17.ジャックの予告状
...097
先日のエラフィ誘拐事件が解決して平穏を取り戻したある日の夜。
「最近、ダイナお姉さんよく出かけてるね」
ヴァイスとアリス、シャトンの住むルイツァーリ家では、隣人であり夕食を差し入れてくれたダイナ=レーヌを加えて四人で食事をしていた。
「そう? 確かに、ここ最近友人と会う回数が増えたからよく外食してるかも」
「友人?」
「ええ。学生時代からの。久しぶりに会いたくなって」
ダイナは寂しいのだろうか。弟のアリストがいなくなって家に一人きり。こうして隣家を訪れればヴァイスもアリスもシャトンもいるが、彼女にとって家族である「アリスト」と何日も顔を合わせていないこの状況だ。
本来の自分を偽っているアリスは、そんな風に考えて複雑な表情になる。
「あら、アリス君がそんな顔をする必要ないのよ」
「でも」
「私が、アリストがいなくて寂しがってると思ったのね」
「う……いや、その……」
考えていたことをしっかり当てられて、アリスは途端に慌てだす。しかし、次のダイナの台詞は意外なものだった。
「確かにアリストと何日も顔を合わせていないことは寂しいし、心配にもなるわ。でも大丈夫よ。会いたい気持ちはともかく、アリス君やシャトンさん、ルイツァーリ先生のおかげで寂しくはなっていないから」
「そ、そう?」
ここで全然平気と答えられたらアリストでもある身としては自分がいなくても姉はまったく平気なのかと複雑な気分になるところだったので、そのどちらをも考慮したダイナの絶妙な回答にアリスはほっと息を吐く。
「問題は、友人本人と私の関係そのものになるのよ」
一方、ダイナは溜息を吐いた。まるで困った相手だと言うように。
「なんだ? 何かあるのか?」
「借金とか恋愛問題とか宗教勧誘とか」
「ありません。と言うかシャトンさんはどこでそんな言葉を……」
七歳児とは思えない発言をするシャトンに、ダイナは呆れ半分笑い半分の顔を向けた。
「腐れ縁の古い友人なのよ。お互いの良い所も悪い所もきっと一番よく知ってる。だからこそ、色々と考えてしまうの」
具体的な説明はなかったが、とにかくその友人に何かがあるのは事実らしい。
「その……友人とは、女性……でいいのだよな」
「ええ、そうです」
恐る恐る尋ねるヴァイスの言葉にも、ダイナは平然と頷く。
まさか元彼か何かではないかと勘繰っていたヴァイスは、相手が女性だと聞いて気を取り直したようだ。ダイナがそこまで気を配る相手が弟のアリスト以外にもいるというのは初耳だが、女性ならば構わない。
そんなヴァイスをアリスはアリスで睨み付ける。そもそもダイナの恋人でもないお前の口出す問題じゃないだろーが、と。
水面下でお互いの足を蹴り合う男どもは放っておいて、シャトンは今日の夕食の感想をダイナと話し出す。
その日も、彼らの認識ではまるで何事もなく過ぎていくただの一日でしかなかった。
◆◆◆◆◆
ダイナが帰った後、三人はなんとはなしに居間に集まってテレビを眺めていた。
しかしアリスは視線こそ画面に向いているものの、内容をしっかり見てはいなかった。
先日の事件から、物思いに耽ることが多くなっている。
今日もいつも通りだったダイナの笑顔。けれど先日の事件で彼女はアリスを庇って怪我を負った。
アリスだけではなくエラフィを庇ったのかもしれないが、それだってアリスがまずはエラフィを庇うつもりでそこにいたからだ。だから……結局はアリスのせいなのだ。
自分のせいで姉に怪我をさせてしまったことが、ずっとアリスの心に引っかかっている。
「早く……」
無意識の呟きが唇から漏れる。シャトンとヴァイスは気付いたが、テレビの音量を上げて気付かない振りをする。
早く、元の姿に戻らなければ。
戻りたいではなく、戻らなければいけない。悠長にしている時間はないのだ。
けれど、教団の手がかりは未だ以って増えてはいない。ヴェルムに復讐を果たそうとしたあの男は死んでしまった。
敵とはいえ死者を悼むよりも手がかりが消えてしまったことに苛立つ自分の心の醜さを自覚しながら、それでもこの気持ちを止められない。
早く、一刻も早く。
元の姿に戻らなければ。姉のもとへ。自分の家へ。
物理的にはこの家の隣室。壁一枚の距離が、今はあまりにも遠い。
ぐるぐると堂々巡りの考え事をするアリスの耳に、突然シャトンとヴァイスの驚きの声が突き刺さった。
「あ……!」
「おっ……!」
二人が注目していたのは、先程音量を上げたばかりのテレビの中だ。
「見ろ、アリスト。これだ」
「え?」
どこかで見たような姿の二人。夜を翔けるその存在たちが再び世間を熱狂させるニュースが、映し出されていた。
◆◆◆◆◆
とある隠れ家の一室で、フートは実に中途半端な格好で床に座り込み呟いた。
「やっぱりあいつ、アリストなんだよな……」
今の彼は黒いタキシードにマント、しかしシルクハットと仮面は外しているので、フート=マルティウスとも怪人マッドハッターとも言い難い様子である。
ポピー美術館の一件で、アリス=アンファントリーを名乗っているあの子どもが、実は自分の友人であるアリスト=レーヌが睡蓮教団の手によって禁呪をかけられ、時を盗まれた姿だと判明した。
そして彼が、世間を騒がす怪人マッドハッターの正体がフート=マルティウスと知らずに打倒教団のための同盟を持ちかけてきたことにより、ここしばらくフートは自分の立場に悩み続けていた。
アリスは怪人マッドハッターに自分の正体――アリスト=レーヌであることを明かした。
だが怪人マッドハッターがその正体を――フート=マルティウスであることを明かすことはできない。
「駄目よ、フート。怪人マッドハッターの正体は明かせない」
幼馴染にして怪人マッドハッターの共犯者、ムース=シュラーフェンは悲しそうに諭す。
「私たち……犯罪者なのよ」
「ああ、そうだ」
同じように姿を偽っていても、フートとアリストの立場は同じではない。
アリスト=レーヌは完全なる被害者だ。時を盗まれた姿で名を偽り生活しているのは、そうするより他に方法がないから。しかしフートは違う。
フート=マルティウスは、自ら望んで怪人マッドハッターとなった。行方不明の兄ザーイエッツを探すために、望んで窃盗犯となる道を選んだのだ。
誰が友人に告げられるのだろう。――自分は犯罪者なのだと。
肉体的に誰かを傷つけたことはない。人を手にかけたり血を流させたりはしていない。
それでも“魂の欠片”を集めるために多くの品を盗み、誰かの心を傷つけてきた。
「でも……あれはアリストなんだ」
「そのようね」
先日のエラフィ誘拐事件を小等部の面々と共に解決したことにより、フートの中では今までよりその実感が強くなってきた。
姿が変わっても、あれはアリストだ。時を盗まれて子どもの姿になったことは、アリストの本質を変えるものではなかった。
周囲の子どもたちも勇敢なので森に木の葉を隠すように紛れてはいるが、それでもアリストを知っている人間にはわかる。
「嬉しいのに哀しいな。俺は友人に、本当のことを言えない」
「……わかっていたはずでしょう。アリスト君だけじゃないわ。私たちはレント君にもエラフィさんにもヴェイツェ君にもギネカさんにも……ヴァイス先生にもダイナ先生にも、本当のことは言えない」
怪人が帝都の闇から姿を消すその日まで、お互い以外には一生誰にも言えない秘密。
「でも……俺はこの姿でなら、アリストを助けることができるかもしれない」
「フート」
「どうせ敵は同じ、睡蓮教団なんだ。正体を明かさないという条件付きでなら、手を組んでみてもいいかもな」
ムースが困った顔になる。
「私は……反対だわ」
俯いて遠慮がちに、けれど正直な気持ちを彼女は告白した。
「アリストは今、子どもの体なのよ。私たちがいつもと同じような感覚で動いたら、逆に危険な目に遭わせることになりそうで」
フートはハッとする。確かに、前回の誘拐事件の時も、子どものアリスは最終的に自分の身を守りきれずにダイナに庇われていた。
「それに……接触を持てば持つほど、正体に気づかれる可能性も高まる。ここでバレたら……ザーイを探すことができなくなるわ」
「ムース」
「実際にマッドハッターとして動いているのはあなたなのだから、最終的にはフートの決定に従うけれど」
「……」
「――ごめんなさい。それより次の仕事の話よね」
「そうだな。レントのおかげでせっかく正々堂々と正面から宝石展に行ける機会があるんだから……」
先日、誘拐事件の報が飛び込んでくる前にしていた話だ。友人でどうやら親が富豪らしいレント=ターイルの好意により、フートたちを含む高等部と小等部の生徒たちに宝石展のチケットを渡してくれたのだ。
言いながらフートは口ごもる。
自分は今だってこうして友人を利用している。
そんな人間が、本当に誰かを救うことなんてできるのだろうか。
アリストの力になってやりたいのは確かだ。だが自分にそれができるのだろうか。
迷いは晴れない。道は拓けない。
怪盗が正しい道を探すこと自体が間違いであると言われたら、フートには反論できない。
けれど――。
「え? えええええ?!」
突然ムースの驚愕の叫びが耳に刺さり、フートは怪訝な顔で振り返った。
「なんだよいきなり」
「驚きもするわよ! これ見て!」
そして彼女はニュース画面にフートの顔を押し付け、内容を理解したフートも次の瞬間同じように叫ぶことになったのだった。
  
...098
眼下に帝都の夜景を収め、彼らは強い風に吹かれる。
「本当にいいのか?」
彼は彼女に尋ねた。
「ええ。もうここまで来たら隠し通せないわ。真実を言えないせいで、一番大事な時に何の力にもなれないのは嫌よ」
彼女は彼に尋ねた。
「本当にいいの?」
「ああ。俺も、そろそろ自分の全てを賭けて見たくなったんだ。我らが待ち望んだ主人公、“女王アリス”にね」
そして帝都の夜に繰り広げられる物語は、一つの転機を迎える――。
◆◆◆◆◆
「ねぇねぇニュース見た?!」
「「「見たー!」」」
その日は朝から教室でもその話で持ちきりだった。彼らは一日の始まりにもその話をし、放課後になって体が空いた途端、いつもの食堂で待ち合わせをしていた小等部生たちにも開口一番それを確かめる。
「“怪盗ジャック”が、“怪人マッドハッター”に挑戦状を出したんだって!」
「帝国二大怪盗対決だってよ!」
「しかも、その現場は、今度僕たちが行くあの宝石展会場なんですよ!!」
エラフィの問いかけに声を揃え、カナール、ネスル、ローロが目をきらきらと輝かせて答える。
怪盗好きのローロなどは、もはや叫ぶような勢いだ。三人共いつも以上にテンションが上がっている。
「すっごいタイミングよね! 私たち、ジャックとマッドハッターの両方が狙うお宝をこの目で見れるわよ!」
「「「わーい」」」
盛り上がるエラフィと子どもたちに、いつもと表情を変えないで話を聞いていたフォリーが一言呟く。
「人込み……」
「うっ……」
「確かに、人は多そうだね。このニュースでもっと増えそうだ」
ヴェイツェが冷静に後を引き取る。
映画や演劇のように鮮やかな手並みで警察を翻弄し、美術品や宝石を盗む怪盗たちは犯罪者でありながら帝都の人気者だ。
それぞれ下手な芸能人よりファンが多いという怪盗が今回二人とも同じ一つのお宝を巡って決闘するのである。世間の注目を集めない訳がない。
「ま、私たちはレントのお父さんのコネでもらったチケットで確実に会場には入れるでしょ」
「レントお兄さんありがとー!」
「ははは。まさかこんなことになるとは父も思ってなかったそうだよ……」
前回の事件の終わりに実は結構なお坊ちゃまであることが発覚したレントは、予想外の盛り上がりに頬を掻いた。ただの美術展のチケットのはずなのに、いまや入手は熾烈な競争となっているらしい。
「でもこれだけ大騒ぎになったりしたら、肝心のお宝の展示とか控えられちゃうんじゃないの? 怪盗が来るってのに、うかうか宝石を展示していられないでしょ?」
「それに関しては大丈夫みたい」
シャトンの尤もな疑問に答えたのは、テラスだった。
「なんでも例の宝石細工の持ち主が、怪盗の大ファンなんだって。マッドハッターどころかジャックも来るなんて夢のようだって、大喜びでその感動を人々と分かち合うために展示室を改造してるらしいよ」
「……何それ」
一同は揃って「ちょっと意味がわからない」という顔になる。
「なんでテラスはそんなことを知って……あ、そうか。テラスのお父さんは――」
自分で疑問を口にしておきながら、途中でアリスは思い出した。
「そう。怪人マッドハッター専任、帝都警察捜査三課のコルウス=モンストルム警部だよ」
「そう言えば、ポピー美術館の時にお会いしたわね」
テレビの報道にも時折顔を出す怪盗専任の警部が、この小等部の神童の父だと知ることになったのが、ポピー美術館での怪人マッドハッターの犯行だった。その時は他でもない彼――モンストルム警部にチケットを融通してもらったのである。
「今回は元々マッドハッターの獲物だったからね。父さん、最近はずっと帝国立博物館の方に詰めてるんだよ」
「……帝国立博物館?」
「ねぇ、私たちつい最近そこに行かなかったっけ?」
エラフィ誘拐事件の際に、救出組が暗号を解読して訪れた場所の一つである。あの時はとにかく必死だったので、そんなこと気にも留めていなかった。レントにチケットを見せられたのがその日の放課後で、直後にエラフィ誘拐事件の報が入ったので皆それどころではなかったのだ。
「怪盗の獲物より、博物館の方がじっくり見物できそうね」
「えー。でもやっぱり、ジャックとマッドハッターも見たいよー」
「僕たち、怪盗に会えますかね?!」
「さすがにそれは無理なんじゃ……怪盗の犯行は日曜だろ? 俺たちが行くのは土曜日だし」
「いや、わからないよ。怪盗本人も人込みに紛れて、下調べのために美術展に来てるかもしれない」
子どもたちの会話を聞いていたフートが飲み物を噴き出す。
「どうしたの? フート」
「な、なんでもない」
怪人マッドハッター本人であるところのフートは、予定外の事態にいつもよりも動揺している。
フートが昨夜のニュースを見た時から胸の内に抱える疑問を代弁するかのように、ちょうど彼らの雑談もその内容に入った。
「それにしても、どうして怪盗ジャックはわざわざ怪人マッドハッターの獲物に後から狙いを定めるようなことをしたんだろう」
レントの疑問は、まさしく今のフートが知りたいことだ。
「そういえばそうだね」
「……同じ宝石が欲しかったなら、マッドハッターと同じようにその存在を知った時に予告状を出しますよね」
美術展の話は一ヶ月ほど前から広告が貼られてどこでも目に付くようになっていた。そして。
「マッドハッターの次の犯行は先週から散々騒がれてたし、宝石の存在に気づかなかったとは思えないよね」
不自然なのだ。今回の怪盗ジャックの犯行は。
「まるで、ジャックはあえてマッドハッターに挑戦状を叩き付けたみたい」
「ライバルってことでしょうか!」
怪盗ジャックが活動を始めたのは五年前、怪人マッドハッターは十年前にも世間を騒がせていたが一時期姿を消し、一年前にようやくの復活を果たした。
帰ってきた怪盗に、ここ数年で名を上げた怪盗が対抗心を抱いたのだろうか。
「ジャックとマッドハッターって何か因縁ある?」
「そんな話、聞いたことないわよ」
フートの隣に座っていたギネカが言う。
フートは彼女が、怪盗ジャックの相棒“料理女”であることは知らない。
ギネカはフートが怪人マッドハッターであることを知らない。
今ここで何かの拍子に接触感応能力者であるギネカの手がフートの体に触れれば難なく探れる事実だが、迂闊に人の心を読まないよう普段から気を付けているギネカはそういうことはしない。
そうして幾人もが幾つもの秘密を抱えた学院で、今日もその秘密は守られたまま過ぎていく。
「ところでテラス君、テラス君のお父さんが怪人マッドハッターの専任警部だってことはわかったけど」
レントがテラスに尋ねる。
「じゃあ、怪盗ジャックにも専任警部っているの? モンストルム警部と違って、ほとんど話聞かないけど」
「いるよ。僕もあまり会ったことないけど」
「え? いたんだ?!」
この空間にいるほとんどの人間は、マッドハッターと違って怪盗ジャックにも警察の専任がいることは知らなかった。
唯一の例外として、ギネカだけはジャックの仕事をいつも邪魔してくれる存在として、その専任警部のことを知っている。
もちろん、そのことをここで口に出すことはないが。
「ニュースに出て来ないよね、その人」
「取材はNG」
「芸能人か」
フートが思わず突っ込みを入れる。自分も芸能人並にちやほやされている怪盗であることは棚に上げて。
「怪盗ジャックのライバルって、てっきり探偵のお兄さんだとばっかり思ってた」
「俺もだぞ」
「私もー」
「僕もです」
テラスの説明に興味深々と耳を傾け、彼らはしばらくその話題で盛り上がった。
「ヴェルムさんは怪盗ジャックのライバルの名探偵として名高いですよね。今回も現場に来るんでしょうか?」
一女子高生の興味本位に見せかけて、さりげなく怪人マッドハッターの仕事を邪魔しそうな強敵の存在を探るのはフートの幼馴染でマッドハッターの相棒“眠り鼠”ムースだ。
そんなことは知らないアリスは、ついつい素直に答えてしまう。
「ヴェルムは今回は行かないって」
「え? そうなんですか?」
「他の事件を解決しなきゃいけないからって」
「そうそう。ヴェルムの奴、なんかすげー忙しそう」
エラフィも幼馴染の動向には相変わらず気を配っているようだ。
「それに、マッドハッターとジャックが両方来るならその専任警部二人も手を組むから自分が行っても邪魔なだけだって言ってたわよ」
昨夜のニュースを見てすぐにヴェルムに連絡をとったシャトンが補足する。アリスとシャトンの二人は、そこでジャックにも専任警部がいるという話だけは聞いた。
「その怪盗ジャック専任警部さんってどういう人なんだ?」
改めて問いかけられたテラスがにっこりと意味ありげに返す。
「会えばわかると思うよ」
どうせ彼らは週末に怪盗の犯行現場となる、帝国立博物館を訪れるのだ。
...099
帝国立博物館。前回の事件でギネカたちエラフィ救出班が訪れた、国内最大級の総合博物館である。
広大な敷地内に帝国全土のみならず、別大陸をも含めた世界中の学術的資料、重要文化財、美術品などが収められている。館内はいくつかのブロックに分かれて、子どもから大人まで楽しく鑑賞できるよう工夫を凝らして数々の品が展示されていた。
帝都は初めてのシャトンはともかく、アリスは見学等で何度も訪れたことのある博物館だ。とはいえこの大きさである。何度見て回っても、飽きると言うことがない。
古代生物の化石が今にも動き出しそうに活き活きと配置され、過去の偉人の彫刻は本物の人と見紛うリアルな表情を浮かべている。
過去から現在まで様々な民族の衣装や生活用品も並べられ、遠い異国の滅びた種族の痕跡を残す。
「あの時は、せとものコーナーの向こうのお土産屋さんに暗号が隠されてたんだよ」
「へぇー」
約束の土曜日、アリスたちはいつものメンバーで博物館へと向かった。
事前に話をつけていたヴァイスやダイナも一緒である。
「うわ、やっぱ混んでるわね~」
人の多さにエラフィがさっそくうんざりした顔を見せた。
「俺たちも人の事言えないって」
正直、飾られた数々の美術品よりも怪人マッドハッターと怪盗ジャックが見たいのはこの野次馬だけでなく、自分たちも同じである。
一行は館内を見て回りながら段々と目的のフロアに近づいて行く。
本日の主役、二人の怪盗から狙われた姫君こと、美しい宝石が強化硝子の展示ケースの中に飾られているのが遠目に見えた。
「怪盗さんたちの今回の獲物はこれですって」
広い展示室の中央に飾られた宝石を見るには、まだこの人込みを更に並ぶ必要がある。その暇つぶしにと、シャトンは宝石細工展の広告に目を通し始めた。アリスも横から彼女の手元を覗き込む。
「ベルメリオン=ツィノーバーロート、生涯最高の作品……『女神に捧ぐ首飾り』」
「女神に捧ぐ……」
それは不思議な宝飾品だった。
決して華美ではない、しかし巨大な宝石を取り囲む台座全体に精緻な細工が施されていて、一ミリの手抜きも許さないと言わんばかりの存在感を放っている。
かと言って首に飾っても主役の座を奪う訳ではなく、自然と肌に馴染み身に着ける者を不思議と引き立てる装置の一つとして活躍する。
主張せず、かつ埋没しない。圧倒的な、しかし装着者の邪魔をしない存在感。
「凄いわね……このデザイン……」
綺麗なものが好きなシャトンも、まじまじと魅入られたように広告の写真を見つめている。
「これはまるで……」
アリスが胸の中に湧き上がるその想いを口にしようとした瞬間だった。
「装着者にとって恋人のようなデザイン、だろう?」
「へ?」
この首飾りの装着者への馴染み具合は、並び立つ姿がそのまま一幅の絵になる恋人のようである――自分が思ったことをそのまま言われて、アリスは変な声を上げた。
シャトンと共に背後から声をかけてきた相手を振り返り、二度驚く。
「……!」
相手は、とても綺麗な青年だった。
ぬばたまの黒髪に深い湖か、砂漠のオアシスを思わせる青い瞳。きめ細かな白い肌、すらりとした立ち姿。
一歩間違えれば人形のように整っていながら、どこか自信に満ちたその不敵な表情が、彼をこの上なく人間らしい魅力に溢れさせている。
「この宝石の名前――『女神に捧ぐ首飾り』の『女神』とは、月の神セーファ様を指しているんだ」
「月の女神……?」
「ああ。神々の長兄にして主神、太陽神フィドランの妻セーファ。月神は太陽神の妹であり神々の長姉でもある。昔から人々との距離が近しい女神で、青の大陸においては神官を通して託宣を与えて人々を導き、黄の砂漠においては慈悲深き守護の女神として崇められている」
アリスは知らぬうちに、彼の語る神話に引きこまれていた。
「けれど本人はまぁ気さくな方だから、きっと何かの縁で地上に降りてベルメリオン=ツィノーバーロート本人と出会い、その時にこの首飾りを作ってもらったのだろう」
偉大なる主神の妻をまるで知り合いの女性のように言って、彼は視線を宝石の収められた展示ケースからアリスたち――アリスへと映した。
「初めまして」
「は、初めまして……って、誰?」
「モデルさん……?」
シャトンが思わずため息を零しながら口にする。
俳優か、モデルか、それとも生まれながらの王族か貴族か。思わず今の皇族にこんな人物がいただろうかと脳内検索を始めるアリスたちの前で、その青年はにっこりと笑う。
「君たちはモンストルム警部の息子さんの友人だろう。テラス君はあの歳でとても優秀なアドバイザーだ、その友人である君たちも歓迎しよう」
「え……ってことは、あなたはまさか」
アリスたちの様子を見て近寄ってきたギネカたち高等部生も、青年の美貌に驚いて息を呑む。
自分が一番魅力的に見える振る舞いを知っている顔で、彼は名乗った。
「私はアブヤド=マレク。帝都警察捜査三課、怪盗ジャック専任警部だ」
◆◆◆◆◆
どう見ても二十歳そこそこにしか見えないのだが、アブヤド=マレク警部の年齢は三十一だと言う。
彼を実際にその眼で見て、ジグラード学院の生徒たちは、「取材NG」の意味がわかった。
「正直、怪人マッドハッターより怪盗ジャックよりイケメンね」
ポピー美術館の件で怪人マッドハッターと、前回のエラフィ誘拐事件で怪盗ジャックと直接会ったシャトンが思わずぽろりと本音を口にする。
「ふぐわっ!」
「しっかりしなさいフート! 傷は浅いわよ!」
「?」
何故か背後で上がった奇声と掛け合いは無視し、アリスは冷静なツッコミを入れる。
「イケメンも何も、マッドハッターもジャックも仮面で顔を隠していたのになんでそんなこと言えるんだ?」
「あら、わからないの?」
「まぁ、正直頷けるものがあるわね」
「ギネカお姉さんまで? と言うか女子は全員わかってるの?!」
残りの女性陣も顔を見合わせあってうんうんと頷く。小等部のカナールやフォリーどころか、先程までフートを慰めていたはずの幼馴染ムースもである。
「おお、君たち、すでに顔を合わせていたか」
「父さん」
「モンストルム警部!」
「テラス君のお父さん、こんにちは!」
テラスの父親、コルウス=モンストルム警部がやってきた。その段階になると周囲の客たちもこちらに気づいてざわざわとし始める。すぐ傍に展示された宝石よりも、マッドハッター専任警部の傍にいる美青年と子どもたちの怪しい一団の方が気になるのは仕方がない。
怪人専任警部だからと言うよりは、友人の父親であると認識しているモンストルム警部に一同はお行儀よく挨拶をし、改めてマレク警部を紹介してもらう。
「マレク警部は、怪盗ジャックの専任警部だ。今回はいきなりジャックが予告状を送りつけてきたため、急遽応援に入ってもらった」
「元々ジャックはこちらで捕まえるべき怪盗だ。モンストルム警部が敷いた対マッドハッター用の警備体制に突然お邪魔して申し訳ない」
よく警察は身内内での競争心や縄張り意識が強いと聞くのだが、この二人の関係はそうでもないらしい。
「ですがご心配なく、あの野郎に悪さをさせないよう、さっさと捕まえて退散いたしますので」
モンストルム警部との仲は良好だが、怪盗ジャックへの対抗心はしっかり持っている。それがマレク警部のようだ。
怪盗たちの狙う宝石を見に来たはずの客たちも、周囲を制服警官に囲まれている彼の正体がなんとなくわかったらしく色めきだっている。
マレク警部がモンストルム警部と違ってテレビに顔出ししない訳がよくわかる。こんな顔のいい男、怪盗の存在以上に周囲が騒ぎすぎるに決まっていた。
...100
テラスは先程館内で父親より先にマレク警部に出会い、高等部と小等部の知人友人一同と来ていることを説明したらしい。それでマレク警部もアリスたちを見つけて話しかけて来たのだということがわかった。
高等部生のギネカたちよりも、一見近くに保護者がいない状態で紛れ込んでいた小等部生二人の方が見つけやすかったようだ。
「テラス君にはこれまでも何度か怪盗ジャック対策に有用な助言をもらっている」
マレク警部の言葉に、友人一同は呆気にとられてテラスを見る。
「警察への助言……って」
「テラス……お前本当何者?」
モンストルム警部の仕事場をたまに訪れるテラスは、その縁でマレク警部とも面識を持った。
「たまたまだよ、たまたま適当言ったら当たっただけ。僕の子どもじみた発想よりも、そこからヒントを得て発展・改良し怪盗対策に反映するマレク警部の手腕だよ」
「テラス! いつも思ってたけど! その言葉選びと謙遜の様子がすでに七歳の態度じゃない!」
「アリス。それは君も一緒だ」
「ねぇねぇアリスちゃん、『けんそん』って何ー?」
「子どもじみたも何も、子どもでしょあんたら」
袖を引くカナールたちに言葉の意味を説明するアリスを放って他の面々がマレク警部と話し始める。
「怪盗ジャック対策に関しては普段エールーカ探偵の助言を頂いていたが、今回は忙しいらしくてな」
「あー、ヴェルムは最近殺人事件の捜査で手一杯なんですよ」
「……そうか、君が彼の幼馴染の……」
マレク警部は初対面の高等部生や小等部生がまとわりつくのを止める様子もない。
警察なのに何故? という疑問を彼らが口にする前に、部下に呼ばれて行ってしまった。
モンストルム警部と共に、明日の警備体制に関して博物館の館長と宝石の持ち主と共に話し合うようだ。
「マレク警部って綺麗だけど変わった人だな。あんまり刑事らしくないって言うか……」
「あの人はちょっと特別だから」
特別とは一体何だろう。テラスはやはりモンストルム警部の息子と言うことで、父の同僚であるマレク警部の事情にも詳しいのだろうか。
「それより、今のうちに宝石の警備体制を観察しようよ」
「宝石じゃなくて、警備体制の観察なのか?」
明日の夜にはこの『女神に捧ぐ首飾り』を狙って、怪人マッドハッターと怪盗ジャックが忍び込んでくるはずだ。
「もしかしたら、今から怪盗たちが獲物を盗むために仕掛けた色々なものが見つかるかもしれないよ」
「えー。さすがにそれは無理だろ」
テラスに半分引っ張られるようにして、アリスは再び宝石の展示場所へと近づく。
硝子ケースの周囲には人がいっぱいだ。
怪人マッドハッターや怪盗ジャックは派手好きな劇場型の犯罪者でもあり、時には観客の目の前で厳重な警備を潜り抜けて目当ての獲物を盗むことがある。
しかし今回の怪盗二人の犯行時刻は深夜。博物館はとっくに閉館した頃であり、観客はいなくなる。
今回の犯行は、純粋に宝石を盗むためのものであり世間に何かを演出する必要はないということだ。それでも怪盗ジャックは元々予定されていた怪人マッドハッターの犯行のスケジュールに予定を被せてきた。
「怪盗ジャックは一体何を考えて、怪人マッドハッターと同じ獲物を盗むことにしたんだろう?」
アリスがほんの小さな疑問を口にしたその時だった。
「――何、ただの自己紹介ですよ」
「へ?」
いつの間にか隣で宝石を眺めていた青年が話しかけてきた。
まるで面識のない人物だ。どこにでもいそうな平凡な容姿と服装。けれど間違いなく会ったことはないと言える。ただの勘違いかと思ったが、彼の眼は真っ直ぐこちらに向けられている。
「前回は誘拐事件のせいで、ゆっくりお話しする暇もとれませんでしたから」
「え、あの、あんたまさか……」
この場所で面識のない人物がこんな物言いをすると言うことは、その正体はたった一人ではないのか?
怪盗が様々な人物に変装できるのは、『ルパン』以来の伝統だ。
「それにこの私を差し置いて、怪人マッドハッターを選ばれたのも癪ですしね。怪盗を始めて一年も経っていないような、あんなひよっこと一緒にされるのは」
「一年?」
確か怪人マッドハッターは十年前にも世間を騒がせ、そして消えた人物だ。一年前に復活して再び帝都の夜を翔けることになったが、それならば怪盗歴は十年ではないのか?
怪盗ジャックは五年ほど前から帝都に出没している。
これまで二人の怪盗は交わらない存在としてお互いを気にせずに生きていた。だから周囲も彼らのうちどちらが怪盗として「ベテラン」などと、考えたこともなかった。
「ですから、手を組む前に一度私のことをあなたに十分知ってもらおうと思いまして」
「えーと……?」
ちょっと何を言われているのか本当に意味がわからない。
「それにあの首飾りは、マッドハッターの獲物ではありますが私としても思い入れの深いものなのですよ」
「思い入れ?」
ジャックはそれには答えずに、ぐるりと強化硝子の宝石展示ケースの周囲を見回した。
「展示ケースは強化硝子、手を触れれば頭上から鉄の檻が落ちてくる」
アリスが思わず天井を仰ぐと、確かにそこには展示ケースの周囲を囲める大きさの檻がセットされていた。
この展示室が、硝子のケースに触れられない位置までしか入れないのはこのためだったのか。
「しかもその檻には、一度閉じ込められれば中から下手な真似はできないよう高圧電流が流れる仕掛けが施されている」
「それ普通死ぬよな?」
怪盗も怪盗だが、警察も警察だ。犯人が死にそうな罠を仕掛けるんじゃない。
……ところでこれはモンストルム警部とマレク警部、一体どっちの発案なのだろう。
「館内の出入り口の全ては警官によって固められ、予告時間には鼠一匹通すこともない。彼らの位置は常に防犯カメラと発信機によってモニタールームで二重にチェックされている」
「例え首飾りを盗んでも、博物館の外には出られない」
怪盗ジャックの変装に騙され何度も煮え湯を飲まされている警察は、例え仲間うちであったとしてもお互いを疑って変装したジャックではないかと確認し合うのだと言う。
そんな状況でどうやってお宝を盗み、また博物館の警備網から脱出するつもりなのか。
この怪盗ジャック、そして怪人マッドハッターは。
「怪盗さんたちは随分下調べに余念がないね。パイ泥棒さんだけでなく、帽子屋さんももうこの空間にいるし」
「おや、君はモンストルム警部の息子さん」
アリスの横からひょいと顔を覗かせたテラスが話に入り込む。
「あ、テラス。その、これは」
「別に気にしなくていいよ。うちの父さんの敵はあくまで怪人マッドハッターだし」
「それでいいのかテラス!」
モンストルム警部の担当でなければ、怪盗ジャックには興味がないと言うのだろうか。
「……マッドハッターもすでにこの空間に?」
「あなたがいるんだからそうなんじゃない?」
ジャックはテラスの言葉に反応し、一瞬だけ警戒を覗かせる。
テラスの言葉を信じればすでに怪人マッドハッターもこの会場内にいるらしい。しかしそれはテラスの単なる推測なのか、何らかの確証があっての判断なのかは明言しない。
「でもこんな厳重な警備を、どうやって抜ける気なの?」
対睡蓮教団の協力者として怪盗ジャックと手を組みたいアリスもここでジャックを通報するような真似はせず、怪盗の出方を見守ることにした。
「触れられない程に厳重な警備なら、直接触れなければいい」
「へ?」
「後ほど手紙をお送りしますよ。明日の夜、そこへと来てください」
彼はあっさりと立ち入り禁止の柵を乗り越える。いつの間にか怪盗の姿だ。
「あ、ちょっと、そこには入らない――で?!」
博物館の警備員が目を白黒させる間に、宝石の前に跪いて宣言する。
「麗しの月の女神に捧ぐため、明日の夜にお迎えに上がります」
そして怪盗ジャックはぽん、と小さな煙の中に姿を消した。
「ちょっと! 今のまさか怪盗ジャック!?」
たちまち騒然となる人込みの中で他の客に突き飛ばされたアリスは、床に転がりそうになる。
「アリス! 大丈夫?」
「ぎ、ギネカ……ありがとう」
咄嗟に支えてくれた手が誰のものかを知って、アリスは人の多さにこの体では大変だと、改めてうんざりしながら体勢を直す。
「ねえ……背中に何かついてるわよ」
「え?」
アリスの背にいつの間にか一枚のカードが貼られていたと、ギネカはそれを剥がす。そして文面を読み上げ、驚きの声を上げた。
「何これ?! 怪盗ジャックからのメッセージ?!」
「なにぃ?!」
警備の打ち合わせから戻ってきたモンストルム警部が叫ぶ。
マレク警部は険しい顔で、そのやりとりを見つめていた。
...101
展示ケースの前に姿を現し、一瞬にして観衆の心を鷲掴みにした怪盗ジャックの姿にフートは驚愕した。
「怪盗ジャック……?!」
「フート、気づいた?」
「わかるもんか。変装は怪盗の十八番だぜ」
同じ時間に同じ場所で、二人の怪盗が下見をしていたことになる。
フートがレントの協力でチケットを手に入れたのはまったくの偶然だが、この機会を逃すわけにはいかなかった。友人や子どもたちと一緒なら、誰にも怪しまれずに現場へと近づける。
友人の存在を利用する自分に嫌気がさしながらも、だからこそ自らのもう一つの姿について知られる訳にはいかない。
「宣戦布告かしら?」
今回怪盗ジャックは元々怪人マッドハッターに挑戦するかのように、滑り込みで予告状を出してきた。
観衆の前に姿を現すことで、マッドハッターよりも自らの方が上手だと示したかったのだろうか。
「いや……」
ムースの疑問に対し、フートは違うと答える。
「あいつ……アリスと話をしてたみたいだ」
「アリス……君と?」
アリス=アンファントリー。またの名をアリスト=レーヌ。
彼は本来十七歳のジグラード学院高等部二年生なのだが、今現在は睡蓮教団の禁呪によって時を盗まれ、七歳の子どもの姿にまで若返っている。
「そう言えば前回の事件の時に顔を合わせたのでしたっけ」
「それで縁ができたのか?」
同じ怪盗とは言え、マッドハッターであるフートにとっても怪盗ジャックは謎の存在だ。
世間ではよく比較されるが、本人たちとしては顔を合わせて話をしたこともない相手である。
「今回は手強い相手だな」
いつもと同じ仕事だと思っていた。しかしもう一人の怪盗が横槍を入れてくるならばそうもいかない。
更には、怪盗ジャック専任の刑事、マレク警部の存在もある。
「とりあえず――」
ムースが呆然としながらも呟く。
「格好良さでは、すでに向こうに負けているかもね」
「あああああ」
フートは小さく呻いた。
人目を惹き付けることに関してマレク警部にも怪盗ジャックにも負け、怪人マッドハッターの地位が危うい。
◆◆◆◆◆
それ以降怪盗は姿を現さず、一通り宝石展を観賞し終えた一行は帰路に着いた。
駅までの道のりをのんびり歩いて行く。
「マレク警部って面白い人だったね」
「そうね」
「それに、すっごく綺麗な人でした」
「あの兄ちゃん男なのになー」
子どもたちは本日出会った美貌の警部や一瞬だけ姿を現した怪盗のことで盛り上がっている。
「怪盗ジャックも見れたし」
「でも一瞬で消えちゃいましたよ」
「アリスちゃんの背中にカードがついてたってことは、ジャックがすぐ傍にいたんでしょ? ねぇ、どんな人だった?」
「いや、俺も知らない間につけられてたから誰がジャックかなんて……」
「この前も今日も変装していたものね」
実際、隣で話していたとはいえいつカードをつけられたのか、アリスにもさっぱりわからないのだ。ギネカに触れられるまで、誰かに背に触れられた感触などまるでなかったのに。
「いいなーアリスちゃんジャックと会ったなんていいなー」
「いい……のか?」
「ずるいぞアリス、お前だけジャックに会うなんて」
「僕らも怪盗に会ってみたいです!」
カナール、ネスル、ローロは怪盗に直接会ってみたいと、無茶なことを言う。無茶と言っても、怪盗を打倒睡蓮教団の同盟相手として勧誘しに行くアリス程無茶ではないかもしれないが。
「あの首飾り、本当に綺麗でしたね」
「そうだな。きっとダイナがつけても似合うだろう」
「あら? 買ってくださいます? あれ一つで戦闘機が買える値段らしいですけれど」
「いや、そのー、その件に関しては」
「うふふ。もちろん冗談ですよ」
「そ、そうだよな。アーハハハ」
大人は大人でいつも通り、まったく進展のないやりとりだ。生徒たちの前で同僚を口説こうとするヴァイスに、アリスは後で蹴りを入れることを固く誓う。
何となく二人のやりとりに聞き入ってしまっていたアリスは、不意にダイナが何かを見つけて表情を変えたのに気付く。
「あら?」
「おや、ダイナじゃないか」
「レジーナ、こんなところで会うなんて珍しいわね」
道の途中で足を止めた、短い黒髪のボーイッシュな女性がダイナと言葉を交わす。
「ちょっと知人の用を手伝いに、あのホテルに泊まるところなんだ。君は……もしかして、学院の生徒さんたちと宝石展見学かな?」
「よくわかったわね」
「今の時期ならそれしか話題はないだろう? ちょうど博物館の方から来たみたいだし」
彼らが通ってきた曲がり角の向こうを指差し微笑む女性に、他の面々も次第に興味を示し始めた。
「ダイナ、そちらは……」
「私の友人、レジーナ=セールツェです。ほら、先日お話しした……」
「ああ、最近よく会っていると言う……私はヴァイス=ルイツァーリ、ジグラード学院で魔導学を受け持っています」
「こちらもお噂はかねがね伺っておりますよ、ルイツァーリ先生」
ヴァイスと一通り挨拶の言葉を交わすと、レジーナは次に子どもたちの方へ視線を寄越した。
「君が面倒を見ているのは、その後ろの二人?」
ダイナはアリスたちのこともレジーナに話していたのか、彼女はひょいと腰を屈めて正面から子どもたちを覗きこんでくる。
「ルイツァーリ先生が預かっている子たちよ。アリスさんとシャトンさん」
「そう、よろしくね」
にっこりと笑う。昔から大人びていると言われたダイナとは対照的に、無邪気な子どものような印象を受ける笑顔だ。
「あ、うん……」
その笑顔に何か感じるものがあり、アリスは人見知りの子どものように、ヴァイスの脚の後ろに隠れた。
「アリス? ……すまない、人見知りをしたようだ」
「気にしないで。二人とも可愛い子だね」
見た目だけは可憐と言ってもいいアリスのそんな態度をレジーナは不思議に思わなかったらしく、それで会話が済んでしまう。
「じゃあダイナ、また今度」
「ええ。気を付けて」
二人が挨拶を交わし、一行は再び帰路につく。
「どうしたの? アリス」
ギネカが近寄ってきてアリスに声をかけた。先程の態度は元のアリストをよく知る彼女にしてみればやはりおかしかったらしい。
「あの女の人、何か変な感じがしなかったか?」
「変?」
ギネカも、ずっと隣にいたはずのシャトンもそれこそ変な顔になる。
「……何も感じなかったわよ?」
「アリスだけに気づく何かがあったの? ……読んでみれば一発だけど、初対面の人に馴れ馴れしく触るなんてできないし」
接触感応は肝心な時に役に立たない力だと、ギネカが口を尖らせる。
「ヴァイス先生はどう思います?」
「わからん。アリスは魔導的な感覚は鋭いからな。実際に何かあったのかもしれないし、まったく別のことで何かに気づいたのかもしれない。あるいはただの勘違いかもしれない」
アリスとしては勘違い呼ばわりは心外だが、かといって自分の感覚の根拠を説明することもできずもどかしい思いをするしかない。
「ダイナの知り合いにそう変な奴がいるとは思いたくないが……いや待てよ、いっそ変な奴だらけの方が追い払う理由になる……?」
「お前が一番の不審者だ」
ダイナに近づきたい余りにマンションの隣室に越すと言うストーカーまがいのことまでしでかしている男は、思考がだんだん危ない方向に行っている。
ヴァイスの手を握る振りでこっそり抓りながら、アリスはしばらくレジーナのことを考えていた。
「アリス君、遅れますよ」
「あ、ごめん。すぐ行く――」
しかし答も出せずまとまらない思考は、やがて平穏な日常と言う名の影の中に埋もれてしまった。
◆◆◆◆◆
この時間にかかってくる非通知着信の相手は決まっている。彼はいつもこちらの事情を全て見透かしたように、絶好のタイミングで電話をかけてくるのだ。
「――もしもし」
『やぁ、ジャック』
「……よぉ、ジャバウォック」
怪盗ジャックことネイヴ=ヴァリエートは、警戒を隠さないまま応えた。
面識のない知人、顔も見たことのない情報屋がまるで旧知の友人のように話しかけてくる。
『随分と思い切ったことをしたね』
「なんのことかな」
『マッドハッターへの挑戦状の話さ』
「私は彼に喧嘩を売りたい訳ではありませんよ」
『だが帽子屋の方ではそうは思わないだろう。パイ泥棒、君はやはり自分にとっての敵なのかと疑うはずだ』
「ジャバウォック、お前ならあの怪人の正体もすでにわかっているのではないか?」
『知っていたとして、それを君には教えないよ』
「相変わらず、本当に欲しい情報は売ってくれないんだな。“姿なき情報屋”」
彼を情報屋と呼ぶのは皮肉でもある。この世の全てを知っているかのようなジャバウォックだが、彼は自分の持っている情報を一方的に教えるだけで、決して金で情報を売り買いすることはないのだ。
『君が君のやりたいことをやるように、こちらもやりたいようにやると言うだけさ。……怪人のことに関しては、“三月兎”への義理もあるからね」
「三月兎?」
怪盗ジャック――ネイヴとしては初めて聞くコードネームに思わず怪訝な声を上げる。
『怪人の身内さ。今のマッドハッターは、三月兎を探すために怪盗をしているんだよ』
「! ……何故今、そんなことを俺に教える」
『そろそろ彼も舞台上に上がって来るからさ。役者同士、せいぜい仲良くしてくれ』
「お前は一体――……」
『じゃあね』
ジャバウォックは怪盗ジャックに対して比較的好意的な存在だが、やはり全てを知られているような気がして恐ろしいものがある。
それでも、ネイヴは今回の盗みを諦める訳には行かなかった。
「ネイヴ……」
「大丈夫だギネカ、決してアリスに危害を加えるようなことにはさせない……俺が使うのは、怪人マッドハッターの方だ」
睡蓮教団との長い戦いを終わらせるために、自分にとっては“アリス”の存在が必要なのだ。
...102
「それで、どうだったんですか? ツィノーバーロートの宝石展」
日曜は学院の課題があるということで、高等部生たちは午前中だけ図書館に集まっていた。
昨日集まったメンバーの中ではヴェイツェとフートが用事があると言って抜け、ギネカ、ムース、レント、エラフィに、ルルティスが加わっている。ルルティスの宝石展にも行けない程の用事は昨日でなんとか終わったのだろうか。
基本的に成績優秀者が多い集まりなので課題は早くもまとめに入り、いつもの雑談が始まる。
相談しながら行う課題だったので、図書館内ではあるが先日のエラフィ誘拐事件の時にも活用したブラウジングルームを利用している。喋っても問題はない。
「怪盗ジャックが出たぞ!」
「マジで?!」
一行はその話題で盛り上がった。直接見に行けなかったルルティスに身振り手振りを交えながら説明する。
「いいなー、私も見に行きたかったです。怪盗ジャック」
彼らが帝国立博物館に見に行ったのはあくまで宝石細工展であり、間違っても怪盗が展示されていた訳ではない。
「怪人マッドハッターは?」
「そっちは来なかったわ。さすがに打ち合わせした訳でもない怪盗同士が現場でかち合うこともそうないでしょ」
「……」
と、怪盗ジャックの幼馴染であるギネカは言った。
それを知らない怪人マッドハッターの幼馴染は、まさしく本人がその時その場にいたことを思って沈黙する。もちろん今日この時間にフートがここにいないのも、夜半の怪盗としての仕事の最終確認を行うためである。
「白黒二大怪盗の競演、さぞや絵になるでしょうねぇ」
「ところがどっこい」
白と黒の二人の怪盗のツーショットを思い浮かべるルルティスに、エラフィが思わせぶりにペン先を突きつける。
「? なんです」
「怪盗ジャックの専任警部さんが、めちゃくちゃ格好良かったの!」
「え? ジャックに専任いたんですか? マッドハッター対策のモンストルム警部じゃなくて?」
「いたのよ! すごく若くて美形でモデルか俳優か王子様かって警部さんが!」
「エラフィ、盛り上がりすぎじゃね?」
エラフィはすっかり怪盗より警部のファンのようだ。やはり男は顔なのか。
「ヴェルムって探偵として怪盗ジャックの犯行現場に何度か出入りしてるから、マレク警部とも面識あるのよね。いいなー、いいなー。今度幼馴染特権で現場について行っちゃおうかしら」
「エラフィ……あんたついこの前、ヴェルムの幼馴染だって理由で誘拐されたばっかでしょ」
ギネカが呆れて溜息を吐く。もちろん怪盗ジャックことネイヴの仕事の邪魔をされたくないという気持ちはあるが、それ以上にこの友人に対する呆れが強いのも事実。
「怪盗ジャックを狙撃するつもりなら私は止めませんが」
「「「やめろ」」」
ルルティスの言葉に、全員が制止の言葉をかけた。
「あ、そう言えば宝石の方はどうだったんです?」
「マッドハッターとジャックの獲物、『女神に捧ぐ首飾り』ね。……綺麗だったわよ」
「私もあんな宝石送ってくれる恋人が欲しい~」
「え」
エラフィの言葉に、レントが思わず固まる。
「石油王でも落とすつもりですかエラフィさん……」
首飾りの今の持ち主は大富豪だが、それでも軽々と恋人に贈れる値段ではないだろう。それこそ富豪の息子であるレントも固まる程の金額である。
「でもそう言えばさ、マッドハッターもジャックもどうしてあの宝石を狙うんだろうね」
「え? 高価だからじゃないの?」
「盗んで売る気ならそうだろうけど、あの二人は、最終的に盗んだものを返しちゃうじゃない?」
エラフィはたまたま手にしていた雑誌を振る。
怪盗を遠目に捉えた写真が表紙だ。画質はそれ程良くないが、怪盗の貴重な映像だということでこの号はよく売れたらしい。
「そういえば。どうして返すんだろう?」
「怪盗絡みの番組や雑誌で特集を組まれては変な学者の胡散臭い推測が語られるだけで、本当の理由は誰もわからないのよね」
「……」
友人たちの他愛ない疑問や推測を耳にしながら、ムースは以前、ポピー美術館でヴァイスから聞いた話を思い返していた。
この世にはかつて世界中に無数の破片となって飛び散った背徳神の魂の欠片が宿る品々がある。それらは人の手に渡ると狂気を誘発し災いを招く。
魂の欠片は人に宿ることもあり、フートの兄ザーイエッツは、その欠片の持ち主であった。彼は何を思ってか、彼と同じように魂の欠片を有し災いを招く美術品となっていた宝石や絵画などを盗む怪盗となった。
そして十年前、怪盗の仕事に出かけたきり帰って来ない。
彼が何を思って呪われた品々を盗んでは返す行為を繰り返していたのか、今では正確なことはわからない。ザーイエッツはここにはいない。
けれどフートとムースは彼が生きていることを信じて、彼を探すために、かつての彼と同じ怪盗を演じるようになった。
「ねぇ、ムース。……ちょっと、聞いてる?」
「あ、すみません。少し考え事をしていて……どうかしました?」
ムースが思考に耽っている間に、また話題が変わっていたらしい。
「そういえば今日、フート君とヴェイツェ君は?」
「フートはちょっと用事があって」
「ヴェイツェも何かやらなきゃいけないことがあるんだって」
ルルティスの問いに、ムースとエラフィがそれぞれ答える。
「フートがムースと一緒じゃないなんて珍しいよな」
「そうですか? そんないつもべったりしてませんよ」
最近のフートは怪盗稼業のことだけでなく、十歳も年下の少年テラス=モンストルムに夢中だ。
彼はもう、兄と幼馴染であるムースだけを心の拠り所にしていた頃のフートではない。
惹かれている相手が七歳の子どもであることには一抹の不安を覚えるものの、フートがようやく他の人間に心から興味を持ったこと自体は良い傾向だとムースは感じている。
これまでずっと一緒に生きてきた幼馴染と、いつか道を別つ日が来ることを予感しながら、彼女は今日も、なんでもない顔で笑っていた。
◆◆◆◆◆
課題が終わり、一行は無事に学院を後にする。
「なんか食べて行かない?」
エラフィの誘いで昼食を摂ってから帰ろうということになり、道を歩いていた時だった。
「ねぇ、あれ。フートじゃない?」
「え? そんなはずは……」
通りの向こうを指差したエラフィの言葉に、ムースはまず不審を感じた。
現在フートは怪人マッドハッターの犯行準備のために、学院から何駅も離れた帝国立博物館の近くにいるはずだ。こんな場所で見かけるはずがない。
けれど。
「そうね。あれはフートよね」
「おーい、フート!」
ギネカとレントも頷き、手を振る。
相手がこちらの呼びかけに気づいて振り返る。
(え?)
振り返ったその顔に、ムースは驚き声を失った。
フートらしき人物は笑顔で悪いとでも言うように手を振り返して、それでもこちらには寄らずに姿を消した。
「フートの奴、そんなに忙しいっての? ねぇ、ムース……ムース?」
エラフィが振り返ると、ムースは顔を真っ白にしていた。
「違う、あれ、フートじゃない」
「フートじゃないって……あんなに良く似た人が他にいるわけ――」
「ザーイ!」
ムースは怪訝な顔の友人たちを置いて駆け出した。
ザーイ。あれはザーイだ。ザーイエッツ=マルティウス。
行方不明中のフートの兄。
「ザーイ、待って!」
「あ、ちょっと」
ムースは追いかけたが、人込みに紛れてわからなくなってしまう。
切れた息を整えながらムースはようやく気付いた。
違う。あれはザーイではない。
ザーイエッツはフートの十歳年上の兄だ。生きていれば現在彼女たちの講師であるヴァイスと同じ、二十七歳のはずだ。十七歳の高等部生であるフートにそっくりな訳がない。
けれど彼はフート……十七歳でいなくなった頃のザーイエッツにそっくりだった。フートがその頃の兄に似てきたということでもある。
「幽霊。いいえ、あれは確かに生きた人間だった……」
「どうしたのよ、ムース」
追ってきたギネカやエラフィたちにも、ムースは上手く事情を話せなかった。
◆◆◆◆◆
携帯にメールが入り、一応内容を確認したヴェルムはいきなりがっくりと肩を落とした。
「おい、どうしたんだね? エールーカ探偵」
「いえ……幼馴染がちょっと……」
阿呆なので。とはさすがにこの場では言えなかったが、ヴェルムがエラフィからのメールで一気に脱力したのは確かだ。
なんでも昨日帝国立博物館の宝石展――つまり次の怪人マッドハッターと怪盗ジャックの犯行予定現場で、ジャック専任のマレク警部と会ったらしい。
『紹介して!』というメールに『阿呆か!』とそのまま返し、ヴェルムは携帯を元通り懐にしまう。
先程声をかけてきたシャフナー=イスプラクトル警部の要請により、現在ヴェルムは帝都を騒がす連続殺人事件の捜査に動いている。
すなわち、殺人鬼ハンプティ・ダンプティを捕まえるための捜査だ。
先日は何故かこれまでのパターンを無視して殺人を行わなかったハンプティ・ダンプティだが、彼の犯行はこれで終わったのか……?
殺人鬼を野放しにしておくのは問題だが、それでもこれ以上の犠牲者が出ないのであれば――そんなヴェルムや警部たちの思いは、無情な一報に破られる。
「警部! またです! ウィンキー公園の敷地内で、ハンプティ・ダンプティのカードが……!」
長い長い夜は、まだ終わらない。
 




