18.料理女の選択
...103
日曜の夜、ニュースではハンプティ・ダンプティによる新たな殺人事件の報道がされている。
しかし本日の多くの帝都民の興味は殺人犯よりも、怪盗二人の競演にあった。
民衆は熱狂する。
その熱狂の裏側で流される、どこかの誰かの血と涙には気付かないまま。
◆◆◆◆◆
怪盗ジャックは律儀に予告時間を先に出された怪人マッドハッターの都合に合わせたので、その日帝国立博物館には同じ時間に二人の怪盗が姿を現すことになった。
これまでも帝都の二大怪盗として名を挙げられていた二人だが、実際にこうして同じ場所に並ぶのは初めてだ。
駅の時計台の針が午後十時を打ち鳴らすと同時に、二人は帝国立博物館の屋上へと姿を現した。
示し合わせたように屋上の二カ所で小さな爆発が上がり、その煙の中から黒いマントにシルクハットの怪人と、白い騎士服の怪盗が登場する。
そして次の瞬間、空に派手な花火が次々と打ち上がった。
「……なぁ、シャトン。これどっちだと思う?」
「ジャックでしょう。あの人、怪人マッドハッターを使って何かするつもりらしいし」
アリスとシャトン、そしてヴァイスの三人はいつの間にかマンションに届けられていた怪盗ジャックの手紙により、今日の彼らの犯行を見に来ていた。
藍色の夜空に色とりどりの光の花が咲き、人々の目を惹く。
屋上では二人の怪盗が睨み合っている。どちらも余裕の態度は崩しはしない。
今回の盗みは怪盗ジャックから怪人マッドハッターへの挑戦状だと言われている。
果たしてどちらの怪盗が勝つのか。民衆の興味はそこに向けられていた。
◆◆◆◆◆
突然の花火に度肝を抜かれたのは、観衆だけでなくマッドハッターも同じだった。
自分が博物館の屋上に出現したのと同時刻、怪盗ジャックもまた姿を現す。その瞬間、色とりどりの花火が一斉に打ち上がったのだ。
人々の目は全て、夜空に浮かぶ鮮やかな火の芸術に釘づけになっている。
展示場の中では警部たちが苦虫を噛み潰したような顔をして怪盗を捕らえようと動き出しているに違いない。
「御機嫌よう“帽子屋”殿」
「……“パイ泥棒のジャック”」
まったくご機嫌よろしくないマッドハッターは、仮面の下で頬を引きつらせる。
二人は怪盗としての通称ではなく、不思議の国の住人としてのコードネームで呼び合った。
「お前の目的は一体なんだ? わざわざ人の仕事に横槍入れてきやがって、俺に何の用がある」
観衆や警察の前でならともかく、同じ穴の貉の前でまで怪盗としての態度を取り繕う必要性は感じない。マッドハッターはほとんど素の口調に戻って問いかけた。
彼は前回のエラフィ誘拐事件の時、ヴェルムやアリスたちを手助けしてくれたと言う。
恐らく自分と同じように、睡蓮教団の敵対者として理由あって怪盗をしている人間だ。本物の悪人ではないだろうと思うのだが……。
「君を交えてぜひとも話をしたい相手がいましてね。同盟の提案をされたでしょう?」
「……コードネーム“アリス”」
「そう。我らが待ち望みし女王が、ついに現れた」
前回の事件で顔を合わせたと聞いた。
――それはつまり、アリスの事情がジャックにバレているということだったのか。
複雑な心境になりながら、マッドハッターは決めていた通りの言葉を返した。
「俺は他の誰かと手を組む気はない」
アリスたちにそう言ったように、“帽子屋”は再び申し出を拒絶する。
「自分の目的は自分で果たす」
誰の力も借りない。巻き込めない。そんなことができるはずがない。
「そうか。だが……」
「マッドハッター!」
給水タンクの下から呼ばれ、怪人は馴染みの警部を振り返った。
「貴様の悪事もこれまでだ! 怪盗ジャック共々、今日こそお縄にしてやる!」
怪人マッドハッター専任、コルウス=モンストルム警部だ。彼とその部下だけがこの屋上にやって来たと言うことは、恐らく怪盗ジャック専任のマレク警部は展示場だろう。
「おや、警察の皆様が御到着だ」
「無駄話をしている時間はないようだな」
怪盗が二人して盗みを放り出し話し込んでいるのも不自然だ。舞台も整ったことだし、と、ジャックとマッドハッターはついに動き出した。
◆◆◆◆◆
「しかし、今回は何故こんな時間なのだろうな」
帝都警察の捜査一課は、再び引き起こされたハンプティ・ダンプティの殺人事件の捜査に追われていた。
先週に一度犯行が途切れたのはなんだったのか。今週は週頭の日曜から犠牲者が出てしまった。
だが、不思議なのは検死により判明した被害者の死亡時刻だった。
ハンプティ・ダンプティの犯行はこれまでずっと真夜中に行われていたのに、今回は真昼間だ。
目撃者や犯人の手掛かりがないこと、現場にマザーグースの記されたカードが置かれていることは同じだが。
「と言っても、やっこさんには毎回律儀に形式を揃えて殺人をする目的なんかないんじゃないか? 以前はほら、一度に二人が殺されたし」
一晩に二人の死体、犯行が止んだ謎の数日、これまでと異なる犯行時刻。
ハンプティ・ダンプティはどういった思惑で動いているのか?
それとも世間が連続殺人鬼の犯行形式に推理小説のような演出や美学を求めているだけで、殺人鬼本人にはそのような思惑は一切ないのか?
これらの事情に関しては、帝都で名探偵と謳われるヴェルムを交えてさえ、いまだ答の出ない問いだった。
「エールーカ探偵、どう思う?」
「……今日、帝都では何がありましたっけ?」
「何、とは」
ヴェルムの曖昧な問いに、イスプラクトル警部は意図を計りかねる。
「今日と言えばあれですね、確か怪人マッドハッターと怪盗ジャックの対決があります」
若い刑事の一人が、警部と探偵の会話に口を挟んだ。ヴェルムはその答を待っていたと頷く。
「ハンプティ・ダンプティが何を優先し、どんな意図でこの連続殺人を引き起こしているのか、その思惑はまだわかりません。けれど彼の犯行の大部分にはこれまでも一定の法則性が見られる。ならばそれが崩れる時は、その法則性より更に優先される要因が潜んでいると考えられます」
「優先?」
「ええ」
「つまり今日は、怪盗二人の犯行があるからハンプティ・ダンプティの犯行時刻がずれたと?」
「その可能性はあります」
口にした若い刑事も周囲で聞いていた者たちも、呆気にとられた顔になる。
「でも、何故怪盗が盗みを働くと殺人の時間がずれこむのですか? まさかハンプティ・ダンプティもマッドハッターとジャックの犯行を野次馬に行きたかったとか?」
「それに関しては……まだ俺も根拠と言えるだけのものを固めていないので詳しくは話せません」
「そんな……ここまで来たらちょっとしたヒントだけでもー」
「やめろ」
若い刑事が食い下がるのを、イスプラクトル警部が止めた。
「どこでマスコミが嗅ぎつけてくるかもわからん。確実なことがわかるまで下手なことは言うな。俺たちもだ」
「わ、わかりました」
本日こそ怪盗の犯行が目晦ましになっているが、世間は一向に解決の様子を見せない連続殺人事件にぴりぴりしているのだ。現場には一刻も早い解決が求められている。
指揮を執るイスプラクトル警部の姿を眺めながら、ヴェルムはあることを考えていた。
ハンプティ・ダンプティはその名の通り不思議の国の住人。ならば先程の若い刑事が冗談として口にした通り、今日の犯行時刻がいつもと違ったのは、怪盗二人が顔を合わせるその時をハンプティ・ダンプティも待っていたからなのかも知れない。
怪盗に探偵、そして殺人鬼。自分たちは立場こそまるで違うものの、睡蓮教団の敵対者という大枠の括りは同じだ。
ハンプティ・ダンプティの目的が睡蓮教団への復讐ならば、教団や不思議の国の住人に関することがあればそちらを優先してもおかしくはない。
以前二人同時に死体が上がった時。殺された二人は怪人マッドハッターと因縁のある睡蓮教団員だと、直接彼らと対峙したアリスたちが教えてくれた。
そして犯行のなかった先週。
先週あった睡蓮教団絡みの出来事――それは、他でもないヴェルム自身が周囲を巻き込んだ、エラフィ誘拐事件。
「まさか」
ヴェルムは小さく呟く。不安を体の外側に吐きだしたい。けれど口にした言葉は、その想いとは裏腹にヴェルム自身をも刺すような痛みを伴った。
「まさか――」
ハンプティ・ダンプティの正体は――……。
...104
帝国立博物館の宝石展示室。マッドハッターとジャックの獲物である『女神に捧ぐ首飾り』だけが今は堂々とその中央の特別ケースに展示されている。
どちらの怪盗も下見は昨日のうちに済ませている。
怪人マッドハッターにわからないのは、怪盗ジャックの出方ぐらいのものだ。
広々とした展示室も今は閉館。客もいなければ警察も、首飾りの持ち主もいない。
どう考えても罠だ。だが飛び込まなければ宝石は手に入らない。
マッドハッターもジャックも身体能力の高さに任せて屋上のモンストルム警部たちを振り切り、ここまでやってきた。
東の入り口からマッドハッターが、西からジャックがそれぞれ展示場の中に入る。
二人の怪盗が展示ケースに駆け寄ろうとした時。
「そこまでだ!」
「これはマレク警部。お姿が見えないと思っていたら、こんなところにいらっしゃったのですか」
怪盗ジャック専任、アブヤド=マレク警部が怪盗たちの退路を塞ぐようにやってきた。
両方の扉を部下に守らせ、自らは怪盗たちのいる展示ケースに駆け寄ってくる。
「さすがにお前もこの特殊な展示ケースの中には手が出せまい」
「強化硝子のケースに、頭上には鉄の檻。それも高圧電流が流されているとなれば、確かに生半な怪盗には手が出せないでしょうね」
白い騎士服の怪盗ジャックが、芝居がかった演技で頷く。マレク警部は早速警備システムの全てを読まれていることに眉を潜めた。
そして怪盗はすぐに顔を上げるとこう言った。
「だがあなたは一つ、重要なことをお忘れだ」
仮面に隠されていない唇が鮮やかな笑みを刷く。
「私は怪盗なのですよ? 不可能を可能にして見せる」
「ふざけたことを……!」
「ふざけてなどおりません。――ほら」
ジャックは彼らの前で握った手をくるりと回し、再び開く。
その白い手袋の上には、豪奢な宝石の首飾りが乗せられていた。
「何?!」
慌てて警部がケースの方を見ると、展示ケースの中は跡形もなくなっている。
咄嗟に展示ケースに飛びつこうとする部下を、マレク警部は引き留めた。
「迂闊に触るな!」
「ですが警部!」
「仕掛けを忘れたのか? これは奴の罠だ」
警備システムが解除されていなければ、上から振ってくる鉄の檻に閉じ込められてしまう。
「さすがにここで引っかかってくれるような方ではありませんでしたね」
「警察を馬鹿にするのも大概にしろよ、この盗人が」
微笑む怪盗を、警部は強く睨み付ける。
「ベルメリオン=ツィノーバーロートの最高傑作『女神に捧ぐ首飾り』は、確かにこの怪盗ジャックが――」
ピシッ
長い口上をジャックが言い終える前に、黒い鞭の軌跡と共に、黒いマントが月光を遮るように翻った。
マッドハッターは一瞬の隙に、怪盗ジャックの手元から、その首飾りを奪い取る。
「油断大敵。気を抜きましたね、怪盗ジャック」
「マッドハッター!」
マレク警部がもう一人の怪盗へと視線を向ける。その頃にはもうマッドハッターは身軽に飛び上がり、吹き抜け二階部分の通路へと着地している。
彼が選んだ舞台は大きな窓の前。
「この首飾りはもともと私の獲物。確かに頂いて行きます」
窓の外の月を背に、黒い怪人が挨拶を告げる。
「それでは皆様、今宵はこれにて閉幕」
「待て! 首飾りを返せ!」
もちろんその制止を怪盗が聞くはずもない。
マッドハッターは扉ではなく窓をぶち破って博物館の外に脱出し、怪盗ジャックもその混乱に乗じて姿を消す。
「警部!」
「三手に分かれろ! A班は私と怪人マッドハッターを、B班は怪盗ジャックを追え! C班は念のためここに残って怪盗が戻ってこないか見張れ!」
「了解!」
制服警官たちが警部の指示に頷き、A班B班はそれぞれ怪盗を追って飛び出していく。
残されたC班は、手分けしていくつかの進入路を見張った。
「気を抜くなよ! もしかしたら一度逃げた怪盗がまた戻ってくるかもしれない!」
「ああ」
「……? 待て、そう言えば怪人マッドハッターはあの窓から逃げたが、怪盗ジャックはどこからこの部屋を脱出したんだ?」
「どこって……」
二つの入り口は警官たちが守っていたのだ。だからマッドハッターも窓を破った。
しかし割られた窓は一つだけ。ではジャックはどこからこの展示場を脱出したのか?
「さすがマレク警部、ぬかりがないな」
「!」
ジャックの感嘆するような声が聞こえた。そう思った瞬間に、展示場に残ったC班はばたばたとその場に昏倒する。
室内から逃げて姿を消したように見せかけて、実は天井に張りつくような形で姿を隠していたジャックが身軽く降りてくる。
警察を昏倒させたのは、前回エラフィ誘拐事件でアリスたちを救うために睡蓮教団の戦闘員を眠らせたのと同じ薬だ。
そして彼は下準備の段階で調べた通りの方法で、正式に展示ケースを開く。
中には、きちんと「本物」の『女神に捧ぐ首飾り』が収められていた。
展示ケースの中から宝石が消えたように見せかけたのは目晦ましだ。最初から宝石は消えてなどいなかった。
怪盗ジャックが警部たちに見せたのは、模造品。
そしてここまで計画が上手く行ったのは、同じ怪盗であるマッドハッターがその模造品をジャックから奪って逃げてくれたからだった。怪盗二人が奪い合う宝石が偽物であるはずがないと、警察に先入観を与えてケースのチェックを甘くさせる。
こうして、怪盗ジャックは狙い通り本物の首飾りを手に入れた。
展示室にモンストルム警部の声が近づいて来る。屋上で撒かれた彼らもようやくここまで追いついてきたのだ。
もうここに用はない。自分の専任ではないとはいえ、警部に捕まる前に逃げるとしよう。
「それに、ここからが本番だ」
◆◆◆◆◆
犯行現場の博物館から離れた、うら寂しい倉庫街。
古びた箱があちこちに詰まれた倉庫の中で、怪人マッドハッターは怪盗ジャックを待ち構えていた。
「本物の首飾りを渡してもらおうか」
「やはり気づいていたのか」
「当然」
舐めてもらっては困る。マッドハッターとて、この一年帝都を騒がせつづけた怪盗だ。
怪盗ジャックが手にした首飾りが模造品であることも、その思惑にもすぐに気づいた。
ジャックがマッドハッターを利用したように、マッドハッターもまた、ジャックを利用して宝石を手に入れようとしている。
「よくも人を使ってくれやがって」
「だが、お互いの仕事は上手くいっただろう?」
二人の怪盗に、二人の警部は翻弄された。彼らとしてはジャックがマッドハッターに挑戦状を叩き付けた形となるこの事件で、マッドハッターがジャックの誘いに乗るとは考えていなかったのだ。
偽物を掴まされたマッドハッターは同時にジャックの体に小さな発信機を取り付けていた。それさえあれば逃走中のジャックの居場所を追うこともできる。
警察を撒いてからジャックの動きを確認し、この倉庫を目指しているのを知って待ち構えることにした。
ジャックの方もマッドハッターの動きには気づいていたらしく、その姿を見ても動揺の一つも見せない。
一体何を目的としているのか? わからないことだらけのマッドハッターは、ただただ不審を覚えるばかりだ。
「何のためにこんな真似を」
「先程の話を覚えていますか?」
帝国立博物館の屋上で、花火の騒音に紛れながらしていた話のことだ。あの時は駆けつけた警察に中断させられてしまったが――……。
『マッドハッター!』
通信から眠り鼠の声が届く。この場所に人が近づいているという報告に、マッドハッターは一瞬で臨戦態勢を整えた。
倉庫の入り口が音を立てて軋む。
けれど開かれたその隙間から見えた小さな影に、すぐに警戒を解いた。
「んしょ」
あどけない声が聞こえ、細く開いた扉の隙間から見知った姿が滑り込んでくる。
「アリス」
「よ。来てやったぞ。怪盗ジャック」
二人の怪盗の前に、コードネーム“アリス”が現れた。
...105
高い位置にある小さな窓から頼りない月の光だけが差し込む薄暗い倉庫の中。
見知った顔の突然の登場にマッドハッターが驚いている間に、怪盗ジャックがアリスと会話を始めていた。
「おや、いらっしゃいましたかアリス」
「俺を呼んだのはお前だろ、怪盗ジャック」
「確かにそうですが、こんなに早く、こんな場所まで来て頂けるとはね。……どうやって突き止めたのです?」
ジャックはアリスがここまでやってきたことにそれ程驚いている様子はない。けれど不思議に思っているのは確かなようで、まずはそれを尋ねる。
「ジャバウォックって奴からのヒントだって」
「“姿なき情報屋”……!」
名の通った不思議の国の住人でありながら、誰もその姿を知らない謎の存在。
年齢も性別もどのような組織に所属しているのかもまったくわからない。マッドハッターやジャックのような仮面を身に着けた姿すら人前には現さない。
実はジャバウォックとは実体を持たないデータ上の存在ではないか、複数人が作り上げたネットワークの名前ではないかとまで疑われる、完全に正体不明の人物。
怪人マッドハッターは、これまで何度もジャバウォックに仕事を邪魔されている。
情報屋がマッドハッターに何の恨みを持つかわからないが、事あるごとに警察にマッドハッターが不利になる情報を流しているのだ。
一方、怪盗ジャックの方は。
「私も彼とは電話越しに幾度か話をしたものですが、あなたはそれ以上に気にいられているようですね」
「ええ?!」
驚くマッドハッターを横目に、ジャックは自分と情報屋の付き合いを簡単に説明する。
同じ怪盗であるにもかかわらず、情報屋ジャバウォックは怪盗ジャックには好意的なのだ。これまでも幾度か有利になる情報を流してもらったのだと言う。
「この差は一体何……?」
「え……ジャバウォックとか言う奴に何かやったの? マッドハッター」
「何もしてないぞ!」
妙な嫌疑をかけられそうになったマッドハッターは、思わずいつものテンションで反論する。
アリスはそれを受けてやはり怪人マッドハッターのこの態度はどこかで覚えがあるような気がすると考えた。
しかし正体を聞いても教えてくれるはずもない。ジャバウォックの話も後回しだ。
「怪盗ジャック、お前が今日俺を呼んだ目的は?」
「昨日お話しした通り、ちょっとした自己紹介ですよ。手を組むにしても、お互いのことを理解するための最低限の段取りは必要でしょう」
アリスがここまで来るとは、怪盗ジャックにとっても予想外だった。野次馬で溢れかえる博物館の外で派手な花火を上げる程度の予定が、どうやら事情が変わったらしい。
情報提供者であるジャバウォックの思惑はともかく、その情報によりここまでやってきたアリスは思った以上に強い関心を怪盗に抱いている。
「あなたは対睡蓮教団の同盟者として彼を選んだ。怪盗と言う立場なら私も彼も同じはず。ならば私にもその資格があると思ってもいいでしょう?」
「うん、まぁ、俺は気にしないんだけど」
アリスは気安く頷いた。自分にとってはそれはまったく問題ない。
ただ、最近は連続殺人の方を追っていて今日もこの場に来れなかったヴェルム辺りが聞けばなんと言うかはわからない。
ヴェルムは怪人マッドハッターには興味はないが、怪盗ジャックとは何度も対決し因縁ができている。
前回エラフィ誘拐事件でジャックの手を借りたことにより、少しでも蟠りが解けていればいいのだが……。
「……その宝石、ちゃんと返すんだよな」
頷きはしたものの一つだけ気になったことを確認する。
いくらこの怪盗二人が犯罪者の割に比較的穏健だとはいえ、誰かの大切な物を盗んで悲しませるのは頂けない。
「もちろん。彼もそうでしょう」
怪盗ジャックの手元で僅かな光をもきらきらと反射する宝石にアリスは目を留める。
後で返すなら持ち出していいと言う訳ではないが、永遠に戻さないよりはマシに思えてしまう。
「私が集めているのは“白い星”、彼が集めているのは“黒い星”」
「星?」
「魂の欠片をそう呼ぶのです。“白い星”は創造の魔術師“辰砂”を。“黒い星”は背徳と快楽の神“グラスヴェリア”を指します」
アリスよりもマッドハッターの方が驚いた様子でジャックを見つめる。
「私にとって、宝石や美術品は星をその中に宿す器に過ぎない。高価で美しい入れ物に用はありません。本当に盗み出しているのは、その中の“星”」
「だからいつも盗んだ品を後で返すのか。返すにも関わらず、“確かに頂戴いたしました”のコメント付きで」
「ふふ。その通り」
ジャックやマッドハッターが品物を返却する行動に関して、盗み自体をゲームとして楽しんでいるだのなんだの世間はあれこれ噂しているが、真相はそういうことだったらしい。
「あれ? でも……」
アリスはジャックの説明に疑問を感じ、問いを重ねる。
「マッドハッターが背徳神の魂を集めてるって言うのは、同じ目的の睡蓮教団に対抗するためだよな」
「……そうだな。大きな目的としてはそういうことになる」
自分より以前から呪われた品々を集めていた兄のことも思い浮かべつつ、マッドハッターは一応頷いた。
今のマッドハッター……フートが背徳神の魂の欠片を集めるのは、睡蓮教団に対抗する力を得るためで間違いない。しかし十年前、兄が実際どういうつもりで怪盗として活動していたのかは、本人でなければわからない。
「ジャックはなんで背徳神じゃなく、辰砂の魂を集めているんだ?」
「背徳神の力に対抗するには、辰砂の力を使うのが一番確実だからです。『黒い流れ星の神話』は御存知で?」
「うん、聞いた」
アリスはゲルトナーが教えてくれた話を思い出す。そう言えば確かに、この神話のタイトルも無数に散らばった背徳神の魂の欠片を“黒い”流れ“星”と言い表しているのだということに今更気づく。
「かつて背徳神の魂を己の魂ごと砕いたのは、人類最強の魔術師であった辰砂。他のどんな神々よりも、この辰砂が背徳神を倒すための鍵を握っている」
「背徳神を倒す……」
ジャックの言葉に違和感を覚えるが、咄嗟にそれを表現する言葉がうまく浮かばない。
そもそも倒すと言っても、睡蓮教団が復活させようとしているぐらいだからその神様はまだこの世界に存在していないと言えるのではないか?
しかしアリスの疑問をジャックは最初から予測していたようで、更に詳しい説明を加える。
「睡蓮教団との戦いと言うのは、要は背徳神の魂の欠片を持つ者との闘争なのですよ」
「魂の欠片を持つ者?」
アリスの周囲にもそういった者たちは多い。ヴァイスが睡蓮教団と敵対したのも元はそれが理由だ。
「ええ。教団があらゆる犯罪に手を染めながらも魂の欠片を集めているのは、所属する彼らの多くが魂の欠片を持つ人間だからです」
魂の欠片は、無機物だけではなく動植物や人間にも宿ることがあるのだ。そして背徳神や辰砂の魂の欠片を持つ人間は、普通の人間よりも優れた魔術の適性や高い身体能力を得る。
代わりに彼らは、魂の欠片が人格に影響するという代償を払わねばならない。
「ツィノーバーロート兄弟の作品のように、魂の欠片を宿す品々が持ち主を不幸にするのもそのためです。魂の欠片がそこにある以上、辰砂や背徳神の支配下から逃れられない」
自らを浸食し、やがては支配する邪神の記憶、想い、衝動。
「特に背徳神は、辰砂に魂を砕かれる直前に世界を滅ぼす邪神となったので、そのことが宿主に強く影響する。背徳神の欠片を持つ者は他の欠片に引かれる。そして元の一つの神に戻りたがる」
「戻りたがるって……」
「欠片同士が引き合うのですよ。自らの意志を強く持っていれば呑みこまれることはありませんがね」
それでも元の一つの形に戻りたがる黒い星は、宿主に様々な不幸をもたらし、狂気を植え付ける。
「睡蓮教団は、背徳神を崇める。彼らは魂の欠片を得ることをむしろ幸運と喜び、喪われた邪神を取り戻すために魂の欠片を集めるのです。彼らが魂の欠片を集め続けるのであれば、こちらも彼らに対抗するためには欠片を持つ人間が必要になる」
「辰砂の魂でもいいの?」
「ええ。背徳神と同じ力にせよ、創造の魔術師辰砂の力にせよ、欠片に対抗する強大な力であることは変わりませんから」
怪盗たちの盗みの理由。
帝都の夜に人知れず繰り広げられる戦い。
人を傷つけてでも己の願いを叶えようと、狂った信仰を掲げる宗教団体。
色々な事情を説明されてそのいくつかには納得し、それでもまだアリスにはわからないことばかりだった。
「睡蓮教団は、どうしてそこまでして背徳神を取り戻したがるんだ? 世界を壊そうとした邪神なんだろ?」
「それは……」
『ジャック!』
通信機器から漏れた女の声が、アリスやマッドハッターの耳にさえ飛び込んで来た。
ジャックに“料理女”からの通信が入ったのとほとんど同じタイミングで、マッドハッターにも相棒の“眠り鼠”が警告をとばしてくる。
「隠れて!」
怪盗ジャックは咄嗟にアリスを物陰の方へと押し遣る。
「理由なんかないね」
それが間に合ったかどうかのタイミングで、男の声が倉庫の入り口からかけられた。
「我らが神を崇めるのに、理由なんてないさ」
睡蓮教団の人間が、姿を現す――。
...106
暗い倉庫の中。黒服を率いる先頭の男は、一人だけ格好が違った。この男がこの集団のボスなのだろう。
年齢は三十手前と言ったところで、薄い紫の髪に紅い瞳の一見優男。しかし彼の瞳は、穏やかな表情とは裏腹に酷く酷薄だ。
「やぁ、怪盗諸君。今日は良い夜だね」
「……睡蓮教団幹部の一人、“ハートの王”」
怪盗ジャックの言葉に、物陰に隠れたアリスの背に緊張が走る。
ハートの王はジャックにとって因縁の相手だ。
「今日は怪人マッドハッターと一緒かい? 世間では怪盗のライバルなんて呼ばれているのに、手を組もうとするとは意外だな」
ジャックが咄嗟に物陰に押し込んだのが功を奏したらしく、彼らはアリスの存在には気づいていないようだ。
「世間の評価は存じませんが、少なくとも私にとっての敵は彼ではない」
怪盗ジャックは仮面の下でもわかる強い眼光でもって、ハートの王を睨み付けた。
「お前たちの方だ」
「奇遇だね。私たちにとっても、お前たち二人のどちらもが忌々しい敵さ」
睡蓮教団に対抗するため辰砂の魂の欠片を集める怪盗ジャックも、睡蓮教団が求める背徳神の魂の欠片を横取りする怪人マッドハッターも。
「怪人マッドハッター。そろそろ教団もお前の存在を捨て置けなくなってきたんだ」
「……それで先日は“ティードルダム”と“ティードルディー”の二人を送り込んできたのだと?」
マッドハッターは、前回の襲撃者について口にする。
この二人は彼らと対峙したその後、ハンプティ・ダンプティに殺されている。そのために様々なことが有耶無耶になった。
「ああ、そうだ。何せお前ときたら、私たちが可能な限り穏便に手に入れようとした絵画や美術品を、片っ端から予告状を出して盗んでしまう。わざわざ業界に手下を潜り込ませて買収しようとした我らの努力をいくつもふいにしてくれた」
「……」
「随分楽をしているな、犯罪者。目的のものを手に入れるのに盗みという手段を選ぶなどと。正義面しておきながら、お前たちと我々は何も変わらない」
ハートの王の言葉が、フートがいつも抱え込んでいる罪悪感を刺激する。しかし。
「穏便? 笑わせるな」
黙り込むマッドハッターに代わり口を挟んだのは、横で会話を聞いていた怪盗ジャックだった。
「十年前、怪人マッドハッターが品物を盗まなければ、お前たちは“黒い星”の器の持ち主を何人殺していた?」
「!」
その言葉を聞いて、マッドハッター……フートの背に電流が走った。
「今では大物ぶっているお前たち睡蓮教団も、十年前は“白の騎士”によって壊滅寸前に追い込まれるような小集団に過ぎなかった。星を手に入れるための強硬策として強盗も殺人も辞さなかったお前たちの脅威から器の持ち主を守るために、怪人マッドハッターは生まれたんだろう」
まるで事実のように語る怪盗ジャックの様子に、ハートの王が警戒を露わにする。
「貴様……十年前には活動していなかった怪盗が、何故そんなことを知っている?」
「私が十歳に見えるのかい? 怪盗として活動していなくても、この世に存在しているからには情報収集の一つくらいするものさ」
十年前に一度世間に姿を現したという意味では怪人マッドハッターの方が古株だが、この五年間ずっと帝都で活動を続けていたという意味では怪盗ジャックの方が年季が入っている。
「情報……そうか、貴様は確か“姿なき情報屋ジャバウォック”と繋がりがあるんだったな」
「さてね」
その通りジャバウォックからの情報提供でマッドハッターの事情を聞いていた怪盗ジャックは、口元に不敵な笑みを湛えたままお茶を濁す。
ハートの王は察しが良過ぎる。
ジャバウォックには悪いが、ここでジャバウォック以外のルートを探られると他の人間に危険が迫るかもしれないのが悩ましいところだ。
「……今日は本当にいい夜だ。殺したい相手が二人、丁度揃っているなんて」
くくっと笑いながら、ハートの王は言った。
「怪盗ジャック、怪人マッドハッター。お前たち二人とも、我ら睡蓮教団の悲願のためには邪魔な存在だ」
「俺にとっては、教団の存在が人生においての邪魔だ」
怪盗ジャックが言い返す。
隣に立つ怪人マッドハッターも、物陰で息を殺して会話を聞いているアリスも、その声音と口調に怪盗ジャックが教団へ激しい憎しみを抱いていることを感じた。
怪盗ジャックは五年前から帝都を騒がせる怪盗。夜目に鮮やかな白い騎士装束と“パイ泥棒”という茶目っ気のある名乗り、派手な演出。
泥棒と言うよりエンターテイナーのように親しまれている存在。
けれど彼はその陽気な役者の仮面の下に、教団への憎悪と彼らを倒す意志を秘めていたのだ。もう何年も。
アリスにはアリスの事情がある。怪人マッドハッターも複雑な理由があって盗みを働いていたことが、先程のジャックの話でわかった。
そして怪盗ジャックは、本気で睡蓮教団の敵対者として行動しようとしている。
だからアリスは――懐に隠していた魔道具の懐中時計に触れた。
「今日こそ決着をつけようか。怪盗ジャック! マッドハッター!」
ハートの王が銃を取り出す。ティードルダムとティードルディーたちのように、怪盗二人を殺すつもりなのだ。
次の瞬間、アリス――否、アリストはこれまで隠れていた物陰に詰まれていた箱の山を、思い切り蹴り倒す。
「なんだ?!」
教団員たちに一瞬の混乱が起こった。けれど二人の怪盗にとっては、その一瞬だけで十分なのだ。
彼らは教団員たちの手元の銃を、それぞれの得物で次々と弾き飛ばす。怪人マッドハッターは先程も使用していた鞭、ジャックはサーカス団員が見世物に使う投げナイフだ。
そして、シャトンとヴァイスが用意した、数分だけ元の姿に戻れる時計の力を使って十七歳の姿に戻ったアリストは、巻き起こった砂埃が煙幕となっている中、あえて人影を見せるように倉庫から脱出した。
「くそ! まだ仲間がいたのか?! C班はあいつを追え!」
「ア――」
咄嗟にアリスの名を呼びかけた怪人マッドハッターが慌てて口を噤む。彼の素性を睡蓮教団に知られてはならない。
「やれやれ。早速貸しを返されましたか」
男たちの一部がアリストを追って行ったことで、怪盗たちの方の敵が減った。エラフィ誘拐事件で作った貸しを返された形になるジャックが溜息をつく。
「言ってる場合か! どうすんだよ、あいつの方が――」
「彼なら大丈夫」
アリストの身を案じて慌てだすマッドハッターに、ジャックは確信を持つ口調で告げる。
「私の相棒がすでに動いている」
...107
咄嗟に元の姿に戻って倉庫を飛び出したはいいものの、この後が続かない。
まだ距離はあるものの、背後から追手の気配がアリストに迫ってくる。
どこまでも似たような景色が続く夜の倉庫街。手近な隠れ場所は、どうせ向こうからも見つけやすい。
「こっちよ!」
次の行動をどうすべきか迷ったところで、女の声に呼ばれた。
「誰だ!」
「私は“料理女”、“パイ泥棒のジャック”の相棒よ」
振り返った先で、手近な倉庫の上から一人の女が身軽く飛び降りてくる。
この夜目にも目立つ料理人風の白い衣装で、ジャックと同じように仮面で顔を隠していた。女と言うよりも、まだ十代の少女と言った方が正しい体つきと雰囲気。
そう言えば先程ジャックに入った通信で聞いた声のような気がする。
……というより、この声はまさか――。
「その姿でいるにも、もう時間がないでしょう? 事情は後で説明するわ!」
「……わかった!」
料理女の先導で、アリストは走る。その方角にあるものを頭の中に広げた地図で確認し、彼女が何処に向かおうとしているかわかった。
逃げる訳ではない。行く手に選んでいるのは、もっと戦いやすい地形だ。
「あいつらを倒すんでしょ?」
アリストの考えなどお見通しと言わんばかりの料理女に、力強く頷いて見せた。
「当然!」
あと数分で魔導の効果が切れる。
アリストは小さなアリスに戻ってしまう。
だからと言って、怪盗二人を殺すつもりの教団を野放しにしておくわけには行かない……!
『アリス』
「シャトン、お前は来るな!」
前回ティードルダムとティードルディーに顔を見られたシャトンは、今回は最初から姿を見せない予定だった。けれどアリスが身に着けた通信機から、現場の音は全て聞いている。
『白騎士と今そっちに向かってるわ。いつでも退避できる手段は確保しておくから、存分にやって!』
「助かる!」
子どものアリスの力では、周囲のサポートがなければ睡蓮教団に立ち向かうのは無茶だ。今日は相手が怪盗たちであったのでシャトンやヴァイスは裏方に回っていたが、連携は密にとっていた。
無事に目的地に辿り着いた途端、魔導の効果が切れる。
「これを」
十七歳のアリストから七歳の子どもの姿に戻ってしまったアリスに、料理女が一枚の仮面を差し出した。
怪盗ジャックやマッドハッターが身に着ける白い仮面とは違い、その仮面は黒に金色の模様が描かれ、青い石が収まっている。
アリスの瞳のように青い宝石は、目元から流れる涙のような形をしていた。
「いくらなんでも顔を晒すわけにはいかないでしょう。ティードルダムたちの時のように、いつも情報を守れるとは限らない」
「気休め程度だろうけどな」
犯罪的宗教団体と対決するような七歳が何人もいるとは思えない。
この姿を目撃されてしまえば、睡蓮教団は早々にアリスを見つけることだろう。
しかし料理女はそれも大丈夫だと言った。
「いいえ。この仮面は特別なの。つければ今のあなたを大人の姿に見せてくれるわ」
「……それってどういう――」
「いたぞ!」
詳しい話を聞きたかったが、教団が追い付くのが早かった。
「さて、まずはここを切り抜けないとね。こんな相手にも勝てないようじゃ、睡蓮教団を倒すなんて無理だもの」
「……ああ」
色々と思うところはあるものの、アリスは料理女の言葉に頷いて魔導攻撃の構えをとった。
◆◆◆◆◆
「さっきの奴は何者だ?!」
「さあね! お前らの知ったことじゃないさ!」
倉庫の中では、怪盗ジャックと怪人マッドハッターがハートの王と交戦開始開始していた。
アリスのフォローには料理女が行った。そちらは相棒に任せ、ジャックはハートの王の相手に専念する。
周囲では怪人マッドハッターが他の睡蓮教団員を一人ずつ倒していた。こちらも任せても大丈夫だろう。
ハートの王以外は有象無象。簡単に決着がつくかと思ったが――。
「げっ!」
それまで危なげなく黒服の男たちを伸していたマッドハッターが声を上げる。
一人、レベルの違う相手がいるようだ。
「……お美しいご婦人。ひょっとしてあなたは教団の中でも幹部クラスなのではありませんか?」
「よくわかったな」
淡い金髪に青い瞳の、ハッとするほどに美しい女。だが彼女の美貌に見惚れる暇などありはしない。
女の得物は銃ではなくナイフだった。油断すればすぐに喉首を掻き切られる。
「私は“ニセウミガメ”」
「やはりコードネーム持ちでしたか。ですが私に教えてしまっていいのですか?」
「問題はないだろう。お前をここで殺せば済むことだ。それでここ十年、お前に邪魔され続けた団員の無念も晴れる」
ニセウミガメと名乗った女は、冷たさを感じる程に青い瞳でマッドハッターを睨み付けた。
「死んでもらうぞ、“帽子屋”」
宣告するなり、斬りかかってくる。その身体能力は普通の人間とは比べ物にならなかった。ジャックやマッドハッターにも匹敵する程だ。つまり。
「黒い星――」
「教団に集う者にも、相応の理由があるということだ」
さすがに幹部クラスにもなると、ジャックやマッドハッターのように魂の欠片を宿す者が多い。
「お前はティードルディーとティードルダムの仇だ」
「私が殺したわけじゃありませんって!」
不本意な仇認定にマッドハッターはほとんど素で叫ぶ。
彼らを殺したのは、連続殺人鬼ハンプティ・ダンプティだ。
他の敵対者たちと共闘するでもなく、睡蓮教団の人間をただ残虐に殺し続ける正体不明の殺人犯。
「同じことよ。教団の敵対者。お前たちが我々を殺す気で来るなら、我々もお前たちを殺さなければならない」
「仲間想いは結構ですが、先に仕掛けて来たのはあなた方であることをお忘れなく!」
マッドハッターは確かにティードルダムとティードルディーの二人に命を狙われたが、大事には至らなかった。彼らの様子からすると、兄のザーイエッツについてもほとんど何も知らないようだった。
だから本当はマッドハッターにしても、あの二人を恨む理由などない。
それでも彼がティードルダムとティードルディー、ハートの王やニセウミガメという睡蓮教団の人間を全員同じだと見るように、教団の方は教団の方で、ジャックもマッドハッターもハンプティ・ダンプティもジャバウォックも、皆同じだと考えているようだ。
そして誰かが傷つけられると、集団そのものに憎しみを向けてまた別の人間を傷つける。
終わることのない争いの連鎖。
では個人に憎しみを向ければいいのかと言えば、それはそれで違うと思う。
「くそっ……!」
ここにいるものは皆犯罪者で、同じ穴の貉だとハートの王は言った。
けれど、少なくともマッドハッターは憎い相手を全て殺すような、そんな終わり方は望んではいない。
怪盗を始めたのは、あくまで兄を取り戻したいからだ。
死による解決などまっぴらだ。
「!」
ニセウミガメのナイフを鞭で弾き飛ばそうとするが上手く行かない。小回りが利く得物の分、機動力は彼女の方がマッドハッターより高い。
「帽子屋!」
ニセウミガメの鋭い攻撃に追い詰められたところを、怪盗ジャックに救われる。
逆にその隙を狙って追撃をかけてきたハートの王の銃撃からは、マッドハッターがジャックを庇った。お互いの死角をカバーするよう背中合わせの形になる。
「無事か」
「そっちこそ」
一触即発の緊張は、まだ続くようだった。
...108
パトカーのサイレンが夜の淡い喧噪に鳴り響く。しかし今日は誰もがそれに関し頓着しない。
この近くの帝国立博物館で、怪盗ジャックと怪人マッドハッターの盗みがあったことが広く知られているからだ。
「……謀られたな」
「え?」
パトカーの中にいたアブヤド=マレク警部は途中でそれに気づき、指示を出す。
「警部? 一体どちらへ行こうと」
「怪盗の居場所だ」
運転をしていた警官が、マレク警部の指示に従い、これまでとはまるで別の方向を目指し始める。
◆◆◆◆◆
帝都は大陸の中心に位置し、海を見るには帝国を出なければならない。その代わり巨大な河川は帝国中に広がり、昔から利用されてきた運河がある。
この倉庫街は、運河を利用して物資を運ぶための帝都の港でもあった。
船に貨物を詰み込むための開けた場所が、アリスと料理女の選んだ戦闘場所だ。
睡蓮教団の男たちが撃ってきた銃弾を、アリスと料理女は魔導防壁で防ぐ。
当然のように料理女が魔導を使ってきたことはともかく、アリスは彼女が作ったその機に反撃を一発撃ちこんだ。
そして男たちが怯んだその隙に、二人は物陰へと飛び込む。
黒服の男たちを率いていた赤褐色の髪に緑の瞳の男が口を開いた。
「“料理女”か。なら、そっちの男もやはり怪盗ジャックの仲間だな?」
“怪盗ジャック”に“料理女”、“怪人マッドハッター”には“眠り鼠”という相棒がいるのは一部で知られている。
不思議なことに赤褐色髪の男はアリスのことを子どもではなく「男」と称した。まるで彼にはアリスが子どもではなく大人の姿に見えているように。
「その仮面の効果よ。今のあなたは他人の目からは、元の年齢の姿に見えているわ」
顔自体は仮面で隠れているし、気休めとはいえ、素性を隠せているわけだ。
「詳しいことは後で話す。今はとにかく、この状況を潜り抜けなきゃ」
「今、ヴァイスとシャトンがこっちに向かってる」
「そう」
物陰から相手の動向を見張るが、隙らしい隙は見せてはくれない。
「あの男、多分幹部クラスだと思うんだけど」
赤褐色の髪の男は格好こそ他の者たちと同じだが、一人だけ気配が違う。あれはもっと、人を率い命じることに慣れた人間だ。
「手練れはハートの王だけと見せかけて油断させる作戦だったようね」
結果的にだが、怪盗ジャックがマッドハッターの犯行に割り込み、アリスを引きこんで良かったのかもしれない。怪人マッドハッター一人でこの男とハートの王の二人を凌ぐのはきつかっただろう。
ティードルダムとティードルディーは魔導の手練れだった。この男は魔導こそ使って来ないものの、身のこなしがあの二人とは違い過ぎる。
「ハートの王は、ハートの女王の直属にして腹心の部下らしいわ」
「捕まえて情報を聞き出せればいいけど……この戦力じゃ無理だろうな。あいつも、ハートの王の方も」
「さすがにまだそこまでするには早すぎる」
今はとにかくこの状況を切り抜けることだけを考えた。
「出て来い! かくれんぼは無駄だぜ!」
赤褐色の髪の男が無造作に銃を手にしたまま怒鳴る。
無造作だが隙は見えない。彼らの目にすらわかる程明らかに戦い慣れている。
シャトンから通信が入った。
『アリス! 到着したわよ! でもすぐ近くに教団員の姿が見えるわ!』
「こっちは一人連れがいる」
『聞こえていたわ。でもその声……いえ、後にしましょう。それより、相手がまずいわ』
「知ってるのか?」
『通信機から聞こえた口調だけれど、まず間違いないわ。その男のコードネームは“グリフォン”。教団の中でも指折りの武闘派の一人よ』
『直接戦うのはまずいな。私はお前たちに魔導を教えてはいるが、本職の傭兵や軍人と渡り合える程の戦闘術は叩き込んでいない』
ヴァイスが苦い声で添える。つまり、アリスたちが今相手にしているのはそういう人物なのだ。
『逃げて』
「逃げられねぇぞ!」
通信機から流れるシャトンの声と、少し離れた場所で叫ぶグリフォンの声が重なって選択を迫る。
「どうする? アリス」
「勝つとは言わなくても、何かしらの手段で追い返したいな」
「難しいわよ」
料理女はそう告げるが、アリスは意志を変えなかった。
「今ここで俺たちが逃げたら、あの男はもう一度ジャックたちの方へ向かうだろ? 二人が危険になる」
それが退けない理由だった。元々そのためにこの男たちをあの現場から引き離したのだ。
怪盗ジャックたちが相手をしているハートの王も手練れだと言う。ならば、彼らがハートの王をなんとかするまで、可能な限り長くグリフォンを引きつけるか、倒すか、撤退させるかするしかない。
アリスがそう伝えると、料理女は仮面から覗く口元だけで微笑んだ。
「そう言ってくれると思っていたわ」
アリスは教団に対抗するために、奪われたものを取り戻すために仲間を探して同盟を組もうとしたのだ。
何もできずに逃げ回っているだけではいけない。
例えこの身が今、あまりに無力な子どもの姿だとしても。
「一つ提案があるの。ジャックがいつも危なくなったら使っている手よ」
「?」
「警察を動かすわ。あいつらだってこんなところで捕まりたくはないはず。警察が現場に近づけば撤退せざるを得ない」
「怪盗を捕まえるためのパトカーか!」
怪人マッドハッター専任のモンストルム警部、怪盗ジャック専任のマレク警部。彼らは帝国立博物館から逃走した怪盗たちを捕まえるために、帝都を捜索しているはずだ。
戦闘では睡蓮教団に分があるかもしれないが、逃走ならば彼らに分があった。怪盗たちは身軽く変装が得意であるし、アリスはそもそもヴァイスたちと一緒であれば警察からは逃げる必要などない。
「警察をここに呼び寄せるんだな。でもどうやって?」
「――派手な花火を打ち上げましょう」
そして、打ち合わせをされたヴァイスが文字通り魔導の花火を夜空に打ち上げる。
「ちっ! まだ他に仲間がいたのかよ!」
こちらの目論見通りパトカーのサイレンが近づきはじめると、グリフォンは舌打ちしながら撤退を始めた。
「命拾いしやがったな。怪盗のお仲間さん?」
一般市民ではなく怪盗たちと同じく後ろ暗い犯罪者だと思われたことが功を奏したと言うべきか、睡蓮教団は深追いせずに撤退する。
料理女の言によれば、いつもこうなのだと言う。
睡蓮教団も怪盗たちも、後ろ暗い立場であることは同じ。夜半に街中で派手な戦闘を繰り広げて警察を呼ばれてはたまらない。
特に教団は地下で活動する犯罪組織であり、表向きには一般市民の信者を多数抱えている。幹部が警察の厄介になることなど、あってはならなかった。
逆に、怪盗はそれを利用することにした。強力な後ろ盾を持たない怪盗ジャックは、自分が睡蓮教団に負ければ終わりだ。深手を負わぬよう、危険を感じたらあえて警察を呼び寄せて教団の人間を追い払うのである。
常にそんな調子であるため、怪盗と教団の戦いは、これまで長く決着がつかずにいた。
「――で」
「私たちも逃げないと。こんなところで警察に見つかったらどの道事情聴取は避けられないわよ」
「なんか凄く理不尽!」
こそこそしなければいけないことに不条理を感じつつも、アリスは料理女の言葉に従って、彼女と一緒にその場を後にした。
 




