶わなかったがな」
忌々しげに舌打ちし、彼は更に続ける。
「怪人マッドハッターと怪盗ジャック、帝都一大事の怪盗対決に睡蓮教団も動いていたという訳か」
「……」
「それで、お前たちは手を組むことにしたのか? 怪人マッドハッターがいないようだが。まさかそこの少女ではないだろう」
「え?」
見つめられたギネカがどきりとする。
「女……そうか、ジャックの相棒なら“料理女”か」
「ええ?!」
一方的にずばずば見抜かれるだけの怪盗一行はもはや何も言えずにただただ驚く。アリスたちにでさえ先程明かしたばかりの正体が、どうしてこんな簡単に暴かれているのか。
「あの……マレク警部。あなたは一体……」
警部が怪盗ジャックと料理女の正体を見抜いただけであれば、さすが専任警部の眼力! で済ませても良いのだが(良くない)、彼は睡蓮教団や、彼らと怪盗たちの敵対関係にまで触れてきた。
これはある程度事情を知っている人間の態度だ。
もはや誤魔化しようもその必要もなさそうだと見てとり、ヴァイスが覚悟を決めて問う。
「あなたも“不思議の国の住人”なのか?」
「その通り、いつも私の知人が世話になっているようだな、“白の騎士”殿」
あっさりと言ってのけるマレク警部に、その場の全員が驚いた。
「現役警部が“不思議の国の住人”?!」
「一応確認するけれど、あなたは睡蓮教団ではなく、教団の敵対者よね」
元関係者とはいえ全ての幹部を知る訳ではないチェシャ猫が真正面から尋ねる。マレク警部が敵であった場合には答えてくれなさそうな質問だ。
「そうだ。むしろ敵対者の筆頭だ。ああ、お前たちとしてはどちらかと言えば敵対者をまとめるおびとは“アリス”の役目だと思っているのだろうな。ならば我々はそのサポートに回ろう」
敵対者。「我々」と名乗るだけの集団。アリスのサポート。知人。
「あなたはまさか……!」
「私は“白の王”」
「睡蓮教団への対抗組織“白の王国”を率いる存在だ」
「あんたがそうなのか!」
あっさりとした告白に、一番驚いたのはヴァイスである。
「……いや待てよ。マレク警部、あんたは今年で三十一だろう? 私が白の王国――ゲルトナーと教団壊滅のために動いたのは十年前だ。十年前から頭領をやっていたにしては、あんたは若すぎる」
「十七歳で犯罪的宗教団体打倒のために活動していた人間が、今更それを言うのか?」
「突っ込んで暴れ回るだけだった私と、後方支援のトップは違うだろう。経済的支援に情報統制、武器調達に公的・私的各機関との連携。二十一歳の若者がそんなことまでやれるはずがないだろう! 白の王が代替わりしたという話は聞いていない」
「そりゃ代替わりしていないからな。そして安心しろ、この先もトップは私だ」
昨日の昼間に博物館の展示室で会った時の物腰とは違い、今のマレク警部は王と呼ばれるにふさわしい偉そうな態度で言ってのけた。
「一言で言えば、私の実年齢は三十一ではない」
「……三十一でも見た目に比べて結構歳いっているんだなと思ったのに」
「だがそういう存在は私だけではないだろう? お前たちはすでに会ったはずだ。十年、それ以上前から少年姿の変わらない美しい悪魔たちに」
アリスたちはハッとする。
“白兎”と“赤騎士”。
アリスが一番初めに出会った不思議の国の住人は、ヴァイスが知る十年前もあの姿だったと言う。
「ってことは、あんたも」
「ふふふふふ。私の実年齢は秘密だ」
「……あんたが年齢を上どころか下に相当サバを読んでいたことだけはわかった」
「ま、私について詳しくはアリオス……今はフュンフ=ゲルトナー、“庭師の5”と名乗っている男に聞け」
マレク警部、改め“白の王”は周囲を見回して何かを確認する。
「ティードルダムとティードルディーが死んだからには、残る幹部でここまでやって来そうなのはハートの王、グリフォン、ニセウミガメ、パット辺りか。まさか白兎と赤騎士は来ていまい。奴らが手を出せば私に完璧に気づかせないか、被害がこんなものでは済まないかのどちらかだ」
「白の王国は教団の幹部全員を把握しているの?」
「そうでもない。だが我々も伊達に長くあいつらと渡り合ってきてはいないからな」
警察の方への報告は適当に上げておこう、とマレク警部は言う。
「一つだけ聞きたい」
黙って話を聞いていたネイヴが口を開く。
「あなたが白の王だと言うのなら、これまでの怪盗ジャックとの戦いは手を抜いていたのか? ハートの女王の敵である“パイ泥棒のジャック”、その存在が教団の敵対者であると気づいたから怪盗を見逃し続けていたのか?」
「ネイヴ……」
もしもそうだとしたら、これまで真剣に勝負しているつもりだったジャックにとってはこの上ない侮辱だ。
ギネカがはらはらと見守る中、マレク警部はこれにもあっさりと答えた。
「安心しろ、そんなことはしていない」
彼は相手のどんな反応にも動揺を見せず、常に自らが一番正しいと確信しているかのような堂々とした態度を貫き通す。
まさしく王と呼ばれる者の威厳。
「私は私で思惑がある。魂の欠片が集合することは私たちにとっても望むところだ。だが、帝都の一刑事でもある私にとって、それが本当に危険な犯罪者なら見逃す道理はない」
白の王は自分の組織の都合のために時に警察をも欺くが、だからと言って他者に害を与える存在を野放しにはしない。
「私たちは、本当の意味では教団の敵対者ではない。ただ、教団がこの世界にとって有害な存在であるから排除する。その理念は帝都の治安を守り犯罪者を取り締まる警察にも通じるものだ」
「……」
マレク警部のことを一応は信じたらしく、ネイヴが複雑な表情ながらも頷く。
それでもまだわからない。
「何故、そんなことを?」
「それは私よりもゲルトナーの方が詳しい話をするだろう」
シャトンの問いに白の王はそう答える。
そしてネイヴ――怪盗ジャックを真正面から見つめると、にやりと不敵に笑ってこう言った。
「そもそも、警察として動いているために自然と活動方法が限定される私に捕まる程度の怪盗なら、打倒教団のために何の役にも立たないしな」
「なっ……!」
「お前はせいぜい逃げ続けろ。刑事としての私に捕まるくらいなら、所詮はその程度。そうならないようにこちらも祈りつつ全力で相手をしてやる」
ネイヴは憤慨し、ギネカは双方に呆れ、アリスたちは呆然としていた。
マレク警部は一同に艶やかな笑みを向けると、来た時同様、堂々とした態度でこの場を去る。
少し話をしただけだと言うのに、一同の肩にこれまでの疲れがどっとのしかかってきた。
「なぁ、これで全部話は終わった……のか?」
「どうだろうな……」
怪盗たちの事情と戦闘を差し引いても、酷く疲れる一日だったことだけは確かだ。
...113
翌日の放課後、色々なことを確認しに一同揃ってゲルトナーの研究室を訪問すると、彼は白の王ことマレク警部の話を聞くなり爆笑し始めた。
「そんなこと言ってたの? いやー、あの方も相変わらずだわー」
「えーと……」
本人と疑うとかもはやそういう問題ではなくなってきた。
「しかし、驚いたよ。マギラスさんが“料理女”だったなんて」
「隠していてすみません」
ギネカは彼らにコードネームのことを黙っていたことは謝るが、怪盗の相棒であること自体を謝ることは一度もない。それが彼女の信念なのだろう。
「いやいや。そういう事情なら仕方ない。相手がうちの学院の生徒じゃなく別の学校に通っている君の幼馴染となると、僕らからしたらちょっと遠いしね」
身内切りと言うのも少し違うが、自分たちの安全のために彼らがジャックを売ることを考えると、簡単に話せないのは当然だと言う。
「そもそもギネカがゲルトナー先生のことを知ったのってついこの前だもんな」
「うんうん、そんな簡単に信用できないのは当然だよね。でもこれで大分面子が揃って来たな」
アリスが現れ、これまでバラバラに動いていた怪盗たちと接触し。
「ペタルダが言ってたのはこのことだったのか」
「?」
ゲルトナーは先日会った仲間の一人に、エラフィ誘拐事件の時に動いていたギネカ始め他の生徒たちにもコードネームがあるはずだと指摘されたことを思い出す。
「あと残るは……」
「フュンフ=ゲルトナー」
ヴァイスが改めて問いかける。
「そろそろ、お前たち白の王国について聞かせろ。私は十年も前からお前たちと協力しているのに、お前たちについて何も知らない」
「……十年前は、窓口である僕以外の存在なんか気にしていなかったよね、ルイツァーリ」
十年前はそれでも良かった。でも今度はそうもいかない。
「今回は私の生徒たちの安全もかかっているんだ。適当にしておくわけには行かないだろう」
アリスが、ギネカが、シャトンがヴァイスを注視する。
「君も十年で大人になったなぁ」
「爺臭いことを言うな。いくつなんだお前」
「実年齢は秘密です」
「マレク警部と同じこと言ってる……」
その言葉にもゲルトナーはやはりからからと笑う。
「秘密って言うか、正直もう覚えてないんだよねー。生年月日から一度計算し直さなきゃ正確な数字が出て来ない」
「そんな爺ちゃん婆ちゃんみたいな……」
「君のおじいさんおばあさんより僕らは遥かに年上だよ」
明らかに人の身の常識を超えたことを口にする。庭師の5のコードネームを持つ男は、彼らの知らぬ顔でそれを言い聞かせた。
「僕も、陛下……マレク警部も、人よりずっとずっと長く生きているんだよ」
「……ゲルトナー」
この先に話されるのは恐ろしいことだ。ヴァイスはそう直感した。
けれどアリスは、その先へと踏み込む。
「長くって、どれくらい?」
「黒い流れ星の神話が生まれる前まで」
「神話が?」
創世の神話程とは言わない。だが今の表向き平和な時代が訪れる前――各地に魔獣と呼ばれる生き物が跋扈し、それを倒す勇者たちが活躍していた剣と魔法の動乱時代があった。
その切欠が黒い流星の神話に語られる出来事。
邪神の魂が創造の魔術師の手に寄って無数の欠片となって世界中に散らばったというお伽噺。
「僕らはある意味、この問題の当事者だ。背徳神を止めるために自らに呪いをかけ魂を引き裂いたお師様を止めることができなかった」
お師様、とゲルトナーが口にする人物が誰なのかは、この神話を最近繰り返し聞かされたアリスたちにも察しがつく。
けれど、あまりに途方もない時間の長さと話の壮大さに実感が湧かない。
「その師匠は――」
「創造の魔術師……辰砂」
フュンフ=ゲルトナー。本当の名前は恐らくマレク警部に呼ばれていた“アリオス”と言うのだろう男は告げた。
「僕は“辰砂の弟子”だ。その頃から“神の眷属”として、ずっとこの姿で生きている」
ヴァイスがやや呆然としたまま呟く。
「……ただの気合い入れた若作りじゃなかったのか」
「最近のアンチエイジングは凄いけど僕はやってません。と言うか僕をなんだと思っているんだい、ルイツァーリ」
軽口にも勢いがない。
何百年もこの学院にいる妖怪だと噂のあるゲルトナー。それが事実だと、一体誰が思うだろうか。
「僕は彼の弟子として、師匠である辰砂を復活させたいんだよ」
「睡蓮教団が背徳神を復活させたいように?」
「同じように聞こえるだろうけど、ちょっと違うよ。僕らは教団のように神の力を利用するつもりなんてない。ただ自分の大事な人に……お師様に生き返って欲しいだけだよ」
「――」
それはどんなに装飾された言葉で語られる理由も届かない、簡素故に痛切な祈り。
「邪神となったグラスヴェリア様が暴走した時、お師様は止めに行っちゃったんだよね。……君たちも創世記の神話は読んだだろう? 辰砂は背徳神と手を組んで神々に反旗を翻した。あの人は元々背徳神の民だからさ」
辰砂はともかく、その三人の弟子たちは背徳神と直接面識はないらしい。彼らが生まれる以前より背徳神は過去に犯した罪のため常闇の牢獄と呼ばれる異次元に閉じこもっていたので。
その常闇の牢獄は、今は“影の国”と呼ばれ地上を追われた魔族の住む世界となっているらしい。
「なんで辰砂は背徳神を止めに行ったの?」
ゲルトナーにとっては背徳神などどうでもいい。彼が取り戻したいのは、あくまでも辰砂という存在だ。
背徳神の民なら尚更、崇める神の成すことを止める理由はないのでは?
「君ならどうする? アリス。自分の大事な人が狂気に呑まれて世界を壊すなんてとんでもないことをしようとしているのに、それを黙って見ているの?」
邪神が世界を滅ぼそうとしたのは、狂気による暴走故のことらしい。それが彼の本意でないことは、彼の民である辰砂が誰より知っていた。
だから彼は――。
「俺は――」
もしも自分だったら。その状況だったら。
「俺は……止めに行く」
そんな悲しいことはさせたくないと。
「お師様もそうだった。だから僕たちは彼を引きとめられなかった。それにあの人は言った。例え砕け散った魂の破片が降り注ぎ世界中に魔物が跋扈する世界になったとしても、人の中からそれを救う者が現れると」
創造の魔術師は、人の身を超えた魔導士だと伝えられている。
「勇者は必ず立ち上がる。人はそれ程弱くない」
それでも彼は人間なのだ。
「僕らは神に縋らずとも本当は生きていける。それでも神を信じるのは、ただ、神を愛して寄り添いあうだけなのだと」
「それが背徳神の教え?」
「わからない。僕がお師様の弟子になった頃には、もう背徳神様は狂ってしまっていたからね。グラスヴェリアの正しい教えを知るのは、今はまだここにいないお師様だけさ」
弟子たちを悲しませることになると知っていて、辰砂は行ってしまった。
彼にとって本当に守りたいものを守るために。
「そして陛下、後に白の王と呼ばれることになる方が言ったのさ。砕け散ったならばその欠片を集めればいいと」
ゲルトナーは目を閉じてその時を思い出す。
――辰砂の欠片自体は地上に全て存在するのだろう。一欠けら足りずとも辰砂でないと言うのならば、一欠けらも零さず集めればいい。
そして自分と同じく辰砂の弟子である男が言った。
――彼がこの広い世界の中から俺たちを見つけてくれたように、今度はこの世界の中から、無数の欠片となって散らばった彼を俺たちが見つけよう。
あまりにも遠い日の、けれど色褪せない誓いだ。
「……」
「睡蓮教団との敵対関係はその一環だ。彼らは背徳神をあまりにも自分にとって都合のいい存在として捉え利用しようとしている。捨て置くわけにはいかないね」
教団の力が大きくなるのを見越して対抗するためにマレクは“白の王国”を作ったのだと言う。
「睡蓮教団の一部の幹部連中は、以前“赤の王国”を名乗る組織だったんだ」
「ん?」
「教団の関連組織だよ。誰が最初にそんなことを言いだしたのかはわからないけどね。けれどいつの間にか、無害なはずの“赤の王国”が教団そのものになった」
「だからゲルトナー先生たちは白の王国?」
「そういうこと」
長い長い神話を超えて、やっと話が現代に戻ってきた。
「俺たちも教団を追ってはいたけど、いまいち決め手がなくてね。それに最近になって怪盗ジャックやマッドハッターのような新勢力が現れた。それらの関係者たちをどうするかも悩みどころだった。そこに」
ゲルトナーはアリスを見つめる。
「アリス。君が現れた」
彼はこの地上で、睡蓮教団と白の王国の戦いに決着をつけるための鍵となる存在だ。
皆が待ち望んだ主人公、物語を終わらせる存在として。
「君には期待しているよ、アリス」
アリスが背負うものは、自分自身で思うより重いのかもしれない。
...114
一通り組織の事情を説明し、更にゲルトナーの話は対教団への方針へと続く。
「この十年で睡蓮教団も力を蓄えたけれど、その分教団への敵対者も増えた」
ヴァイスが教団を壊滅寸前まで追い込んでから十年。
向こうは隙のない組織になったが、こちらも十分に力を蓄えた。白の王であるマレク警部が警察に入ったのもその一環らしい。
「けれど、アリスが現れるまでは教団の敵対者たちにはまとまりがなく統率者がいなかった。マッドハッターのことは残念だけれど、アリスのおかげで怪盗ジャックと手を組めたのは大きいと思うよ」
そこでようやく不思議の国の住人――コードネーム“料理女”として正体を明かして正式に仲間入りしたギネカが口を挟む。
「教団への対抗に関しては、敵対者同士で仲間を集めたいと言うのもありますが、もう一つ大きな問題が」
「そうだね」
ギネカの言葉をわかっていたようにゲルトナーは頷く。
「ハンプティ・ダンプティ」
「……!」
現在世間を騒がせている連続殺人鬼の名に、アリスたちも表情を引き締める。
「彼はやりすぎだ。自らが不思議の国の住人であることを名乗りながら、睡蓮教団の人間を次々に殺害していっている」
いくら相手も犯罪者とはいえ、あまりに容赦のないやり口。それにこんなやり方をしていては、いつか教団や白の王国に限らず不思議の国の住人の存在が本当の意味で明るみに出てしまう。
それは教団だけでなく、白の王国にとっても避けたい事態だ。
「ルイツァーリ、君の友人のエールーカ探偵は犯人を見つけ出せないのか?」
「今捜査中だ。難航しているらしい」
ヴェルムがまた無理をしているのではないかと、エラフィがさりげなく心配していた。
アリスの存在が怪盗ジャックと料理女を良い意味で動かしたと言うなら、悪い意味で動かしているのはハンプティ・ダンプティと名乗る連続殺人鬼。
「ハンプティ・ダンプティの存在を警戒し、教団側の動きも過激になっているようだ」
「仲間が次々に殺されてるんじゃ、向こうも犯人を見つけない訳には行かないだろうからな」
「それが情か面子の問題かは置いておいてもね」
教団自体が関係者を口封じに何度も殺す場面を見てきたというゲルトナーは深い溜息を吐く。
「教団が敵対者を全てハンプティ・ダンプティと同じように見なし攻撃を仕掛けて来るのも厄介ね」
最近教団から怪盗たちへの攻撃が激しくなった。ジャックとマッドハッターが力をつけてきたということでもあるが、それだけでなくハンプティ・ダンプティの存在も恐らく教団の過激な行動の理由の一つだろう。
「他に教団の敵対者っているのか?」
「僕ら白の王国にも君たち『アリス』にも属していないと言えば、姿なき情報屋“ジャバウォック”がいるね」
「あー、そう言えばあいつがいたか。なんか毎回色々教えてくれる……」
「毎回?」
「今回も、ジャックに会いたいならここに行けって教えてくれたよ」
「へぇ……!」
これにはゲルトナーさえも、純粋に驚いた顔になる。
“ジャバウォック”に関しては、“ハンプティ・ダンプティ”と同じく白の王国でもその存在を影も形も掴めていない存在なのだ。
「そういえばアリス、よくジャックとマッドハッターの居場所がわかったわねって、思ってたんだけど」
ジャックは自分からアリスを訪ねる予定だったので、マッドハッターとかち合ったあの場所をアリスが知っていたはずがない。
それをギネカはずっと不思議に思っていたらしい。
「前回と同じだよ。って、前回マッドハッターに会いに行ったときはギネカはいなかったんだっけ」
段々と混乱してくる頭を整理してアリスは告げる。
「ジャバウォックが教えてくれたんだ」
「直接ジャバウォックと話したの?」
「ううん。教えてくれたのはテラスだよ。ジャバウォックからこんな連絡が入ったよって」
テラスはモンストルム警部の息子だから、その縁で警察の情報を他人よりもよく知っているのだろう。アリスはそんな風に単純に考えていたが。
「嘘。そんな連絡入ってない」
「へ?」
「私はネイヴのサポートで警察の動きを盗聴器やネイヴの仕掛けたカメラを使って見張ってたわ。でも警察にそんな連絡入ってないわよ」
「結構がっつりジャックの仕事に噛んでるんだなギネカ……」
友人が予想以上に有能な怪盗助手であることに驚嘆しつつ、アリスはそこから導き出される疑問に首を捻った。
「でも。じゃあなんで……」
何故テラスは、そんなことを知っていたのだろう? 彼は一体どこでジャバウォックの情報を聞いたのか?
「そのテラス君って、モンストルム警部の息子さんなんだっけ」
ゲルトナーがテラスの名に興味を示す。
「ああ。うん。まだ小等部だからゲルトナー先生の授業は受けてないけど、うちの学年の名物天才児」
「噂は聞いたことがあるけれど……」
ゲルトナーはテラスについて、何か考え込んでいる様子だ。
「なるほどね。その可能性があったか」
「?」
「まぁ、ジャバウォックはハンプティ・ダンプティと違って放っておいても害はないだろう。マッドハッター嫌いとは言っても、モンストルム警部をけしかけてからかってるくらいだろうし」
「からかってる……」
毎回情報屋のタレこみで窮地に陥っているらしいマッドハッターの、自分とジャックの扱いの違いに言及する悲しい姿を思い出しアリスは複雑な顔になる。
「全知全能の情報屋が本気で怪盗たちの情報をリークしていたら、二人共とっくに潰されているよ」
「……確かに、ネイヴもジャバウォックの情報通は怖いくらいだって言ってますけど」
ギネカも複雑な顔になる。
「それよりも今はハンプティ・ダンプティだね」
「あ、そうだ」
この話の流れで一つ思いつき、アリスは揚々と提案した。
「もしもジャバウォックが俺たちに協力してくれるなら、ハンプティ・ダンプティのことも教えてもらったらどうかな!」
怪盗の素性を知るぐらいなら、殺人鬼の正体についても調べているのではないか。そう考えたのだが。
「とてもいい案ね、アリス。それで、一方的に助言してくるジャバウォックにどうやって連絡をとるの?」
「う」
シャトンに冷静なツッコミを入れられる。
「……やっぱりジャックじゃないけど、正体を知ってる知らないは大きいな」
「正体は聞かないからメールアドレスだけ教えてください、って訳にも行かないものね」
意外と応えてくれる可能性もあるかもしれないが。
「まぁ、振出しに戻っただけだよ。それにジャバウォックがハンプティ・ダンプティを警察に突き出すつもりなら、もうとっくに動いているんじゃないかな」
「ハンプティ・ダンプティの正体はジャバウォックでも知らないのだろうか?」
ヴァイスが腕を組んで唸る。
「……あるいは、ジャバウォックはハンプティ・ダンプティを警察に捕まえさせる気がないのか……」
ゲルトナーの意味深な言葉に、周囲が一斉に驚きを見せた。
「え? なんでそんなこと」
「ただの可能性だ。ジャバウォックがハンプティ・ダンプティの正体を知らないとも限らないだろう?」
しかしもしもジャバウォックがハンプティ・ダンプティの正体を知っていたとしたら、その情報を警察に流さない理由がわからない。
「ま、何はともあれ、こうして仲間が増えたのはめでたいことだ」
これからも頑張っていこうというゲルトナーの台詞で、その日を終えた。
◆◆◆◆◆
「まさか君たちが揃って失敗するなんてねぇ」
「……申し訳ございません、女王陛下」
睡蓮教団は根拠地の一室で顔を突き合わせ、今回の仕事に関する反省とこれからの方針を定める会議を開いていた。
ハートの女王は失敗した部下たちを咎めるでもなく、むしろ驚嘆した様子で報告を耳に入れる。
「かまわない……と言うのは何だが、僕はむしろ、君たち三人に対抗するその勢力に脅威を感じるよ」
グリフォン、ニセウミガメ、そしてハートの王。
ハートの女王の腹心が揃いも揃って、二人の怪盗とその仲間に振り回され目的を果たすことが敵わないとは。
「ハンプティ・ダンプティの横槍が入ったとはいえ、ティードルダムとティードルディーがマッドハッターの処理に手古摺ったのも当然だったわけか」
目障りとは言えただの平和な盗人如き、教団が本気になればいつでも潰せると考えていた。
しかしこれからはそうも行かないらしい。
「汚名返上のチャンスを下さい、女王陛下」
「だーめ」
「セールツェ様!」
嘆願するハートの王に、女王陛下は子どものような口調で却下を告げる。
「貴重な戦力である君たちを勝てない勝負に無謀に突っ込ませるほど、僕は無能じゃないよ。――今度からは全員で、潰せるところから確実に潰そう」
女王が直々に作戦の指揮を執るということだ。部下の三人はハッと顔を引き締める。
「どこから潰すのです? あの怪盗たちを探しますか?」
「いや、優先順位はハンプティ・ダンプティだ」
「何故ですか。奴はティードルダムとティードルディーを殺した程の手練れ」
「だが、恐らく単独で動いている」
「!」
相棒を持ち、他者と手を組んだ怪盗たちと違って、殺人鬼は常に孤独だ。
「それなりの規模を持つ組織なら僕らの耳に情報が入って来ないはずがない。奴は個人だ。それも怪盗たちと違って、いざと言う時の後ろ盾を持たない」
「後ろ盾?」
「盗んだ美術品をその場で返してしまうこともある変装の達人ならばいざとなれば一般市民を装って警察に泣きつけるだろうが、その体に返り血をつけた殺人鬼はどうかな?」
教団の敵対者とは言うものの、その手を血に染めているという意味では、ハンプティ・ダンプティは怪盗たちよりも闇に近い存在だ。
「……ハンプティ・ダンプティの正体に関して何か掴めたのですか?」
「赤騎士の報告に気になることがあってね」
「赤騎士の?」
「奴の潜入先に、教団と因縁のある人物がいたんだってさ」
「!」
「まずは殺人鬼ハンプティ・ダンプティの処理をする。怪盗とその仲間は後回しだ」
そして最後には、教団が勝つ。誰彼かまわず首をお斬りと命じるハートの女王は、そう断言した。




