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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第92話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 尼の名前は長尾景虎

西暦:1554年2月3日 夜

和暦:天文二十三年 正月二十三日(推定)

 夜の熱田は、潮の匂いと湯気の白に包まれていた。

 診療所の一日は、ようやく終わりを迎えたところである。

 八千代が帳面を閉じ、さくら・あやめ・せつなが薬棚を整え、女中たちが湯の支度を進めている。

 今日も戦場の後のような忙しさだった。

 その奥、灯りを落とした一室で、狂犬お市様は一人の尼と向かい合っていた。

 ――長尾景虎。

 名を聞いた瞬間、胸の奥に小さなざわめきは走った。

 だが、お市はすぐにそれを切り捨てる。

「……今は、患者じゃ」

 声は静かで、揺れはない。

 名も、出自も、未来も――今は関係がない。

 景虎は顔色がまだ青く、唇も乾いている。

 月のものが重く、長い無理が身体に積み重なっていた。

「月のものの時は、風呂に入らぬ習慣もある。

 じゃがな、汚れを落とし、身体を温めるのは悪いことではない」

 お市は、そう言って景虎の手を取った。

「不潔が一番いかん。

 ここは医の場じゃ。恥も遠慮も、いらぬ」

 景虎は一瞬、視線を伏せた。

 抵抗がなかったと言えば嘘になる。

 だが、力は残っていない。

「……わかった」

 かすれた声で、そう答えた。

 お市は景虎の肩を支え、ゆっくりと湯殿へ導いた。

 足取りは不安定で、何度も体が傾く。

「無理はするな。

 倒れたら、わらわが困る」

「……はい」

 その返事は、どこか幼く聞こえた。

 湯気の立つ檜風呂は、狂犬堂が誇る医療用の湯である。

 香りは穏やかで、身体を刺激しない。

 お市は淡々と、しかし驚くほど丁寧に介助を続けた。

 狂犬堂の石鹸で、髪を洗い、肩を流し、血の気の引いた背を温めていく。

 景虎は、最初こそ身体を強張らせていたが、

 やがて、深く息を吐いた。

「……あたたかい」

「そうじゃ。

 生きておる身体は、温めねばならぬ」

 お市の手つきに、迷いはない。

 そこにあるのは、武将でも姫でもなく、医師の顔だった。

 向かい合って湯に浸かり、しばし沈黙が流れる。

「……名を、長尾景虎と申しましたな」

 お市が、ようやく口を開いた。

「はい……」

「今は、尼か」

「……はい」

 それ以上は、問わない。

 詮索は治療ではないと、お市は知っている。

「身体は正直じゃ。

 無理をすれば、こうして声を上げる」

 景虎は、湯の中で小さくうなずいた。

「逃げてきた者の身体は、たいてい同じ顔をしておる。

 痩せて、冷えて、傷ついておる」

 お市の言葉は、責めでも慰めでもなかった。

「ここにいる間は、何者でもない。

 ただの患者じゃ」

 その言葉に、景虎の目が揺れた。

「……それで、よいのですか」

「よい」

 即答だった。

「生き直すには、まず生きねばならぬ。

 話は、それからじゃ」

 湯を出た後、景虎は新しい晒しと衣に包まれ、床に休まされた。

 滋養の薬、月のものの薬、温める膏薬。

 すべて、お市が自ら調合したものだった。

 景虎は、横になりながら、じっとお市を見ていた。

「……不思議なお方ですね」

「よく言われる」

 お市は、笑わない。

「狂犬、と呼ばれております」

「……噂は、聞きました」

「噂は、噂じゃ」

 そう言って、お市は薬碗を置いた。

「今日は、眠れ。

 名の続きは、明日でよい」

 景虎は、ゆっくりと目を閉じた。

◉桃の日記

天文二十三年 正月二十三日(推定)。

景虎、まだ何も語らず。

だが、あの目は只者ではない。

狂犬様は、すでに気づいている。

気づいた上で、知らぬふりをしている。

――怖い姫だ。

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