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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第93話 狂犬お市様の狂犬式診療所 今日も忙しい診療

西暦:1554年2月4日(朝)

和暦:天文二十三年 正月二十五日(朝)

 熱田の朝は、潮の匂いと薬草の匂いが混ざる。

 そして――診療所の朝は、開店前からもう戦である。

「はい、景虎殿。粥じゃ。まだ熱い、ふーっとしてからな」

 お市様は、椀を両手で包むように持ち、匙を口元に運ぶ前に、息でそっと冷ました。

 その仕草が、武将というより、母親みたいで――寝台の上の尼は、一瞬だけ目を伏せた。

 尼――長尾景虎(二十五)。

 めっちゃ家出中。越後に帰りたくない。

 顔色はまだ薄いが、昨夜の風呂と薬で、呼吸は落ち着いてきている。

「……わらわに構うな。貴殿は、やることがあるだろう」

「ある。患者を治す。今は、それだけじゃ」

 お市様は淡々と断言して、景虎の唇に粥を差し出した。

「……うまい、だと?」

「うまい粥は、治る粥じゃ。食え」

「……命令口調だな」

「わらわは、世界一美しい上に、医者じゃからの」

 八千代が、思わず「それ今いる?」って顔になった。

 お市様は気にせず、景虎に薬湯を飲ませ、脈を取り、目を覗き込む。

「……月のものの痛み、まだ残るか」

「……残る。だが、耐えられる」

「耐えるのは、最後じゃ。先に治す。耐えるのは、戦だけでよい」

 景虎は返す言葉を失った。

 越後でそんなことを言われた記憶がない。

 痛いなら耐えろ。苦しいなら耐えろ。――そういう世界だった。

 ふと、景虎の視界の端に、衣が映る。

 昨日、着替えさせられた狂犬織の着物。

 薄い藤色の地に、織りの光が流れるように走っている。派手ではないのに、妙に目を惹く。

(……越後に帰りたくない)

 そう思ってしまった自分に、腹が立った。

(家出など、恥だ。長尾の名が泣く)

 だが、着物は暖かい。布団も暖かい。粥も暖かい。

 そして――ここは、奪われない。

「景虎殿。なに、眉間に皺寄せておる」

「……何でもない」

「何でもない顔ではない。ほれ、もう一口」

「……くっ……」

 景虎が渋々口を開けた瞬間、診療所の表から声が飛ぶ。

「順番守れー! 押すな押すな! 押したら、せつなが蹴るぞー!」

「蹴らん! ……いや、蹴るかもしれん! けど蹴らん!」

「咳の者、こっち! 腹の者、こっち! 見境なく並ぶな!」

 さくら、あやめ、せつなの三人が、開店前からすでに戦場を回している。

 諜報部隊の責任者が患者対応をしているのに、回っている。

 狂犬家臣団は、だいたいどこかがおかしい。

 八千代は湯と布を準備しながら、目を輝かせた。

(姫様……患者にこんな優しいんだ)

(私も……負けてられへん)

 八千代が背筋を正すと、お市様はちらっと見て言う。

「八千代。今日は腹痛が多い。湯と止血布を多めに。あと、甘い飴。子が泣く」

「はいっ! 飴も準備します!」

「……よい返事じゃ。返事が元気なら、半分治る」

 八千代はちょっと照れて、でも、誇らしく頷いた。

 景虎は、布団の中から部屋を見回した。

 清潔な板敷き。薬棚。乾かした薬草。古今東西の本。

 そして――壁に貼られた、やたら圧の強い紙。

狂犬堂 職員募集中

狂犬家臣団 募集中

診療所 看護員募集中

(条件:根性、性格、学ぶ気。銭は後からついてくる)

 ――狂犬 お市(朱印)

(朱印まで押すのか……求人票に……)

 景虎は呆れたが、目は離れなかった。

(……銭は、使い果たした)

 路銀は尽きた。

 家出中に、家の名を出せば騒ぎになる。

 越後へ帰れば、押し戻される。――そして、帰りたくない。

(働け、と言うことか)

 その瞬間、景虎の胸の奥がかすかに軽くなるのを感じて、また腹が立った。

(長尾が求人票に救われるか……!)

 景虎は拳を握った。

 手の平の硬いタコが、痛む。

 刀か、弓か――それを語るのはまだ先だ。

 そのとき、戸がきい、と鳴った。

「おーい、姫様。開店前から胃が痛い音がするんですけど」

 木下藤吉郎が、帳面と包みを抱えて入ってきた。

 笑いながら、目は鋭い。部屋の空気を一瞬で測る目だ。

「藤吉郎、静かにせよ。患者が寝ておる」

「患者にしたの誰ですか、姫様」

「わらわじゃ」

「最強すぎる返事!」

 表から、せつなの声が飛ぶ。

「つるつる、うるさい! 患者の前で騒ぐな!」

「つるつる言うな! これは姫様の作品だ!」

「黙れ。作品が一番うるさい」

 さくらが吹き出し、あやめがため息をついた。

 その笑いが、列にも伝播して、診療所全体が少しだけ軽くなる。

 景虎はそれを見て、心の中で首を傾げた。

(命を扱っていて、笑うのか)

(……笑えるから、命を扱えるのか)

 藤吉郎は、寝台の方をちらっと見た。

 景虎は反射的に視線を逸らした。

(……武の者。しかも上物だ)

 藤吉郎は確信する。

 だが、お市様は、言わない。

 “今は患者”――その線を守っている。

 藤吉郎は、お市様の意図を必死に考える。

(拾ったのか、引っこ抜くのか、抱え込むのか)

(……いや、姫様は「腹」と「居場所」を先に作る。人は勝手に動く)

 つまり、こうだ。

 求人票を貼る。飯を食わせる。薬で治す。

 ――そして「自分で選ばせる」。

(怖い。優しい。怖い)

 藤吉郎の胃が、きゅっと鳴った。

「藤吉郎。帳簿と薬包、置け」

「はい。……姫様、今日も混みます。人が足りません」

「足りぬなら、増やせ」

「出た。“狂犬式”」

「銭で増やす。学ばせて増やす。腹が満ちれば、人は働く。腹が満ちれば、国も動く」

 お市様の目は、患者のための目だ。

 同時に――戦のための目でもある。

 景虎は、その目を見て、ぞくりとした。

 越後の誰よりも、まっすぐで、危うい。

(……この女は、何者だ)

 そして、心のどこかで、もう答えを知っている。

(狂犬お市――天下を取るやつの目だ)

 表の声がさらに大きくなる。

「先生ぇ! うちの爺さまが朝から腹がぁ!」

「担架! 湯! 布!」

「はい、次! 口開けて!」

「押すな! 押したら蹴る! 蹴らんけど蹴る!」

 診療所は、開く前からもう回っている。

 戦場のように。

 ――いや、戦場以上に、人が生きている。

 景虎は布団の中で、壁の求人票をもう一度見た。

(……越後に帰りたくない)

 言葉にすると、負ける気がする。

 だから、別の言い方を作った。

(……身体を治すまで、ここに居るだけだ)

(……礼をするだけだ)

(……銭がないだけだ)

 言い訳は、いくらでも作れる。

 だが、心は――少しずつ、ここに居場所を見つけ始めていた。

「景虎殿」

 お市様が、最後の一匙を差し出した。

「……食え。今日を生きよ」

 景虎は、黙って口を開けた。

――祐筆・桃の感想

景虎殿、めっちゃ家出中で「帰りたくない」が本音なの、可愛い。

でも、可愛いだけじゃない。目が鋭い。手のタコが語ってる。

姫様は“今は患者”で線を引き、無理に聞き出さない。

なのに、求人票で逃げ道を塞ぐ。優しいのに、逃がさない。

これが狂犬式――腹と居場所で、心をほどく。

◉桃の日記

天文二十三年 正月二十五日。

診療所は今日も戦。忍びが仕切って、つるつるが騒いで、八千代が燃えてる。

景虎殿は狂犬織が似合いすぎて、本人が一番ムカついてそう。

姫様が「今日を生きよ」って言った時、景虎殿の目が少しだけ柔らかくなった。

……越後に帰りたくない理由、たぶん“家”じゃない。

“縛り”だ。

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