13.公爵夫人の教訓
...073
高層ホテルの窓からは、帝都の象徴たるタワーが見えた。
エメラルドの名にちなみ、グリーンにライトアップされた塔を眺めることのできるこの部屋は、最近の彼らのお気に入りだ。
「それで、何か芳しい情報は得られたか?」
「全然だな」
ホテルの部屋に帰ってきた二人――コードネーム“白兎”と“赤騎士”は早速情報交換をする。交わすも何も、伝える程の情報はないのだが。
彼らはここしばらく、睡蓮教団からの命令でハンプティ・ダンプティなる通称の殺人鬼を追っている。
教団がわざわざ一介の殺人者などを追うのには理由があった。まだ表の警察は辿り着いていないが、ハンプティ・ダンプティに殺害された人間は全て教団の関係者なのだ。
教団側としては当然、このままでいるはずがない。彼らは彼らの神に刃向かう者を赦しはしない。
それにハンプティ・ダンプティは世間の知らない教団の情報を知っているかもしれないのだ。教団としてはそれを流される前に、警察に先んじて殺人鬼を確保することが急務となっていた。
「ここまで探して見つからないなんて……本当に団内の裏切り者じゃないの?」
「その線は他の連中が当たっているだろう。我々はもっと別の切り口から捜索を進めるべきだろうな」
「うへぇ」
警察が探しても教団が探しても、一向に姿の見えない殺人鬼。恐らく何か見落としがあるのだ。
「振出しに戻るしかないか。情報の洗い直しを……なんだ?」
「新しい任務……?」
教団専用の回線から連絡が入ってくる。しかし現在ハンプティ・ダンプティを追う以上に、優先されることなどあるのだろうか。
二人は顔を見合わせた。
◆◆◆◆◆
「よ、ヴェルム! 久しぶり」
肩を叩かれて振り返る。
「……エラフィ? こんな時間に一体何やってるんだ?」
意外な時間に意外な場所で、ヴェルムは幼馴染と顔を合わせた。意外な場所と言っても、ヴェルムにとっては自宅のマンションのすぐ下だが。
時刻はもうすでに深夜近い。高校生が遊び歩いているような時間ではない。
「またいつもの夜遊びか? 最近は物騒なんだから、いい加減にしろよ」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ。私の勝手でしょ」
親みたいな忠告に、エラフィは不満げに唇を尖らせる。
エラフィは事情があって両親と離れて暮らしている。こうして真夜中に遊んでいても咎められないのはそのためだ。ヴェルムはそんな彼女を心配しているのだが、エラフィからしてみれば自分はもっと危険なことにいつも首を突っ込んでいるくせに、と言ったところだ。
「それより、最近忙しいの? 電話もメールもほとんどスルーだしさ」
「あー……すまん」
「もしかして、例の事件? テレビで話題になってるなんとかかんとか殺人――」
「エラフィ」
近況を聞こうとしたエラフィの言を、ヴェルムは途中で遮った。
「悪いが、そこまでだ」
「……はいはい。探偵様も楽じゃないわね」
「迷惑をかけたくないんだよ」
探偵が危険な商売だなんてこと、ヴェルムは両親が殺された時に身に染みている。
「人を足手まといみたいに言わないでくれる? そりゃ私はあんたみたいな知識も推理力もないけどさぁ……」
エラフィはエラフィで、あえて不満を口にすることで雰囲気を軽くしようとした。
探偵になってから、学生時代の友人や一般人との付き合いをやめて自ら疎遠になることを選んだヴェルム。エラフィだけはヴェルムとの絆を絶やすまいと、こうして定期的に連絡もとるし顔を合わせるようにしている。
「あんたの助手を務めるならアリストぐらいの実力が必要って訳?」
「アリスト?」
「今、あいつ何かあんたの仕事手伝ってるんでしょ?」
「あー……まぁ」
「アリストの奴も変な誤魔化しなんてしないで、普通に一度くらいダイナ先生に会いに戻ればいいのにね」
ヴェルムが依頼によってアリストの姿に変装した時、エラフィは幼馴染の眼力で見抜いた。
「アリストなら、先日帝都に戻ってきたよ」
「マジ? 何も聞いてないんだけど」
「本当に短時間だけだったから。俺はたまたまあいつとレーヌさんが会った場面に行きあって」
正確に言えばアリストのことでダイナに詰め寄られていたところをアリスト本人に助けられたのだが、もちろん言えるはずがない。
「へー。相変わらずのシスコンね」
その一言で納得される男こそアリストである。
「そう言えばヴェルム、あんたの周囲も変わった?」
「周囲?」
最近のヴァイスたちとのつながりが目を引いてしまったのかと焦るヴェルムに向けて、エラフィはにやにや笑う。
「彼女できたんでしょ! この前、女の人がこのマンションから出て来るの見かけたわよ!」
「……いや、違うから」
ジェナーのことだと気づき、すぐにそれもあまり気づかれない方がいい話だと思い直す。
「あの人はそれこそ訳有りで一時的に転がり込んでるだけだ」
このマンションは確かに一棟丸ごとヴェルムの持ち物で他の住人は住んでいないが、睡蓮教団の追手を警戒するジェナーは基本的に外へ出ない。どうしても必要なものがある時は、必ず日が落ちてから顔を隠すようにして出かけるのだ。
正直に言って、ジェナーが今家にいることに、ヴェルムは少なからず救われている部分はある。
けれどそれをこんなところでエラフィに対して口に出す訳には行かない。
それに、邪推されたような関係では本当にない。
「えー、怪しい」
「本当に違うっての」
「今度会いに行こうかなー。転がり込んでるってことは、いつも家にいるんでしょ?」
「……やめてくれ。頼む、本当に訳有りなんだ」
存外真剣なヴェルムの様子に、エラフィはきょとんと一瞬目を丸くした。
「ま、いいわ。……ヴェルムの彼女の話はまた今度聞くとして、私もそろそろ帰らなきゃ」
「俺も用事がある」
「引き留めて悪かったわね。でもどうせいつも通り警察でしょ。また事件?」
「まぁな」
エラフィのように夜遊びもしないヴェルムには、こんな時間に外出する理由はそれしかない。
「気を付けてよ。最近の犯人は武闘派とも限らないんだから」
「エラフィこそ、こんな時間なんだから気を付けて帰れよ」
「もちろん。じゃあまた今度ね」
手を振って別れる。
後でヴェルムが、どうせなら彼女の家まで送れば良かったと考えても後の祭りだ。
「もし、そこのお嬢さん、ちょっとよろしいですか――」
「へ?」
帰り道で声をかけられたエラフィが振り返ると、闇の中から腕が伸びてくる。
その腕は白いハンカチを握っていて、彼女の口元を覆うようにそれを押し当てた。
咄嗟のことに対応もできないまま、エラフィの意識は闇に呑まれていく――。
◆◆◆◆◆
「……へ?」
「いやいやちょっと待って。勘弁してくれよ」
自らの巡り合わせの悪さを、ネイヴ=ヴァリエートは呪っていた。
「今の子は確か……エールーカ探偵の……」
たまたまヴェルム=エールーカの生活範囲を通りがかった時だ。先程ヴェルムと話していたはずの少女が、見知らぬ男に声をかけられて振り返った瞬間に崩れ落ちる。その決定的な現場を目撃してしまい、ネイヴは頭を抱えた。
少女が倒れたぐらいならばまだ病人を介抱していただけかも知れない――。
「な、わけねーな」
男の手には白いハンカチ。それを口元に当てられた瞬間気を失った体。
これはあれか。あれだな。よく事件物のコミックで見るような展開だな。
フィクションよりフィクションらしい怪盗の顔を持つ高校生は、溜息を吐いた。
今日は次の仕事の下準備のために出かけていただけだと言うのに、何故こんな場面を目撃してしまうのか。
不運を嘆いては見るものの、こんな時間に活動しているのはネイヴも同じである。所詮後ろ暗い人間の動く時間帯など古今東西で共通なのだ。
けれど、この事態を見てしまった以上放っておくわけには行かない。
「明日の授業はサボりかー」
少女を乗せた怪しい車を追跡するために、ネイヴはバイクのヘルメットをかぶり直した。
◆◆◆◆◆
夢を見た。
「……ッ!」
懐かしい悪夢の生々しい気配に、ヴェルムは飛び起きる。
「ヴェルム?!」
「……ジェナー?」
「大丈夫? 魘されていたわよ」
「すまない。起こしたか?」
「私ももう起きようと思っていたところだから」
日付が変わる頃に呼び出された事件を一つ解決して、ヴェルムが家に帰りついたのは丑三つ時を軽く過ぎていた。体は疲れているはずなのに、眠りは彼を優しく受け止めてはくれない。
悪夢を見たのは、酷く後味の悪い今日の事件のせいだろうか。
三時間程度の軽い睡眠しかとれなかったがこのまままた眠る気にもなれず、ヴェルムは自分も起き出すことにした。
「珈琲淹れるわよ。飲むでしょう?」
「……ああ」
この女性は、ヴェルム自身が拾い上げた同居者だ。
ヴェルムの追う組織、睡蓮教団から逃げて来た人物。“公爵夫人”のコードネームを持つ、ジェナー=ヘルツォーク。
ジェナーは追手を警戒してほとんど外出をすることはないが、その分今はこのマンションでヴェルムの仕事に関するものから日常生活まで、様々な雑事を手伝ってくれている。
……こんな時、ジェナーが深く尋ねて来ないのが助かる。彼女も色々と脛に傷を持つ身。悪夢に魘されることなど慣れっこなのだろう。
“さよなら、探偵さん”
もう一度眠っても、きっとあの切ない声が追いかけてきて哀しい夢しか見られない。それならば、現実で生きているジェナーの声を聴いている方がいい。
「ジェナー、それは?」
珈琲のカップの傍らに置いてある、一冊の文庫本に目を留める。ヴェルムに心当たりがないということは、ジェナーの持ち物だろうか。
「あなたの本棚から昨日拝借したわ。自分のものは失くしてしまったから」
「俺の?」
「きっと昔に目を通して忘れてしまったんじゃない? ……『オズの魔法使い』。この帝都エメラルドの名前のモデルになった、エメラルドの都が出てくる物語よ」
「童話か……」
確かに読んだことはあるかもしれないが、ヴェルムはもうほとんど内容を覚えていない。ずっと本棚の隅にしまいっぱなしだったのだろう。
「よければ、あらすじだけでも教えてくれないか?」
それほど興味があったわけではないが、穏やかなジェナーの声を聴いていたくてヴェルムはそう頼んだ。
「いいわよ。でも私は話が上手くないから、あんまり期待しないでね」
静かな一室にやがて穏やかな語り声が響きだす。もう眠るつもりはなかったはずなのに、ヴェルムは半分微睡みながらそれを聴いていた。
帰る方法を探す旅をする少女とその仲間たちの話。小さな体で四苦八苦しながら方法を探す少女はまるでアリスのようだなと思った。
微睡みの中でヴェルムは思う。
「……“アリス”はようやく現れた。俺も“イモムシ”としての役目を果たすよ」
過去は乗り越えなければならない。蛹が蝶へと孵化するように。
そしてこの日、まだ陽も昇らぬ昏い明け方、エールーカ探偵事務所の郵便受けには、手紙が一通届けられる――。
...074
ジグラード学院小等部。本日最後の授業は、担任に急用ができたため読書の時間へと変更された。
図書室に移動した生徒たちは、思い思いに選んだ本を広げている。
「シャトンは何を読んでるんだ?」
「帝都の名称の元ネタになった物語」
小等部の生徒たちが読むような本は、大方ひらがなと絵ばかりだ。子どもたちに交じって今は子どもになってしまっている二人――アリスとシャトンもとりあえず手元の本を広げるが、アリスの方は明らかに身が入っていない。
アリスが読んでいるのは今の名前、偽名でありコードネームでもある“アリス”にちなんで超古典文学『不思議の国のアリス』。そしてシャトンは。
「『オズの魔法使い』か」
ディアマンディ帝国の帝都はエメラルド。通称エメラルドの都だ。これは『オズの魔法使い』という物語に出てくる、偉大な魔法使いオズによって治められていた国の名だ。
帝国を打ち立てた当時の皇帝の名がオズということからつけられた名称だが、肝心の『オズの魔法使い』の物語に出てくるエメラルドの都は、ペテン師であるオズによって緑色の眼鏡越しに見るから緑色に輝いて見せられるだけの偽物である。
「でも好きよ、こういう話」
「そうか? 俺はオズに対して腹が立つけどな。結局ただの詐欺師じゃねーか」
「だからいいのよ。オズが無力なペテン師であるとわかるからこそ、主人公たちは『本物』を手に入れられるのだもの」
「……そんな話だったっけ?」
正直昔に読んだきりで内容をほとんど覚えていないアリスは、シャトンほどこの物語に感動できない。
「うわー、テラス君すっごい難しい本読んでる!」
子どもたちもすでに飽き始めたのか、あちこちで歓声が起こってしまっている。
「今日も平和ね」
「そうだな」
◆◆◆◆◆
チャイムが鳴り、ダイナ=レーヌ教諭はまとめた教本の端を揃えるように教卓を叩いた。
「では、今日の授業はここまでとします」
「ありがとうございました」
生徒たちの礼を受けて、ダイナは教室を後にする。高等部でも、本日最後の授業が終わりを告げた。
「よーし、今日も一日平和に乗り切ったぞー!」
「学生にとっては、ここからが本番じゃない?」
「そうだな!」
短いHRを終えて帰宅する者、部活に行く者。するとはなしに教室で駄弁り始める者等、それぞれの放課後がやってくる。
彼らの一団も例にもれず放課後の予定について話し合っていた。
「食堂でおチビちゃんたちと待ち合わせ?」
「うん。実はこんなものが手に入りまして」
レント=ターイルは教室に残った友人たちに手元のチケットを見せる。
「ベルメリオン=ツィノーバーロートの宝石細工展……」
ヴェイツェ=アヴァールが興味を示し、チケットのタイトルを読み上げた。
「マジで? よく手に入ったなーそんなもん」
フート=マルティウスは目を丸くして感心する。
ツィノーバーロートの宝石細工展のチケットは、とある理由により、余程のコネでもなければ手に入らない大人気なのだ。
「へっへー。ちょっとした伝手でね。でさ、このチケット、十五枚もあるんだよね」
高等部の親しい友人に声をかけてもまだ余ってしまう。それならば魔導学の講師ヴァイス=ルイツァーリの預かり子であるアリス=アンファントリーを通して面識を持った、小さな友人たちにも配ろうかとレントは考えているらしい。
「十五人か、となると……」
「レント、フート、ムース、ヴェイツェ、アリス、シャトン、カナちゃん、ローロ君、ネスル君、テラス君、フォリーちゃん、それに私も御相伴に預かっていいのよね?」
「もちろん」
ギネカが参加メンバーを指折り数える。
「ルルティスはどうする?」
友人の一人であるアリストが現在帝都の外に出ていて休学中のため、人数に余裕がある。レントは最近編入して来たばかりの友人を誘ってみるが――。
「ごめんなさい。物凄く興味はあるけれど、その日はちょっと用事がありまして」
「最近忙しそうだね」
「あああ。もったいない。私の分も楽しんで来てくださいね……」
「へぇ、ランシェットはベルメリオン=ツィノーバーロートに興味があるのか」
フートが興味深げにルルティスの顔を見る。
「それとも、興味の対象はもう一つの方?」
「両方ですよ。怪人マッドハッターが狙っている呪われた宝石展なんて、興味を持つなって方が無理です」
「それもそうだよな」
かつての狂った芸術家、ベルメリオン=ツィノーバーロートは、曰くつきの宝石細工職人として有名な人物だ。
彼が手がけた宝石細工はそれは見事なものだったが、同時にその宝石を身に着けていると呪われて狂い死ぬという、数々の忌まわしい伝説を作った。
以前にこの一行が見に行った美術展で公開されていた絵画を描いた画家、エリスロ=ツィノーバーロートの兄でもある。
そしてその時の絵画もまた、怪人マッドハッターの標的となっていた。
ツィノーバーロート兄弟の呪われた芸術作品は、怪人の目を惹きつける何かがあるのだと、世間ではもっぱらの評判だ。
そして一部の人間たちは、その「何か」こそ睡蓮教団が崇める邪神・グラスヴェリアの“魂の欠片”であることを知っている。
名残惜しげにしながらも誘いを断ったルルティスは、今日もまた用事があると言って早々と教室を後にした。
「ギネカさんまでで十二人、ルルティス君が行けないなら、あとの二人はどうします?」
ルルティスの背を見送り、ムースが改めてレントに問いかける。
「またヴァイス先生とダイナ先生でも呼ぶか?」
「その二人なら、私たちと一緒に行動するよりも、ヴァイス先生に二枚まとめてチケットを贈る方が喜ばれると思いますけど」
「俺がアリストに怒られるのでその方向はなしで」
シスコンの友人の名を出し、レントは笑顔でそのルートを潰す。弟のアリストがいないところで姉のダイナを口説くヴァイスの恋路を応援などしようものなら、後でどんな目に遭うかわかったものではない。
「子どもたちが多いんだから保護者役で来てもらえりゃいいっしょ」
フートもあっさりそう頷く。
そしてヴェイツェが、暗黙の了解ですでに人数に含んでいる最後の一人の名を出す。
「それにしても、エラフィは今日どうしたんだろう?」
彼ら以外に人気のなくなった教室で、結局今日一日使われることのなかった空席に目を向ける。
「それだよな。電話もつながらないしメールも返ってこないし」
「アリストならともかく、エラフィにしては珍しいわよね」
「ま、そのうち返事が来るだろ」
一行は、子どもたちと顔を合わせるために食堂へと移動する。
「最近のダイナ先生は機嫌が良さそうだね」
廊下を歩きながら、ふとヴェイツェが口にする。
「そう言えば、アリストが一度戻ってきたらしいわよ」
「本当に?」
ギネカはさりげなさを装って、友人たちに情報を流した。
「いつ来たの、あいつ。まったく、俺たちに何の連絡もなしにー」
レントが頬を膨らませ、周囲がそれを見て笑う。
「でも、それでダイナ先生も落ち着いたんだね。やっぱり直接顔を見られない分、心配してたんだろうね……」
「そうね」
「……」
友人たちの会話を聞きながら、フートは一人考え込んでいた。
アリスト=レーヌ。そして、アリス=アンファントリー。
先日、怪人マッドハッターとしての仕事をした際に知ってしまった事実。同い年の友人が十年も若返って偽名を使い傍にいたということは、フートとムースを酷く驚かせた。
なんとか平静を装って日常生活を送っているが、この事実をどう受け止め、どのように問題を解決すればいいのか正直今のフートには見当もつかないでいる。
「フート、大丈夫?」
「……ああ」
怪人の仕事を手伝う幼馴染、ムースも事情を知った仲間だ。しかし彼女は“アリスト”が“アリス”へ変わる瞬間を直接その眼で見たわけではないためか、いまいち実感が湧かないらしい。
フートとムースも盗みという後ろ暗い所業に手を染めてしまっているため、迂闊にアリス……アリストへ直接確かめることもできないのがフートの困惑の原因にもなっている。
「大丈夫だ。どちらにせよ……奴らを捕まえるのが一番の近道なんだ」
フートが怪人マッドハッターとなって兄を探すのも、アリストがあの姿になったのも、睡蓮教団の存在が深く関わっていると言う。
ならばすべての真実を解き明かし、お互いが大切なものを取り戻す鍵もまた睡蓮教団の打倒にある。
その時自らの罪もまた白日の下に晒されることとなろうが、かまいはしない。
もう動き出してしまったのだ。止めることなどできない。この罪を免れることはできない。
睡蓮教団の一員で不思議の国の住人と呼ばれる二人、ティードルダムとティードルディー死亡のニュースを聞いた際にフートはそれを自覚した。
◆◆◆◆◆
一行は食堂で小等部の子どもたちと顔を合わせる。
「例の宝石展? 行きたーい!」
「来週だけど、みんな都合はつくかな」
「うん!」
子どもたちはレントに差し出されたチケットを見て素直に喜び、全員が同行を決めた。肝心のチケットは失くしてしまうわけにはいかないので、当日までレントが預かることになっている。
「ねぇ、エラフィお姉さんは?」
小等部生たちは七人全員がいたが、高等部生の方は数が足りない。エラフィは遺跡探索こそ参加しなかったもののポピー美術館には同行したし、この学院内ではしょっちゅう顔を合わせている。
彼女の不在について尋ねたアリスに、レントたちも肩を竦めてみせる。
「こっちもわからないんだよ。まったく連絡が来てないんだ。電話もメールも通じないし」
「え?」
その言葉に、アリスが目を瞬かせる。
「……携帯、本当に通じないのか?」
「あの人、よくこういうことするの?」
「いいえ。エラフィは放課後や一人の時間は自由にする分、学院には真面目に通うタイプで――」
その時、食堂の入り口が騒がしくなり始めた。
...075
「ヴェルム?」
「え? なんで?」
年齢的には高校生だが、この学院的には部外者。食堂の入り口に姿を現したのはヴェルム=エールーカだった。
背後にヴァイスもいて、何事か話している。ここからでもわかるくらい不穏な雰囲気だ。
「どうする? 下手なことは言えないが」
「状況説明だけ。アリスを抑えてくれ。あとは俺が――」
「馬鹿を言え。警察も動かせんのに、お前だけでは手が足りないだろうが」
ギネカたち高等部生も、アリスたち小等部生も呆気にとられてそのやりとりを見守っていた。しかしアリスだけは、たまらず彼らに駆け寄った。
「おい、ヴェルム! 一体何があったんだよ!」
「アリス」
子どもの振りも忘れて問い詰めるアリスに、ヴェルムは何とも言えない顔を向ける。
「話せないって言うなら、無理矢理ついて行くからな!」
「アリス、今はそれどころじゃ――」
「そんな台詞、自分の顔を鏡で見てから言うことね」
シャトンが常よりもきつい口調で、ぴしゃりと告げる。
「酷い顔色よ」
ヴェルムの様子からすれば、何か大変なことが起きたのは明らかだ。
そして事態が決定的になったのは、テラスの言葉だった。
「僕たちは今、エラフィお姉さんが今日学校に来ていない、連絡もつかないって話をしてたんだ。エールーカ探偵は、何を知ってるの?」
「あ……」
小さな子どもたち三人に囲まれて、帝都の切り札と呼ばれる探偵はついに言葉を失う。いつもは証拠を詳らかにし悪事を発く側の彼が、彼に罪を見抜かれた犯人の如く。
「エラフィが……いや、やっぱり駄目だ」
「ヴェルム!」
「そういう条件なんだ。とにかく」
悲壮な程の決意を込めた瞳で彼は言う。
「……俺が、絶対に何とかする。大丈夫だ」
「……」
シリアスな雰囲気とは裏腹に、大丈夫ではなさそう、と誰もが思った。それこそ子どもたちさえ。
「じゃあ俺もついて行く」
「アリス!」
「話せないならついて行くって言っただろ。それにヴァイスは一緒みたいじゃないか。だったら俺が一緒でもいいだろ」
「なら私も行くわ」
「シャトン」
名目上ヴァイス=ルイツァーリの預かり子となっている二人は、その立場を利用して当然のように同行を決めてしまった。彼らが本当にただの子どもなら、確かにこの状況で誰もいない家に帰すわけにも行かないのだが。
「わかった。説明は車の中でする。ヴァイス、出てくれ」
「ちょっと待ってくれよ! 俺たちには一切説明なしかよ!」
「エラフィさんに何があったんですか?! エールーカ探偵!」
フートとムースが食い下がるが、ヴェルムは彼らにはほとんど説明もなしに踵を返す。
「ヴェルム!」
ギネカがすれ違う瞬間の彼の腕を無理矢理掴んで、一瞬だけ引き留めた。
「……! ……気を付けて。アリスたちもよ。慌てると危ないから、焦らず落ち着いて行動するのよ」
手の触れたその瞬間だけ驚愕に目を瞠ったギネカは、すぐに表情を戻すと真剣な口調でそう言った。
「あ、ああ」
強引な接触とその割にあっさりと解放された腕を取戻し、ヴェルムが戸惑った様子で頷く。
追おうとするフートたちを、ギネカが引き留める。
「マギラス! お前、どうして――」
「待って、フート。今、説明するわ」
「ギネカには、何かわかったの?」
ヴェイツェの真剣な瞳に、ギネカも同じだけの真摯さを込めて返す。
「ええ。陰でこっそりヴァイス先生がメールをくれたのよ」
もちろんヴァイスはそんなことはしていない。情報を得たのは、ギネカの特殊技能――接触感応能力によるもの。けれど事情がわかったのは確かだ。ヴェルムのあの態度の意味も。
放課後の食堂の席に座り直し、彼らは額を突き合わせて話を始める。
「落ち着いて聞いてね、みんな。エラフィは――」
◆◆◆◆◆
「「誘拐?!」」
アリスとシャトンが愕然とした声を重ねる。
ヴァイスの車の中、二人はようやくヴェルムからこの状況の説明を受けていた。
「ああ、そうだ。――俺の、せいだ」
「探偵に付き物の逆恨みってやつ? 有名人も大変ね」
その台詞だけで事態の八割を読み取って、シャトンが鼻を鳴らす。
「エラフィがヴェルムの幼馴染だから? でも、なんで?」
ヴェルムに恨みがあるなら本人を直接襲撃すればいいだけの話ではないかと、アリスは詳しい事情を聞きたがる。
「二年前の話だ。今でこそ華麗に事件を解決することに定評のある探偵にも、未熟な時代はあった」
「ヴァイス」
運転席でハンドルを握るヴァイスが口を挟む。
「黙っていろ。お前が言いたくないなら私が話すまでだ。……ヴェルムが過去に担当した事件で、犯人が自殺したものがあるんだ。その犯人の関係者が今回、こいつに恨みを晴らすためにセルフを誘拐して悪趣味なゲームを仕掛けた。ちなみにこの会話も、ヴェルムの探偵事務所に送られてきた盗聴器付きの携帯電話により拾われている」
うんざりした顔で溜息をつくヴァイスの視線は、バックミラー越しにヴェルムのジャケットのポケットに向けられている。そこに件の携帯を入れているということだろう。
「それでみんなに事情を話せなかったのね。この手の事件だと『警察や周囲には言わないように』ってのがセオリーですものね」
「そう言うことだ」
ヴェルムは唇を噛む。彼の頭の中には今、色々な感情が渦巻いているに違いない。
シャトンはそっと、彼の手に自分の小さな子どもの手を重ねた。焦る気持ちはわかるが、焦ってばかりでは事態は解決しない。探偵のヴェルムには言わずともわかっていることだろうが。
「ゲームってのは何だ?」
「……これだ」
アリスの問いに、ヴェルムは懐から取り出した封筒――犯人から脅迫状と携帯電話と共に送られてきた郵便物の中から、二枚のカードを差し出した。
「……暗号?」
「元の手紙がこれね」
アリスとシャトンは意味のよくわからない文章が書かれたカードにまず簡単に目を通した後、改めて脅迫状を読み始める。
そしてすぐに顔を顰めた。
「……一枚は『爆弾を解除し、帝都の多くの民を救いたければ、この文章から始まる旅をして我がもとへ辿り着け』――すなわち犯人につながる道を示す暗号」
「もう一枚は『彼女を救いたければ、この文章から始まる旅をするがいい』……誘拐したエラフィの居所を示す暗号、ってヴェルムこれ……」
「ああ」
いまだ顔色の悪いヴェルムが頷く。
「犯人の要求は、暗号を解いて自分の下に辿り着くか、エラフィを助けるかどちらかを選ばせるものだ」
ヴェルムの身体は一つだ。どちらかの道しか選べない。しかし。
「俺がエラフィ救出を選んだ場合、帝都のある場所に仕掛けられた爆弾が爆発して、多くの犠牲者が出るらしい」
二重の罠。
二重の人質。
もちろん、ヴェルムが帝都を救う道を選べば、エラフィは助からない。
「ちょちょちょ、どうすんだよこれ! だって、ヴェルムがどっちを選んでも」
「落ち着きなさい、アリス。あなたが慌てても何にもならないわ」
「シャトンは落ち着き過ぎ!」
どちらか片方しか救えないなんて馬鹿げている。けれどヴェルムは、必ずどちらかを選ばなければならないのだ。
「落ち着きなさいよ。アリス」
シャトンはあえてアリスの腕を強く掴み、真っ直ぐに目を見てこう言った。
「ここを出る前、ギネカさんにも言われたじゃない。“気を付けて”って。焦らず落ち着いて行動するようにって。ちゃんと思い出してよ」
「ちゃんと……」
言われてアリスは、食堂を出る際のギネカの行動を思い返す。あの時彼女はヴェルムの腕を――。
腕を“掴んだ”。
「あ!」
アリスの突然の大声に、ヴェルムがびくりと肩を揺らす。この状況でそんな声を上げる理由が、ヴェルムにはわからないからだ。
けれどアリスたちは知っている。
彼女が――ギネカ=マギラスが触れたものの記憶を読み取る接触感応能力者であることを。
まずはエラフィが攫われた現場での痕跡を検証しようと、ヴェルムのマンションから学院までの道筋を辿るために車は走る。
ハンドルを握っているヴァイスも、シャトンの言葉に頷いた。
「なるほど、マギラスの言うとおり、落ち着かないと駄目だな」
折しもアリスの携帯にギネカからの連絡が入ったところだ。
電話ではなく、多機能携帯のアプリケーションの一つを利用した連絡ツールの方だった。グループ機能によって主な面子全員とリアルタイムで会話ができる。
盗聴されている以上電話で直接話すことができないのは仕方ないが、これなら最低限の連絡はとれる。
ギネカからのメッセージにはこう記されていた。
『探偵さんの心は決まった? 私たちはもちろん直接エラフィ救出に動くつもりよ。帝都の全てを救える探偵はヴェルム一人かもしれないけれど、エラフィの友人は私たち全員だもの』
...076
「そんなの逆恨みじゃん!」
「って言うか、正直それエラフィ関係ないよね……?」
ギネカから先程のヴェルムの態度とエラフィのことについて事情を聞いた友人一同は、一斉に犯人に向けて非難の声を上げた。
「ヴァイス先生の言うところによると、ヴェルムは探偵として活動し始めてから、他の友人関係をほとんど絶っているらしいのよ。親しい知り合いは警察関係ばっかりだし……幼馴染の女の子ってことで、エラフィは格好の標的だったんでしょうね」
「そうだな。ジグラード学院の生徒とは言っても、セルフはマギラスと違って、襲撃を仕掛けてきた相手を白兵戦で返り討ちにできるような戦闘力はないし」
「ど、う、い、う、意味、よ!」
「いでっ!」
軽口を叩くフートの頬を、ギネカはこれでもかと抓る。
「しかし厄介なことになったね。エールーカ探偵がエラフィを助けようとすれば、帝都に仕掛けられた爆弾が作動してしまうなんて」
「ま、俺たちのやることは決まったけどな」
ヴェイツェの溜息に対しフートが口を開きかけるが、彼よりも早く別の方向からその言葉が飛び出す。
「エラフィお姉さんを助けに行く!」
「そうそう……って、あれー」
台詞をとられたフートだけでなく、高等部生全員が驚きの目で彼らを振り返った。
「って、君たちまで」
困惑するレントに、小等部生五人は口ぐちに言い返した。
「当然のことですよ!」
「エラフィ姉ちゃんが危ないんだろ!」
「私たちが助けに行かなきゃ!」
ローロが、ネスルが、カナールが、真っ直ぐな目で訴え。
「帝都の人を救えるのは探偵だけ、でもエラフィ=セルフの知り合いはここにいるみんな……」
フォリーがいつもの淡々とした口調ながら告げる。
「まぁ、最悪の場合でもこっちの道なら、僕らはエラフィお姉さん一人を助ければいいだけだからね。帝都の大勢の住民を救うなんて大業は、名探偵に任せとこうよ」
では暗号にとりかかろうか、とテラスの号令の下、子どもたちはギネカの書き写した暗号文に目を走らせた。
「おいおいおい、待てよお前ら。相手は女子高生攫って帝都に爆弾を仕掛ける凶悪犯だ! 危険なんだぞ!」
なんとか思いとどまらせようとするフートの言葉にも、子どもたちは動じるどころか勇気を鼓舞されるようだった。
「でも、今この瞬間もエラフィお姉さんはもっと危険な立場なんでしょ?」
「僕らが助けに行かなければ、誰が行くって言うんですか!」
迷うどころか、臆する様子の一つすらない。
「あなたたち」
「ギネカお姉さんも、私たちのこと反対するの?」
「いいえ。このこと、アリスに連絡するからちょっと待ってって言いたかっただけよ。暗号の解読はさっさと取り掛かる必要があるけれど、向こうとの連携も意識しましょう」
「ギネカさん!」
慌てるムースと顔を輝かせる子どもたち。小さな目が二つの暗号を真剣に見比べて、何とかその意味を解き明かそうとする。
二つの暗号はそれぞれ犯人の居場所とエラフィの監禁場所に繋がると言うが、どうやら関連性があるようだ。一方を解けばもう一方も解けるかもしれない。
「マギラス……」
「どっちにしろエラフィを放っておくわけには行かないわよ。暗号だけでも解ければ、ヴェルムが動くのも楽になるわ。資料集めだって解読の相談だって、盗聴器をつけられている向こうより、私たちと、そしてこの子たちの方が自由に動けるはず」
それに子どもなら、犯人の警戒心も働かないかもしれない。ギネカの説得に、ついに高等部の面々も折れた。
最悪の場合、危ないことはさせなければいいだけの話だ。決定的な現場に踏み込むのはフートたちがやればいい。
「……凄いね」
ヴェイツェが感嘆の声を漏らす。
「僕たちがエラフィ救出を決断できるのは、ヴァイス先生のおかげで魔導をかじっていて、少し腕が立つくらいの犯罪者相手なら負けない自信があるからだ。でも彼らは違う」
子どもたちには何もない。大人に勝てるような腕っぷしも権力も、いざとなった時に自分の身を守ってくれるような要素は何もないのだ。
それでも彼らは自分たちの大切な人間を助けるためなら、平気で危険に飛び込むことを決断する。
「僕たちも怖気づいてる場合じゃないよ」
「別に怖気づいてなんか」
「そうだね。自分のことなら怖くない。でも自分のせいで誰かを傷つけるのは怖い。さっきのエールーカ探偵と同じだ」
ヴェルムがどうしようもない二択を迫られたように、独りでは解決できないこともある。
「彼らの力を僕らも借りよう。僕らの力も、どこかの探偵さんに貸そう。それでいいじゃないか」
「……そうだな」
フートとヴェイツェも暗号解読に参加することにした。ギネカたち三人は、もう子どもたちの上から暗号文を覗きこんでいる。
◆◆◆◆◆
「ええ、ええ。そういうことですので、本日のお約束の件はまた後日改めて伺います。……申し訳ありませんでした」
「警察の知り合い?」
「ある殺人事件解決のために力を貸してくれって言われてたんだけど、今は警視庁に行くわけにはいかないから」
ヴェルムは父親の代からの知人、捜査一課のシャフナー=イスプラクトル警部に、本日の訪問に関して断りの電話を入れた。
犯人から持たされている携帯電話についている盗聴器に、あえてその旨を告げる念の入れようだ。こうしてきちんと連絡を入れておかないと、ヴェルムの訪問がないことを不審に思った警察が動き出してしまう。
ヴェルムとヴァイスがわざわざ学院の食堂に寄ってアリスには簡単に事情を説明しようと思ったのもそのためだった。事情を知る者がいなければ、エラフィと連絡がつかないことに気づいた友人一同が、警察に連絡してしまう可能性があるからだ。
当初の予定では、ヴェルムはアリスとシャトンにだけ事情を話し、彼らの傍にヴァイスもついてもらって、自分一人で事件解決のために動くつもりだった。
しかし年長の友人であるヴァイスは、それはあまりに危険すぎるとヴェルムの案に反対していた。彼の預かり子という立場であるアリスとシャトンに関しては、この際協力して動けばいいと。
自分のことに他者を巻き込んで傷つけたくないヴェルムと、探偵一人で危険なことをさせたくないヴァイスの意見が割れていたのが、食堂に入ってきた時の会話だ。結局アリスとシャトンは無力な子どもを装ってヴェルムについて行くことを決断し、残った友人一同には、ギネカの超能力を介して事情が伝わることになった。
接触感応能力で全ての事情を読み取ったギネカの下には、コピーを送るまでもなく脅迫状や暗号文の内容も届いているし、ヴェルムの思考も伝わっている。
勝手にヴェルムの心を読んだ形になるギネカだが、この件に関してアリスたちは全面的に彼女の味方に回る予定である。エラフィはあの場にいた全員の友人であるのに、一人で行動しようとしたヴェルムが悪いのだ、と。
「それよりも探偵さん、さっき、ヴァイス先生が二年前の事件と言ったわね」
普段事情を知る者たちの間ではヴァイスのことを“白騎士”と呼ぶシャトンだが、今回は人目ならぬ盗聴器の向こうを憚って、お子様モードでの呼び方を採用したらしい。
「良かったら話してくれない? 二年前に何があったのかを」
「……」
消えない過去が、免れぬ罪が。
二年の時を超えて、彼を追いかけてくる――。
...077
帝都警察、別名警視庁捜査一課。終話ボタンを押して電話を切ったものの、シャフナー=イスプラクトル警部は何かがおかしいと感じていた。
今日のヴェルムの様子、何かが引っかかる。多忙な名探偵が依頼を受けて、約束をキャンセルすること自体はよくあるのだが――。
「……そうだ。今日は理由を言ってなかった」
電話口でのヴェルムの淡々とした勢いに押されて確かめるのを忘れていたが、今日のヴェルムは、約束を反故にした理由を説明しなかったのだ。単に忘れたと言うよりも、あえて隠したいという様子で。
他に依頼を受けただけならば、ヴェルムはそれを口にしたはずだ。ここ最近はハンプティ・ダンプティ事件という連続殺人事件解決のために警視庁の依頼を優先してくれてはいたのだが、どうしても断りきれぬ付き合いだってあるだろう。
こちらも未成年を昼夜問わず借り出して事件解決に協力させている負い目からか、その辺りなかなか強く出られない。しかし、今回は――。
「……何か、あったんだろうか」
刑事と探偵と言うだけでなく、知人の息子としても付き合いのある少年の身をイスプラクトルは案じる。
彼の傍に自分たち警察だけではない、誰か他の味方がいてくれるといいのだが。物理的に危険なことをしろという意味ではなく、精神的にヴェルムを支えてくれる人間が。
「警部、例の事件に関してなんですが」
「すぐに行く」
イスプラクトルもまた多忙な帝都警察の警部。部下に呼ばれて、すぐに自分の仕事へと戻らなければいけなくなった。
◆◆◆◆◆
犯人からの連絡が入った。
「!」
固唾を呑んで見守るアリスたちの視線を受けながら、ヴェルムは盗聴器付きの携帯を取り出し通話を開始する。
『二年ぶりだね、親愛なる地獄の名探偵殿』
「……お久しぶりです」
電話の向こう、変声器を使ってはいるが、かろうじて男とわかる声が流れてくる。
その人物に向けて、ヴェルムはいきなり本名で呼びかけた。
「あなたは『――』氏ですね」
『!』
電話の向こうとこちら側で、それぞれ犯人とアリスたちが息を呑む。
『……どういうつもりだね?』
「あの事件で、俺を恨んでいる相手と言えばあなた以外にありえない」
『ははははは! そうか! お前にもわかっていたのか! わかっていて……!』
犯人は些か芝居がかった調子で狂ったように笑うと、すぐに平静を取り戻して言った。
『……まぁ、いい。過去のことは取り戻せやしないんだ。ここで君に長々と恨み言を口にしたところで何になろう』
「え?」
復讐のためにエラフィを攫って悪趣味なゲームを仕掛けてきた犯人とは思えない言葉に、アリスが思わず小さく声を上げる。
しかしそれはアリスの考えた常識とは違う、ただの狂気の発露に過ぎなかった。
『私が彼女を取り戻せぬように、君にもあの少女を“過去”にしてもらおう。とても取り戻すことのできない過去に』
「なっ……!」
「……」
『もちろん帝都の民よりも、君の彼女を優先してもいい。その時は数え切れないほどの犠牲者たちが、君の探偵としての名声が不当であることを証明してくれるだろう』
犯人の言い分を聞くヴェルムの表情は、感情を読み取ることもできない程に凍り付いている。
『どうだい? 君に相応しいゲームじゃないか? 私の愛しい彼女の命よりも、探偵として事件を解決することを選んだ、人でなしの君にはね』
「ちょっと待てよ! その理屈はおかしいだろ!」
「アリス、ちょっと黙って」
『……さっきからそのお嬢ちゃんたちは元気すぎるようだな。足手まといを引きつれて大丈夫かい? 探偵殿。こちらとしても余計な犠牲を増やしたくはないのだがね』
「どの口がそれをもがもが」
「アリス、落ち着きなさいってば」
シャトンがアリスの口を両手で塞ぎ、強制的に会話から引きはがす。
『君の味方はその小さな友人だけと言う訳だ。それとも、警察の協力者として度々名のあがるルイツァーリ講師に泣きつくかね? どうせ君たち二人で何が出来る訳でもないだろうが』
「む」
自分の事を言われて、ヴァイスが不愉快だと眉根を寄せる。
「……ヴァイスはただの運転手だ。彼に暗号を解く力はないし、子どもたちだって同じことだ」
『その通りだね。余計なおまけがついたとは言え、私のゲームの相手は君一人。ああ、もちろん私たちはいつでも君たちの行動を見張っているよ。ルイツァーリ講師が君の傍を離れて単身でもう一つの暗号を解くようなことがあれば、すぐに少女の居場所に置いた爆弾を爆破させてもらう。選べるのは帝都の民か君の大切な恋人か、どちらか一つだよ』
「エラフィは恋人なんかじゃない……と、あなたに言っても無駄なんでしょうね」
『それでも君の大切な人間に間違いはあるまい。君が彼女を選ばなかった場合、彼女には爆弾の置かれた部屋で、君に見捨てられる恐怖を散々に味わって死んでもらう』
「……」
『健闘を祈るよ、名探偵』
そして電話は切れた。
「あーもう! なんだよあいつ!」
「アリス、うるさいわよ。犯人を刺激するような行動は慎んでよね」
ようやくシャトンから口を解放されたアリスが悪態をつくと同時に、シャトンが窘める言葉をかけた。
と、思うと彼女は、同時にアリスとヴェルムに自分の持っている多機能携帯と、タブレット端末の画面を見せてくる。
“このまま普通に会話を続けて。いい? 変な反応しちゃ駄目よ”
アリスとヴェルムはハッと目を瞠り、その無言の驚きさえも隠すように、アリスは平静な声を絞り出した。
「……でもさー、腹立つじゃん。なんでエラフィお姉さんが、こんな目に遭わされなきゃなんないわけ?」
「探偵は大変なのよ。私たちが邪魔してしまったら、ヴェルムお兄さんは誰も助けられないわよ」
声に出してこの状況で考え得る子どもらしい会話を続けながらも、アリスとシャトンは手元の携帯とタブレット端末に情報を映して筆談を進めていた。ヴェルムは自分の携帯を使うと疑われる可能性を考えて何も出さない。
代わりに、この先のカモフラージュとなる台詞を発した。
「とにかく俺は、この暗号について考えてみるよ。目的地に着くまで二人は何をやってもいいけど、できるだけ静かにしててくれ」
「「はーい」」
タブレット端末と携帯のタッチパネル画面上のキーボードを、大人のものよりも細く繊細な子どもの指が軽やかに踊って、音もなく言葉を綴る。
シャトンは携帯とタブレットを的確に使い分けて、アリスと会話しながら必要な情報は随時学院のギネカたちの方へも流していた。
“お手柄よ、アリス。彼らは私たち小等部生の情報を持っていない。それに、複数犯のようね”
“どういうことだ”
“さっきのイモムシとの会話。あなたのことを女の子と間違えた。確かに今の子ども姿のあなたは女の子とよく間違えられるけど、ヴァイスの預かり子について書類関係を詳しく調べればわかることよね。いえ、そんなことをしなくても学院の生徒についてほんの少し聞くだけで”
“俺が男だとわかるはずってことか。相手は俺の声や外見しか知らないんだな? 詳しい事情は調べていない”
“それにこうも言っていたわ。「私たちはいつでも君たちの行動を見張っている」。「私たち」と言うことは、相手は複数犯よ。イモムシも気づいているでしょう?”
“ああ”
自分の携帯が使えないヴェルムは、アリスの携帯を覗きこんで返答を打つ。その間にシャトンは同時進行でこの状況を自分の携帯からギネカたちに説明していた。アリスの携帯とシャトンのタブレットを使ってこの場での筆談を行い、学院の友人たちには、シャトンの携帯から情報を送ったり、アプリケーションでやりとりをすることになる。
“さっきイモムシが犯人と電話している間、私は私で色々不審な行動をとってみたのよ。泣きながら電話をかける真似をしたり。無言でね”
“?”
怪訝な顔になるアリスと、すぐに意図を察するヴェルム。
“そうか。相手は盗聴器を仕掛けてはいるが、カメラは使っていない。こうして筆談しても問題ないと言う訳か”
犯人が本当に逐一ヴェルムたちの行動を見張っていたなら、警察に通報するかのような行動をとったシャトンを見咎めるはず。それがないと言うことは、彼らは携帯に盗聴器を仕掛けただけで、全てを見ている訳ではないらしい。
だから犯人たちの視界の死角を見つければ、こうして音もなくやりとりできるのだ。
“今は車の中だからいいけれど、それでも一応外では注意しましょう。特に犯人の暗号で呼び出されたような場所にはね”
「あー、お前ら、ちょっといいか。コンビニに寄るぞ」
「コンビニ?」
無言で携帯を使った筆談を交わすアリスたちに、運転席からヴァイスが声をかけてくる。彼はそのままさっさと近くのコンビニの駐車場を見つけると、車を停めた。
そして無言で彼らに自分の携帯を突きだした。アプリのメッセージにはこう書かれていた。
“私一人除け者にするんじゃない”
“ヴァイス、お前……”
運転をしているので、会話に交じれなかったことが寂しかったらしい。
...078
「コンビニで地図を買ってくる。私も帝都の全ての道を知っている訳でもないし、犯人の暗号を解くのにも必要だろう?」
「……そうだな、頼む。ついでに長期戦を見越して何か軽食も頼んだ」
「腹が減っては戦はできぬ! って言うもんね」
「そう言えば慌てて出て来たから、三時のおやつを食べそびれちゃったわ」
ヴェルムのもとに送られた暗号文には時間指定があった。タイムリミットは真夜中であるし、どちらにしろ途中で休憩は必要になる。
それに食事をとっているフリで音を立てれば、筆談の際の音を誤魔化すこともできる。このぐらいはアリスもシャトンも察せることで、あえて現金な子どもの体でおやつを所望した。いや、フリも何もアリスたちは本当に食う気満々だが。
暗号の解読に、帝都の地図が必要になるのも本当だった。携帯の小さな画面に表示されるマップでは広範囲を見ることができないし情報も少ない。
そんな訳でコンビニの駐車場に車を停めたヴァイスは、本当に買い物をするために一度降りる。シャトンもそれについて行った。
特に打ち合わせたわけでもないが車中に残ったアリスとヴェルムは、それを何となく見送ってから口を開いた。ヴェルムの方から。
「……すまないな。こんなことに巻き込んで」
「別に気にしないでいいよ。エラフィ……お姉さんを助けたいのは、みんな一緒だもん」
言葉遣いに普段よりは気をつけながら、アリスはヴェルムと会話する。口調は七歳の子どもを心がけても、実年齢はヴェルムと同じ十七歳の男として。
「一人で抱え込み過ぎないでよ、ヴェルムお兄さん。こっちも出来る限り協力するからね! みんなでエラフィお姉さんを助けよう!」
「……ああ」
犯人がアリスたちをノーマークであれば他愛ない子どもの無根拠な励ましに過ぎないが、この台詞はアリスの正体やギネカたち学院組との連携を知っている者からすればまったく意味が異なる。
「これからどうするの?」
「まずは暗号の解読に取り掛かる。とは言っても冒頭部分しか記載されていないようだが……。俺が向かうなら、犯人を追って帝都の爆破を防ぐ方だろうな」
「エラフィお姉さんの方は……」
ギネカたちに任せる。
先程の連絡を受けて、アリスの方はそう決めていた。そしてヴェルムも、同じように決断したのだろう。
真っ直ぐにアリスの目を見つめて告げる。
「犯人を捕まえて爆破を止めれば、エラフィも助けられるはずだ」
「そうだね!」
楽観的過ぎる言葉で真意を包み隠し、アリスとヴェルムの二人は道化を演じる。
彼らは不思議の国の住人。コードネームでお互いの正体を包み込み、真実を覆い隠すのには慣れている。
それが辛くないなんて言わないけれど。
突如、車中に響いた軽やかなコール音に、アリスはヴェルムの胸元を見た。
「電話……探偵の助手の方からだな」
「そんな人いたんだ」
「ああ。他の仕事の話かもしれない。――少しだけ電話に出るぞ。余計なことは言わない」
盗聴器越しの犯人に念のため言い置き、ヴェルムは発信者を確かめ通話ボタンを押す。素早い動作にアリスはその名前を見そびれた。
“公爵夫人”
「どうかしたか?」
『……あなたこそ、ちょっと様子がおかしくはない?』
ジェナーはヴェルムの異変に早々に気づき、逆に尋ね返してくる。
「仕事の件でちょっとトラブルが発生しただけだ。手順を踏めば問題なく対処できるから大丈夫。でも今日一日は、連絡を控えてくれるとありがたい」
『……そう。気を付けてね。私にできることがあればいつでも言って』
「ああ」
礼を言って電話を切ろうとしたヴェルムに、彼女は待ってと少しだけ追いすがった。
『忘れないでね、ヴェルム。この都の名はエメラルド。オズの作った街の美しさは全てぺてんかもしれないけれど、大切なものはいつも足下にあるのよ』
「……そうだな」
ジェナーが好んでいる物語の教訓。偉大な魔法使いの正体はペテン師で、主人公たちの一行は望みのものを本当の意味でもらうことはできなかった。
けれどそれを求めるための旅路で、結果的に彼らは仲間のため、自分の中にすでにあったそれらを上手く導き出すことができるようになったのだ。
昨夜いつになく弱っている姿を見せてしまったヴェルムを、ジェナーはこんな形で少しでも励ましてくれようと言うのだろう。
「……ありがとう。待っててくれ。必ず帰るから」
『……本当に気を付けて』
通話が終わると、黙ってそのやりとりを見守っていたアリスがきょとんと首を傾げている。
「今の人、本当にただの探偵の助手? エラフィと一緒にいる時より、よっぽど恋人相手みたいな態度じゃなかった?」
「そんな訳ないだろう。俺にとって女の知り合いは誰も彼も恋人なのか?」
「あ、やっぱり女の人なんだ。へぇー」
「アリス……」
この緊迫した事態の最中に一体何の話をしているのだろう、自分たちは。
ヴェルムがそう思ってげんなりし始めた頃、地図と食べ物を色々買い込んだヴァイスとシャトンがようやく車まで戻ってきた。
◆◆◆◆◆
暗い部屋の中、男は盗聴器の向こうから流れてくる声を聴いている。
相手に自分が常に監視されていることを伝えてプレッシャーをかけるための仕掛けだったのだが、その目論見は意外な相手に崩されてしまった。
ヴェルム=エールーカ探偵の知人であるジグラード学院講師ヴァイス=ルイツァーリ。攫った少女とも面識のあるその男が探偵の捜査を手伝うところまでは予想通りだったが、余計なオマケがついて来てしまった。
ルイツァーリ講師が預かっているという小さな子ども二人。この二人が事件に関する緊張感をことごとく木端微塵にしていくのだ。
十にも満たない小学生二人。何ができるという訳でもないだろうが、好き勝手なことを雀のように吐き散らしていくのはとにかく不愉快だった。
「いや、これはこれでまた一興」
「ん?」
せいぜい他愛ない子どもの慰めの言葉に希望を持ち、それを最後に打ち砕かれればいいのだ。その方が探偵の絶望はより深くなる。
「どうかしたのか?」
「いえ、向こうの戦力に余計なものが追加されたと言うだけですよ」
同じ部屋に待機していた組織の協力者が、怪訝な顔で問いかけてきた。
「計画を成功させたいなら、そういうことは早く言うべきだと思うが?」
そう言ってルーベル=リッター――コードネーム“赤騎士”は、男が用意したモニタを覗き込んだ。
「ん? ……この子どもたちは」
「白騎士が預かっているという子どもですよ。とはいえ、こんなオチビさんたちが増えたところで脅威にはなりませんけれどね」
「……そうだな」
よく知った顔を二つ見つけて、赤騎士は気もなく頷いて後は黙り込む。その様子は画面の中の子どもたちよりも、それを大した脅威ではないと吐き捨てた男の愚かさこそを観察していた。
「あの探偵は大切な相手よりも、帝都の民を救う方を選んだか……。そうだ、貴様は所詮、自らの名声のために誰かの愛する人間を殺すことに躊躇のない冷血漢なんだ」
「……」
男は二年前のある事件の復讐のために、睡蓮教団へと入信した。
今回その時の探偵、ヴェルム=エールーカへの復讐のために計画を実行し、教団の方からも何人か人員が配置されている。
彼らにとっても教団への復讐を望むエールーカ探偵は目障りであるし、その協力者である白騎士ことヴァイス=ルイツァーリはもっと目障りな存在だからだ。
その二人をまとめて消せるなら、少しくらいはこの愚かな男の妄想に付き合ってやってもいい。そのためにハンプティ・ダンプティを追っていたはずの赤騎士まで、今回こちらに動員されてきた。
いざとなれば、この男を切り捨てればそれで済む。
しかしどうやら状況が変わったらしい。
このまま無関係でいるとも思わなかったが、予想以上に真正面から、“彼”は事態に飛び込んで来た。
それでこそ物語を動かす主人公――“アリス”だと、赤騎士はほくそ笑む。
「ま、今回の主役はアリスと言うより“ドロシー”なのだが」
少女の冒険物語に縁のある少年は、この事件の鍵を握ることになるのかもしれない。




