第86話 狂犬お市様の狂犬式伊勢湾交易網
西暦1553年9月1日 朝
和暦:天文二十二年 九月一日 卯刻
場所
熱海・港
朝の港は、潮の匂いと掛け声で満ちていた。
安宅船が五艘、横一列に並ぶ。
船腹には、狂犬堂の印――小さな瓢箪。
積み荷は満載。
化粧品、薬、狂犬織、香、油、紙、反物。
行き先は堺。
卸先は、藤屋――狂犬堂暖簾分け、伊賀忍者商店。
「……これが、姫様の“商いの戦”か」
九鬼嘉隆は、港に立ち尽くしていた。
その視線の先に――
白い朝靄の中から、ひときわ目を引く姿が現れる。
狂犬お市様。
港の雑踏が、一瞬、静まった。
(――なんだ、これは)
美しい。
噂ではない。誇張でもない。
ただ、そこに立っているだけで、場の重力が変わる。
九鬼嘉隆は、息を飲んだ。
(……柴田権六勝家が、ああなるわけだ)
理解してしまった自分に、苦笑する。
「九鬼殿」
声をかけたのは、藤吉郎だった。
「本日が、伊勢湾交易の初日。
姫様は、水軍の顔を覚えに来られました」
お市様は、嘉隆に向かい、軽く頷く。
「九鬼。
今日から、伊勢湾は“働く海”じゃ。
怪我人は出すな、船は沈めるな、
銭と命、どちらも運べ」
短く、しかし重い言葉。
「はっ。
水軍として、全力を尽くします」
嘉隆は、思わず膝を折っていた。
寧々が、帳面を手に前へ出る。
「積み荷確認終わりました。
帰り荷は、堺にて――
火薬、火縄銃三百丁、
それと交易商品一式、確保予定です」
「うむ」
お市様は満足げに頷く。
「銃は熱田へ。
商品は、狂犬堂本店で捌く。
藤吉郎、帰りの潮、読めるか?」
「九鬼殿がおられますゆえ」
藤吉郎は、にやりと笑った。
帆が上がる。
太鼓が鳴る。
伊勢湾を渡くる、狂犬の潮が――
いま、動き出した。
◉狂犬記 作者・桃(感想)
ついに伊勢湾交易、実働開始。
九鬼さんの「理解してしまう」瞬間が書いてて楽しかった。
お市様は、もう“会った瞬間に人を落とす災害”。
桃の日記
交易が始まると、物語の歯車が音を立てる。
銭・銃・人・海。
戦う前に勝ってる姫って、やっぱり怖い。




