第91話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 尼の来訪者(夕)
天文二十三年 二月三日 酉刻(夕)
場所:熱田・狂犬診療所(奥座敷/薬房)
本日の診療、終了――。
戸を閉めた瞬間、空気がほどけた。
朝から晩まで、喉、腹、傷、火傷、咳、そして「それ、ほんまに病か?」という愚痴まで。
熱田は参詣客が絶えず、港の人間は怪我も多い。戦のない日でも、診療所は戦場だ。
「……今日も、戦並みに忙しかったわ……」
八千代が膝を抱え、机に突っ伏す。
さくらは黙々と器具を拭き、あやめは湯を張り、せつなは薬包の数を数えている。
「姫さま、“休み”って何でしたっけ?」
八千代が目だけ上げる。
「わらわが寝る時」
「それ、条件に書いてありましたね……(遠い目)」
「ゆえに、今から寝る」
「今から!? 夕餉は!?」
「夕餉を食べてから寝る」
「順番は守るんですね!」
「基本はな」
奥の部屋では、皆で夕餉の支度が始まっていた。
今日の膳は質素――と言い張りつつ、熱田は食材が豊かだ。
湯葉の吸い物、里芋の煮ころがし、焼き魚少し。胃に優しい味噌の香りが、戦の疲れをほどいていく。
「はい、湯浴みも早い者勝ち!」
八千代が宣言すると、さくらがすっと立つ。
「勝負はしません。わたしは任務です」
「任務って何!?」
「姫さまが湯に入る前に、湯の温度を調える」
「ブラック……!」
せつなが小声で続ける。
「姫さまの湯は、温度が一分違うと“斬首”です」
「斬首はせぬわ!」
「……“気分で給料ゼロ”はあります」
「ある」
「あるんかい!」
笑い声が廊下に流れ、診療所の夜がようやく人間の夜になる。
――しかし、奥の奥。
薬房と寝台のある小部屋だけは、まだ静かだった。
寝台に横たわる尼僧。
朝、橋で倒れていた女だ。意識は戻り、呼吸も落ち着いている。
ただ、身体はまだ弱い。
重い月のもの――血を失う痛みと、冷えと、疲れが、骨に染みている。
お市様は、膳を小さく分け、粥を匙で掬って口元へ運んでいた。
自ら作った滋養の薬を、湯で割り、少しずつ飲ませる。
薬の香りは強いが、苦味の角は丸い。姫の手で調合された“飲める苦さ”だ。
「……ほれ。ひと匙」
「…………」
「口を開けぬなら、口を開ける訓練からじゃ」
「……戦の訓練か」
尼が小さく言い、視線だけでお市様を刺した。
お市様は平然と返す。
「医は、戦じゃ。負ければ死ぬ。勝てば生きる」
「……怖い女だな」
「誉め言葉として受け取る」
尼は、笑いそうで笑わない。
だが、その頬に、少しだけ血色が戻っていた。
――肌は、雪のように白い。
それが今は乾いて、荒れて、かさついている。
それでも、骨格、目、唇の形。
「美人」の枠に収まらない美貌がある。
荒れてなお、圧がある。
そして、手の平。
朝に見た刀たこ、弓たこ。
尼僧のものではない。
お市様は匙を置き、薬房から小さな壺を持ってきた。
「これを塗れ。椿油に、蜂蜜と、薬草を混ぜた」
「化粧か」
「皮膚は臓の鏡じゃ。治療じゃ」
「……言い訳が上手い」
「わらわは世界一美しいからの。言い訳も美しい」
尼が、ふっと鼻で笑った。
笑った瞬間、空気が少し柔らかくなる。
お市様はその隙を逃さない。
「尼よ。名を言え」
「……名などない」
「ある」
「ない」
「ある。あるから、今日ここまで来た。名も持たぬ者が、ここまで歩けるか」
「…………」
尼は黙る。
黙り方が、ただの意地ではない。
“答えを隠す訓練をしてきた者”の沈黙だ。
お市様は責めず、話を変える。
「どこから来た」
「……旅だ」
「旅の尼が、手にたこを作るか?」
「……祈りでできた」
「祈りでできるのは、豆ではなく信心じゃ」
「お前、尼を敵に回すぞ」
「尼を敵に回すほど暇ではない。天下取りで忙しい」
尼の目が、わずかに揺れる。
天下取り――その言葉に反応した。
「……織田の姫か」
「うむ」
「噂は聞く。“狂犬”」
「聞くな。見るのじゃ。ほれ、粥」
「……話が飛ぶ」
「腹が減っては戦はできぬ」
その時、廊下から足音。
戸が軽く叩かれた。
「姫さま。藤吉郎でございます」
「入れ」
障子が開き、木下藤吉郎が頭を下げて入ってきた。
手には、相変わらず紙の束。朱印。地図。
――仕事が歩いてくる男だ。
「熱田の本日の売上と、薬草の仕入れ、あと火縄銃訓練の報告を……」
「置け」
「はい」
藤吉郎はふと寝台の尼に目を留めた。
一瞬、顔が固まる。
だが次の瞬間、何事もなかったように、目だけが働きだす。
(……尼、だと? だが、目が武将の目や。
しかも、えらい上物……いや、姫さま並み――
いや、姫さまが世界一やけど! 世界一の次ぐらい……!)
藤吉郎は、頭の中で条件反射のように“価値”を数え始める。
人は資源。情報は武器。縁は金。
この尼は――武の匂いと、家の匂いがする。
(家出? 逃亡? 追っ手?
月のものが重いのは疲れと冷え、だが“追われる疲れ”や。
姫さまが拾ったということは、偶然じゃない。
偶然に見える必然――姫さまの得意技や)
藤吉郎は丁寧に言った。
「……姫さま、こちらの尼さまは?」
「拾った」
「拾った……(拾う言うな拾う言うな)……ええ、はい。拾った……」
藤吉郎が取り繕うと、尼が小さく笑った。
お市様は、藤吉郎の視線を見て、わざと薄く笑う。
「藤吉郎。そなた、今、値踏みしたな?」
「してませ――」
「しておる」
「……しておりました!」
「よい。値踏みは大事じゃ。天下は算盤で取る」
尼が、眉をひそめる。
「……下品だな」
「上品に負けると、首が飛ぶ」
「……それは、そうだ」
お市様は尼の前に、湯を置く。
「飲め。身体を温めよ。冷えは、女を折る」
「……女を、知った口をきく」
「わらわは女じゃ。世界一美しい女じゃ」
「そこ、毎回言うのか」
「言う。言わぬと世界一が揺らぐ」
「揺らがないだろ……」
尼が呟いて、目を逸らす。
逸らし方が、妙に“照れ”に近い。
お市様は声を柔らかくした。
「尼よ。ここは逃げ場じゃ。今は、追っ手のことは考えるな」
「……追っ手などいない」
「いる」
「……いない」
「いる。いないなら、その目の奥の焦りは何じゃ」
「…………」
沈黙。
藤吉郎が息を止める。
この沈黙は、扉が開く沈黙だと分かるからだ。
尼は、ゆっくりと言った。
「……名を言えば、面倒が増える」
「面倒は、銭と兵で潰す」
「……お前、怖い女だ」
「二回目じゃ。そろそろ“好き”と言え」
「言わん」
尼の唇が震える。
怒りではなく、何かを堪える震えだ。
「……わらわは……長尾景虎」
尼は、吐き捨てるように言った。
「……女だ。二十五。
家を出た。……それだけだ」
藤吉郎の背筋が、ぞくりと立った。
(長尾――越後!?
景虎――まさか……いや、女や言うた。
……化け物級の“駒”が来たぞ、姫さま……!)
お市様は、驚かない。
驚かないからこそ、尼の目が揺れる。
「……やはり、長尾か」
「知っていたのか」
「勘じゃ。手のたこ、背の立ち方、目。
そして、天下の匂い」
「……天下の匂い?」
「天下を狙う者は、同じ匂いを持つ」
お市様は、静かに言う。
「景虎。ここにおれ。
逃げたいなら逃げろ。だが、その前に身体を治せ。
月のものが治まるまで、鍛錬も戦も禁止じゃ」
「……命令するな」
「命令する。医師の命令は絶対じゃ。
従えぬなら――死ぬ」
「……っ」
「死にたいのか」
「……死にたくない」
「なら、粥」
「……粥かよ」
「粥じゃ」
景虎が匙を取る。
震える手で、少しだけ食べる。
その様子を見て、お市様はふっと笑った。
「よい子じゃ」
「……殺すぞ」
「殺すなら、治してからにせよ」
「理屈が……」
「理屈は勝つ。戦も医も」
藤吉郎は、そっと一歩引き、頭の中で盤面を広げた。
越後の長尾。女。家出。
これは単なる“救助”ではない。
姫様の“狼の群れ”に、新しい牙が増える――。
(姫さまは、たぶん“武”だけを欲しがってない。
景虎の“家”と“地”と“名”――未来のカードや。
けど今は、まず身体を治す。
姫さまは、いちばん怖い順番を知ってる)
お市様が藤吉郎へ目を向ける。
「藤吉郎」
「はっ」
「この者のことは、口外無用」
「承知。わたくしの喉は朱印で封じます」
「封じるな。斬るぞ」
「はい!」
景虎が、ぽつりと問う。
「……お前は、何を狙っている」
お市様は迷わず答えた。
「家臣団と兵団の命を預かり、守り、増やし、勝つ。
その先に、天下」
「……女が天下を?」
「女でも取る」
「……」
「景虎。そなたも、女じゃ。
女が武を持つことを、恥じるな。
恥じるなら――わらわが、世界一美しく正してやる」
「最後、要るか?」
「要る」
景虎は、湯を飲み、粥をもう一匙。
目の奥の硬さが、ほんの少しだけ緩んだ。
夜が更ける。
奥座敷では八千代たちの笑い声が遠くなり、湯浴みの湯気が消える。
診療所は、眠りへ入る。
その眠りの前に――
越後の“景虎”という名が、熱田の小さな部屋に落ちた。
まるで、火種のように。
◉狂犬記(祐筆・桃)
天文二十三年 二月三日 夕 熱田にて
診療が終わり、皆で夕餉、湯浴み、就寝――のはずが、奥の小部屋だけは別の戦であった。
朝に倒れた尼僧が、実は長尾景虎様。女二十五。越後の名。
口にするだけで風向きが変わる名である。
姫様は驚かない。驚かないから、相手が揺れる。
優しさも、厳しさも、全部“順番”がある。
まず生かす。次に名を聞く。最後に――群れにする。
藤吉郎殿の目が、盤面を広げる目になっていた。
あの方は、姫様の意図を、いつも“知恵”へ変える。怖いほどに。
景虎様は、姫様に反発しながら、粥を食べた。
その姿が、なぜか幼く見えた。
天下を狙う者は、皆、孤独なのだろう。
私は筆を置かない。
今日の熱田は、ただの診療の日ではない。
狼の群れに、新しい牙が来た日だ。
――祐筆 桃




