表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

89/222

第87話 狂犬お市様の狂犬式お正月

西暦1554年1月1日(和暦:天文二十三年 正月朔日) 朝

場所:鳴海城 評定の間

 鳴海の朝は、海からの風が冷たい。

 けれど今日は正月だ。城下の空気は、いつもより少しだけ甘い――餅と味噌と、炭の匂いが混じっている。

 ……が。

 鳴海城の評定の間に集められた狂犬家臣団の空気は、甘くない。

 重い。硬い。胃が痛い。

(去年が“去年”やからな……)

 木下藤吉郎は正座のまま、背筋が痛くなるのを我慢した。

 年末三十一日まで――姫様は兵を鍛え上げていた。

 愛部二百、犬かき衆八百六十。

 訓練も修行も、鏑矢も、砂浜上陸も、攻城も、全部“遊び”みたいに笑ってやる。

 笑ってやるから、怖い。

 しかも今日は正月。

 普通なら皆、酒で顔がゆるむ。

 しかし――狂犬家臣団は、ゆるめない。

 去年の正月元旦、四城を撃破しているからだ。

「……今年も、朝から戦じゃったらどうする?」

 鳴海同心の一人が、小声で隣に言った。

「言うな。縁起でもない」

 岡部元信が、火付盗賊改役らしく目だけで制した。

 その隣で、前田利家が、まつの顔をちらっと盗み見て、唇だけ動かす。

「……酔えん」

「酔ったら、姫様に叩き起こされるからや」

 まつが即答。

「ほな、叩き起こされたら、酔いさめるな」

「算数より簡単な結論出すな」

 笑いが起きそうになって、起きない。

 皆の心臓が“次の号令”を待っている。

 そこへ、女中たちが静かに膳を運び込んだ。

 白御飯の湯気。

 鯛の塩焼き。里芋の煮ころがし。黒豆。栗きんとん。玉子焼き。湯葉の吸い物。

 鰤の刺身。鮑の煮つけ。栄螺の壺焼き。

 そして――熱燗が三本。

「……豪勢やな」

 水野信元が、思わず声に出した。

「常滑の塩が効いた鯛じゃぞ」

 おだいが言った。元姫様の顔で、ちゃんと家計簿の目をしている。

「塩はただではない。ありがたく食べよ。……食べて働け」

「正月から仕事の話が出るの、狂犬家臣団やな……」

 蜂須賀小六が苦笑する。

「せやけど、ここは尾張や。津島も熱田も、正月に商い止めたら負けや」

 九鬼嘉隆が頷いた。海の男の正月は、潮と帳簿の匂いがする。

 その時。

 奥の襖が開き――

 狂犬お市様が現れた。

 場の空気が一段冷える。

 いや、冷えるのではない。整う。

 背筋が勝手に伸びる。

 お市様は、晴れ着――いや、武装を思わせる凛とした装いで、ゆっくりと座についた。

 美しい。

 眩しい。

 “推し活”する柴田勝家の気持ちは分かる。分かるが、胃が痛い。

「……皆、よう集まった」

 声が静かに響く。

 藤吉郎の中で、鐘が鳴る。

(来るぞ。正月攻めの号令が……!)

 寧々が固唾をのむ。

 さくら・あやめ・せつなが、同時に背中の気配を消す。

 岡部と同心が、無意識に出口の位置を確認する。

 お市様が、にこりと笑った。

 その笑みが、余計に怖い。

「――今年は、正月から戦はせぬ」

 ……え?

 間が空いた。

 空きすぎて、湯葉の吸い物の湯気が一回揺れた。

「朱印状じゃ」

 お市様が、トン、と机に置く。

 朱印。

「五日、休め」

 ……えええ?

 最初に声が出たのは利家だった。

「……休み……五日……?」

 まつが利家の脇腹を肘で突く。

「声に出すな。夢が逃げる」

「夢ちゃうやろ!」

 藤吉郎は、頭が追いつかず、口だけ動いた。

「姫様……ほんまに……?」

「ほんまじゃ」

 お市様は当たり前のように言う。

 その瞬間、評定の間の空気が崩れた。

 崩れて、温かい方へ流れた。

「うおおお……」

「生きて正月迎えた……」

「今年、胃薬いらんかもしれん……」

 鳴海同心たちが、半分泣き笑いになり、岡部が咳払いして整えようとするが、整わない。

 整わないのが正月だ。

 お市様は、熱燗の徳利を手に取った。

「飲め。今日は許す」

「姫様、去年も“許す”言うて、翌朝叩き起こしましたよね」

 寧々が、笑いながら刺した。

「……あれは、去年じゃ」

「便利な言葉やな、去年」

 まつが肩をすくめる。

 お市様は、少しだけ目を細めた。

「人は休まねば潰れる。潰れたら稼げぬ。稼げねば兵も鍛えられぬ」

 言い方が狂犬式。正月でも理屈が銭勘定だ。

 藤吉郎は、その言葉の裏を必死に拾う。

(休ませる……だけやない)

(“来年”に向けた準備や)

(皆に休みを与えて、恩を刻む。体を回復させる。士気を上げる。しかも朱印状で“命令”にすることで、罪悪感なく休める……)

 そして――

(休んでる間に、姫様だけは何か仕込む)

 藤吉郎は確信して、背中が寒くなる。

(敵が寝てる間に修行し銭をもうける、や……)

 その時、ひょこっと千代が顔を出した。

 膳の鰤刺身を見て、目が丸くなる。

「……おさかな、きれい」

 八千代が慌てて小声でたしなめる。

「千代、声は小さく……」

「よい。千代、食べよ」

 お市様が優しく言った。

「子は宝じゃ。宝は腹いっぱいが正しい」

 千代がにこっと笑う。

 八千代の肩が、少しだけ落ちる。

 元武士の妻の緊張が、溶ける音がした。

「……ほな、乾杯やな」

 蜂須賀が徳利を持ち上げる。

「九鬼どの、海の酒の飲み方、教えたろか」

「いや、尾張の酒の飲み方を教えてくれ。ここの姫様、飲んでも美しさが増すのは反則だ」

「それ言うたら、胃が痛くなるやつや!」

 同心が突っ込んで、ようやく笑いが弾けた。

 藤吉郎も、ようやく肩を落とし、箸を取る。

 鯛の塩焼きに手を伸ばしながら、心の中で誓った。

(この五日で、皆を休ませる)

(けど、俺は――姫様の“次”を読む)

(休みの裏には、必ず獲物がある)

 お市様が、杯をぐいっと空けた。

「正月じゃ。無礼講――ただし」

 全員が身構える。

「――腹いっぱい食べて寝よ」

 全員が崩れ落ちた。

「それが一番むずいわ!」

 まつのツッコミが鳴海城に響き、正月の宴は、ようやく“正月”になった。

◉狂犬記(作者:祐筆・桃)

天文二十三年 正月朔日 晴れ

 今年の正月、姫様は戦をしないと朱印状を出された。五日の休み。私は、筆が震えた。

 狂犬家臣団は、皆よく働く。働きすぎて、働いていることを忘れる。姫様はそれを見抜いておられる。

 姫様は銭の話をされるが、根は情け深い。

 「休め」と命令するのは、休むことを罪だと思う者への救いである。

 千代が鰤刺身を見て「きれい」と言った。姫様が笑って「宝は腹いっぱいが正しい」と言われた。

 あの時、私は思った。姫様は、天下を取る前に、まず“人”を守る天下を作るのだと。

 ――ただし、姫様の休みは、姫様だけ休まぬ。

 あの瞳は、もう次の獲物を見ている。

 藤吉郎殿が、箸を持つ手だけ震えていたのが、少し面白かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ