第85話 狂犬お市様の伊勢湾
西暦1553年8月16日 昼
和暦:天文二十二年 八月十六日
場所:伊勢志摩 九鬼水軍・九鬼嘉隆邸
伊勢の海は、強かった。
潮は速く、岩は黒く、船は重い。
木下藤吉郎は、砂を踏みしめながら九鬼の屋敷へ向かっていた。
この伊勢志摩――ここを押さえねば、姫様の描く「伊勢湾」は完成しない。
(蜂須賀小六は、もう落とした。
――残るは、ここ。水の覇者)
九鬼嘉隆。
海を知り、船を知り、血の匂いを知る男。
広間に通されると、嘉隆は胡坐をかき、海図を前にしていた。
「……尾張の藤吉郎、だと?」
「左様。狂犬家臣団、木下藤吉郎にございます」
名乗った瞬間、空気が変わる。
“狂犬”――その二文字は、すでに伊勢まで届いていた。
「で?
尾張の姫は、海を欲しがっておるのか」
藤吉郎は、笑わなかった。
頭を下げ、静かに言う。
「欲しがっておられるのは、“海”ではございませぬ。
潮の流れでございます」
嘉隆の眉が、わずかに動いた。
「姫様は、伊勢湾を一つの腹と考えておられます。
尾張・伊勢・志摩・堺・駿河――
銭と物と人が、止まらず巡る腹でございます」
藤吉郎は、持参した図を広げた。
雑だが、要点は的確だった。
「安宅船二十艘、現在建造中。
五艘はすでに大高にて待機。
堺への交易、駿河への交易――
伊勢湾を通らねば、何一つ動きませぬ」
「……戦は?」
嘉隆の問いは、鋭い。
「戦もございます。
ただし――無駄な血は流さぬ。
姫様は、戦の前に腹を満たします」
沈黙。
波の音だけが、障子の外で鳴る。
やがて、嘉隆は笑った。
「……面白い姫だ。
海のことを、武士より理解しておる」
藤吉郎は、ここで初めて、深く頭を下げた。
「九鬼殿。
伊勢湾は、姫様の“命綱”。
どうか――水軍として、力を貸していただきたい」
「条件は?」
「年収一万貫。
交易参加。
戦時は、水軍の主導権は九鬼殿に」
即答だった。
嘉隆は立ち上がり、庭の向こうの海を見た。
「……よい。
この海で生きる以上、
銭を運べぬ水軍に未来はない」
振り返り、藤吉郎を見据える。
「九鬼水軍、
狂犬お市の伊勢湾に、乗る」
藤吉郎は、胸の奥で拳を握った。
(――これで、伊勢湾は繋がった)
姫様の描く潮は、
もう、止まらない。




