第95話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 今日も忙しかった診療(夕方の部)
西暦:1554年2月4日 夕方
和暦:天文二十三年 正月二十五日 夕方
「本日これまで」――の札が掛かった瞬間、熱田の診療所は、ようやく“息”をした。
午前の戦、午後の戦。
投薬、処置、薬の配布、泣く子、怒る爺、黙って耐える者、喋り倒す者。
全部を受け止めて、今日も診療所は勝った。たぶん。
「終わったぁぁぁ……」
八千代が座り込みそうになるのを、さくらが肩で受ける。
「八千代さん、倒れるのは鳴海帰ってからやで」
「帰り道で倒れたら、せつなが蹴って起こす」
「蹴るかぁぁ!」
「……蹴らん。けど、命令なら蹴る」
「怖いわ!」
あやめは黙々と帳面を束ね、戸締まりを確認し、薬棚の鍵を確かめる。忍びの几帳面は、こういう場で光る。
お市様は最後に診療台を拭き、湯を替え、道具箱の紐を結び直した。
戦の後始末は、次の戦の準備だ。
「よし。鳴海へ帰るぞ」
その声に、皆が一斉に背筋を伸ばす。
お市様が“帰る”と言った時は、休みではない。
移動という名の、別の任務が始まる。
景虎は、奥の部屋で薄い布団に座っていた。
綺麗な狂犬織の着物に着替え、髪も整えた。
それでも顔色はまだ白く、立てばふらりと揺れる。
「景虎殿。歩けるか」
「……歩ける。いや、歩けるようにする」
意地が先に出る。
それをお市様は、否定しない。
ただ、現実に合わせて手段を変える。
「豊臣号に乗れ。ゆっくり帰る」
「……馬じゃないのか」
「馬は揺れる。おぬしの腹に悪い。あと――」
「あと?」
「倒れたら、わらわが抱えるのが面倒じゃ」
「……ひどい言い方だ」
「本音じゃ。医者は嘘をつかぬ」
景虎が、口元だけで笑った。
それは昼より少し自然で、少しだけ“人”の温度があった。
豊臣号――お市様の乗る箱車は、薬や布、帳面も載る。
車輪が鳴るたび、診療所の匂いが遠ざかる。
さくら、あやめ、せつな、八千代は馬。
豊臣号の左右と後ろに付く。護衛兼、隊列の目。
尾張の夕方は、潮の匂いが混ざり、冬の空が少し柔らかい。
豊臣号の中。
お市様と景虎が向かい合う。
間に、薄い湯たんぽと、温い茶。
「……なあ」
景虎が先に口を開いた。
言ってしまったあと、自分で驚いたように目を伏せる。
「なんじゃ」
「……越後の話は、まだ、言いたくない……と言った」
「言わなくてよい。言いたくなるまで待つ」
「……だが、ひとつだけ」
景虎は指先を膝の上で握りしめた。
狂犬織の袖が、ぎゅっと歪む。
「姉がいる。姉は……仙桃院だ」
その名が出た瞬間、景虎の肩が小さく跳ねた。
怖い、と言わずに、身体が先に言っている。
お市様は茶をひと口飲んで、静かに頷いた。
「仙桃院が怖いのか」
「……う」
景虎は、言葉を探しているのに、喉が塞がる。
恐怖は、思い出すだけで呼吸を乱す。
お市様は声を落とした。
心の医者の声だ。戦場の号令ではない。
「怖いとは、“殺される”という怖さか。
“否定される”という怖さか。
“支配される”という怖さか。
――どれが一番近い」
景虎の瞳が揺れた。
「……支配、だ」
「ほう」
「姉は……正しいことを言う。正しいことを言って……逃げ道を消す」
景虎は言いながら、気づいた。
それは、さっきのお市様と似ている。
だが、決定的に違う。
「姉は、選ばせない」
景虎の声は、悔しさで掠れた。
「わらわは選ばせる。――そこが違うのだな」
「……違う。姉は、私が“何であるべきか”を決める」
「景虎殿は、何でありたい」
問いが、まっすぐすぎて、景虎は息を止めた。
夕暮れの車の中で、外の蹄の音が遠くなる。
世界が静かになって、心の声だけが残る。
「……わからない」
景虎は、負けたみたいに言った。
でも――嘘ではない。
お市様は笑わなかった。
落胆もしなかった。
「よい。“わからない”は、始まりじゃ」
「始まり?」
「“わからない”と言える者は、もう自分を誤魔化しておらぬ。
姉に決められた“べき”の外へ、一歩出ておる」
景虎は目を伏せた。
自分が今、どこに立っているのかが、少しだけ分かった気がした。
「……姉は、怖い。けど……嫌いじゃない」
「うむ。怖い人ほど、愛が混ざる。だから厄介じゃ」
「……そうだ」
景虎が小さく笑い、すぐに目尻が濡れた。
笑って泣く。
その矛盾を、お市様は“正常”として扱った。
「景虎殿。今日は、ここまででよい。
話した分、心は疲れる。心が疲れると、腹が痛む」
「……医者は、全部つながっているのだな」
「つながっておる。心と腹と命は、一本の縄じゃ」
豊臣号が、鳴海へ向けてゆっくりと進む。
外から、せつなの声が飛んできた。
「姫様! 道は安全!」
続けて、さくらが軽い声で。
「景虎さん、揺れたら言うてな! せつなが車輪蹴って止める!」
「蹴らんっ!」
「蹴るって言うたやん!」
「命令なら蹴るって言っただけや!」
八千代の笑い声が混じる。
あやめは淡々とまとめる。
「静かに。車酔いする」
景虎は、涙を袖で拭きながら、ふっと息を吐いた。
「……ここは、変だな」
「変でよい。変な場所ほど、人が生き残る」
お市様はそう言って、景虎に湯たんぽを押し当てた。
「鳴海に着いたら、寝ろ。逃げるなよ」
「……逃げない」
「逃げたくなる日は、逃げたいと言え。
言えたら、逃げなくて済む日が増える」
景虎は、目を閉じた。
越後に帰りたくない。
姉が怖い。
それを少しだけ言えた。
その“少し”が、命をつなぐ。
◉桃の日記(狂犬記)
天文二十三年 正月二十五日 夕方。
今日の診療は終わったのに、姫様の仕事は終わらない。
豊臣号の中で、景虎殿が「仙桃院が怖い」と“怖い”の中身を言葉にした。
姫様は、答えを作らず、選ばせる形で景虎殿を支えた。
外では忍び衆がいつも通りボケてツッコんで、八千代さんが笑ってた。
たぶん、あの笑いがあるから、景虎殿は泣けた。
鳴海に着いたら、景虎殿は眠れるだろうか。
眠れたら――それだけで、今日の戦は勝ちだ




