1章『ワルプルギスの密法』
校舎の末端の日当たりの悪い部屋。その上電球も、古くなっているのかほの暗かった。
とにかく、薄ぼんやりとしている、だだっ広い部屋である。
文芸部の部室として機能し、多くの蔵書数を誇るその部屋にとって、日が当たらない事はポジティブに作用するらしいのだが。
「たっだいまー!」
……そこに、元気な少女が入ってきた。
少女の名前は、比名陽子。
文芸部でありながら、陸上部にも所属している……よく分からない少女である。
実際に、彼女の行動に理由がある事は稀であり、細かいことを考える事自体苦手な性格だった。
しかし運動神経だけは、天授の才とでも言うのか、素晴らしいものを持っているのである。
……陸上部でトップを争うほどくらいには。
まあ要するに、運動と元気である事だけが取り柄の少女だ。
「おかえりなさい。今日も元気そうね。」
そして部室に先に到着していた少女、安瀬涼香に声をかけられる。
彼女もまた文芸部の一員。クラスでは委員長の肩書きを持っている。
成績は学年トップ。全国模試でも30位までには余裕に入る、言わば天才少女であった。
見た目も眼鏡の似合いそうな雰囲気の美人で、まさに才色兼備を体現したかのような存在である。
ちなみに目は良く、おそらく今後も眼鏡を掛ける機会は無い。
「わたしはいつも元気だよ、涼香ちゃん!」
「そうだったわね、陽子。暑苦しいから端の方にいなさい。」
「ひどい!? ちゃんと制汗スプレー使用済みだよ!?」
「カカカ! そもそも、このような場所で制汗スプレーの香りがする事自体、不釣り合いではあるんだがなあ!」
わざとらしい笑いと共に暗がりから姿を現した……また、少女である。
「げ。……里奈ちゃん、いたの?」
三宅里奈。
ツインテールと丸眼鏡の少女。
いつも何かと奇抜なファッションセンスをしているのだが、今日は魔女のような帽子を深々とかぶり、制服の上に帽子と同じ色のマントを羽織っていた。コンセプトは『魔女っ子』らしい。
ちなみに好きなものは、アニメ・マンガ・フィギュア。
同人誌の即売会と夏コミと冬コミが、クリスマスやバレンタインデーより楽しみな、不思議なテンションを持つごくごく普通の女子高生である。
「『げ。』とは、愉快な挨拶だな。陽子殿?」
どうやら、陽子には快く思われていないようだ。
あまり人を嫌いそうにない陽子に、そんな存在がいるのは少し以外でもある。
「流石の我も傷つくぞ? 傷ついた拍子にあんな秘密やこんな秘密がポロっと漏れてしまうかも知れん。カカカ!!」
……訂正。快く思う人の方が珍しいかもしれない。
それはともかくとして、文芸部に所属している少女は三人。これで全員揃った事になる。
しかしまあ、神様もわざとらしい悪戯を謀ったようで、揃いも揃って美少女ばかりであった。
……それのおかげで文芸部に近づく不届き者は少なく、偶然にも秘密の多いこの部活にとっては逆に好都合だった訳だが。
さて、季節は秋。夜が少しずつ長くなってくる時期である。
「しかし、今宵も月が綺麗だなあ。中秋の名月という奴か?」
「まだ満月ではないけどね。私はこういう三日月の方が好きだけど……。」
空に浮かぶ月を眺めながら、少女たちは談笑する。
「まあ……今夜の月は少し霞んで見えるけどね。」
「カカ! 流石に涼香様は勘付くのが早いねえ!」
涼香と里奈。この二人には、その月が少し歪んで見えるのである。
「……………。」
その中で、陽子は珍しく静かだった。
普段騒々しい奴が黙っていると、なぜだか落ち着かない物だ。
しかし彼女が彼女たる由縁は、もはや突拍子の無さにあるとも言える。
どうせ。
「お月様って……見てると納豆食べたくなるよね。」
「……は?」
そう。どうせ、このようなどうでもいい発言の為の思考時間だったのだろう。
「だから。納豆だよ、納豆。知らないの?」
「知ってるわよ。そういう思考に至ったあなたの思考回路が読めないだけよ。」
「え? 涼香ちゃんは納豆食べたくならないの?」
「ならないわよ。そもそも、そんなに好きじゃないし。里奈はどう?」
「我は年中無休で納豆が好きだが?」
「今そういう話じゃない。」
「あー、なんか急激に食べたくなってきた! 家帰ってもいい? 納豆食べに。」
「ダメじゃ。今宵は月が綺麗だからな。」
「え?」
陽子は一人、きょとんとする。
「知らなかったの? 今夜は……。」
「だあーっ!! お前らうるせえぞ! ロクに読書もできやしねえ!」
突然、積み重なった本の山から、男が飛び出て来た。さながら、眠りから覚めるゾンビのように。
「あら。恭平、おはよう。」
加森恭平。
この男で、文芸部の部員は全員だ。
文芸部の最古参にして、唯一の男子部員。
この美少女集団の中でも見劣りしない、しっかりとしたルックスを持っている男である。
ちなみに、ハーレム物には特に興味がないようだ。
「……別に寝てた訳じゃねーからな?」
「いいじゃない、どうせロクでもない物読んでるんだし。」
「うるせーよ。……で、何をしてるんだ、おまえは?」
恭平が見たのは、明らかにおかしい姿勢の陽子の姿。
「きょ……恭平先輩……。」
「おう。俺だ。」
ちなみに、全身の筋肉と並ではないバランスによって生み出される、奇跡の体勢である。
「……おおかた、恭平氏がいきなり出てきたんで、心の準備が出来てなかったんじゃろ。」
陽子が多少なりこの恭平という男に恋心を抱いているという事は、もはや恭平ですら知る秘密であった。
「りーなーちゃーんっ!!!?」
その照れ隠しなのかどうなのか、陽子は明らかにおかしな姿勢のまま里奈に飛びかかる。
「ぐぎああああっ!? まさかその体勢からとは!?」
ちなみに、並々ならぬ足の筋力に任せた、本来なら無理のある跳躍であった。無理なく飛べたのは、日々の鍛錬のおかげなのだ。
「……どうでもいいが、あまり部屋を散らかすなよ。」
少女二人の取っ組み合いを眺めながら、恭平は溜め息混じりに言った。
「よ、陽子殿……恭平氏もそう言っておるし、もうそろそろ首を、首をおおおお……!」
「陽子。加減しなさいよ。今日は、“アレ”が発動する日よ。」
涼香は忠告する。
「あ? ……ああ、そういやそうだったか。道理で集中できないと思った。」
「え? そうだったっけ?」
「げほっ! ごほっ! ……じゃけえ、まだ下校してないんじゃろ。最終下校時刻はとっくに過ぎとるぜよ。」
時刻は午後八時を下回った所だった。他の生徒は既に下校してしまっているだろう。
残っている生徒は、ここにいる4人だけ。
なぜか、この部屋は教師の見回りに引っかからないのだった。
そもそも、ドアを見つける事自体が困難な場所にあるのも原因かもしれない。
「で、里奈。発動する時間は?」
「周知の通り、我の“レンズ”も万能ではないのでね。正確な時間まで測れんのよ。分かるのは、今夜って事だけやね。」
「まあいいだろ。どうせ時間になれば、」
『“永久の白無垢”から連絡が来るだろう。ってね!』
どこからともなく、声だけが響く。
良く通る綺麗な声だが、少年とも少女とも取れない、不思議な声だった。
詳しい事は未だに不明。とりあえず、“永久の白無垢”を自称し、現代に生きる“魔女”だ。
「ホワイトちゃん! 久しぶりー!」
『わー! ヨーコちゃんも久しぶりー!』
キャイキャイする二人。近頃の女子高生のようだ。
……ちなみに、“永久の白無垢”の姿を知っているのは、文芸部の中では恭平だけである。
「そんな事より、ホワイト。今回の“ワルプルギスの夜”は、いつ発動するんだ?」
恭平は要点だけをまとめて聞いた。面倒な事はどうにも苦手なようである。
『せっかちだなあ。言っただろう? 私だって詳しい時間までは分からないんだ。』
「使えねー奴だな……。」
『私だってもっと“アレ”を追跡したいよ! ただ、“アレ”の追跡には……あ。』
“永久の白無垢”が会話を途中で切った。
「……どうした?」
『ナイスタイミング! “姿無き漆黒”の魔力を観測!』
“姿無き漆黒”。
文字通り、姿を見た物はおらず、姿があるかどうかも分からない。
ただ、通り雨のように、ある“魔法”を残して消えていく存在。
その魔法というのが、“ワルプルギスの夜”と呼ばれる厄災であった。
『今度こそ逃がさないよ~~~っ!!』
「……毎度毎度、図ったようなタイミングだな。」
恭平は渋い顔をする。
『……って、ああっ!? また逃がした~……。あ。すぐ来るよ……。』
「準備体操も終わってるし、いつでも行けるよ!!」
「それを我で済ませるなよ。」
やがて、白い月が薄紫色に染まる。
……それが“ワルプルギスの夜”が発動される前兆である。
“永久の白無垢”を始めとした、現存する魔法使いにとっては、密法に指定された忌むべき魔法。
正式な名称は“悪魔召喚魔法術式・ワルプルギスの夜”
それは、異世界からこの世界に悪魔を呼ぶ魔法。
「……しかし、いつ見ても綺麗な色をしとるなあ……。」
里奈が染まった月を見上げて言う。
『呑気過ぎっ!!』
「そうね。ここからは真面目に行きましょ。……早く切り上げたいし。」
『はいはい、すぐに被せるよーっ!』
“永久の白無垢”が声を上げる。
『“密室庭園”!!』
唱えられてすぐに、たちまち世界が真白にすり替わった。
そこは既に彼らがよく知る学校ではなく、異次元に作られた学校の模造品。
“永久の白無垢”の使う、結界の一種である。その結界で“ワルプルギスの密法”は、箱庭に閉じ込められる。
……そして、“永久の白無垢”の作るその箱庭は、“四人の魔宝使い”にとっての遊び場でもあった。
“魔宝”……。
時と共に魔力を刻み続け、継承者は魔法を無尽蔵に使えるようになるという、神秘の宝具。
この地区に伝わる、四つの“魔宝”。それを継承した四人の“魔宝使い”。
……それこそ彼ら、文芸部に所属する四人なのであった。