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Pinky Promise  作者: きちょう
第3章 歯車の狂うお茶会
10/30

10.眠り鼠の沈黙


...055


「――あれは、恐ろしい男だ」

 五十を過ぎてなお若々しい男が、その見た目に似合わぬ嗄れ声で言った。

「当時わずか十代の少年が、この儂の作り上げた組織を壊滅寸前まで追い込んだのだからな……“白の騎士”、恐ろしい男よ」

「へぇ……」

 レジーナはまたいつもの話が始まったと、父の昔語りに気のない相槌を打つ。

 父の書斎は絵に描いたような成金の部屋だった。“赤の王”の威光を他者に知らしめる、ただそれだけの装いだ。

 形を取り繕うことも威厳のためには必要だと教えられている。だがどうしてもこの部屋の華美さは、レジーナにとっては無駄なものにしか思えなかった。

 貴族を模した豪奢ながら古臭い部屋で、古い話が紡がれる。

「それで、お父様はその“白騎士”とやらを今も警戒しておられるわけですか」

「ああ、そうだ。儂らの教団ももう今は昔のように小さな組織ではない。だが、白騎士を侮ることはできない。かつて教団が今よりも小さかったように、かつての白騎士は若造だった。今は奴も腕を上げ、いざとなれば本格的に我らに牙を剥くやもしれぬ」

「それならば、手出しをせねばよいのでは?」

 たった一人の男を、犯罪組織がいつまでも恐れるのは滑稽だとレジーナは言う。相手が常に教団の取り潰しを狙っている公僕ならばまだしも、白騎士は表向きにはただの高校教師である。必要もない限り教団に関わることはしないだろう。

 それよりも今はやることがある。

「厄介な敵は警戒しておくに越したことはない。お前も油断するな、レジーナ」

「私は仲間に恵まれておりますので」

「お前の部下たちはよくやっている。だが、慢心が破滅を招くのだ。……儂が一番よく知っておる」

「……そうですか。それでは私も肝に銘じておきましょう」

 レジーナは退出する。その足で自分の部下兼同僚の詰める部屋へと向かった。

「やぁ、みんな」

「セールツェ様。今日は遅いですね」

「お父様の薫陶を拝聴していたのでね」

 くすりと赤い唇に嘲りの笑みを佩いて、レジーナは自らの席に座る。彼女以外の顔触れはすでに揃っていた。

「待たせてすまなかった。さぁ、始めようか。マッドハッター対策会議をね」

 “ハートの女王”――レジーナは短い黒髪をさらりと揺らし、紅い瞳に悪戯で残酷な光を宿し口を開く。

 もともと目障りな相手だったが、ここ最近の怪人マッドハッターは更に彼らにとって邪魔な相手となった。

 何せ教団が集める魂の欠片を横から掻っ攫われるのでたまらない。しかも向こうは予告状を届けて警察を出動させる、厄介な泥棒だ。マッドハッターの犯行現場は警察の数が多すぎて、彼らでもできる限り近づきたくはない。

「“ハートの王”、“グリフォン”、“ニセウミガメ”、“ティードルディー”、“ティードルダム”」

「その順番でわたくしを呼ぶのはやめてくださいよ、ハートの女王陛下。まるで私がティードルディーとセットの上、私の方が序列が下みたいではないですか」

 と、ティードルダムから文句が上がった。

 ティードルダムは薄い灰色の髪に黒い瞳を持つ、細身の男だ。鼠顔に片眼鏡を嵌め、陰気な顔でこちらを見ている。

「おやおや、それは申し訳ない、ティードルダム。だが僕の口も一つしかないもので、同格の二人であっても呼ぶときには一応の順序を決めねばならないのさ。勘弁しておくれよ」

「構わんぞ女王様! 俺の方がこいつより優れているのだ! 先に名を呼ばれるのは当然のことだからな!」

「なんだとティードルディー、貴様――」

「いい加減にしろ。見苦しいぞ、二人とも」

 ニセウミガメが端正な顔立ちを顰めて吐き捨てる。

「まぁまぁ、順番なんかどっちでもいいじゃん、呼びやすければさぁ」

 乾いた血のような赤毛の男、グリフォンがのんびりとそう言った。

 口調こそのんびりとしているが、彼の目は獰猛な獣のように眇められていた。このまま争いを続ければすかさず喉首を食い千切るとでも言いたげに。

 二人はすごすごと引き下がった。

 しかしティードルダムはやはり、控えめながらも自分の要求をしっかり口にするのは忘れない。

「次は私の名から先でお願いしますよ」

「はいはい、わかったよティードルダム」

 ハートの女王は鷹揚に頷く。

 今日の彼女は比較的機嫌が良い。昼間何か良い事でもあったのだろうか。

「それで、マッドハッター対策だろ? 何をするんですか?」

 ハートの王が、出だしから逸れた話題を元のラインに戻す。

「そうそう、そのマッドハッター対策だ。ぶっちゃけみんな、どうしたい?」

「もう殺しちゃいましょうよ」

 グリフォンがさらりと言った。

「いきなり物騒だな」

 ニセウミガメがその過激さに溜息をつく。

「だってそれが一番手っ取り早いだろ? あの野郎、まさか生きていたとはな。十年前に死んだとばかり思っていたのに」

「希代の怪盗の名は伊達ではないな……と、言いたいところだが、そもそもあの男は本当に十年前のマッドハッターと同一人物なのか? 誰もマッドハッターの素顔を知らない以上、別人が犯行を再開してもわからんぞ」

 ハートの王の疑問には、ハートの女王が答えた。

「それはまぁいいんじゃない? マッドハッターの熱烈な『追っかけ』こと帝都警察が同一犯認定しているのだから、今のマッドハッターは十年前と同一人物か、もしくはマッドハッターの内情を知る関係者の二択でしかない」

「なるほどねぇ」

 グリフォンが感心するように頷いた。

「あれ? ところで白兎と赤騎士はどうした? 暗殺はあいつらの仕事じゃなかったっけ?」

 ここにいないコードネーム持ち二人の名を出して、グリフォンがわざとらしく周囲を見渡す。

「白兎は名目上、特殊工作部門の一員だがマッドハッターは担当ではない。赤騎士に関してはそもそも粛清暗殺部門だ」

「あらら。あいつらに頼めば早そうなのにな」

「……私は、奴らを軽率に動かすことには反対だ。あの二人は組織に従順ではあるが、忠誠は薄い。万が一マッドハッター絡みの案件で表沙汰になれば厄介だ」

 ニセウミガメは溜息を吐く。彼女は組織に対する忠誠こそ厚いが、殺人部門において殺人を嫌う変わり者でもある。

「それもそうか。……ってことは」

 グリフォンはぺろりと下唇を舐めた。

「俺たちの取り分が増えるってことだな」

 より多くを自分が殺せるのだと、戦闘狂は歓喜する。元よりニセウミガメが人死にを少なくしようと立てた計画を壊し、被害者の数を引き上げるのが大好きな男だ。

 しかし、グリフォンの喜びに水を差したのは他でもないハートの女王だった。

「マッドハッターは殺そうと思ってるけど、やるのは君じゃないよ、グリフォン」

「あらら? どして?」

「ティードルダム、ティードルディー」

 女王は話を、コードネームの対になる二人へと振った。

 話の内容に察しがついた二人は、問われるより先に答を差し出す。

「新しい禁呪の開発が進みました」

「女王陛下、これの試験をする機会を下さると?」

「ああ、そのつもりだ。皆、マッドハッター殺しには異論ないね」

 女王はぐるりと周囲を見回して仲間たちの意志を問う。

「ありません」

 ハートの王が即答し、

「ございません」

 ニセウミガメが神妙に頷き、

「あるわけないない」

 グリフォンが笑いながら手を振った。

「……この通りだ。気兼ねなく殺してきなよ、ティードルディー、ティードルダム」

「「御意」」

 同じ師についたため、仲が悪くとも二人揃って動くのが最も効率良いという皮肉な関係の男たちは頷く。

「期待しているよ、ティードルダム、ティードルディー」

 最後まで名を呼ぶ順番に気を使う、律儀なハートの女王であった。


...056


 ――彼は、彼女の憧れだった。

『ザーイ、ザーイ……ねぇ、どこに行くの?』

『ムース、ついてきちゃったのか』

 同い年の幼馴染の、十歳年上のお兄さん。ザーイエッツ=マルティウスは、ムース=シュラーフェンの初恋の人である。

 高等部のムースは学院でもしょっちゅうフートとカップル扱いにされているが、恋人として付き合ったことは一度もない。

 彼女が好きなのは、いまだにザーイエッツその人である。十七歳になったフートは失踪直前のザーイエッツの面影そのままで懐かしさを覚えるが、だからと言って弟にそのまま恋をするようなことはない。

 フートが願うのと同じくらいに、ムースはザーイエッツが生きていることを信じている。彼の生死が明らかにならない限り、彼女の初恋も終わらない。

 だから、二年前怪人マッドハッターを継ぐと決めたフートを手伝って、眠り鼠と言うコードネームを持つ共犯者となったのだ。

 幼い頃、ザーイエッツは二人が大人になるまで『不思議の国のアリス』の本を読むことを禁じていた。

『どうして? これ、怖いご本なの?』

『……そうだよ。ムース、フート。この本の中には、恐ろしい秘密が詰まっているんだ』

 ザーイエッツがいる間は、だからフートもムースもそれ以上の疑問を持たなかった。彼がいなくなってからは激変した世界に順応するのに必死で、それどころではなくなった。

 そして数年前、フートが家の中にしまいこんでいたその本を見つけ出し、中に挟まれていたザーイエッツの手紙を読んだことから、二人の“マッドハッター”の物語が動き出す。

 ザーイエッツがフートに宛てて遺した手紙には、彼が背徳神の魂の欠片を求めて怪盗を始めた簡単な経緯と、その途中に睡蓮教団と獲物を巡って争うようになった事情が記されていた。

 それは、フートとムースにとって、まさしく人生を変える切欠だったのだ。

 ザーイエッツの手紙からは、彼が何故背徳神の魂の欠片を集めているかの細かい理由はわからなかった。ただ睡蓮教団と敵対した関係で危険が迫っていることに気づき、念のために遺しておいただけの手紙らしい。

 ザーイエッツは帰って来るつもりだったのだ。あの時も。

 でも、怪盗である以上、いつか永く家を空けなければならない日が来るかもしれないことを予感していたとも。

『……フート』

『ムース、俺、決めたよ』

 そして、 フートは怪盗になり、ムースは共犯者となる。二人で怪人マッドハッターを蘇らせ、そして――睡蓮教団の影を追うことになる。

 教団と毎回戦って勝つ必要はない。二人が欲しいのは、ザーイエッツの消息に関する情報だ。そのために教団を度々挑発しながら逃げ回っているのが、ここ二年の彼らの戦いだった。

 愚かだとはわかっている。もう十年も帰らない人のために何をやっているのかと。

 けれど、止めることができないのだ。ザーイエッツが生きている希望を持つことを。

 他者が見れば呆れることだろう。たった二人、表向きには怪人マッドハッター一人でどうやって裏に巨大な犯罪組織を抱える宗教団体に打ち勝つつもりなのかと。

 それでもフートもムースも、決して諦める気はなかった。

 かつてザーイエッツが集めていた魂の欠片と言う名のパズルのピース。それを揃えれば、ザーイエッツ=マルティウスに繋がる地図が完成するような気がして。

 プリンターから印刷完了の合図が鳴る。

「――フート」

 物思いから思考を引きはがし、ムースは印刷された資料をまとめると、記憶の中のザーイエッツによく似た今現在のフートへと視線を向けた。

「出たわよ。これが資料」

「おー、あんがとさん。……って、少ねぇなこれ……」

「仕方ないじゃない。マメなヴァイス先生ってのも思いつかないし」

「いやー、あの人は案外結構真面目だろう」

 怪盗として行動するためのアジトの一室で二人が見ているのは、ヴァイスの下に預けられた二人の子どものデータだ。

「うむ。見事なまでに不自然な戸籍だな」

「ヴァイス先生の親戚を機械的に全部あたってみたけど、『アリス=アンファントリー』と『シャトン=フェーレース』なんて子どもはいないわよ?」

 ヴァイスとはフートたちがジグラード学院に入ってからの付き合いだ。今更調べるも何もない。そのヴァイスがフートの予測を超えた行動をしたのであれば、その切欠は最近彼が引き取った二人の子どもにあるのではないかとフートは推理した。

「偽装だな」

「そうね。これ犯罪じゃない?」

「俺たちがやってるのも犯罪だけどな」

 窃盗はもちろん、こうして本来一般市民が目にすることのないデータをネットワーク上から勝手に抜き出す行為も勿論犯罪だ。

 ムースは身体能力や魔導の才能こそフートや友人のアリスト、ギネカに劣るものの、電子機器の操作に異様に強いという特技がある。

 ヴァイスと仲がいいのも、彼の発明という趣味とムースの特技が一致するからという理由があった。

「向こうも色々あるってことか? この資料だけじゃ、なんで先生たちがあの夜、あそこにいたのか結局わからないな」

 先日のマッドハッターの犯行の際、見物人の中に見知った教師とその預かり子と友人の姿を目撃したことから、フートたちはヴァイスが今どのような事情を抱えているのかをこうしてこそこそ調べ回っていた。

 勘が良く一流の魔導士としてフートたちの師であるヴァイスに正面から仕掛けるのは無謀なので、普通の人間でも可能な範囲の調査しかできないのがもどかしい。

「先生たちもそうだけど、ギネカさんも」

「んー、マギラスは家が近所だろ? せっかく子どもがいるからみんなで見物ってだけの可能性もあるしなぁ」

「でも、魔導探査されたんでしょう?」

「……そうだった」

 昨夜の盗みの際にフートは別段魔導は使っていなかった。だからヴァイスにもギネカにも気づかれなかった。けれど実際に魔導を使っている際に探知を受ければ、微妙な反応からでも正体がバレる恐れがある。

「危ない危ない。今回はできる限り魔導は使わないって方針で正解だったな」

「そうね。ジグラード学院の生徒が魔導犯罪を犯していたなんて知れたら、マッドハッターの正体以上に世界中で大ニュースよ」

「あとヴァイス先生に殺される。先生が魔導犯罪に関して警察に協力してるのって、結局そういうのを防ぎたいからだろうしなぁ」

「そうね」

 フートとムースはヴァイスのかつての経歴までは知らないが、彼が探偵と面識を持ち魔導を用いた犯罪の解決に力を貸していることは、ジグラード学院では周知の事実である。

「次の仕事にも、来るかな」

「どうかしら。前回は見かけなかったなら三部作に興味があるわけでもなさそうだし。マッドハッター自体が目的なら、次と言わずこれからも来るでしょうね」

 実に厄介なことになった。

ヴァイス一人でも大変だが、その交友関係には帝都の切り札とまで呼ばれる探偵がいる。

 そしてマッドハッターに関しては、睡蓮教団と、それ以外にもう一人厄介な敵がいる。

「例の奴と手を結ばれたらヤバいよなぁ」

「“姿なき情報屋ジャバウォック”ね。モンストルム警部は半信半疑でしか行動しないけれど、使えるものはなんでも使う主義のヴァイス先生なら……」

「勘弁してくれ……」

 誰もその正体を知らない謎の情報屋にして、帝都一の情報通であるジャバウォック。彼は何故かマッドハッターの犯行の際に警察へ余計な助言を与え、何度もマッドハッターを苦しめている。

 帝都にはもう一人、怪盗ジャックと呼ばれる怪盗“パイ泥棒のジャック”がいるのだが、そちらにはジャバウォックは何も手出しをしてこないらしい。

 何故ジャバウォックがこうもマッドハッターばかりを目の敵にするのかはフートにもわからない。二人の怪盗の捜査現場であえて違いを挙げるとするならば、ジャックの方にはそれこそエールーカ探偵が何度かお宝の防衛に力を貸しているからだろうか。

 考えたところで答は出ない。今彼らの手元にある情報で判断できる内容は全て憶測混じりである。

 ある程度悩んだところでその話題はもう切り上げだと、狭い室内で伸びをしたフートは不意に話題を変える。

「それにしてもテラス君が、あのモンストルム警部の息子だとはな」

「……」

 ムースは押し黙った。

「顔も性格も似てないのに」

「……フート」

 最近は学院内でも仲良くしている小等部の少年の名を挙げる幼馴染に、ムースは凍土の如く冷たい目を向けた。

 そうだった。最近の不安材料は姿なき情報屋や顔馴染みの教師だけではなく、フート自身の不穏な恋愛模様もあったのだ。

 怪盗の共犯者となった以上、ムースは最悪の場合、幼馴染と自分がいつか怪盗として捕まり、衆目に晒される覚悟はしている。

 だがしかし……いくら彼女でも、幼馴染がショタコンとして一線を越えてしまい社会的に抹殺される覚悟まではできていない。

「現場でテラス君の話なんか出すんじゃないわよ。即刻正体バレるから」

「そんなことしません!」

「あとできるだけ、『テラス君のお父さん』としてのモンストルム警部と素顔で接触することも避けないと」

「わかってるよ! 父親に挨拶なんてまだ早すぎる!」

「わかってないじゃない!」

 あらゆる不安要素を抱えながらも、フートとムースの二人は怪盗としての、次の仕事の手順を手際よく決めていった。


...057


 翌日の食堂で、ムースは至って真面目に口を開いた。

「……と言う訳で、あのバカをなんとかしたいと思うんです」

「頼む、ムース。俺たちを巻き込まないでくれ」

 ムースはフートのテラスへの感情について、友人たちに相談する。

 もちろん怪盗稼業のことなどは伏せているが、いい加減フートのテラス君ラブを一人で抑えるのも限界だ。

 レントがげんなりした顔で言い、後の面々も生温い笑顔になった。

「ああ、こんな時にアリスト君がいてくれれば、フートに容赦ない一撃をぶち込んでくれるのに……!」

「ムース……あんたアリストをなんだと思ってんの?」

 エラフィが呆れて突っ込んだ。普段はエラフィの方がアリストに対し辛辣でムースがフォローに入ることが多いというのに、今日は役割が逆である。

「まぁ、そう心配しなくてもさすがにフートはこう……法律に引っかかることはしないでしょ。多分」

「その多分は余計だよギネカ、多分」

 ギネカの台詞に、ヴェイツェが突っ込む。だが微妙に彼も賛同する気持ちを隠しきれていない。

 幼馴染であるフートに関しては、ムースはいくら心配しても足りない状態だ。二人が恋人同士に見えるのは、彼女が異様にフートの無茶を怒ったり心配している場面が見られることが多いからという理由もあるという。

 マッドハッターとしての活動はともかく、テラスに関してはフート自身の実力は当てにならない。むしろ当てにしてはいけないので、ムースがなんとかせねばならない。

 彼女は使命感すら抱いていた。

「テラス君も年の割に大人びているし、フートに良いようにあれこれされたりはしないんじゃないかしら?」

「その例えが出るだけですでに相当ヤバいですよね、ギネカさん……」

 確かにテラスは七歳とも思えぬしっかりした少年だが、十七歳相手にそれ程上手く立ち回れるだろうか。

 ……一同はテラスと顔を合わせる度に、まったくもって余裕のない挙動不審な態度をとる同い年の友人と、それを全て理解し、適度に流しつつ適度に包み込むような態度で見守っている七歳の少年のいつもの様子を思い浮かべた。

 あれ? 意外と大丈夫かもしれない。

「ところでムース、フートのアプローチを危惧するなら、あれは放っておいて良かったの?」

「あれって?」

「フートの奴、さっきテラス君と何か話して」

「二人きりで?! どうして止めてくれなかったんですかー!!」

「落ち着けムース!」

 机に身を乗り出して暴れ出そうとするムースをレントが抑え込む。

「いや、子どもたちも一緒だったよ。あっちから用事があって話しかけてきたみたいだ」

「な、なんだそれなら……」

「まぁ、フートの顔はでれでれしっぱなしだったけど」

「やっぱり止めてきます――!!」

 レントの拘束を自力で外したムースは慌ててヴェイツェが目撃した現場に駆けつけて行った。

 女子に力で負けたレントは若干凹みながら自らの席に戻る。

 エラフィがにやにやしながら、教室を飛び出すムースの背中を見送っている。

「ムースってやっぱりフートのこと好きなんじゃないの? 幼馴染関係で恋愛とか良くあるじゃん」

「あ、でもムースは確か、他に好きな人がいるって言ってなかった?」

 先日の話を思い出してギネカが告げると、エラフィはそうだったっけ? と目を丸くする。

「なんというかねぇ……」

「恋愛って難しいねー」

 皆がギネカの方を一斉に見る。

「ちょっと、どういう意味よ!」

 どういう意味も何も、ギネカが今は休学中のアリストにあれほどあからさまな好意を向けておきながら、まったく気づかれていないのは周知の事実である。

「というかこの集団、まともな恋愛してる奴が一人もいねぇ……!!」

 レントの叫びが一言で状況をよく言い表していた。

 世間の陽気は春真っ只中だというのに、彼らの春はまだ遠かった。


 ◆◆◆◆◆


「展覧会のチケット?」

「うん。お父さんからもらったんだ」

 テラスは薄い紙きれを一枚、たまたま廊下で行き合ったフートに差し出す。

「一緒に行ってくれる?」

「おおお俺が?! 俺でいいの?!」

「イヤ?」

「嫌じゃない! 全然嫌じゃないよ! 喜んでお供させていただきます!」

「お供って……」

 テラスの隣に立っていたアリスがげんなりとした顔になる。心なしかシャトンも半眼で胡乱な目付きをしている。

 何故か今日はこの二人から向けられる眼差しが険しいな、とフートは心の中で首を傾げながらも、テラスとの会話に集中する。

「お父さんの今度の仕事先がこの美術館でね。館長がチケットをくれたんだって」

「へー、そうなんだ」

「でもどうせ保護者なしで行っちゃ駄目って言われるから」

「だから俺を……」

「迷惑だった?」

「ううん! いやー俺もこの美術展見たかったんだぁ! すっごい嬉しいなー!」

「嬉しいのはそこじゃないでしょ」

 シャトンがぼそりと零した。やはり心なしか目付きも舌鋒もきつい。

 確かにこの喜びはそれとは違うが、この美術展を見に行きたかったのは本当だ。何故ならテラスの父親――モンストルム警部の次の仕事先はつまり、怪人マッドハッターの次の犯行現場である。

 想い人の父親を欺きながら仕事を行うことに多少の罪悪感を抱きつつ、それでもテラスと一緒に出かけられる喜びは抑えられない。

「じゃあ今度の土曜日、九時に駅前ね」

「わかった! 楽しみにしてるよ」

 約束が無事に取り付けられたところで、フートは友人たちと食事をとるために食堂へと向かう。

「なぁ、テラス」

「あの人何か勘違いしてない?」

 フートの後ろ姿を見送ったアリスとシャトンの二人は、両側からテラスに話しかける。

「ふふふふふ」

 少年は小悪魔の如く可憐に笑った。


 ◆◆◆◆◆


 そして当日。

「えーと、これは……」

「フートお兄さんおはよー!」

「これで全員揃ったか?」

「いえ、まだレントお兄さんとエラフィお姉さんが来てませんよ」

 カナールが無邪気に挨拶し、ネスルが人数を間違って数え、ローロが訂正する。

「子どもたちは早いね」

「まぁ、まだ待ち合わせまで十分ありますし」

「というか、フートもムースと来れば良かったのに。なんで家隣同士なのにわざわざ別行動なのよ、あんたたち」

 ヴェイツェが感心し、ムースがフォローし、ギネカが呆れる。

「まぁ、そういうわけで」

「今日はよろしくお願いしまーす」

 シャトンとアリスが笑い。

「さすがにこれだけの人数がいると私とダイナが車を出しても送りきれないからな」

「ふふ。みんなしっかりしているから、電車でも大丈夫ですよ」

 極めつけに、ヴァイスとダイナまでがいる……。

「え、あの」

「勘違い」

 どういうことかと尋ねようとするフートに、フォリーが一言ぴしゃりと叩き付ける。

「テラス、一度も二人きりで行くとは言ってない」

「やっぱりこういうお楽しみはみんなで分け合わなくちゃね」

「そ……そうだね」

 罪のない笑顔で告げるテラスに、フートは浮かれた気持ちが沈み込むのを感じながらも、頷くしかなかった。

 そうこうしている内に、遅れていたレントとエラフィの二人も合流する。

「ごめーん、遅くなった」

「二人とも、その大荷物は?」

「レントの心付けだってさー。みんな、お昼は期待していいわよ」

「「「やったあ!」」」

 素直に喜ぶ子どもたちを前に、レントも楽しそうだ。中身はお弁当だという。

「じゃ、行きますか」

 二人きりのデートではなく、友人一同での美術展観覧に。


...058


 今回彼らが向かったのは、ポピー美術館である。

 世界の中心に位置する藍の大陸、通称中央大陸。その更に中心部に存在するディアマンディ帝国の首都エメラルド。そこには世界の総てが揃っている。

 当然美術館の規模も大きく数が多い。

 ポピー美術館は広大な敷地面積を持ち、常設展示と企画展示、両方を行う形式だ。帝都の住民は勿論、観光客の訪れも多く交通の要所の一つとなっている。

 美術館の建物自体も有名な建築家の作品であり、壮麗な城のような外観を眺めるだけで観光が済んでしまうとまで言われていた。

 さてそんなポピー美術館だが……。

「凄い人込みね」

 チケットを使って美術館内に入り、数日前と同じ言葉をギネカは呟く。

「まぁ、これだけ話題性があればね」

「そうそうなんたって今回の見どころは」

「マッドハッター」

 レントやエラフィ、ヴェイツェが口ぐちに言う。

 現在ポピー美術館に存在するエリスロ=ツィノーバーロートの三部作絵画最後の一枚。

 ――その絵を、怪人マッドハッターが盗むと予告状を出しているのだ。

「いや、美術品を見ようよ……」

 他でもない怪盗その人、フートは苦笑しながら促した。

 彼のせいとはいえ、本日の美術展は大盛況だ。主に美術品鑑賞以外の点で。

「でも、今日こそ怪人の告げた予告の日なんですよね」

 一行の中では一番マッドハッターに興味があるらしい、小等部のローロが込み合う周囲を見回しながら尋ねる。

「私たち以外の客も、美術品というよりどちらかというと怪人の犯行現場を見に訪れた野次馬のようね」

 シャトンはローロに頷き、居並ぶ野次馬たちを呆れた表情で眺めやった。

「芋洗い……」

 フォリーがぼそりと呟く。

 普通美術館や博物館は静かに見学するべき場所だが、これほど人が多いともはやその常識も通じない。

 ざわざわと遠い噂話のような喧噪が館内を包んでいる。

「まぁまぁ、考えを変えようよ。美術品と怪人の犯行現場、両方見れて一石二鳥だって」

「テラス君、わかってて連れてきたんだ?」

「うん。どうせ明日以降だって戻ってきた絵を掲げて『これが怪人マッドハッターに盗まれた絵です!』って喧伝されるんだから、早い方がいいだろ」

「ははは……」

 それも一理ある。マッドハッターは一度盗んだ獲物を返すので、戻ってきた品を展示して一儲けしようと考える輩もそれなりにいるのだ。

 まぁ、標的の品以外に警備や金庫などに費やして、マッドハッターが与える被害金額を考えたらそれを世知辛いとも言えないのだが。

 一行はテラスに案内されて、警備の中心へと向かった。

「あ、父さん」

「あれ、モンストルム警部?」

「へー、本物って初めて見た」

 ついに美術品と怪人の予告現場のみならず、そこにいつも警備に来ている名物警部まで展示扱いである。邪気のない子どもたちが、友人の父親を物珍しげな熱い眼差しで見つめる。

「おお、テラス。来ていたのか」

「うん。学院のみんなも一緒だよ」

「こんにちはー!」

 カナールたちが先頭に立って元気よく挨拶する。高等部生組は彼らほど騒がしくはせず、軽く頭を下げるに留めた。

「君たちがテラスの言う『お兄さん、お姉さん』たちか。いつもこの子がすまないね」

「いえ、テラス君はとてもしっかりしているので、私たちの方こそどちらが面倒を見られているやら」

「今日も美術館のチケットを頂いてしまって……ありがとうございます」

 ギネカとレントが御礼を告げ、ヴァイスやダイナが更にこの一行の保護者として挨拶を続ける。

「あとは先生たちに任せて、僕らは展示を見に行こう」

「え? いいのか?」

「いいのいいの、どうせ向こうも忙しいし」

「……そうだな。邪魔しちゃいけないよな」

 モンストルム警部は仕事中であることだし、この大所帯で一人一人自己紹介する暇もない。

 テラスに促されアリスたちは美術館を見て回ることにした。

「はぐれたらお昼に中央展示場集合ね」

「「「はーい」」」

 何しろ人数が多い上にこの人込みなので、はぐれることも考えておかねばならない。子どもたちも高等部生組も、何人かごとにまとまって展示を鑑賞することにした。

「ねぇ、アリスちゃん。あの絵、なんだかおかしいの」

「どれどれ? ああ、あれか。あれはな、騙し絵と言って」

 カナールが一枚の絵を見上げながら、隣にいたアリスの袖を引っ張る。

「絵は何とか見えますけど、この人の多さじゃ解説の書かれたプレートまでは読めませんね……」

「私で良かったら、簡単に解説するわよ。ローロ君」

「本当ですか?! 凄いですシャトンさん!」

 ローロとシャトンは二人並んで、パンフレットにも書かれていないような本格的な絵画の講義のような話をしていた。

「ここの廊下の像はなんでみんな同じ顔してんだ?」

「ここは神話の彫像コーナー。並んでいるのは、みんな同じ昔の神様の像なんだよ」

「でも髪型が違うぞ」

「作られた年代ごとに神話の文化が変化して、長髪が威厳の象徴だったり短髪が男らしいとされたり、美に対する理想も変わって行ったんだよ」

 ネスルの疑問に、テラスが答える。子どもだからこそ気づくような些細な違いも、当時の価値観や情勢に左右されているのだと、なかなか難しい話を噛み砕いて説明していた。

「……なんというか、遺跡の時も思ったけどこの子たちと一緒にいると俺たちいらないよな」

 手を引いて歩くどころか引率までこなしそうな子どもたち相手に、レントが頬をかいて感心する。

「解説いらずねぇ」

 一行とほぼ初顔合わせのエラフィも、美術品よりこちらの方が面白いと言わんばかりの観察ようだ。

 そんな中、毛色の違う感想を思わず口にした者が約一名。

「テラス君格好いい」

「「「……」」」

 フートの口から零れた感嘆の溜息に、高等部の面々は何とも言えない顔をする。

「……フート」

 ムースは、幼馴染の耳を強く引っ張りその傍で厳しく囁いた。

「何普通に美術鑑賞してるのよ。ここに来た目的忘れたの」

「いや、下見はこの前終わらせたし、普通にテラス君とデートができるかと」

 今日の夜にこの美術館に盗みに入る怪盗の台詞とは思えない言葉に、ムースはもう一度フートの鳩尾に肘を入れる。

 そんなこんなしているうちに、一行はついに中央展示場と呼ばれる場所に辿り着いた。

 他でもないこの部屋こそが、本日マッドハッターの獲物であるエリスロ=ツィノーバーロートの絵画が展示されている場所だ。

 そして一行は息を飲む。

「綺麗……」

「でも、ちょっと……」

「怖い」

 簡略化された線で描かれた無数の蝶が花を包み込んでいる。ただそれだけの絵なのに、何故か酷く恐ろしい。

「これが、狂気の天才画家、エリスロ=ツィノーバーロートの絵……」

「シャトンって、ツィノーバーロートに詳しいのか?」

「まぁ、それなりに。だって彼は――」

 身の内に背徳神の魂の欠片を宿し、そのために狂っていった人物なのだから。

 シャノンの言葉に、アリスもハッと息を呑む。

 エリスロ=ツィノーバーロートは、自らが夢の中で見た風景、光景、人物を描き続けたという。

 彼の兄はベルメリオン=ツィノーバーロートと言い、有数の宝石細工職人であった。その兄の作品もまた歴史的に有名である。

 しかしこの芸術家兄弟には不穏な逸話も多く、兄弟の周囲には不可思議な事件が生涯絶えなかったとも言われる。

「今思うと彼は、狂気に呑みこまれまいと絵を描き続けたのね。だからこそ彼の絵には、背徳神の魂の欠片が分散して宿ってしまった」

 それが、エリスロの絵画の多くがマッドハッターに狙われる理由である。


...059


 子どもたちがツィノーバーロートの話をしているのを聞いて、フートは束の間、兄のことに関し思いを馳せる。隣にいるムースも似たような面持ちだ。

 何故彼はエリスロの絵ばかり集めていたのだろうか。それを調べるうちに、どうやらエリスロの絵は特別らしいとフートたちも気が付いた。

 ザーイエッツはエリスロ=ツィノーバーロートの絵に宿る背徳神の魂の欠片を集めるために、怪人となったのだ。

 だけどまだわからない。

 何故ザーイエッツ=マルティウスは、背徳神の魂の欠片など探さねばならなかったのだろう。

 そんなものが本当に彼に必要だったのだろうか。

「全員揃ったか?」

「ヴァイス先生」

 そろそろ集合時間近くだ。ヴァイスとダイナも中央展示場までやってきた。

「子どもたちは?」

「怪人の獲物になってるあの絵をあちこちから見てますよ」

「人々の脚の間からですけどね」

 確かにフートの言うとおり、小さな子どもたちの姿が絵画を鑑賞する人々の脚の間や前面にちょこちょこ覗いている。

「ま、わかりやすくていいことだ」

「……先生」

 フートは学院でいつも魔導を習っている相手に、先程の質問を飛ばしてみる。

 多少は人より才能があったかもしれないが、フートとムースの二人はここまでかなり無理をして怪盗を続けてきた。

 ザーイエッツの遺したアジトに隠されていた資料を読み漁り、それでもまだ、全てのことに関して知識が足りない。

 特に魔導と言う分野は、その道の専門家でなければ何がお伽噺で何が事実なのかもわからない有様だ。

「何故、怪人マッドハッターは、エリスロ=ツィノーバーロートの絵を狙うんでしょうね」

「何故?」

「さっき子どもたちが、魂の欠片がどうのとか言ってましたけど。あれ、ヴァイス先生の受け売りじゃないんですか?」

 そう、元より大人びたあの二人の会話だったので余計な口は挟まなかったが、こっそり聞こえてしまったアリスとシャトンの会話はフートたちにも興味深かった。

「……シャトンか、アリスか」

 人に聞こえるところでなんて会話をしているんだと、ヴァイスが呆れた様子でぶつぶつと呟く。

 だが彼は誤魔化すことなく、フートの疑問に答えてくれた。その説明は事情を一切知らない者向けの簡易なものであったが、フートが理解するには十分だ。

「昔々、邪神がいて、一人の魔術師に倒され無数の欠片となって世界中に飛び散った。この欠片を、魂の欠片と呼んでいる」

 黒い流れ星の神話として伝えられるお伽噺だ。この流れ星を身に受けた者たちが、後の魔王乱立時代を生み出した魔獣、魔物、魔王と呼ばれる存在である。

 お伽噺とは言うが、それはこの世界の確かな歴史でもある。戦乱の際に多くの資料が失われたが、実際に大陸や一部地域で魔王を名乗る強力な化け物が人々に危害を加える時代があったらしい。

 その時代を生み出した存在こそが、悪名高き創造の魔術師・辰砂。

 彼は強大な力を振るう邪神を倒すために、神と自らに呪いをかけたのだという。

 自らの魂ごと、相手の魂を砕く邪法、呪い。

 緋色の大陸に伝わる文化でわかりやすく言えば、「呪いの藁人形」のようなものだという。呪う媒体を用意して攻撃を加えることで、相手にもダメージを反映させることができる。

 けれど辰砂と神の間に何があったのかを知る者はもはやほとんどいない。

 魔導でさえ細々と消えようとしているこの時代では、魔王の脅威も黒い流れ星の神話も創造の魔術師の存在も、全てが御伽噺となってしまった。

「魂……魔導を使うのに不可欠な要素ですね」

「そうだ。我々は魂を通じて魔導を使う。魂のない者に魔導は使えない」

 魂のない生き物はいない。だが、魂を二つ持つような生き物もいない。いるとしたらそれは――。

「世界中に飛び散った魂の欠片はあらゆるものに宿り、外へと影響を与え続けた。人間の魂に働きかけ狂気や破滅をもたらす」

「……」

 それについては知っていた。

 兄の遺した手記の文章を脳裏で密やかに反芻するのに、現実のヴァイスの声が重なる。

「マルティウス、お前にはわかるだろう。お前も少量とはいえ、魂の欠片の持ち主なのだから」

 そうだ。そして多分――兄のザーイエッツも、フートと同じく魂の欠片を宿して生まれてきた人物だったのだろう。

 魔導が失われようとしているこの時代にさえ、辰砂の脅威は残っている。邪神や創造の魔術師の魂の欠片は、世界のあちこちに今も息づいている。

 それは時に物に宿り、時に人に宿って生まれてくる。

 魂は廻る。黒い流れ星の神話が生まれたその時に存在していた人間、その時に流れ星を――魂の欠片を身に宿した人間は生まれ変わっても自らの魂にそれを宿したままなのだと。

 ザーイエッツの手記にはそう書かれていた。

「先生にはなんでわかるんです?」

「私もそうだからだ。背徳神は無数の欠片に分かれたため、この世には少なからずその魂の欠片を身に宿して生まれてくる人間がいる。お前は特にわかりやすい。魂の欠片を得て生まれてきた人間は特筆すべき頭脳や身体能力を持っていることが多い」

 知っている。わかっている。

 自分の能力は、才能は、天から与えられたもの。それ頼りで生きている自分は、本当は一から努力してきたアリストやギネカに敵わないのかもしれない。

「もちろんお前自身の努力もある。だが、魂の欠片の影響もある。人として生まれ落ちた時点で、魂のどこまでが邪神のものであり自分のものであるなど、考えるだけで無駄だ」

 静かに諭すのは、ヴァイス自身がそうだったからだという。

「魂の欠片はな、惹かれあうんだ。特に物質に宿った欠片は、元の動く肉体を備えた自分へと還りたがる」

「還りたがる?」

「そうだ。魂の欠片を持つ人間が欠片を持つ物質に触れると、魂の欠片を人間の中に統合することができるんだ。物に宿るよりも、元の魂に融合する方が欠片も安定するからな」

「統合……」

 そうだ。フートもそうやって、これまで魂の欠片を宿した物質に目星をつけて盗み出し、魂の欠片を回収してきた。

「マッドハッターが獲物を返すくせに盗みは完了したとわざわざ宣言するのはそのためだろう。魂の欠片を盗むということに関しては、彼は成功しているんだ。絵画も宝石も美術品も本来は入れ物に過ぎない」

「入れ物でも、何故わざわざ盗むんでしょう。そして盗んだものを返すんでしょう? 自分の懐に入れちゃえばいいのに」

 馬鹿な話をしている、とフートは思った。

 今の怪人マッドハッターは自分なのに。他でもない、獲物を盗んでは返す泥棒は自分なのに。

 何故そんなことを、わざわざ他人であるヴァイス=ルイツァーリに聞いているのだろう。

 けれどフートは知りたかった。

 獲物を返すというどこか偽善的な行動に、何の意味があるのか?

 兄さん、何故あなたはそんなことを……。

「さぁな。だが……」

 物思いに耽りかけた思考を、再びヴァイスの声が引き戻す。

「魂の欠片はな、そのままにしておくと悪いことが起きるんだ」

「悪い事?」

「あれは一つに――神に戻りたがっている。だからこそ欠片同士は引き合う。その上、背徳神の狂気を内包している」

「……」

「欠片を持たぬ人間でも僅かに影響を受けるんだ。エリスロ=ツィノーバーロートの絵画だけでなく、呪われた宝石や美術品などもな。放置しておくと災いを生み出す」

 ヴァイスは何を言おうとしているのか? フートは彼の方に向き直りその一言一句に集中して聞き入った。

「十年前にこの帝都に現れたマッドハッター最初の獲物も持ち主を殺す呪われた宝石だっただろう?」

 マッドハッター最初の獲物は、不幸を呼ぶ宝石。それを意図せず受け継ぐことになってしまった少女から盗み出し、もうこの宝石が悪さをすることはありませんと添え書きと共に送り返した。

「案外あれは、マッドハッターなりの善行なのかもな」

「……」

 脳裏で色々な点が繋がり、フートは言葉を失う。

 兄は何故盗みなどしていたのか? 何故自分たちから離れてまで犯罪者になったのか? 幾度も疑問に感じてはいたが、そんな風に考えたことは一度もない。

「しかし、気をつけろよマルティウス」

「え?」

「お前もわずかながら魂の欠片を宿している。あの絵に近づきすぎると影響を受けるぞ。下手すると狂い死にだ」

「え、いや、いくら魂の欠片ってもそんなまさか」

「確かに欠片の一つや二つを回収したところでいきなり狂い出すわけではない。そんな簡単に集められたら怪盗だろうが睡蓮教団だろうが苦労はしないだろう。しかし、良い影響を与えないのも確かだ。怪しい美術品なんかにはできるだけ触れないようにしろ」

「わかりました。来年の進路調査に学芸員と書くのだけはやめておきますよ」

「そうしておけ」

 忠告の言葉が受け入れられたのを理解して、更に隣からダイナに何か話しかけられたらしいヴァイスが彼女と共に去っていく。

 話を聞いておいて良かった。隣から気遣わしげな声をかけてくる幼馴染に頷いて見せる。

「フート」

「行こう、ムース」

 これで今夜も戦える。



...060


 弁当を食べて一休みし、彼らは帰ることになった。

「父さん」

 そこでテラスと数人が、マッドハッター対策で立ち働くモンストルム警部に挨拶に行くことになった。

「テラスか、どうした?」

「僕たち、もう帰るから」

 ヴァイスが再び丁寧に頭を下げ、チケットの礼を述べている。普段とはえらい違う外面だ。

「怪人対策は順調ですか?」

「む」

 しかしマッドハッターの話題になると、モンストルム警部は渋い顔になった。

「警備は万全だ。だが奴はどのように堅牢な檻とて霧のように抜けてしまう怪人。どれほど対策しても、し過ぎることはない」

 いつもマッドハッターにしてやられている警察だ。完璧な対策をしたとも言い切れず、かといってまったくできていないと言う訳にも行かず。大人は大変だなぁと、アリスは適当に考える。

 彼らがそんな会話をしている時だった。

「警部! お電話が……」

「誰だ?」

「それがその……」

 モンストルムに電話を持ってきた警官が何故か言い淀んだ。声を潜めて告げる。

「例の……“ヤツ”です」

「何?!」

 モンストルムが部下の刑事の手から携帯をひったくる。豹変したその様子に、アリスやシャトン、ヴァイスは何事かと驚いた。

 テラスだけは慣れた様子で父親を見つめている。

「私だ。――何の用だ」

 モンストルム警部が電話の相手に集中してしまったので、一行は息を潜めて会話の終わりを待った。

「――どういう意味だ、それは。我々警察は――あ、おい、待て!」

 通話の切れた電話をモンストルムは苦々しげに見下ろす。

「ったく……」

「あの……どうかしましたか」

「なんでもありませんよ、こちらのことです」

 部外者には知られたくないことだったのか、警部はあからさまな誤魔化しに入る。アリスたちの方も怪盗対策について警察内部の踏み込んだ情報が欲しい訳でもなく、さして興味のない振りで流した。

「すみませんが、我々はこれから警備態勢について美術館側と話し合いをしなければなりません」

「あ、いや、我々ももう帰りますので」

「そうですか。それでは息子のことをよろしくお願いします」

「はい、本日はありがとうございました」

 美術館を出て道を歩きながら、彼らは先程の警部の態度の急変の話をした。

 モンストルム警部の息子として度々現場に出入りし、父親の顔色の変化を常日頃から見慣れているというテラスが説明する。

「あれは多分、ジャバウォックからの電話だよ」

「ジャバウォック? ……って、何?」

 初めて聞く名に、アリスは首を傾げる。

「ジャバウォックだと……?」

 一方ヴァイスの表情は険しくなった。

「確か……『不思議の国のアリス』に登場する詩の中に、そんな名前の怪物が出て来るわよね」

 シャトンも確認するように、テラスへと振り返った。

「名前の元はそこなんじゃないかな。でも警察の間で“ジャバウォック”と言えば、“姿なき情報屋”のことを指す」

「姿なき情報屋?」

 アリスはますます怪訝な顔をした。なんだその珍妙な名は。

 何よりシャトンやヴァイスの反応からすると、それは不思議の国の住人の一人だ。睡蓮教団側かどうかはまだともかく、背徳神の魂の欠片に関する秘密を知っている人間ということになるのだろう。

「ジャバウォックはここ数年で帝都に現れた情報屋なんだって。でも、彼の正体を知る者は誰もいない。それが個人なのか、組織なのかすら不明の謎の情報屋だ」

「それで、姿なき情報屋なんて呼ばれているのか」

 裏世界の住人。けれど怪人マッドハッターや怪盗ジャックと違い、一般人の前には姿を現すことのない特殊な存在だ。

 それでも警察や探偵などその筋の人間は度々情報屋の世話になることがあるという。ネットワークが発達してきた最近ではパソコンやケータイでのやりとりを行う情報屋も多いが、ジャバウォックのように誰にも正体を探られていない情報屋は珍しいらしい。

 誰もが彼の正体を知りたがり、そして辿り着けずにいる。

 それどころか、いくら調べてもそれらしき人間の影すら掴めないことから、ジャバウォックとは実在する一個人ではないのではないかと言われている。優秀なハッカー集団が徒党を組んで情報屋を名乗るコードネームがジャバウォックなのではないかと……。

 しかし、それもまた根拠のないただの憶測に過ぎない。

「その情報屋が、何故モンストルム警部に?」

 ヴァイスの問いに帰ってきたのは、あまりにもシンプルな答だった。

「ジャバウォックはマッドハッターが嫌いみたい」

「……嫌い?」

「そう。それでお父さんはじめ捜査三課マッドハッター対策本部に、時々マッドハッター対策に有利な情報を教えるらしいよ」

 あどけないテラスの口から紡がれるので思わず納得してしまいそうになったが、それが情報屋ジャバウォックの行動原理ならば、何とも子どもじみた理由だ。

「あれ? 情報屋ってそんな商売だっけ? 利益は?」

「さぁ」

 謎の情報屋の考えることなんて僕は知らないよ、とテラスはにっこりと笑う。

 テラスがこれだけジャバウォックの情報に詳しいのも、父親がモンストルム警部であるその関係なのだろう。

「利益を求めず客と接触しないのなら、確かに正体を隠すこともできるかもしれない……か?」

 だがそれならば、ジャバウォックは何のために情報屋などしているのだろう……。

 テラスの話に寄れば、ジャバウォックはマッドハッター関連以外にもたびたび警察に情報を寄せることがあるらしい。

 警察としてはソースのわからない情報を信じたくはないが、彼の持ってくる情報が間違っていることもないので対応に戸惑っているというわけだ。

「いや待て、そう言えばマッドハッターの方も盗んだ獲物を数日もすれば返却するのだから、利益は上がらない。ある意味似た者同士……なのか?」

 ヴァイスも半信半疑の様子だ。別にテラスの発言を疑っているわけではなく。情報屋がそんなことをする意味が何かあるのかと考えている。

「でも、利益を度外視しているのなら逆に、ジャバウォックもまた、マッドハッターと世界を同じくしていると推測できるわね」

 シャトンが言う。

 彼女は裏の世界にいた時に、ジャバウォックの噂でも聞いたことがあるのだろうか。

 アリスは口を開こうとした。が――。

「世界って何?」

 テラスの無邪気な質問に、アリスたちは我に返った。

 しまった。いくら子どもの前とはいえ、内々の話をし過ぎてしまったようだ。油断しすぎた。これではいけない。

「なんでもないわ。あるイベントサークルの価値観の話よ。利益より自分の目的を追求するという、ね」

「そう」

 シャトンが無理矢理に誤魔化す。テラスは不自然さに気づいているのかいないのか、表面上はいつもと変わらない様子で頷いた。

 テラスの家は警部である父親だけで、母親がいないのだという。

 警察官は言うまでもなく家を空けがちだ。テラスが年齢よりも遥かにしっかりしているように見えるのはそういった環境からかもしれない。

「そろそろ駅に着くわね」

 美術館傍の駅では、先に向かった高等部と小等部の生徒たちが彼らを待っているはずだ。

 モンストルム警部への挨拶に十人以上でぞろぞろ押しかける訳にもいかないからと、彼らは後から駅に向かうことになったのだ。

「ヴァイス先生、ダイナ先生、お疲れさまでーす」

「テラス君も、今日は本当にありがとう」

 無事に合流を果たした一行だったが、そこでヴァイスが離脱を申し出た。

「すまんダイナ。我々は用事がある」

「え? そうなんですか」

「お前たちは先に帰ってくれ」

 今日はまだ日も明るいし、最寄駅は皆一緒なのだから引率もダイナ一人で十分だろう。

 ヴァイスとアリス、シャトンの三人の目的は元々「こちら」が本命だった。

「では、我々はこれで」

「アリスちゃん、シャトンちゃん、バイバーイ」

「みんな、バイバイ」

 他意のない挨拶を交わす面々に交じってさりげなく、ギネカがアリスに近づいて囁いた。

「……気を付けてね」

「ああ」

 ――さて、本番は今日の夜。

 彼らの目的は、魂の欠片を集め、睡蓮教団へも何らかの関わりがあるのではないかと目される怪人マッドハッターへの接触だ。


 ◆◆◆◆◆


 時計台の鐘の音が鳴り響き夜の帳が降りる。

 間もなく予告時間がやってきて、舞台の幕が開かれるだろう。

「さぁ、勝負の始まりだ」

 怪人がマントを翻した。


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