表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

93/206

第91話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 尼の来訪者(夕)

天文二十三年 二月三日 酉刻(夕)

場所:熱田・狂犬診療所(奥座敷/薬房)

 本日の診療、終了――。

 戸を閉めた瞬間、空気がほどけた。

 朝から晩まで、喉、腹、傷、火傷、咳、そして「それ、ほんまに病か?」という愚痴まで。

 熱田は参詣客が絶えず、港の人間は怪我も多い。戦のない日でも、診療所は戦場だ。

「……今日も、戦並みに忙しかったわ……」

 八千代が膝を抱え、机に突っ伏す。

 さくらは黙々と器具を拭き、あやめは湯を張り、せつなは薬包の数を数えている。

「姫さま、“休み”って何でしたっけ?」

 八千代が目だけ上げる。

「わらわが寝る時」

「それ、条件に書いてありましたね……(遠い目)」

「ゆえに、今から寝る」

「今から!? 夕餉は!?」

「夕餉を食べてから寝る」

「順番は守るんですね!」

「基本はな」

 奥の部屋では、皆で夕餉の支度が始まっていた。

 今日の膳は質素――と言い張りつつ、熱田は食材が豊かだ。

 湯葉の吸い物、里芋の煮ころがし、焼き魚少し。胃に優しい味噌の香りが、戦の疲れをほどいていく。

「はい、湯浴みも早い者勝ち!」

 八千代が宣言すると、さくらがすっと立つ。

「勝負はしません。わたしは任務です」

「任務って何!?」

「姫さまが湯に入る前に、湯の温度を調える」

「ブラック……!」

 せつなが小声で続ける。

「姫さまの湯は、温度が一分違うと“斬首”です」

「斬首はせぬわ!」

「……“気分で給料ゼロ”はあります」

「ある」

「あるんかい!」

 笑い声が廊下に流れ、診療所の夜がようやく人間の夜になる。

 ――しかし、奥の奥。

 薬房と寝台のある小部屋だけは、まだ静かだった。

 寝台に横たわる尼僧。

 朝、橋で倒れていた女だ。意識は戻り、呼吸も落ち着いている。

 ただ、身体はまだ弱い。

 重い月のもの――血を失う痛みと、冷えと、疲れが、骨に染みている。

 お市様は、膳を小さく分け、粥を匙で掬って口元へ運んでいた。

 自ら作った滋養の薬を、湯で割り、少しずつ飲ませる。

 薬の香りは強いが、苦味の角は丸い。姫の手で調合された“飲める苦さ”だ。

「……ほれ。ひと匙」

「…………」

「口を開けぬなら、口を開ける訓練からじゃ」

「……戦の訓練か」

 尼が小さく言い、視線だけでお市様を刺した。

 お市様は平然と返す。

「医は、戦じゃ。負ければ死ぬ。勝てば生きる」

「……怖い女だな」

「誉め言葉として受け取る」

 尼は、笑いそうで笑わない。

 だが、その頬に、少しだけ血色が戻っていた。

 ――肌は、雪のように白い。

 それが今は乾いて、荒れて、かさついている。

 それでも、骨格、目、唇の形。

 「美人」の枠に収まらない美貌がある。

 荒れてなお、圧がある。

 そして、手の平。

 朝に見た刀たこ、弓たこ。

 尼僧のものではない。

 お市様は匙を置き、薬房から小さな壺を持ってきた。

「これを塗れ。椿油に、蜂蜜と、薬草を混ぜた」

「化粧か」

「皮膚は臓の鏡じゃ。治療じゃ」

「……言い訳が上手い」

「わらわは世界一美しいからの。言い訳も美しい」

 尼が、ふっと鼻で笑った。

 笑った瞬間、空気が少し柔らかくなる。

 お市様はその隙を逃さない。

「尼よ。名を言え」

「……名などない」

「ある」

「ない」

「ある。あるから、今日ここまで来た。名も持たぬ者が、ここまで歩けるか」

「…………」

 尼は黙る。

 黙り方が、ただの意地ではない。

 “答えを隠す訓練をしてきた者”の沈黙だ。

 お市様は責めず、話を変える。

「どこから来た」

「……旅だ」

「旅の尼が、手にたこを作るか?」

「……祈りでできた」

「祈りでできるのは、豆ではなく信心じゃ」

「お前、尼を敵に回すぞ」

「尼を敵に回すほど暇ではない。天下取りで忙しい」

 尼の目が、わずかに揺れる。

 天下取り――その言葉に反応した。

「……織田の姫か」

「うむ」

「噂は聞く。“狂犬”」

「聞くな。見るのじゃ。ほれ、粥」

「……話が飛ぶ」

「腹が減っては戦はできぬ」

 その時、廊下から足音。

 戸が軽く叩かれた。

「姫さま。藤吉郎でございます」

「入れ」

 障子が開き、木下藤吉郎が頭を下げて入ってきた。

 手には、相変わらず紙の束。朱印。地図。

 ――仕事が歩いてくる男だ。

「熱田の本日の売上と、薬草の仕入れ、あと火縄銃訓練の報告を……」

「置け」

「はい」

 藤吉郎はふと寝台の尼に目を留めた。

 一瞬、顔が固まる。

 だが次の瞬間、何事もなかったように、目だけが働きだす。

(……尼、だと? だが、目が武将の目や。

 しかも、えらい上物……いや、姫さま並み――

 いや、姫さまが世界一やけど! 世界一の次ぐらい……!)

 藤吉郎は、頭の中で条件反射のように“価値”を数え始める。

 人は資源。情報は武器。縁は金。

 この尼は――武の匂いと、家の匂いがする。

(家出? 逃亡? 追っ手?

 月のものが重いのは疲れと冷え、だが“追われる疲れ”や。

 姫さまが拾ったということは、偶然じゃない。

 偶然に見える必然――姫さまの得意技や)

 藤吉郎は丁寧に言った。

「……姫さま、こちらの尼さまは?」

「拾った」

「拾った……(拾う言うな拾う言うな)……ええ、はい。拾った……」

 藤吉郎が取り繕うと、尼が小さく笑った。

 お市様は、藤吉郎の視線を見て、わざと薄く笑う。

「藤吉郎。そなた、今、値踏みしたな?」

「してませ――」

「しておる」

「……しておりました!」

「よい。値踏みは大事じゃ。天下は算盤で取る」

 尼が、眉をひそめる。

「……下品だな」

「上品に負けると、首が飛ぶ」

「……それは、そうだ」

 お市様は尼の前に、湯を置く。

「飲め。身体を温めよ。冷えは、女を折る」

「……女を、知った口をきく」

「わらわは女じゃ。世界一美しい女じゃ」

「そこ、毎回言うのか」

「言う。言わぬと世界一が揺らぐ」

「揺らがないだろ……」

 尼が呟いて、目を逸らす。

 逸らし方が、妙に“照れ”に近い。

 お市様は声を柔らかくした。

「尼よ。ここは逃げ場じゃ。今は、追っ手のことは考えるな」

「……追っ手などいない」

「いる」

「……いない」

「いる。いないなら、その目の奥の焦りは何じゃ」

「…………」

 沈黙。

 藤吉郎が息を止める。

 この沈黙は、扉が開く沈黙だと分かるからだ。

 尼は、ゆっくりと言った。

「……名を言えば、面倒が増える」

「面倒は、銭と兵で潰す」

「……お前、怖い女だ」

「二回目じゃ。そろそろ“好き”と言え」

「言わん」

 尼の唇が震える。

 怒りではなく、何かを堪える震えだ。

「……わらわは……長尾景虎」

 尼は、吐き捨てるように言った。

「……女だ。二十五。

 家を出た。……それだけだ」

 藤吉郎の背筋が、ぞくりと立った。

(長尾――越後!?

 景虎――まさか……いや、女や言うた。

 ……化け物級の“駒”が来たぞ、姫さま……!)

 お市様は、驚かない。

 驚かないからこそ、尼の目が揺れる。

「……やはり、長尾か」

「知っていたのか」

「勘じゃ。手のたこ、背の立ち方、目。

 そして、天下の匂い」

「……天下の匂い?」

「天下を狙う者は、同じ匂いを持つ」

 お市様は、静かに言う。

「景虎。ここにおれ。

 逃げたいなら逃げろ。だが、その前に身体を治せ。

 月のものが治まるまで、鍛錬も戦も禁止じゃ」

「……命令するな」

「命令する。医師の命令は絶対じゃ。

 従えぬなら――死ぬ」

「……っ」

「死にたいのか」

「……死にたくない」

「なら、粥」

「……粥かよ」

「粥じゃ」

 景虎が匙を取る。

 震える手で、少しだけ食べる。

 その様子を見て、お市様はふっと笑った。

「よい子じゃ」

「……殺すぞ」

「殺すなら、治してからにせよ」

「理屈が……」

「理屈は勝つ。戦も医も」

 藤吉郎は、そっと一歩引き、頭の中で盤面を広げた。

 越後の長尾。女。家出。

 これは単なる“救助”ではない。

 姫様の“狼の群れ”に、新しい牙が増える――。

(姫さまは、たぶん“武”だけを欲しがってない。

 景虎の“家”と“地”と“名”――未来のカードや。

 けど今は、まず身体を治す。

 姫さまは、いちばん怖い順番を知ってる)

 お市様が藤吉郎へ目を向ける。

「藤吉郎」

「はっ」

「この者のことは、口外無用」

「承知。わたくしの喉は朱印で封じます」

「封じるな。斬るぞ」

「はい!」

 景虎が、ぽつりと問う。

「……お前は、何を狙っている」

 お市様は迷わず答えた。

「家臣団と兵団の命を預かり、守り、増やし、勝つ。

 その先に、天下」

「……女が天下を?」

「女でも取る」

「……」

「景虎。そなたも、女じゃ。

 女が武を持つことを、恥じるな。

 恥じるなら――わらわが、世界一美しく正してやる」

「最後、要るか?」

「要る」

 景虎は、湯を飲み、粥をもう一匙。

 目の奥の硬さが、ほんの少しだけ緩んだ。

 夜が更ける。

 奥座敷では八千代たちの笑い声が遠くなり、湯浴みの湯気が消える。

 診療所は、眠りへ入る。

 その眠りの前に――

 越後の“景虎”という名が、熱田の小さな部屋に落ちた。

 まるで、火種のように。

◉狂犬記(祐筆・桃)

天文二十三年 二月三日 夕 熱田にて

 診療が終わり、皆で夕餉、湯浴み、就寝――のはずが、奥の小部屋だけは別の戦であった。

 朝に倒れた尼僧が、実は長尾景虎様。女二十五。越後の名。

 口にするだけで風向きが変わる名である。

 姫様は驚かない。驚かないから、相手が揺れる。

 優しさも、厳しさも、全部“順番”がある。

 まず生かす。次に名を聞く。最後に――群れにする。

 藤吉郎殿の目が、盤面を広げる目になっていた。

 あの方は、姫様の意図を、いつも“知恵”へ変える。怖いほどに。

 景虎様は、姫様に反発しながら、粥を食べた。

 その姿が、なぜか幼く見えた。

 天下を狙う者は、皆、孤独なのだろう。

 私は筆を置かない。

 今日の熱田は、ただの診療の日ではない。

 狼の群れに、新しい牙が来た日だ。

――祐筆 桃

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ