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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第97 話狂犬お市様の狂犬式 心の治療 狂犬式病退治

西暦一五五四年二月十四日 朝

和暦:天文二十三年 正月下旬(二月十四日相当)

 鳴海城の朝は早い。

 まだ空が白みきらぬ刻、城の裏庭から、鈍く、しかし規則正しい音が響いてくる。

 ――ドン。

 ――ドン。

 ――ドン。

 地を踏みしめる音。

 槍の穂先が揃って動く音。

 号令は短く、無駄がない。

「前へ。――止まれ。構え」

 その声を発しているのは、狂犬お市様自身であった。

 薄い息白を吐きながら、狂犬家臣団は激烈苛烈な朝稽古をこなしている。

 火縄銃隊は分隊ごとに分かれ、装填、構え、照準、発火までを無言で繰り返す。

 槍隊は三列、足並みを寸分も乱さぬ前進と後退。

 その様子を、縁側から静かに見つめる影があった。

 ――長尾景虎。

 つい十日前まで、尼姿で血を失い、心を閉ざして倒れていた女性とは思えぬほど、

 今は血色が戻り、狂犬織の淡い藍色の着物がよく映えている。

「……すごい」

 思わず、景虎は呟いた。

「戦のための訓練に見えるじゃろ?」

 隣に立つお市様が、柔らかく微笑む。

「……はい。ですが……」

 景虎は、しばし言葉を探した。

「皆、怖い顔をしているのに……不思議と、乱れていない。

 怒りでも、恐怖でもない……何か、別のものに支えられているように見えます」

 お市様は、少しだけ目を細めた。

「うむ。

 あれはな、怒りで戦う兵ではない。

 守るものを、ちゃんと理解しておる兵じゃ」

「守る……もの?」

「家族、村、仲間。

 そして――生きて帰る未来じゃ」

 その言葉に、景虎の胸が、きゅっと痛んだ。

 越後では。

 守る前に、命を投げよと教えられた。

 迷えば叱責され、弱さは罪とされた。

「……姉上(仙桃院)は……」

 景虎は、思わず口にしてから、はっとした。

「……すまぬ。言わぬつもりで……」

「よい」

 お市様は、遮らず、ただ静かに頷いた。

「心の治療はな、無理に語らせぬことから始まる。

 語りたいときに、語れる場所があればよい」

 景虎は、しばらく沈黙し、やがてぽつりと零した。

「……姉は、怖いのです。

 正しいことしか、許されぬ。

 強くあれ、迷うな、女であることを捨てよ……」

 声が震える。

「越後に戻れば、また“景虎”に戻される。

 ここにいる私は……ただの、弱い女なのに」

 その瞬間。

 お市様は、景虎の手を、そっと包んだ。

「それで、よい」

「……え?」

「弱くてよい。迷ってよい。

 ここでは、生きることを学び直せばよい」

 景虎の目に、涙が溜まる。

「わらわは、医者じゃ。

 身体の病も、心の病も、同じもの。

 責めても、治らぬ」

 遠くで、訓練の号令が変わった。

「休め!」

 兵たちが一斉に息をつき、水を飲む。

 誰一人、倒れぬ。

「……姉上」

 景虎は、勇気を振り絞ったように言った。

「私は……ここで、役に立てますか」

 お市様は、即答した。

「立つ」

「……私など……」

「景虎姉上は、生き延びた。

 それだけで、十分な価値じゃ」

 朝日が、城内に差し込む。

 狂犬式病退治――それは、剣でも薬でもなく、

 人を人として扱うことから始まっていた。

――狂犬記・桃(お市様の日記)――

天文二十三年 正月下旬

晴れ

景虎姉上の腹痛、ようやく治まる。

顔色も戻り、今朝は兵の訓練を見ておった。

越後の重圧は、思っていた以上に深い。

強き者ほど、心を縛られておる。

医とは、治すことにあらず。

生きたいと思わせることじゃ。

景虎姉上、今日、少し笑った。

それでよい。

戦は、まだ先。

されど、心の治療は、今この瞬間から始まっておる。

――桃

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