1.白兎との邂逅
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夜の帳が降りた頃、人々は夢の時間からようやく目を醒ます。
目の前をふわふわと行き過ぎるしゃぼん玉がぱちんと割れたように、現実へと帰って行った。
誰もが自然と手を打ち鳴らして万雷の拍手を舞台へと送りはじめた。南国の鳥たちのように色とりどりの華やかな衣装を身に纏い、鮮やかな夢を見せてくれた彼らへ。
そして、サーカスの幕が降りる。
◆◆◆◆◆
「凄かったわね」
「派手な千秋楽だったよな」
同じ劇場から出てきた人々は口ぐちに、家族や恋人と今まで見ていた公演についての感想を話し合っていた。
姉弟二人でサーカスを見に来ていたアリストとダイナも例外ではなかった。今日の公演に関する話は尽きない。
「まるで怪盗ジャックの犯行のようだったわ」
「いやいや姉さん、それって逆でしょ。ジャックの犯行が『曲芸師的』だって評されるんだよ」
アリスト=レーヌは、ダイナ=レーヌの弟だ。
彼は四月一日の今日からジグラード学院高等部二年生となる。始業式は五日だが、制度上今日からもうすでに高等部二年だ。
アリストの外見は一言で言うと、金髪碧眼の美少年。すらりとした中背で細身、線は細いが病的な感じはしない、文句のつけようもない容姿。
成績優秀で、学年成績は常に総合二位につけている。ジグラード学院の履修科目は多岐にわたるため、運動神経ももちろん悪くはない。
ただ一つ、彼と言う人間に難があると言えば――。
「本当に良かったわね。まさしく夢の世界だったわ。ルイツァーリ先生にお礼を言わないと」
姉のダイナの一言に、アリストはサーカスがもたらす夢の世界からしっかりと現実へ戻ってきた。彼女の口から零れる気に食わない男の名前に思わず釘を刺す。
「姉さんはそんなこと言わなくていいよ」
「え? どうして? アリストも知っているでしょう? 今日のチケットをくれたの、ルイツァーリ先生なのよ?」
「そうだね。じゃあ俺がヴァイスに礼を言っておくから、姉さんは何もしなくていいよ」
怪訝な顔をする姉から視線を逸らし、アリストはここにいない男に向けて、憎々しげに舌を出した。
ダイナ=レーヌはアリスト=レーヌの姉。
彼女は今年で二十五になる。ジグラード学院の教師の一人だ。
背に流れる豊かな黒髪にルビーのような紅い瞳。白い肌は染み一つなく、スタイルの良さはまるで女優のようだった。
清純な色香、厳格にして鷹揚、人好きのする空気と高値の花の空気という、矛盾する魅力を無理なく併せ持つ謎めいた美貌の女性だ。
弟のアリストでさえ彼女がどこまで意識的に自らの魅力を使い分けているのかわからなくなるのだ。彼女の虜となった男たちは、自然と彼女に翻弄される。
その筆頭が、今のレーヌ家の隣人であるヴァイス=ルイツァーリという男だった。
ダイナと同じくジグラード学院の講師である男は、彼女目当てにわざわざ隣家へと越してきたつわものだ。
アリストがヴァイスを気に入らないのは、そういうところである。ヴァイスは他のどんな男よりも、熱烈にダイナにアプローチをかけている。
しかしアリストとしては、大事な大事な大事な姉を、そんな一歩間違えればストーカーになりかねない男に任せる気は一切ない。
――そう、容姿端麗で文武両道な優等生アリスト=レーヌ。
彼の性格の難点は、もはや手の付けられない程に強烈なシスターコンプレックスだった。
◆◆◆◆◆
ゆっくりと春の夜風を感じながら二人、道を歩く。
アリストは姉のダイナが大好きだった。彼女以外の女性には興味の欠片もない。シスコンと友人知人にからかわれることもしょっちゅうだが、態度を改める気はない。
ダイナはダイナで、彼女に心を寄せる他のどんな男よりも弟のアリストを優先してくれる。彼女の欠点もまた、弟を大事にしすぎるところだった。
月は明るく、街灯のない道を照らしていく。
隣人のヴァイスからもらったチケットで、二人はサーカスを見に行った。ヴァイスとしては自分とダイナの二人で見に行くつもりだったのだろうが、二枚ともそのまま渡されたダイナは極自然にアリストを誘ったのだ。
公演ももちろん楽しかったがそれ以上に気に食わない男が姉をデートに誘うのを無事に妨害できた喜びで、アリストは半ば浮かれ気分で道を歩く。
サーカスが終わった後、二人は近くの店で食事をした。劇場を出たのは夕方頃だったが、今はすっかり月も昇った春の夜だ。
これからモノレールに乗って数駅の自宅へと帰るのである。
この四月は一日から幸先がいい。そう思いながら駅に向かう道の途中でふと視線を巡らせたアリストは、信号の少し先で妙なものを見つけた。
「ん……」
――路地の隙間からだらりと伸びた、人の、手。
慌てて目を擦るが、雑多な街並みの暗がりにそんなものはもう見えない。行き過ぎる人々も誰一人同じ光景に気づいた者はいないようだった。
「まさかな……見間違いか?」
そう考えるのがもっとも自然だ。だが。
だが、彼が見たのは、まるで力を失って落ちたかのような、人の手。
いっそ腕だけの心霊現象とかならば話は早い。気にせず家に帰るだけだ。
しかしアリストが見た様子だと、あの腕の落ち方は意識を失った人間のようだった。
酔っ払いか何かが路地で眠り込んでしまったのだろうか? だから誰も気にしないと?
「……う~~ん」
「アリスト? どうしたの?」
信号の色が青に変わる。歩き出さない弟に、ダイナが不思議そうに声をかけて促す。
「ごめん、姉さん……俺、ちょっと知り合いを見かけたかも。先に帰っててくれる?」
「え? そうなの? ……この時間ならまだ大丈夫だと思うけど、気をつけなさい」
「はーい」
見た目にそぐわぬ「良い子」の返事をかえしながら、アリストは姉と別れて駆けだした。
まだ世界は明るい。月もネオンも煌々と照っている七時台であれば当然だ。この辺の地理なら、交番の位置も知っているから大丈夫。本当に酔っ払いであれば救急車を呼ぶなりその辺りに担ぎ込むなりすればいい。
だが、何故か神経を刺激するような不安は消えない。
あれをただの見間違いだと無視して帰ることはアリストにはできなかった。
目標の場所に固定した視線の中、その不安を裏付けるように先程とは明らかに別の白い手が、中身のない衣服を拾っていた。
◆◆◆◆◆
「……なんだ? 今のは」
先程アリストが見かけた誰かの腕。それが一瞬にして消え去った暗い路地にようやく辿り着く。
しかしアリストに見ることができたのは、中身のない衣服を誰かが回収していくそのシルエットだけだった。
間一髪で相手は踵を返し、駆けてきたアリストに気づかずに去っていく。角を曲がって消えるその姿を見送りながら一瞬立ち止まったアリストは思わず考え込む。
「今の人影は……さっきの腕の主は、結局どこに消えたんだ?」
不可思議な現象はやはり心霊現象でもなければ、酔っ払いの行動でもなさそうだった。
この路地で誰かが倒れ、そして身に纏っていた衣服だけを残して「消えた」。その衣服を、誰かが回収していったのだ。
さっぱり意味がわからないし現実のものとも思えない。けれどこのままにはしておけないように思えた。
好奇心は猫を殺すという言葉を思い出しながらも、アリストは先程の謎の人影を追うことに決める。
考え込んでいた時間は僅かだ。アリストに気づかず去った人影はゆっくりと歩いていた。今から追いかければ間に合うだろう。
頭のどこかが警鐘を鳴らす。ここから先は見てはならないものだと。
けれど暗い路地から零れるように落ちた、血の気を失った腕の映像が瞼から剥がれない。
衣服を回収した人物にはすぐに追いついた。尾行に気づかれないよう注意しながら歩いていく。
相手の髪は白い。暗い夜の路地でもその白さは目立ち、後をつけるには困らない。
路地裏を出て平然と歩いていくその相手が次に赴いたのは、人気のない近くの公園だった。
こんな時間に公園に遊びに出ている子どもなどいるはずないだろう。確かアベックに人気があるのは別の公園で、この公園は先月通り魔被害があったとかでますます人が近寄らない場所のはずだった。
そんな場所に白髪の人物は迷わず足を踏み入れ、更に彼を待つかのように一人の人物がベンチに座っていた。
スーツを着込みアタッシュケースを抱えたビジネスマン。しかしその顔は、恐怖に引きつっている。
何を恐れている? この白髪の人物か?
この尾行の最中後ろ姿だけを見ていた白髪の人物は、ほっそりと華奢で男か女かも判断がつかない。衣服や手足の様子からなんとなく年若そうな……少年なのではないかと思う。
正面から見ればまた印象が違うのかもしれないが、少なくとも外見からは、体格の良い成人男性が恐れるような相手とは考えにくい。
けれどビジネスマンの顔は紛れもない恐怖に引きつり、ベンチからばね仕掛けのように立ち上がると、白髪へとアタッシュケースを差し出そうとする。
差し出された白髪は、無情に首を横に振った。
「時間切れだ」
「なっ……!」
「“ハートの女王”がお怒りだ。あんたはもう、用済みなんだってさ」
白髪の声は、アリストが予想した通り少し高めの少年の声だった。
しかし彼の言葉は意味がわからない。ハートの女王? なんだそれは。
古代にとても流行していたという、とある物語のキャラクターか、それともトランプのクイーンか。
そんな些細な疑問は、次の光景への驚きに取って代わられる。
「やめろ!! 私はまだ死にたくな――」
白髪がすっと腕を上げた。アリストにわかったのはそれだけだった。
ナイフで刺したとも銃で撃ったとも思えない。凶器の姿は影も形も見えない。
それどころか、物陰から覗くアリストの前で繰り広げられたのは、この世のものとは思えない光景だ。
スーツの男の顔が、手足が、突然縮んでいく。
――否、若返っているのか。驚異的な速さで時を逆行するかのように、その顔立ちから年相応の皺やくすみが減り、髪が黒々とし、それだけではなく体がどんどん縮んでいく。
壮年の男の顔が青年となり少年となり幼児となり――仕舞いには消えてしまった。
後に残ったのは、着る人間を失くして残った上等そうなそのスーツだけ――。
悪夢のような光景に呆然とするアリストの耳に、白髪の声が届いた。
「あと十五、六年ってところだな」
彼は手元で何かを確認したらしく、そんなことを言っている。先程の会話以上にまったく意味がわからないというのに、その台詞には本能的な危険を感じた。
「まぁ、今回はすぐに集まりそうだけどね」
くすくすと密かに笑う気配がする。
そして彼は――振り向いた。
「ねぇ、出ておいでよ。迷子の迷子の仔猫ちゃん? それとも、白兎を追いかけてきたアリスちゃんと言うべきかな?」
初めて見た彼の紅い瞳。冷ややかな眼差しは、まっすぐにアリストの隠れている方向を貫いていた。
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「ねぇ、出ておいでよ。迷子の迷子の仔猫ちゃん? それとも、白兎を追いかけてきたアリスちゃんと言うべきかな?」
――兎。その人物を真正面から見た時、アリストは咄嗟にそう連想した。
遠い嶺に降り積もった雪のような白銀の髪に、血のような紅い瞳がそう思わせるのだろう。
少年の顔は整っている。大きな瞳に艶っぽい唇。小作りだがすっと通った鼻筋に、柳のような眉。――これまでに見たこともないような美形だ。
だが――何かが足りない。蝋のように白い肌。あまりに美しすぎた造作はおよそ人間らしさに欠けて、この世の生き物ではないようだ。
服装も一風変わっていた。昔から一部の個性的な層に支持され続けるゴシックロリータ系のファッションだ。扁平な胸や体つきでかろうじて男とわかるが、身に纏う雰囲気も含めて全体的にどこか少女めいている。まるでコミックの中からそのまま抜け出してきたキャラクターのよう。
存在がバレているのなら隠れる意味はない。アリストは過去最高の緊張を覚えながら、少年の前に姿を現した。
「……さっきの人は?」
震えそうになる声を必死で絞り出し、目の前で消えてしまった男について尋ねる。
兎のような少年は禍々しく笑った。
「なんのこと?」
「とぼけんな! さっき、そこにいただろう、スーツを着てアタッシュケースをあんたに渡したおっさんが!」
中身を失って地面に落ちた衣服を見遣る。今はもう影も形もないが、確かにそこには人一人存在していたのだ。それをどうやって消したのか。あれは一体何だったのか。
まさか深夜の公園で脱出マジックの練習もないだろう。だからあれは、あれは――。
「あらら、一部始終を見られていたわけか。――あの男はもういないよ。この世に、ね」
あれは、殺人だ。
「ま、さか……本当、に……」
流血もなければ窒息や病の苦しみもない。凶器もなければ隠滅するべき証拠もない。そして死体すら残らなかった。今ここで見たことを警察に通報しても、到底信じてはもらえないだろう。
悪い夢だ。でも現実だ。
「忘れて。……って言っても無理かな。うーん。その年頃じゃ、寝ぼけて夢を見たってことにするのも無理かぁ」
少年が一歩を踏み出した。咄嗟に後退しかかる足をアリストはなんとか抑え込む。
今すぐ背を向けて逃げ出したい。得体の知れない存在に対する恐怖が背筋を駆け上がる。
目の前の兎は、果たして悪魔か何かか。非常識の連続に麻痺しそうな精神を支えるのは皮肉にも、現実的な「口封じ」という言葉だった。
「可哀想だけど、これを見られて生かしておくわけにはいかないね」
ベンチの上にアタッシュケースを置いて、兎がアリストへ近寄ってくる。悪党のお決まりの台詞は、いざ自分に向かうとなると酷く恐ろしい。
見たところ手ぶらだが懐に刃物か何か隠しているのか。それで襲ってくるのだったら――アリストが咄嗟に巡らせた計算は、何の意味もなさなかった。
兎はすっと手を上げる。ただそれだけ。それだけの動作で、路地裏で見たのと同じ白い手の上に円状の光が生まれた。
「君の“時間”をもらうよ」
魔法。ハッと頭に浮かんだ言葉はそれだった。
アリストは咄嗟に、いつか授業で習った魔導の防壁を張る。
それでも術の全ては防げない。頭がぐらぐらとし、膝が崩れて立っていられない。
遠ざかる意識が最後に見たものは、光でできた時計のようなものだった。
円の中に十二の数字が描かれ、長針と短針を備えた時計。けれどその時計は不思議なことに、普通の時計とは違って逆回りに針を動かし時を刻むのだ。
前へ未来へと進むはずの時を過去へと無理矢理戻すかのように――。
「さようなら、“アリス”」
完全に闇に落ちた意識の中、自分の名ではない名で呼ばれた。
◆◆◆◆◆
“白兎”はくるりと踵を返す。ベンチからアタッシュケースを拾い上げると、後ろを振り返らずに公園を出ていった。
手の中には何着もの男物の衣服。回収しなかったのは最後の不運な「目撃者」の少年のものくらいだ。
思いがけない邪魔が入ったが、今日の仕事も無事に終わり、結果的には足りない分の「時間」も回収できて、首尾は上々だ。
仲間たちと共に暮らすホテルの部屋へと戻る。次の仕事が入ったため、そろそろここも引き払わねばならない。
今回の仕事完了にはまだ数日の余裕がある。しかしここで果たすべき役目は全て果たし、時間泥棒のノルマも達成したため後はゆっくりできるだろう。
「おかえり、アルブス」
「おかえりなさいませ」
金髪の小姓とメイドが出迎える向こう、応接用の空間で藍色の髪の少年の姿を見つけて白兎は微笑んだ。
「ただいま」
「おかえり」
ソファの背から彼の首を抱くように腕を回す。
相手の体からは柔らかなソープの香りが漂ってきた。いつも通り染みついた血の臭いを洗い流すために風呂に入ったのだろう。
藍色の髪の少年――“赤騎士”は教団の粛清部門に所属する。
「遅かったな。何かあったのか?」
「ん。ちょっとね」
教団が開発した禁呪の試行を兼ねた、用済みの取引相手の始末。今日の白兎の仕事はそれだけだ。手こずるような相手でもないだろうと訝りながら、赤騎士は自分の背後から首を抱く白兎を見上げる。
「最後の最後で邪魔が入ってね。関係のない子どもを一人まきこんじゃった」
「口封じか」
「説得できる相手でもなさそうだったし、残り時間も丁度良かったからね」
白兎の手からするりと小さな懐中時計が滑り、赤騎士の手の中に落ちる。
「おかげで、随分貯まっただろう? あと一、二年だったらその辺の小動物からでも――」
「足りないぞ」
「へ?」
流れるような会話に赤騎士は水を差した。
白兎だけではない。その言葉にパットもビルもメアリアンも、室内の者たちが一斉に彼らに注目する。
「足りないぞ。一、二年どころではない。五年以上だ。お前、最後に誰を狙ったんだ?」
「誰って……」
赤騎士の手から時計を奪い返し、白兎は自分でも改めてそのメモリを確認した。
――確かに、足りない。
「まさかあの子十歳……いや、そんな馬鹿な」
「失敗したんじゃないか?」
ずれた計算の意味をなんとか納得の行く理由で弾きだそうとした白兎に、赤騎士は無情に告げる。
「いやそんなまさか。大体防げるわけ」
「でも失敗したんじゃないか?」
「あんな子どもが禁呪に対抗できるなんて」
「だが失敗したんじゃないか?」
赤騎士は意見を変える気はないようだ。
「冷静に考えてみろ。お前の言からすると、口封じ対象の目撃者とやらは、十五、六かそこらだったのだろう? 普通十歳と十五歳を間違えるか? お前はそいつから何年かの“時間”を奪い損ねたんだ、ロゼウス」
「今はアルブスだってば、シェリダン」
「だったら私は赤騎士ルーベル=リッターだ。アルブス=ハーゼ」
だんだんとずれていきそうな話を修正するため、白兎ことアルブス=ハーゼはよくよく先程の光景を思い返す。
取引相手を教団が新開発したという禁呪で始末するところを金髪の少年に目撃され、口封じのため少年にも同じ術をかけた。だが。
「えーと……確かに術をかけたところまではいいんだけど……かけただけで安心して、最後まで確認はしなかった……ような」
アルブスが使った禁呪は、対象の「時間」を奪うというもの。かけられた者の肉体は過去へと逆行し、そのエネルギーが「時間」として抽出され搾取される。
原理に関しては、もっと魔導学に詳しい者でないとわからない。アルブスはあくまでもこの術のやり方だけを教えられ、人々の「時間」を奪うよう指示された。
禁呪をかけられた者は己の生きてきた時間の全てを奪い尽くされて生まれる前まで若返り、存在そのものがこの世から消える――はずだった。
「迂闊だな」
赤騎士ことルーベルの眼差しがうろんげなものになる。
「やはり、失敗したのだろう」
「あちゃー……」
生まれる前に戻る。とはいえ歴史が改変されるわけではない。禁呪をかけられて若返りすぎた存在はただ跡形も残さず消えるのみだ。
一度発動した禁呪は対象の持つ時間を奪い尽くすはず。それが途中で防がれた場合にどうなるかはアルブスにもわからない。
知っているとしたら、禁呪の開発者くらいのものだろう。
「“チェシャ猫”は逃げたそうだ」
「え?」
「教団を裏切ったんだと」
ルーベルが告げたのは、アルブスにとっても意外な言葉だった。
人々からその時間を奪う禁呪。開発者は教団内で“チェシャ猫”と呼ばれる人物だ。
そのチェシャ猫が、教団を裏切って逃げた……?
「奴は自分の開発した禁呪が殺害手段となることに不満そうだった。怖気づいたのか何なのか、とにかく逃げ出した」
「どうしてお前がそれを」
「始末を私が任された。馬鹿が失敗したらしいからな。だがそのおかげで面白いことがわかったぞ」
ルーベルはにやりと口の端を吊り上げる。
「なんでも教団はチェシャ猫を始末するついでに時間を奪おうとして禁呪を使ったらしい。だが開発者にはその魂胆が見えていたようだな。チェシャ猫は魔導防壁によっていくらか相殺した」
「今回の俺と同じような状況ってわけか!」
一度発動した禁呪は相手の持つ時を奪い尽くす。――奪い尽くせなかった場合は、どうなる?
「今の奴は何やら愉快なことになっているらしいな。ついでだ、お前が殺しそこねたその子ども、チェシャ猫共々、私が始末しておいてやろう」
◆◆◆◆◆
頬を打つ雨粒の感触で、アリストは目を覚ました。
「う……」
全身に走る痛みに思わず呻きながら、その自分の声がより一層意識を覚醒に促していく。
「俺……どうして……」
気のせいだろうか。自分の声が変だ。
いつから倒れていたのかもわからない。雨に打たれて風邪でも引いたのか、耳に届く音が違う。
身体が重い。濡れた服が貼りついて。
――でも、それだけではない。
立ち上がろうとしてバランスを崩し、再び地面に倒れ込んだ。
四肢に余る服の布地。
おかしい。何もかもがおかしい。
どうしてジャケットの袖が、スラックスの裾がこんなに余るんだ。
どうして耳に届く自分の声が不自然に甲高いんだ。
深夜の公園には誰もいない。春先の雨はまだ冷たく、針のように肌を穿つ。
街灯の明かりだけが、鬼火のようにぼうっと灯る。
光に惹かれる羽虫のように街灯を見上げ、その下に雨によって水溜りができているのに気付いた。
重い体と衣服の裾を引きずって必死でそこまで這っていく。そこに辿り着けばまるで何かが終わるかのように。
けれどアリストは薄々感じていたのだ。これ以上ない嫌な予感と言うものを。
そこは終わりではなく、悪い夢の始まりでしかないということを。
「嘘……だろ……?」
水溜りを覗き込む。古来より水鏡と呼ばれた水面は、夜闇の中で頼りない明かりを受けながらも、真実を映し出した。
――そして、アリストは悪夢に捕まる。
水に映った自分の姿は、どう見ても十歳にも満たない、幼い子どもにしか見えなかった。
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――午後十一時過ぎだ。
そんな時間にも関わらずインターフォンが鳴ったことに、部屋の住人ヴァイス=ルイツァーリは驚いた。彼にはこんな時間に余程の事情もなしに不躾に訪ねて来るような友人はいない。
いや、一人いると言えばいるのかもしれないが、あの少年は確か現在帝都を出ていた。帰ってくるのは二、三日後だと記憶している。
ならばこの訪問者は前者の条件――余程の事情持ちなのか。
例え相手が不審者だったとしても片手で撃退できるだろう男は、警戒心の欠片もなくドアを開ける。
そこにいたのは、蒼白な顔も美しき隣人だった。
「ダダダダイナ?! こんな時間に一体どうして?!」
「遅くにごめんなさい、ルイツァーリ先生、あの――」
想い人の思いがけぬ訪問に俄かに浮き足立ったヴァイスは、吃りながらもあからさまな喜色を浮かべた。
「こちらに、アリストがお邪魔していませんか?!」
「は?」
しかし予想もしていなかった言葉に、瞬時に目が点になる。
アリスト? アリストだと? 自分とダイナの仲を邪魔して邪魔して邪魔することに命をかけているあのクソガキが、よりによって犬猿の仲である自分のところに?
「いないんですね……」
ヴァイスの驚き具合から答を察したダイナは、彼が口を開く前に肩を落とす。
「ああ、約束などがあったわけでもないし……何があったんだ?」
どうかしたのか、などとは聞かない。何もなかったらダイナがこんな時間にこんな状態でヴァイスを訪ねて来るはずがない以上、アリストの身に何か起きたのは確実だ。
「帰って、来ないんです。今日の夕方サーカスを見に行った帰りに、あの子だけ知り合いを見かけたと言ってそこで別れたんです。でもその後、何も連絡がなくて」
この時間になっても帰って来ないので、心配してマンションの隣室を訪ねたのだという。ヴァイスとダイナはただの隣人ではなく、アリストが通うジグラード学院の講師と教師という同僚でもあるのだ。
今にも泣きだしそうに瞳を潤ませた弟想いの想い人に、ヴァイスはまぁまぁと強いて明るい声をかけた。
「あいつももう高等部二年の男子だ。そうそう面倒なことに巻き込まれたりはしないだろう」
「でも、あの子がこんな時間まで帰って来ないなんてこれまでなかったことなんです。それに、マルティウス君やターイル君たちに電話もしてみたんですけど」
「一緒じゃなかったんだな? マギラスあたりは? 女友達が一人で歩いているところに夜道で出くわしたなら、アリストの性格上送っていくはずだ?」
いきなりヴァイスに相談するとも思えなかったが、やはりダイナは先にアリストの友人たちに電話で確認をしていたらしい。講師という職業柄、アリストの友人は彼女と自分の生徒でもある。アリストと特に仲が良い生徒の名を幾つか挙げてみる。
「マギラスさんやシュラーフェンさん、セルフさんやアヴァール君にも連絡してみたんですけれど、やっぱり知らないと……。私、もうどうしたらいいか」
「落ち着くんだ、ダイナ。あのアリストだ。案外マルティウスやターイル辺り、あるいは学院外の友人と一緒に馬鹿をやろうと誘われて怒り、説教をかましている最中かもしれん」
「でも……」
「女性の君には馴染みがないかもしれんが、あの年頃の男なんぞやんちゃ盛りでろくでもないことをしてばかりだ。大人に隠れて飲酒や喫煙をしたりな。そう言う場合一緒にいるとは間違っても口にしやしない」
「そう……そうですね」
ヴァイスの言に頷きはするものの、ダイナは彼の言い分を信じている訳ではない様子だ。なまじ名を挙げたアリストの友人たちをよく知るからこそ、彼らもそんなタイプではないだろうと言いたげに眉根を寄せている。
「アリストはそういう悪ふざけに乗るタイプじゃないが、友人までそうとは限らない。連絡を忘れただけで、単にカラオケでオールのつもりかも」
「あのアリストに限って、そんなことをするかしら……」
「高等部生なんぞそんなもんだ」
さもそれが正解のように、ヴァイスは強く言い切った。
「まぁ、どうしても心配と言うのなら、私が探しに出かけるか?」
「え?」
驚くダイナに構わず畳みかける。
「こんな時間にか弱い女性を出歩かせるわけには行かないだろう」
「そんな……悪いです。私たち姉弟のことにそこまで巻き込んでしまうなんて……」
「何を言う! 私と君の仲だろう!」
ここぞとばかりにヴァイスが彼女の手をぎゅっと手を握って訴えれば、ダイナは少し顔色を戻して微笑みかけてきた。
これは! ついに自分の好意に彼女も気が付いてくれたのか! とヴァイスが盛り上がったところで――。
「ルイツァーリ先生がアリストのことをそこまで考えてくださって嬉しいわ。学校だけでなく、隣人としてもこんなに深くお付き合いできるなんて」
「あ、はい、ええ……」
さらっと隣人の厚意として流された。せっかくいつもは邪魔者のアリストがいないというのに……。
「ま、まぁ。元々サーカスのチケットを渡したのは私だしな」
「あ、すみません。私そんなつもりじゃ」
「わかっている。だがそこまできちんとしてこその贈り物だ」
あとは引き留めよう、あるいは自分も一緒について行こう、との気配を見せるダイナをなんとか宥め、ヴァイスは手早く支度を整えると夜の街に繰り出した。
家で帰りを待っているようにと言い渡されたダイナは、彼の後姿を見送りながら小さく微笑む。
「ルイツァーリ先生はやはり誠実な方だわ。アリストとの関係も、『喧嘩するほど仲が良い』というのは本当だったのね」
当人たちが聞いたら目を剥きそうな言葉を口にして、ダイナは再び弟と隣人の帰りを待つために部屋へと戻った。
◆◆◆◆◆
何かあったな。
それが、アリストの不在に関してヴァイスが考えたことだった。
ダイナにはああ言ったが、ヴァイス自身その理由で自分を納得させることはできなかった。姉であるダイナが心配したように、アリストの性格を考えるとそんな行動をとるはずがない。
学院内でも顔や成績のことよりシスコンとして有名なあのアリストが、誰よりも大事な姉であるダイナに連絡一つ入れず心配させるなど、天と地がひっくり返ってもありえないことだ。明日大陸が沈むかもしれない。
何らかの事情で帰りが遅くなるとしても、普段自分が帰宅する頃には連絡を入れて姉を安心させるだろう。そもそも、夜遅くまで遊びまわるようなタイプでもない。
アリストの友人ならアリスト本人よりは弾けているが、それでも皆、不良という言葉とは縁遠かった。友人たちも成績優秀者や真面目な者が多いので、青春の過ちなどという言葉で簡単に悪ぶったことをしたがる連中ではないのだ。
しかし、そう考えるとますますこの事態が只事とは思えなくなってくる。
「さて、まずは現場百遍かな。人探しとは面倒なことだ。こういう時こそヴェルムがいればなぁ」
“帝都の切り札”と呼ばれ名探偵と名高い友人の名を呟き、ヴァイスはコートの襟をかき合わせた。
夜の空は暗い。けれど真っ暗というわけでもなく、雲間から月明かりが零れ落ちてきている。
しばらく前に降った雨はもう止んでいた。帝都の四月の夜は少し肌寒い。こんな寒空の中を意味もなく歩き回るなんて、正気の人間にはオススメできない行為だ。
ダイナによると、アリストは彼女と別れる前、誰もいない路地裏を凝視していたということである。恐らく彼はそこで何かを目撃してしまったのだろう。
あのアリストが姉に心配をかけるほどの行方不明。これはもはや事件にでも巻き込まれているとしかヴァイスには思えない。
とはいえ、そこまで深刻になるつもりもヴァイスにはなかった。
「どうせ、あのクソガキのことだ。殺されて素直に死ぬような可愛気などあるはずもないしな」
ダイナに好意を抱き彼女のマンションの隣室にわざわざ引っ越したヴァイスのことを、アリストはストーカー呼ばわりして忌み嫌っている。
彼女はアリストに何かあった場合頼るならヴァイスのところだと思っていたようだが、ヴァイス自身はそれはないと考えている。むしろ天敵同士、他の誰に頼ってもこの相手だけには頼ってたまるものか! と考えているだろう。
それもそのはずで、そもそもアリストが自力で解決できない程の問題というのがあまり思い浮かばない。ジグラード学院高等部の上位成績に名を連ねるような輩は、もはやその辺の大人など目ではない。
ヴァイスにとっては憎たらしいことこの上ない子どもだが、その分甘さの欠片もない目でその実力を判断しているつもりだ。
端的に言えば、アリストならば例えナイフを持った殺人犯に後ろから斬りかかられても返り討ちにできる程度の力はある。間違ってもヘマをして死んだりはしていないだろう。
だからこそ、その彼が抜け出せない窮地にいるのなら、余程の厄介事なのだろうとも推察できてしまうのだが。
「……ま、仕方がない。せいぜい助けて恩でも売るとするか」
愛しのダイナのために、と。自分の生徒を救おうという教職らしい心の欠片も見せず、あくまで打算だけでヴァイスは歩き出す。まずは機動力を確保するため、駐車場に向かって。
◆◆◆◆◆
街灯の明かりだけが寂しく灯る公園を抜け出し、アリストは夜の街を歩きだした。
雨は止んでいたが、濡れた服が冷たく重い。風邪を引きそうだな、と現実逃避気味に考えた。
袖も裾もぐるぐると随分まくりあげて、それでもサイズが合っていないことを隠しきることは不可能だ。
この不恰好では人目につかない方が良いのだろうが、それでも暖を求めて人通りの多い道へとやってきてしまう。
アリストは虚しい思いで、携帯電話を握りしめていた。
姉に連絡を入れたくとも入れられない。こんな姿ではどうしたらいいのかもわからない。
閉店後のショーウィンドウが鏡のように、残酷な現実を映し出す。どう見ても小等部低学年にしか見えない子どもへと変わってしまったこの体。
電話をかけることは不可能だ。声変わり前の子どもの声では、まず自分を自分だと理解してもらえない。
メールだけ送ることも考えたが、色々考えた結果、やめてしまった。
「……もしも、このまま二度と、元の姿に戻れないとしたら」
そんな状態で姉のもとへ帰ることはできない。ダイナに心配をかけるなど論外だ。
何を差し置いても、それだけははっきりしていた。
今この瞬間も恐らく心配をかけているのだろうけれど、それでもこの状況をダイナに知られるよりはマシだろうとアリストは考える。
今の自分の状況はまるで悪い夢、お伽噺の中の出来事、非現実的なファンタジーにしか思えないが、この無力な子どもの肉体が感じる辛さは本物だ。
そして思い返せば戦慄が走る、あの路地裏や公園での出来事も現実なのだ。全てを夢オチ認定するには、あのやりとりは妙なところで投げ捨てられないリアリティがあった。
証拠を隠滅するように洋服を回収した兎。アタッシュケース。目撃者の口封じ。
今のアリストはとてもマズイ状況に陥っている。
あの兎は“ハートの女王”などと意味ありげに口にしていたし、用済みと言う言葉も聞こえた。アタッシュケースなどまだ高等部生のアリストとは縁遠いが、ドラマではよく見る。……あの中に入っていたのは、金だ。一般人が日常で目にすることはないような金額。
つまり、あの兎とスーツの男は、何らかの非合法な取引をしていた。それは恐らく、組織的なもの。
そして何より、あの兎は、スーツの男を殺した。
「確か……時間がどうとか」
スーツの男が若返りこの世から消えてしまった光景と、アリストが推定十歳程若返り子どもになってしまったこの状況は、同じ魔導による結果?
――君の“時間”をもらうよ。
兎はそう言った。逆回りに時を刻む時計の幻影が目の前を過ぎる。
――眩暈がする。
今のアリストの状態はどう考えても普通ではない。人間が若返り子どもになってしまうなんて、ありえない。
なまじ現実主義のアリストは、自分が見たものを正直に警察に訴えて信じてもらえる自信がなかった。
見てはならないものを見て口封じされるところだった自分が傍にいれば、ダイナのことも巻き込んでしまう。警察に被害を訴えられない状況でそれは致命的だ。
では、どうするか。
「……駄目元でヴァイスのところに行くしかねえ」
アリストが兎の魔導を僅かでも防げたのは、学院で魔導に関する講義を受けていたからだ。その担当講師が隣人でもあるヴァイス=ルイツァーリ。
ヴァイスはこの時代に珍しい魔導師だ。今はほとんどお伽噺かフィクションの中にしか存在しない“魔法”という技術を使いこなしている。
アリストが自分の身に起きたことを正確に理解するためには、魔導の第一人者と呼ばれるヴァイスの協力がどうしても必要だった。
それに例え危険に巻き込んだところで、あの男ならどうなろうと知ったことではないし。
疲れて重い冷え切った足をずるずると半ば引きずるようにして進める。
「あんまりはしゃがないのよ、カナ」
「もうすぐおうちに着くよ」
「ねぇ、あの子、どうしたのかな?」
「あら……」
通りを歩いていると、どこかに出かけた帰りらしき親子連れが大人用の服を無理に着込みずぶ濡れで歩いているアリストへと目を留めた。
「ねぇ、君、大丈夫?」
「あ、あの! これは、その、ふざけてたら川に落ちちゃって、今家族が、着替え持って迎えに来てくれるところなんです!」
ここで警察などに保護されるのはまずい。アリストは親切な親子連れに、必死で言い繕った。
「でも、親御さんに連絡とか」
「ケータイがあるから、大丈夫です!」
「そう?」
人の好さそうな夫婦と、今のアリストと同じぐらいの外見の少女。
こんな時間にこんな格好で歩いている子どもは確かに不審この上ない。それでもアリストはなんとか言い訳し、親子連れの親切を振り払った。
迎えが来るならそれまで一緒にいようと誘われるのを断って、再び人気のない路地裏へ入り込む。
「……迎えなんか、来るわけねーじゃん」
自分でついた嘘に胸を抉られる。両親からあと五分で行くとメールがあったなんて、真っ赤な嘘。
例え元の姿だったとしても、アリストに両親はいない。五年も前に亡くなった。アリストの家族は姉であるダイナだけだ。
だからこそ、こんな姿では彼女のもとに帰れない。自分がいなければ彼女が独りになってしまう。けれど自分の存在がダイナの負担になるくらいなら――このまま消えてしまう方がいい。
「クソッ!」
公園で気絶していた間に終電は終わってしまった。ここから自宅――の隣のヴァイスの家までは、歩けない距離でこそないが、子どもの足では辛い。この冷え切った体で、無事に辿り着けるかどうかはわからなかった。
「こんなの全部……悪い夢だ」
「そうだな」
「!!」
独り言のつもりで呟いた言葉に返事をされて、アリストは驚愕した。
先程の親子連れからも離れてこの場所はまったく人気がないはずなのに、いつの間にか一人の男が現れている。
男――否、それほど齢はいっていない。あれはまだ少年だ。
元の自分と同じくらい、そして数時間前に見たあの兎と同じくらいの年齢だろう。
格好もどこかコスプレじみた赤い軍服だというところが、先に出会った奇抜な格好の兎少年に印象が重なって嫌になる。
「……今日は厄日か?」
「何せお前の命日だから」
引きつる喉を動かして尋ねれば、殺気もないのに明確な殺意を示す言葉が返された。
「お前に恨みはないんだが、死んでもらうぞ」
今日は間違いなく、人生最大の厄日だ。
..004
誰かの死を願ったわけじゃない。
ただ、取り戻したかっただけ。
失った過去を。戻らない時間を。この手のひらから零れていくすべてのものを。
けれどそのせいで、また誰かが何かを喪って行くと言うのなら――。
微かな音を耳にして振り返る。
追ってくる彼女は銃の扱いに慣れてはいない。それは自分にも言えることだが、彼女よりはマシな腕前と言えた。
「“チェシャ猫”!」
コードネームで呼ばれ、振り返る。
「戻りなさい! いくらあなたでも、教団を裏切るなんて許されないわ!」
引き留める声は悲痛だった。追手とは言っても、実際彼女に自分を連れ戻すだけの力はない。
彼女は本当に自分のためにこうして追いかけて来ただけだった。わかっている。それでも。
「戻らないわ」
きっぱりと言い切ると、彼女の顔が歪んだ。降り出す前の空のように曇り、雨のような涙が頬を滑り落ちる。
「姉さん、私――」
「貴様!」
眼前の彼女に気を取られて隙ができた。扉を破る勢いで現れたもう一人の追手は、情け容赦ない殺し屋として有名な男だ。
「待って!」
姉と呼んだ彼女の制止も虚しく、男の手から放たれた魔導の攻撃が向かってくる。チェシャ猫は咄嗟に防壁を張り――。
術の効果を幾割か相殺して、命からがらなんとかその場を抜け出した。
◆◆◆◆◆
絶体絶命。嫌な四字熟語だ。
かと言ってこの状況で他に希望ある言葉は何一つ思い浮かばない。
「なるほど……禁呪に失敗するとこうなるのか」
紅い騎士服に蒼い髪の少年は、珍しい動物でも見るような目でアリストを観察している。
「見た目は子ども以外の何者でもないが、確かにその眼光は見た目通りの子どもに持ちえないものだ。……若返りか。不老不死の技術としてでも売り出せば儲かりそうだな」
「なんだかよくわからないが、あんたが悪趣味だということだけはよくわかった」
ここで相手を怒らせるようなことを言うのは得策ではない。それはアリストにもわかっている。だがどうしてもこんな場合、ただ恐怖に震えているだけなどという態度がとれないのがアリストという人間だった。
アリストの言を受けて、赤騎士はにやりと面白そうに笑う。
「悪趣味とは失礼な。では私の趣味の良さを教えてやろうか。確かに不老不死などという愚かな夢を求める人間はいつの時代も溢れかえっているが、その方法を広めて世界を混乱させるのは本意ではない。――だからやはり、お前には死んでもらうとしよう」
イカレた魔導学者共にモルモットにされるよりは良いだろう? といい笑顔で尋ねて来る。勿論、アリスト当人にとってはどちらをとっても冗談ではない提案だ。
「どっちも御免だね! それより、俺の姿を元に戻せよ!」
力の入らない手足を動かし、アリストは両手で印を組んだ。授業で習った知識を総動員させ、魔導戦闘の構えをとる。
「ほぉ……」
赤騎士が関心するように顎に手を当てた。
今の時代、魔導という学問は複雑な位置にある。かつて魔術、魔法と呼ばれたその力は、現在多くの人間にとって馴染みのないものと化していた。お伽噺だ、コミックにおけるファンタジーだと実在を否定される一方で、極一部にはまだ本物の魔導師が残っている。
アリストは身近なところにヴァイスという魔導師を知人に持ち、自らも魔導の適性をかなり持っていた。その才能を学院で伸ばされた結果が、白兎にかけられた禁呪の何割かを防いだのだ。
「あんたはあの白い男の仲間なんだろう? お前たちは何者だ? そして俺に何をした?!」
赤騎士の言から察するに、彼は白兎の仲間のようだ。白兎がアリストに何をしたのかもわかっていて、その後始末にアリストを今度こそ完全に口封じするつもりで来たのだろう。
逆に言えば、この赤騎士をなんとかすれば白兎に辿り着くこともできるのだ。元の姿に戻るためには、何としてでも白兎に禁呪を解かせねばならない。
多少の適性があるとはいえ、もはや魔法がお伽噺だと思われている時代。アリストは簡単な術ならばいくつか使えるが、その魔導の構成を理解するとなるとさっぱりだ。
以前にヴァイスの授業で習った。魔法は基本的に、その術をかけた術者に解かせるのが最も安全で確実だと。それが他者に構成を看破されない独自の禁呪なら尚更だ。
しかしアリストの目測は、次の赤騎士の言葉であっさりと否定された。
「お前からは“時間”を奪った。……と、言うことらしいが、私やアルブスに聞いても無駄だぞ。その禁呪の開発者は別の人間だからな。アルブスは算出された計算式を使ってお前に術をかけただけ。解除の仕方なぞ奴もしらないだろう」
「え?!」
話の流れから察するに、アルブスと言うのがアリストをこんな姿にしたあの白兎少年の名らしい。予想外の展開に、アリストは呆然とする。
「そもそもこの術は本来相手が死ぬまで“時間”を奪い尽くすもの。生き残る方が前例の少ない結果らしいからな。戻す方法自体、存在するのかどうか」
こればかりは開発者に聞いてみないとわからん、と。本気で首を傾げる赤騎士の姿は、とても嘘をついているようには見えない。
では自分は、もう一生この姿のまま、元に戻ることはできないのか?
否。
まだだ。まだ諦めるには早い。
「それでもあんたを捕まえれば、あんたたちの同僚だか上司だか知らないが、その術の開発者とやらに合わせてもらえるだろう?」
凍えて感覚のなくなってきた指先に魔力を通わせる。
微笑んだ赤騎士がどこからか、それこそ博物館でしか現物を見れないような長剣を取り出した。銃刀法違反と物理法則無視のどちらから突っ込めばいいのか、もはやわからない。
「できるかな? 今はただの子どもでしかないお前に、私たちを捕まえるなどということが」
これは一つの賭けだ。肉体に完全に依存するわけではない魔導の力が元の――十七歳のアリスト=レーヌのままなら、この姿でもある程度の抵抗はできる。
目の前の少年は恐らく強い。隙のない身のこなし。重そうな鋼の塊である長剣を軽々と手にしたその立ち姿。
けれど、負けるわけには行かない。
絶体絶命な状況を覆す。自分の人生には自分の力でもっと前向きでポジティブな座右の銘を掲げるのだ。
お前たちは何者だ、という先程のもう一つの質問に結局答えてくれなかった赤騎士が、謎めいた言葉を呟く。
「さて、お前は本物の“アリス”になれるかな? それともこれまでのように、“出来損ないのアリス”のままで終わるのか」
◆◆◆◆◆
結果から言うと、アリストが退行してしまったものは、ただの肉体的な能力だけではなかった。
「ぎゃん!」
剣の刃ではなく側面で吹っ飛ばされただけ、それでも子どもの体は風に煽られる木の葉のように軽々と宙を舞った。
アリストが仕掛けようとした魔術は発動しなかった。愕然としながらも、それをきちんと習得したのが十三歳頃だったことを思い出す。
「ぐっ……!」
「なるほど。やはり知識以外は全ての能力が若返っているのか」
赤騎士が面白そうにしみじみと頷いている。手加減するつもりではないだろうが向こうにとっては様子見の一撃で、アリストは早くも殺されそうになっていた。
今のアリストの外見年齢は六、七歳程度の幼児だ。記憶や思考能力に変化が感じられなかったので期待していたが、その他の能力は発揮できなかった。
天才には程遠い秀才型の優等生であるアリストがこの十年程かけて習得してきた技能は、奪われた時間と共に失われてしまったらしい。
こうなるともはや、アリストに目の前の少年に抵抗する手立てはない。只者ではない気配を発する赤騎士は元の体でだって対抗するのが難しいと思われる相手だ。ましてやこんな小さな子どもの体でなど――!
「残念なことだ」
殺されそうになっているアリストではなく、何故か殺す側の赤騎士が落胆の様子を見せた。
「今度こそ、出来損ないではない本物の“アリス”が誕生するかと思ったが」
だから、その「アリス」とは何なのだ。赤騎士は自らの所属する組織について語らなかったし、白兎がアルブスと呼ばれていたからと言ってそれで何がわかるわけでもない。
死ぬのか? こんなところで。こんな姿で。
何一つわからぬまま。姉のもとへ帰れぬまま。
そんなことは――。
僅かな金属の擦れる音さえさせず、こちらの首を落とそうと長剣が振り上げられる。
次の瞬間、何かがその刃を弾く音がした。これまで生物として不自然な程に己の気配を殺していた暗殺者が、動揺を露わにする。
「そいつを殺されると困るな。私の愛しいダイナが悲しむ」
「貴様!」
聞き覚えのある声がいつも通りのふざけた台詞を口にした。アリストはハッと顔を上げる。痛む体をおして上半身を持ち上げた。
「ヴァイス?!」
「――“白騎士”ヴァイス=ルイツァーリ!」
異様な熱意を持って姉につきまとう隣人がそこにいた。しかも妙な二つ名を添えて、赤騎士までもが彼の名を呼んだ。
そんなヴァイスの横には、何故か半透明の光る犬がいる。
あれは魔法だ。そうか、ヴァイスはダイナにでも頼まれて、その魔術で姿に関わらず「アリスト」を見つけ出したのだ。
「久しぶりだな。“赤騎士”ルーベル=リッター。そこのクソガキが自力で対処できないトラブルなど余程のことだとは思ったが、まさかお前が関わっていようとは」
「こちらこそ、まさかとんだイレギュラーの小僧が、お前の身内だとはな」
「身内言うな。寒気がするわ」
ヴァイスは本当に嫌そうな顔で肩を竦めると、その視線をまだ半身を地に伏せるアリストへと向けた。
「よぉ、クソガキ。しばらく見ないうちに随分身長が縮んだな」
「ヴァイス、てめー」
にやり、と赤騎士に負けず劣らず面白がる様子しか見せない隣人に、アリストは思わず顔を顰める。状況からしたら助けに来てくれたはずなのだが、普段の自分たちの関係のためにどうもそうは思えない。
「もう夜も遅い。お前たちの間に何があったのかは知らないが、ひとまずは退散させてもらおうか」
「待て!」
顔色を変えた赤騎士の制止は当然聞かず、ヴァイスはその手から一つ、光の珠を生み出して地面に叩き付ける。衝突の瞬間から溢れだした煙が一気に周囲を目隠しするように覆う。――煙幕だ。
アリストの体が不意に上から持ち上げられた。ヴァイスに回収されたのだとはわかったが、どうにも感触がおかしい。振り返るとそこにはつぶらな獣の瞳があった。
「げ」
「騒ぐなよ。ここで奴と斬り合うのは私にとっても不都合だ。ひとまず撤退する」
光る犬にアリストの体を運ばせて、ヴァイスは赤騎士を捲き、この場から離脱する。
..005
「――で、こういうことに」
「何やっとんだ、馬鹿者」
アリストが一通り事情を説明し終えると、ヴァイスはこれでもかと呆れた眼差しを向けた。
「まったく、運が悪いというか、悪運が強いと言うべきか」
「知らねーよこんちくしょう。こんな姿じゃ、姉さんのところに帰れねー」
「は! 貴様がダイナのもとに戻れないということは、今こそ私が彼女を口説くチャンスということに……!」
「ぶっ飛ばすぞテメー!!」
元々世界に数人といない魔導学者という非常識ライフを送るヴァイスに現状をとりあえず呑みこんでもらったはいいが、アリストとして彼を頼りにするのは非常に不安だった。
「くそ……! よりによって俺の近くで魔導の知識がある人間がどうしてお前だけなんだ……!」
「ふふん。この私の有能さに感謝してひれ伏し奉れ」
「まぁ、姉さんとかダチとか他の巻き込みたくない人間を関わらせるぐらいならお前を盾にした方がいいけど」
「なんだとこのクソガキ」
灯台下暗し。ここはアリストの家の隣だ。
つまり、隣人ヴァイス=ルイツァーリの家である。
幼児の姿でダイナに直接引き合わせるわけには行かないからと、ヴァイスはアリストをひとまず自分の家に匿った。赤騎士と呼ばれた男が彼を知っていたことを考えると追手が来ないか不安になるのだが、ヴァイスは気楽な態度を崩さない。
今の時点で奴らが直接自分に手出しをすることは考えにくい。
そう言って。
「それで、どうするんだ?」
アリストの説明は終わったが、色々と何か知っていそうなヴァイスからの説明はまだ受けていない。しかしヴァイスはそのネタを話すでもなく、アリストに問いかけてきた。
「どうするって……」
濡れた服を着替え、軽く食事し、改めてヴァイスに事情を説明し終えたアリストは疲れた体をソファにもたれさせながら鸚鵡返しに言った。
子どもになってしまった体は疲れ切っている。だが頭は今日会った色々なことで興奮状態だ。こんな調子ではすっきり眠れるはずもない。
そして何より、この件が解決しなければアリストは隣に――ダイナの待つ家に帰ることはできない。
一応今はヴァイスがアリスト発見の報と適当な理由を述べて連絡をしてくれたが、いつまでもそれで誤魔化せはしないだろう。
「今の時点で、お前にはいくつかの選択肢がある。だが、これから私がする話を聞いてしまえば一つしか残らない」
「……」
ヴァイスが何も話さないのは、別にアリストにここぞと意地悪を仕掛けているわけではなく、明確な理由があってのことらしい。
「一番無難なのは、このまま何も聞かずに特殊な犯罪の被害者として、事情を話して専門機関に保護されることだな。警察に駆け込むのはオススメしない。その姿にされてすぐ交番などに向かわなかったのは正解だ」
「……他の選択肢は?」
「信頼できる遠縁の人間、特にこの帝都以外に住んでいる人間がいるならそちらに匿ってもらうという手もあるが、お前は確か天涯孤独だろう?」
「姉さんのことを考えなければね」
アリストの両親はすでに亡くなっている。その親戚は存在すら知らない。
家族は姉のダイナだけだ。
「そして最もオススメしない手だが、私の力を借りずに自分でどこかの調査機関、探偵や何かに依頼をする」
「この子どもの体で?」
「だから言っただろうが、オススメはしないと」
「――もったいぶった言い回しはやめろ、ヴァイス」
アリストは静かに覚悟を決め、逆にヴァイスへと問いかけた。
「お前の言いたい『オススメ』とやらは何だ」
ヴァイスの『オススメ』。彼が知るアリスト=レーヌという人物ならば間違いなくこうするであろうという最後の選択肢。
「それは、お前が私と共闘し、自分で奴らを追い詰め元に戻る方法を模索することだ。私はそんな危険の矢面に立つ気はないが、必要ならいくつかツテを使ってフォローしてやる」
最後の魔導師。魔導学という学会自体が一部の人間にはオカルトじみた眉唾物だと煙たがられている以上権威があるのかどうかわからないが、それでもヴァイスはその道の第一人者だ。
「私なら知り合いに帝都一と名高い探偵もいるしな。奴もお前と同じものを追っているから、事情を話せば喜んで協力する……いや、自らの調査にお前を協力させるだろう」
「探偵が知り合いにいる……? だからお前は詳しい事情を知っているのか?」
「そうではない。話が長くなるからそれは今度にしろ。聞く気があるなら後で探偵当人を交えて話してやる」
よくわからない男だ。アリストは思った。
ヴァイスという男はアリストの姉であるダイナに惚れ込んでいて、少しでも彼女の近くにいるためにわざわざマンションの隣室に越してきたぐらいである。その行動を指してアリストはストーカー呼ばわりしているが、近所付き合いに関しては一応常識の範囲内だ。
講師としての彼も知っている。ダイナのように担任を持ち毎日HRを行う「教師」と違って、ヴァイスは選択制の講義を幾つか担当するだけで学院の運営自体には関わらない「講師」だ。
一応ジグラード学院内に彼の研究室もあるはずだが、ヴァイスの場合そこはあまり活用せず、講義以外の空いた時間は街で何か別の仕事をしているらしい。
アリストは選択授業の関係上彼の講義を受ける時間が多いので中等部以降それなりの時間を共に過ごしている気がするが、それでもヴァイス個人のことは何一つとして知りはしない。
せいぜいダイナへの猛アタックから、独身で独り暮らしだということが判明しているくらいだ。
探偵を知り合いに持ち、怪しげなコードネームで呼ばれる暗殺者と顔見知りの魔導学講師。ここにきてこの隣人が、酷く胡散臭く見えてきた。
だが今アリストの陥っている状況の突拍子もなさから言えば、そのくらい胡散臭い男でなければ協力はできないのかもしれない。
そしてヴァイスの予想通り――アリストはやられっ放しで尻尾を巻いて逃げるような性格ではない。
「せいぜい俺様をフォローしろ」
「偉そうに。匿ってやる私をもっとありがたがれ」
返事を予想していたのだろう、アリストの生意気な言葉にヴァイスもいつもの尊大な笑みを浮かべる。
先程赤騎士から助けたことより、これからの協力について感謝しろというヴァイスの言葉は、アリストがやろうとしているのが随分と大変なことであると意味している。
それでもひとまずは、不運な少年と怪しげな隣人の共同戦線がここに張られたようだった。
◆◆◆◆◆
「単刀直入に言うと、お前をその姿にしたのは“睡蓮教団”という連中だ」
「はぁ?!」
追うべき相手の影も形もわからない状態だというのにいきなり組織名を告げられて、アリストはもう何度目かの驚きの声をあげた。
「なんでそんなこと知ってる」
「単純な話だ。お前とはアプローチが違うが、私も以前奴らに接触されたことがある。その時に一部の目的と一部の構成員を知っただけのこと」
「その構成員ってのが……“赤騎士”って呼ばれてたあの男?」
「そうだ、それとお前に術をかけた“白兎”な」
何の因果か、ヴァイスはよりにもよってアリストに因縁をつけてきた二人を二人とも知っていたらしい。
「“赤騎士”“白兎”というのはコードネームだ。組織の統率者は確か“赤の王”。その人物には私も会ったことはない」
「そいつを見つけ出せば、俺は元の姿に戻れるのか?」
「お前がそれで元の姿に戻れるかどうかはわからない――“禁呪”の定義を知っているか?」
突然の質問に、アリストは授業で習ったことを思い出してすらすらと答えた。
「“禁呪”とは、その名通り禁じられた魔術。世に出してはならぬ呪い。大規模な自然災害を引き起こしたり人間の命を無造作無作為に奪い証拠を残すこともないような――過去に凶悪犯罪に用いられた故に術式を封じられた魔術。また――」
「また、三次以上の次元に関する事象を操る呪文のこと」
アリストの説明の後をヴァイスが引き取る。
「三次以上の次元ってことは……もしかして……」
「そうだ。お前にかけられた術は『時間を奪う』ものだと白兎が言っていたのだろう。時間は四次元。そこに介入する魔術を生み出すことなど人間業とは思えないぞ。この禁呪の開発者は化け物だな」
世に出してはならぬと禁じられている呪文だから禁呪。その中には、人間の能力的に不可能だと言われる呪も含まれている。
ならばそのような禁呪は一体誰が作ったというのか。神か? 悪魔か?
「――“チェシャ猫”」
「なんだって?」
古来より残る禁呪に関しては知らないが、少なくともアリストにかけられた術はこの現代に開発者がいると判明している。
「あいつら、俺にかけた術の開発者は“チェシャ猫”だって言っていた」
ヴァイスが目を丸くする。何事か考え込むように顎に指をあてて呟いた。
「それも『不思議の国のアリス』由来のコードネームだな。教団の中の開発部門所属の研究者と言ったところか」
「……なぁ、さっきから気になっていたんだが、その『不思議の国のアリス』由来のコードネームってのは何なんだ? まさか教団の人間ってのは、どいつもこいつもそんなコードネームを名乗ってるってわけか?」
考え込むヴァイスには悪いが、アリストは今更だが気になっていたことを尋ねた。どうもこれら『不思議の国のアリス』という古典文学に関連した名称の意味を押さえておかないと、これからの意志疎通に齟齬が出る気がする。
あの兎のような白髪の少年が、本当に“白兎”と呼ばれていたのには驚いた。時計兎とも呼ばれる、不思議の国へ少女を導いた切欠となるキャラクター。
「そんなわけないだろう。だとしたら私も奴らの一員になってしまうではないか。ま、奴らの事情の一部を知ってしまった人間がその存在を示す符丁として使われるのは確かだが」
やたらと事情通な胡散臭い隣人の言葉に、アリストはますます頭上に疑問符を浮かべる。
「睡蓮教団内にもコードネームを持たない人間はいる。教団以外の人間でも、私のように呼び名をつけられて目の仇にされている人間や、教団に喧嘩を売るために自ら名乗る人間もいる」
そういえばヴァイスは、“白騎士”などと呼ばれていた。
彼らにとってコードネームとは、単に組織内の序列を現したり部隊分けをするための符丁ではないらしい。
では、その基準はなんだ?
「もともと睡蓮教団というのは、とある目的のために存在していた宗教団体なんだ。今じゃすっかりカルト化しているようだが」
「……とある目的?」
「ある神を崇めていた。だがその神は邪神と呼ばれる神でな。しかも死んだというか封印されたというか……そういう状態にされてしまっている。大雑把に言えば、その神を崇めている人間は全て睡蓮教団だが、コードネームを名乗り色々とヤバイことをしているのはその中でも上層部。わかるか?」
「怪しげな新興宗教にお布施する末端信者と、その金を出させるために詐欺を働いている教祖や幹部みたいなものか?」
「似たようなものだ。まぁ、睡蓮教自体は新興宗教どころか、この世界が始まるより前から存在するとすら言われている古い組織だが」
ヴァイスが冷めた珈琲に手をつけるのを見て、アリストも自分の分のカップを持ち上げた。喉の渇きすら気にも留めず、もう随分長いこと話し込んでいたようだ。
「お前は何故そんなことを知って――ああ、これもそのうち探偵とやらを交えて話してくれるんだったか」
「そうだ。今ここで話すとたぶんややこしくなるぞ。というかお前がキレる」
「……何やったんだお前」
これだけ色々としてもらっておいてなんだが、やはりヴァイスはここぞというところで信頼できない気がする。
「説明してやってもいいが、話が長くなりすぎるからな。それに私の口よりは、お前と似たような境遇にある人物から聞く方がいいだろう」
その言い分にアリストはぴんと来た。予感を確信に変えるために問いかける。
「もしかしてその探偵ってのが、俺と似たような境遇なのか?」
「そうだ。奴は睡蓮教団を追っている。だからお前のことを知れば相応のリアクションがあるだろう」
「とりあえず巷でカルト集団として有名な睡蓮教が、俺が知っている以上にヤバイ組織だってことしかわからねぇ」
「それで十分だ。あとは……そうだな。奴の他にもう一人いたか」
不意に何かを思い出した様子で、ヴァイスは残りの珈琲を飲み干すとこう言った。
「明日は学院の方に行くぞ、アリスト」
「学校に? なんで?」
今のアリストは三日後に始業式を迎えるはずだった高等部二年生の姿ではない。どこからどう見ても小等部低学年の児童だ。まさかアリスト=レーヌとして学内で行動できるわけはない。
「学院内にこの手のことに詳しい奴がいるんだ。お前が今後どうするにしても、まずは奴と繋ぎをとっておくに越したことはないだろう」
「……うちの学院の講師って」
知っちゃいたけど何でもアリだな、と。最愛の姉のことを棚上げにしてアリストはがっくりと項垂れた。
..006
フローミア・フェーディアーダは円を描くように並んだ六つの大陸と六つの海、そしてその円の中に存在する一つの大陸とで構成されている。
時計の文字盤のようにちょうど等間隔で並んだ六つの大陸を十二時から十時までの時の名前で呼び、その間に存在する海も一時から十一時までの時の名前をつけられている。
十二時の大陸の次は一時の海、一時の海の次は二時の大陸……と、交互に並ぶ大陸と海の文字盤の中央、時計の針の根元に当たる部分には、中央大陸と呼ばれる大陸が存在する。
かつて海を渡る手段が船に限られていた時代、大陸間の行き来は海流が定める極めて限定的な航路に左右されていた。
世界の東側と呼ばれる二、四、六時の大陸から西側と呼ばれる八、十、十二時の大陸に渡るには、中央大陸を介することがほぼ必須とされていた。そのため中央大陸は、西と東の文化を結ぶ交易都市としての機能を発達させた。
文明が進み人が海だけでなく空さえも自由に行き来できるようになった今でも、その頃の習慣は残っている。
すなわち中央大陸は、今でもあらゆる人や物、文化が集う地として、地理的にも文明的にも世界の中心として存在しているのだ。
◆◆◆◆◆
改めて日差しの下歩いてみた世界は、何もかもが違って見えた。
まるで巨人の世界に迷い込んでしまったかのように、何もかもが大きく見える。十年前、本当の子どもだった頃はこんな視点から世界を眺めていたなどと、今では信じられないくらいだ。
見えない場所、手の届かない場所、ちっとも前に進んだ気にならない歩幅。うんざりする。
「しっかりしろ。そろそろ着くぞ」
「わかってるよ。何年通ってると思ってんだ」
劇的な一夜が明けた。アリストは疲れの抜けきらない体を引きずりながらも、ヴァイスに連れられて自分が通うジグラード学院へとやってきた。
帝都エメラルド。
中央大陸の中心に位置する、ディアマンディ帝国の首都だ。
エメラルドはその昔、オリゾンダスと呼ばれる自治都市だった。世界最大のジグラード図書館を持ち、同じく世界最大の教育機関ジグラード学院を帝国建国以前から抱えている歴史ある土地だ。
遥か昔からこの世の叡智の全てが集うと言われていたジグラード学院。
世界の移り変わりと共に他の「学校」と呼ぶべき教育機関とその機能を等しくしていったが、今でもかつての世界最大の学院の名残は存在している。
たまたま立ち寄った旅の人間でも、望めば一時間から学院の講義を受けられるというのがそれだ。元は学術都市でもあったオリゾンダス時代からの伝統により、ジグラード学院の門戸はいつの時代も広く開かれている。
その一方で、現代的な「学校」としても機能している。
アリストがジグラード学院高等部生として在籍しているのもその意味だ。
一日限定の受講者も含めば総生徒数など数えるのも嫌になる程の人数が出入りするジグラード学院。それでも他の学校と同じく小等部から中等部、高等部、大学部と経る一般課程の規模は毎年ある程度決まっている。
都市最大であり、世界最大の規模を誇るこの学院で、アリストは成績優秀者として存在していた。
とはいえ。
「……本当に、この格好で行くのか?」
「諦めろ。まさか高等部の制服を着るわけにもいかんだろう」
うさぎ耳のついた可愛らしいパーカーを着せられたアリストは、不満がありありと現れた顔でヴァイスを見上げた。
怪しい禁呪によって子どもの姿にされてしまったアリストは、当然元の自分の服など着られない。子どもの頃の服などとっておくわけもないし、ひとまず着替えの調達をヴァイスに頼むことにした。
そしてヴァイスが差し出した服のセンスに、アリストは買ってきてもらった恩も忘れて思い切り悪態をついた。
「なんで女子用なんだよ?!」
「決まっている」
ヴァイス=ルイツァーリ、二十七歳独身男性は断言した。
「その方が可愛いからだ」
「…………ヴァイス……お前、ロリコンだったのか…………?」
隣人の思いがけない趣味に気が遠くなりながらも、アリストは何かの間違いじゃないかとその玩具みたいな服の布地をひっくり返す。
「んなわけあるか。だが、考えても見ろ。性別が違うというのは、最高の目くらましになるだろう」
アリストは女顔だ。それは自分でも自覚している。
さすがに高等部に入ってからは女子と間違えられることもなくなったが、顔立ちそのものの繊細さは否定できない。
そして今、ぎりぎり小等部一年生を名乗れるかどうかまで縮んでしまった子どものアリストは、はっきり言ってそう説明しなければ男だとわからないような顔立ちだ。
「何もスカートを穿けと言っているわけではない。だが、お前がアリスト=レーヌだと今バレるわけにはいかんのだ」
「んなこと言ったって、そもそも禁呪で体が若返ったなんて誰も信じないと思うぜ……?」
「念には念をと言うことだ。例え男だと知られても、お前を知る者ならお前がそんな格好をするなんて夢にも思うまい」
納得できるようなしたくないような、微妙な気分でとりあえずアリストはうさ耳パーカーを羽織る。
確かにヴァイスの言うことも一理ある。この姿の自分がアリスト=レーヌであることを主張できるわけもなし、それならば別人のただの子どもとして過ごすために、最初から別人らしく振る舞う必要があるのだ。
だがしかし……何故女装。何故うさ耳。
「それはもちろん、私の趣味だ」
やはりヴァイスは変態である。
◆◆◆◆◆
「で、何なの? このうさ耳ボーイ」
「私の天敵だ」
「ああ、例のアリスト君? ……あれ? 高等部生じゃなかったっけ?」
まだ新学期が始まる前の校内だ。それでも人は多かった。
元よりその運営形式上学外の人間が多数行き交うジグラード学院。春休みの間も図書館を始めとする各施設を利用に来た学生もいれば、この期に校内を見学している部外者も多い。
各講義の講師陣は思い思いに休暇を取っている。だが、象牙の塔と名高いジグラード学院では、年中休み関係なく自らの研究室に詰めている講師や教師が多いのもまた事実であった。
アリストがヴァイスに連れて来られたのはそんな研究室居住組の講師の一人、フュンフ=ゲルトナーのもとである。
真っ白な髪に茶の瞳をした青年ゲルトナーは、年齢こそ近いがヴァイスとは正反対の温厚そうな人物だった。彼の研究室には古めかしい書籍が山と積まれている。
ゲルトナーの専攻は神学・神話学と呼ばれる分野であるため、アリストはこれまで彼の授業を受けたことはない。ヴァイスの実践的な魔導学を習ったことはあっても、それが当たり前の時代だったという神話の世界に興味はないのだ。
当然ゲルトナーとも面識はない。最初からただの子どもとして接しても良かったのだが、ヴァイスはアリストの事情を全て彼に説明してしまった。
「ふうん。なるほどねー」
「……驚かないのか? フュンフ=ゲルトナー」
事情を聞かされたゲルトナーよりも、説明をしたヴァイスの方が居心地悪いような顔をしている。それはアリストの知る限りとても珍しいことだ。
理系の講師でもないのに何故かビーカーに入れて出された地獄のように濃いコーヒーを飲み干しながら、ゲルトナーは言う。
「だって事実なんでしょ? ルイツァーリが僕を担ぐ理由もないし。それにしても十年の時を若返るか……アンチエイジングに励むおば様連中に人気が出そうだね」
「アホ抜かせ」
どうにも緊張感のない会話だ。
「この小僧に睡蓮教団のことを説明しようにも、まず前提となる基本知識に欠けているからな。お前に話してもらいたいんだが」
「いいけど、教団のことなら僕よりも君のお友達の“イモムシ”が詳しいんじゃない?」
「ヴェルムとも話すが、あいつの説明は教団憎しで偏る。その前にもっと一般的な情報をやってくれ」
「僕の知識もそれはそれで専門的すぎて偏ると思うけど……まぁ、いいか」
ゲルトナーがヴァイスから視線を外し、アリストへと真っ直ぐ向き合った。
同じ椅子に座っていても視線の高さはまるで違う。しかしその眼差しは今のアリストの見た目通りの子どもではなく、対等な大人に向けるものだった。
「睡蓮教団のことを説明するには、まずこの世界の神話から説明しなければならない。昔々、というお決まりの文句から始まる神々の物語をね」