第90話 狂犬お市様の狂犬式 診療所 尼の来訪者
天文二十三年(二月三日) 卯刻(朝)
場所:熱田・狂犬診療所/熱田の橋
熱田の朝は、潮と味噌と薬草の匂いが混ざる。
門前町は正月気分を引きずりながらも、春へ向けて足が速い。参詣客の草履の音、魚河岸の声、鍛冶場の槌。尾張は今日も忙しい。
狂犬診療所――。
表の札には、例の達筆すぎて雑な朱印付き張り紙が貼ってある。
「診療 無料 薬 無料
ただし、わらわの指示は絶対
世界一美しい故 ゆるせ
――狂犬 お市(朱印)」
「……姫さま、最後の一行、要ります?」
八千代が、薬研を回しながら汗を拭く。
「要る。あれがないと、診療所の格が落ちる」
「格って何ですか格って……」
横では、さくら・あやめ・せつなが流れるように働いている。
さくらは薬包の紐を結び、あやめは湯を沸かし、せつなは患者の名と症状を短冊に書いて束ねる。忍びの手際が、医療に転用されると恐ろしく速い。
「次、喉の痛みの者」
「は、はい……」
「舌を出せ。……煤じゃ。炭の粉を吸い込みすぎ。鍛冶場の者か」
「へ、へぇ……」
「喋るな。喋ると咳が増える。三日間、湯気を吸え。酒は一合まで」
「……え、酒は?」
「一合までだ。増やすなら、咳を増やす」
「うぅ……」
「そして、眠れ。眠れぬなら――」
お市様は鈴を鳴らす代わりに指を鳴らした。
「せつな、眠れる薬」
「はっ、姫さま。眠りと胃薬、どっちです?」
「両方じゃ」
「ブラックです!」
「誉め言葉として受け取る」
診療所の外では、今日が火縄銃訓練の日だと分かる気配がある。
火薬の匂いはまだ風に乗っていないが、兵の掛け声が遠くで跳ねる。
――本来なら、前田慶次はそこにいるはずだった。
だが慶次は、何を思ったのか。
「利家ぇ! 今日の訓練、任せたぁ!」
「は? 聞いてないし! お前が副部隊長やろが!」
「俺、今日は“副”やなくて“自由”の方でいく!」
「自由って便利な言葉やな!?」
利家の悲鳴を背に、慶次は愛馬・松風で熱田へ向かった。
派手な羽織に派手な帯、髪もきっちり。
町人の視線を一身に浴びて、本人はご機嫌だ。
「熱田はええなぁ。飯が旨い、女が強い、風が甘い」
「風が甘いって何や……」と、通りすがりの魚売りが突っ込む。
「甘いんや。味噌の匂いが混ざってる」
「それ鼻やん!」
そうやって橋へ差しかかった時だ。
橋のたもと、松の影に黒い影がうずくまっていた。
尼僧――のはずだ。頭巾、衣、数珠。
だが、背中の線が妙に真っ直ぐで、ただの旅の尼には見えない。
慶次は馬を止め、声を落とした。
派手武者でも、こういう時は空気が変わる。
「尼様よ。身体の具合が悪いのかい?」
尼は顔を上げる。
やつれてはいるが、骨格が整っている。目が鋭い。
そして――息が浅い。
「熱田には診療所がある。連れていこうかね?」
「……うっ……わらわに、かまわ――」
言い切る前に、尼の身体が崩れた。
倒れる。だが意識はある。瞳が慶次を捉えたままだ。
「……呼吸が荒いな」
慶次が抱え起こすと、衣の下腹が濡れている。
血――ただし、刃傷の匂いではない。
重い月のものだと、慶次にも分かった。戦場で見た傷とは違う“赤”。
「……尼様、これは……」
尼は唇を噛んだ。
恥と痛みと悔しさが混ざった顔。だが、気丈に睨む。
「……見るな」
「見とらん。生きろ」
その瞬間、慶次は尼の手を見た。
手の平――硬い。
刀たこ。弓たこ。どちらとも取れる、積み重ねた硬さ。
(尼僧の手ぇ、してへんな)
しかも、指の節が整っている。
武を知る手。
ただの旅の女ではない。
「……尼様、強いな」
「……黙れ」
「黙る。だが運ぶ」
慶次は躊躇いを捨てた。
御姫様抱っこで尼を抱え上げ、松風にまたがる。
「松風、飛ばすぞ。狂犬様の診療所や!」
町人が道を開ける。
熱田は人が多いが、人情も早い。
誰かが先回りして診療所の戸を叩いた。
「姫さま! 急患だぁ!」
診療所の中、空気が一段冷える。
お市様は診察の手を止めずに顔だけ上げた。
「寝台を空けよ。八千代、脈を取れ。
さくら、布と湯。あやめ、薬棚。
せつな、筆を置け。今は命が先じゃ」
「はいっ!」
返事が四つ重なる。
慶次が尼を寝台へ下ろすと、尼の顔が赤くなった。真っ赤だ。
そして、慶次の着物を――ぎゅっと握りしめた。
「お、おい……」
「……落ちるな……」
「落ちへんわ。俺の着物が先に破れる」
「破れるな……」
「そこ心配するとこ?」
八千代が脈を見て、即座に報告する。
「姫さま、脈が速いです。冷えが強い。……出血、多い」
「うむ。冷えと疲れ、恐れ、そして――無理をした」
お市様は尼の目をまっすぐ見た。
「名は後でよい。今は生きろ。恥は不要じゃ」
尼は目を逸らそうとしたが、逸らせない。
お市様の目が、怖いほど落ち着いているからだ。
「……わらわは、尼である」
「尼であろうが、武者であろうが、女であることは変わらぬ。
血が出るのは、生きている証。止めるのは、わらわの仕事じゃ」
さくらが布を運びながら小声で言う。
「姫さま、慶次殿、まだ居ます」
「居るな。派手すぎて目障りじゃ」
「聞こえてますよ姫さま!」
「聞こえるように言っておる」
お市様は慶次を見た。
「慶次、外で待て。手は借りた。礼は後で言う」
「礼? 俺、今、最高に良いことした気が――」
「良いことをした者ほど、黙れ」
「理不尽!」
「誉め言葉じゃ」
「それ、姫さまのブラック理論!」
慶次はぶつぶつ言いながら戸の外へ。
だが最後に、尼が慶次の着物を離さない。
指が白くなるほど握っている。
「……離せぬのか」
お市様が言うと、尼は震えながら首を振った。
「……怖い」
「怖いなら、握れ。だが次は、八千代の手を握れ。
慶次の着物は高い。破れる」
「……姫さま、そこですか」
八千代がツッコミながら、尼の手をそっと受け取った。
尼の指が、ゆっくりと八千代へ移る。
お市様は布を当て、湯で腹を温め、薬を薄く確実に使う。
戦の采配のように、焦らず、無駄なく。
せつなが息を呑む。
(医も、武も、同じ“型”だ……)
尼の呼吸が落ち着いていく。
目の焦点が戻り、額の汗が引く。
そして――お市様が、ふっと笑った。
「……手の平のたこ。弓か、刀か。
尼よ、そなた、何者じゃ?」
尼は答えない。
だが、答えないこと自体が答えだった。
診療所の外で、松風が鼻を鳴らす。
熱田の潮風が暖簾を揺らし、町の喧噪が遠くに戻る。
――その日の夕方。
火縄銃訓練を終えた利家が、汗だくで熱田に怒鳴り込んできた。
「慶次ぃぃ!! お前ぇぇ!!」
「お、利家。今日も元気やな」
「元気ちゃう! しんどい! 俺、百回ぐらい火縄噛んだぞ!」
「噛むな」
「噛むわ!」
その声を、診療所の奥で尼が聞いた。
わずかに、口元が緩む。
笑ったのか、泣きそうなのか――まだ分からない。
お市様は、机に朱印を置き、短く言った。
「――生きたな。なら、次は話を聞く」
その“次”が、熱田の未来を少し変えることを、まだ誰も知らない。
狂犬記(祐筆・桃)
天文二十三年 二月三日 熱田にて 感想と日記
今日、尼が来た。
月のものが重く、倒れた。恥と痛みと、何か別の恐れが混ざっていた。
姫様は“女の血”を、戦の血と同じ重さで扱った。
丁寧で、冷静で、そして容赦がないほど優しかった。
慶次殿は派手だが、命を見つける目がある。
尼を抱えて走る背中が、今日は少しだけ武将に見えた。
尼の手の平には、たこ。
あれは旅の尼の手ではない。
弓か、刀か――あるいは、両方か。
藤吉郎殿はきっと、姫様の意図を組み立て始めている。
診療所に現れた“武の手”の尼。
偶然に見えて、偶然ではない。
姫様の年は、静かに動きながら、突然牙を剥く。
私は筆を止めぬ。
狂犬の歩いたところに、必ず理由があるからだ。
――祐筆 桃




