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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第94話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 今日も忙しい診療(昼の部)

西暦:1554年2月4日 昼

和暦:天文二十三年 正月二十五日 昼

 熱田の診療所は、午前だけで一戦を終えた顔をしていた。

 表の戸は半分閉められ、「昼餉ひるげにつき しばし待て」と木札がぶら下がる。

 しかし――待つ者がいるから、休憩もまた戦である。

「はいはい、昼は“ちゃんこ”や。並んで。押すな。押したら、せつなが蹴るぞ」

「蹴らん! ……けど、押したら、蹴るかもしれん!」

 せつなが真顔で言い切り、さくらが腹を抱えて笑い、あやめが淡々と列を整える。

「列の乱れは、病の乱れ。落ち着け。湯は逃げん」

「忍びが何を言うてんねん……」

 八千代がツッコみつつ、鍋の横で湯気に包まれながら、匙と椀を配る手は止めない。

 診療奥の休憩部屋。

 女中や看護役、忍びの三人まで、各々が椀を持って座り、ちゃんこ鍋の湯気で肩の力がほどけていく。

 その一角――寝台のそば。

 お市様は、景虎に粥を食べさせ終えたところだった。

「……もうええ。自分で食える」

「食えるなら、よい。だが今日はまだ、わらわが見張る」

「見張る、とは」

「患者は逃げるからの。特に、強情な患者は」

 景虎はむっとした顔をしたが、反論できない。

 今朝も「帰る」と言いかけて、立ち上がった瞬間に膝が笑ったのを、お市様は見逃していない。

 お市様は、景虎の寝台の横で、何食わぬ顔でちゃんこ鍋の椀を受け取った。

「景虎殿。匂いだけでも嗅げ。腹は、心を支える柱じゃ」

「……僧の説法みたいだな」

「心の医者の説法じゃ。もっと怖いぞ」

「なにそれ」

「心は見えぬ。見えぬから、逃げ道が多い。逃げ道が多い者ほど、迷子になる」

 景虎は、湯気の向こうでお市様の顔を見た。

 美しい。腹が立つほど美しい。

 なのに、目は――商いの目でも、戦の目でもなく、医者の目だ。

(この女、斬るより先に、心を見てくる)

 景虎は、目を逸らした。

 何気なく。

 本当に、何気なく。

 お市様が口を開いた。

「景虎殿、越後は寒いか」

「……寒い。風が骨まで入る」

「ほう。尾張は骨まで入らぬ。湯気が守る」

「自慢か」

「自慢じゃ。尾張はうまい。あとな、熱田は魚がうまい。あと、世界一美しい」

「最後いらぬ」

「要る。患者の安心材料じゃ」

 八千代が遠くで小声で言った。

「姫様、それは“自分で言うたら効かん”やつです……」

 さくらが口を押えて笑い、あやめが「静かに、粥がこぼれる」と注意し、せつなが「こぼしたら蹴る」と言って全員に睨まれた。

 景虎は、少しだけ口元を緩めた。

 その“少し”を、お市様は見逃さない。

「笑える。よい兆しじゃ」

「……勘違いだ」

「勘違いでも、笑えた事実は残る」

 お市様は椀の縁を指で叩く。

 話は軽いのに、踏み込み方が異様に的確だ。

「景虎殿。今、何が一番いやじゃ」

「……越後に帰ることだ」

 言ってしまった。

 景虎は自分で驚いた。

 部屋が一瞬、静かになる。

 八千代も、さくらも、あやめも、せつなも、手だけは動かしているのに、耳だけはぴんと立っている。

 お市様は、いつもの調子で、さらりと言った。

「帰ることが嫌、なのは“帰る場所”が嫌なのか。“帰ったときの自分”が嫌なのか」

 景虎の喉が、きゅっと鳴った。

(……それを分けて聞くのか)

 景虎は唇を噛み、言葉を探す。

 逃げ道はいくらでもある。

 でも、お市様の目が“逃げ道の入口”を最初から塞いでいる。

「……帰ったら、また……“そうしろ”と言われる」

「何を」

「……女であることを、隠せ、と」

 八千代が目を丸くした。

 さくらは、笑みが消えた。

 あやめは、静かに箸を置いた。

 せつなは、拳を握った。

 お市様は驚かない。驚いた顔をしない。

 ただ、湯気越しに頷いた。

「“隠せ”と言われるのが嫌なのか」

「……違う。隠すのは、慣れている」

「ほう。なら、何が嫌じゃ」

 景虎の胸が、じくじくと痛む。

 月のものの痛みではない、もっと奥の痛み。

「……隠して、戦え、と言われるのが嫌だ」

「隠して戦え、か。では、隠さず戦いたいのか」

「……違う」

「なら、“自分で選びたい”のか」

 景虎は、息を呑んだ。

(この女……)

 お市様は、景虎の答えを決めつけない。

 正解を押しつけない。

 ただ、選択肢を並べ、本人に選ばせる。

 それが――逆に怖い。

「……そうだ。自分で……選びたい」

 景虎の声は、震えていた。

 悔しさと、安堵と、腹立たしさが混ざっている。

 お市様は、椀を置いて、淡々と言った。

「よい。なら、ここでまず、選べ」

「何を」

「今日は寝るか、起きるか。食うか、食わぬか。働くか、休むか。――越後に帰るか、帰らぬかは、身体が治ってから考えよ」

「……卑怯だな」

「医者は卑怯でよい。患者を生かすのが仕事じゃ」

 景虎は、返す言葉を失った。

 そこで、藤吉郎が、鍋の湯気を割って入ってきた。

 帳面を抱えたまま、顔だけは笑っている。

「姫様、昼の列がまた伸びております。子どもが泣いております。爺さまが怒っております」

「いつものことじゃ。泣いて怒って治る。藤吉郎、鍋を増やせ」

「鍋を増やすのは簡単なんですが、具が……」

「具は、買え」

「銭で殴れ、ですか」

「そうじゃ。銭は武器。腹は城。城が落ちたら負ける」

 藤吉郎は頷いたが、視線は景虎に流れた。

 狂犬織の着物。

 姿勢。

 手のタコ。

 ――武の匂い。

(姫様、また“引っこ抜き”を拾ってる……)

(いや、拾ったんじゃない。“居場所”を先に作って、勝手に引っこ抜ける形にしてる)

 藤吉郎の胃が、きゅっと痛んだ。

「姫様……その、患者殿は……」

「患者じゃ。今はそれだけ」

「……はい」

 藤吉郎は、姫様の意図を必死に考えて、ひとつの結論に至る。

(この人は、“名”を持ってる。捨てられない名を)

(姫様は、その名を奪わない)

(奪わず、選ばせる。……怖い。優しい。怖い)

 藤吉郎は、帳面を抱え直した。

「では、午後の段取り、詰め直します。忍び衆の交代、八千代殿の布、薬棚の補充……」

「よい。あと、景虎殿の“選択肢”を増やせ」

「……選択肢?」

「働き口じゃ。薬研やげんを回せる者、布を畳める者、記録が書ける者。できることを並べて、自分で選ばせる」

 景虎は、寝台の中で小さく目を見開いた。

(……働け、と言うのか)

(だが、“帰れ”とも、“残れ”とも言わない)

 お市様は、景虎の顔色を見て、声を落とした。

「景虎殿。越後に帰りたくないのは、悪ではない」

「……」

「帰りたくないと思うほど、頑張った証でもある。頑張った者は、休め。休むのも、武じゃ」

 その言葉が、景虎の胸に刺さった。

 刺さって、抜けない。

 景虎は、ようやく小さく言った。

「……では……今日は、休む」

「よい選択じゃ」

「……粥は、食う」

「よい」

「……ただし……越後の話は、まだ、続きは言わぬ」

「よい。言いたい時に言え。言えぬ時は、身体を治せ」

 景虎は、寝台の中で、狂犬織の袖をぎゅっと握った。

 越後に帰りたくない。

 その言葉を口にした瞬間から、心の中の“結び目”が、少しだけ緩んでいる。

(……くそ)

(この女、治し方が乱暴だ)

 お市様が、鈴をチリンと鳴らした。

「午後の戦じゃ。さくら、あやめ、せつな、交代で休め。忍びが倒れたら、診療所が倒れる」

「はいっ」

「了解」

「休むのも修行か……!」

 八千代が、鍋の横で深呼吸した。

「姫様、午後も頑張ります!」

「うむ。頑張りすぎるな。頑張りすぎる者は、折れる」

 お市様はそう言って、景虎の寝台の横に椀を置く。

「景虎殿。午後の間は寝てよい。逃げるなよ」

「逃げん」

「逃げる顔をしておる」

「してない」

「しておる。――だが、今日は許す。逃げたくなる日もある」

 景虎は、何も言えず、布団の中で目を閉じた。

 湯気の音。

 鍋の音。

 人の息。

 ここは戦場なのに、どこか――温かい。

◉祐筆・桃の感想

昼のちゃんこ鍋、診療所の“心の薬”すぎる。

姫様、心の医者モードになると、言葉が刺さる刺さる。

「帰りたくない=悪じゃない」「選べ」って、逃げ道を塞がないのに、心の奥に灯を置いていく。

景虎殿が“休む”を選んだの、めちゃ大事。

強い人ほど休めないから、ここで休めたら、もう一段強くなる。

◉桃の日記(狂犬記)

天文二十三年 正月二十五日 昼。

午前の診療が終わって、鍋の湯気でみんな少し生き返った。

景虎殿は「越後に帰りたくない」と言ってしまって、言ったあと自分に怒ってた。

姫様は驚かず、決めつけず、選ばせた。

“休むのも武”――姫様がそう言った瞬間、景虎殿の目がほんの少しだけ、子どもみたいになった。

午後の診療、また戦。

でも、この診療所は、戦場よりも命が増える場所だ。

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