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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第96話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 今日も忙しかった診療(夜)

西暦:1554年2月4日 夜

和暦:天文二十三年 正月二十五日 夜

場所:鳴海城(台所横・女中部屋/湯殿/お市様の私室)

 鳴海城の夜は、潮の匂いがする。

 伊勢湾の湿り気が、城の土壁にふっと染みて、昼の熱田の喧騒を静かに洗い流す。

 豊臣号の車輪が止まり、御者が息を吐いた。

 お市様は先に降り、振り返って言う。

「景虎殿。足はどうじゃ」

「……歩ける。だが、ふらつく」

「ふらつくなら、ふらつきながら歩け。倒れるな」

「倒れたら、姫が困るから?」

「そうじゃ。わらわの看護の手間が増える。つまり、睡眠が減る。国力が落ちる」

「国力……」

 景虎――尼姿で倒れていた女は、いまは綺麗な狂犬織の着物に着替えさせられ、髪も整えられている。

 鏡を見せられたとき、本人が一番驚いた顔をしていた。

「……尼ではなくなった気がする」

「尼は衣ではない。心じゃ。衣は寒さを防ぐ道具じゃ」

 お市様はあっさり言い切る。

 その言い方が、優しいのか乱暴なのか分からないのが、狂犬式。

 城の台所横――女中たちが食事を取る部屋に、お市様専用の席がある。

 尾張の武士が見たら気絶する場所だが、鳴海城では日常だ。

「姫様、今宵は里芋と、鯛の塩焼きでございます」

「よい。温いものが近い。医の道理じゃ」

「医の道理を盾に、好き勝手してるだけやろ」

 景虎が小声で突っ込むと、

「聞こえたぞ」

「……耳が良いな」

「戦国は耳が悪いと死ぬ」

 膳が並ぶ。白飯、里芋の煮っころがし、湯葉の吸い物。

 景虎の前には、薬膳粥が置かれた。梅肉の酸味、生姜の温み、葛のとろみ。

「景虎殿、粥」

「……私は武家だ。粥は病人のものだろう」

「今が病人じゃ。武家は治してから威張れ」

「言い方が強い」

「強いのが狂犬じゃ」

 景虎は渋々ひと口。

 湯気が喉をほどき、胃の底が温まる。

「……うまい」

「うむ。血が減った日は腹を温める。月のものは穢れではない。体の働きじゃ」

 景虎の箸が止まる。

 越後では、こうは言われない。

 “女の血”は、厄介で、隠すものだと――いつも、そう扱われた。

 その空気を破ったのは、入口で陣取っている三人だった。

「姫様、警備交代します!」(さくら)

「交代してから食べる!」(あやめ)

「今食べたら寝るから、交代してから食べる!」(せつな)

「寝ろ。眠れる戦は勝てる戦じゃ」

「姫様が言うと怖い!」(三人)

 景虎は思わず笑った。

 笑って、胸の奥が少しだけ軽くなった。

「……ここは、妙だな。兵が、硬い顔で、あたたかい」

「狼の群れじゃ。牙があるから寄り添える」

「狼……」

「景虎殿は、群れの外から来た狼じゃ。今は、傷を舐めろ」

 食後、お市様は平然と告げた。

「風呂じゃ」

「……月のものの時は、湯に入らぬと聞く」

「不潔がいかん。清潔にすればよい。湯は替える。布も替える。薬湯もある。腹の冷えを抜く」

「理屈が全部、医者だな」

「わらわは医者じゃ。心の医者でもある」

 景虎は抵抗しかけたが、ふらつく足が現実だった。

 結局、頷くしかない。

「……介助を、頼む」

「言えたな。偉い」

「褒め方が雑だ!」

「雑な褒めは照れが混じる」

「照れているのか……?」

「黙れ。湯が冷める」

 湯殿に入ると、檜の香りが立つ。

 お市様の手は迷いがない。髪を洗い、肩を支え、湯の温度を確かめる。

 狂犬堂の石鹸の匂いが、夜の湿り気を払っていく。

「……おぬし、武人の手だ。医者の手とは違う」

「武人だから医者なんじゃ。切るだけでは救えぬ。支えるのも武じゃ」

「支える……」

「逃がさぬ、とも言う」

「怖い言い方だぞ」

「優しい言い方の方が、時に怖い」

 景虎は湯の中で目を閉じた。

 怖いのは湯ではない。

 “助けられること”が怖い。

 助けられてしまったら、逃げられなくなる。縛られる。――越後の姉のように。

 けれどお市様は、縛る手つきではない。

 支えて、放す手つきだ。

 風呂から上がると、景虎はさらに眠そうになった。

 お市様は当然のように肩を貸し、私室へ連れて行く。

 ふかふかの木綿布団。

 柔らかくて、沈む。越後の硬い冬布団とは違う。

 沈むのが、怖いくらい安心だ。

「……こんな布団、越後にはない」

「雪国は硬い方が温い。尾張は柔らかくして抱える」

「また抱えるのか」

「抱えるのが好きじゃ。子供も好きじゃ。姉上も好きじゃ」

「姉上?」

 灯りを消し、月明かりだけが部屋に残った。

 お市様は“心の医者”の声で言う。

「景虎殿。今日、何が一番しんどかった」

「……診察の言葉だな」

「答えよ。黙ってもよい。だが、聞く」

 景虎はしばらく黙った。

 布団の端を握る指に、力が入る。

「……越後へ帰ると思うと、息が詰まる」

「誰が詰める」

「姉だ。仙桃院だ。

 私を“正しく”しようとする。正しい尼、正しい当主、正しい――女。

 正しくされるほど、私は私じゃなくなる」

 お市様はすぐに慰めない。

 「可哀想に」と言わない。

 代わりに、短く頷いた。

「怖いと言えるのは強さじゃ」

「強いなら、逃げないだろう」

「逃げるのも強さじゃ。生き延びるための武じゃ」

 景虎の喉が詰まった。

 越後で、そんな言葉をもらったことがない。

 その沈黙を、廊下の足音が横切る。

 書類の束がこすれる音。筆の音。

 藤吉郎だ。

 ――あの男は、姫の一言を“仕組み”に変える。

 “拾った命を守る仕組み”を、紙の上で作る。

 姫が丸投げしても、駒が動くのは、藤吉郎が動かし方を必死に考えるからだ。

(姫様は……また拾った。

 拾った命を、ただ温めるだけじゃない。

 “居場所”にして、仕事にして、国にしてしまう。

 恐ろしいほど優しい。――いや、優しいから恐ろしいのか)

 景虎は、胸の奥から言葉を引きずり出した。

「……銭も尽きた。帰るしかない。

 だが、帰りたくない。越後に帰りたくない」

 そして、震える声で。

「わたしを……雇ってくれないか?」

 お市様は即答だった。

「わかった」

「……本当に?」

「本当にじゃ。景虎殿は、わらわの側に常に、いたらよい」

 景虎の目が揺れる。

 嬉しいのに、怖い。

 縛られるのが怖い。

 でも――縛られない温みがある気がする。

「……姉が、何を言うか」

「文を出す。藤吉郎に書かせる。達筆だ。雑だが」

「雑なのか!」

「雑じゃ。だが朱印があれば勝つ」

 景虎が笑って、泣いた。

 泣きながら笑うのは、久しぶりだった。

 お市様は布団をかけ直し、静かに言う。

「お市は景虎殿の妹。景虎殿はわらわの姉上。

 今からそう思えばよい。心配せずとも、わらわを妹と思い――ゆっくり寝てくだされ」

 景虎は、布団の中で小さく頷いた。

「……妹お市が、姉上景虎を守る、と?」

「そうじゃ。守る」

「……私は姉上として、妹を守らねばならぬのだろう?」

「そうじゃ。まず寝て体を守れ。次に、わらわの無茶を止めろ。家臣団の胃を守れ」

「止まるのか、おぬしは」

「止まらぬ」

「最初から無理ではないか!」

「無理を通すのが姉上の仕事じゃ」

 景虎は呆れて、でも安心したように息を吐いた。

 月明かりの部屋。

 家出の尼は、狂犬の妹の布団で、ようやく眠りに落ちる。

 障子の向こうで、筆が走る。

 藤吉郎が、たぶん“姉上宛の文面”まで考え始めている。

 あの男は、姫の優しさを“戦力”に変える天才だ。

 狂犬は戦う。

 同じくらい、拾う。

 拾った命は、明日から“国”になる。

◉狂犬記(作者:桃)お市様の日記

天文二十三年 正月二十五日 夜。

景虎殿、食う。湯に浸かる。寝る。よし。

月のものは穢れではない。不潔が病を呼ぶ。温みが血を戻す。

景虎殿は姉が怖いと言った。怖いと言える者は折れておらぬ。

逃げるのは卑怯ではない。生きる武じゃ。

景虎殿を、わらわの側に置く。

妹お市、姉上景虎。そう決めた。決めると心が楽になる。

家臣団の胃は、相変わらず痛そうじゃ。胃薬は増やす。まつ屋にも卸す。

藤吉郎が廊下で筆を走らせておった。あれは便利な男じゃ。

――明日も診療。寝る。

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