12.終わらない六時
...067
「なぁ、シャトン、借りってなんだ?」
「ああ、それは……」
シャトンが最後にマッドハッターに言っていたことが気になり、アリスはヴァイスのマンションに戻ってから詳しく尋ねた。
そこで判明したのは、シャトンが教団から逃げ出す際に手を貸してくれたのがマッドハッターだったという驚くべき事実だ。
自らが開発した禁呪とはいえ、子どもの姿になってしまえばできることは限られている。
そんなシャトンの目の前に現れたのが、あの怪人だったらしい。
『手を貸しましょうか、お嬢さん』
『……あなた、誰?』
『私はコードネーム“帽子屋”。それとも怪人マッドハッターと名乗った方が通りが良いでしょうか』
降りしきる雨の中、冷えていく体を黒いマントが包んだ。
『あなたはこれからどうするのです?』
『……どうにかして、教団に禁呪の使用を止めさせるわ。術式の構成資料は全て燃やしたから誰も手出しはできない。でも、もう白兎たちが覚えてしまった分はどうにもできない』
彼に対抗できる戦力が必要だ。
そう考えたシャトンが思い至ったのが、かつて教団を壊滅寸前にまで追い込んだと言うコードネーム“白の騎士”――ヴァイス=ルイツァーリの存在だった。
『あなたは悔いているのですね。あの術を作ったことを』
『ええ……』
『なら、良かった』
『え?』
怪人の落とした意味深な呟きに、シャトンは思わず仮面の向こうの瞳を覗き込もうとする。
だが、顔隠し用の白い仮面はその下の素顔を彼女に明かしてはくれなかった。
『十年待ちましたよ、“チェシャ猫”。本当の私を取り戻すのに。それでもまだ足りない。盗まれた時間は戻らない』
『待って! マッドハッター、あなたまさか……!!』
禁呪が本格的に使用されるようになったのはここ数か月。
だがそれまでにもチェシャ猫は術の開発と改良を進めていた。それこそ十年近く前の、ほぼ実験段階の時から。
十年前に現れ、いつの間にか消え、また最近復活したという怪人マッドハッター。
彼はまさか――。
確信が持てないまま彼女は彼に助けられ、無事に白騎士とアリスと合流することができた。
チェシャ猫の過去を聞いたアリスが呆然としている。
「そんなことがあったのか……って、それなら早く教えてくれればいいじゃん」
「言ったでしょう、確信が持てなかったって」
今まで怪人のことなど何一つ知っている素振りを見せなかったシャトンの態度に口を尖らせて不平を訴えていたアリスは、不意にあることに気づいた。
「って、あれ? でもそうしたらマッドハッターはお前のことを知っていた……ようには見えなかったんだけど……」
今日アリスが顔を合わせたマッドハッターは確かにアリス=アンファントリーの保護者がヴァイスであることを知っているなど情報通のようだったが、シャトンことチェシャ猫と面識があるようには見えなかった。
あったらアリスたちが、結界の影響から解放されて縮んだ際にあれほど驚くまい。
「ええ。私もそう思ったわ」
「へ? じゃ、どういうこと?」
「仮面の下の素顔なんて、誰にもわからないと思わない?」
「……お前を助けたマッドハッターと、今日のマッドハッターは別人だってことか?」
困ったように笑うシャトンに、アリスは眉根を寄せながら慎重に尋ねる。
「さぁね。ぱっと見の雰囲気は一部の隙もなく同じ人間に見えたけれど」
だが、見た目なんて当てにならない。今は彼女たちが誰よりも知っていることだ。
外見などいくらでも取り繕える。
変装でも、整形でも、魔導でも。
「どうなってるんだよ……」
「私が聞きたいくらいだわ。でも、完全に無関係ってわけでもなさそうじゃない?」
今のマッドハッターが十年前と別人だなんて話は、帝都で五年暮らしていたアリスも聞いたことがない。マッドハッターの偽者自体はよく出現して話題になるのだが、今日の彼は間違いなく「本物」ではあるのだろう。
「なんにせよ、接触して彼の立場を探るという目的は果たせたわね」
「こっそり探るどころかこっちの秘密もばれたしな」
まぁ、向こうも後ろ暗い身。アリスたちを教団の危険に晒す意味もないだろうし、そこから情報が漏れる危険は薄い。
「それより問題はティードルディーとティードルダムの方だろう」
ヴァイスも加わり、三人で額を突き合わせてこれからどうするかを話し合う。
その作業は、翌日のニュースによって無意味なものへと変わるのだが。
◆◆◆◆◆
マッドハッター側でも、共犯者の眠り鼠ことムースと共に、その話をしていた。いつものアジト。いつも通りの仕事の成功。けれどその後奇妙な子どもと顔を合わせて睡蓮教団と対峙したことは、いつも通りではない。
アリス――あの小さな子どもが、自分の友人のアリストだって?
とても信じられないと訴える理性と一部始終を目撃した瞳が今にも喧嘩を繰り広げそうだ。
通信で聞いていたムースなど、いまだに半信半疑である。何か幻覚でも見せられていたのではないかとすら疑われた。そんな手の込んだ意味不明な幻覚を教団が用意する必要もないのに。
けれどこの二人がそれ以上に気になったのは、アリストよりももう一人の少女が口にしたあの言葉だった。
「借り? 借りってどういうこと?」
「知らん」
「知らんって」
「言葉のままだ。俺が知らなくて、マッドハッター関連ってことは……」
「……まさか」
ムースは震える唇で、その言葉を口にした。
「ザーイが……生きてるの?」
「俺はそう考えている」
ティードルディーとティードルダムの言動からは、十年前にマッドハッターと対峙し、ザーイエッツを殺そうとした意志が窺えた。けれど同時に、ザーイエッツの死を確認したわけではないらしいこともわかっていた。
だからフートもムースも、諦めずにこれまでザーイエッツの生存を信じてこれたのだ。
そして今、ようやくもう一つの手がかりを見つけた。
「でもその相手って、ヴァイス先生のところにいるあの子なんでしょう」
「ああ。んでもう一人が」
「アリスト君……私たちが思っていたよりずっと大変な目に遭っていたのね」
期せずして姿を眩ませた友人の情報まで手に入れてしまった。向こうはこちらがフート=マルティウスだとは気づいてはいまい。
「近くで動向を見張れると言う意味では便利なんだけどなー」
「気を抜くとこっちの正体もバレそうね」
聞きたいことのある人物がすぐ近くにいる。それがわかっているのに簡単に話しかけられないというのは、なんだか酷くもどかしい。
だが、金銭的価値として自分の懐に入れるわけではないとはいえ、フートやムースはすでに怪人マッドハッターとして盗みに手を染めてしまった身。自分たちの正体に気づかれてはならない。
特にムースに関してはフートが巻き込んだようなものだ。彼女だけは自分の罪に巻き込んではいけないとフートは考えている。
そしてもう一人の面影が脳裏を過ぎる。
この十年兄の影を追いかけ続けていたフートが、唯一恋した小さな少年。
この感情が正確にはどんなものなのか、フート自身にももうわからない。ほんの少し言葉を交わすだけで胸が高鳴る。でも周囲からはもちろん歓迎されない思いだ。
その感情は何かの間違いだと諭されて揺れる思いもある。
自分は十年前、彼のようなしっかりした子どもでありたかったのだろうか。だから夢を見ているだけなのだろうか。
天才だなんて嘘。兄に、世界に対し、劣等感だらけの代役マッドハッター。
フートはテラスにだけは秘密を知られたくないと、心からそう思う。
「フート、どうしたの?」
「ああいや。なんでも」
考え込んでいた様子を気にかけられ、フートは幼馴染になんとか笑顔を返した。
大丈夫。頭が沸騰しそうな程にややこしいが、自分たちはちゃんと前に進んでいる。
現在行方不明中の本物の帽子屋、ザーイエッツに少しずつ近づいて言っている。
「とりあえずしばらくは学院内でもボロを出さないよう気をつけなきゃな」
「ええ。それにティードルディーとティードルダムがあの二人に近づくことも警戒しなきゃいけない」
「おっと忘れてた。そういやあいつらがいたんだっけ?」
「場合によっては、私たちの事情を明かしてヴァイス先生と正式に協力関係を築いた方がいいかもしれないけど……」
「魔導を犯罪に使ってました! なんて言ったら俺の方が殺されるわ」
「だよね……」
マッドハッターの正体はまだバレていない。動くのは明日のアリスたちの様子を見てからだと、ひとまず二人も真夜中の会議を終える。
彼らも無関係ではない衝撃的な事件が、この時間に起きていることも知らずに。
...068
翌日のニュースは、一部の人間たちを激震させた。
「アリス! シャトン!」
普段より三十分も早い時間に、ヴァイスが二人を叩き起こす。昨日は夜遅かったし、今日は日曜。早起きする必要もなければ睡眠時間が削られるのは子どもの体には辛いとわかっているはずなのに。
それでもヴァイスが自分たちを叩き起こさねばならない事態だと、アリスとシャトンは眠い目を擦りながら起き上る。
そしてテレビの画面を見た瞬間、驚愕で眠気も吹っ飛んだ。
「なっ……!」
「ティードルダムとティードルディー……?! なんで?!」
殺人事件があったとニュースキャスターが語る。昨日の真夜中のことだと。
どこか古びた写真の顔は、確かにティードルディーとティードルダムの二人だ。
捜査はまだまったく進んでいないらしい。
だがこれは一連の連続殺人の一つだと――。
「連続殺人?」
そう言えば最近、繰り返し流れている殺人事件のニュースがあったような。いつも耳に届いてはいたが、自分には関係ないと聞き流してしまっていた。
シャトンが数日前の新聞を引っ張り出す。
テレビからはついにその名が流れ出す。
『犯人が現場に置いて行くカードの署名には、いつも“ハンプティ・ダンプティ”の名が――』
ハンプティ・ダンプティ殺人事件。
ついに世間に、その殺人鬼の名が知れ渡った――。
◆◆◆◆◆
「どういうことだ……?」
「嘘でしょ……?」
確かに彼らはフートたちにとって、マッドハッターの命を狙う忌むべき敵だった。フートの兄、ザーイエッツが行方を眩ませた理由にも高確率で彼らが関わっていると予測される。
いつかとっ捕まえてザーイエッツの情報を聞き出そうとしていた。なのに。
「殺されたって……それも、昨日の夜だなんて」
彼らと戦闘して何時間も経たぬうちに、何者かに殺害されたと言うのか?
否、何者かではない。どうやら最近帝都を騒がせていた犯人は、最初から高らかに名乗っていたらしい。
「ハンプティ・ダンプティ……!」
それはずんぐりむっくりとした卵のような姿の怪人。
『鏡の国のアリス』に登場するキャラクター、すなわち。
「不思議の国の住人……!」
彼らにとって、もう一人の敵となる人物だった。
◆◆◆◆◆
「くそっ……!」
「ネイヴ、落ち着いて」
「落ち着けねーよ。俺たちがあと数時間、あそこで奴らを見張っていれば……!」
昨日の現場にいたのはアリスたちやマッドハッター、睡蓮教団の連中だけではない。
密かに様子を窺っていたもう一つの怪盗コンビ、ギネカとネイヴの二人も、まさかこんなことになるとは思わず混乱していた。
口封じの手間が省けた。……なんて喜べる事態ではない。
「言っても仕方がないわ。それより、よく考えて。睡蓮教団の幹部を殺したということは、まさかハンプティ・ダンプティも教団への敵対者なの?」
「いくら俺が怪盗だからって、殺人犯なんかと一緒にされたくはないな」
同じ穴の貉だとはわかっている。それでも人として越えてはならない一線があるとネイヴは信じている。
睡蓮教団の被害者は大勢いる。
身内を殺されて恨む者も大勢いるだろう。
けれど。
「突きつけられるわね、私たちの甘さを」
「ギネカ……」
「彼は、本物の復讐者よ」
恨んでいる。憎んでいる。
だから――だから殺すのだ。
生きたまま切り刻み絶望させて。
そして歌う。割れた卵は王様がどれだけ兵士を集めても戻らないと――。
「……気をつけないとね。ハンプティ・ダンプティが睡蓮教団の人間を片っ端から殺すのに何を基準にしているかはわからないわ」
これほど躊躇いなく人を殺せる相手なら、もしかしたらコードネームを持っている相手も教団関係者やその敵対者という立場に関わらず無差別に狙って来るかもしれない。
「ああ。ギネカも用心しろよ。“料理女”」
「わかっているわ。あなたも気を付けて。“パイ泥棒”」
歯車が狂い始める。
◆◆◆◆◆
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が会議室を満たす。
「うわぁ……まさか、こんなことになるとはなぁ」
口火を切ったのはグリフォンだった。残りの面子はティードルディーとティードルダム殺害の報に対する感情から口を開くのも億劫という様子だった。
しかしいつまでも黙り込んでいる訳にもいかないだろう。
「奴らの素性から我々や教団に繋がる恐れは?」
「それはないよ。世間の報道機関では犬の散歩をしていた老人が第一発見者になっているけれど、実際に見つけたのはあいつらの部下だ。戻ってこないからと様子を見に行ったらばらばらだったそうだよ」
証拠の隠滅はそのティードルディーの部下たちがすでに行っている。
「しかし、困ったことになったな」
「いよいよ厄介な存在になってきましたね」
「ハンプティ・ダンプティなぁ……」
近頃の帝都を騒がせるもう一つの存在。俳優のような人気を持つ怪盗たちとは違って、その存在は凄惨さと共に伝えられていた。
連続殺人鬼、ハンプティ・ダンプティ。
彼が現場に残す一つの詩が書かれた白いカードのことも、ついに警察は公表するに至った。
「白兎、赤騎士。お前たちはまだ見つけられないのかい?」
「いや、それがもう全然」
女王の問いに、白兎が笑顔で首を横に振る。
「なんだよ、使えねぇなぁ……」
「文句があるなら自分でやってくれる? グリフォン」
以前から睡蓮教団の末端構成員を殺していたハンプティ・ダンプティへの対処は、白兎と赤騎士の担当だった。
これまで何度も教団の邪魔者を始末してきた凄腕にしては珍しく、今回の赤騎士たちはハンプティ・ダンプティなる殺人鬼を未だに見つけ出せていないと言う。
「それと気になることがあるんだが」
「まだ何か?」
「ティードルディーの部下たちからの報告だ。マッドハッターとの戦闘中に邪魔が入ったらしい。一人は金髪の少年で、もう一人は淡い茶髪の女性だそうだ」
「しかもティードルディーとコードネームで呼び合っていた様子だそうですが」
コードネーム、と聞いて全員がその容姿に当てはまる一人の女性を想起する。
「淡い茶髪? ……それってチェシャ猫か? あいつ死んだんじゃなかったの?」
「殺し損ねたのかい? 赤騎士」
女王の視線がルーベルを射抜く。
「おかしいなぁ」
アリスやチェシャ猫たちをわざと見逃した赤騎士は、さも自分は仕事をこなしたはずだとしらばっくれる。
「しかしそれがチェシャ猫だとしたら、もう一人の金髪の少年とは誰なんでしょう?」
ニセウミガメが当然の疑問を口にするが、白兎と赤騎士が隠している以上、教団にはまだアリスの存在に辿り着く手がかりがない。
「さぁね。ティードルディーの部下は奴の言うことをほいほい聞くだけの能無しばかりだ。役に立たないよ」
「少年と言いますが、具体的に年齢は?」
「十六、七だとか。高校生ぐらいだと」
白兎と赤騎士が首を捻る。
「……なんで怪人マッドハッターを追っていたティードルダムとティードルディーの前に、チェシャ猫っぽい女性と高校生の少年が現れるんだ?」
この疑問は、彼らにしても嘘ではない。白兎と赤騎士は、なまじアリスとチェシャ猫の現在の姿を知っているだけに疑問が浮かぶのだ。
あの二人は今、チェシャ猫自身が開発した禁呪のせいで時間を奪い取られて小さな子どもになっているのではなかったか?
それに、マッドハッターといた意図もわからない。
否、こちらに関しては睡蓮教団への手がかりを掴むためにそれらしいコードネーム持ちに大胆にも接触しようとしたのだと考えられるか。
「噂で流れている、マッドハッターの共犯者でしょうか?」
「さぁね。まだわからないこと尽くめだけれど、今はとにかくハンプティ・ダンプティだよ」
マッドハッターも裏切り者のチェシャ猫も目障りだが、今教団が優先的に排除しなければならないのは、確実にこちらの人間を殺害していっている復讐鬼。
「マッドハッターもチェシャ猫も殺したはずなのに生きてるとかしぶといことこの上ないけれど、実害は少ないからね。あいつらがまた僕たちの邪魔をするようなら殺せばいいだけ」
何度でも蘇るなら、何度でも殺せばいいだけだ。
それより今重要なのは。
「ハートの王、グリフォン、ニセウミガメ、白兎、赤騎士」
敵に対し、教団は容赦しないということ。
「ハートの女王の名において命じる。我らの邪魔をする目障りな奴――ハンプティ・ダンプティをなんとしてでも探しだし、殺せ」
...069
ジグラード学院の研究室の一つ。
フュンフ=ゲルトナーの部屋に集まり、アリスたちは顔を突き合わせていた。
「ゲルトナー先生も関係者だったんですね……」
ギネカが複雑な顔をする。
彼女が知らなかっただけで、不思議の国の住人の一人が、こんな近くで何食わぬ顔で日常を送っていたのだ。幼馴染にもどう言えばいいのか。
「ははは。僕をコードネームで呼ぶときは“庭師の5”と」
「庭師……白い薔薇にペンキで赤を塗っていたトランプ兵三人のうちの一人ですね」
「そうそう。さすがに女の子は『アリス』読んでるねー」
「先生が“庭師の5”なら、もしかして同じような立場で“庭師の2”と“庭師の7”もいたりするんですか?」
「お」
ゲルトナーがぱしぱしと瞬きする。
「鋭いなぁ、ギネカ=マギラス君。その通りだよ」
「「そうなのか?!」」
アリスとヴァイスの二人は、珍しく声を合わせて驚いた。
「アリスはともかく、ヴァイス先生まで驚くんですか?」
「聞いたこともないぞ。十年の付き合いになるのに」
ゲルトナーは十年前、ヴァイスが今の教団の前身組織を壊滅寸前まで追い込んだ頃から協力していた。けれどゲルトナーの所属する“白の王国”に関して、ヴァイスはほとんど知らされていないらしい。
「ははははは。まぁ、二人ともたまにしか帝都に帰って来ないんだよね。うちのボス二人――“白の王国”の“白の王”様と、“クラブのエース”様が新しい指示を出したから、もうそろそろ“庭師の2”辺りは戻ってくると思うけど」
「クラブのエース……?」
ゲルトナーの言葉が不意に脳裏で何かを掠めて、アリスは思わずその名を呟いた。
「どうかしたの? アリス」
「なんかその言葉、最近聞き覚えがあるような」
「え? 本当に?」
「ギネカは覚えないか?」
ふわふわと漂う思考の手がかりに、ギネカもどうやら無関係ではない様子。尋ねてみるが、彼女には不思議な顔を返される。
「私? いや、全然聞き覚えないけど……」
「あれー?」
当てが外れたアリスは舌を出す。思い出そうにも思い出せないそれが、どうにも記憶の隅に引っかかってもどかしい。
「なんだかここ数日で新しいコードネームが増えてきて頭がパンクしそうだ」
そう思うのはアリスだけではないようで、ヴァイスやゲルトナーも頷いた。直接ティードルディーたちと顔を合わせたアリスたちはともかく、話を聞いただけのゲルトナーは実感が涌かないだろう。
「一度整理してみます?」
ギネカがホワイトボードに近寄りペンを手に取る。そしてさらさらと、ここ数日で増えた情報を箇条書きで整理しながら書きだした。
○打倒教団
アリス アリスト=レーヌ
白騎士 ヴァイス=ルイツァーリ
チェシャ猫 シャトン=フェーレース
○白の王国
庭師の5 フュンフ=ゲルトナー
庭師の2
庭師の7
白の王
クラブのエース
○睡蓮教団
白兎
赤騎士
ティードルディー 死亡
ティードルダム 死亡
○殺人者
ハンプティ・ダンプティ
「……今、私たちにわかっているのはこれだけですね」
「……」
死亡と殺人者の文字を見て、アリスたちは複雑な顔をする。
「ハンプティ・ダンプティか……厄介な相手が現れたものだね」
「ティードルダムとティードルディーが殺されたということは、この人も睡蓮教団への敵対者なんだよな」
「そうだけど、できれば近づかない方がいい」
「殺人犯に近づく趣味はないんだけど……」
ティードルディーとティードルダムは、アリスたちにとって厄介な情報を握っていた敵だ。
彼らの死がこうして大々的に報じられて、アリスたちは嫌な話だがほっとしている面もあるのだ。これでアリスとシャトンの情報は教団に流れないと。
しかしティードルディーとティードルダムの二人は、何故ハンプティ・ダンプティに殺されたのだろうか。
何故、ハンプティ・ダンプティは他の誰かではなくわざわざあの二人を狙ったのだろう?
アリスたちとの戦闘で多少消耗していただろうとはいえ、彼らは決して弱くはない。それどころか、二人揃えばヴァイスにも引けを取らないような凄腕の魔導士だった。
「……私たちがコードネームだけでは相手の陣営を判断できないように、向こうが陣営別のコードネームを気にしている保証はない。下手をすると教団関係者と誤解されて殺される可能性がある」
「!」
ギネカは慎重に言った。
教団の情報は欲しい。だが殺人鬼ハンプティ・ダンプティには、陽気な怪人マッドハッターのように気軽に近づくわけには行かないだろう。
「しかも、このティードルディーとティードルダムなる二人は、かなり凄腕の魔術師だったんだろう? それをあっさり殺す腕前だ。用心しておくに越したことはないよ」
ゲルトナーも渋い顔をしている。
アリスたちのように積極的な行動を起こさない彼は、常に教団の動向に気を配っているとはいえ平穏な生活の方が大事なのだ。なるべく無茶はしてほしくないと言う。
「でも、教団員を見分けているってことは、睡蓮教団の情報は一番持っている可能性が高いってことだよな?」
「アリス」
しかしアリスは、警告を聞いてなお殺人鬼への興味を捨てきれなかった。
一日でも早く元の姿に戻るためには、睡蓮教団に繋がる手がかりは何だって欲しい。
ゲルトナーが口を開く。
「……創造の魔術師・辰砂が何故、いまだに人間扱いなのかわかるかい?」
「え……」
「彼は創造の女神の名を奪いその力を得た。だが彼と創造神の違いが一つだけある。辰砂は死者を蘇らせることはできないんだよ。人間には決して死者を取り戻すことはできない」
死者を取り戻せないから辰砂は怒り、殺された仲間たちのために神々に反逆し復讐した。
死者を取り戻せないから、もう決して蘇らないように人は人を殺すのだ。
ゲームのリセットボタンを押すかの如く容易く蘇りが許されるのであれば、殺人も復讐も本当は必要ない。
「だから死ぬな。僕に言えるのはそれだけだ」
「……」
ゲルトナーは自分の情を押し付けるようなことはしない。
最後の決断は誰だって自分自身でするしかないのだ。
だから一つの真実だけを口にする。
死者は生き返らない。命は一つしかないということを。
「……わかった。無茶はしないよ」
「情報収集もこれまでより一層慎重にした方がいいわね。仲間内ならともかく、迂闊にコードネームの話をするのはやめましょう」
ギネカが話をまとめだす。シャトンも頷き、口を添える。
「まぁ、とりあえずマッドハッターとの接触って言う大本の目的は果たしたじゃない」
「それもそうだな」
睡蓮教団の介入に気をとられて、殺人鬼の存在に翻弄されたが、元々の目的はそれだった。
「ただ、そのマッドハッター相手にもいくつか不安が残るのよね」
「不安?」
「どうやら二人いるみたいなの」
「二人? ……え? 誰が?」
シャトンは先日アリスとした話をもう一度この場で繰り返す。
完全に初耳だというゲルトナーが大きく反応を見せる。
「へぇ……! それは知らなかったな!」
「お前にも知らないことがあるんだな、ゲルトナー」
「僕を何だと思っているんだい、ルイツァーリ」
「そんなに驚くことなんですか? ゲルトナー先生」
「そりゃ驚くさ。マッドハッターは世間的にも完全に同一人物扱いされているだろう? つまり、警察が十年前と今の怪盗を同一人物だと認定していることになる。それが別人となれば一大ニュースだよ」
教団の敵対者マッドハッターに興味はあっても、怪盗に対するミーハーな興味はない面々はその手の感覚はわかりにくい。
「ってことは今のマッドハッターは先代の関係者だな。なんかいつ見ても異様に若々しいと思ったけど、本当に若者なのかもしれないな」
「そんなに若い奴が怪盗として世間を騒がせまくるかぁ」
マッドハッターが若者と聞いてヴァイスは不信の顔つきになるが、そんな彼を一同は胡乱な眼差しで見つめる。
「高等部生時代に宗教犯罪団体と戦って壊滅寸前まで追い詰めた男が何を言う」
「ああ、そんな時代もあったな」
ヴァイスのような学生がかつて存在したのなら、この時代にも一風や二風変わった学生がいてもおかしくはない。
「……天才ってどこにでもいるもんだな」
「やーねー、凡才の努力を嘲笑うように成果を挙げる連中って」
「いや、君らも世間的には充分過ぎる程優秀だからね?」
アリスやギネカも世間的には充分天才の部類だ。大陸最大のジグラード学院でトップクラスの成績を誇っているのは伊達ではない。
「とにかく」
ギネカがぱん、と手を合わせる。
「情報収集はこれまで以上に慎重になること。ハンプティ・ダンプティなる殺人犯を警戒すること。この二点ね」
ただでさえアリスやシャトンは今子どもの姿になっていてできることが限られているのだ。無茶はしないに越したことはない。
「ところで、ダイナ先生対策は?」
ギネカの問いに、アリスとヴァイスは思わず固まってしまった。
「……しまった、それがあったな」
これもマッドハッターとハンプティ・ダンプティの話題で忘れていたが、ギネカの接触感応によりダイナがヴェルムの変装を見破りアリストの不在に疑問を抱いているという話があったのだ。
「……ゲルトナー、何とかならんか?」
「いやー、無理だねー」
お手上げ、とゲルトナーはそのまま両手を上げる。
ギネカがこれ見よがしに溜息をついた。彼女はなまじダイナの不審を接触感応で直接感じ取っているだけに、このままではまずいと危機感を抱いている。
「先生に限らないけど、そろそろアリストの不在を不審に思う人間は出てくるわよ。何か誤魔化す手段を考えなくちゃ」
それを聞いて、シャトンが眉間に皺を寄せながらも切り出した。
「一つ、提案があるんだけど……」
...070
ここしばらく忙しくてヴァイスの家にも行けなかったヴェルムは、ようやくできた暇をぬっていつものマンションへと向かっていた。
彼が最近呼ばれていたのは、とある連続殺人の捜査本部である。
――ハンプティ・ダンプティ殺人事件。
ついにその名がつけられた事件は、今回新たに二人の犠牲者を出したことで世間的にも一躍有名になった。
そして世間的には名探偵であるヴェルムの負担も増大した。
ニュースで大々的に報道されたことによって、事件の早期解決を願う声が高まったからだ。
道を歩きながらも、ヴェルムの頭はその事件のことでいっぱいだった。
この事件、これまで彼が手がけた数多の殺人事件と違っていまだ解決の糸口すら見つからないのだ。
何より被害者たちに接点がなさすぎる。
明らかな殺人。
明らかな憎悪。
だが、理由がわからない。彼らは何故殺された。まだ素性のよくわかっていない今回の被害者二人を除けば、それまでの被害者たちは誰も人から恨みを買うような人間ではなかったと、関係者たちは口を揃えて言う。
だが無差別殺人とは思えない。ただの猟奇快楽殺人ではない。
ヴェルムだけではない、他の刑事たちも同意見だった。この事件には何かある。
毎回の現場から、あまりにも整えられた犯人の執念と言うべきものを感じるのだ。
これは、ただ行きずりに殺しただけの事件ではない。
誰でもいいと無差別に狙った殺しではない。
殺人の快楽に酔った狂人の犯行ではない。
己の力に自負を持つ傲慢な人間のゲームではない。
では、犯人は一体何を思ってこんな事件を繰り返すのか。
まるで職人の仕事だと、ある刑事は言った。
犯人は殺人を楽しむでもなく、怒りで興奮して現場を必要以上に乱すでもなく、ただただ冷静に、まるでそれが義務であるかのように人を殺していく。
だが血の通わない暗殺者の仕事と考えるには、その現場にはあまりにも犯人の憎悪が遺され過ぎていた。
現場に残された『ハンプティ・ダンプティ』のカード。
それは警察への挑戦だ、殺人を楽しんでいるのだとある捜査員の一人は言った。
だがヴェルムは証拠品の一つだとそのカードを見せられた瞬間、真っ先にあるものを連想した。そう――。
『不思議の国の住人』
“ハンプティ・ダンプティ”は、恐らくコードネームなのだ。隠す気などない。彼は初めから己の正体をずっと名乗り続けている。
しかしこの殺人が教団の仕事とは思えない。ヴァイスから聞かされた過去の暗殺者のどれにも当てはまらない。第一教団がわざわざ自らの犯罪を世間にアピールなどするはずがない。
だとすれば彼は、ハンプティ・ダンプティは――。
「とにかく、ヴァイスに相談だ。あいつなら十年前から教団に関わっている。俺の知らない情報を持っている可能性がある」
今のところ警察の調査は被害者たちが教団関係者だとは辿りついていないが、恐らくは「そう」なのだ。
人から恨みを買うような人ではない。そう口を揃えて評価される善男善女の被害者たちは、恐らくどこかで睡蓮教団の犯罪に関わっている。それさえわかれば事件解決の突破口になりうる。
しかしヴェルムの心中は複雑だった。ここ数年、探偵として活動してきた自分よりも、ハンプティ・ダンプティはどうやら復讐者としての立場から教団の核心に迫っている。それがなんだか悔しいし、それが確かなら、ハンプティ・ダンプティも教団に何かを奪われた被害者と言うことになる。
すでにハンプティ・ダンプティ連続殺人事件の被害者は昨日の二人で七名を数えている。
犯人が成人であればまず間違いなく死刑は免れない。だがもしも、犯人自身が睡蓮教団の被害者だと言うのなら――。
(俺に、捕まえられるのか? この犯人を)
睡蓮教団に両親を殺されて、犯人を捕まえる復讐のために探偵になった。そんな自分に。
睡蓮教団を捕まえるために探偵になったのに、実際は睡蓮教団員を殺した復讐者を捕まえねばならない立場になっている。
いや、待て、まだ決まったわけではない。
犯人は教団も何も関係なくただ洒落でハンプティ・ダンプティの詩を使ったのかもしれないし、被害者たちは本当にただの一般人かもしれない。
決めつけては駄目だ。推理に先入観は禁物。
冷静な視点で物事を見極めるためにも、今は自分と教団の情報を共有し、警察の捜査員にはない目線で判断をしてくれる相手が必要だ。
だからヴェルムは、白騎士ことヴァイス=ルイツァーリのマンションに向かっている。
あそこならヴァイスも、アリスも、シャトンもいる。シャトンに聞けばこれまでの被害者たちが教団関係者かどうかも分かるかもしれない。
だから――。
夢中になって考え事をしていたヴェルムは道で人とぶつかった。
「きゃっ」
「あ、すみません……って」
ぶつかった相手は知った顔だった。
「レーヌさん」
「探偵さん」
アリストの姉、ジグラード学院の女教師ダイナ=レーヌだ。
「奇遇ですね。これからヴァイスのところに向かおうと思っているんですが……」
「あら。私はちょうど探偵さんのところに伺おうかと」
「へ?」
そんな連絡を受けた覚えはない。大体彼女とは表向き探偵と依頼人、ヴァイスの存在を通した知人の知人であるだけで、連絡もなしに急に顔を出されて世間話をするような間柄でもない。
にっこりと笑ったダイナは困惑するヴェルムの腕をがっしりと掴む。
よし、これはまずいとヴェルムは頬に汗をかいた。女性がこのような笑顔をする時は例外なく面倒なことになるのだ。
「先月のあれについてお聞かせ願いたいんですの」
「あれ、とは?」
「あなたがジグラード学院に、うちの弟の変装をして現れた時のことです」
バレとる。
頑張って変装したにも関わらず、しっかりばれている。
「何か誤解されていませんか? いくらヴァイスの友人だからって、私はジグラード学院に足を踏み入れたことなど」
「そう仰ると思って私も証拠を色々と集めてまいりました。御覧になります?」
アリスト=レーヌとあの時の偽アリスト、二人の写真をダイナに突きつけられる。
それはヴェルムが幼馴染のエラフィに指摘されたほくろの話だ。
あの時写真をとられたような覚えはないのだが、一体いつ撮ったのか。ダイナの手際の良さは異常である。確かアリスが以前「なんでも出来る人」だと言っていた気がするが、有能過ぎるだろう。
もはやどちらが探偵でどちらが一般人なのかわからない。
「ほくろの位置がここと、あとここもですね。二カ所とも完全に一致するのはあなただけです」
「……ただの偶然です」
言い逃れもそろそろ苦しくなってきた。だがここで認めてしまったら、アリスのことを誤魔化すことが難しくなる。
「……あなたが変装してアリストに成り代わったことがどうとか、責めているわけじゃないんです」
ダイナは曇り空のような表情で、ヴェルムに必死に詰め寄った。
「ただ私は知りたいんです。アリストが、あの子が今どうしているのか! 危険な目に遭っていないか、不安な思いをしていないか!」
「……!」
身内の安否を必死になって調べようとする女性に対し、これ以上嘘をつく必要があるのか。ヴェルムの心もぐらぐらと揺れてくる。
「あ、アリストは――」
その時だった。
「姉さん!」
「え?」
金髪の少年が、二人に駆け寄ってきた。
...071
「……アリスト?」
「そうだよ! 姉さん本当久しぶり!」
アリストは目の端に薄らと涙を浮かべ、姉へと抱きついた。姉弟はヴェルムそっちのけで話し合う。
「アリスト! 本物のアリストなのね?!」
「うん! 俺のどこが偽者に見えるってのさ!」
今まさに偽者の話をしていて、かつて偽者を演じたこともあるヴェルムはぽかんとしていた。
一体これはどういうことだ?
本物のアリスト=レーヌはかつてチェシャ猫が教団にいた頃開発した禁呪のせいで時を盗まれ、七歳の姿に巻き戻ってしまっている。
禁呪を解くには「盗まれた時間」そのものを取り戻す必要があるので、そんな簡単にアリストが十七歳の姿に戻れるはずがない。
じゃあ、今、ここにいるアリストは?
子どもの姿になる前のアリストと面識のないヴェルムには、今目の前にいるアリスト=レーヌが本人だと断定できる要素はなかった。
しかし姉のダイナは、このアリストこそ本物だとすでに確信しているようである。
そして涙目になりながらダイナに抱きつくアリストの様子は、確かに本物の行動に見える。
「……アリスト、それはそうと、あなた大丈夫なの?」
「あー、いや、それは」
「以前彼が……エールーカ探偵があなたの変装をして私やマルティウス君たち、あなたの友人の前に現れたのよ。あれは何だったの? あなたはそれを知ってるの?」
「……知ってます」
アリストは素直に頷いた。そしてちらりとヴェルムに目くばせする。
多分これは、本物のアリストだ。もしくはヴェルムが変装した時のように、アリストの事情を知る限りなく彼に近い人間だ。
「実はあれ、俺の頼みが曲解された結果で」
「曲解? 誰に」
「ヴァイスだよ」
なるほど、とりあえずヴァイスの責任にしておく展開か、とヴェルムは納得した。
「……ルイツァーリ先生?」
「そう。だからあいつの友人のヴェルムに頼んだって。いや、後で事情を聞いた時は俺もヴァイス何やってんの? って思ったけど」
その辺りは別に嘘をついてはいない。
ヴェルムの変装計画を持ちこんだのはヴァイスで、アリストには話を通していなかったらしい。いきなり目の前に本物の自分と同じ姿の人間が現れて、アリスト自身も困惑したという。
「でも……何故そんなことを?」
ダイナの疑問はいちいち尤もだ。
「実は俺、あの時はちょっとこっちに帰れる状態じゃなかったんだよ。でも姉さんとの別れ方がほら、如何にも不穏な感じだったろ? あれからすぐ行方不明とかになったら心配させちゃうかなーって」
「……本当に心配したわよ」
「ご、ごめんなさい」
その点に関して一切反論できないアリストは、ひたすら姉に対し謝るしかなかった。
「ヴァイスになんとか誤魔化してって頼んだらまぁ……こんなことに。だよな、ヴェルム」
「そんな感じです」
ヴェルムもアリストに合わせ、なんとも申し訳なさそうに頷いた。
――責任は全てヴァイスの奇人変人っぷりに押し付けよう。
――というか、この件に関してはマジでヴァイスのせいじゃね?
アイコンタクトで通じ合った少年たちは、見事に考えを一致させる。
「そう……ルイツァーリ先生の……確かに変わったこともやりかねない人だけれど」
ヴァイス、お前は彼女を口説くより先にまず真人間として信用を得るようにする方が先だ、とヴェルムは思った。
どう考えても苦しい言い訳にしか聞こえないのに、ダイナの中のヴァイス像は「そういうことをする人間」だと思われているのだから。
「帰れる状態じゃないって……今、どんなことしているの? アリスト」
「えっと、あの、それは」
「……申し訳ありません。依頼内容に関しては守秘義務があるので言えないんです」
「探偵さん?」
「私たちの間を繋ぐのはヴァイスです。実は私が前々から調べていた事件と、アリスト君の巻き込まれた窃盗事件が裏で繋がっていることが判明しまして」
「そうなの? アリスト」
「うん。凄く大雑把に言えばそうなる。俺は盗られたものを取り返したいし、ヴェルムはその犯人を捕まえたいってことで手を組んでるんだ」
「……」
ダイナはまだ裏を探るような表情をしていたが、ひとまずは納得したようだった。
「まだ、帰って来る気はないのね」
「……ごめん」
事件は終わっていない。否、むしろ始まったばかりなのだろう。
睡蓮教団。白の王国。怪人マッドハッター。そして、殺人鬼ハンプティ・ダンプティ……。
もつれ絡み合った全ての糸を解き、鏡の向こうの正しき時間を取り戻すまで悪夢から覚めることはできない。
「……いいわ。あなたが、しっかりと覚悟を持ってやっているのなら」
弟の強情な性格もその実力も知っている姉は、心配を押し込めて無茶を許容する。
「でも体には気を付けて、ちゃんと無事で帰って来るのよ」
「はい、姉さんもね」
「ええ」
もう一度抱擁を交わし、彼らは別れることになった。
「私への用がこれならば、もう出かける必要はないのでは?」
「あれは嘘。お忙しい探偵さんにたまたま行き合ったから揺さぶりをかけただけよ」
ヴェルムは絶句する。
「本当は友人と予定があるの。じゃあね。二人とも」
そして長い黒髪を翻し、ダイナは二人のもとから去っていった。
◆◆◆◆◆
「ふー、なんとかなったぁ」
「それで、お前は一体……」
ダイナの目がなくなったのなら今度はこちらの謎を解く番だと、ヴェルムはアリストへ目を向ける。
「アリスト、そろそろ時間よ」
「うおっ、やべっ!」
路地裏から小さな少女が覗いている。
「……シャトン?」
「イモムシ、あなたもこっちへ来て」
そして人気のないその場所へ引っ張り込まれた。
シャトンの他に、この前の遺跡事件の時にちらりと見たような顔の女子高生――ギネカもいる。
「ヴェルムに会ったのは誤算だったけどいいタイミングだったな。ずっと歩き続けだと話しかける機会を失っちまうし」
「……」
ヴェルムは目の前の少年をよく観察した。
これはヴァイスから聞いていたアリスト本人にしか見えない。だが今、彼は子どもの姿になってしまっているはず。
「そろそろね」
シャトンの合図と共に、アリストが胸元から小さな懐中時計を取り出す。
その時計の針は、通常ではなく逆回りで回っていることにヴェルムは気付いた。
「ワン、ツー、スリー」
シャトンが淡々とカウントすると、懐中時計から幾つもの魔法陣が現れてアリストを包み込んだ。
そして光がすっとアリストの体に飲みこまれて消える頃には、そこにいるのは見慣れた七歳の小さな子ども。
「……アリス?」
「よ!」
「こういうわけよ」
どんなわけだ。
ヴェルムは目をぱちくりと瞬かせた。
「先日睡蓮教団の幹部とやりあったのだけど、その時に相手が特殊な術を使っていたの」
「思考力を手助けして構成を補足するような結界でな、その中では自分が思い描いた姿になることも可能なんだって」
「……思い描いた姿?」
ヴェルムにはアリスやシャトンのような魔導の才はないが、その言葉と先程の現象で何が起きたかわかった気がした。
「つまり、その術の構成を解析して一時的にアリストの姿を取り戻したんだな」
「ピンポーン!」
アリスがVサインを見せる。久々に元の姿に戻れてテンションが上がっているようだ。
「結界の範囲と持続時間を極限まで絞ることによって、認識と言う殻で魔力を包んで実態が変化したように見せるのよ」
「すまん……そこまで行くともうわからん……」
聞くとシャトンこと“チェシャ猫”は、本来ティードルディーとティードルダムという二人の魔導士が行っていた術を一人で解析し再構築したのだという。
彼女はヴァイスをして本物の天才と言わしめる、物凄い魔導士なのだそうだ。
「ひとまずこれで、姉さんの不安はちょっと晴れたと思う」
「ヴァイス先生がアリストを殺して埋めたとか思われなくてすんだわね」
「どんだけ信用ないんだあの男」
やはりヴァイスはまずダイナの信用を勝ち取るところから始めた方がいいとヴェルムは思った。
「とりあえず、一時的にでも元の姿に戻れて良かったな、アリスト」
「ありがとな、ヴェルム。お前が時間稼ぎをしてくれたおかげもあるぜ」
「さっきは確かにひやひやしたよ」
事態は好転したが、和やかにしている場合ではない。
「ところで、話したいことがあるんだけど」
「ああ……俺もだ」
一行はハンプティ・ダンプティ対策の話をするために、ひとまずヴァイスの家へと向かうことにした。
...072
教室の話題は、朝から二つに分かれていた。
「この前のマッドハッターの盗み、また凄かったんだってねー!」
日曜を挟んだせいであれから何日も過ぎたように思えるが、実際には一昨日の出来事なのだ。
マッドハッターが絵を盗み、アリスたちが彼と接触し、ティードルディーとティードルダムと戦い、その後彼らがハンプティ・ダンプティに殺害されたのは……。
小等部の教室は比較的賑やかに、先日の怪人マッドハッターの犯行で盛り上がっていた。
怪人と殺人犯の犯行現場こそ近くにあったが、今のところ両者を結び付ける動きはないらしい。マッドハッターの無実は、皮肉にもその頃窃盗犯としてのマッドハッターを追いかけていたモンストルム警部が証明しているからだ。
「テラス君? どうしたの?」
「お前いつもマッドハッターの話には楽しそうに混ざるのに」
「今日は、元気ないですね」
モンストルム警部の息子であるテラスは、また父が怪人に出し抜かれたことが不満なのか本日はほとんど喋らなかった。
子どもたちは彼を気遣い口ぐちに声をかける。
「気分が悪いなら保健室にでも行く?」
「違うよ、大丈夫。夜更かししちゃったからちょっと眠いだけ」
「そうか?」
偽りの平穏が過ぎていく。
◆◆◆◆◆
高等部では、さすがに怪人の話ばかりでなく、連続殺人事件も話題になっていた。
「あの犯人、まだ捕まってないのね」
「捕まるどころか、エスカレートしてるじゃん。今度は一気に二人だろ?」
「被害者たちの接点ってまだ見つからないみたいだね」
エラフィやレント、ヴェイツェの三人は今朝もニュースで流れていた情報を口にする。
一方先日からその話を知っている面々は表情が一様に暗い。
「ってことは、無差別殺人なの? うわ、やだ。ポピー美術館の近くとか、私たちあの日行ってたじゃん」
エラフィが飴を咥えたまま眉根を寄せる。
「あれ? ギネカ、どうしたの? なんか今日大人しいじゃん」
「ええ……って、ちょっと待ってよ。それって私がいつもは煩いみたいじゃない!」
エラフィに話を振られて頷きかけたギネカは、その酷い言い様に我に帰って抗議した。
しかしそれはエラフィなりに元気がないように見える友人たちへの気遣いだったらしい。彼女は続いてフートとムースの幼馴染コンビにも声をかける。
「フートもムースも、なんか不味いもの食べたみたいな顔してるよ」
「……ああ、今日のおやつはムースが塩と砂糖を間違えたクッキーだからな……今から胃の調子が心配で……」
「そうなのよ。見ないで砂糖壺とったら実は……じゃなくて! フート、何適当なこと言ってんの!?」
ようやく調子を取り戻したのか、ムースがフートを勢いよくどつく。それに一同が笑ったところで、なんとか空気がいつもと同程度には軽くなった。
「でもあの殺人事件は気になりますよね。殺害人数だけでなく、殺害方法まで今度はエスカレートしていたらしいですよ。滅多刺しから四肢切断でばらばらだったって」
「ルルティス……」
死体の状況を語りながらよく砂糖と塩を間違えたクッキーを平気でもくもく食べられるなと、のほほんとした転校生に一同の生温い視線が集中する。
「どうして今回だけそんな凄い有様だったんだろうね。何か今までの被害者と違うところがあったのかな?」
「単に変態さんの変態度がアップしただけじゃないの?」
エラフィが嫌そうに告げる。猟奇殺人犯の心理など彼女は考えたくもない。
しかし、周囲の状況はそうも言っていられないようだ。
「そう言えばエラフィの幼馴染は、エールーカ探偵よね。あの人のところに警察の要請とか来てないの?」
「……来てる」
友人一同が一斉にエラフィに注目する。
彼女自身はともかく、その幼馴染ヴェルムが探偵であることを考えれば、エラフィにも否応なく事件の情報が流れてくるのだと言う。
「けど、まだなんか全然だって。まぁ、捜査が進んだところで私みたいな部外者に詳しい事情を話してくれるわけないじゃん?」
「そうかもしれないけど……」
「ただ、ここのところヴェルム物凄く忙しいらしいよ。あいつに暇ができるまで、ハンプティ・ダンプティ連続殺人事件は解決しなさそうね」
「そっかぁ……」
「名探偵も大変ですね」
高等部生たちは、この殺人事件は自分たちに縁遠い、関わりのないことだと話をする。
誰かが昨日のテレビ番組の話題でも振れば、すぐに流れていくような話だ。
だが本当は無関係ではいられない人間も交じっている。
薄い仮面の一枚で、怪盗も顔を隠せるのだ。真実の姿など誰にもわかりやしない。
ましてや心の中で抱えている思いなど。
「早く帝都が平和になるといいですね」
転校生――赤騎士のコードネームを持つルーベル=リッターこと、ルルティス=ランシェットがしらじらしくそう言った。
◆◆◆◆◆
ビルの屋上に黒い人影が佇んでいる。
それだけなら普通だ。
だが普通でない事に、何故かその人影は黒いマントを羽織っているのだ。
溢れんばかりに花を飾った光沢のあるシルクハット。その姿はこの帝都では、怪人マッドハッターと呼ばれる。
だが彼の姿に気づいた者がいたら不思議に思ったことだろう。今日はマッドハッターの予告日ではないのに、と。
「犀は投げられた、か」
『そうだね』
独り言のつもりだったのに、突然この空間に飛び込んできた声にマッドハッターはその出どころを探した。
通信機が転がっていた。
「ジャバウォック……なんでこんなところに通信機を?」
『僕を侮らないでもらおうか。怪人マッドハッターさん? 僕はね、この世界の総てを知っているんだよ』
「総てだなんて烏滸がましい。君が知っているのは、辰砂の魂の欠片を通じてアクセスできる世界の記憶の一部だろ?」
『……』
「そして過去が見えすぎて、自らの手で現在を動かしながら、未来を見失う」
通信機の向こうで一瞬黙り込んだジャバウォックが、感嘆と共に声を吐きだした。
『さすがだね、初代イカレ帽子屋。いや、今は“三月兎”とでも呼ぼうか』
「マッドハッターの称号はもうフートのものだからな。三月兎と言うのは言い得て妙だ」
くっくとマッドハッター改め、コードネーム“三月兎”は一人楽しげに笑う。三月兎も情報収集に関して自信はあるが、さすがにジャバウォックには負ける。
彼に全てを知られていることはもう諦めた。すでに自分の存在が誰にも忘れ去られているのなら、一人くらいこの三月兎のことを気にかけてくれる人間がいるのも悪くないだろう。
『お家に帰らないのかい? 君の弟が悲しんでいるよ』
三月兎の想いまで感じ取ったか否か、通信機の向こうから語りかけてくるジャバウォックの機械音声はどこか優しくも悲しい。
憐れまれる覚えはないのだけどな、と三月兎は微笑んだ。
「今俺が戻ったら余計混乱するだろう。ただでさえ最近あいつの周囲はきな臭い」
『こんな時間にお外にいるのはみんな悪い子だよ』
「そうだな。俺も、お前も。ハンプティ・ダンプティもな」
悪い子だから悪夢を見続けて、いまだ覚めることがないのだ。
「警察にハンプティ・ダンプティの正体を教えてやらなくていいのか? 情報屋。あの憐れな復讐鬼を」
『今彼の復讐を止めたところで何になるの? 彼にはこのまま、頑張って睡蓮教団の力を削いでもらおう』
「すでにあれだけ殺せば、恐らく死刑は免れない。それなら好きなだけ復讐を果たさせてやってから捕まえようと?」
『いや、彼は捕まらないよ。もうこの世界の誰にも』
「……まさか」
無線の向こうの穏やかな語り口に、三月兎は不穏なものを感じ取った。
『全てを知る頃には、もう全ては終わっている』
言葉にされないその意味を理解して尋ねる。
「被害を減らすことはできないのか?」
『やりたいならば君が自分でやればいい。僕を頼りにするのは筋違いだ』
しかしジャバウォックはぴしゃりと、懇願を跳ね除けた。
全知全能を掲げる情報屋にも、不可能なことはあるのだ。否、不可能なことばかりだからこそ、彼は直接的な介入を避けて関係者に情報を流すにとどめているとも言える。
己の無力を誰より知る情報屋は、居場所を失った三月兎にこう告げた。
『……悪夢から覚めたいのであれば、早く夢から覚めてと物語の主人公にお願いでもするんだね』
「コードネーム“アリス”か」
彼は全てを救うのか。
それとも全てを壊すのか?
我らの待ち望んだ主人公よ。
マッドハッターは下界を見下ろす。あらゆる生と死を呑み込んで、夜の街は宝石のような光を灯し、今日も不穏にぎらぎらと輝いていた。
第3章 了.