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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第88話 狂犬お市様の狂犬式お正月 姫様と三味線

天文二十三年(正月朔日) 昼(※西暦1554年1月1日)

場所:鳴海城 評定の間

 正月の鳴海城は、戦の匂いではなく――塩と出汁と酒の匂いがした。

 白飯。鯛の塩焼。里芋の煮っころがし。黒豆に栗金時。玉子焼きに湯葉の吸い物。鰤の刺身、鮑の煮付け、栄螺のつぼ焼き。

 さらに熱燗が三本。女中が運ぶたび、湯気が立ち、家臣団の目がとろん、とろん、と落ちていく。

「……正月に、こんだけ出されたら、もう戦できん……」

 前田利家が箸を握ったまま、魂が半分抜けた声を出す。

「利家、戦はせん。今日は“胃袋”の修行や」

 まつがドヤ顔で言う。

「なんやその修行、寝るやつやん」

「寝るのも修行や。ほら、湯葉吸うて目ぇ覚ませ」

 藤吉郎は腹が幸せで、顔も幸せで、しかし心だけが忙しい。

(姫様が“戦はしない”と言った正月――逆に怖い。嵐の前の静けさってやつだ)

 その中心に、狂犬お市様が座している。

 いつもなら、鎧より硬い空気をまとっている姫が、今日は薄い小袖姿で――ただ美しい。世界一美しい。勝家が推し活する理由が、嫌でも分かる。

 だが。

 姫様は、どこか、うわの空だった。

 膳を前にしても、盃を前にしても、視線だけが遠い。

 ふ、と笑ったかと思えば、次の瞬間、舌打ちが落ちる。

「……いま、姫様、舌打ちしました?」

 同心のひとりが小声で言った。

「した」

 岡部元信が即答した。

「したな」

 水野信元も、唇を引き結んだまま頷いた。

「聞かなかったことにしよ、な?」

 藤吉郎が笑って誤魔化しながら、背中の汗をぬぐう。

(正月から胃が痛い。狂犬家臣団、通常運転である)

 その時、姫様が三味線を抱えた。

 評定の間が、ぴたり、と静まる。

 この三味線は、城下の宴で見せるものではない。

 狂犬家臣団と狂犬兵団――内側の者だけが知る、姫様の“もう一つの顔”。

 爪が弦を鳴らす。

 音はやさしく、だが芯がある。

 姫様の声が乗った瞬間、場の温度が変わった。

 切々と歌う。

 戦の勝ち鬨ではない。

 人を抱きしめる歌だ。

 家臣団が自然に口ずさむ。

「春をのぞむ……」

「夏のおわりに……」

「秋の月夜に……」

「冬の雪……」

 歌の中に、潮の匂いが混じる。熱田の港、鳴海の田、知多の風。

 尾張は土の国だが、伊勢湾は銭の潮でもある――姫様がいつも言う“黒潮”が、いまは優しい潮として流れている気がした。

 藤吉郎は息を止めた。

(姫様は、家臣を“兵”としてではなく――家族として数えている)

 不意に、曲が変わった。

 姫様が顔を上げて言う。

「……新曲じゃ」

 まず一曲目――『故郷』。

 松平・今川出身の同心へ向けた歌だった。

 駿河の松、遠くの富士、帰れぬ里。

 同心たちは笑えず、盃の縁を強く握った。

 二曲目――『紫陽花が咲くまで』。

 名は出ない。だが誰の歌か、全員が分かる。

 雨に耐えて咲く花。人質の少年。母の手紙。

 おだいが、耐えきれず涙を落とした。

 三曲目――『ナデシコ』。

 おだい――母の歌。

 武家の妻の強さと、母の祈り。

 水野信元は、元殿様の顔を保てず、目を伏せた。

 岡部元信は、火付盗賊改らしく、泣きそうな顔を“事件現場を見た顔”で誤魔化した。

「……姫様、ずるいわ」

 寧々が小さく言った。

「泣かせてから、動かす気やろ」

「寧々、声がでかい」

「でかないわ、利家より小さいわ」

 どんちゃわさわぎの名残が、ほんの少し戻った――その瞬間。

 チリン。

 鈴の音が、刃のように澄んだ。

 女中が、全員の前に水杯を置く。

 酒ではない。水だ。

 正月の水杯は、誓いの作法。尾張でも古い家ほどやる。――“口にするのは水、背負うのは命”。

 姫様が立つ。

 水杯に水をなみなみと注ぎ、言い放った。

「本日、今をもち――狂犬家臣団、狂犬兵団の命を、わらわが預かる。命をもって聞け!」

 空気が凍り、酔いが抜け、汗だけが残った。

「作戦名――第一号 紫陽花奪還作戦

 目標――今川館近傍、松平元康。

 敵――今川義元。

 期日――天文二十三年 八月十三日」

 藤吉郎の胸が鳴る。

(正月に、八月の戦を“決め打ち”する。姫様は、年始から年末を持っていく)

「久能山の砂浜へ――安宅船十艘、小早舟二十艘。

 兵団――愛部二百、犬かき衆四百。

 武将配置。先鋒わらわ。右翼木下藤吉郎。左翼前田利家。遊撃前田慶次。

 安宅船は九鬼水軍。小早舟は川浪衆」

 利家が思わず口を挟む。

「……正月に言う話ちゃうやろ……」

「正月に言うのじゃ。腹が満ちたら、心が動く。心が動いたら、足が動く。よいか、利家。算盤も動かせ」

「まつ、聞いたか?」

「うちに振るなや!」

 姫様は容赦なく続ける。

「十三日夜、久能山沖に停泊。

 十四日早朝までに完全上陸。

 十四日昼、今川館火災発生。人流に乗り、元康奪還。

 十四日夕、安宅船にて撤収。

 今川館、大原雪斎の寺、清水の別邸――火災」

 同心の顔が青くなる。

 岡部が低く唸る。

「……火事三つ。わし、過労死しますな」

「死ぬな。働け。火付盗賊改の本領発揮じゃ」

「本領、発揮しとうない」

 姫様の目が、笑っていない笑みになる。

「本作戦は極秘指定。漏らした者は、わらわの名で斬首。

 休暇が終わる五日以降――訓練と合議を、激烈苛烈に詰める」

 そして、最後の刃。

「なお、第一号は元康奪還で終わらぬ。

 第二号 刈谷城外野戦――今川義元釣り出し作戦の初動なり。

 厳に口外なく慎め。

 本年中に、義元を生け捕りにする。

 岡部――義元の髪を剃ってやれ。梅岳承芳に戻す」

 岡部が固まった。

「……剃るのは、得意ですが……相手が“海道一の弓取り”は、話が違います」

「違わぬ。剃るのじゃ」

「承りました……(胃が痛い)」

 姫様は水杯を掲げ、最後に言った。

「みなのもの――わらわに命を預けよ!」

 次の瞬間。

 水杯が、床に叩きつけられた。

 澄んだ音が割れ、水が飛び、畳が濡れる。

 正月の宴は終わっていないのに――戦の始まりだけが、確定した。

 藤吉郎は理解した。

 姫様は、歌で家臣団を泣かせ、

 水杯で命を預けさせ、

 杯を割って逃げ道を消した。

(狂犬は――なにを考えてる?)

 考えているのは、きっと“勝ち”ではない。

 家臣団の家族の未来。

 そのために、敵を生け捕りにしてでも、戦を終わらせる算段だ。

 だからこそ、家臣団は――酔っても汗が止まらなかった。

狂犬記(祐筆・桃) 感想と日記

 天文二十三年 正月朔日。

 鳴海城の評定の間は、酒の匂いと涙の匂いで満ちた。姫様は、優しい歌を三つ歌い、全員の心を柔らかくしてから、水杯で硬く固めた。

 あれは、兵法である。音の兵法。愛の兵法。狂犬式である。

 私は思う。

 姫様は、家臣団家族を本当に愛している。だからこそ、守ると決めた時の目は、刃より冷たい。

 そして、恐ろしいのは――姫様が正しいことだ。

 守らねば、奪われる時代。負ければ、何も残らない。だから姫様は、勝つ。必ず勝つ。

 正月の畳は水で濡れた。

 しかし、私には分かる。

 あれは水ではない。

 ――今年、流れるものの予告だ。

 狂犬家臣団、年始からブラックである。

 でも、姫様の歌が優しい限り、私は筆を折れない。

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