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Pinky Promise  作者: きちょう
第3章 歯車の狂うお茶会
11/30

11.三月兎の足跡

...061


 美術館鑑賞の折にふと、二人きりになった時のことだ。

 小さなテラスが、アリスに不意に問いかけてきた。

「アリス、何を考えているの?」

「え、いや、別に何も」

 嘘だ。アリスはこの時、今夜の計画について脳裏で反芻していた。

 この後アリスとシャトン、ヴァイスの三人は、美術館近辺に残って、真夜中のマッドハッターの犯行まで備えるつもりだった。

 帽子屋のコードネームを持つ怪人には睡蓮教団との関係など、色々聞きたいことがある。

 なんとか接触を試みるのが、今回のアリスたちの作戦だった。

 だが、警察などに邪魔されずマッドハッターと顔を合わせるには、怪人が警察を振り切って一人になったところを狙わねばならない。

 それには当然、マッドハッターの行動を知ることが必要である。

 マッドハッター自身はこれまでも警察に捕まることがなかったのだ。今日もどうせやる気に満ち溢れたモンストルム警部たちを鮮やかに振り切り帝都の夜闇に姿を消すことだろう。

 アリスたちは警察とは別のルートで、マッドハッターとどうにか話ができるだけの場所へ辿り着くのだ。もちろん、警察が近くにいたりしては怪人と落ち着いて話ができないだろうから、マッドハッター独自の逃走経路を読み解く必要がある。

 しかし、これが難題だった。

 警察がここ一年近く追い続けている怪人を、アリスたち素人三人で一体どうやって捕まえるのか。アリスはもちろんヴァイスもシャトンも、窃盗犯を捕まえる技術など持ち合わせていない。

 こんな時こそ探偵のヴェルムがいてくれれば心強いのだが、彼は今日不在だ。

 ちなみに今回はギネカも不参加である。いくら拳銃を持った銀行強盗とも戦える女子高生とはいえ、夜遅くに怪人と鉢合わせなどという危険なことをやらせるのは忍びない。

 そんなことに頭を巡らせていたアリスの顔を見つめ、テラスは笑みを浮かべる。

「ふふ。嘘だね」

「え……ッ!」

 アリスの誤魔化しをテラスは軽々と見抜く。まるで心を見透かされているようだ。こんなことは初めてではないが、毎回アリスはどきりとしてしまう。

 テラスは一体何を知っているのだろう?

「マッドハッターのことを考えていたんだろう。今日美術館を回っている人間の大抵の興味はそこだよ。別に何も不思議に思うことじゃない」

「あ、ああ……そうだな」

 続く言葉に、どうやら自分の勘違いだったようだと理解してアリスはこっそり息を吐く。

「ねぇ、いいことを教えてあげようか」

「?」

「さっき父さんの近くにいたら、警察の人がやりとりしているのを聞いちゃったんだ」

「ええ?! そんな大事なこと、俺に話していいのかよ!」

 大人たちの話の内容をしっかり聞き取り覚えているのも驚くが、それをアリスに教えようと言うのも驚きだ。

 いや、子どもとは知ったばかりのことを何でもかんでも人に教えたがると言えばそうなのかもしれないが。

「さあね。僕らが何をやったって……それは子どもの他愛もない悪戯だろう」

「……」

 テラスの言い様に、アリスはまたもどくんと心臓を高鳴らせる。

 アリスは本物の子どもではない。だがこの外見ですることは例えどんな悪さだろうと、子どもの悪戯で済まされる。

 それはとても恐ろしい事のはずなのに、何処か胸が痛む。

 本当の自分は、この世界の今どこにいるのだろう……?

 しかしそんな感傷も、再びテラスの言葉で遥か彼方に吹っ飛ばされた。

「姿なき情報屋“ジャバウォック”からの助言だよ」

 小さな子どもは無邪気な顔で、怪人を追う全ての人間が喉から手が出る程欲しがる重要事項を告げてくる。

「怪人マッドハッターを捕まえたいなら――」


 ◆◆◆◆◆


 ――予告状が告げる真夜中がやってきた。

 ポピー美術館中央展示場には、警官が四方と入り口を固めるようにして集結している。

 真夜中でも時計台の鐘は鳴る。

 リンゴンと荘厳な鐘の音が藍色の夜に響き渡り、怪人の訪れを知らせる。

「時間だ」

 モンストルム警部の呟きに合わせるかのように、展示場の中に小さくコミカルな爆発音がした。

 淡く色づいた煙が晴れると、絵画を飾った壁横の階段に世を騒がせる怪人マッドハッターの姿が現れる。

 花で飾られたシルクハット。素顔を隠す白い仮面。彼のお辞儀に合わせて黒いマントが軽やかに翻る。

 投光器の光は、まるで舞台のスポットライトのように怪人の姿を闇の中、鮮やかに浮かび上がらせた。

「マッドハッター」

「御機嫌よう、モンストルム警部」

「貴様のせいでまったくご機嫌よくないわ! 今日こそ観念してお縄につけ!」

 いつも威勢のいい警部の変わらないやりとりに、怪人は仮面の下でくすくすと笑う。

「残念ながら、私は私の目的を果たすまで怪盗を辞めるつもりはありませんよ」

 マッドハッターを捕まえようと駆け寄ってくる警官の前で、怪人はぱちんと指を弾く。

「『花の終焉』は頂いてまいります」

 その言葉と共に、壁にかけられた絵が急にばらばらと、パズルかモザイクのように剥がれ落ちて浮き上がり――その破片が、一斉に外に向かって飛んでいく。

「ほら、絵の方もこんな場所に閉じ込められることを嫌って逃げ出してしまいましたよ?」

「なんだと?!」

 幾つもの欠片となって窓の外に飛び立つように消え去ってしまった絵を、モンストルム警部たちは呆然と眺める。

 まるで魔法、いや、悪夢のようだ。元の絵は無事なのか?!

「一体どうなっとるんだ! なんだありゃ! 何故絵が急に……!」

「それでは皆様、御機嫌よう」

 マッドハッターは人知れず部屋の中に潜入した時と同じ言葉で、今度は別れの挨拶を告げる。

「待て! マッドハッター!!」

 そしてまさしく神出鬼没の名を欲しいようにする怪人は、再び小さな爆発をその場で起こすと、影も形もなく消えたのだった。


 ◆◆◆◆◆


「待てー!! マッドハッター!!」

 美術館から抜け出すルートは限られているはずだと、とにかく飛び出してパトカーを走らせる警部たちをマッドハッター――フート=マルティウスは笑顔で見送る。

「待てと言われて待つ奴はいませんよ、警部。まったく毎回毎回、よくやるよなぁ」

 マッドハッターが警察をやり過ごした手口は極めて単純なものだ。

 爆発と共に背後の窓から外に出て、警備の目の死角になるような場所で窓枠などの僅かな出っ張りの上に立ち、美術館の外壁に貼り付いていただけである。

 建物の三階相当の高さの壁に貼り付いていたのだから確かに高い身体能力を要されるが、言ってしまえばそれだけである。

「そうだな。蓋を開けてみれば意外と単純な手口だったな」

 不意に背後からかけられた声に驚いて、マッドハッターはぎょっとした顔で振り返る。

 月明かりがそこに落とす影は酷く小さい。

 当然だ。その影の持ち主自体が小さいのだから。

「待っていたよ、怪人マッドハッター。いや……コードネーム・帽子屋さん?」

 アリス=アンファントリーと名乗る子どもがそこにいた。


...062


 星々の見守る中で、小さな影と怪人の影が対峙する。

「……坊や、こんな時間に子どもが一人で出歩いていてはいけませんよ」

「こんな時間に窃盗なんて悪さをしている人に言われたくないなぁ」

 あからさまに子どもを諭す口調のマッドハッターに対し、無邪気な子どもを装って、アリスは言い返した。

 マッドハッターの台詞こそ子ども扱いではあるものの、彼はアリスの姿を見た途端、一度は緩めたはずの気を入れ直した。

 油断をしてくれないところが油断ならない。

「私のことを御存知のようですが、君は一体何者だ?」

「初めまして。俺はアリス=アンファントリー。あなたを知ってることは別に珍しくもなんともないだろう。怪人マッドハッターは、帝都で一、二を争う有名人じゃないか」

 一、二を争っている相手は暗にもう一人の怪盗であることを示しながら、アリスはマッドハッターの反応を待つ。

 間近で見た怪盗は、どうにも当初の想定より随分若いようだ。

 仮面に隠されていない整った頤の輪郭など、まるで十代の少年のようである。

 闇に溶け込みながら浮き上がる黒いマント。手足はすらりと長く、立ち姿は自然と人目に美しく映る角度を普段から心がけているようだ。

 ――一体、どんな人物だったら、帝都の夜を翔ける怪盗になろうなどと思えるのだろう。

 今でこそ数奇な身の上に置かれてはいるものの、本来は極一般的な家庭の子どもでしかないアリスには想像がつかない。

「こんなところで待ち伏せしているなんて、ただのお子様じゃありませんよね?」

「残念ながら、今はただの子どもだよ。ここがわかったのは、警察に入れ知恵しているジャバウォックとかいう情報屋のおかげだ」

「ジャバウォック……なるほど……」

 ジャバウォックはいつもいつも、怪人マッドハッターの犯行を邪魔するように警察に情報を流しているらしい。

 一方的に敵視されているマッドハッターが姿なき情報屋に対して何を思うのかは、アリスにも予想しにくいところだ。

 本気で怪人を警察に捕まえさせる気なら、今日もアリスではなく警察にマッドハッターが立ち寄るこの場所のことを教えれば良かっただけ。

 けれど情報屋ジャバウォックは、決してそこまではしないらしい。

「私も姿なき情報屋の正体は知りませんが、彼がここに君を寄越したということならば、どうやら何か意味があるらしい」

 ――マッドハッターとジャバウォックの間には、何か無言の理解や暗黙の了解でもあるのだろうか。

「寄越した? いや、俺は情報屋が警察に流したらしい情報とやらを又聞きで聞いて……」

 アリスが直接その情報屋と会話をした訳ではない。

 この情報をくれたテラスだとてそうだ。たまたま警察の話を聞いてしまっただけだと言っていた。

「ジャバウォックは狡猾なる情報の支配者、それも恐らく計算のうちですよ」

「……へぇ」

 マッドハッターはそれを、作為的なものだと否定する。

 しかし真剣な雰囲気が続いたのは、そこまでのことだった。

 アリスの態度から警察の手先や自分に害をなす相手ではないと薄々理解したのか、マッドハッターはアリスと真正面から会話をするより軽くあしらうことを決めたようだった。

「とはいえ夜ももう遅い」

「いや、予告時間決めたのお前だろ」

「良い子は寝る時間ですよ」

「大人のモンストルム警部たちもちゃんと寝かせてやれよ」

「私も早く帰って寝ないと美容に悪いので」

「女子か! そしてそんな仮面で顔隠した奴の言うことか!」

 自分たちで繰り広げておきながら、アリスはこのノリ何か覚えがあるなぁと思う。

 まるで教室でいつもの友人――テラスたち小等部の子どもたちではなく、十七歳本来のアリストの友人たちと、他愛ないやりとりを繰り広げている時のような。

 アリスをあしらったマッドハッターは、優雅に歩いてビルの屋上の端へと向かう。そこから飛び降りて姿を消す気だろう。

 だが、アリスは驚かなかった。この高さの屋上からなら、手段さえきちんと用意しておけば「アリスト」だって飛び降りることができる。

「そろそろお暇させていただきますよ」

「待てよ――さっきと同じように、また蝶と映写機のイリュージョンでも使って消える気か? サービス精神旺盛な怪人さん」

 マッドハッターの脚がぴたりと止まる。

 ――怪人マッドハッターを捕まえたいなら、待ち伏せするといい。場所はジャバウォックが教えてくれる。

 ――でもマッドハッターの犯行の一部くらいは君自身で解明しないと、たぶん同じ舞台の上にすら立てないよ。

 それがジャバウォックの台詞だ。だから頑張ってね。と。

 本来警察に伝わるべき情報なのに、まるでアリス個人に語りかけているかのようなテラスの言葉を思い出しながら、アリスは口を開いた。


 ◆◆◆◆◆


 マッドハッター……フート=マルティウスは足を止めた。

 この子どもは一体何者だ?

 こうして対峙していても、睡蓮教団関係者のように異様な威圧感は感じない。見た目は完全にただの子どもだ。

 けれど今日この時間にこの場所で待ち構えていたこと、そしてヴァイスのところにいる時点で只者ではない。

 調べても資料が異様に少ないなど謎が多かったが、今本当にわからなくなっている。

「怪人マッドハッター、お前が警察の前で絵画を消したトリックは、『蝶』を使ったものだろう?」

「……犯行を見ていたんですか? 失礼ですがあなたは警察には見えませんがね」

 あの場にいたのは怪人マッドハッターとそれを捕まえようとする警察の連中のみだ。

「そこはほら、双眼鏡という文明の利器が」

「音声は」

「盗聴器と言う文明の利器が」

「何私みたいなことしてるんですか」

 さらりと口にされたが、一般人の会話には間違っても盗聴器なんて出てこない。

 ヴァイス先生何やってんの? 子どもに何やらせてんの? という内心は仮面の下に押し隠し、マッドハッターはアリスの言葉に耳を傾ける。

 目の前の少年はどう見てもただの七歳にしか見えないのに、その口ぶりからまるで自分と同じくらいの年齢を相手にしているように錯覚する。

「マッドハッター、お前はあらかじめ美術館に侵入して絵に細工を施し、キャンバスから外して仮留めしておいたんだ。その上に白いスクリーンをかけ、魔導で眠らせた蝶を並べて置く……どうでもいいけど、すげー魔導の無駄遣いだな」

「ほっとけ」

「さらにもう一枚のスクリーンをかけ、そこに『絵画の絵』を映写しておく」

 中央展示場のかなり高い位置に、観覧客が触れられないように距離をとって飾られていた絵だ。魔力で多少の補正はしているが、至近距離で見なければ気づかれない。

 魔導の知識がない者には考えもつかないだろうが、アリスたちは別だった。アリスはまるで自分で気づいたかのように語ってみせるが、ぶっちゃけこの仕掛けの半分以上はヴァイスが気づいたものである。

「予告時間になると、お前は警察の前で一枚目のスクリーンを外し、蝶の大軍を目覚めさせまるで絵具が羽ばたいてキャンバスから消え失せたかのように演出したんだ。自分も一度姿を消して外へ逃げたように見せかけ捜査員を追い払い、すぐに現場へと戻る。そして絵画に仕掛けたスクリーン諸々と共に、標的の絵を回収する……」

 色々と突っ込みどころの多いトリックだが、その不可能を可能にしているのが、魔導の才だ。

 万が一にでも現場に証拠として残るものには魔導を使わず、あくまでも蝶を眠らせて都合の良い演出を生み出すためだけに魔導の補助を使った。

「で、これが証拠の蝶ね。……お前、こんだけ無駄な才能があればもっとマシなことに使えないの?」

「余計なお世話ですよ」

 広げた翅に鮮やかな色を塗られた蝶を何匹か捕まえて入れた虫籠を、アリスは背中から取り出した。

「ちなみにこの絵具、落としてやれねーの? なんか可哀想なんだけど」

「特別製のインクなので、数日もすれば自然と剥がれますよ。無理にこすり落とそうとしないでくださいね。それこそ彼らの翅を痛めてしまいますから」

「そっか。それならいいんだけど」

 そう言うとアリスは虫籠から蝶たちを解放する。

 マッドハッターは驚いて問いかけた。

「何故……それを警察に持っていけば、君は怪人マッドハッターを追い詰めた子どもとして一躍有名人ですよ」

「そんなこと別に望んでいない」

 マッドハッターはまだアリスの思惑に辿り着けてはいなかった。人より相当勘の鋭い子どもが、情報屋ジャバウォックの力を借りて怪人を捕まえるためにここに来ただけだと思っていたのだ。

 もちろんアリスの目的は違う。

「マッドハッター、俺が知りたいのは、お前が――」

 しかしそれを、すんなり怪人に伝えることは叶わなかった。

「おや、今日は余計な顔がいるようだ」

 重たい金属の扉を開けて入ってくる音に続く台詞。闖入者の登場に、二人はハッと屋上の入り口を振り返った。


...063


 マッドハッターは仮面の下で眉間にしわを寄せる。

 まずい。まさか今日に限って、ばっちり睡蓮教団と鉢合わせるなど――。

 教団の情報が欲しい自分としては、この接触は待ち焦がれていたものだ。だがここにいる子どもを巻き込むわけにはいかない。

 アリスの目的が何なのかは、マッドハッターにだってまだわからないくらいだ。この子どもの正体も思惑も、何一つ掴めていない。敵か味方もわからない。

 しかし彼らがマッドハッターの近くにいた子どもをあっさり諦めてくれるはずもなく、これまでにも何度か顔を見た事のある教団員の一人がアリスに話しかける。

 マッドハッターは敵でも無関係な他人でも、誰かを傷つけたくはない。けれど睡蓮教団がそのような意を汲んでくれるとは思えない。

「やぁ、坊主。お前さんは見ない顔だが、マッドハッターの仲間か?」

「……おじさんこそ何者なの? 銃を持ってるけど、警察の人たちには見えないよ」

 手下の強面を何人も従えて拳銃を見せびらかしている男相手にそれを聞くとは、アリスも大概良い度胸だ。

「マッドハッター専任はモンストルム警部でしょ? おじさんは何なの?」

 明るい茶髪に灰蒼の瞳をした大男は、一人だけ衣装も違う。睡蓮教団の幹部の一人だ。

「おじさんか? おじさんは睡蓮教団のティードルディーと言う者だ」

 真っ正直に尋ねる子どもに対し、あっさり過ぎる程にあっさりと、男は自らのコードネームを暴露した。

 まずい、とマッドハッターは思った。

 子どもとは言え通りがかりにこんなことを教えるとは、恐らくこの男にはアリスを生かして帰す気がないのだ。

 だが、少年の次の言葉は、そんな男の意図よりも余程マッドハッターを驚かせた。

「……コードネーム“ティードルディー”か。睡蓮教信者の上に不思議の国の住人とは……おじさんは悪い人なんだね」

「お?」

 ティードルディーも顔色を変える。

 この子は睡蓮教団と、それに関わる者たちのコードネームとその法則を知っている?

「ただの子どもじゃないようだな。マッドハッターには手下がいるらしいと聞いていたが、お前だったのか」

「残念だが俺は今日初めてマッドハッターに会った人間だよ。聞きたいことがあったんだけど、相手はあんたらでも良さそうだな」

 アリスは首筋、襟の内側にそっと手を触れながら口を開く。その仕草が意味をするものはよくわからないが、何か仕込んでいるのは確実なようだ。

「マッドハッターとあんたたちの関係はなんだ? まさか仲間割れじゃねーよな」

「坊主……お前、本当に何者だ?」

 質問に質問で返すと言うよりは、単に答えるのを忘れて先を知りたがった様子でティードルディーが問う。

「“アリス”」

 子どもはニッと唇を歪め、背後に夜と月を従えて宣言した。ティードルディーたち教団員は眉間にしわを作り、マッドハッターは仮面の下で目を瞠る。

「コードネーム“アリス”だ! 睡蓮教団、てめーらをぶっ潰してやるぜ!」


 ◆◆◆◆◆


 アリスは一対多数の状況でも、まったく恐れを抱いていなかった。

 常識的に考えれば、七歳児の体で大の男を十人近く相手にして敵うはずがない。前回の強盗騒ぎの時だとてそれで苦労したのだ。

 だが今夜は、妙な高揚が脳髄を支配している。

 この場にいるのはほぼ犯罪者――アリスが何をしようとも、一般人や警察に見咎められるようなことはない。

 相手はマッドハッターを入れても十二人――ただし、アリスの方にもヴァイスとシャトンのバックアップがついている。

 そして何より――今この空間には、かつて戦った白兎や赤騎士程の実力者はいない!

 負ければ殺されるとわかってはいるが、そもそもこのまま安全なところで守られていたら、いつまで経っても元の十七歳のアリストに戻ることなんてできないのだ。

 逆にここでこの男、ティードルディーと名乗る教団関係者を捕まえることができるのであれば、一気に教団の核心へ近づくこともできるはず。

 多少の危険な賭けぐらい、いくらだって乗ってやる!

『ちょっとアリス! 何相手を挑発してんのよ!』

 襟元に仕込んだ通信機からシャトンの声が流れてくる。

 先日遺跡内で活躍した魔導通信機はヴァイスが襟元につけられるサイズのピンバッジへと加工しなおしてくれた。今日のような時のために、ボタンを押していなくても双方向に声が流れるように改良もしている。

「仕方ないだろ。鉢合わせしちまったもんは。顔を見られたら困るのはこっちだって同じだ。延々ストーカーされることに怯えるぐらいなら、今、きっちり片を付けてやろうぜ!」

『――もう!』

 シャトンの苛立った声。しかし彼女もいい加減アリスの性格に慣れたのか、すぐに気持ちを切り替えてティードルディーに関する情報を流してくる。

『ティードルディーは欠片回収部門の一員よ。今思えば、対マッドハッター専任だったのでしょうね。そして見た目に似合わぬ魔導士でもある』

「魔導士? そんな感じじゃね―けど」

『彼の術形式は特殊で――』

 アリスが声を潜めてこっそりシャトンと通信している間に、マッドハッターもティードルディーと会話を交わしていた。

「その絵を渡せ、マッドハッター」

「お断りですよ。それに、もう」

 マッドハッターが盗んだ画布を広げながら手をかざすと、淡い光が絵の中から浮き出て彼の手のひらに吸い込まれていく。

 ツィノーバーロートの絵画に宿っていた魂の欠片を回収したのだ。

「手遅れではないんですか? まぁ、あなた方がこの美しい名画を飾って眺めたいと言うのであれば別でしょうが」

「……やれやれ。いつもながらやってくれるぜ」

 ティードルディーの瞳に剣呑な光が宿る。

「ではお前がこれまで集めた魂の欠片は、お前を殺し、お前の魂ごと回収させてもらおうか」

「……」

 魂の欠片は物にも宿るが、それ以上に人間へと定着しやすい。意志のない無機物ではなく、かつての神の姿に近い人間へと宿って元通り一つの魂へと戻りたがっているのだ。

「いやー、ここ数週間大変だったんぜ、俺たちも。お前のような人間から魂の欠片だけを分離して回収する禁呪の開発に忙しくてなぁ」

 チェシャ猫の奴がいればもっと楽だったろうに、と男は肩を竦める。

「へぇ。それはそれは。無駄な努力御苦労さまですねぇ」

 私は捕まりませんよと、シルクハットのツバを引き下げながら笑う。

 そしてマッドハッターはアリスに告げた。

「逃げな、おチビちゃん」

「え?」

「君がどういう理由で教団の内情を知ったのかはともかく、ここにいたら危険だ。君の保護者は教団の元天敵だ。どうせ近くで待機しているんだろう? 彼に助けてもらえ」

「お前、どこまで俺の事情を知っているんだ?」

 アリスがここに来ることなど全く予想していなかったはずなのに、ヴァイスのことをどうやら知っているらしい。アリスの中でマッドハッターに対する謎が増えた。

「細かいことを気にするのは生き延びてからの話だろう。俺が奴らの目を一瞬誤魔化す間に――行け!」

 マッドハッターが閃光弾を地面に放つ。アリスは同時に駆けだした。

 屋上の端から飛び降りる。

 てっきり屋上の扉を目指すものだと考えて拳銃を取り出しかけていたマッドハッターが仮面の下で鈍く笑う。それでいいと言うように。

 知りもしない仮面の下の顔で浮かべている表情が、アリスにはわかるような気がした。

 屋上から飛び降りたアリスは魔導で衝撃を和らげ着地する。

 白兎と赤騎士に手も足も出なかったあの頃より、魔導の練度を上げるように努めたのだ。

 しかし。

「……まぁ、やっぱりそう来るよな」

 完全に窮地を脱した訳ではないことはわかっている。

 目の前には先程の男と似たような格好をした男。ただし人相は大分違う。

 薄い灰色の髪に黒い瞳。快活そうな先程の男とは違い、どこか神経質そうな印象を与える細身の男だ。

「やれやれ、しっかりしてくださいよティードルディー。私も働かねばならないじゃありませんか」

 アリスの退路を断つように立っていた男、ティードルダムとの戦闘が始まる。


...064


「ちっ……」

 どうやらアリスの方にも回り込んでいた敵がいたらしいことは、マッドハッターも確認した。

 だが、向こうは魔導士が一人。こちらは十人以上の敵を相手にせねばならない以上気が抜けない。アリスのことに関しては、保護者であるヴァイスが何らかのフォローを入れると信じよう。

 いくら魔導の才能で上回ろうと、銃で撃たれたら死ぬ生き物なのだ。人間は。

 どれほどの力を身に着けてもそこが変わることはない。魔導は魂という、肉体や物理法則とは違う次元の話だ。だからこそ大きな力であり、だからこそ何より無力な時もある。

『マッドハッター、大丈夫?!』

「大丈夫だ。出てくるなよ」

『パターンBに車を回しておくわ』

 無線の向こうの眠り鼠に囁きかける。遠くでカメラ越しにこの状況を確認している彼女は、敵に気づかれないギリギリの距離に逃走手段を用意してくれるという。

 そこに行くためにもこの場をなんとか凌がねばならない。

 ティードルディーが口を開く。

「そろそろ終わりにしようぜ、マッドハッター。お前とは随分長い付き合いだ」

「……」

 前々からやはりと思っていたのだが、この男は兄を――十年前にマッドハッターとして活動していたザーイエッツを知っている。

 ティードルディーから話を聞きだせば、兄に辿り着く手がかりを得られるかもしれない。

「間抜けな王様がお前を殺し損ねたせいで、俺たちがこんなことまでする羽目になっちまった」

 “王様”。

 それも恐らくコードネームの一つなのだろう。『不思議の国のアリス』にはハートの王、『鏡の国のアリス』には白と赤のチェス駒の王様が登場するが、さてティードルディーの言う“王”は一体誰のことなのか。

 アリスという闖入者のおかげかどうか、今日のティードルディーはやたらと饒舌である。陽気を装うのはいつものことだが、普段はこれ程喋る男ではない。

 アリス……。

 あの子どもははっきりと言った。

 コードネーム“アリス”だと。フートは学院内での付き合いから彼の名がアリス=アンファントリーであることを知っているが、ティードルディーに名乗ったのはそう言う意味ではないだろう。

 “アリス”のコードネームは、不思議の国の住人にとって特別なもの。悪夢の物語を終わらせるために兎穴に落ちてきた、待ち焦がれし主人公。

 彼は、この呪われた物語を終わらせることができるのか?

「間抜けなあなた方如きに、私が殺されるはずないでしょう」

 意識を今目の前にいる敵に移し、マッドハッターは相手の言葉を流用した挑発を返す。

 ティードルディーの眉がぴくりと動いた。

 豪放磊落を装って意外に神経質な性格のようだ。まぁ、そうでもなければ繊細な制御の魔導など使えないだろう。

 これまでマッドハッターは、この男たちとの正面切っての戦闘から逃げ切ってきた。だが。

「私の方もあなたの顔は見飽きました。ここで終わりにしましょう」

 物語を終わらせるための主人公が現れたならば、いくら狂った帽子屋でも動かざるを得ないのだ。


 ◆◆◆◆◆


 魔導の練度は上げたものの、やはりこの小さな体では苦戦する。

『アリス! 無事?!』

「今のところは、な」

 すぐ近くの建物に隠形の術を使って隠れているはずのシャトンに、まだ出て来るなよとアリスは指示する。

 彼らは本来、不思議の国の住人のコードネームを持つとはいえ恐らく教団側ではないマッドハッターと接触するだけのつもりだった。なので、ここまで本格的な戦闘は予期していなかったのだ。

ヴァイスは少し離れたホテルの一室で通信やカメラなどの機器を操っているが、シャトンは何かあった際に逃走手段と経路の確保のために近くにいる。

 いざとなればまたマンホールの中でもなんでも通るつもりだったが、目の前の相手をどうにかしないことにはその方法も使えない。

「これはこれは。その歳にしては素晴らしい使い手だ」

 ティードルダムはアリスの放つ魔導を見てそう評価する。

 ――白兎と赤騎士がアリスの事を報告していなければ、彼にとってアリスは見た目そのままの七歳の子どもに過ぎない。

 だがその小さな姿は、ティードルダムにとっては別の存在を想起させるものだったようだ。

「昔のチェシャ猫を思い出しますね」

「……」

『……』

 通信機の向こうで会話を聞いているシャトンも黙り込む。

 ティードルディー、ティードルダムのコンビは、シャトンとは古い知り合いらしい。

「だがもはや教団の魔導士として最高峰の地位は彼女ではなく私のもの。ティードルディーと共同研究だというのがムカつきますが――」

 もはやアリスに向けた言葉ではないのだろう、眉を歪めながら話すティードルダムの言葉に一応耳を傾けながら、アリスは先程シャトンから聞いた言葉を思い出す。

『ティードルディーは、ティードルダムと言うもう一人の魔導士と一緒に術を使うの。性格は正反対と言えるけれど、同じ師について魔導を習った彼らの連携は強力よ』

 二人揃わなければ実力を発揮できない魔導士。それが彼らの強味であり、弱味でもある。

「この禁呪に勝てる者はいない」

 ティードルダムが術を放つ。

 気持ちの悪い耳鳴りが続く中で、アリスはその術に翻弄される。

 結界だ。自分は何かの結界の中に閉じ込められている。だが魔導は使える。術を封じられたわけではない。

 ならば、この結界の意味はなんだ?

 考えている間にも、ティードルダムの攻撃が迫る。

 アリスは間一髪で躱しきることができたが、夜空を静かに切り裂く鎌鼬のような斬撃の威力に戦慄した。

 ティードルダムの様子に変わったところはほとんどないのに、いきなり術の威力も精度もこれまでより増している。

「これだけの術を、予備動作もなしに?!」

『解析をかけるわ!』

 シャトンは相手に見つからないよう気をつけながら、徐々にこちらに近づいてきている。魔導の解析は彼女に任せることにして、アリスはしばらく防御に専念することにした。

 回避や魔導防壁による盾を駆使し、直撃を喰らわないよう逃げ回る。その合間に様子見の攻撃を放つが、こちらはやはり軽々と防がれてしまった。

「くっ」

「なかなかしぶといですねぇ……」

 アリスの放った攻撃は相殺され、一方的な攻撃に晒される。このままではまずい。

「だが無駄な足掻きですよ。この結界の中では、私は無敵だ」

「無敵……?」

 結界と、後に続いた現状の鍵になりそうな言葉に反応し、思わずアリスは鸚鵡返しにティードルダムの言葉を呟いた。

「世界は悪い夢の中にいるのですよ。だからどんな悪夢も、我ら不思議の国の住人の思い通り」

「……夢の中……?」

 ティードルダムの台詞は額面通りに受け取れば意味不明だが、アリスはそれが魔導士特有の言い回しだと気づいた。

 張られた用途不明の結界。

 外界から遮断された檻の感覚。

 結界を張る意図はいくつとなくあるが、この結界は彼の言い様からして、術者の力を高めるはずのものなのだろう。

 同じ結界の中にいればその効果はアリスにも作用するはずだ。自分が弱体化した覚えがないのだから相手が強化されていると見るべきである。

『解析完了』

 シャトンの報告とほぼ同時に、ティードルダムは自らの術を解説し始める。

 その油断が命取りになることを、彼は知らない。

『この術は、結界内の人間の想像力の具現化を補助するものよ。勿論魔導構成の製作も捗る』

「この術は、私の力を際限なく引き出してくれるのですよ。想像の翼が現実にあと一歩届かないとして、やむなく廃棄となった数々の魔導構成を復活させてやれる」

『一種の自己暗示力強化とも言えるけれど、元々己の魂の中から力を取り出す魔導士にとっては、絶大な威力を発揮するわ』

「外の世界では危険すぎると発動を制限された禁呪も、己の力では使いこなせないと断言された高度な術の利用も思うままだ」

 代わる代わる耳に届く声が、アリスに一つの可能性を思い起こさせた。

 ティードルダムが歌うように呟く。

「ここは夢の世界。だからなんでも思い通り」

「……ここが夢の世界なら、想像力の豊かな子どもの方が有利じゃない?」

 膝にぐっと力を入れて立ったアリスはそう尋ねる。

「残念ですが、それは外れだ。子どもの思考力にはね、成長段階というものがあるのですよ。荒唐無稽な思い付きと、段階をきちんとイメージした想像力とは違うのです」

 それはアリスも知っている。確か保健体育の授業だったかそれとも家庭科か。子どもの思考力の発達について習ったことがある。立体を描く能力には段階的なものがあるという話だったか。

 知らないものは信じられない。

 知っているものしか信じない。

「諦めなさい。夜は大人の時間。子どもは大人に敵わない」

「それはどうかな?」

 ティードルダムが一つ知らないことがある。アリスは本当の子どもではない。

 ここが夢の中だと言うのなら。

 想像を現実に創造すると言うのなら。

 アリスには何よりも確かな「事実」でありながら、今は「現実」になっていない想像がある。

 壊れた時の鏡の向こうを思い起こす。

 考えるより先に、アリスはそれを知っている。

「思い願った通りになるのなら……俺が、思い願った姿になれるというなら……!」

 その術は、魔導の効果は結界内に存在する全ての魔導士に反映されるのだ。

「……何? なんだ、貴様、その姿は……ッ!?」

 腕が脚が身長が、見る間に伸びていく。骨格、筋肉、それを動かす神経も全て、己の意志に従って姿を変えよとアリスは魂に命じる。

 落ちた月光の作る影が、急に大きくなった。そこにいるのはもはや、小さな子どもではない。

「さぁ、第二ラウンドを始めようぜ!」

 十七歳のアリスト=レーヌが言った。


...065


 こいつこんな強かったっけかなぁ? と、マッドハッターは内心で首を傾げながらティードルディーと戦闘していた。

 内心でどう思おうと、顔には出さない。そもそも仮面をつけていて彼の表情はわからないのだが。

 ティードルディーとはここ一年程、小手調べ程度に何度かやりあった記憶があるが、今日はその時とは違う。

「はっはっは! まだまだぁ!」

 繰り出される術の威力は高く隙がない。純粋な身体能力だけならマッドハッターの方が上なのでまだなんとかなっているが、このままではまずい気がする。

 落ち着け。考えろ。

 不自然なパワーアップには、何か仕掛けがあると考えるのが当然だ。

 彼の相棒――と言うと何故か怒られるのだが――ティードルダムが傍におらず、アリスの方へ向かったことも気にかかる。

「ちっ!」

「どうしたマッドハッター、いつもの威勢はどこに置いてきた? それとも」

 魔導に気をとられた隙に、背後から一般の部下が銃口を向けている。

「今日こそ年貢の納め時かな」

「!」

 寸でのところで躱したものの、銃弾の一発は腕をかすめて僅かな血が飛び散る。

「あなた方に納める年貢はありませんよ」

 傷口に逆の手を押し当てながら、それでもマッドハッターは不敵を装い笑う。

 ズキズキと響く痛みを消すように魔導で応急処置をしながら、だんだんと浮かび上がる焦りを意志の力で押さえつけた。

 落ち着け。動揺するな。

 一瞬でも隙を見せれば、相手は己の喉笛を食い破ってくるのだ。

 こんなことぐらいなんでもないと、余裕を持って対峙せねばならない。

 マッドハッターという怪盗の立場は、そのための仮面だ。

 ここにいるのは無力なただの男子高生フート=マルティウスではなく、幻想と悪夢を彩る不思議の国の住人、イカレ帽子屋なのだから。

「やれやれ。せっかく警察を撒いたのに余計な証拠を残すことになってしまったではないですか。面倒だなぁ」

「大丈夫だ。血の一滴を片づけるまでもなくお前はこれから死体になる。警察の身元確認の手間を省いてやれよ」

「ええ。省いて差し上げるつもりですよ。――この場から無事に逃げおおせてね!」

 とにかくティードルディーさえ突破できればいい。マッドハッターは魔導に手を抜いてでも、身体能力頼りで飛び込む。

「馬鹿が! ダムの方ならともかく、怪我をした腕で俺とやり合おうなんて早いわ!」

 確かにこれが見るからに細面のティードルダム相手だったならもう少し有利を得られただろう。だが他に道はないのだ。

「そして俺に筋肉しか取り柄がないなどと侮るのもな!」

 いつも誰に言われているのかは知らないが、別にそこまでは言っていない。

「!」

 躱せると信じて突っ込むが幾つもの銃口がマッドハッターを狙う。だが全ては撃って来ないとわかっている。いくら広い屋上とはいえ、こんな限られた空間で無駄に乱射すればあっという間に同士討ちだ。

 しかし。

「読み通り。俺たちの勝ちだ」

 今日は相手の方が一歩上手だった。退路を断たれたマッドハッターに、ティードルディーの術が――。

 炸裂しない。

「何?!」

 淡い光の盾に弾かれて、攻撃が霧散する。

 ジグラード学院のヴァイス=ルイツァーリ魔導学講座では真っ先に叩き込まれる魔導防壁だ。

「生きてるわよね? 帽子屋さん?」

「君は……」

 彼の生存確認をしたのは、淡い茶の髪の少女だった。マッドハッターの正体であるフートと同じ十七歳頃か。大層な美少女だ。

 けれどどこかで見たことがあるような顔立ちだ。それなのにフートは、彼女を厳密にどこで見たのかがさっぱり思い出せない。

 そしてこの美少女よりも更にフートが気になっているのは、咄嗟に割り込んで盾を張ったもう一人。

「なんなんだテメーらは!!」

 激昂するティードルディー相手に、不敵に返す少年。

 彼こそは覚えがあるどころか、本当に良く見知った人物だ。

「お前らをぶっ倒す人間だよ!」

 現在帝都にいないはずの友人、アリスト=レーヌだった。


 ◆◆◆◆◆


 相手の結界の影響で一時的に元の姿を取り戻したアリス――アリストはすぐにティードルダムに応戦し始めた。

 手足が伸びただけではない。やはり十七歳の高等部生と七歳の子どもの体では感覚が違い過ぎる。これまでよりもずっと自由に動ける!

 見るからに痩せぎすで身体能力が高くないのだろうティードルダムは、アリストが魔導だけでなく体術を交えはじめるとあっという間に防戦に回った。

 ティードルディーと違って、彼は部下を連れていない。

 そのためティードルダムは、仲間と合流するために上に向かった。ビルの外壁の非常階段を昇り始める。

 身体能力も多少補正されている結界内では、数段飛ばしであっという間だ。

「逃がすか!」

 アリスもそれを追う。そして。

「アリスト!」

「シャトン! 来たのかお前」

「今は“チェシャ猫”と呼びなさい! あなたの状況を窺っていたからね。この姿なら多少暴れてもすぐに“シャトン”には結びつかないでしょう?」

「それもそうだな」

「まったく、なんて過激なことをするのよ!」

 怒られた。彼女自身もアリスの発想のおかげで一時的に元の姿に戻れてはいるのだが、それとこれとはあくまでも別らしい。

 チェシャ猫が援護に回ってくれるなら心強い。

 アリスがアリストへ変わる瞬間を見られているので、ティードルダムをなんとか確保しなければならない。あのまま殺されるよりはマシだが、今もなかなかピンチな状況であることには変わりない。

 けれどもう後戻りはできないのだ。

 彼らは屋上に戻り、明らかに苦戦していたマッドハッターと合流した。

 アリスには調子に乗ったティードルダムが種明かしをしてくれたが、マッドハッター相手のティードルダムはそうしたサービスはしてくれなかったらしい。

 ティードルディーとティードルダム、二人の魔導士が紡ぎだす連携魔導の絡繰りに気づかなければ、いかな怪人とはいえ優位に立つのはきついのだろう。

 アリスたちがティードルディーの攻撃から怪人を庇う間、教団側もティードルダムが無事に相棒と部下と合流していた。

「さっきのガキと似てるな。兄弟か何かか?」

「それよりも……横にいるのはチェシャ猫ですか? 生きていたんですかあなた」

「久しぶりね、二人とも」

 チェシャ猫はにっこりと艶やかに笑い、毒を吐く。

「二人揃わないと一つの禁呪も使えない半人前さんたち」

 ティードルディーとティードルダムの額に青筋が浮かんだ。

「おいおいお嬢さん、何を挑発しているんだ?」

 向こうは二人の魔導士と銃を持った男たち、こちらは男子高生と同じような年頃の少女と怪人。

 チェシャ猫の挑発を不安に感じたらしく、マッドハッターが問いかけてくる。

「これでいいのよ。あの二人は性格的に反目し合っているのに、強い能力は共同でしか使えない」

「まずは足並みを乱せってか」

「その通り」

 マッドハッターも伊達に怪盗として警察を撹乱したり睡蓮教団を敵に回して生き残ってはいないということか、短い言葉でも察しが良かった。

 睡蓮教団の魔導士二人はチェシャ猫に対し、怪人やアリスに向けるより更に厳しい憎しみの表情を向けている。

「お前が生きてるってことは、赤騎士の奴が仕留め損ねたってことか。使えねぇな」

「白兎も共犯でしょうね。これを報告すれば幹部が何人も減りそうで……楽しみですよ」

「そうね。楽しみだわ。あんたたちが下っ端に転落するのが」

 これでチェシャ猫の生存が赤騎士以外の幹部に判明した。退くことのできぬ戦いに、また一歩足を踏み入れる。

 けれどシャトンもアリスも、素直に殺されたり捕まったりしてやる気はないのだ。

 むしろここでこの二人を倒すことができれば、教団との戦いが少しは有利になるかもしれない。

 シャトンを軸に二対二の戦闘が開始される。

 その間にマッドハッターは、何も言わずに黒服たちを片づけることに専念し出した。

 雑魚ちらしはありがたく彼に任せて、アリスとシャトンはそれぞれの相手に集中する。

「そっちの坊主も結構やるな」

「忌々しい……何なんだ貴様は、伸び縮みして」

「伸び縮み?」

 ティードルダムはチェシャ猫の攻撃を避けるのに必死で、アリスとアリストの関連性をまだティードルディーに報告できていない。

「シャトン、どっちだ」

「ティードルダム、痩せぎすの方よ」

 アリストとチェシャ猫は、別々の獲物を狙うと見せかけてティードルダムへ攻撃を集中させた。

「ぎゃ!」

「ダム?!」

 しかし確保しようとした行動は、さすがにティードルディーに邪魔される。もはや魔導ではなく隠し持っていた拳銃を乱射されて、迂闊に近づけない。

 そうこうしているうちに、サイレンの音が聞こえてきた。

「パトカー?」

「マッドハッターの捜索か!」

 遠隔で状況を確認していたヴァイスからモンストルム警部だという報せが入る。

「……今日のところは痛み分けということにしておいてあげましょう」

 最後にどう聞いても苦し紛れの捨て台詞を吐き、ティードルダムとティードルディーは撤収した。


...066


「畜生~、惜しかったなぁ」

「彼ら自身はともかく、ティードルディーとティードルダムの師匠は確か教団の重鎮の一人だわ。捕まえれば中核に近づけそうだったけれど」

「逃がしたもんは仕方ない……とは言ってられないよなぁ。どうする? シャトン」

 アリスがアリストへ変わるのをティードルダムに目撃されているのが厄介だ。

「雲隠れするにしてもまずは帰って白騎士に相談よね」

「そうだな。……お?」

 術が解ける。

 魔法は終わる。

 夢の時間から覚めていく。

「なっ……!!」

 マッドハッターが今日一番の驚愕の声を上げる。

「……もう終わりか」

「あの二人が結界を解いたのね。……仕方ないじゃない。鏡に映る今の私たちの姿はこっちなんだもの」

 全身を包む淡い光が消える頃には、アリストの声が澄んだ高いものに変わっていた。

「これは一体……どういうことだ?」

 声音からでも呆然としていることが伝わるマッドハッターに向けて、アリスト――すでに子どもの姿に戻ったアリスが肩をすくめて見せる。

「これが、俺たちが睡蓮教団を追う理由ってやつ」

「何故大人が子どもに……いや、子どもが大人に……?」

「ちょっと時間を盗まれちゃってなー」

「時間を……盗む?!」

 神妙に悲劇的に演出しようと思えばいくらでも悲劇になるはずのそれを、アリスはからりと笑いながら口にした。

 相変わらずぽかんと口を開きっぱなしの怪人に問いかける。

 最初に顔を合わせた時からそう感じていたが、怪人マッドハッター、彼はやはり相当若い。

「で、マッドハッター。お前の方はどうなんだよ。と言っても、さっきの様子からすると教団と敵対しているようだが」

「ああ……そうですよ。彼らは私の敵、彼らからしたら、私は目障りなコソ泥と言ったところでしょう」

「あなたがツィノーバーロートの絵や他の宝飾品を狙うのは、魂の欠片を集めているためね」

「その通り」

 怪人マッドハッター……フート=マルティウスは頷く。

 本当はそれだけではないのだが、いくらアリスト相手でもそこまでは明かせない。

 否、むしろアリス少年の正体が友人のアリスト=レーヌだと知ったからこそ、これでマッドハッターには自分の正体がフート=マルティウスであることを明かす機会が消えたと言える。

 言える訳がない。

 友人に、自分が怪盗であるなどと。

「俺たちは元の姿に戻るために、睡蓮教団と戦うための仲間を集めているんだ。あんたの持ってる情報も知りたい」

「私たちと手を組まない? マッドハッター」

 フートの事情を知らないアリスたちの側からしてみれば、十七歳の姿をマッドハッターに見られたのは好都合でもある。七歳の子どもの姿よりはこの方が説得力があるだろう。

「……先程の姿でも、あなた方はせいぜい高校生かそこらでしょう? そんな子どもに、一体何ができるって?」

 しかし、マッドハッターの方は。

「危険なことはやめて、おうちに帰りなさい」

 アリスとシャトンは表情を曇らせる。

 彼らにはまだ、怪人マッドハッターの正体はわからない。

 けれどその言葉が咎めではなく、気遣いから発せられたものくらいはわかるのだ。

「そう言う訳にもいかねーよ」

「危険だからこそ……余計な人を巻き込めないわ」

 そしてシャトンの切実な訴えが、ここ十年のマッドハッターの……フートの孤独を呼び起こした。

 だから、なのか?

 だからザーイエッツは……兄は帰って来ないのか?

 仮面を被る怪盗と偽りの子どもたち。誰も彼もが真実を喪って、それでも足掻いている。

 総てを知る者はここにはいない。

「……情報の交換くらいは、機会があればしてあげますよ。けれど私に仲間などいらない」

 巻き込めない。そんなことできるはずない。

 例え彼らの心を傷つけてでも。

 どうして帰ってこないの? 記憶の中の後ろ姿に問いかけ続けた答が今ようやく手に入ったのかもしれないけれど。

「マッドハッター!」

「もう遅い。そろそろお帰りなさい。それとも、私を捕まえるためにこの辺りをうろうろしているモンストルム警部にでも代わりに捕まりたいのですか?」

 正体がどうであれ、今のアリスとシャトンは子どもなのだ。

 大人の腕で簡単にくびり殺せるような無力な存在でしかない。

「まぁ、先程のことには礼を言いますよ」

「別にいいわよ。借りを返しただけだし」

 単に会話の繋ぎ代わりを兼ねた礼を口にしたマッドハッターに、シャトンは不思議な答を返した。

「……?」

「借り?」

 マッドハッターが危うく声を呑み込む傍でアリスが不思議そうにシャトンを見ている。

「ええ。協定のことはともかく、これであの時の借りは返したわよ」

「……そうですか」

 そしてマッドハッターは屋上から姿を消す。

「シャトン、借りってなんだ?」


 ◆◆◆◆◆


「どうやら全員無事のようだな」

「良かった……!」

 遠くで様子を監視していたギネカとネイヴは胸を撫で下ろす。

「そんなに心配ならギネカも行けば良かったのに」

「いくらなんでもそんなことまでしたら不審に思われちゃうでしょ! 犯罪的宗教団体とガチで戦う女子高生なんていないわよ!」

「お前は銀行強盗とガチで格闘する自分を普通の女子高生だと思ってんのか……?」

 幼馴染の自己評価は一体どうなっているのかと、ネイヴは盛大に呆れた。

「それにしても、アリスとあの、シャトンの姿が大人に戻ったのは何なのかしら?」

「その辺は後日何があったか聞けばいいんじゃないか? 問題がなかったらそのくらいは教えてくれるだろ」

 ギネカのたっての頼みで危険なことをするアリスたちを見守っていたネイヴは、素早く現状と問題点を整理していく。

「マッドハッターには色々ばらしちまったみたいだけど、まぁ、あいつなら大丈夫だろう。問題は残る二人だな」

「ティードルディーとティードルダムね……ただ」

「ああ、ジャバウォックからの情報か。一体どういう意味なんだろうな。“あれは放っておいても大丈夫”って」

 姿なき情報屋は何故かマッドハッターを敵視している割に、同じ怪盗であるはずのジャックに対しては好意的だ。時々こうして情報を流してくれる。

 情報どころか、一見意味不明の示唆さえも。

 それでもこれまでの経験から彼の言葉には信用がおけると知っている二人は、ジャバウォックの言葉をひとまず信じてその場を後にすることにした。

 その内容まで彼らが知っていたら、それを後悔するとまではこの時は夢にも思わなかったのだ。


 ◆◆◆◆◆


「くそ……!」

 黒服を着て集団で行動しているために目立つ部下たちと別れ、ティードルディーとティードルダムは彼らの本拠地に向かうために走っていた。

「あのガキ、それにチェシャ猫の野郎……一体なんだってんだ!」

「ディー、あの金髪の少年ですが、元は七歳程の子どもでしたよ。それが私たちの結界の特性を理解した途端、急に大人の姿になったのです」

「なんだって?!」

 二人は物陰で足を止める。

「道理で似ていたわけだ。ってことは、元の姿はもしかしてあっちか?」

「あっちってどっちですか? まったく、あなたの雑な言い方はいつも紛らわしい」

「俺に文句言ってる場合じゃねぇだろうが! 高校生ぐらいの姿の方だよ。本物の子どもが想像だけで大人になってみたと考えるより理にかなっているだろうが!」

「確かにそうですが、では何故あの少年は最初から子どもの姿だったのです? 変装や幻惑の術をかけていたわけでもなく、容姿はそのまままるで時を巻き戻したかのよう――」

 ティードルダムが口にした言葉から、二人はあることに思い当たる。

 今日あの子どもと一緒にいた魔導士。

 彼らにとっては目の上のたんこぶであった、チェシャ猫という存在。睡蓮教団の秘蔵っ子でもあった天才魔導士。

「時を盗む禁呪だったか、チェシャ猫の奴が作ってたのは」

「実用化された際に運用していたのは、確か白兎と赤騎士だったはず」

「ふん、裏切り者のチェシャ猫はともかく、赤騎士たちはとんだ失態だな」

 否、あえて見逃したのか?

 赤騎士と白兎の二人組は睡蓮教団の中でも異端だ、何を考えているのかわからない。

「どうします? あの二人を上層部の前で追及するか、それとも裏で弱味を握るか……」

 顔を見られたと言っても相手はどちらにしろ所詮は子ども。まだアリスのことを侮っていたティードルダムとティードルディーはそう考える。それよりも白兎と赤騎士の弱味を握る方が大事だと。

 この後、もしもの話をするのであれば。

 彼らがこっそり赤騎士たちの弱味を握ろうなどとその話をしたが最後、アリスの存在を隠しておきたい赤騎士は彼らを即座に殺してしまったに違いない。

 だが現実は、そもそもティードルディーとティードルダムの二人を、この後教団本部で赤騎士に会わせてすらくれなかった。

「――ねぇ、そこのお兄さんたち」

 物陰に隠れていた彼らにかかる若い声。

「こんな夜中に何用です。良い子はさっさと帰る時間ですよ」

「ガキ、俺たちは忙しいんだ。あっち行けよ。でないと」

 そろそろ苛立ちが頂点に達し始めたティードルディーは無関係な少年に八つ当たり的に凄む。十六、七の高校生らしき相手の年齢が、今まで対峙していた奴らに近いと言うのも鬱陶しさを増大させていた。

「殺しちまうぞ」

 だが狂気のような月明かりを浴びた顔の見えない少年は、それを聞いてにっこりと笑った。


「ああ、それはちょうど良かった。僕もあなた方を殺したくて殺したくて仕方がなかったので。――相手が殺しにかかってくるなら、僕が術を振るっても正当防衛ですね」


「なんだと?!」

 相手の様子がおかしなことに気づき、二人は一気に警戒を強めた。だが遅い。彼の――ハンプティ・ダンプティの行動の方が早い。

「コードネーム“ティードルディー”及び“ティードルダム”」

「私を、ディーの、下風に置くな」

「言ってる場合か、ティードルダム」

 この期に及んでそこに拘る相棒に突っ込みながらも、ティードルディーは本能的な危機感を覚えていた。

 この相手はまずい。

 頭の隅で警告のアラートがひっきりなしに鳴り響いている。

「大丈夫、あなたたちの素性はまだ隠しておいてあげますよ。全てを殺すまで共通点に気づかれたくはないので」

 でも名前を記述する順番への抗議は、明日の新聞社へでもどうぞとハンプティ・ダンプティは語りかける。

 断末魔を上げる二人は、もうそれを聞くこともできなかった。彼らは死という、終わらない夜の中で悪夢を見続ける。

 白いカードが死体の上に落とされ、端から血に染まっていった。


 良い子はお家で夢を見ている真夜中。

 だからここには、悪い子しかいない。


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